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第2話 インドネシア編(前編)

唯一GG5話にて登場した少女、アリイシャ。今日は彼女が主人公となる話しである。


NYの摩天楼に突如として現れ、そしてNYPDの皆に記憶の片鱗を残して消え去った少女は、故郷で今までどう過ごしていたのか―。


そこに訪れたキティと武士、新たなる世界の様相があの頃より幾ばくか大きくなった少女を通して伝えられる。



 バリ島のある島で産まれ育った娘、サンギアン・スリは、身も心も美しい乙女に成長しました。若い独身の神々はサンギアン・スリに夢中になっていました。


しかし、サンギアン・スリに恋をしたのは若者だけではなかったのです。義父のバタラ・グルが彼女を妻にしたいと思うようになったのです。しかし、これは当然、禁じられたことでした。

そこで、許されない事態を回避するために、神々は密かに相談し、サンギアン・スリを毒殺することにしました。

 

 毒殺されたサンギアン・スリの遺体が地上に埋葬されると、次々と驚くようなことが起きました。埋葬した所からさまざまな植物が生えてきたのです。

頭の部分からはヤシの木が、目からは稲が、胸からはもち米の苗が、両腿からは砂糖ヤシが、残りの部分からはいろいろな草木が生えてきました。


 天上から下界の様子を見ていたバタラ・グルはパジャジャラン王国の王にサンギアン・スリの遺体から生えた植物を大切に育てるように命じまう。以来、これらの植物は多くの恩恵を人間に与えることになり、このうち稲は人々の主食になりました。これが、稲がサンギアン・スリあるいは「デウィ・スリ」と呼ばれる所以です。

                          

インドネシアの民話より―





1、東南アジアの少女


 冬のNY。立ち並ぶ住宅街から少しはずれた丘の中腹。

そこに佇む一軒家で、とある夫婦が朝食の準備をしている所であった。


「おーい、俺にもコーヒー寄越してくれー。」


と、白テーブルの横に腰掛けて、新聞を読む夫が言う。


「はいはい。まったく身重の妻にやらせってんじゃないっての!」


それに悪態つきながら笑う妻は、赤いマグカップを2つ机の上に置いて座る。膨らんだお腹がつっかえ苦しそうに座る姿は、臨月を迎える妊婦である。


「あ、また動いた。」


とエプロンごしに大きいお腹をなでる様子を、夫は新聞の向こうから見守っていた。


「ねぇ、ポール。そう言えば今まで聞きそびれた事があったんだけど。」


暖炉の手前、コーヒーをすすりながからやがて妻が彼に言った。


「なんだ?」


と新聞をよけつつ夫、ポール・ヴォスは細長い眉をひそめ前にいる赤毛の妻、メアリーを見た。


「今から5年前の、あの「騒動」で会った耳の聞こえないインドネシアの女の子なんだけど、あの子そっち(FBI)に引き渡されてからどうなったのかしら?」


「はぁ、なんだって今更?」


と眉を潜めるポールであるが、手元に置いた新聞の「インドネシア」という印字に「あー」と納得しながら歪んだ眉間に手を当てて、アンバーの目を伏せた。


「あー確かー…あの娘、アリイシャっつう名前だったよな。アイツなら一時期医療局に引き渡されて耳の診断受けてたぜ。俺も証言者として付き合ってたから、そこら辺の事は分かる。」


「え、耳の診断?わざわざ?」


目を開くメアリーに、ポールは机に肩肘をついて説明した。


「正直あまり思い出したくもねぇヤマだが…、俺は一度あの時、プラザの奴と対面した事があったんだよ。そこにアリイシャがいたから捕まえようと手ェ伸ばした時、アイツあの白い犬の唸り声に「反応して」それに乗り込んで、逃げたんだ。そん時の事が何かおかしいって、俺が上に報告したのがきっかけだった。聾なのになんで犬の唸り声を聞き取れたのかって。」


「なるほど。それで貴方がそれにひっくり返っちゃったからあの時に逃しちゃったのね。いい気味だわ。で…それで、もう一度アリイシャ耳の診断し直したって事?」


妻として自分をよく知る彼女の皮肉に、「だから思い出したくなかったんだよ」、とポールは更に眉間に爪を当てる。


「・・・あぁ、そしたらギリギリの所でかなり判断しづらかったらしいが…、アリイシャは実は聾者じゃなかったって事が分かった。」


やがて、コーヒーをすすりながらポールは言った。


「あいつ、アリイシャは少なからず音を―、それこそ犬の唸り声のような低音ならなんとか聞き取る事が出来る『難聴者』だったってよ。それなりに補聴器を付ければ会話もなんとか出来るかもしれない―って事がFBI(俺たち)の調査でようやく分かったんだ。」


「そ、そうだったの…。」


メアリーはカップを持ったまま、その事実と喜びに声を振るわせる。


「よ、良かったぁ…アリイシャちゃん…。彼女がこのNYに来た事は、決して無駄な事ではなかったのね…。」


彼女の希望を察し溢れた涙を拭うメアリーに、ポールは端正な顔立ちを保ったままに微笑んだ。


「あぁ。強制送還される直前に、アイツにぴったりな補聴器と、もっと便利な翻訳アプリをアイパットに入れて渡してやったぜ。5年前の事だがら…あいつも、もう9歳だっけ。今頃学校に行って結構楽しくよろしくやってんじゃねえの?」


と何気なしに再び新聞を読み始めたポールに、


「ありがとう。」


と微笑みメアリーは外を見た。白く積もるNYの雪景色に息をはき、


「インドネシアも寒いんだろうけど、アリイシャちゃん元気だろうなぁ…。」


と嬉しそうにパンを頬張ったのであった。


***



 「あほか。インドネシアは年中夏だってーの。」



2月、赤道を超えたインドネアシアの温度は32℃。

空港のデッキに降りたった途端、風のように噴いて出た熱気が制服を着た武士を覆う。


「うっわっ暑っ」


と手をかざしながら進めば、金色の豪華な民族衣装を着たグラビア広告が、搭乗口出口まで導くように続いている。一方それを横目に見渡せるガラス貼りの向こうには、緑々とした熱帯雨林が隙間なく茂っていた。


「うわぁ…マジで東南アジアだ…。」


初めて見る世界に熱風による汗も忘れ、武士はガラスに手をつき魅入っていた。


そこにはつい12時間前に出発した、枯れ木が揺れる灰色の風景とはうって変わり、赤レンガが並ぶ情緒ある空港を境に並ぶ民家と、新緑の椰子の木という艶やかな景色が広がっている。


「すげぇ…写真で見たのと全然威力が違うわ…。」


と感傷に浸る間もなく、とある華やかな女性の声に目を向けば、空港の豪華な彫刻を前に、朱い民族衣装を着込んだ女性たちが、金の布掛けを煌めかせ、武士に向かって一斉に手を合わせていた。


「「「Selamat datang dari Indonesia!(インドネシアへ、ようこそ!)」」」


インドネシア語で一斉に挨拶する彼女たち。

それに驚く合間、その右端に立つ見覚えのある翡翠色の目に、武士が声を上げる時―、

女はウィンクし「秘密よ秘密」とそっと人差し指を唇につけたのであった。


***


インドネシア―バリ島。インドネシア随一の観光地である。


むせかえるような暑さの中、褐色の肌を持つ人々が車やバイクに乗り、マフラーも無しに黒煙をあげ行ったり来たり、クラクションを鳴らし背の低いビル群を縫うように抜けるという、東南アジアらしい乱雑な風景が広がっている。

そんな都会の喧騒の中でも、熱帯雨林による青々しい雰囲気は決してかすれる事はなかった。


「楽しそうね。」


タクシーの隣に座った女――、キティが分厚い口紅を拭いながら微笑んでいる。


「あ、あぁ…初めてだったからなんか刺激的で…。」


渋滞を縫うようにして進む黄色いタクシーの中から、武士は鮨詰めに詰まった市場の商品や、修理工場で働く男たち、そして大人たちがせわしなく働く合間に道路で遊ぶ擦り切れたサンダルを履く子どもたちを眺めていた。


やがて道路も空き、その脇に構える土産物屋も少なくなって、タクシーは萌葱色に広がる水田を走り抜く。そこに日本の風景とデジャヴを感じると共に、日本には決してない熱帯雨林や赤レンガの民家を武士は興味深そうに眺めていた。


「お客さん、バリは初めてかい?にしては妙に田舎な所を指名したね。」


観光客馴れしたバリのタクシードライバーが、流暢な英語で話しかける。

褐色の肌に七三分けの黒髪、白髪混じりの口髭の男はステアリングを持つ手に、金色の指輪をはめていた。


「ええ、知ってる人の所に伺う用があってね。そこの取材も含めて、溜まっている連載を終わらせようとしてるの。」


とキティは武士にも聞き取れるように、ゆっくりと答えた。


「へぇーそうなん。西洋人のあんたがこんな片田舎に知り合いを持つなんて珍しいこったねー。」


「まぁね。向こうは私の事は知らないけども。」


「へ、へぇ…?」


疑問符を頭に付け、眉を上げるドライバーの仕草にキティは微笑んだ

一方武士はその会話を聞きながら、やがて肘に手をつきふてぶてしく風景を眺めている。


「おう、どうしたジャパニーズボーイ。初めてのバリは期待はずれかい?」


「あぁ…いや。初めてのバリだから…海で泳ぎたかったって…。」


見える風景は田園と熱帯雨林の森。武士は自分が今、山に進んでいる事に気付いていた。


「あっははは!残念だけど今のインドネシアは雨季だぜ!?どっちにしろこんな時に海来たって楽しめるもんも楽しめねぇって!」


「そうか…?天気は良さそうに見えるが…。」


「今、はね。でもあと一時間もすりゃあっと言う間にスコールよっ。」


とタクシーはやがて山道を渡りどんどん勢い良く走り抜く。

それを追うように灰色の雲が迫っていき、辺りは暗くなっていった。


「あ…本当だ…。」


「だろ?まぁそう落ち込むなって。山のバリ島もなかなか良いもんだぜ?後でうまいランブータンでもやるからさ~。」


と観光客に気を遣い座席ごしに笑うドライバーであったが―、


「んふふふふ。そんな事よりタクシーのメーターをそろそろかけてくれないかしら?」


微笑んだまま呼びかけるキティの煽りに「げっ、バレてたか」と、冷や汗をかいた。


***


 タクシーの行き着いた先は山と山の間、幅広い谷間に位置する小さな村であった。


谷間から覗く空の向こうには、バリ島を象徴する アゴン山が聳えた立ちその存在感を青々として表す。


谷の坂に沿って作られた棚田には、苗が沈む太陽を浴びて黄金色に輝いていた。間に茂るヤシの木も、風にのって揺れている。


土手の草が網目模様に広がるその光景に、武士は思わず土手の端にまで身を乗り出し眺めていた。


「綺麗…。」


行く先への不安で固まっていた口角もほころび、武士は辺りを見渡している。


「本当に綺麗ね。」


と、キティもその隣に立ち、嬉々としてカメラを取り出して構える。

両手で構えレンズを回しながらピントを調節し、まずは生い茂る椰子の向こうに位置するアゴン山に焦点を合わせて撮った。

次に段々となった棚田や椰子の木を斜めから撮り、そして土手に沿って歩く牛を引き連れた唐傘の老人に向かってシャッターを切る。


「…まさにこれがバリ…って感じだな…。」


素朴な農民服を着て歩く人々を見下ろしながら武士は呟く。


「そうね!ちょっと降りるわよ!」


とカメラを片手にキティは土手に沿って坂道を下っていった。


「なんだ、お前の方が楽しそうだな。」


武士はポケットに手を突っ込みながら穏やかな面持ちでそれを見守り、キティは山間を挟む下腹に並ぶ赤レンガの家々をもっと近くから撮ろうと、道に至る所まで駆け降りていった。


「おっと…その前にこの距離から…っと…。」


と途中の道に至り、キティは今一度棚田から民家を撮ろうと左端に向かって構える。

そしてカシャリと音を立てて撮った時―、ふとカメラのファインダーがそこを横切る少女の姿を捉えたのであった。


「ん?」


カメラから顔を離し、少女を捉え直してみると、少女は褐色の肌と対照的な白いワンピースを靡かせ、棚田の端を降りていた。


椰子の葉と共に揺れる、腰まで伸びたストレートの黒髪が、ワンピースの上に沿って美しく揺らぐ。後ろ手に構えた、針金のように細い褐色の腕と脚は今にも折れそうな程弱々しく見えたが、それに反してその足取りはスキップするように軽く、そして楽しそうである。


「あら。あの子…もしかして…。」


キティは一つの確信を持って、その少女の後ろ姿を捉えた。


ファインダーの円にはまる少女と、その脇にある椰子の並木と棚田。やがて「緑と白」のコントラストを切り取ろうとした構えたその時、キティは「事件」の一部始終をも切り取ってしまうのだった―。



それは甲高いクラクションが合図だった。


少女の横、熱帯雨林から突如はみ出したのは、白い3輪オートだった。

けたたまいクラクションを鳴らしながら、そのオートは歩く少女に猛スピードでせまり、そして―、思い切り轢き倒したのだ。


「なぁぁ…!?」


少女は突然の事になすがまま、仰向けになって棚田の用水路に転がり落ちてしまう。

キティの耳に少女の悲鳴と水の弾く音が聞こえた。

しかしオートはそれをも振り切り、坂道を駆け上がっていく。


「ちょ、ちょっと待てぇえええ!!」


キティは大声を上げそのオートを追いかけた。

横切る前に端に至り、両手を広げて構えるがオートに乗った男はキティを睨みつけアクセルを踏む。


「な!私もひき殺す気!?」


考える余裕もなくキティは道の端へと一回転し、走り抜くオートを避けざる得なかった。勢い良くぬけきるオートをきっとにらみながらも、キティは慌てて視線を変え少女の元へ駆け寄る。


「おーい!キティー!何があったー!?」


異変に気付き、慌てて降りてくる武士より先に用水路を見下ろせば、泥水に全身を浸けたまま少女が呆然とへたり込んでいた。

突然の事で困惑し、涙に揺れる黒真珠の瞳、顔面を覆った泥を弾く長い睫毛。

そして小さな額についた深紅のビンディ。キティはこの時、彼女の正体が難聴の少女―、アリイシャ・ルンコレムだと確信したのだ。


一方少女アリイシャは、自分を見下ろす異国の女に気付き、途端に脅えるような目で小さな悲鳴をあげた。下着が見えるのも構わず尻餅をつき泥の中を後ずさり唇を震わせながら、


「あ、あ…。」


と、掠れるような声をあげている。ふと彼女の手元に転がる木の幹を見た時、今度はキティが悲鳴をあげた。野太い木の幹には鑿で削られた幾つの跡があり、それは正方形の形を成していた。

用水路にかけられ、アリイシャによって崩され転がった「それ」が、何であるかをキティは知っていたのだ。


「これは…かなりヤバい事件に遭遇しちゃったのかしら…。」


涙を流す黒真珠の瞳が、怯える翡翠の瞳を映し出す。少女の長い睫毛につく泥が、瞬きと共に弾く。


「キティ!一体何があった…」


「来ないで!」


突然キティは武士を差し止め、腕を振って叫んだ。


「今からすぐ森の中に逃げて隠れなさい!誰にも見つからないように、早く!」


「えぇ…なんだいきなり…!?」


「いいから早く逃げて!私もすぐ行くから!」


初めて見るキティの怒りに戸惑い、武士は慌てて端の森に向かって走った。

それと同時にキティも土手を飛び降り、用水路に固まるアリイシャを抱き上げ、駆け上がる。やがて向かいの民家から聞こえる人の声に確認する間もなく、キティはひたすら森の中に紛れ込むように走り抜けた。


「キティ!」


草の音を立てながら脇から武士が横についてきた。


「なんで逃げる必要があんだよ!しかもその女の子…!」


「後で話すから今はとにかく逃げなさい!死にたくないならね!」


「し、死ぬ…!?」


途端後ろに聞こえるは何を言っているか解らない人々の悲鳴と、喧噪、仲間を呼びかける声。

聞き取れはしない、しかしそこから尋常でない雰囲気を感じ取ったアリイシャは、ぎゅと葉に紛れる棚田を不安気に見ながら、上下するキティの肩を掴んだ。





2、村社会の掟


 2人、もとい3人が逃げ込んだ所は、森を抜けた先にある「アリイシャ」の家だった。湖の中にも根付く熱帯雨林を梯子に繋ぎ合わせて作られた家々。


湖の上に建つ家に武士は興味深く見渡すが、それを楽しむ余裕はなく、一気にそこに駆け寄って行った。


「アリイシャが…トムクを壊しちまったぁ!?」


 その一番奥に建てられた部屋―、流れる滝を背景に彼らを向かえた白衣の男が声を裏返す。

一方、泥をかむったキティは、アリイシャを膝の上に置いたまま、神妙な面持ちで頷いた。


「えぇ。しかし、アリイシャは勿論故意で壊した訳ではありませんわ。事故…というより他人のとばっちりを受けてしまった側…アリイシャは、むしろ被害者なのです。」


「…どういう事だ?もっと具体的に教えてくれ!」


アリイシャはその一連のやりとりを、手に持ったアイパットの自動通訳アプリに表示される文字列から把握していた。


情緒あれどお世辞にも綺麗とは言えない粗末な部屋に浮くアイパットに武士は首をかしげつつ、Yシャツ姿であぐらをかいてその様子を見守る。


やがてキティは向かいの白衣の男―、アリイシャの義父、オンパン・ルンコレムに自分が見てきた事を説明する。それに対しオンパンは先の尖った白髪を掻き、


「まいったなぁ」と困ったように黒い痣に覆われた右目を伏せた。


「トムクって何だ?」


見守っていた武士がそっと問いかける。それを見たオンパンは苦笑しながら、丁寧に説明した。


「この村の水はね、この溜まり池から棚田に向かって流れるようになっていて、それぞれの田圃でその水が均等に流れるように分水するための堰があるんだよ。それをトムクっていうんだ。」


武士は日本の田圃をイメージしながら、それを納得した。


「そのトムクは、昔から太い椰子の幹を用水路に挟んだ後、峯で正方形に穴を彫って作られるものなの。その穴の大きさでそれぞれの畑に渡る水の量を調整している仕組みね。」


「へえ・・・・で、それをコイツが壊したって・・・?」


指を差しながら武士がアリイシャを見る。その困惑気味な態度に指された方も、アイパットの影から武士を凝視していた。


「・・・ええ。本当はこの子のせいじゃないけれど、この子が用水路から落ちてしまったから、壊れてしまったというのは・・・事実だわ。」


キティはアリイシャの細い腕を強く抱えながらはあーっとため息をつく、

それに乗じてオンパンを腕を組みため息をついた。


一方武士とアリイシャはその様子を怪訝に見ていた。

故意無しの事故で、どうしてそこまで2人が落ち込む事があるのだろうか、と。


膝を抱えながらアリイシャはぱちくりと、キティの膝の上から武士に向かって瞬きをする。

そのアイコンタクトに気付き、武士は物言えぬ少女の代わりに身を乗り出して問うた。


「なんだ。だったらさっそく、村長でも役人の所でも行って謝りに行けばいいじゃねえかよ。なんだってわざわざ家にまで逃げ込むような事を・・・。」


「トルクを壊すってのはこの村では犯罪なのよ。」


眉間に手を当てキティが言った。オンパンも頷く。


「そうさ。ここの村人の殆どは農民だ。自分の稼ぎの糧になる重要なトルクを壊されたって聞いたら、その怒りはジャポニが想像する以上に、半端じゃないんだよ。」


とオンパンは困ったように顔をあげる。


「そうね。あのトルクの穴は年に一度彫り直すんだけど、それに立ち会う農民たちのあの顔と言ったらたまったもんじゃないでしょうね・・・。」


「ああ、そうさ。一触即発の事態だよ。1人が大きすぎると言えばもう1人がそれほどじゃないって言って、一歩間違えれば殴り合いになるくらい真剣なもんだ。俺、あの彫る奴の役なんて絶対にしたくないね!おお、くわばらくわばら!」


オンパンは褐色の肌にぎらりと鈍く光る、その農民たちの白い目を思いだし、恐怖しながら震えた。


「そう。そうやって農民たちのギリギリの妥協で作られたもの―それが[トムク」。それを一気に台無しにしたとなったら、つまり・・・・。」


「一カ月おやつ抜きにされるとか?」


『・・・おしりぺんぺん百回とか?』


「あ、あんたらねぇ…全然分かってないんだから…。」


まだ状況を理解出来ずに、武士とアイパットからでる声(CV:SofTalk)が重なった。

キティは呆れながら更に眉間にしわ寄せ、腕を組む。


「じゃぁなんだよ。何されるってんだよ。」


怪訝に身を寄せる武士とキティを真上に見上げるアリイシャに、やがて2人は頭を突き合わせ躊躇いがちに呟いた。


「下手すりゃ…撲殺ものかなぁ……。」


「は、はぁ…!?」


考えるより前に武士は声を裏返し、拳を振り上げた。


「おい、幾ら何でも冗談すぎるぞ!そこまでされる事ぁないだろが!!」


しかし2人は黙ったまま訂正しない。


「いいや、十分ありえるぞ。去年は…不作だったから尚更ヤバいんだよねぇ~…。この感じだと本当に殺しかねないかも。」


重々しい言葉をあえてか素か、軽々しく言いながらオンパンは再び頭をかく。


「そう。それ位、バリの農民たちにとって水利問題は命がけなの。むこう(日本)とこっち(インドネシア)の常識を勝手に合わせて考えないで。」


キティは汗をかきながら武士を睨み声を震わせた。


『え、私、…殺されるの?』


それにアイパットの声を借りて、アリイシャが顔をあげる。


「…かもしれないって話よ。あなたもそれなりに覚悟しないといけないかもね。」


俯きがちに見下ろすキティに向かい、アリイシャはそれに拳を口元に当てながら、淋しげに瞳を閉じた。


『残念だわ…死ぬ前にもう一度ジョージさんに会いたかったのになぁ…。』


「あーっ!!分かってない!!この子全っ然分かってない!!」


どことなく察していた少女の鈍さにキティは頭を抱え嘆く。

とその時、突然入り口から乱暴に戸を叩く音が響く。


「オンパン、オンパン!!急いで開けておくれ!」


「ひぃ…!もう追っ手が…!?」


「いや、あの声は雑貨屋のおばちゃんだ!大丈夫、あの人は僕らの味方だよ!」


ぱっと笑顔になり、オンパンは裸足のまま部屋と部屋の間にかかる梯子を軽々と飛び越えた。壊れかけの木の扉を開けば、顔面汗だらけに濡れた黒髪を乱した老婆が迫る。


「良かった…!間に合った!」


ゼェゼェと息を切らし、老婆は褐色の顔をしわくちゃに歪ませて叫んだ。


「ヤバいよ!あのトムクを壊した犯人がアリイシャだって疑いをスバックがかけてるらしい!」


「な…もう…!?」


オンパンは目を開いた。


「トムクが壊れてんのを発見するまで、色んな目撃情報からアリイシャが一番怪しいって事になったって!後は見知らぬ外国人2人がいたとか何とか聞いたけど!」


「外国人?」


「昼頃に現れ出たチャイニーズの子どもとプティ(白人)の女らしいよ!あたしはアリイシャよか、コイツらの方が怪しいと思うんだけどね…! ―て、うぁあああああ!?」


奥から覗くその「外国人2人」を見て老婆が指を差して叫んだ。


「な、なんでコイツらがお前の家に…!?え、えぇ…?!」


声を震わせ指を差す彼女を、オンパンは肩を持って諭す。


「イブには後でちゃんと全部話すけど、犯人はアリイシャでもなければこの人たちでもない。…僕たちは巻き込まれたんだよ。」


その真剣な眼差しに老婆は一旦息を整えるが、突然思い出したようにオンパンの肩を掴んだ。


「―っ、そ、それよりオンパン!アリイシャを連れて早くここから逃げな!青年団の奴らがこれからアンタらを問い詰めにやって来る!!」


「うっそぉ!」


と、アリイシャが左手遠く、暗がりの中から湖の縁に沿って動く松明の列を見つける。テンポに合わせて土を踏む音が松明の火と共に段々大きくなっていた。


「あいつらだ…!」


「ほら、早く逃げな!ここはあたしがうまくごまかしておくから!」


両手を降るイブの勢いにのって、オンパンが慌てて部屋の中へ走る。


奥に着いた先にはアリイシャを抱え、即に逃げる準備を終えたキティが立っていた。


「どこに逃げれば良い?」


「…昔の焼畑跡の寺院に逃げ込もう!そこなら滅多に人は通らないから安全だ!」


「距離は。」


「2時の方向、1キロ!!」


その指示に従い、キティは滝の中に飛び込んだ。


「キャァッ!」


湖から濡れたキティと、アリイシャが浮かび上がり、そして水面を掻き分け泳いでいく。


「武士!早く!あなたも行くのよ!」


「ちっ、ちくしょおおおおお!!」


固まっていた武士も勢いにのせてその上を飛び上がった。水の弾く音に気付き、松明がスピードを上げて近づいてくる。それを見ながら、オンパンも出窓の端に手をかける。


「イブ…!」


「早くおゆき!あたしも後で行くから!」


青年団の怒声が響く中、オンパンは両手を振り上げ黒い湖へと飛び込みそこから逃げ出した。


 ***

  


 夜になったバリ島、トムクが壊された棚田の下腹部に位置するは、村の中心地、「デヴィ・スリ寺院」である。


そこでは、クルクルの合図で呼び出されたスバックたちが集まっていた。


しとしとと雨が降る夜の空、寺院の前の用水路には村一番の大きなトムクが波々として、流れゆく水を分けている。


夜の空へ突き出るよう聳え立つ4つの五重塔。それに囲まれた神殿は、荘厳なバリ島彫刻が施されている。松明が取り囲む神殿、四方に広がる木枠の集まる真下に座る男達がいる。


やがてその中でも神棚の前であぐらをかいていた褐色の男が、徐に目を見開いて言った。その左目には痛々しい傷跡が残っていた。


「見あたらなかった…。いや、逃げ出した…と言うべきか…。」


するとその脇に手をついていた別の男が声を張り上げた。


「あぁ、ちげえねぇ!この雨に紛れて、逃げたんだ!ちくしょう!」


その声に合わせて縦二列に並ぶ農服を来た褐色の男たちが、一斉に拳を叩きつけ騒ぎ始めた。


「死刑だ死刑!」


「とっつかまえたら、俺からひっぱたいてやる!」


神殿の中に響く男たちの怒声は雨露を揺らす。その前で腕を組む傷の男は、


「しずかにしろ!」


と鎮め口を開いた。


「この村の掟では…トムクを壊した罰は村人による公開処刑となっているが…それが例え、9歳の娘だったとしても決行するか?」


「当然だ!」


黄色いヤニのついた歯を剥き出しにして、隣の男が言った。


「俺たちのトムクを壊した奴なんだぞ!?」


「前から疎ましいやつだったがもう我慢ならねえ!小娘だろうがなんだろうが構うものか!」


「そうだ。俺たちスバックの生活をぶっ壊しにした奴に、情けなんていらねぇ。」


唐傘を深くかぶった皺だらけの男の、4本だけの歯が唾液をつたった。

回りを取り囲む、細々しい、貧相な身体つきを持つスバック達の恨み言を聞きながら、傷の男はぼんやりと真っ黒に塗られた村の夜を見る。と、そこから動く松明が真正面が神殿に向かう。


「青年団が帰ってきたか…。」


その中の1つ、雨の中髪をべっとりと貼り付けた青年が祭壇に手をつき頭を下げた。


「すまねぇ!スバックの頭!村中探し回ったが娘らしき輩は見つからなかった…!」


「そうか。仕方がないな。今から探したってこの夜じゃ見つかりゃしない。」


「なら頭どうするんで。」


「明朝まで待つ。」


傷の男は取り囲む男達の視線を横に雨空を見上げた。


「この雨だと霧が酷くなるだろうが、今よりは視界も広くなろう。朝6時、青年団のみならず、スバックも残りの男たち全員かき集め、小娘と外国人の捜索を始めよう。」


「「へぇ!!」」


立ち並ぶ男たち全員が傷の男に向かい野太い声をあげた。男たちが嬉々として持ち始める鉈、棍棒のぶつかりあう音が、傷の男に「制裁」への決意を誘う。


「絶対に捕まえてやる…。」


潰れた左目を見開いた時、雨によって沁みる痛みに男、スパックの頭は眉を潜めた。





3、デヴィ・スリ


 湖から渓谷を駆け上がった先は、禿げ山の渓谷である。

焼畑休養地としてほっぽされたままの山中に、その古びた旧寺院はあった。


ささくれた神殿に色鮮やかな草花が伸びる塔、脇に構える苔むした神々の石像。

人間の手がつけられてないからこそ情緒を醸し出す寺院に、5つの人影が神殿の中に蠢いていた。


「スバック総勢で私たちを追い詰めるのか…。面倒な事になったわね。」


胡座をかき腕を組むキティが、神殿より霧をかむった渓谷の朝の森を見下ろした。


「スバック、って…?」


「村の潅漑用水の管理を行う水利組織の事さ。水を管理する事もあって、その権力は村長以上でね、スバックの声は神の声って言われる位絶対視されてるものなんだよ。」


そこからアリイシャを膝に置いた武士が、「水」かどれ程農民たちにとって大事な事であるかをようやく理解したのだった。


「そいつらが皆を率いて「今」からあんたたちを―、アリイシャ追い詰めに行くんだよ…!ここまで行ったらもう言い訳したって証拠がなけりゃ駄目だぁ…!あたしたちじゃもう止められない…!」


スバック達の会議を盗み聞きしていたイブが、その恐怖に涙ぐみ顔を覆った。


「みんな死んじまう…!田んぼの中でたこ殴りにされて、死んじまうんだぁ…!」


イブの嘆きが晴れた景色でむせかえる空気に溢れ出る。

アリイシャはその空気を感じながら涙を溜め、冷たいアイパッドを握りしめていた。


「…こんなの…どこぞの19世紀だよ…。」


頭の後ろから感じた少年の胸の震えに、アリイシャがハッと顔を上げれば武士が恐怖で顔を強張らせるアリイシャの肩を掴み、怒りに声をあげる。


「なぁ、キティ。ここって本当に現実なのか? 」


横流しに目を向けるキティに、すがるように言った。


「もしかしてここは本当は何もかも嘘で、世間知らずの誰か何かが、俺たちをただ困らせるためにとってつけたような、出来の悪いファンタジーの世界じゃないのか?ここは。」


「面白い事言うわねぇ文学少年。でも残念な事に、ここはれっきとした現実なのよ。」


「・・・・クッソ!」


口を歪める武士の背後に、朝の太陽に光る椰子の木が風に揺らいだ。

為す術もなく沈黙が流れる中でアリイシャは1人、涙を流して震えている。


やがて、その声を、その空気を途切らせたのは再び武士の声だった。


「…なら…、俺が…俺が身代わりになる…。」


オンパンとイブが物々しい少年の口調に冷や汗をかいた。


「ちょっとタケシ君!貴方今自分で言ってる事分かってるの!?」


それに対し武士は両手に手をつけ俯きながら歯を食いしばった。


「あぁ…アリイシャが殺されるよりかはまだマシだろう…。それに『俺』を犯人にしといた方が助かるチャンスがある。」


「と言うと…?」


「俺にはこれがある。」


武士にすり寄るオンパンに、武士はポケットから紺の手帳を取り出した。

金色に貼り付けられた菊の御紋、それを印籠のごとくかかげた。


「俺は日本人だ。捕まる直前にこの証を示せば幾ら怒っても手を止めてくれるかもしれないだろう…!」


驚くオンパンに向かって、武士はゆるく口角をあげる。


「この国の決まりだろうが何だろうが、外国で日本人が撲殺でもされようもんなら、俺ン家(日本政府)が黙ってる訳がねぇ。国際問題として取り出さされて、政府からこの村に圧力がかかる可能性が高くなる。」


「そ、それをスバックたちが考慮する事を狙って…?」


「あぁ。先進国の人間に手ェ出す事がどんなに面倒くさいかって、「現実」をこっちの方から叩きつけてやるんだ!奴らだってそこまで我を失う事ぁないだろ!」


啖呵を切って笑う武士だったが、パスポートを持つその手は震えていた。

武器を持って迫り来る大人の男たちに怒りの矛先を向けられながら、この薄っぺらいパスポートで本当に抑える事が出来るのか、


それを何よりも恐れ、怖がったのは言い出しっぺの武士自身だったのだ。


「でも…それで…女の子の方が助かるなら…!」


ひねり出した対応策と、せめてもの意地で保っている体の震え。

しかし、その震える胸に優しく手を添え、それを諭すように「拒否」したのは、褐色の細長い手―、アリイシャだった。


「…!?」


アリイシャは震える武士を寂しい目で、そしてうっすらと微笑みながら、震える胸を宥めるようゆっくりと撫でている。


『ありがとう。武士お兄ちゃん。貴方の勇気は忘れないわ。』


「あ…?」


見上げながら微笑むアリイシャの言葉に、武士は動揺の念を向ける。

それから避けるようにアリイシャは武士から離れ、神殿の中心へと立った。


『お父さん。イブおばさん。武士お兄ちゃん。キティさん。みんな、私のためにここまで懸命に考えてくれて、ありがとう。本当にありがとう。』



「アリイシャ…。」


長い黒髪を靡かせ一人一人に微笑みながら少女は頭を下げる。やがて、しばらくの沈黙の後、首をゆっくりと振って言った。黒髪が舞う。


『でも良いの。もう良いの。』


そして、その中から涙の跡を残しつつ、きっと古びた神の神殿に向かい合う。


『私、これからスバックの所に行って正直に言いたいと思う。私がトムクを壊したんだって。』


その決意の瞳に、途端オンパンが手をついて怒った。


「何馬鹿な事を言ったんだ!そんな事したら殺されるって言っただろ!?」


「やめて!あんたが嬲り殺しにされる所なんて嫌!絶対に見たくない!!」


文字列になって現れる2人の叫ぶ方へ向かい、アリイシャは愛おしそうに見下ろす。

しかし、その細い首筋はゆらりと横に振った。


『丁度良い機会だったのよ。』


と、アリイシャは薄く口角をあげた。その笑顔に3人が固まる。引き攣ったその顔に向かい、アリイシャは神妙に「語った」。


『私、今までお父さんに迷惑をかけっぱなしだった。耳が聞こえないから、役立たずの子どもだって疎まれていた私を、イブおばさんもかばおうと頑張ってくれて、それでいつもつかれていたのを隠そうとして―、私、ずっと知ったのよ?たとえ耳が聞こえなかったとしても、ずっと―。』


イブとオンパンは困ったように顔を見合わせた。


『知っていたのに、私何もできなかった。みんなの言葉が聞こえなかったら、結局なにも出来なかった。でも、これで終わる、そんな日々が、ようやく終わるのよ、コレで―。』


アリイシャは自らの曖昧な「死」を目前に、聊か吹っ切れたように黒い瞳を輝かせ、神殿の向こうに浮かぶアゴン山を見あげた。


『神様が託した事だったんだわ。私なんて、生きていてもしょうがない。だからみんなのために―デヴィ・スリの様に死ぬ事で村の役に立ちなさいって・・・。』


「アリイシャ、お前いったい何を・・・!?」


『聾唖の女なんてこれからどうやって生きていけばいいというの?』


悟ったような黒真珠の目に2人の背筋が「しまった」と言うように向か合って凍った。


『畑の手伝いだって出来ない、お嫁にもいけない、学校も行けないこんな私が生きてたって、お父さんやイブおばさんにこれからもずっと迷惑かけるだけじゃない。

でも、そんな事、今までずっと「子ども」だから、そこまで考える事もないんだって、誤魔化してた。でも、それが駄目だったのね。そのツケが今こうやってきたんだよね―。』


アリイシャは自らの聞こえぬ片方の「耳」を強く握りしめる。

それを自分の身体から破り取ろうと乱暴にひっぱる。自らの痛みを自分の不甲斐なさに対する罰として戒めようと。


『この耳さえ聞こえていたら―、私はあのクラクションの音に気付いて避けられたはずだったわ。それが出来なかったのは、トラックのせいじゃない。耳が聞こえない身の程を知らないで、呑気に散歩していたこの私のせいなの―。』


子どもながら語った言葉に、物言えぬアリイシャの「声」をアイパットが神妙に表した。

そのアリイシャの想像もつかなかった大人の態度に驚き、武士も、そしてオンパンもイブも、固まったまま何も言えないでいる。


そしてアリイシャはアイパッドを掲げ屈託のない笑顔で、どこかで覚えたかも知らない右手で敬礼をしながら、最後のあいさつをした。


『行ってきます。これでやっと、やっと 武士おにいちゃんにも、お父さんもイブおばさんに恩返しが出来る。悲しい事なんて―、なんにもないわよね。』


黒髪を揺らし、少女は3人に背を向ける。

背筋をのばし、そして堂々と、スバックの皆に会う勢いでその身を乗り出そうと構える。


が、しかし―


「アリイシャッ!」


「!」


アリイシャは、一瞬この「時」を疑った。

何故音の聞こえないはずの自分が、後ろにいる女の怒声に背中を震わせたのか―。


波紋のように響いた声の主、―キティはアリイシャの驚いた瞳をキッと翡翠の目で睨み付けた。


「・・・さっきから黙って聞いてれば何、分かったような口を聞いてるのよ・・・。」


『キ、キティさん・・・!』


腕を組み胡坐をかいたキティの、その鋭い翡翠の瞳ときつく結ばれた口元が震えている。アリイシャはこの時キティが本当に怒っているのだと、その空気の余波で感じ取った。


そしてキティは声を張り上げてアリイシャを叱った。


「自分の理不尽や不幸を、全部『耳』のせいにするのはおやめ!そうやって勝手に自分で納得していた事が、悪い所だって事に何故気づかない!?」


そして、床を叩き潰す勢いで拳を立てて言う。アリイシャがこの世に生を受けてから一度も言ってくれなかったそれを、見知らぬ外国人が、言った。


「悪いのは貴女じゃない! 耳が聞こえないのも悪い事じゃない! 次にそんな事言おうもんなら八倒してやるからね!」


『ヒッヒィ、ごめん……なさいっ!』


アリイシャはこの時、キティの声の震えとその鬼のような表情に怖れ、慌てて謝った。

しかし、その怒声に対し言った言葉そのものは―、


「それから武士ィッ!」


「え、ええ俺ぇ!」


「そう!あんたよ!そうやって日本人とかいう枠で自分を語るのもやめなさい!!日本から逃げて行ったアンタが今さら何を言ってるの?!アンタはもう鈴木武士以上でも以下でもない!貴方は貴方よ! それを忘れないで!・・・アンタもそういう事言ったら今度こそ、その鼻折ってやるからね!」


「え、えええ!?」


見たこともなかったキティの憤怒の形相に一同は困惑し、固まる。

キティはその間に怖れ震えるアリイシャの横に仁王立ちして声を張った。


「みんな色々思う事はあるだろうけど、決まっている事はただ1つでしょ!? 幾ら村の男たちが何言おうが関係なく、アリイシャは絶対に殺させない! 男だろうが日本人だろうが関係ない!武士にもその罪を背負わせない! 2人共何としてでも逃げ切るつもりで構えなさい!いいわね!」


「『「「「は、はい・・・!」」」』


有無を言わせない怒りの声に全員が背筋をのばして応答した。


「で、でもキティ、これからどうやって・・・アリイシャ達を守ればいいんだ・・・!?」


と、汗をかき問うオンパンに対し、キティは深い息を吐いた。


「それは・・・・・。」


そして、突然筋力が抜けたように激しい音を立てキティは胡坐をかいて座り、腕を組んで前を向く。目を伏せたその顔に一筋の汗を流しながら、やがて言った。




「・・・・私が身代わりになればいいのよ。」



「「「いやそれが一番駄目だろ!」」」


「アンタ今まで話聞いてた――――!?」


「それ、同じことでしょ―――――!?」


オンパンと武士が思わず片足を踏み出し、拳と指を突き出して叫んだ。


「言ったよね!9歳の女の子を躊躇なく殺す勢いなんだよ!? 正体不明の外国人女が犯人だなんて、絶対に殺されるわ! 殺す気マンマンになるわ!」


「ケッ。私だって別に殺される前提で、こんな事言ったんじゃないわ。」


と辺りの熱帯雨林を恨めしく睨みながら、胸の中から黒い物体を取り出した。

アリイシャはその横で、それがあの時自分を撮っていたカメラだと知った。


「私はあの事件の一部始終をこのa-7でいくつか撮影したわ。これを示して、アリイシャが実はオートに轢かれて飛び込んだってのを示せいいのよ!」


「―なら何だって最初からそれを」


「フィルムカメラなの、コレ。」


「ハーン・・・で、ここに現像室は…」


「「カメラを持ってる奴さえいねえよ。」」


一同が顔を見合わせてため息をついた。


「だから、誰かが山を下った町に行って現像するまでの時間に、私が犯人として逃げ切ればいいんだわ。」


キティはカメラを掲げながらイブを見る。イブはその目線に力強く頷いた。


「そうだね。あの人集りを通り過ぎるのなら、あたしが行くのが最適だ。」


「かかる時間は?体力は?」


「日が沈むまでの間だね。正直この身でしんどいけれど…アリイシャの命がかかってんだ!地を這ってでも行くよ!」


キティの手からカメラを受け取る褐色の手は、力強くそれを握る。


「じゃぁあたしはもう行った方がいいね。あたしが戻るまでにみんな…絶対に無事でいなさいよ!」


「約束するわ。」


『イブおばさん…ごめんなさい…私のせいで…』


とアリイシャは涙ぐむが、突き刺さる翡翠の視線に身を震わせ涙を散らし言葉が途切れる。

そうして心配そうに見上げるアリイシャの頭を2、3回優しく撫でてイブは立ち上がった。


「ありがとうイブ!」


オンパンの掛け声を最後に受け、緑の中に飛び込んでいったイブであった。


「…っと。そうと決まったら、『犯人』は『犯人』らしくとっとと逃げ出しましょうかね。」


「キティ…!」


「あら、貴方たち。『犯人』なんかかくまってたら同罪にされちゃうわよ?」


とわざとらしく手をふってキティ立ち上がる。追われる身を請け負いながら、飄々として神殿の段差を飛び降りる様は、3人に一時の安堵を与えた。


「…みんなはまだ暫くは身を隠していた方が良いわね。もし、見つかったら口裏合わせて難癖つけてでも「キティがやった」って言って頂戴。」


「分かった!」


「…じゃぁ…そろそろ私は行くわ。」


振り向き際に少し微笑み、キティは大仰にポニーテール振る。

そして何も言わないまま走り出した。まるでそれは「別れの挨拶はいらない」と言わんばかりに。


『キティさん…ごめんな…いえ、ありがとう…。』


アリイシャは疼く胸に手を当てその勇姿を見守る。その疼く胸にはもう1つの気持ちがあった事を、まだアリイシャは興奮に駆られ気付かなかった。


「・・・・なんだかなー。女ばっかり動いてもらっちゃって、男としての面目が立たないねぇ武士君。」


ふとオンパンはつぶやく。


「お、俺はちゃんと一度身代わりになるって言ったからな!」


一方それに膨れる武士の頭をオンパンは笑いながら撫で、そして彼とアリイシャの肩を掴み、2人を守る事への示しとして、自分の方へと引き寄せたのであった。



〈後編へ続く〉


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