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第一章

 拒絶されると思っていた。かつて捨てた故郷は、僕を受け入れてはくれないだろうと。逃げるように去ってから、逃げ帰ってきた今日まで、一度も顔を見せなかったのだから。

 電車を乗り継いで目的の駅が近づくにつれ、その気持ちはどんどんと膨らんでいった。座席は岩のように固く、一定のリズムを刻むように揺れる車体は酷く気味が悪いもののように感じられた。どんよりと重い気分のままこう長く車内に閉じ込められていると、棺桶の中で火葬を待つ死人のような気分にさえなってくる。

 僕は耐え切れずに窓を開けた。油が切れているのか、掛け金を外してもなかなか窓は持ち上がらなかった。壊れているのかと思ったが、思い切ってぐいと力を込めると、小さな悲鳴を漏らしながらゆっくりと窓枠が持ち上がった。冷房の効いた車内に生ぬるい風が吹き込む。数少ない乗客である中年男性の手元で、スポーツ新聞がばさばさと音を立てる。彼は眉をひそめて僕を見たが、何も言わずにまた紙面に目を落とし始めた。僕は酸素が足りない金魚のように、窓の外へと顔を突き出した。少し湿った田舎の風が無造作に髪の毛を乱し、畑のにおいが鼻腔をくすぐる。草と堆肥の混ざったにおい。昔から大嫌いなそれを、胸一杯に吸い込んだ。


 結果から言えば、僕が拒絶されることはなかった。目的の駅に降り立った僕は、すんなりとこの町に入り込むことが出来た。それはもう、拍子抜けするほどあっさりと。

 僕が捨てたはずの故郷は、いつの間にか自分自身をも捨てていた。大規模な再開発があったのか、駅にはあの頃の面影も見当たらなかった。「今更何をしに帰ってきた」と、責め立てるように立ちふさがる故郷の姿はどこにもなく、ただ見覚えのない景色が他人面して広がっているだけだった。まるで出張で初めて降りた駅に立っているような、そんな感覚が僕を襲った。

 少し離れれば農地が広がり、すぐに人影もまばらになるような場所にあって、この駅周辺だけが取り残された小島のように異様な空気を纏っている。地面を覆うタイルの真新しさは、どこか悲壮感すら感じさせた。

 駅の柱に寄りかかり、ボストンバッグを地面に下ろした。部屋も引き払い、荷物も実家に送った僕に残された旅の道連れだ。大学入学以来七年近くを過ごしたアパートの部屋が空っぽになったときには、言いようのない心細さを感じた。部屋だけではなく自分の中までそっくり空っぽになったような感覚の中で、古びて擦り切れたこのボストンバッグだけが、自分に残された全てのように感じた。こうして外で見てみると、このバッグは案外小さい。

 そうしてしばらくまばらに人が往きあう様子を眺めていると、見覚えのあるセダンが僕の目の前に停まった。助手席の窓がゆっくりと開いて、奥から母が顔をのぞかせる。

「ごめんねえ、ちょっと遅くなっちゃった」

「今ついたとこだよ」

 僕は後部座席を開けてボストンバッグを放り込むと、助手席に体を滑り込ませた。

「運転、替わろうか?」

「良いのよ。長旅で疲れてるでしょ」

 そう言うと母は車を出した。

「それに道、覚えてないかもしれないでしょう。この辺りも最近は景色変わってるから」

 彼女はハンドルから片手を離し、ラジオのボリュームを少し絞る。耳に刺さる声で良く笑うDJが、少しだけ遠ざかった。

 流れる景色に目を移すと、母の言葉とは裏腹にこの辺りはあまり変わり映えしていないように感じた。駅のごく近くだけは再開発が進んでいたが、少し走っただけで見覚えのある景色にしか見えなくなった。もしかしたらこの辺りも景色は変わっているのかもしれないが、そもそも僕の中にはかつての風景の記憶がほとんど残っていない。何かがすり替えられていたとしてもそれはたちの悪い間違い探しのようなもので、目を凝らしてもなかなか見つけられないことだろう。

「もう何年振りだっけね、健治が帰ってくるの。駅、きれいになっててびっくりしたでしょう」

「うん、きれいになってた」


 僕は先月、会社を辞めた。入ってまだ三年だったが、それが僕にいられる限界だったと思う。入ったときからそこが自分の居場所ではないと、何となくだが分かっていた。

 やりたかった仕事じゃなかった。いや、やりたかった仕事なんて初めからなかった。大学には四年しかいられないから、仕方なくその後の行き先を探した。誰もがやっていることだった。ただ僕はそれを誤魔化すのにエネルギーを使わなかった、それだけのことだ。

 僕の就活はあまり上手く行かなかった。やる気がなかったのだから当然だ。僕にはむしろ、みんなのやる気の方が不思議だった。一緒に授業をサボり、朝から酒を飲み、雀卓を囲み、尽くせる限りの怠惰を尽くしていたはずの仲間達が、気付いたときにはそれは立派な就活生になっていた。漫画くらいしか読まなかった彼らは怪しげな新書を手にし、髪の毛を黒く染め、入学式とバイトの面接でしか着たことのないスーツを引っ張り出してきて熱心に企業の説明会に参加した。それはなんとも気味の悪い光景だった。

 だるいよな。何とかなるだろ。そう言って過ごしてきた彼らは、今後も変わらずそうだと思っていた。追試で何とか進級してきたのだから、きっと就職もそんな感じで、だらだらやっていたらどうにか働き口は見つかりました、なんて。最後にはみんなで「何だかんだで何とかなったな」なんて笑いながらビールを飲んで。そうやって飲むビールは多分結構美味いんだろうって。

 そう思っていたのは、どうやら僕だけだったらしい。進級に無頓着だった彼らも就職に関してはそうではなかった。彼らはなんだかんだ言っても、自分が好きだったのだろう。毎日を怠惰に過ごしながらもきっと未来には華々しいビジョンを持っていて、その中で笑う自分が大好きだったのだ。そんな未来を掴むためにはどこで手を抜いてはいけないのか、逆にどこでは手を抜いても良いのか、それをかぎ分ける嗅覚を確かに持っていたようだった。僕は持っていなかった。

 彼らがどうしてそうも怠惰でいながら自分を好きでいられるのか、いや、自分を好きでいながらそうも怠惰でいられるのか、それが不思議だった。

「お前さ、マジで何もしてないの?」

「んん、まあ……」

「流石にヤバいだろ。みんな必死で動いてるんだぜ。井上なんてこの前も一日三社回ったってクタクタになってたしよ」

「いやマジでさ、お前もそろそろ本気で動かないとロクなとこ就職できなくなんぞ」

 ロクなところ、か……

 僕はその夜、クローゼットの一番奥からスーツの袋を引っ張り出した。

 当たり前のことだが、つるんでいた連中のほとんどが僕よりも先に内定を手にした。よくもまああれだけ自堕落な生活を送っておいてそんな企業に入れるな、という「輝かしい結果」を残した者もいた。だけど僕には焦る気持ちが一向に湧いてこなかった。むしろ一人、また一人と就職先が決まっていくたびに、それはドロップアウトなのだとさえ思えた。そしてやがて僕も、そちら側に転落した。

 会社は決して悪い場所ではなかった。むしろ無気力な就活をしていた僕には不釣り合いなほど恵まれた職場だったと思う。労働条件も悪くなく、職場の雰囲気は和やかだった。特別性格の悪い上司や、意地悪な同僚などもいなかったし、人間関係のトラブルに巻き込まれることもなかった。

 それでもそこは、僕の居場所ではなかった。その場所で異物であることは、肌でピリピリと感じていた。一緒に仕事をし、和やかに談笑し、付き合いで酒を飲みながら、僕は常に吐き気を堪えた。

 それでも僕にはそこしかなかった。僕はもう大人で、自分で自分を養う必要があった。そのためには仕事をしなければならないし、その目的のために必要なものは、おおむね提供してくれる職場だった。「僕は死ぬまでここでこうやって働いていくのだろうな」と、そんな気持ちにもなっていた。

 ある日僕は、ひとつの取引を潰した。簡単な発注ミスだったが、タイミングも良くなかった。そのことで大事な取引が潰れ、その影響で連鎖的にいくつかの不具合が発生した。しかしそれで僕一人が強く責められるということはなかった。もちろんミスへの責任は追及されたが、それは至極正当な範囲にとどまった。上司は私と共に相手方に頭を下げてくれたし、「きちんとフォローできなかった自分も悪かった」と言って、一緒に責任を取ってくれた。そんなことの一つ一つが、僕をさらに苦しめることになった。

 誰が何と言おうと、どういう風に扱われようと、僕のミスがみんなに迷惑をかけた事実は変わらなかった。必要以上にミスを責めない、そんな美徳は強固に実行されてはいたが、それによって心の底でくすぶる「元凶」への不満のようなものが消し去られるわけではない。時として心無い誹謗や中傷は、人を救うことさえある。表立って責められることを許されなかった分、僕はある種の十字架を背負い続けることになった。もしかしたらそれは自分が作り出した架空の十字架だったかもしれない。しかし架空だろうが何だろうが、その重みは僕の双肩にずっしりと食い込んでいた。

 泥水のような日々だった。透明な違和感にはいつの間にか色が付き、質量さえ持ち始めたように感じた。体を引きずって会社に行き、今まで以上に仕事に精を出した。僕にはそれしか贖罪の方法はないと思われたし、そうやって自分を痛めつけている間だけは、少しだけ吐き気が和らいだ。憐れむような視線を感じた。いたわるような言葉を受けた。その一つ一つは、僕の十字架の上に少しずつ降り積もっていった。そのあたりが、限界だった。

 それは突然だった。劇的なきっかけがあったわけでも、これと言った予兆があったと言うわけでもない。でもそれはよくあることで、決定的なことはたいてい何でもない形でやって来る。いつもと同じ日常に、思わず誰もが思考をやめてしまうような日常に、まるで思い出したように唐突にあらわれて全てを変えてしまう。僕らが慌てはじめた時にはもう全てが終わっていて、ただ粛々と後始末をすることしか許されない。そのこと自体は驚くべきことではないはずなのに、それが訪れれば僕らはいつでも驚いてしまう。学ぶことが出来ない事と言うのが、この世には存在している。

 僕が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。初めに目に入った天井も、部屋の内装も、ベッドのシーツも、窓を覆うカーテンもすべてが真っ白で、眩しい、と思った。目覚めたばかりの重たい頭では、それが病室だとしばらく理解できず、僕にそれを教えたのは無愛想にベッドわきに佇んだ点滴台と、そこから僕の左腕に伸びる透明なチューブだった。僕は注射の類が、特に肌を針が突き刺す瞬間が人一倍嫌いだったから、知らないうちに終えてくれたのだったらありがたいな、と思った。

 出勤中の駅で倒れたらしい。その時に打ちつけたのだろう、後頭部がズキズキと痛んだ。駅にいるとき、不意に視界が歪んで力が抜け、ゆっくりと地面が近づいてきた……と言った記憶は全くなかった。体調が悪くなっただとか、何かがいつもと違ったという記憶も一切ない。僕はいつもと寸分違わない一日を過ごしていたはずで、ただただその無味乾燥な日常がぷっつりと、不意に途切れているようだった。切り口は良く見えない。

 検査の結果、僕の身体には特に異常は見つからなかった。医者が言うには過労とストレスが原因と言うことだった。同僚や上司が見舞いに来て、次々にねぎらいの言葉をかけた。頑張りすぎだとか、そんなに無理しなくてもと、彼らは言った。しかしそれほど根を詰めて仕事をしていたわけではなかった。多分僕が無理をしていたのは、会社にいる事それ自体だったのだろう。

 じわじわと圧力を受け続けた僕の精神は、ある日ぱったりと、何の前触れもなく、頑張るのをやめてしまったらしい。本当は数日の検査入院が終わり次第、すぐにでも会社に復帰するつもりだった。生きていくためにそこに身を置き続けるという覚悟はとっくの昔に固めていた。だけど、身体はそれを許さなかった。頭でどんなに命令しても、僕の身体は会社に行くことを頑として拒んだのだ。無理やりそれに鞭打ってまで出社しようとは思わなかった。いや、そういう風には考えられなかった。その不調が決して表面的な症状ではなく、もっと根深い、根本的な身体の反乱だと言うことをなんとなく感じられたからだ。潮時なんだなと思った。そうして僕は会社を辞めた。覚悟なんてものは、時として紙よりも薄く、脆い。


 僕は相変わらず黙って、窓の外を眺めていた。景色を見たかったわけではない。僕はこの土地が好きではなかったから、久方ぶりに帰ってきたからと言って興味深く眺めるような気分にはならなかった。しかしハンドルを握る母との時間をやり過ごすには、景色を見る人間になることが一番無難だと思われた。様々な光景が僕の目に飛び込んできたが、それは一つも記憶には残らない。解釈することをやめてしまった僕には、それらは景色としての意味を与えない。意味を結ぶ前に全てが流れ去っていった。それはただ、そこにあるものであって、通り過ぎてしまえばもうそこにはないものになる。だから景色は勝手に過去になっていくし、意味を貰えなかった過去はそのまま姿を消していく。僕の意識は時速六十キロで世界を上滑りしていた。

「お兄ちゃんがね」

 それは僕の兄、遼治のことだろう。

「健治は少しゆっくり休んだ方が良いって。昔から根が真面目だから頑張り過ぎちゃうことがあるって。やっぱりお兄ちゃんね、健治のこと良く分かってる」

 分かってないね、と言う言葉を、僕は飲み込んだ。

「最初に健治が戻って来るように提案したの、お兄ちゃんだったのよ」

「へえ……」

 それは少し意外だった。兄は僕のことを嫌っているし、実家にいるのは煙たがるだろうと思っていた。

「まあしばらくはゆっくりしてね、その後のことはまたそれから考えれば良いわ。こっちはのどかで良いわよ。お母さん東京行ったときには息が詰まっちゃってねえ」

 母が東京に滞在していたのは、合計してもほんの数日だった。だが、彼女にとってはそれが東京の全てなのだろう。

「部屋もあなたが出ていった日から触らないようにしてたから……少しだけ掃除はしたけど。久々におうちに帰ったら、少しはホッとするんじゃないかしら」

「そうだね、ありがとう」

 僕はなるべくそっけなくならないように、注意しながら感謝の言葉を述べた。誰かの厚意に対しては、それが自分の意にそぐわない形であっても、感謝を返すのが正しい。自分の事情だけにこだわって、相手の真意を無視した反応を見せるというのは、子供のやることなのだ。僕はもう子供ではない。

 そんなことを考えながら、僕は再び窓の外に視線を移した。


 部屋に入ると、母の言った通り、昔のままの部屋が僕を待ち受けていた。家の外装や廊下、家具の類はいくらか新しくなっていたのだが、この部屋は時の流れから取り残されたかのように本当にそのままの姿を残していた。七年、それは長い時間なのだと思う。目の前の光景があの頃と変わらないことは頭で理解できた。家具の配置も、ベッドカバーも、本棚に並んだ本までが何一つ変わっていない。それでもそこに何か言いようもないズレのようなものを感じてしまうのは、多分僕の方が変わってしまったことを意味していた。あの頃噛み合っていた歯車がカチリとは噛み合わず、軋んで不気味な音を立てるような感覚。僕は小さく身震いをした。

 本棚の一番上の段、目線と同じ高さにある棚板の表面を、軽く指で撫でる。そこには埃ひとつなく、僕の帰郷に合わせて母が掃除をしてくれたのだということが良く分かった。濡れ雑巾を片手に、部屋中のいたるところの埃を除いて回る母の姿が目に浮かぶ。後で礼を言わなければならない。

 本棚に並んでいるのは上京する時に置いて行った本たちだ。持って行った本やCDは、向こうの家を引き払う際に全て処分してしまった。あの時「もう読まないから」と言って置き去りにしたからこそ、彼らはこうして生き延びた。皮肉だな、と思った。

 昔集めていた漫画や、小さい頃好きだった児童書、図鑑、内容も覚えていない小説……色々な本が並んでいた。一冊取り出してみると、その上面にはうっすらと埃が積もっていた。軽く払ってパラパラとページをめくり、拾い読みしてみるが、内容はまったく思い出せない。こんなにも完全に忘れるものなのか、と少しすがすがしい気分にすらなった。

 本の背表紙を順番になぞっていると、ふと指が止まる。本棚の端のほうに、天文学の本が数冊並んでいる場所があった。この数冊を僕はほとんど読んでいない。そのうち数冊は、自分のものですらなかった。

 僕は本棚を離れると、ベッドの上に身を投げ出した。古くなったスプリングが不満そうな声を上げ、舞い上がった埃は西日を受けてチラついた。その光景は、妙に息苦しく見えた。


 夕食に呼ばれ、僕は部屋を出た。リビングに向かう前、キッチンを覗くと冷蔵庫が新しくなっていた。僕の知っている灰色で丸みのある、少しくたびれた冷蔵庫の姿はそこにはなく、代わりに黒く角ばった、艶のある冷蔵庫が我が物顔で鎮座していた。冷蔵庫の表面にはいくつかのボタンや液晶パネルが配置されているが、果たして冷蔵庫にそれを利用するような高度な機能が必要なのかどうか、僕には分からなかった。

 長年親しんだはずのキッチン、壁や蛍光灯や流し台の姿は昔のまま、その中にあって、その真新しい冷蔵庫はどうにも異質な存在に見えた。まるでモノクロ写真の中で一つだけ色がついているような、そういう違和感があった。だがそれと同時に、その冷蔵庫を含んだキッチン全体の姿は、一つの生活感のようなものでしっかりと結びついているようにも感じられた。そんな気持ちが少しずつ強くなり、黒い冷蔵庫が僕に「やあ、よそ者」と言っているような気さえし始める。「僕はもう結構長いことここにいてね、すっかり生活に溶け込んでしまったよ。君は知らないかもしれないけど、みんなにとってなくてはならない存在なんだ。君とは違ってね」


「あら健治、こんなところにいたの?」

 キッチンの入り口で立ち尽くす僕の横を、母がすり抜けてキッチンに入っていった。

「もうお料理は全部運んだから、テーブルの方行ってて良いわよ」

 そう言いながら彼女は、冷蔵庫の扉の中から大きなお茶のペットボトルを取り出した。冷蔵庫は「ほらね」と、得意げに僕を見た。

「冷蔵庫、変えたんだね」

「そうなのよー、前の随分古かったでしょう? 思い切って買い換えたらホントに使いやすくってねえ」

 答えながら母は棚からいくつかコップを取り出した。

「中も随分と広くなったし、それに今の冷蔵庫ってすごいのよ。ここをちょちょっと触るだけで温度を変えたり、急速冷凍とか、色々なことが出来るの」

 自分の手柄のように、母は誇らしげに言った。その機能はいったい年に何回くらい活躍するのだろうか。少し気になったが、訊ねてはみなかった。


 食卓を囲んだのは僕と母、兄と、その妻の友恵さんだった。彼女とは今までほとんど顔を合わせたことがなく多少気まずかったが、彼女が気を遣ってくれたおかげで何とか和やかな雰囲気を維持することが出来た。

 それより兄と顔を合わせることの方が、もっと居心地が悪かった。母の話によると、今日は僕が帰ってくるので少し早く店を閉め、この時間には帰ってきてくれたらしい。その気遣いが明日以降も続かないことを祈った。

 取り合わせとしてはちぐはぐな僕たちだったが、母がずっと楽しそうにしゃべってくれたおかげで何とか場は和やかさを保つことが出来た。母は僕や兄がまだ小さい頃の話を陽気に語り、友恵さんがそれに積極的に相槌を打った。僕と兄は話を振られた時くらいしか言葉を発しなかったから、この奇妙な晩餐が静寂に支配されなかったのはほとんど彼女の功績と言えた。


 夕食をあらかた片付け、僕は旅の疲れがあるということで早めに部屋に引き上げさせてもらった。かつての空気が冷凍保存されていたような自室も些か息が詰まるような気がしたが、このままリビングで過ごすよりはいくらか良いと思えた。

 ベッドに再び身を投げ出して、天井を見つめる。することは何もない。ゆっくりすると良いと言われても、何もしないというのはそれなりに苦痛だった。僕は目を閉じ、浮かんでは消える思いに身を任せる。とりとめのない考えがいくつも浮かんでは、そのままつかみどころもなく消えていった。数秒前に考えていたことは、もう思い出せない。車から流れた景色と同じで、どんどん過去へと押し流されていく。ふと一つの光景が脳裏に浮かび、そして張り付く。屋上。満天の星空。流星群……

 故郷に帰ってきたからか。本棚の本を見たから? どちらでもないかもしれない。忘れたことはない、でも思い出そうとはしなかった記憶の断片は、あまりにもありありと蘇って僕の四肢から自由を奪った。それはあまりにも綺麗で、綺麗過ぎるから息苦しい。

 時折思い返すこともあった。ふとした瞬間に、自分の意思とは関係なく記憶が呼び起こされる、なんていうのは珍しい事ではない。その度に僕は、その記憶がリアリティを持つ前に目を逸らすようにしてきた。他のことを考える。体を動かして思考を圧迫する……そうすれば記憶の断片はまた静かに、記憶の引き出しの奥のほうに姿を消すのだ。

 でも、今は駄目だった。一瞬の隙をついて、記憶が僕から主導権を奪い去っていた。指一本動かすことは出来ない。思考の扉が全て固く閉ざされてしまったかのように思われた。僕は身体の全てを以って、記憶の海に沈められていた。

 ねえ、君はさ……

「健治」

 ドアをノックされる音がして、僕の体は主導権を取り戻していた。頭の中の星空は、一瞬で煙のようにその姿を消してしまう。僕はまた、自分の部屋のベッドの上にいた。

「お風呂沸いたけど、入る?」

「あー……」

 明日の朝シャワーでも浴びよう、そう思って断ろうとしたが、自分の身体が嫌な汗でじっとりと濡れていることに気付いた。

「うん。入るよ」

 そう言うと、ベッドから身体を起こした。

「洗濯機の上にバスタオル置いてあるからね。あと、戸棚に入浴剤が入ってるからそれも入れてね。疲れに良く効くのよ」

「ああ、ありがとう」

 僕の返事を聞いて、母は扉の前から立ち去ったようだった。静かに息を整え、廊下で鉢合わせないよう少しだけタイミングをずらしてから部屋を出た。

 洗面所に入ると、洗濯機が新しくなっていた。

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