たいして関係ない話
クラゲって、なんだろう。と思うことがある。
ちゃんと生きて動いているのを見ることがあまりないし、動いていてもビニール袋がふかふかやっているようにしか見えない。イソギンチャクと同じくらい「本当に生きてんのこれ」と思う。
ので、今日は水族館に行くことに決めた。
すると問題になるのは、男が一人で水族館なんか行くか?という点だ。そういう仕事でもなければ甚だ疑わしい。
かと言って、友人に声をかけて男二人でクラゲ鑑賞というのも気が引ける。三人になろうが四人になろうが同じことだ。
というわけなら、仕方がないので女子を誘うのがいいだろう。
「水族館に行かない?」
「お、お、何だろう。海洋生物の研究でもしに行くの?」
「うん。クラゲを見に行きたくて」
「嘘でしょう!?」
「なにがさ」
「そこはデーなんとかのお誘いでしょう、普通。私のジョークに対して君が真面目にそう言って私が面食らうとか、そういう場面でしょう普通」
「ずいぶんとまぁ、もう秋だよ」
「今日は頭も茹だってないよ。嘘でもいいからデートって言おうよ」
「水族館にデートしに行きませんか?嘘だけど」
「君は一言余計だね」
「今度から気をつけるよ」
「今まさに気をつけてもいいのよ」
「今度から気をつける」
「泣きそうだ」
「いいから、準備しておいで」
「はぁい」
彼女の準備を彼女の家の前でしばらく待つと、いつも通り麦わら帽子をかぶって現れた。秋口とはいえ、まだ日差しが強い。
「海は風が強いから、帽子を飛ばされないように気をつけること」
「はい、先生」
帽子を押さえながら、彼女は僕の車に乗り込んだ。まだ押さえなくても大丈夫だと言ったら、「その油断が命取りになる場合もある」と言われた。僕の車は戦場ではない。
海までは車で一時間ほどかかる。道中で飲み物を買った方がいいと思い、コンビニに寄った。
「ミルクティーと、レモンティーと、セイロンティーと、ウーロンティーと…」
「あんまり買うと、きっと重くなって燃費が悪くなる」
「君の?」
「セクハラだよ」
「僕にはそうとは思えない」
「ならば違うね」
「ひとつにしておきなさい」
「はい」
僕は缶コーヒーを、彼女はミルクティーを、それぞれ買って再び出発した。
窓を開けて車を走らせていると、彼女は目に入る様々なものに反応する。
山を見れば「キャンプがしたいけれど、虫が厄介」と独り言を言う。
川を見れば「バーベキューがしたいけれど、後片付けが厄介」と独り言を言う。
犬を見れば「わんわん!わんわん!」と対話を試みる。その際、僕の役割は「やめなさい」と彼女を人間に引き留めておくことだ。
そうこうする内、海が見え始めて彼女のテンションが高まっていく。
「海はいいよねぇ」
「なぜ?」
「よくない?」
「いいけど、なぜ?」
「広いからかな」
「まだ少ししか見えていないよ」
「広い海が少し見えたら、それだけでそれが広い海だとわかるわけだ。すると、広い予感にテンションも上がるわけだ」
「君はのんきでいいね」
「君は今緊張感のかたまりであるわけか」
「君が窓から身を乗り出さないか心配で心配で」
「大丈夫、帽子は押さえてるよ」
海からの風を受けて長い髪をなびかせながら、帽子を押さえて笑う彼女は、なんだかドラマのワンシーンのようだった。
「さあ、着いた」
海際に建つ水族館の駐車場。
ドアを開けた瞬間、強い潮風に晒される。彼女は帽子を押さえながら降りた。
「本当に風が強いね。帽子が飛んじゃう」
「早く入ろう」
入場券を二枚買って、僕達は水族館に入った。
入場券の半券に、クラゲの絵が描いてある。ことさらアピールする必要のあるものとは思えないが、それがこの水族館の特徴だ。なんなら、水族館に置くべきとは思えないものまで置いてある。
例えば、入ってすぐに目に入る展示物。白い綿毛が大事そうにガラスケースに収まっていて…そこに書かれた説明文は、『けさらんぱさらん』。
「なにこれ」
彼女が興味深そうに綿毛を見つめる。捕まえると願いが叶うとかいう、あの綿毛だ。
なんで水族館にこれが、という客のツッコミ待ちのような展示物だ。
「なんでも願いが叶うとしたら、君はどうする?」
何の気なしに訊ねると、彼女はだいぶ悩んでいる様子だった。僕の他愛ない言葉に本気で取り組んでくれるところは、彼女のいいところだ。
「…お寿司か、焼き肉だな…」
ただ、いかんせん頭がよくない。
「なんで食べ物限定なの?」
「え?夕飯おごってくれる話じゃないの?」
「いいや、この綿毛の話だね」
「なんだ。フィクションの話かぁ」
「ばかだなぁ」
「あ、知ってるよ。私のことじゃないんでしょ」
「いいや、君に言った…ええい泣くな」
記憶力は、いいらしい。
いい加減水族館らしく水槽を見ると、サメがいた。
水底に張り付いて、じっとこちらを見つめている。大人しいサメだ。
「うおお、ジョーズだよジョーズ」
「君はテンションの上下が激しいね」
「でも、この子はサメにしてはかわいいね」
「でも、君の方がかわいいよ」
「そうかしら。うれしいわ」
「サメと比べられたことに怒るかと思った」
「あっ、そうか。もう!怒ったぞ!」
「嘘を言え」
「ごめんよ」
小さな水槽が並ぶコーナーに、淡水魚がたくさんいた。
その中に、『オイカワ』という魚を見つけて彼女がテンションを上げる。
「うおお、私じゃん」
「本当だ。及川って、君だね」
「魚と比べるなんてひどい!」
「違うよ」
「間違えた」
オイカワの隣の水槽には『ギギ』という魚がいた。
どこかで聞いたことがある気がしたが、彼女の感想で思い出す。
「これは、モンハンだ」
「そうかい」
「そういえば、私は君としばらくゲームをやってないね」
「うん。初めて会った時以来してないね」
「初めて会った時はどうしてゲームしたんだっけ」
「未だに分からない」
「先生でも分からないことがあると」
「うん。家庭教師に行ったはずなのに、どうして君が最初からゲームをしてて、どうして僕に手伝わせてそのまま時間がきたのか、未だに分からない」
「私の魅力が罪であると」
「たわけか」
「難しい言葉を使わないで」
「ばかだなぁ。これでいい?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
「あっ、ばかとは心外だ」
「はは、なんだこいつ」
順路を進むと、外に出ることができそうなドアを見つけた。
どうやら彼女の方が先に見つけたらしく、既に走り出していた。危ないから走ってはいけない。
外には、一段低くなっている空間に、こちらを見上げる海獣がいた。
アザラシとかそういう類だろうと思って説明文を見ていると、彼女がさっそく感想を言う。
「すっごい見てる」
「見てるね」
「あれは、私には羨望の眼差しに見える。うらやましいかぁー」
「あれは、僕には憐憫の眼差しに見える。見ないで!」
「心外だ」
「すまない」
「アザラシにも謝りなさい」
「オタリアって書いてあるぞ」
「まじで?じゃあオタリアに謝りなさい」
「君が謝れ」
「私はもう名前を誤ったから大丈夫」
「面白いな君」
「ふふん」
最後に、クラゲを見て終わりだ。
僕の目的である、生き生きとしたクラゲ。
この水族館にはクラゲだけを展示したフロアがあって、いろいろなクラゲがいる。大きいのから小さいのから綺麗なのから地味なのまで。
「でっけークラゲだなーこれ」
「確かにでかいけど、女の子はもう少しきれいな言葉を使いなさい」
「クラゲ甚大」
「なにが言いたいのか分からない」
「奇遇だね、私もだ」
「こっちに小さいのがたくさんいるよ」
「ネオンみたい」
「ネオンを発見したのは誰だ」
「え?ひょっとして君が?」
「違うよ、ラムゼーとトラバースだよ。こないだ教えたろ」
「いやっ!こんなところでまで勉強したくない!」
「普段してるかのように言うんじゃない」
「ごめんよ」
「じゃあクラゲの成長過程を名称で答えなさい」
「あ、知ってるよ。幼生→ポリプ→ストロビラ→エフィラ、で成体」
「えらい!」
「ふふふ」
すると近くにいたおじさんが、彼女に「よく知ってるね」と声をかけた。多分クラゲフロアの係の人で、クラゲに詳しいのだろう。
「お姉さん、クラゲは好きかい」
「うーん。味がしなさそう」
「はっはっは」
楽しそうで何よりだ。
彼女は、ちょっと話す分には天然ぶりが楽しいしかわいい。けれど、長いこと話していると疲れてしまうから、大変だ。
「でも、こっちの先生はクラゲが大好きみたい」
彼女が僕に振る。困る。
「先生か。先生、生徒さんにクラゲの魅力を存分に伝えてあげてね。それじゃあ」
「あ、はい」
思ったよりあっさりしていた。こういうおじさんは、自分が専門としている話になると長いものかと思ったが。
しかし、知識をひけらかしにこないところは率直に好感が持てる。いいおじさんだ。僕は綿毛ではないが、彼の願いを叶えてあげよう。
「及川、クラゲのすごいところ、聞きたい?」
「おうよ。しかし、私はちょっとやそっとでは驚かない」
「ベニクラゲは不老不死」
「えっすげえ!」
「驚いてやんの」
「不老不死なんて、私と同じじゃん!」
「何故すぐばれる嘘をつく」
「私は永遠の17歳」
「そういうセリフは17歳じゃないやつが言うんだよ」
「そっかぁ。勉強になるなぁ」
水族館を出ると、心地よい疲れを感じた。
楽しかった。水族館って意外に面白い。
「うわあー、さっきより風が強い」
帽子を押さえながら、彼女は飛ばされるふりをして遊んでいる。のんきでいいなぁ。
眺めていると、彼女がしっかりした足取りでこちらへ来た。
「君、掴まえてくれなきゃ困るよ」
「そうかい」
「一人でバカみたいだったでしょ」
「うん」
「一緒にやりましょうよ」
「お断りだ」
「たまにはねぇ、バカップルみたいなことがしたい」
「へぇ、いやだなぁ」
真顔で言ったのが気に入らないらしく、彼女は僕の頬をつまんで無理やり口角を上げさせた。何かにつけて受動的な僕は、そういう時されるがままになる。
「面白い顔だなぁ」
気を良くした彼女が、今度は両側の頬をつまんでみようと試みた。僕の正面に回って、両手を伸ばす。
海から強い風が吹いた。
「ばか、帽子飛ぶよ」
僕の頬に夢中の彼女は、麦わら帽子を押さえるのを忘れているようだった。
慌てて彼女の麦わら帽子を押さえてやると、彼女は僕の頬に伸ばしていた手をぴたりと止めた。少し驚いたような顔になったあと、両手が僕の頬を通り過ぎて首の後ろに回る。
「これはきっと、ハタから見たらバカップルみたいな」
「そうかい」
「バカップルはこんな気持ちかぁ」
「いいから、帽子は自分で押さえなよ」
彼女はようやく片手を自分の麦わら帽子のために使い、もう片方の手は僕の腕に回した。どさくさに紛れたような行動だけれど、あんまり嬉しそうな顔をするので、咎める気にもならなかった。
疲れの心地よさは、彼女のおかげかもしれないと少し思った。
おわり。
クラゲたいして関係ない話。