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第5話 フランス編(前編)

長い時(色んな意味で)を経て、遂に邂逅する者達。それは皮肉にも、彼らにとって何の関係もない筈のヨーロッパにて果たされた。眠れる獅子の時は終わった。いよいよそれを突き破る大爆発が今、始まる。

ヨーロッパ編、開幕。

 それは兵営の中庭に鳴り渡るラッパだ

 

 短すぎる夢だったよ

 

 消えそこなったランタンのような夜明け


 さあ 起きよう

  

 ぼろぼろのファンファーレだ



 ――ジャン・コクトー〈目覚め〉より



1、門出の祝い


朝もやのかかったNY、マンハッタンの中華街。


 空を覆う群青色の曇天によって、海の底にいる様に見える中華街は、青と交じり合う赤色の装飾がくっきりと浮かび上がり、靄が白色に漂う早朝の中にあった。しん、と、静まり返った露垂らす中華街の軒並みに、やがて白い噴煙をもあちこちの料理店から舞い上がり、微かに物音が鳥の鳴き声と共に中華街の朝を告げる。


 そんな中、メインストリートのはずれはずれにある中華料理店「高璘」も、雑多な極彩色の装飾が連なる料理店の一角で、真っ赤なハリボテから白い煙を噴きあげている。


 雷文のガラス張りを越えた店内、その右手一角に広がる厨房の中では、額の広い妙齢の男が鼻歌を鳴らしながら覆う煙をかきわけて蒸し器の中を覗いている。蓋が落ちる甲高い音と共に、銀色の凹凸の上に桃色の饅頭がじゅうじゅうと音を立てて、芳しい香りを漂わせた。


「ん、良い出来ネ」


 湯気の中に広がるその香りを一気に吸い込みながら、男は腰に手をあて満足そうに額の皺をあげる。この男が下ごしらえに、ここまで上機嫌でいるのは仕事でないからである。それは、愛しい一人娘の門出を祝うため。そして、彼女を迎える客のためであった。


 湯気が覆う厨房の中で、軽やかな音を立て上機嫌にネギを切っているその腰元には、油ぎった黒光りのラジオが、激しい雑音を出しながら素早い中国語を鳴らす。それは、NY在住の中国人タレント2人が繰り広げる、あるニュースについてのトークショウであった。


「えー、それではリスナーよりここで一通。『アーサー議員の眉毛の有無が気になるさん』より。今年のG9についての良からぬ噂について、取り上げて欲しいとのリクエストをいただきましたー。噂、って何なのか(ゆえ)さんは知ってる?」


「はーい!はいはい!巷では結構有名な話ですよね!今年のG9はいつもと違って奇妙な事が起こるって話ですよね!」


「奇妙な事?」


「ええ、元々G9、またの名をサミット――、の、日程というものは通常3日間なのですが、今年はなんと4日間もする予定なんだそうですよ!」


「たった一日じゃないですか」


「いやいやいや~今まで3日間といっても、そこまでやった例ってのは殆どなくて、せいぜい2日が良い所だったんですね。でも今年は4日目までスケジュールがギリギリなんですって。その異例な事例から、実は公にされていないある重要な世界情勢について、話し合う機会があるのではないのか、という専らの噂なんです。それはもしかしたら、議事録にも載せられないのではないか、と言われる程に」


「へー。それは確かに気になりますね」


「あ、リスナーにわかりやすい様に説明しますと、G9とは正式名称で主要国首脳会議と、言います。フランス、美国、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、ロシア、そして我らが中国といった、代表国の首相が年ごとに各国に集まって会議を開く、という国際会議の中でもかなりステータスの高い会議です。未だG8という名称の方が馴染み深い人も多いだろうけど、去年から中国も参加したので今はG9なんですね。そういや去年はようやく参加出来たって事で、中国ではあっちこっちで大盛り上りだったですよね、天さん!私も家族総ぐるみでお祝いしましたもん」


「僕もです。いやだがしかし、ようやくというよりかは今まで遅かった位ですよね。」


 と、二人が笑いながら握手を交わし拍手する音が響く。それを聞いた男もうんうんと頷きながら、スープを掻き混ぜ卵をといた。


「そういや、今年の開催国も例年以上にお祝いムードらしいですね。今年の舞台は確か、フランスでしたっけ?」


「ええ。あそこが初めてサミットを始めた国でしたからね、それなりに思い入れもあるんでしょう。直前に中国が割り込んじゃった分、順番がずれて数字的にもちょうど良い節目になったとかね」


「へーパリの街もより華やかになりそうですね」


「いやいや、サミットの開催地は大概地方都市か保養地ですよ。それこそ昔は首都でやってはいましたが、デモやテロが活発化した現代ではやりにくくなってしまったようでして……」


「世知辛い話ですねえ。ちょっと趣を変えましょうか。今年のサミットはフランスのどこになってるんですか?」


 そう聞いた途端、向かいの女性タレントは急に声高らかに手を叩いた。


「そうそう!今年はフランスのカルカッソンヌなんですって!」


「ああ、南仏にある世界遺産の?」


「そうですよ!2500年の歴史ある中世の城塞都市カルカッソンヌ!サンモンミッシェルに次いで2番目に観光客の多い観光地なんですからもーっ、サミットの開催地としては申し分ないでしょう!」


 ラジオごしからでも分かる程に身体を揺らして喜ぶ彼女。しかし、一方の男性タレントは些か複雑な心境を表す声を静かにあげた。


「カルカッソンヌですか……。うーん、サミットと関係あるか分かんないですけど、確かそこでも奇妙な事件が最近起こったて聞いたな……」


「そうなんですか?」


「うん。かなり奇妙な事故なんだけどね、今から一週間くらい前にその城に向かって向かいの山から、見たこともない巨大飛行機が突然現れたんだって。で、それがカルカッソンヌの壁城に迫る直前に、今度はこれもまた見たこともない白くて小さな全翼型の飛行機が城の方から出てきて、その巨大飛行機の尾翼を船体ごと突き抜けて生い茂る森の中へ墜落させたらしいんだ」


「何それ!大事故じゃないですか!」


「ええ、町の人たちももそりゃあ大騒ぎで深い森に駆け寄って行ったらしいど、着いたらそこには墜落の跡以外には何も残っていなかったんだって。で、墜落させた白い飛行機も白い雲を引いて遥か彼方の空へ飛び去ってしまったらしくて、それはそれは実に変な出来事だったらしい……」


「な、何ですかそれは。ま、まさかそれがG9の変な噂とリンクするって言いたいんですか……?」


「かもね、だってサミットだってあと一週間じゃん……」


 と、意味深しげな彼の口調を誤魔化す様に、彼女は声を裏返して笑った。


「天さんったらやっだあ!あっはっははは!幾ら何でもサミット自体に妙な事件なんて起こりっしょないでしょ!仮に起こったとしても、厳重な警備が完備されてるはずでしょうし!」


「でも、フランスなんでしょ?」


「あー……」


「「大丈夫、かなぁ……」」


そこで聞いていた厨房の男も声を重ね、心配そうに天井を見上げた。それにしても奇妙な話だな、と雑音を背後に男は棚から皿を取り上げて思う。


「墜落させるっていったて、船体ごと突っ込んで尾翼を突き抜けるとか何なの?馬鹿なの?そんな事するのハ、アホのする事ね。」


 と、カタコトの英語呟きながら天井に釣らされる中華鍋を取り出そうと背筋をのばしていた。


「にしても、尾翼に突っ込むってそれってどんな感じだっタのかナ……いや、逆に突っ込まれタ側ってのもさぞかシ……」


 そうやって、何気なく呟いた独り言が運の尽き。何故ならその直後、自ら体験する羽目になったからである。


***


 静かな中華街の朝に、白鳩が羽ばたく音と車のクラクションが響き渡った。


 騒めく野次馬達の視線の先には、象牙色の光沢を放つ巨大なリムジンがある。「高璘」の店に半身のめり込んだ形で突っ込んでいるのだ。それで「高璘」のトレードマークである雷文のガラス戸も、真紅のハリボテも、そして高璘と書かれた立て看板も巻き込んで粉々にしていた。


「えー…これはどういう事なのー……?」


 人だかりの中、頭飛び出る背の高い青年は、ケーキ箱を片手につまんだまま唖然として店の惨状を眺めていた。整髪剤で光る黒髪に、蛇柄のジャケット、身長の割に長い脚の流線を見せつけるようにタイトなスラックスで着こなした男は、蛇のように鋭いブラウンの瞳の中からその車が何であり、そして誰の者であるかを野次馬の中で唯一語っていた。それがより彼の動揺を煽らせ、クラクションのつんざく音さえも掻き消えてしまう程に混乱してしまう。


 しかし、店の中から聞こえる男の怒声と、それに涙ぐんでひたすら謝る女性の声にはっと我にかえった青年――、椴はケーキ箱を抱えたまま慌てて野次馬をかきわけ、道端から店の中へと滑り込んだのだった。


「お前ホント一体全体なんばしよっとねfvfぎvbrtばgbrb!」


「ごめんなさい、ごめんさない、ごめんなさい!」


 怒りのあまりに呂律が回らず顔を真っ赤にして叫ぶ男が、コック帽を握り締め腕を振り回す中、カウンターを挟んで黒スーツ姿の女性が腰までのばした黒髪を上下に揺らし、涙を流しながら必死に頭を下げている。どうらや、車は厨房の脇まで突っ込んでいたようで、かろうじて厨房の真ん中にいた男は無事だったようだ。


「……ミナちゃん。アンタ何やってんの……」


 すると、椴が目の前で頭下げる彼女の名を呼べば、途端、その声に気付いた黒髪の女性、ミナは、鼻水をすすったまま顔をあげ、呆れるように壁に手をつく椴に向かって涙を零す。


「椴さああああん!」


 そうして、ミナはぐしゃぐしゃに涙を流したまま彼の胸へと飛び込んでいった。それを差して気にもとめず椴は両腕で彼女を抱きとめた。


「はいはいはい、おーよしよし」


 胸の中に震える彼女の背中をあやす様にして優しく撫でるいると、リムジンによって厨房に閉じ込められたままの男は更に怒りで声を荒げた。


「逃げるなコラァァァァ!全く何の恨みがあってウチの店をめちゃくちゃにしたのネ!?本当もうどうしてくれるネ!一体何でこんな事になったネー!」


 ぶんぶんと振り回しながら正面に迫る銀燭色のパルテノンラジエータを指差す男を、宥めるように椴は微笑む。


「まあまあオヤジさん落ち着いて。せっかく俺たち高珊ちゃんの就職祝いに来たってのに、ここでトラブル起こしたらかわいそうでしょ?」


「それはこっちの台詞ネ!アンタらがせっかく娘のタメに祝ってくれるからってよりに腕をかけテやったノニ、それを全部台無しにしやがっテ!」


「そこは俺たちの仲だって事で勘弁してやってよー。ホラミナちゃんお金持ちでしょ?絶対全部弁償してくれるからさ、そんなに怒らないでよ。」


 と、超高級車である「ファントム」を親指で差しながら椴は愛想笑いをする。そこで男はようやく怒りをおさえ、「むう……」とふてくさりながらも、肩をすぼめる。すると、店の奥から中庭へと通じる唐草文様の扉の側から若い女の笑い声が聞こえた。


「フフッ、全クとんだお目覚めになっちゃいましたネ」


「「高珊ちゃん!」」


 椴も男も、そしてミナも、一斉となって彼女の方へ顔を下ろす。今日3人が集まったのはすべて、その小柄な彼女を祝うためであったからだ。一方、片方の三つ編みを結びながら微笑む紅顔の美女は、艶のある桃色の唇を優美に開きながら、その惨状を特に驚く様子もなく、睫毛の長い大きな眼を瞬かせている。

 袖の長い桃色の満州風パジャマ姿のまま、うさぎのスリッパを履いて前に出ているのは、彼らとは周知の間柄である為だった。


「うう、ごめんなさいコウシャンちゃん……せっかくの就職祝いにこんな事故起こしちゃって……」


 彼女から目をそらし、胸に手を当て鼻をすするミナを、その穏やかな目線で見つつ、女、高珊は厨房で固まる「親父」にも目を向けた。


「イイエ、わざとでハないんでしたラ仕方ナイですヨ。ソレに、このお陰デようやくリフォーム出来る様になれますものネ」


 と、動揺する親父に余裕を見せるよう冗談気味に目配せして、ファントムにも目を向けながら高珊は店を横切っていく。


「それニ、料理は結構のこっていル様じゃないデスカ。パーティーは中庭でやればなんとかなりソウじゃないですかネ?」


「あ、ああ。ケーキもこのとおりちゃんとあるしね!」


 その流れにn椴も調子よく箱を掲げ、白い歯を見せて笑う。


「むう……高珊がそう思うんなら仕方ないネ。今回だけは特別に許しちゃル」


 やがて、高珊の穏やかな様子についに折れた親父は、ゆっくりと帽子を掴んだ手を下ろす。と、途端ミナはカウンターに手をついて彼の手をがしりと握ったのであった。


「ありがとうございますうう!そういう親父さんの潔い所が大好きです!ファントムも前々から貴方気になっていたようで、それでついのぞきたくなった一心で、思わず突っ込んでしまった様なので……!」


「何なの、ミナちゃん。突っ込んだときに頭でも打ったかネ?」


 楽哀入り混じる表情で迫るミナから目を反らし、親父は後ろに立つ椴に向かって言った。


「まあ、其処ん所も勘弁してやって下さいよ……俺の顔に免じて……」

 

 それに対しては、手を掲げながら深いため息をつく椴であった。


「フフッ、早く私モ着替えてきますのデ、皆さン中庭の方デ仕切り直シといきましょうカ」


 一方、そんなやりとりに微笑みつつ、高珊は結び直した三つ編みを振って背を向ける。その様子に親父も唇を結んだ。


「まあ、潔いとかはともかくとにかクネ、めちゃくちゃになった弁償は必ずしてもらうからナ!とりあえズ!テレビとパソコンと、オーディオはさっさと同じ機種を弁償してもらうネ!」


「はい!早速!」


「親父!最初から店に無イものちゃっかり入れなイ!」


***


「「高珊ちゃん、ハリウッドに就職おめでと~う!」」


「ありがとうございマス。ミナさん、椴さん」


 クラッカーが鳴る音と共に、紙吹雪が中庭の空に舞い上がった。彩られた石畳にある中庭の噴水前には、ささくれた木製の丸テーブルが置かれ、その脇に座る椴とミナが赤い満州服を着て笑う高珊を祝う。


 茶色いテーブルの上には、はみ出る程に竹皿に盛られた「親父特作」の中華料理が並び、その中心には椴が買ったショートケーキのホールと、ミナが買ったシャンパンが置かれている。その周りには可愛らしいリボンの装飾に結ばれたプレゼント袋が囲んでいた。それは、仕事のために来られないウェッブ、アーサーからの高珊への就職祝いであった。その中身は特に述べるまでもない。


「本当ニ、あの人タチは私の事ヲ、子どものママだっテ思ってるんですネ」


「おじいちゃんみたいよね」


 呆れた様にプレゼントを包んで笑う高珊に、ミナと椴も顔を見合わせて笑った。こうして、祝いの言葉を述べてくれる友に、高珊はうっすら涙を流しつつ、クラッカーの色とりどりの紙吹雪を愛おしそうに見上げる。そして三人で分けあった黄金色シャンパングラスを掲げて乾杯し、パーティーは無事(?)に開催されたのであった。


「かーっ、でも寂しくなるなあ!向こうに行ったらこうして三人で飲み合う事も出来なくなっちゃうなんてね!」


 シャンパンを一気飲みした椴が、勢いよく腰を屈めて大声をあげる。


「そうね。なんたってカリフォルニアなんだもの。大陸の東端と西端じゃ、とてもじゃないけど、これから滅多に会う事は出来なさそうね」


 それに続いてミナも、シャンパンを片手に高珊に寄りそった。鼻の低さが伺える横顔は、しんみりと彼女の憂いを縁っている。


「そうですネ。デモ大丈夫でス。直接会えなくてモ、これからテレビで会える事ガ出来ルかもしれませんしネ」


 と、一瞬の侘しさをご誤魔化す様な高珊の微笑みを横目に、椴も口角をあげながらご飯に手をつけた。


「うん、そうだよ。なんたってあのチェック・ノリスにスカウトされたんだからね。高珊ちゃんならきっと、一流のスタントマンになれるよ!」


「そうよね。あのチェック・ノリス管轄のアクション道場の講師になるんだもの。もしかしたらこのままアクション女優デビューかもね?高珊ちゃん、美人だし」


 餃子を口に含みながら微笑む平凡な顔立ちの友に苦笑いをしつつ、高珊も大好きな桃色の饅頭を頬張った。


「そういえバ、親戚中にもチェックて言った瞬間に、みんながそんな風ニ褒めてたンですよネ。あの髭面の老師ッテ、そんなに凄い人なんですカ?」


「そりゃあそうよ!」


 隣でミナが、春巻を持った箸を掲げて頬を膨らました。


「遅刻のヒーローシリーズとか、ザ・ヤバイワーとか、大工・手取り金とか、90年代前半のアクション映画を代表する超有名アクション俳優じゃない!あの人、アメリカ空軍人現役時代も長くて、そっち方面にも顔が効くっていう大物なんだから!」


「なんか、タイトルからするとぜんぜん強そウな感ジがしないんですけド……」


「いやいや、現役の軍人だって事もあってアクションは本物級だよ。アメリカの中でも、唯一彼だけがプーチンとサシで戦えるって言われてる程だもんな」


「へー、プーチンさんって結構そこまで強かったんですね~」


「そっちかよ」


 ミナの冗談に三人は肘を付き合わせて笑った。そうして和やかな会話と手作り料理に舌提を打った後、残ったシャンパンと共にケーキを分けあって食べる。


「親父さんの料理本当うまかったわー。外国の日本料理とか中華って、全然美味しくないからさ。本当、ココにはいつも世話になったわ」


「へえ、やっぱリ違うんですカ?」


「違う違う。この前女と一緒に八番街の寿司屋さん行ったんだけど。生の刺身に女がどういう事だよって驚くかなーって思ってたら、アボカドのせるわ、ピクルスのせるわ、融解ロールとか意味わからんものは出てくるわ、こっちがどういう事だよって叫んじゃった!」


 ミナと高珊は、テンポの良い椴の語りに笑い合う。目を綻ばせながら高珊は白い歯をにんまりと見せ、椴に顔を向けて言う。


「だったラ、私ガ今まデ食べてた日本料理モ本場と違っテたのかもしれませんネ。いつか本物ノ日本の料理食べてみたイものでス」


 それに椴は途端、目を輝かせて迫った。


「え、本当!?いろいろ知ってるから今度連れてってあげるよ!どういうの食べたい!?」


「ラーメン」


「なんっでだよ!」


 日本のラーメンは中国のそれとは最早別物である皮肉を知っているミナは、口元を覆って地団駄を踏む椴に吹き出したのであった。そうして、似通う者同士話は盛り上がっていくものの、高珊には妙な物足りなさにしばし心を疼かせていた。それは、そんな自分達の会話を理解出来ず、ぽかんとしている生粋の欧米人である、「彼ら」がいないからである。


 一方、側で大口開きながら笑うミナも、椴も笑顔の中から伺えるその淋しげな黒い瞳に、友としてそれが何であるかを窺い知る。


「それにしても、残念だったわね。ジョージさんとヨーナスさん。やっと帰ってくると思ったら、そのままヨーロッパに行っちゃうだなんて……」


「って、おい、ミナ……!」


 向かいの椴が慌てて口を開きミナの言葉を遮ろうとするが、ミナはそれをあえて無視し、固まる高珊の左手を優しく握った。


「ジョージさんはともかく、ヨーナスさんとは特に長い付き合いだったものね。それなのに、このまま四ヶ月も会わずじまいでカルフォルニアに飛んでしまうなんて…悲しいもんね」


「悲しそうに見えましタ……?」


 恥ずかしげに首を傾け髪をかきあげる高珊に、ミナはうん、と小さな声で頷いた。その髪をかきあげる仕草は彼女が動揺する合図である事を知っていた。それを察した高珊も、やがて小さなため息をつくと、もう隠さないという様に寂しげに眉を下げたまま正面の壁へ顔をあげる。


「別に何も……?正直言っテそこまデ寂しイとは思ってませン。ほラ、だってこうしてヨーナスさン、写真も送っテくれますシ」


 そう言って、高珊は胸元から携帯電話を取り出した。専用のフォルダから二人にかざして見せたものは、ヨーナスがペルーからパキスタン、そしてヨーロッパにかけての様々な風景を撮り続けた二人、そして「三人」の写真だ。


「え、誰。このダブルピースが付け焼刃にもなってない、眉毛の濃い無表情のイケメン君は」


「カマラっていう、パキスタンで拾った男の子なんだそウですヨ」


「へー、ヨーナスさん色々と海外に行けて楽しそうですね!あ、ジョージさんもちょっと映ってますよ!向こうでも相変わらず、すごく格好良いー!」


 椴は背後から、ミナは横からケータイを覗き、笑顔で写真を撮るヨーナス達の近況を窺い知る。それに高珊は微笑しつつ、優しく携帯を閉じて手のひらの中へ包むように覆う。


「カルフォルニアに行くのは、来年の四月になりマス。寂しくないけれド、やっぱリどうしてモ、私、それまでニ何とかヨーナスさンたちト会っテ、話がしてから別れたインでス。警察学校の訓練も射撃技で身につかず、それを結果として出なかった事についてモ、しっかりト報告していきたいんでス」


 そう言って、強く携帯を握り締め顔をうずめた。それをミナはゆっくり小さな背中を撫でてその同情を微かに示す。


「会いにいくのね……」


 ぼそりと呟いたミナの言葉に、椴は途端愛想笑いから真顔に戻り、眉を歪めた高珊の横顔を見上げた。


「ちょっと、こうさちゃん。君ってまさか…!」


「仕方ないじゃないデスか。私かラ行かなイと、この先もうあの人達ニ会えない様ナそんな気ガするんでス。」


 柳葉刀使いに備えられるという「気」を読む力を知っている椴は、その高珊の陰なる瞳にぞっと、おぞましい気配をも感じて後ずさる。一体、彼らが向かうヨーロッパに何が有ると、その壁を見つめる黒い瞳は感じ取ったのだろうか。


「だかラ私、今かラ」


 一言、薄い胸に携帯を置いて高珊は唇を噛み締めた。そして彼女は口開く。自分でも突拍子も無い事を言うのを自覚し、友を驚かせる事になる恐怖と覚悟を持ち合わせつつ、静かに、ゆっくりと。



2、痴話喧嘩


「驚いたなー高珊ちゃん。あの2人に会うためだけに、これからフランスに行くなんてね」


「そうですね……」


 セントラルパークの東端に位置する、ハドソン川と接するリバーサイドパークにて。


 そこからしばらく、椴とミナの穏やかな沈黙が流れていった。椴はお土産をいれたケーキの箱を持ったまま両手を頭の後ろに当て、その前をミナが袋を持って並び歩いている。早朝から始めたパーティが終わる頃には、太陽は沈みかけている所だった。


 紺色と橙色の色彩為す空を背景に、対岸のネオンがくっきりと浮かんだ黒い摩天楼に宝石の如く瞬く。空とネオン、そしてその沈みかけた日の光を受けてちらちらと輝く橙色の波面を為すハドソン川の景色が二人を静かに彩っていた。やがて、チェリーウォークと名付けられた、芝生を縦に斬る一本道を2人が跨った時、川の対岸に並ぶ桜並木が新緑の葉を揺らし、心地よい風が二人の黒髪を靡かせる。やがて二人はふと微笑み合い、夏の桜の木を見上げた。


「気持ち良い風ですね」


「ああ、もうすぐ秋が来るんだな」


 舞い上がった黒髪を整えるミナのシルエットの片縁を、橙色の光るハドソン川の波面が白く縁った。その光景の美しさに改めて、NYの良さを噛み締めると同時に、椴は薄い唇からその細長い顎の流線、つんと上がった鼻筋のライン、一本一本が優美に空に靡く黒髪、そして髪を絡ませる細長く小さな指と、ミナを見る度に一瞬胸が締め付けられる様な愛おしさに酔いしれる。


 しかし、その愛しい唇が紡ぐ言葉は、一人世界に浸る椴の意に反して、「高珊」の気持ちを気遣う「友」としてのものだった。


「高珊ちゃん。ヨーナスさんの事、好きだったんですね」


 それは、風に紛れる程小さな声だった。憂いの瞳を短い睫毛に被せて隠し、ミナはハドソン川を左斜めからゆっくりと後ろへと眺める。その動きに黒髪も流線を描いて揺れた。


「それも、寂しさと悔しさを、ずっと、ずっと溜め込んで、激しく燃え上がる激しい恋心をその細くて小柄な身体で必死になって受け止めている、そんな激しい恋心を」


「君も気づいてだんだね」


「椴さんもですか」


「あったりめえよ」


 椴はおもむろに髪をかきあげて目をそらす。その瞳には一種の慇懃さがあった。純粋かつ健気で、そして微かな強かさを併せ持った「単純」にも程がある「乙女心」など、椴にとっては手慰み程度に分かるものだったのだ。NYの毒蛇。幾多の男女と臥所を共にしたプレイボーイとして、とうに見知っているその余裕を、椴は腰に手をあてミナを見下ろしながら、鋭い蛇の目を片方見開く事で示す。


「高珊ちゃんってさ、猟犬君がどうの、警察学校がどうのとか、わざとかって思う位嘘っぽい事でごまかしてるけど、あの()、本当はただディンゴ君に楔を打っておきたいだけなんでしょ? あの気の良い性格で騙された他の女に寄せ付けられる前に、自分からわざわざフランスへやってきたつー行動を起こして、あの超鈍臭え良い加減眼鏡君に振り向いてもらうためのって、魂胆でさ。」


「え……とど、まつさん?」


 ミナは振り向き際、彼の言葉に怪訝そうに首を傾ける。それを椴は鋭い八重歯を見せつけるように歪んだ笑みを溢し、


「どいつもこいつも鈍い奴らばっか」


 と、悪態ついた。風に揺れる黒髪をかきあげたまま川の方へ顔を向ける時に浮かぶ、目の下にある皺の陰影に、ミナははっと彼の端正な横顔を正面から見あげた。


「あのさあ……ディンゴ君から送られてきた写真を見た時点で、大体分かるだろ。送った本人は彼女のためと思っただろうけど……、あれでどれだけ高珊ちゃんが苦しい思いをしてるか一片たりとも考えた事もねーんだろーな。そう思ったらアイツの笑顔も逆に憎たらしくなってくるぜ」


 低い声で更にn悪態をつく椴の様子に、ミナはますます首を傾ける。


「あの写真が……?どういう事ですか……?」


 言葉より先に鋭い蛇の目がミナを射抜いた瞬間、咄嗟にミナは思い出した。高珊があの時苦々しい面持ちで見つめていた写真の中身を。


「あ……!」


 高珊の想い人、ヨーナスがペルーで撮った写真には満足気に笑う彼の横に、その逞しい腕を交わして同じ様に笑う少女がいた。次にパキスタンでの写真には明らかに彼のものではない、「女物」の花柄フードを身につけて笑うヨーナスがいた。その世界を回る旅で、おおよそ本人にも想像もつかない彼の背後にちらつく女の影を、高珊は写真からしっかり読み取っていたのである。しかし、それでも彼女は、それを高鳴る胸の上に置いて抱きしめていた。


「そんな……そんな写真を、それでも高珊ちゃんはあんなに大事にしてるのに……」


「そうだよねーつっらいよねー。あんな風に不安を煽らせる写真を無自覚なまま送られてさー。あれじゃあ、思い立って自分から行くっきゃないって考えるのも無理ないかもねー。全く、高珊ちゃんもディンゴ君も仕方がないねえ」


 少々乱暴に髪をかきあげてネオンの対岸を見る椴の瞳は、二人を諦念で憐れむと共に、そこにもう一つの影を差していた。柳眉をきりとひそめる真摯な様はまるで、自分自身の姿を見て訝しげている様に。


「すごいなあ……高珊ちゃんも、椴さんも」


 その様子を伺いながら、知らないフリをしてミナも共に川を眺めた。それぞれに対する自分には起こしえない想いを察し、感嘆でもって薄く息を吐く。


「高珊ちゃん……、うまくいくと良いですね」


「だといいね」


 年上として労いの言葉を述べるミナに対し、その時の椴はそっけなく答えて目をそらした。そのさっきから友に対する不自然な様に些か疑問に思いながらも、ミナは自分よりずっと大人びた、椴の麗しい横顔を尊敬と畏れの眼差しで見据える。


「そうね……ずっと私たちの周りでそういう事はないんだと、そう思っていたのに……」


 彼の、高珊と同じ寂しげな赤茶色の瞳に、ミナは彼との距離を知る。いつも、身近にいる一番の友達だと思っていた。しかし、そのいつも感じていた彼との居心地の良さは、今はとうに消え、友の恋心を「子供臭い」と足蹴にするような態度が急に恐ろしくなってしまう。いや、違う。ミナはざわめく居心地の悪い胸を押さえた。


「最初からこの人にはそういう所があったんだわ。毒蛇としての、危うく、それでいて美しい片鱗が」


 ミナの脳裏に新緑の鱗が通り過ぎる、そこから見えた黄金色の蛇の目。その細長い瞳孔が彼の瞳と重なり合う。そうだ。趣味仲間だ、友達だと割り切って、あえて知らないようにしていたその狂気。無意識に感じ取ってしまったミナ自身の思惑が彼女の胸を刺した。


「そこまで見破られしまうとは、椴さんには隠し事は出来ませんよね……」


 見透かされた心地を今は正直に、ミナは俯きながら呟く。すると、その言葉に流し目に椴が睨みをきかせた。俯いた時に胸元へと垂れる彼女の黒髪の揺れを見た途端、椴の何かが外れた。


「そう思うんだったらさ」


 急に椴の口調が厳しくなる。ミナはその言葉に震え固まってしまった。何故か、椴と顔を合わせるのが怖くてなって目を伏せてしまった。


「俺に隠し事すんの、やめてくんない」


 それをあえて知った様に、椴は更に野太い声で牽制する。ざあっ、と、風が桜の葉を揺らす。秋風の心地よい涼しい風が、震えるミナ胸の内を更に冷やかにして擽った。


「知らないとでも思った?」


 無言で目を伏せたままのミナを横目に、椴は側にあった桜の幹に肘をつけ右手を腰に置いた。左脚を少し曲げミナを見下ろす椴の目は、尊大と侮蔑の光が鈍く横切った。


「ホントはあんたも行くつもりなんだろ。フランスに」


 念を押した言葉に、遂にミナは驚きで目を見開いた。


「そんな、どうしてそれを……」


「高珊ちゃんが教えてくれた」


***


 ミナが席をはずした頃合を狙って、椴は何気ないフリをして、高珊に問うたのだ。二人のやり取りから、ミナはすでに、貴女がフランスに行く事を知っていたのではないのかと。


「え、だっテ、あの人が連れて行っテくれるト誘ってくれたんですモノ」


 その答えに椴は自分がその時、どんな表情をしていたのかを知らない。しかし、それから既に「気」を読んだ高珊は、


「ア、ミナさンから聞いてなかったんですネ」


 と、テーブルの上に腕を組みながら上目遣いに、滔々とその内容を彼に教えたのだった。 


***


「一週間後のG9に参加する死神議員に付くために、君も3日後にフランスに行くんだよね?費用のない高珊ちゃんのために、わざわざお金もたてかえてくれるって?」


 桜の幹に手をつけたまま、椴は芝生を踏みつけてミナに一歩近づいた。まるで襲いかからんとする程の怒りの篭った声色に、ミナもその恐怖を拒もうとぶん、と、腕を振り回して立ち向かう。


「そ、そうですよ。仕事のためですよ。どうしてそんなに怒ってるんです。それをどうしてわざわざ椴さんに言う必要なんてあったんですか」


「だから、隠し事をするなって何度言わせんの」


「は!?」


 突然、動揺の色を見せたミナはぞっと身を捩らせる。


「な、なんのことですか」


 嫌だ、ミナは咄嗟に思った。こんなの、私の「好きな」椴さんなんかじゃない。


「あのさあ。……なんで猟犬君とディンゴ君が、ペルーの時と違ってこっちに帰らねえであのままフランスに行く事になったのか、俺には分かってるんだよ。あいつらの鎖を持つ「飼い主」が、G9でフランスに行くからだろ。つまり、君の上司の行き着く先にあいつらはいる。高珊ちゃんはディンゴ君を追うためにそこに向かう。そして君は、……猟犬君を追うために」


「仕事のためですよ!」


 ミナは後ずさり、必死に首を振りながら前髪を毟って叫ぶ。


「椴さん!貴方は前に言ったでしょ!?死神に幽霊はついていなくちゃいけないって!そうですよ!私はアーサー様の秘書なんです!あの人がフランスに行くなら、私だって行くのは当然の事でしょ!だからそんな事、椴さんには関係はないじゃないですか!」


「それが二度と帰れない仕事かもしれないとしてもか!?」


 すると、椴の隠し持ったその言葉にミナの身体は一瞬して固まった。しかしその、「何故知ってる」とでも言う様な、まだ自分をはぐらかそうとする顔に、椴はいよいよ口端に皺をあげ、眉を潜めてそれ以上の声で叫ぶ。特徴的な犬歯がぎりりと音を立て、ミナの動揺を煽らせた。


「一般人だから、外国人だからって俺が何も知らない呑気な男と思ったか!?あのさぁ、広まっているG9の妙な噂って、ムンダネウムの事なんだろ?!そこで国同士が初めて、ムンダネウムについての対策が相談される事なんだろ!?それでいつ、ムンダネウム側から報復をうけるか、その結果次第でそこから戦う事になるか分からない、「危険な賭け」に君達はこれから突っ込もうとしているんだろうがッ!」


 怯えの一鳴きと共に、咄嗟に背を向けたミナの手首を椴は勢い良く掴んだ。それは怒りと悲哀が入り混じる、そこから涙も流れそうに見える眼差しだった。それにミナは罪悪感がちらついたが、しかし、それでも彼の望みに応じる事は出来ないと、唇を噛みしめて睨み返す。


「俺がここまで怒ってるのはね、何で君がその危険な仕事に乗ったってことだ!まさか、そこまで……猟犬に会いたいって訳か?!」


「いやっ、離してっ!違います!仕事です!」


 猟犬と言った瞬間に毒蛇の目が嫉妬と狂気に歪む。ミナは掴まれた腕を振ろうとしたが、彼女の手を捻る事も構わず椴は更に強く固めた。


「上司がムンンダネウムに行くってのに、部下の方が怖いからって、NYにほいほい残るなんて出来るわけないでしょ!?アーサー様がそれを許すはずがない!」


「いや、違う!死神殿はそういう人なんかじゃない!」


 余裕の無くなった椴の犬歯が空を斬る。迫るそのシルエットが上下に激しく揺れた。


「あの人はああでも義理堅い人だ!あの人は、一度お前を呼んでこう言ったはずだ。危険な仕事になるが、それでもお前はついていくかって。拒否する事を咎めはしないって!君の意見をあの人は尊重したはずなんだ!でも、君はその気遣いをも振り払って、ついていくと、言ったんだろっ!」


 椴は苦しげに目を瞑り、拳を握り締めて叫ぶ。ミナはしまった、と、その切なげに嘆く椴を畏れながら悟った。すべてが図星であることの衝撃から、彼の本性を思い知る。椴の姿と共に鱗がまた脳内を巡った。ああ、こうやって彼は「獲物」を狩っていくのか。他人事の様にミナはその黄金色の目の跡を追って、目を泳がせしまう。


「うまくいきっこなんかねえよ」


 一方で、激しい舌打ちと共に侮蔑の口調となった椴に、ぞわりとミナは周知の予感に目を見開く。柔な部分が抉られる心地に、一筋の涙が流れた。


「いや、やめて……」


 裏がった声でそれを拒み耳を抑えようとするも、椴の握る手が許さない。


「猟犬が君に惚れるわけなんてねえよ。だってアイツは……」


「やめて!」


 一瞬の事だった。ミナは乱暴に椴の手を振りほどき、その耳を潰さん程に拳で抑えたのだ。しかし、それはより椴の苛立ちを加速させた。


「たっく、まだ好きだったのかよ……!」


 椴は腰に手を当て、ため息をつきながら対岸へと目を外らす。叫声から聞き出せた彼女の本音を、ここまでして必死になって捻り出しても、得られたものは更なる苛立ちと悔しさだった。これ以上押し潰されそうな心地に眉を歪めて耐える。


「ムカつく」


 普段口説くために甘い言葉を囁くその口は、彼女の前では正直な気持ちを露わにする。


「かっこいいのはわかるけどさあ。そこまで入れ込む程の玉なのか、あいつって」


「椴さんには分かりませんよ」


「あ?」


 斜め上に顔を上げた椴は、眉を歪めてミナを見た。それに怯まず、いやまるで開き直ったように涙を流しながらも、口角を歪めて椴を見据える。


「私はあの人の、正直な所が好きなんです。良い事ばっかり取り繕って、肝心な所で何も言ってくれない、分かってくれない椴さんにはあの人の純鉄の輝きを分かりっこなんかない。女の子がいつでもアンタみたいなナマクラに騙されるなんて思わないで」


「人の好意を分かって足蹴にする様な奴のどこが俺よりも、だって?俺が、誰よりも君を愛している俺のどこがナマクラだって?」


 椴は「彼の方が良い」と言われた痛みをごまかし、捲くし立てるように彼女を牽制した。互に互への遠慮を忘れ、言葉も乱雑になっていった。ジョージと、それを愛する彼女たちを侮蔑する目を見た途端、ミナははん、と、更にそれを軽蔑する様に細長い目を不均等に見開く。その「愛してる」という吐息混じりの囁きを芝生をすり潰すと共に拒絶した。


「それは椴さんだって同じでしょ?いろんな女の人を弄んで、切り捨てて、大事な感情をいっつもないがしろにしてるくせに、何が君だけを愛してるですって?ふざけないでよ!」


 それに対し、戸惑いもなく哂ってみせた椴の薄い唇に、ミナはトラウマを抉られた痛みと共に拳を握り締めながら、首を振りながら金切り声をあげる。涙がはちきれ、白波と共に瞬いた。


「そうよ!それが貴方の本音よ!どうせ貴方が私に対する想いなんて所詮そんな程度だったのよ!分かったから、もう分かったから、ほっといて!私の事なんか構わないで!私は貴方の自己満足に使われる女なんかじゃ――!」


「違う!分かってねえのはお前だ!」


 今まで巡らしていた理論や姦計が「もう、どうでもいい」と、ミナの涙ながら拒絶の言葉を聞いた途端、椴は火がついた目をちらつかせると共に、刹那気に思った。


「と、椴さん……!?」


 そして、宙をかいて逃げるミナの腕を今度こそ逃さんという様に握りつぶす程に、掴みあげ自分の方へ引き寄せ、彼女の唇を吸い取った。


「!」


 突然現れた生々しい水音に、目を見開き逃げようとする彼女の唇を追って、椴はその頭を押さえ込んで固める。その境が分からない程に押し付けた唇の、隙間から出る彼女の苦しそうな声が更に椴の衝動を誘い、彼女の頭を自分の顔へめり込む程に押し付けて、深く深く彼女の瞼に己の睫毛をくっつけ、何度も首の角度を変え彼女の薄い桃色を頬張った。


「と、ど……まつ……さあ……」


 重なり合う唇の隙間からミナはその熱っぽさに移されて頬を赤く染めてしまう。かちりと、いつも見つめていた尖った彼の犬歯が今、自分の歯を当てている事を知り、背中に電流の奔る感覚がした。それをまるで包む様に椴の細長い手がミナの背中に手を回し、その下着の線まで触れてしまうような手つきに体を震わせてしまう。


 涙に濡れた瞳から息苦しそうに目を瞑る均等な睫毛と歪む眉を眺めながら、彼の赤い舌がちろりとミナの唇をなめた。


「や、やめ……」


 そんな、口付けだけで。ここまで、なんて。これ以上の事をされたら。自分が自分でなくなってしまいそうな感覚にミナに畏れが走った。

 それでいいじゃないか。その中で、椴は乞う様にして言う。このまま流されて流されて、他の事なんかあいつの事なんかすっかり忘れて、そのまま現実に、今「いる」男の胸の中に墜ちてしまえばいい。と。誰が何に気遣う必要がある。ここには俺しかいないのに。


「なあ……っ一緒に……!」


 椴が、喘ぎ声の隙間から裏返した声をあげる。そして蛇のように粘着質に絡む指が背中からその腰を広げて撫でた時、椴の唇の端が齧られた。


「っ!」


 それに思わず眉を潜めてさっと身を引く。と、その口端にじんわりと生暖かい鉄の匂いと紅い染みが広がった。それにそっと眉を緩め、細長い目尻から彼女の答えを悟り、椴は自然と諦感気味に口角をあげる。


「そうか、それが君の答えって訳か……」


 繋がっていた証である銀色の糸がつうと、夜のネオンを映す水滴と共に冷たい風に揺らぐ。離れたと同時に椴の睫毛が揺れた。その冷やかな風にミナは熱に浮かされた自分に酔っている事に気付く。ぼんやりと口を開く唇の瞬きを椴は、名残惜しみその唾液ごとゆっくりと一舐めして、目を開く。

 対してミナは、胸元のワイシャツを両手で掴み、腕を盾にするように肩をあげて構えている。思い出した様にさっき彼を噛んだ歯をぎしりと噛み潰し、その震える目には涙を溜めていた。


「仕方ないだろ……こうでもしねぇと、伝わらないまま、会えなくなりそうで……」


 早口で呟き、そして彼女の両腕を掴んで両脇に寄せる。その警戒した体を力強く開いた椴に驚く間も無いまま、苦しそうに上下した双丘に椴は顔を埋めた。


「ああ、いや……!」


「頼むよ、動くなよ」


 ぐもった声をあげて椴は彼女を布擦れと共に抱きしめた。


「こんなにも愛してるのにこんなに慕ってるのに、何でそれでもお前は……俺を置いて別の男の所へ行くんだ」


 このまま欲情に身を任せ、彼女の胸に縋りたい。夜になっていく回りの影が二人を包んで世界の隅っこに隠してくれればいい。刹那的な甘さに酔って椴は更に抱きしめる。柔らかい心地に仄かな香り、それを吸い込みながら、椴は言葉を呑む。


 一つは、「会うな」もう一つは「行くな」。そして、俺を、見捨てないで、と。


「私達、似たもの同士なんですね……」


やがて、為すがままにされていたミナはそっと、警戒する事を諦めて椴の擽ったい黒髪をゆっくりと撫でた。同じ気持ちを重ね合わせ、同じ思いを持った体付きの違う体を抱き合うのって悪くないかもしれないと思う。でも、そうだからこそ互いに抱き合っても痛いのだ。


「そうですよね。理由なんて、分かりませんよね」


「わかんねぇよ……」


 泣き声に似た声を隠すように、埋める額を包み込んでミナはその髪に鼻を埋めた。


「だから私も、貴方と同じ様に示していくんです。あの人に会って、自分に決着をつけるために」


「そうかよ……」


 ミナが頷く感覚を知った時、椴はそこからそっと離れていった。再び交わし合う目と目。辺りはすっかり暗くなってネオンが微かに向き合う横顔の輪郭を縁取った。


「ありがとう……椴さん」


 しばらくの沈黙の後、悟った心地で微笑むミナに、椴はさっきと同じように腰に手を当て目をそらし、ため息をついた。


「はいはい。さっさとフランスなりどこでも行って、こっぴどくフられて来い」


 と、ピラピラと手を振ってそっけなく言う態度に、逆にミナは一瞬驚いた後、精一杯の笑顔で「はい!」と言ってみせた。そうして背を向け歩き出す。呆れてやれやれと首を振る椴に、一度振り返りながら。


「そんな顔しないで下さいよ。どうか、分かっていただきませんか。私の思いは貴方と違って、意外にきちんと言葉に出来るものなのに」


「やだねっ。聞きたくない」


 それでもやっぱり悔しいんだ、と、男としての嫉妬を剥き出しのまま、椴は眉を顰めて目を伏せる。それに対し、桜のゆらめきと共にミナは髪をかきあげ、ゆらりと口角をあげたまましばらく微笑んだままだった。


 やがて、その顔を見なかった事を椴は後にずっと後悔する事になる。


 しかし、そんな顛末も知らず、椴は俯いたまま彼女を見送った。遠くなった足踏み、微かに聞こえるエンジン音。俯く目端に象牙色の何かが通り過ぎたのに顔をあけた時、そこには真っ黒な芝生が広がるだけだった。


「ちっ……、こんな痴話喧嘩をやるつもりじゃなかったのに……」

 

 呟いた視界の先にはネオンが眩しく瞬くばかりであった。



3、一方、そんな恋愛事情の渦中にいたジョージとヨーナスはどうしていたのかというと。


「高珊さんへ 


 初めてのヨーロッパの舞台はフランスとなりました。昔から憧れていたフランス、想像していた通り、歴史あるお洒落な街並みです。しかし、残念ながら仕事の都合でパリは経由しただけで、今は南西部の郊外都市、トゥールーズにいます。


 そして、そこから電車に乗ってカルカッソンヌへ向かう所です。 その間3日間は野宿をしようとしていた所、トゥールーズの大学寮に住む女子大生に誘われて(勿論、ジョージさんが、という事ですが)、しばらく女子寮にご厄介になりました(笑)


 フランス人は英語を喋りたがらないというジンクスも今は昔、英語で夜遅くまで語り合いながらしばしの楽しい時間を過ごしました。その時の写真を添付して送ります。どうか今度こそ無事に、キティさんを保護する事が出来ますように


 ヨーナスより」


 送信ボタンを押し、心地よい音楽が「送信完了」を告げた。それに義務感を果たした心地よさで笑ったヨーナスは、透き通った朝の空気をそのまま吸い込む。群青色の空の下で、もやが灰色のプラットフォームを横切った。


「早朝のトゥールーズ駅は肌寒いなあ」


 灰色のホームで、巡査服のジャケットを徐に着込んだヨーナスは、孤を描く細い格子状のドームが天井を覆っている様相を見上げていた。やがて、車輪を留める軋んだ鉄音と共に、くすんだ橙色の車両が、向かいのホームの景色を遮ぎって止まる。ヨーナス、そして奥のベンチに足を組み座っていたジョージが、目の前に開かれたドアに乗り込み、すぐ右手にあった四人座りの席に座ろうとする。その途中、大声と共にホームから電車に走る一人の少年が、その車両の窓に荷物を放り込み自分も窓から突っ込んでは、驚くヨーナスの膝の上に着地したのであった。


 カルカッソンヌ行きの列車は、鈍速でトゥールーズより更に南を突き進んでいく。


 カルカッソンヌまでは約一時間。それまでの間、四角い車窓には写真のごとく切り取らた曇天の田園風景が延々と続いていた。そんな中、ヨーナスの向かい席を独り占めにしているジョージは、退屈そうに車窓の縁に肘をつき、細長い縁取りの顎を、骨ばった手首で支えながらぼんやりと景色を眺めている。一方、通路側に座るヨーナスは給仕にもらったコーヒーをすすりながら、田園風景を眺める美青年、という絵になるであろう情景を、湯気の隙間から心穏やかに眺めていたのだった。


「良い所だなあ……」


 広がる景色は平坦な緑地といえど、ヨーナスにとってそれは未開の地、ヨーロッパの風景である。トゥールーズを含めた一面に広がる純白の装飾に囲まれた建物。街路に並ぶ洒落気溢れたカフェテリア、ファッションアートの華やか等、ヨーナスの求める「外国」がそこにはあったのだ。


 が、ヨーナス以上にテンション高くそれを眺める輩が窓に手をつき、その視界を遮った。


「おぉー!すげー!緑、緑だー!おぉぉおお!」


 大きな赤色の瞳をキョロキョロと見渡し、窓にべったりと手と鼻をついて声をあげるは、黒のフードとシャルワニを身にまとう少年、カマラだ。その子どもっぽい落ち着きの無さは、18歳という年齢に相応しくなかったが「無理もなかろう」と、ヨーナスは肘掛に手をつきその光景を眺める。    


 カマラはついこの間まで、ここから遠く離れた中東の、瓦礫と山しか存在しない世界にしか生きていなかったのである。そうして、今まで行き場を阻んでいた山を越え、憧れの西洋という別世界に脚を踏み越えたその喜びと興奮は、自分が想像している以上のものなのだろうとヨーナスは感じていた。


 一方、カマラも、ヨーナスのその心地に気付いてか、興奮に乗せて通り過ぎていく物に随一指を差しながら声をあげる。


「わぁぁぁ!兄貴見て!フランスの家です!家!茅葺きっすよお!」


「うん、田舎でも風情あるんだね~」


「すっげー!ずーっと雑木林続いてらぁ!」


「パキスタンにはなかったからね」


「おおおおお!外人!パツキン!パツキン!」


「パキスタンにはなかったからねえ」


「あー!見て!馬、馬!」


「それはどこにでもあるだろ!ボケ!」


 そうして、ジョージが無難な突っ込みで彼の首根っこを掴み、自分の席の方に引き戻したのであった。


「それよりもヨーナス、駅についたら俺たちはどこに行けば良いんだよ。ウェッブとアーサーに会うのは明後日なんだろ」


 やがて、気怠そうにもたれながら、脛を蹴り上げ説明を促すジョージ。それにはいはいとため息をつきながら、ヨーナスは通路に置いた黒カバンから慌ただしくガイドブックを取り出した。


「ベアトリーチェさんから良いガイドブック教えてもらいましてね。そこで見つけた小さな宿に泊まってのんびり過ごそうかと思います。お友達の宿なんですって、ほら見てください。可愛いでしょう」


 と、ヨーナスは途端に目を綻ばせながらそのガイドブックを差し出した。それを受け取るジョージ、覗き込むカマラ。すると2人は「おぅ」と、小さな声をあげる。フランス語は全く読めなかったが、一面に置かれた写真には、凹の形をなした土色レンガの小さな屋敷があったのだ。一面が深緑の蔦に覆われる事から、古い屋敷である事が伺え、木枠の窓から、赤色の布に覆われた部屋の内装も見える。凹状のへこみには雑草と共に、色とりどりの小さな花々が咲き乱れ、その真ん中に立ち、背の高い一人の女性が笑っている。


「ね、可愛いでしょ?」


 ヨーナスは笑う。その手を振る女の、純白のワンピースが縁取るしなやかな長い脚、引き締まったくびれ、腕からはみ出る程になだらかな球を描く乳房と、くっきりと線が分かる谷間。ワンピースによって更に強調された肌の白さと共に、ふんわりとカーブを描く柔らかそうな、ジョージと同じ色の金髪が小さな顔を縁取っている。そして何よりヨーナスの目端を綻ばせる彼女の様相というのが――、


「とっても、美人ですよねー」


 膨らみのある桃色の唇をあげ、真っ直ぐ伸びる鼻筋、丸みのある細い金の眉毛、同じ色の長い睫、そして水滴を弾く葡萄のような輝きを持つ、紫色の瞳。それはヨーナスの想像した、最も理想的な西洋の「美女」であったのだった。


「「確かに可愛い」」


 やがて、ページを捲りながら、ジョージとカマラは同時に呟く。その反応に吹き出したヨーナスは肘掛けを叩きながら笑った。


「でしょ!?可愛いでしょ!?やっぱり貴方たちも伊達に男じゃなかったんですねぇぇ!」


「「いや、犬が」」


「犬ぅ!?」


 その言葉にガイドブックを奪って写真に目を凝らせば、土色の壁に同化して、四匹のゴールデンレトリーバーが桃色の舌を出して揃っている。


「えー?美人より犬ですか……?趣味悪ぅ……」


 そう言いながらヨーナスが眉を潜めて目を細め、顎に皺を寄せあげて二人を見上げれば、二人もヨーナスと全く同じ顔して彼を見据えていたのであった。


***

 

 騒がしいやりとりが続いた一時間後に、三人を載せた列車はブレーキ音を甲高く立てて止まる。


 カルカッソンヌ駅に着いたのだ。


「ついに着きましたよー!」


「やりましたねー!」


 ヨーナスとカマラは白煙の沸くホームに意気揚々と、そしてジョージは煙草を口に咥えひょいと降りていった。


 辿り着いた「カルカッソンヌ」は、17世紀より建てたれた「ヨーロッパ随一」の城塞都市である。


 その象徴となる城塞、「シテ」は、駅からオード川を越え更に徒歩20分かけた先にある田園の高台に位置する。そこで今年のG9で会議とパーティーが行われるのだ。


「さっすが、選ばれるだけありますねぇ」


 ヨーナスは地図を握りながら感嘆の声をあげ、シテへと繋がる通りを先立って歩いていた。オード川より駅側は「下の街」と呼ばれ、シテが作られた後に川を越え広がっていった中心街だ。そこもシテと同じく風情ある中世の、細長い木枠の窓をつけた石造り作りの家々が縦横に建ち並び、鋳物で作られた胴色の看板が、彼方此方と石造りの壁に突き刺さっている。


 心地よい夏の終わりを諭す風が、その突き刺さった鎖や金具を揺らしカタカタと音を立てた。ブリキで作られた雑貨屋やブティックの看板も、かつてはここが匠の業を持つ職人の街である歴史を醸し、土産物屋やカフェといった現代の建物も、その景観を壊す事なく、一階部分に組み込まれ列を成している。


 ふと、ヨーナスが雨樋が対になって通っているレンガの小道を覗き込むと、突き当たりからカンカンと甲高く響き渡せる古めかしい作業場が見えた。そこから精悍な顔つきで橙色に瞬く棒を叩いて製鉄をしている、エプロン姿の老人が湯気の中から浮かび上がっている。ヨーナスが湯気でくもった目をこすり、更にそれを捉えようとした瞬間、途端突き当たりはただの白壁となっていた。


「……え!?」


 ヨーナスはぞっとして思わず足を踏み出すも、ジョージの怒声で慌てて目を覚まし元の通路へ走っていく。慌てて走り去るヨーナスの脳裏からは、ただレンガを照らした製鉄の赤い光だけが焼きついた。


 そうして「今」と「昔」が絶妙に融合している街並を見ながら、やがて三人は広場を右に曲がって並木道を歩いていく。


「さっきからぎゃぁぎゃぁ、わめくなよ大袈裟だな。こんなんNYにもあるだろが」


 一方、ポケットに手を突っ込み悪態をつくジョージに、ヨーナスは「分かってませんね」と、首を振って、ガラス張りのカフェテリアを指差した。その先には青い雨よけに書かれた黄金色のフランス語がある。


「違うんですよ。この、英語じゃない、分からない感じがいいんです!NYには余りに雑多な情報が多くて疲れます。この何書いてるのか分からない感じ!これが良いんです!この開放感が溜まんないんですよねー!」


「兄貴、馬鹿みたいです」


 と、すかさず突っ込んだカマラに怒り、ガイドブックを片手に両腕広げるヨーナスを、通り過ぎる人々はくすくすと笑った。ヨーナスが指差すフランス語が「一見さんお断り」だったからである。


 何はともあれ、大通りに囲まれた碁盤目の街並を観光さながら通り抜けてしばらく、細高い銅製の柱にかけられたランタンの列に導かれる様、穏やかな日差しの差す通りを歩く。やがてその向こうに見えた、ランタンが掛けられた橋。石像が掘られた建物をヨーナスが横切ったその先に、遂にシテが右手からふいと現れた。


「わ、すごい……」


「エルロンドの館みてえだ」


 それにさしものジョージも、好きな本の引用をして感嘆に口を開いた。川を境にした向こうの景色は、一斉に視界が広がる田園だ。その高台の中心に聳え立つシテは、朝日に翳され印影を浮かぶ雲を背景に、灰色で作られた幾つもの尖塔と、それを繋ぐ壁とを悠々として魅せた。レプリカでも、テーマパークでもない「本物」である事を示す、風化した石の崩れもそのままに、3kmにも広がる巨大な灰の城を、ヨーナスはしばし眼鏡の奥から見とれながらゆっくりと橋を渡っていった。


「まるで敵を阻むというより、その美しさで戦う意欲を失わせそうな物だな……」


 と、呟きながら途端遅くなったヨーナスの歩調。それにせっかちな二人は小走りで通り過ぎて行く。


「へぇ、あんな所でG9やってるんだな。こりゃ今でも陥落すんの難しそうだ」


 それにはジョージも流石に一言応えて、ヨーナスと共に、遥かに見えるシテを横目に見上げた。


「兄貴、中には六つのホテルと一つの民宿があるらしいんすけど、全部それを貸し切ってやるんだそうですね。一体そんな大事にして何を話し合うのやら」


「格差対策だそうですよ」


 呟くカマラの後ろでヨーナスが補足した。


「特に今日二日目にやってる南北格差、第三世界の格差、そして各々が持ってる地域的格差をどうやって少しでも緩和出来るか、と、いうのが一番の課題なんだそうです。我々アメリカ人にとってもかなり気になる話題ですね」


「へぇ、アメリカって格差酷いんすか?」


「ええ。残念ながら、先進国の中でもワースト一です」


振り向いた赤い目を、大きな黒い目は寂し気に見下ろしながら言った。


「NY警官として、その実態は私も何度も目にしてきました。華やかに見えるNYも、ちょっと路地裏に回れば教育も受けられないまま、破落戸となった貧乏人が獲物を狙っている有り様です。英語の言葉遣いだけで、くっきりと育ちの良い悪いが分かってしまう、階層社会が出来上がってしまっているのが、今のアメリカなんです」


「へー意外っすね。経済大国なのに」


「えぇ。分かりやすい例で言えば、「セサミ・ストリート」という子ども向けの番組があるでしょ?あれは元々、低所得層の子どもたちが親の下品な英語ではなく、正しく綺麗な英語を学べるようにっ、ていうコンセプトで作られたんですよ。パペットと共に出てくるキャストも、純粋な白人がほとんどいないという、当時としては非常に珍しいメンツだったのも、そのためですね」


「えー!更に意外ですね!」


「幾ら貧しくてもテレビ位は持っているだろう、という事でね」


 そう指をあげて説明するヨーナスに、途端カマラは太い眉毛を顰め、前を向きながら俯き、ポケットに手を突っ込んだ。


「けっ、やっぱ先進国じゃないっすか。俺が過ごした難民キャンプはテレビどころか、トイレだってろくについてやなかったですよ」


「え、あ、そうなの……。なんか…ごめん……。」


 それに腕を振って戸惑うヨーナスは、前にいる二人が濁った目でシテを見上げていたのを知る由もなかったのであった。やがて、橋を渡り終えたその一本道は、田園の端道へと続いていた。右手には丘に沿って家々が建てられる一方で、左手にはポツンと、赤瓦の小さな屋敷が、その固まりから離れるように、一本道に面した入り口に灯が揺れるランタンを掲げている。


「あ、あそこですよ!お宿!」


 ヨーナスが遠目から嬉しそうに声をあげて指を差す。


「へー、シテが魔王の城なら宿はさしずめ、セーブポイントって感じだな」


「ピロピロピン、キィーン、スポッ」


「カマラ君、君、テレビ無いんじゃなかったの?」


 ヨーナスが突っ込むと同時に、石畳から畦道へと渡った二人は、そこから荷物を背負い直し、一気に宿へと走っていったのであった。



***


「まあまあ、パキスタンからわざわざお越し下さって、ありがとうございます」


 ほんのり桃色に染まっている頬と、目尻の皺をあげて穏やかに迎えるその女将は、短い金の巻き毛を揺らしながら、男三人分の荷物を一気にその広い肩幅にかけて歩き出した。その後に続いて見渡す宿の一階は、三階まで吹き抜けの応接間となっている。


 天井に取り付けられた金色のシーリングファンが橙色の照明に回って影を成し、床下にその造形を映している。白壁に桃色の格子状模様がこの部屋一面を飾り、茶褐色で漆塗られた両端の階段は両脇にある二階、三階の入り口まで架かっていた。そして、床にしかれたカーペットはさながら猫の毛の様なクリーム色の柔らかさ。


「ペットなだけにね。あはははは」


「うるせえぞヨーナス」


「やっべ、椴さんの癖がいつの間についてしまった……」


「トラヴィス様、行きますわよ」


「ああ、はいはい」


 その内装をじっと眺めていたヨーナスへ女将の声がかかる。それにヨーナスは慌てて左手の食堂の入口を横切り、階段を駆け上がっていったのだった。ヨーナス達の部屋は西塔三階廊下を渡ったその突き当たりだ。女将が大きな手で鍵を差込み、天使のチャームが揺れる木扉の向こうには、白壁に囲まれた部屋が女将の脇から伺えた。


「わぁー、綺麗!」


 荷物を部屋に置いた女将の脇から、ヨーナスは身を乗り出しながら声をあげる。一気に右手突き当たりにある硝子張りのテラスに手をつけると、そこから広がる、何の遮りのない新緑の水平線と森に魅せられた。 更に、視界の脇に見える曲がりくねった畦道に一軒だけ建てられた母屋の広い赤瓦の家が、風景画のモチーフとして慣例無比な造形を成り立せていた。


「正に西洋!って感じですねぇ~!」


 木の香りが仄かにするテラスに手をつき、景色に魅入っているヨーナスの一方、中の二人は辺りを見渡していた。部屋の中は、赤茶色の木枠の上にかけられた柔らかく盛り上がった純白のシーツが部屋の両脇に一つずつあるのと、テラス脇に置かれた木棚、ボックス棚の上にランプが両脇のベットと並んで一つずつあるという、実にシンプルな内装だ。おそらく風呂洗面所はまた別の所にあるのだろうと二人は察した。


「ん、そういや、ベッドが一個足りねえな」


「そうですね、一人がその間にシーツ敷いて寝るしかないでしょう」


 と、ヨーナスはテラスの向かい、丸机と2つの椅子がある方の壁へ目を向けたら、その曇りガラスに手をつけた女将がにやにやと、青色の目を細めては笑っていた。


「お客様。この部屋の一番の見所はコレですわよ」


 すると、薄い桃色が張った頬をあげて丸窓を開くと――、森に囲まれた高台のシテが真正面に見えたのである。


「おあ!」


 日はとうに沈んだが、その残照に橙から紫色にかけて彩られた空を背後に、宿を見下ろすように聳え立つシテ。その全貌を独り占めしたような部屋に、これから椅子に座り、コーヒーを飲みながら景色を堪能出来るのかと思うと、ヨーナスは心踊らずにいられない。


「くあぁぁぁぁー!やっぱりこの宿にして良かったです!」


 跳ねる様に走り寄るヨーナスを女将は嬉しそうに微笑んで迎えた。


「それにしましても、」


 それからヨーナスは、やがて頭は掻きながら遠慮がちに尋ねる。彼がこの宿を選んだ、もう一つの理由を。


「あのそれとここにその……、若い女の人はいませんでしたか?ガイドブックに載っていたあの人は……」


「ああ、一人娘のフロランスですわね。ごめんなさいねーあの子今、いきなり大きな用事が出来ちゃってしばらく家に帰ってないの。明日位に、ここに呼び出して紹介させていただくわね」


「そ、そうでしたか……」


 残念そうに眉を下げるヨーナスの脇から、カマラが女将のエプロンの袖を掴み、上目遣いで言った。


「ねえ、女将、犬は、犬は」


「カマラ君……あんたねぇ……」


「おほほほほ。あの子達の方なら、今でもスタンバってますわよ」


 突然、女将はドアに向かって威勢の良いフランス語で呼びかける。すると、一斉の吠え声と共に、連続してバタバタと階段を駆け上がる音が聞こえた。


***


 夜、星しか見えない漆黒の闇の中に、くっきりと浮かぶシテの城壁がある。スポットライトに照らされた慎ましくも美しい壁の輝きは、漆黒の森の形を際立たせ、壁の色を灰から白に変えた。それをしばらく、ポケットに手を入れて紅茶片手にそれを眺めていたヨーナスであったが、


「兄貴、もう一時ですよ。そろそろ寝ましょう」


 と、言うカマラの呼びかけに眼鏡を外し、眉間に手を当て椅子に座った。そして同時に恨めしく、シーツに包んだまま寝そべって、自分のアイフォンをいじっているカマラを見る。


「全く……、せっかく男三人一つの部屋に泊まるってのに、まさか丸々「エルモは男か女か」で、時間が潰れるとは思わなかったですね」


 ヨーナスの鋭い視線に対し、カマラはあげた褐色の足首を揺らし、悠々としてアイフォンを人差し指でいじりながら答えた。


「ま、いいじゃないっすか別に。これでようやくエルモは男だって分かったんですし」


「は。何言ってんだテメ、女に決まってんだろが、この」


「黙れ。それ以上話続けたら殺す」


 右手のベッドの上、携帯片手に黄金銃をつきつけたジョージに、ヨーナスはぐぬぬと手すりを握りつつ、座らざる得なかった。


「っんまぁ、仕方ないですね。明日からあそこの仕事で忙しくなりますし、今の内休んでおきましょうか」


 ヨーナス最後にシテをもう一度見上げながら、徐に窓を閉め、眼鏡を片手に寝床へと向かう。布擦れと共にジョージの隣でシーツを羽織るヨーナスを横目に、カマラは枕に手をつきそっと言葉を添える。


「おやすみなさい、兄貴」


「おやすみカマラ君。朝起きた時に銃を構える癖は良い加減やめなよね」


「電気消すぞ」


「あ、はい。おやすみなさいジョージさん」


 ジョージはその声に答えず、間髪なく壁のスイッチに手をつけた。ランプの明かりだけがほんのりと部屋を灯す室内に、三人は頭をテラス側に向けて列になって眠る。秋の風にカーテンが揺れて心地よい涼し気を送る中、月明かりに青色となって広がる田園風景の向こうに、家の灯が点となって瞬く。それをシーツから顔だけを出し、ランプを挟んで眺めるのはジョージだった。しばらく見つめていたその群青色の瞳には、景色だけでなく遠い何かを見ている様だった。


「眠れないんですか」


 野太い声に目を向ければ、カマラも赤黒い瞳だけを出してジョージを見ている。それに答えずに目を再びテラスへ向けたジョージに対し、カマラは構わずくるりと体をジョージへと向け、遠慮がちに口を開いた。既に寝息を立てているヨーナスには聞こえぬ様に。


「そういや兄貴、今日はあんまり喋らなかったですね。調子でも悪かったですか?」


「テメーらのくっだらねー戯れ言に付き合うつもりがなかっただけだ」


 ジョージは人の気も知らないで眠っている相棒を睨みつけながら言った。


「いえ、今日だけじゃありませんよ。最近の兄貴は何からしくなかったじゃないですか。まあ、ヨーナスの兄貴は気付いてないんでしょうけど。」


 と、カマラはシーツを握りしめて話を続けた。


「兄貴、俺はまだ付き合って一ヶ月だから、本当の兄貴がどんな兄貴かなんて知る由はありません。でも、ヨーナスの兄貴に対しては、兄貴は「いつもの自分」を振る舞おうと無理してるように見えましたよ」


「いつもの俺、だって?てめーに何が分かる」


「自分が楽しいと思う事以外に、何の興味も持てない人」


 歯に布着せないカマラらしい言葉に、条件反射で蹴りを入れんとジョージは思いっきり構えたが、シーツごしにピタッと止めた。そうだ、全くその通りだったじゃないか。何故それに自分は「怒ろう」とした。それに戸惑い、更に眉を潜める。


「でも、ジョージの兄貴はこの旅の中で、段々喋らなくなってきましたよね。そんな風に、どこか遠いものでも見る様な事が多くなった。その間に俺が入った後は尚更、何か物思いにふける様な事になったような気がします」


 何を、考えているんですか。


沈黙の合間に流れる冷ややかな微風によって、カーペットの上でカーテンの裾が滑る。それに、ジョージは目を風景へ向けたまま何も答えなかった。いや、答えられなかった。


「……分からねぇ」


 やがて、シーツの布擦れの音にかすれる様、ジョージはぼそりと呟いた。


「分からねえ……。ただ、楽しいと思ってた事が最近……なんかすっげーつまんなくなってきた。つまんねーでつまんねーで、何もかもどーでも良くなってきたような……そんな気がするだけだ」


 でもそれは、たった一つだけを除けば――、


「ああ、それは大人になった証拠じゃないっすか」


 真顔で言ってのけた18歳の少年に向かって、ジョージはいよいよ本気で蹴りを入れた。


「いてっ」


 カマラは一瞬濃い眉毛を顰めるも、すぐに丸く戻して、声を押し殺して腹の筋肉を引きつらせた様にして笑う。たった一ヶ月前に「本気で殺し合った」相手とは思えぬ程の、その馴れ馴れしさと、身の程を弁えない図々しい態度にジョージはいよいよ呆れてため息をつくが、


「お前が18歳の時もそうだったくせに」


 そう諭している様な、細くなった赤い瞳にやがて忌々しく背を向ける。


「もういい。これも飽きた、寝る」


 シーツに包まる様に丸めたジョージの背中からやがて、


「おやすみなさい、ジョージの兄貴」


 と、優しく呼びかける声が伝わった。それからどれくらい時間が経ったか。一つの寝息はやがて二つになり、吐息が眠れぬジョージを包みこんでいく。そこからジョージはきつく瞑っていた目を開き、金髪の隙間から見える目前の白壁をうっすらと見た。そこに模様がない事を心底憎く思いながら。


「ちくしょう、白壁を見るとそこから色々と思い出しちまう」


 嫌悪感で目を瞑ろうにも、醒めきってしまった青い瞳はそれでもぼんやりと白壁を見据えてしまう。ヨーナスの言う通り、「外国にいく間の、この何もかもが分からない感じ」は、確かにジョージに「考える」という時間を与えた。NYという雑多な街並みで長年過ごした喧騒の中、忘れていた自分自身という「存在」の枠が、遠い異国の「ここ」では否応なしに浮かび上がらざる得ない状況になるのだ。


 そうして、気づかなった自分の気持ちとの折り合いを示す、ランプの下に放り投げられたアイフォンの瞬きは、あの時のメール画面のままである。


「明後日夜、六時にドレスコードでシテの会場に開かれるパーティーに出て来い。しばらくパーティーに出席したフリをして、案内人の指示に従い、ヨーナスにも秘密に案内された部屋に向かって、待て。いよいよ、「お楽しみ」についてそこで教えてやる。それまでキティの探索権を与える。精進せよ。アーサーより」


 ジョージはそれを見た時、血が高鳴ると同時に、メールの最後の言葉に、どこかすっと何かが虚しく通り過ぎていく感覚に激しい嫌悪を覚えたのだった。それに綺麗に整った金髪の頭を乱雑に掻いてもがく。


いかんせん、ジョージはとうにその理由を知っていた。


それは、「しばらくキティを追いかけられないから」という、事実に対する苛立ちであった事を。


「ちくしょうが」

 

 唾吐きすて金髪を掻く。その吐いた相手は、分からなかった。


 去年の秋、こんな風に肌寒かったあの夜の事。NYの街外れの地下水路で、ジョージが彼女を、そして「自分」を極限にまで追い詰めて、そこから撃ち損ね逃してしまった女。最初はただ、その悔しさに怒り、憎しみ、「絶対に捕まえてやる」という闘争心そのままに追いかけているのが「自分」なのだ。と信じて、この激情を疑わずに汗を散らして走ってきたのに。


 今は、いや最初から「俺」は、


「あの笑顔の訳を知りたくて、追いかけていたのかもしれねえ」


 ふと、ジョージは呟いた。呟いてしまった。


 あの、夜に紛れて濡れる翡翠の目と栗色の髪の瞬き。今でも白壁の残照で思い出す事の出来る、血を垂らした唇のゆらめき。あの生々しく血なまぐさい「紅」が雨に滴りにっと歪んで、「不細工ね」と彼を笑ったあの時、あれだけが場面にちらついて仕方ない自分がいつの間に「いた」。


そうだ、あれをただ掴みたくて、今必死にその雨の中の続きをしたくて、


「だって、あんな事言われたの初めてだった」


 ジョージはふっ、とそのちらつく胸の疼きをシーツの中に隠す。


 その逆立った黄金色の金髪が覆う、真っ白な流線型に縁どられた輪郭、歪みのない均一の取れた唇、柳型の金の眉毛。そして切れ長でもなければ丸めでもない、程よいアーモンド型の、その真ん中で瞬くサファイアブルーの瞳。かつて、「一流人形職人の最高作品のようだ」と、評された美貌をジョージは持っていた。


 けれど、生まれ持ったそれをジョージは一度たりとも良いと思った事はない。


 ジョージは無意識の内にその頬を撫で、まだ幼かったかすかな記憶を虚ろな目に重ねて映す。物心ついた頃から、「この顔」で得られたものは、誘惑と、くだらぬ嫉妬と、数々の雑多な視線。


 女が何故、ありきたりで下手くそで、色気と香水だけ豪華で、そして見てくれな言葉で自分を誘うのかわからなかった。そんな言葉を、別の女が自分の肩を掴み、あの女はお前を騙そうとしている、相手にするなと怒るその女の事さえも、信じる事が出来なかった。


 他方、男たちが、そんな「紛い物」の愛を必死になって手に入れようとする姿が分からなかった。そして、それを一心に受けた自分に嫉妬し、幼いながら容赦無く自分を卑下にする事が分からなかった。


「だって、あんなもん」


 ジョージは確かに、その容姿が故に可愛がってはもらえた。だから、食べ物には苦労はしなかったし、それでこんな背も伸びたし、不自由ない身体を手に入れる事が出来た。彼らのその手が無ければ生きられなかったのもまた事実だ。女達によって育てられ、作られたこの身体。それがジョージはとても憎くて、もどかしくて自分の身体を愛せない。


 その根拠なるすべては、九歳を迎えた時に分かってしまったのだった。自分にはどうしていつもいられるべき家が無いのか、どうしてこんなに可愛がってもらえたのか。誰か決めたかわからない、誰が言ったか分からない、幼心に染み付いた誕生日というやつで知ってしまった事実を。


 その時の事の声は聞こえない。何を言ったか言われたか覚えていない。それ程のショックだったのか、なのに、その光景だけははっきりと、今でも手伸ばせば掴める鮮明な記憶。


 それは、女の細腕で掲げられた小さな桃色のドレスの瞬きだった。


 白のレースと絡み合い、より濃いリボンが辺りを覆う「可愛らしい」と、皆が言ったそのドレス。それを女達が周りからその女特有の甲高い声で叫んでは手を叩く。その弾けた様な笑い声で、ようやく彼女らが「何か」に喜んでいるのだと知った幼きジョージの、小さな背中を幾つものネイルの張った指がそれを唆す様に突く。それによろめき、その正面に立ちながらジョージは前を見据える。


 秋吹く風が散らすクラッカーのオビが彩るは、ジョージの誕生日を祝う部屋。そして、そのプレゼントが開かれる筈の事だった。その時、ジョージはようやく気付いた。後ろから突然掴まれて形作るこの腕が、あのドレスの丸い裾にすっぽりと収まるのだと。


 なに、やってんだろ、コイツらは。後ずさりながらジョージは口開く。


「これが貴方へのプレゼントよ」


 そうやって笑う女の笑う意味が分かず、どっと汗が吹き出て、ひんやりと内側からの風がその身体を凍りつかせた。寸時、その前触れもなく湧き上がった内蔵がひっくり返される「不快」さに戸惑うも、為すがままにジョージは前へと押し出される。この目の前に迫るドレスなんて、そんなもんなんて。


 つん、と背中を差された心地に目が覚めた時、ジョージは両腕を振っては女たちの香水臭い腕を弾いて逃げさそうと走り出した。も、それを、辺りを囲む女達が実に楽しそうに叫んではその手をその足を引っつかんで押し返して、その勢いではだけたシャツボタンを引っ掛けてとっては彼の白い肌を露わにさせる。その上に覆われた布は、薄い桃色が美しく皮肉なほど似合っていて、それがまだ不気味で、ジョージは我武者羅に脱ぎ捨てては輪の中から飛び出して逃げた。


「いやだ!いやだ!」


 女達に放っておかれた脇の子どもは、羨望と嫉妬と嗜虐が入り混じった顔で揃ってジョージを見下ろしはにやにやと笑う。それに手のばしジョージは叫んだ。


「助けて!助けてよ!いやだ!俺はこういうのは着たくない!」


 それでも彼らはまるで、聞こえないかの様ににたりにたりと笑うだけ。昨日、今日、そしてついさっきまで共に遊んでいた仲間だと思っていただけに、その時の焦燥は、今でもその額に瞬く程の汗が諭す。思わずジョージは薄い腹を摩った。


「着たくない、こんな女みたいなもの!」


 ひたすら暴れて嫌がって、本気で怒鳴って叫んでみても、女達は呪文のごとく同じ事しか言わない同じ顔しかしない。言葉しか言わない。全くもって、あの時の女達は「人間」では無かった。いや、あの時「人間」として扱われなかったのは、果たしてどっちだったのか。


 怒る所が可愛いの。


 そうやって嫌がる所が可愛い。


 きっと似合うから可愛い。


 可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い。


  それがまた余計に不気味で怖くて、それがただ嫌で逃げ出す。しかし無数の腕が絡み合って縛り付けて、髪の毛と服をぐしゃぐしゃにされたまま、ジョージは遂に「着せられた」。


 暴れた跡もそのままに、ひん曲がった紅い唇を震わせ、乱れた金髪の一房を纏めるは、ラメで光るピンクのリボン。肩をはだけさせたままよれたドレス姿でジョージは四つん這いにへたりこんだ。そんなジョージを女達はこぞって、写真の瞬きで照らして笑い合う。


 こんな不格好な様を女は気が狂った様に「可愛い可愛い」と、呪詛の言葉を吐き散らしながら。


 すべてが終わり、塵芥と共に放っておかれた部屋の中、ソファに座って月明かりの夜空を見上げれば、惨めな姿が月に映された気がしてジョージは涙を飲み込んだ。寒い身を抱きしめて鼻をすすり、さらけ出された素足を恥じる様に膝を折って項垂れる。


 その画面は突然ジョージの心の揺れによってブれ、やがて残照のごとく揺れ動いては音と共に切れた。


「くっそ――」


 そして次に、ジョージの手前に瞬くランプと同じ様に、薄暗い明かりの中で煙草を吸っていた男が、女たちに頼まれてバーの床下を掃除をしているジョージに、「女共の子飼い男妾が」と、唇を歪めて見下した瞳を思い出す。その目への恐怖と恥ずかしさに、女達から与えられ、薄汚れたノースリーブのシャツを引っ掛ける肩をあげては身を震わせ、男の視線から逃れぬまま蒼い目を涙で溜めながら、汚れた箒の柄を強く握り締めた感覚をも。こうして思い出せる限り、大した思い出もでもなかったけれど。と、言い聞かせながら。


 そうしてそんな日々に嫌気がさし、やがて自然と「力」もついてきた成長に乗って、ジョージは女たちの元から離れ、男たちの仲間にならんと、今知り得た言葉でそれを形容するなら――「認めてもらおう」必死に戦ってきた。しかし、その実力を持ってしてでも、「強く美しく」なったジョージに、男たちの嫉妬と嫌悪は高まるばかりだった。その中で唯一親身になってくれたガンスミスそれがとんだ、その寂しさにつけこみ、身体を求めるだけの糞野郎だったワケで。


 そこまで行って、ジョージは気付いた。俺は、あの男にとってもあの女達にとっても、ただの「犬」、いや、「ペット」でしか無かった。世話はする代わりに彼らが俺に求めるものは、彼らの腕の中で苦しむ事、身悶える事、そして甘える事、従う事。彼らの妄想の肥やしになる事。今こうしている事すべてが、彼らの下劣な妄想のモルモットとして消費されているのだと思うと、憎くて悔しくて、犬歯をむき出してそれを噛み潰したくなる。どろりと滲んだ暗闇の中に、赤を瞬かせる血は最早どっちのものかわからなくなってしまった。


 何もかもが裏目に出てきてしまった絶望の中、血のりがのった黄金銃の煌きだけが唯一に、自分が「自分」である事を「許してくれた」時のあの、硝煙をかいだ澄んだような安堵感から、十歳のジョージは悟った。


「どうしようも、なかったわけじゃん」


 それだけをジョージは恥ずかしげも無く言えた。そんな「彼ら」を、そしてそんな目にあう元凶となった「美貌」というものを、どっちももう嫌になったのだ。


「だから、俺は、俺を「相手の血」で汚してきた」


 嫌いな相手を、嫌いな自分を、あの汚いゴミだらけの街で共に汚れていく事で、「美貌」を誉める相手も、貶す相手も、恐怖に陥れてしまう刹那的な快楽に取り付かれてしまった。それによって何人にも犯されない「自分」を保ち続け、そのために戦ってきた。形容するにも限度があるその「語義矛盾」。だがしかし、それがどうしようもなくジョージだった。


 そうだ。とジョージは囁く。それは全部、全部「自分」のため。そうだ、これは自分の意志だ。 納得する様に頭に白壁を押し付けてジョージは目を瞑る。


「いやいやいや、そんな事を考えてどーする。俺がしたかったのは、あぁ、そう。キティの事」


 身体中弾を撃ち込まれ、瀕死の間際に言った言葉が、「ただの気まぐれ」ではない事を、ジョージは経験から何よりも知っている。


不細工と被写体、か細い言葉とあの壊れそうな笑顔で、囁いたキティが何を思って「俺」にそれを言ったのか。それを知りたくてたまらない。知りたくて、誰にもそれを邪魔されなくて、自分だけが彼女を事を知っていたくて。それによって、何か悟ってしまいそうな感覚を夢見てしまう。


 見ぬ振りをしていた何かをこじ開けられてしまった感覚に、途端ジョージの内から体が熱くなって金髪を逆立っていく。


「また」だ、「やめろ」


 ジョージは嫌がって歯ぎしりして拳を立てた。この立ち上がってしまいたくなるような勢いと昇る熱さに戸惑っている、息が荒くなる。それを彼女を痛めつけるイメージを想像してから、ようやく、長い息切れの中で、いつもの高鳴りに戻っていく事を意識して息を整え、昇りきって怠くなった身体がようやく眠気を誘うのだ。


 ああ、またこのパターンだ。と、ジョージは侮蔑気味に胸をかきむしって、この不快感から逃れんとした。もういい、もう今は。集中しろ。と、くの字にうずくまりながら、ジョージはただ必死になって瞼の裏に森の中でバラバラになって一面を焼き尽くした飛行機の残骸を思い浮かべた。


それは、今から二週間前ここら辺に起こったという、謎の巨大飛行機墜落失踪事件の事。


「ああ、そうだ。あれは間違いない。きっとK‐7の事だ」


ジョージはにやりと引きつった笑顔を作った。汗が上がった頬を伝った。


「K‐7がああしてブッ壊れてる間は、中にいる輩もまだ「ここ」にいるはずだ。G9をするカルカッソンヌに墜ちたのも、きっと偶然じゃねえ。朝になったら地元警官共を叩き落として、何としてもでも手かがかりを掴んでやればいいんだ」


 楽しみだな、なあ、キティ。


 ポケットから取ったあの時の髪紐を唇に寄せて、握りしめて、自身の意思を確かめるように野卑な笑いで白い歯を剥く。


 ひっつかんでやる。あいつの笑顔の訳を。そして、


「あいつが何者なのかを」


 ようやくまとめられたという心地良い気分に、やっとジョージは安堵のため息をついた。そこから微かな寝息が立つのにそれなりの時間はかかっていったが。


 ランプに照らされる、少し金髪が乱れたジョージの寝顔。粗暴による陰湿さも歪みもなく、陶器のような白い輪郭の中、曲線を描いた長い金の睫毛と狭い肩をゆっくり上下させながら、穏やかな寝息で前髪を揺らしている。それは、その時だけに現れる、生まれもった美しい青年の姿。腕を枕にして眠る彼の右の拳はやがて解かれ、白く長い指へと赤い髪紐が音も立てずに絡んでいった。

 

 意識が遠のいた瞼の裏で、ポニーテールを揺らすキティが、その膨らみのある胸を微かに見せるようにそっぽをむいていた。ジョージを真正面に捉えていたのは、その下に立ち構え鈍い光を放つカメラだ。


 そのレンズの瞬きが、立ち止まってそれを見ているだけのジョージに向かい、「彼女を知る術はすでにお前の手の中にある」と、示した事をこの時のジョージはまだ知らない。


〈中編へ続く〉







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