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第8話 エジプト編(前編)

 ポーランドでの決別を経て、遂に至るアフリカの地。新たに集う者たちは其処からムンダネウムの正体を少しずつ知ることとなる。


 そして今回、ここで彼らは戦いの中で知り得なかった、それぞれの思いを分かち合う。それは、多大な後悔と痛みと哀しみを伴いながらも、彼らは止めない。止められるはずもない。なぜなら、これが終わればもう二度と出来ないのだから。


 アフリカ編、その始め。最終回まで後、2話。

戦争を語るにおいて、避けるべき二種類のニヒリズム的論法がある。


一つは、地獄のような戦争を早く終わらせるためなら、どんな手段でも選んでもよいとする論法。そしてもう一つは、戦争に突入した以上、私たちは皆有罪という同等の立場にあるのだから、誰も他人を非難できないとする主張だ。


             ジョン・ロールズ(原爆投下はなぜ不正なのかより)


一、カリーニング7の最期


 二月の時節と言えど、そこに極寒の文字はいらない。そこは、石木の影が深く差し込む大砂漠だった。灼熱の太陽の下、双翼の巨大な影が砂漠の丘から突然ぬいと現われた。


 刺さるような陽射しを背に受けて、傷だらけの艦体は、数多の傷から白い光を歪ませて、様々な角度で瞬かせている。軋みをあげながら回り続けるのは、四連装のプロペラだ。


 鋼鉄の骨組みが所々剥き出しとなった翼と、剥がれたまま垂れ下がる残骸たちが機体を不安定に揺らしつつ、そんな満身創痍の出で立ちでありながらも飛行機は快晴の空を求め、機首を擡げて泳ぎ続ける。 


 黒の一線が縁取る、空と砂漠を分ける地平線の向こう。真ん中の辺りに見えるのは、珊瑚礁が如き峰々の、銀に光る幻影だ。飛行機はそれをひたすら追い求めていたのだ。



 晴天を貫く細長い白の巨塔――、名はアウトルックタワー。その階上から、遠くに揺らめく飛行機を見据える者がいる。差し出された黒い双鏡の望遠鏡をかけ、飛行機の状況を見守っている黒髪が艶やかな癖っ毛の男は、ぼんやりと口を開いてこう言った。


「本当に来やがったなあ」


 男は、煩しく英語が纏わりつくイヤホンを片手で投げ捨て、それから双眼鏡さえも投げ捨てて、タワーの窓辺に向かって大股に歩き出した。


「迎えに、いくとしようカ」


 強い陽射しに際立つのは、剥き出しになった白い肌。透明な肌に似合わぬ逞しい筋肉の束を縁取るのはトライバルの刺青いれずみだ。男は、目元まで覆う癖っ毛を指で拭って掻き分けては、汗で目元にぬらめく鋭い鼻筋から皺を微かに浮かび上がらせた。


 そして、男が向かっていく毎に、空に浮かぶ飛行機もみるみると造形を露わにする。両側についた翼の線が見えるころになると、そこから一気に急降下をする。


 海を越え、人工島の縁に至った飛行機は、鏡張りに広げられた太陽光発電パネルに、銀色の姿を映し出す。すると、それからすっとパネルに沿って下れば、それからけたたましく機首がパネルを砕き、破片を幾重に舞い上がらせて堕ちたのである。


 砂漠の幻影に揺らめく摩天楼を貫き、粉塵を巻き上げて突如迫ってきた飛行機に、どよめく周りの者たちは、怒濤の音によって悲鳴をあげて逃げ惑う。その人の波を押しのけながら男は、座礁した鯨の如く、傾いた飛行機へ駆け抜けていった。


***


 希少な太陽光パネルを幾枚もすり潰して不時着した謎の飛行機は、からからと烈風を回すプロペラ以外動かなくなった。煙は吹き荒れても炎の気配はなく、たどり着いた男たちは、散らばるパネルの破片をミリタリーブーツで踏みこえ、時には踏み割りながら覚束ない足取りで上下左右に飛行機の側を取り囲む。すると、出入り口に辿り着いたところで、先頭に立つ刺青の男だけが、辺りを銃口で固めてから一気に鉄の扉を引き開けたのだ。


 ぎいっ、と、鉄の取っ手をも握りつぶすほどに、盛り上がった腕の筋肉を曲げ、開けた扉のその向こう。それは、外の明るさに相反して闇が覆い、引き千切られたコードが開かれた拍子でゆらゆらと垂れ下がった。ホラーゲームの一室にも似た古びた暗い艦内には、壁に飛び散った血痕の跡が見え、それから蒸せ返る人体の匂いが漂う。そして極寒の時風を思わせる、東欧の空気がひんやりと男の髪を靡かせた。


 すべてが異世界のそれと化した雰囲気の中を、ぶかぶかのカーキーのズボンに両手を突っ込みながら、男は悠々と踏み込んでいく。両壁に張り付いた血痕をその丸い目で見渡しながら辿ると、自然と行き着く先はその突き当たり――、割れた窓縁に頭を傾け、仰向けに倒れている痩身の男へと行き着いた。


 倒れる男は、細長い四肢を放り投げ、脇腹を節々とした白い手で掴んでいる。その指の隙間からはしとどに血が流れ、蒼白になった顔はいかにも死人の色であったが、深く刻まれた隈は吐息によって微かに薄濃し、その銀色の穂先はまだ熱のある汗で額に滴っている。その脇に仁王立ちした男はほう、と、自らの口元を掌で擦りながら感嘆した。


「すげーナ。いつも死にそうな顔してんのニ、ここぞとばかりに生きてるんだねエ、死神さんよ」


 眼下に倒れる血塗れの男を呼ぶ彼は、気遣う素振りはなくとも、とりあえずは、と、言ったように片手を掲げ、入り口に待つ部下へ医療班を呼ぶように命令した。それから男は、片膝を立てて蹲っては、小さな肩を繰り返し上下しつつ、何も言えないまま息を繋ぐ負傷人に手を差しのべる。


「ま、いーヤ。改めて名乗る必要もないケど、一応名乗っとヨ。俺の名はホセ・シモン・アーンズ。赤の救世主の呼び名の方が有名かナ。はじめまして死神さん。いや、君にとってしチャ、ここで会ったがヒャクネンメって奴か? はっはっは」


 と、息も絶え絶えの者を前にしては、あまりに無節操な笑い声に、死神と呼ばれる男は、瞼を微かに痙攣させつつ眉間に一筋の皺を為して、目を開く。それに男――、ホセは、にっこりと口角を引き上げて、やがて目を細めながら、次の言葉で彼を向かい入れたのだった。


「ようこそ、ムンダネウムへ」


 結局、最後まで上手く着陸が出来なかった飛行機、K-7は、かつて極寒の地に生まれ、異国の土に埋められてたという数奇な運命を乗り超え、此処で遂に物語の舞台を降りる。


 「空の世界を真っ当出来て、これこそ飛行機の本懐」と、言わんとばかりに、威風堂々とプロペラで空を掻き回し、それからやがて軋む音を立てながら止まり、その音を最後の声として生涯を終えたのだった。


 それは、長く閉じ込められていたリマの地によく似た、草木の生えぬ地、アフリカで。


二、アフリカ大陸の入口で


 長らく、キティとジョージ双方の因縁の舞台であったヨーロッパを離れ、海を越えて彼らが訪れたのは、アフリカ大陸の入り口とされるアフリカ最北端、エジプトのアレクサンドリアであった。

 

 古代エジプト王朝の都市であったと共に、ギリシアの植民地であったこの紺碧の海が美しい港町には、白黄土の様々な遺跡や文化が残っており、人々は海の煌めきをその目に映しながら、今日も白い砂浜を歩き行く。


 その景色を最初は武士と共に、沖のフェリーから身を乗り出したキティは、かつてあったと言われのある、大燈台の白き塔を見据えるように港町を眺めていたのであったが――、呑気に観光をしている立場であるはずがなく、着いた途端に武士と引き離され、真っ白な部屋に拘留されてしまった。 


 そこで始終、今までの逃亡劇の間に手に入れた情報をマルコム側に吐き出されていたのであった。


「つかれた……」


 間もない尋問の数々に、猫背となって部屋の中に戻れば、ベッドの上に腕をのばしながら、仰向けに倒れ込み、陰鬱な溜息をついた。


しかし、伏せる瞼も、眠りにつこうと緩む眉も自ずと穏やかになっている。それは捕まることによって、皮肉にも絶対的な身の安全は確保された、その安堵が自然と滲み出たのである。

  

 キティは思い出していた。ジョージと久しぶりに、否――、初めて真正面から対面したときのことを。その時、彼の美しい声と綺麗な青色の瞳に引き寄せられ、その方へ一歩踏出みしたのであったが、脇の相棒が自分の腕を掴んで留めた。

 

 振り返れば、眼孔を震わせる黒い双眼が、闇夜に紛れず縋るようにキティを映している。それに戸惑っていると、真っ先にヨーナスがジョージの元に駆け寄ってはその腕を抱き、高珊やミナも続いて肩を抱き、後からフロランスが飛び込んでジョージに抱き着いたりと、互いにすっかり取り付く島もなくなり、キティは武士に引っ張られながら、黒だかりから遠ざかることしか出来なかった。


 そして今まで、キティはまだジョージと会っていない。


 一方、キティと対照的に、疲労をおくびにも出さずに廊下を歩く者がいる。それは、トレードマークのカーキー色の陸軍服を着込む、背の高い褐色の男である。彼はその猛暑にも関わらず皺のない長袖を伸ばし、隙もない出で立ちで脇の者らを並び立たせ、白い廊下に甲高い靴音を鳴らしていたのであった。


 後から追う者どもはその長さ故、やけに歩調の速い彼の跡を辿るのに必死で、汗をしとどに流しながら蒸せた中で息を荒げている。そんな彼らを他所に、男は息を吸う仕草さえなくどんどん前へ進んでいく。そのアメリカ、フランス、ポーランド、そしてエジプトと、どの場所においても全く変わらぬ様相は、回りの白壁が実は唯のスクリーンで、様々な世界の景色はその上で流れてただけかという、錯覚に囚われるほどであった。


 さて、一行を引き連れた彼は、天井の広い部屋に入っていく。そこは、施設の監視室であり、向かい一面には様々な場所を移した監視カメラの映像が広がっている。その前で粛々と仕事をこなすオペレーターたちの前へと踏み出して、男は腕を組む。喉仏を尖らせ、そして端正な鼻筋を少しひしゃげて見据えるのは、右横一列に同じ映像が並ぶ、白い部屋の一室である。


「彼女の言っていたことは、全て本当なのだろうか」


 やがて呟いた彼に、横から恰幅の良い男が、手元の書類を広げながらあやふやに微笑んだ。


「え、ええ。我がブラックパンサーよ。分析結果によれば、あの女が今まで言ってることは、我々が知り得ていたことと、全て辻褄はあっていますし、矛盾もありません。今更嘘をついたところで何になることをも考慮すれば、疑う余地はありませんな」


 ブラックパンサーと呼ばれた男は、腕を組んだままゆっくりと頷いた。


「よかろう。さすれば、我々は今までになく、良い情報を得られたってことになるな」


「左様で。我々が束になっても得られなかった数多な事実が、たった一人の猫の頭ん中にあったて言うのですから、驚きですね。こいつは、とんでもない掘り出し物でしたぜ。しかし、ブラックパンサー、こんなどデカイ獲物を如何様にして手に入れたんです?」


部下の問いには「まあ、ちょっとね」と、肩を竦めながら、男は薄い口髭を揺らめかすだけに留めたのだった。


「まあ、そんなことはともかく。そうと分かれば早速、他の奴らにも与える機会を作ってやろう」


 すると今度は重々しげに、彼は部下の名を野太く強めに呼んだ。


「リンク、明日、適当に場所を作ってくれ。そうだな、景色の良いところを。其処で皆を集めて、情報交換を行いたい。そうした方が、彼らにも思いのよらないところで、何かを引き出すかもしれないしな」


 と、続けて男はその相手の名を挙げる。


「キティと、ヨーナスと、ブリくん。高珊ちゃんとミナちゃん、そして」


 と、一旦言葉を詰まらせつつ、やがて咳払いを発した後、呟いた。


「ジョージを其処に揃えてやってくれ」


 それに部下――、リンクも懸念に眼を凝らして彼を見上げる。


「……ホントに、彼らにこんな機密をバラしてしまって構わないので?」


「構わない。いや、その彼らこそが、私にとってこれからの重要な一手となるのだ」


「な……」


 それから目を伏せて、ブラックパンサーことマルコム大将は呟いた。


「その時が来ても、変わらずお前はついてこいぞ」


「あ、いや、はい。それは勿論……」


 意味深なブラックパンサーの問いに、とりあえずは頷くリンクであったが、それから踵を返し立ち去った広い背広を追い、書類を握る彼にはまだその真意を知れなかった。


「それにしても」


 やがて残りもブラックパンサーを追い、管制室にはオペレーターしかいなくなったころ、その内の一人が野卑な笑みを浮かべて言った。


「水回りにはつけていないとはいえ、こんな監視された部屋の中じゃ、女だとさぞかし辛かろうなあ」


と、大の字に涎垂らして眠る栗毛の女を見上げては、オペレーターは無意識による彼女の阿呆面に嗤う。すると、今まで沈黙を保っていた隣の同僚は、仕事に興じたまま、ぼそりとこう答えた。


「いえ、まるでやっと最強の盾を得られたとばかり、かなり好き勝手にやってますよ。盗聴されてると知れば、それからはずーっと、あれやれこれやれと、煩い注文ばかりです」


***

 

 数日後。吹き抜けのロビーが用意されていた。無機質な白い壁が四方に囲むだけのロビーには、まるで放り投げられたように情緒もない同じ色のテーブルとイスとソファが散らばり、壁に張り付いたテレビの画面が瞬いている。


 それを横目に見ながら、今だ寝ぼけた目を擦る男、ヨーナスが目の前のガラス張りに照り返る真っ青な空と、その眼下に広がる白い建物の煌びやかさに目を細めた。アレクサンドリアの陸の光景もなかなか見ものだと、酸素の足りない頭の中で、素直に美しいと感じていたのであった。


さて、そうして微睡むヨーナスの隣で、髪を伸ばしっ放しにした小柄な女性――高珊も、いつもは可愛らしい様相を今は腑抜けにして、ずるずると彼の肩にもたれかかっている。一方でその向かい隣の浅褐色の少年、カマラに至っては、自らの深緑色のストールをアイマスクに、涎垂す口を開きながら、ヨーナスの膝を勝手に枕にしているのだった。


 ヨーナスはため息をつきつつ、それぞれの肩を抱いていると、その様子に突然笑い声が振りかけられた。ヨーナスがソファごしに後ろを見遣れば、マルコムが悠々とこちらに向かって歩み寄っていた。


「はっはっは、悪魔の方はお呼びでなかったつもりだったがなあ」


「あっ……! マ、マルコム大将……!」


と、立ち上がり敬礼をしようとしたヨーナスを、「高珊ちゃんが可哀そうだろう」と、片手で差し止めたマルコムは、ソファの横を通り過ぎ、青空を背後に立たせてつつ、腰に手を添えながらにこりと笑う。


「悪魔と野犬、か。肝っ玉はどうやら彼の方が上のようだがね」


笑うマルコムに、ヨーナスは目を伏せながら答えた。


「世間知らずな馬鹿なだけですよ」


「そういうのが勇敢、と、いうのだよ」


 それに対して、眉を緩めて白い歯を微かに覗かせたマルコムは、やがて顔を徐にあげては、


「な、まるでお前のようにな」


 と、言う。するとそれに「何か呼んだか?」と、訝し気な若者の声が聞こえて、ヨーナスが振り向く。すると、裾の長い黒のコートを靡かせる顔立ちの整った青年が、逆立てた金髪を揺らしながら、懸念に片眉をあげてマルコムと対していた。


 スラックスのポケットに手を突っ込み向かってくるその隣には、遠慮がちに腹の下あたりに両手を添え、黒髪を伸ばしたままの女性が付いてくる。


 二人を交互に見据え、「ジョージさん、ミナさん」と、それぞれ名を呼んだヨーナスを一瞥した青年――、ジョージの方が、行く手を阻むソファを靴先で蹴り飛ばし、テレビがよく見える方へソファを転がしては、大仰に腰を下ろして長い脚を組み交わす。その横にそそくさと身を乗り出した女、ミナも両膝を揃えて脇のソファに座った。


 次に、鶯色の制服を整えた小柄な少年が続き、ジョージなどまるでいないかのようにさっとその背後を通り過ぎ、ヨーナスに小さくお辞儀をしながら現れる。続いて、数多のお供から抜け出し、その少年の肩を抱くは、禿頭の丸眼鏡のご老人だ。ヨーナスらにぴらぴらと手を振る見知った男の姿に、ヨーナスは再び立ち上がりかけた。


 それはその一見平凡な男こそがこの中でマルコム大将に準ずる、いやそれ以上にステータスの高い位置に立つ日本の首相、田中来栖であったからだった。そうしてマルコム、ヨーナスの周りに集まっていく者たちの中で、遂に真打もたどり着く。


 それは、誰の側へとも寄らず、ジョージの斜め後ろから一直線に向かう影だった。一斉が振り返ったとき、真打は顔をあげ、目配せをした。


 それは灰色のワンピースから、くびれの滑らかな曲線と胸の影をはっきりと見せる様相を見せ、毛先の荒れた栗毛を伸ばしっぱなしにした女であった。


 それに、ずっとテレビを見ていたジョージも、ソファの背もたれの側からちらり、と、青い瞳を向けて彼女のその翡翠色の瞳を見た。そして目端に瞳を向けて姿を追う。やがてロビーに揃った面々の中央へ、女はガラス張りの縁から身体を向けてはすっと息を吐いて言う。


「これで、全員かしら」


 そして、彼女の額に流れる一筋の汗の煌めきを、蒼い瞳はじっと見つめ続けていた。それは彼と向かい合うように立つ、少年の黒い瞳も同じだった。一方でマルコムはそれに対して深く頷いて答える。


「よし、いいだろう。皆、このときのために、よく来てくれた」


「なあに言ってんだい。みんな君の命令に逆らえないなんて、とうに知ってるくせして」


 無遠慮に言葉に添える田中には息を吐いて答えつつ、マルコムは顔を素早くあげて仕切り直す。


「それはともかく、此処に君たちを呼んだのは他でもない。これからの私が為すために必要なことを、教えてもらいたいためだ」


 それにヨーナスは身構えた。


「そ、そんな。そんなことを私たちが持っているとでもお思いで?」


 すると微笑んだまま、マルコムは滔々とその懸念を一蹴する。


「そんなことは君の決めることではない。とにかく、余計な口は挟まなくてもいいから、君たちは唯、自分が思う通りのことを話してくれれば良い。そのためにはまず、私から手駒を出さなければ、な」


 片手を翳し、マルコムは語り始めた。


「我々アメリカは今、着々とムンダネウム壊滅の為に、秘密裏に軍備を拡張しているところだ。正式な公布には議会の承認が必要になるが、それは最早時間の問題でしかない」


 威勢の良い声を張った後、ジョージが見ているテレビを睨む。丁度、その議会中継が展開されている場面であった。


「ベリャーエフ議員が不在となった今、我が国の反対派の勢力はズタボロだ。様々な根回しと攻防の経緯は省略するが、ギルモア大統領たっての願いにより、 彼の目標期間として定められた五年目になった今、遂にそのときは来るだろう」


 その言葉に、テレビを見るミナは膝の上でぎゅっと裾を掴み、ジョージは人差し指を伸ばしてこめかみにつける。それから一旦、マルコムは息を吐いて続けた。


「そう、それは、ムンダネウムをテロリスト組織として認定し行われる、二十世紀最大の紛争、がな」


 紛争。


 その言葉に皆が沈黙に俯く。テレビの音が大きく響く中、その中で唯一、紛争を直に知る者の黒い瞳が澱んだ。


「……その建前は、『各国家の中枢組織に不正にアクセスし、個人及び国家の機密を不法に盗用、悪用せした罪に併せ、度重なる勧告にも一切の妥協応じなかったことによる制裁』と、いうことになっている」


「うっは。そうやって長ったらしく抽象的にして理由を暈す戦法って、うちだけのお得意芸かと思ってた」


 と、また、横から腕を組んで茶化す田中の袖を、武士が強く引っ張て無言で咎めた。


「しかし、どんな万全と準備をしたとしても、必ず勝つとは言えないのが紛争のそれでもある。それに我々には未だ、一抹の不安も拭えないでいる」


「その不安というのは?」


 ヨーナスの問いに対しマルコムは、先のG8で話されたムンダネウムの脅迫状や、また魔女の不可解な正体などを取り上げた。


 まだテレビの画面でも現れていないその事実が語られてゆくのを、悠々と眉をあげて聞き入るは田中一人だけである。やがて皆が目を逸らし合う中で、ミナが肘を直角にして手を上げては、その流れを変えた。


「では、代わりに……、今まで分かってきたことはないのでしょうか?」


 すると、それにさすが元政治家の秘書と言わんばかり、良い質問だとウインクしたマルコムは、それから急に溌剌とした声で、キティの方へと歩み寄る。


「そう、今日の戦術に何ら影響を受けるものではないが、この戦争の意味づけを知るにおいて、そしてムンダネウムの正体を理解するにおいて、それなりに情報を得られることが出来た。それは、彼女の登場によってな」


 そこから、キティは勢いよく背筋をのばす。しかし、今だ開きかからない相方の硬い唇を察し、それから時解くように武士が言葉を繋ぐ。


「キティは、俺がカルカッソンヌでマリアらマフィア一行共に人質として囚われたとき、俺を引き取る代わりとして、今まで彼女たちに拘束されていたんだ。で、その間に奴らから色々話を聞いたんだ。ムンダネウムが出来るまでのオーディンの生涯を、如何様にして二人が出逢い、そしてGEORGEが、ムンダネウムが出来上がったのかというのを」


 「そうだろ、キティ」と、穏やかに諭す相方に促されて、キティは、肩で息を吐いてはうん、と、答えて前へ歩き出した。一方で、武士の無節操な物言いに戸惑うヨーナスは、武士の冷たい視線を追ってジョージを見やるも、彼は相変わらずテレビの反射で、その端正な顔の縁を瞬かせるだけだ。


「さて、これからそれを説明してくれるな?」


 やがて、腕を組みガラスに背を付けたマルコムが諭せば、キティは分かったわ、と、小さく答えた。それから拳を握り、キティは適当な間を置いてゆっくりと語り出す。思い起こす形で綴られたそれは、何も知らない者に対しても無駄もなく、漏れもない、程良い形で紡がれた。


 それはさすが、三文だったとはいえ記者の技巧と相まってか、怖いくらいに青く広がるアレクサンドロスの景色の向こうに、曇天の空と、すす汚れた瓦礫の街をありありと思い浮かばせたのだった。最も、その技量は彼女の産まれたときから育まれていたなど、背を向けて聞くジョージ以外には、知る由もなかっただろうが。


 それからどれだけが経ったろう。その衝撃な事実にのぞける者たちの前で、キティは唇を閉じた。一方で、ヨーナスは思わず拍手しかけた手を掲げてはあっと声をあげる。


 皆が思い耽る気まずい合間に、ヨーナスはあたふたとジョージへと振り返る。


 彼女がマリアから引き継ぎ、今こうして此処で繋がれた話は――、ムンダネウムの創始者、ゲオルクとマリアの歴史であり、そしてジョージの父と母の話、ひいてはジョージの歴史でもあったのだ。


「でも、それ以降の、戦後からムンダネウムが出来るまでの経緯を知ることは出来なかったのですね」


 しばらくの沈黙の後、ミナが小さく呟くと、キティもそれには深く頷いた。


「ええ、其処まではマリアたちの手腕でさえも手に負えなかったことみたい。知れたのはそれ以降、ムンダネウムの断片的なことしか辿れなくて、ずっと魔女のせい、魔女の仕業だと口惜しく怒っていたわ」


「そうですよね。そしてよりによって、その魔女からの口封じに無残にも……」


「そうね……」


 ミナとキティが同時に俯く姿を見て、武士は別の思惑が篭る苦悶に呻いた。すると、彼の鼻先を横切り甲高い靴音が軽々と響いた。高い背筋を張り、逞しい胸板を陰影に浮かばせるマルコムの威勢であった。彼は片手をぴらぴらと振りながら目配せて武士に言う。「そのことに関しては、私に任せろ」、と。


「ありがとう、キティ。君は私のシナリオ通りにうまく言葉を繋げてくれた」


 そこからは、皆に呼びかける声色で、マルコムは言った。


「さて、みんながそれから知りたがっているであろう、ムンダネウムに関しての話はどうやら我々が一番情報を掴んできたようだな」


後ろ手に拳を握り、キティへ颯爽と歩みながら、言う。


「君の持っているそれと掛け合わせてみたら、まるで新しい物語のように事実が紡がれていったぞ。それをキティ、君と一緒に此処で初めて産み出してみようか。君にとっても新たな目覚めとなる、次の物語を」


 それは、えらい口説き文句にも聞こえるが、キティは戸惑う素振りもなく、淡々と彼を見上げるだけだ。それに、マルコムもはんっと鼻を鳴らし薄ら笑っては、徐に首を振った。


「まあ、良い。余韻が冷める内に始めておこう。どのようにして、ムンダネウムがその何もなくなった戦火の中で産まれ、どんな思想から、そしてどんな者によって形作られていったかを」


 神妙に汗を垂らし、それを見守る視線からはものともせず、マルコムはやがて目を細め、小さく口を開いて始めた。


「君が証言したマリアの記憶を辿る中で、其処出てきた、若き日のオーディンを連れ去った者は彼を慕う部下たちの手であった。彼が次の意識から目覚めたのは、空襲で焼け果てた故郷ベルリンで、辛うじて残された病室であった」


 マルコムは話を続ける。


「奴にとっては、幸か不幸か分からなかったが、またそこでも生き長らえたのだ。しかし、全てが終わった奴に残されていたのは、守りたかった故郷の悲惨な焼け跡の景色と、唯一の肉親だった母親の、空襲による被災死を告げる非情な通知書と、そして、嘗て持て囃された自慢の美貌と逞しい身体が引きちぎられ、ぼろぼろにされた身だけだった。包帯の隙間、残された左目が見た格子向こうの景色には、何が映っていたことか、想像に難くないだろう」


 キティは目を伏せた。あのとき、そしてもう二度と交わらない瓦礫を彷徨うゲオルクとマリア。その視線の辿りを翡翠の瞳が今、一直線に繋げた。


 晴嵐なるエジプトの空を見上げて、キティはあえて、ポーランドの、紺色と橙色の色彩が美しい夕焼けを思い出した。やがて一筋の太陽の光が瞬いて彼女の視界を覆ったとき、キティは唇を苦々しく噛み締めて目を瞑った。ああ、この話はやはり彼女も聞くべきであった、と。


「しかし、誰にも見返られることがなかったならば、奴はそこいらの路傍の石となった潰えたはずだろう。だが、そうはならなかった。彼がベルリンで目を覚ましたとき、そのベットの脇にはまだ、彼を看取る者がいたのだよ」


 意味深気に目を閉じたマルコムへ、ヨーナスが身を乗り出す。


「看取る者って……、母親が亡くなって天涯孤独となった彼に、今更一体誰が……?」


「それは二人の、若い男と年老いた男の影だった。年老いた方の男の名は、ヘーゲル・ブロンベルク。そして、若い男の方の名は ……カルク・コーヘン」


 キティとヨーナスは同時にマルコムを見上げる。対して彼は、黒い瞳を淀ませて含蓄を込めた仕草で頷いた。


「ああ、今まで、私たちはこの二人が、オーディンと何の因縁があったのかを知ることが出来なかったが、キティの話で今こうして分かった。カルク・コーヘン、それはオーディンがその身を挺して守った、敵国の男の名だったのだ……」


「では、では……! ヘーゲル・ブロンベルクというのは……!?」


「我々の持ち得る情報によれば、その男は腰痛持ちであったという」

 

「え、じゃあ……! オーディンのお父さんが勤めていた、工場の警備員だった……!」


「ああ、そして、彼を軍人の道へと手引きした男の名でもある」


 ヨーナスとキティは新たなる事実の驚きに互に口を開き、指を差し合う。その間に分け行って後ろ手を強く握るマルコムは、徐に言葉を繋いだ。


「そう。一見何の関わりもないように見えていた三人だが、オーディンはその二人にとって、後悔と懺悔の相手でもあったのだ。こうして、オーディンを中心に二人の男が出逢い、此処でムンダネウム創立の中心人物である三つの柱が揃ったのだ」


 こうして、マルコムは唖然を見上げる二人に語り継ぐ。


 何もなくなった彼らの故郷、敗戦国ドイツから、どのようにしてムンダネウムの黎明がその三人から始まったのかというのを。


「こうして三人の身寄りのなくなった男が集まり、何を語ったか、それは流石に本人にしか肖りしれぬところだ。私たちが次に辿れるのは、その後の足跡だ。三人はやがて年配のブロンベルクの家で、身を寄せ合うように同棲を始めた」


 そうだ、その時彼らはまだ十八歳と、十七歳だったのだ。誰かの視線を受けて武士は目を瞑る一方で、カマラは、いつの間にか仰向けのまま赤い瞳を刮目して天井を見上げていた。


「その中でも、オーディンのお陰で、無事五体満足に戦後を迎えたカルク・コーヘンが二人を支えてきたという。戦争は全てを壊すがその分、今まで培われてきた厄介で閉塞な秩序を一蹴してくれる側面を持つ。だから、戦前であれば差別に爪弾きにされるはずだった彼は、密かに培ってきた高い知力をもって、敗戦のドイツから一気にのし上がってきたというのだ。そう、まさしく科学という分野でもってね」


 こうして少しずつ、三人から始まった研究都市の形が浮き彫りになってゆく。


「幾数年の時を超えて、カルク・コーヘンは在野の科学者として、それなりの地位と名誉を確立することが叶った。しかし、いよいよ携わる研究分野もピークに差し掛かった六十年代前半において、彼は突然教壇をたたみ、研究成果もその手に抱えたまま突然、姿を消したのだ」


「それはまた……どうして?」


「当時のドイツの情勢を知れば、自ずと分かってくるものだ。六十年代ドイツ。それは今まで生きることに必死だった生き残りたちが何とか持ち直し、経済も右方上がりになってきたころだ。そんな時に人間は、自らの立場を振り返り、それまでの経緯を辿ろうとする。そんな民意にのっかて、この悲惨で間違った戦争を起こしたとみなすナチス関係者を糾弾する時風が、そのとき生まれてきていたんだ」


「そうか……! 当時、オーディンも、そして、カルク・コーヘンもその風当たりを受けた、ということだったのですね!」


「ああ、当時は正義であったと何も恥ずべきことはないと主張する彼らと、そんな時代の空気を知らない次世代との溝は互いに思うより深く、実の親子が激しく相手を罵り合うことも裁判であったらしい」


 流行っていた、そんな浅ましい言葉で吐き捨てるマルコムの捻じ曲がった唇を、脇から青い視線で横流しに見るジョージが鼻で息を吐く。


「はっ、お前にとってしちゃ嘸かし同情に余りあるってか? さすが、イラク戦争が終わったとき、タコ殴りのマルコムと名を馳せただけあらあ」


「そうでしたか……。マルコム大将も、反戦者からの当たりが強かったときがあったのですね」


 続いて、何を察してか目を伏せるヨーナスに、寄りかかったまま高珊が素早く口添えする。


「ヨーナスさン、どうせコレ、タコ殴りされたのは相手の方だっテオチですヨ」


「えっ」


「まあどちらにせよ、楽な話ではなかったがな。それもともかく、身を挺して守ろうと故郷が課した無情な仕打ちに、いよいよ彼は全てに絶望したのか、カルクはオーディンを引き攣れて、ブロンベルクとともに、国外逃亡することでその難を逃れたのであった」


「それと一説に、彼の日頃からの主張も日々アブないものだったというのもあったらしいねえ」


 その間、キティを見つめていた武士は右手の田中を見やった。腕を組んだまま俯くその瞳は、好奇に瞬いていた。


「世界秩序を確立するための、国家に属さない研究都市の形成。それが、ソイツが常日頃に言っていたことらしいよ。国の利権や競争に拘らず、何物にも囚われないが、何物も拒まない、独立した組織こそが最新の科学を発明し、それを管理し、支配する資格を持ち得る物、国際連盟よりも堅持で強硬な絆と力を持ち合わせた管轄体系とるべきだと、ね」


「それこそ正にムンダネウム……!」


 腕を振り払って驚く武士に、前を向いたまま田中も頷いた。


「そう、形はまだなくとも、思想は既に其処で固まっていたんだろう。如何にも戦争の地獄を経験した奴らしい考え方だ。その理想を達成するためなら、例え故郷でさえも、奴は見捨てる決心をしたんだろうね。それこそ、全てが破壊し尽くされ、真新しく塗り直されたあそこには最早、彼らの知っている故郷は何処にもなかったのだろうから」


 田中の静かな声に、今度はミナが膝の上に重ねた指を握った。細い眉を顰める黒い瞳の向こうには、霞む白い景色の向こうへと、細長い影が黒い裾を靡かせて去って行く。


 短い灰色の髪の瞬き、振り向きぎわにいつも見えた、顔色が悪くも荒削りな流線が丹精だった色白の男の姿。彼がかつて、その薄い唇を開き自分に告げていたことを思い起こしながら。


「しかし、その過激といえる思想が、世間的にも地位を確立したカルク・コーヘンが思いつく話なのだろうか? 幾ら戦争を経験したとはいえ、それは皆同じだろうし、その中でも逸脱した考えは、一体何処から思いついたものだろうな。我々にはそこが些か疑問に感じるな」


 すると、手を掲げながら問いかけるマルコムに対し、始終頷きながら田中は自分の分析を語る。


「うん、ここで出会ってから初めて、君とは意見があったねえ。けれど、奴には他の輩と違って深い傷があったじゃないか。……オーディンが、自分の身を引き換えに、今やまともな生活もままならぬまま、目の前で四つん這いになって横たわっているという、深い深い負い目をさ」


 そうだったな、と、眉をあげたマルコムと向かい、田中は天井を見上げ渡りながら滔々と語る。


「あくまで僕の予想に過ぎないけどさ、奴は、尽くしきれない彼への恩義を果たそうとして必死だったんじゃないかなあ。命の恩人に報いる為に、その恩人自身に縛られ、助けられてこそ自由に使えるはずだった命を、ひたすら彼の為に削り果たすことになったんじゃないかな……。恩義を飛び越え、これ程酷い仕打ちもなかなかないよねえ」


「それデ、科学でもっテ、彼を助けよウとしていタ、と、いうことなのデしょうカ?」


 異様な語り口で呟く田中の説明を、程よく纏めた高珊の言葉に「それなら辻褄が合う」と、マルコムも徐に頷いて納得した。辺りからも「そりゃ、あれだけのことを経験してりゃーねえ」と、同意の波が広がっていく。


「さすれば、コーヘンが地位も名誉も全て投げ捨てて逃亡した理由に、オーディンの為、と差し替えても何の矛盾もないようだな。そうか、そうか」


 やがて、ぴんと肩章の張った肩を盛り上げ、唇閉じたまま笑い出したマルコムは、次に自らが語る次の言葉に、さぞかし面白い光景が広がるだろうと達観した面持ちで目を細め、そして、向かい合う彼らを見渡しながら言った。


「さあ、こうしてそれなりにまとまったところで、次章への誘いをしておこうか。そうして彼らは故郷を捨て、新天地に至った。新しい生活を始めた彼らは、持ち帰った実験成果を持って、独自の研究所を開くことになったのだ。それが、始めのムンダネウムだったと我々は定義付けしている。そして、その場所となったところが……」


 固唾を飲んで見守る彼らへ、やがて喉を飲み込んだ後、マルコムは言った。


「南米、だったのだよ」



三、救世主と神の出会い


  長い沈黙の後、一同は唖然と目を見開かせた。途端、若い男の溌剌とした大爆笑が響く。


「あっはははは! ナチスの残党が南米に引っ越してた話って、やっすい本の中でしかねーかと思ってたのによ!」


 細い腹を抱え、、ジタバタと足を鳴らすジョージが、金髪を揺らしながら目端に涙を溜めて笑い転げる。すると、それを鎮める言葉をぼそりとヨーナスが呟いた。


「ジョージさん。本、読むんだ」


「ぶっ殺すぞてめえ」


「それはともかく、……全く、何度この台詞を私に言わせるんだ……まあ、それはともかく。その南米の国というのが、大西洋に面するベネズエラだったというのだよ」


 睫毛の揺らめきで問いかけるマルコムに、ジョージ、ヨーナス、高珊が心当たりに目配せした。


「それが……、もう一人のムンダネウムの要、ホセ・シモン・アーンズの故郷だった……」


「ホセ・シモン・アー……? ヨーナスさん、そいつは一体誰なんです?」


 戦慄に慄く黒い瞳を見やる武士へ、ヨーナスは拳を握りながら答えた。


「ええ、ホセという男は、ムンダネウムの用心棒です。その正体はS級指名手配マルキシストゲリラ。戦う側の私たちからすれば、魔女以上に危惧している相手ですよ。一度戦ったからこそ分かります。あの男は、強すぎる。追っても追っても、追いかける順から殺されてしまうという謂れのある……!」


「救世主に手錠は掛けられないってか」


「ホント、ふざけんなって話ですよね!」


 ヨーナスは唇を噛み締めて、ジョージへと怒りの声を弾かせる。計り知れぬヨーナスの憤りに、戸惑う武士を察した高珊は、穏やかな声色でもって付け加えた。


「私モ一度戦っタことあるのヨ、武士君。あのくるくる癖っ毛かラ覗いタ、黒イ瞳ハ丸っこくテ綺麗なのニ、あの顔のママで人を殺すことを厭わなイ、恐ろしイ野郎だったワ。ホットドックを売ルようニ殺すとハ、正ニああいウ奴ヲ言うのよネ」


 そう評した高珊の例えに、キティも心当たりに目を見開かせて彼らの脇に回った。


「え、もしかしてそいつって、あの屋上で機関銃を持ってた刺青男のことを言ってる!?」


「そうですよ、キティさん。マルキシストゲリラとナチスの残党が、どうして繋がっていたのか、今までさっぱり分からなかったのですが、そうか、そういう関わりがあったというのですね……!?」


 ヨーナスは膝に頭乗せるカマラの上に跨り、ソファの裾を掴みながらくそ、と悪態をつく。それを横目にマルコムは再び薄い唇を開いた。


「そして、更に驚くべきことに彼は――、そのカルク・コーヘンを殺した男でもあるのだ」


「「「嘘お!?」」」


 突然の展開に、横に揃ったヨーナス、高珊、キティの三人は、マルコムに迫るように顔を向けて叫んだ。一方で武士は冷静に、続きを求める。


「どういうこと、ですか、マルコム大将」


「どうやら、研究所は一時期、ベネズエラ政府に土地を提供してもらう代わりに協力をしていたようなのだ。それを、反政府側だったホセを含めたゲリラが襲撃したことがあったらしい」


「そ、そんな……」


 キティは愕然として目を伏せる。片目のないオーディンと、赤の救世主。普通なら、決して交わることのない境遇の出会いが、こうして合点の行く形で表される。


「敵ながら残念とは思うが、カルクは目的を達成するのを看取ることもなく、見知らぬジャングルの地で夢の舞台を降りた。後はあくまで今を察した上での憶測に過ぎないが、四肢切断された身の上とはいえ、軍人として経験も技量もホセより豊富だったオーディンは、ゲリラの襲撃に勝ったのかもしれない」


 ヨーナスが口惜し気に歯を食い縛って目を閉じた。隣でキティは呆然としつつ、その光景をありありと思い浮かべていた。


 暗闇のジャングル。虫が集る、白い夜灯が眩しい無機質な研究所の一室。


 窓硝子が割れ、その部屋で起こった戦いの凄まじさを物語る中で、白衣を着た男が顔を伏せて倒れている。割れた窓から差し込む夜灯が、彼の胸から広がる血溜まりを真っ黒に映す。


 そして、白衣の彼を挟んで向かい合う二人の男が、互いに黒い影を後ろに連れて睨み合っていた。癖っ毛の前髪を引っ張り上げられ、膝まづく若い男の方は、煤まみれの顔から黒い血を滴らせ、その屈辱に抗おうと黒いタンクトップだけを纏った逞しい身体をよじらせ呻き声を上げている。


 一方で、眼帯を嵌めた火傷顔の男は、闇に溶け込みそうな黒ずくめから白い顔を夜灯に映し、我が手中に暴れる刺青の男を、目を細めて見下ろしていた。そして、彼は捕まえたその男と視線を合わせようと膝まづく。


 それに続いて、引き上げられた刺青の男は、乱暴に床に叩きつけられ、顎を地べたに滑りながら首を振った。そして、目前に突かれた黒い杖に丸い目を剥いて上目遣いに見上げれば、その杖を支えに己の靴の角を、男の顎に付けてしゃがむシルクハットの男が、黒と白だけが為す世界で灰色の瞳を光らせる。そして――、


「それをきっかけにホセを、新たな部下として向かい入れたのだ」


 キティの想像をマルコムの口添えが途切らせ、締めをくくった。その瞬間、どよめきが広がった。


「そ、そんな」


「な、長く連れ添う仲間を殺した奴を!?」


「なんて恐ろしいことを……!」


「オーディンの、ムンダネウムに対する思いは、伊達ではないと言うことは明らかだな」


 マルコムは動揺する皆にそう諭しつつ、後から「全く、改めてとんでもない奴だ」と、その相手に今、一番近いところにあるアレキサンドリアの空を眺め、眩しさが故か、徐に顔を顰めた。


「さて、そうしてホセという強力な用心棒を手にしたムンダネウムは、飛躍的に量も質も上昇したという。では代わりに、コーヘンを喪った分、科学の側面は衰退したのか? というと、実はそうはならなかったのだ。不思議なことにそれは、彼が居た時以上に右方上がりに伸び続け、まるで誰かとすげ替わった様な変貌を遂げてきたのだ」


 すげ替わった――、そのマルコムの意味深な例え方から、皆の脳裏にとある影が通り過ぎた。


「競争や権力闘争で摘み飛ばされ、行き場のなくなった学者や研究者たちにとって、ムンダネウムは新しい開拓地なっていたためか、または、あらゆる障害に差別され、虐げられた老若男女たちがそこに集い、ムンダネウムに忠誠を誓ったが故の仕業だったのか、あらゆる可能性を考慮しても埋められないその飛躍は、一体何処からやってきたのか」


 マルコムもまた、細長い影を為して皆の前を横切って歩く。


「それを知る手掛かりの中に、我々はたった一枚の手紙を見つけた。それは、カルク・コーヘンが死ぬ直前にブロンベルクに宛てた手紙。19XX年、意外に無骨な文字で綴られた手紙には、こう書いてあったのだよ」


 そして彼はあえて拙いドイツ語で語る。次に訳そうと唇を開いたとき、先にその意味を悟ったキティが声を裏返した


「私に娘ができた――、ですって!?」


「その娘というのが」


「「魔女!」」


 一斉に大きな声が白い天井にまで弾けた。バラバラに散らばっていたムンダネウムの新たなピースが嵌った快感に、皆は溌剌と目を瞬かせるも、次第に懸念へと陰りを増してゆく。特に、その魔女の姿を見たことのある数少ない人物、ジョージ、ヨーナス、高珊は首を傾け始めた。


「19XX年代って……もう数十年以上前の話しじゃないですか。あの可愛い女の子の姿をした魔女が……? ちょっと様相と辻褄が合わないような気もするんですけど……」


 と、指を顎に添えて俯くヨーナスに高珊が白けた視線で見降ろしている。そんな二人のやりとりにはんっと、後ろから咳払いをしたジョージが、ソファごし二人を見据えて答えた。


「そもそもあの面が魔女のホントの姿なんて、本気で考えてるのは、テメーとアーサー位だぜ。バイオのスカーレットクイーンよろしく、魔女とは全く関係のねえ女の姿をサンプリングしてるだけって方が、それらしいだろ」


「違う……」


 すると、キティの言葉にジョージの青い瞳は途端に色味を変える。素早く彼女の方に目配せした先には、今だ目線を合わせず、自らの身体を片手で抱くキティが俯いていた。


「マリアは言っていたわ……。今わに際に、魔女の声を聞いて、最後まで魔女のことをカルクと呼んでいた。かつての幼馴染に似ているのを、マリアだけは気づいていたのよ……」

 

 誰に向けた言葉か、その意図は曖昧にして、キティは思い馳せる。


 そういえば、聞き見した魔女の様相は、どことなくマリアから聞いた、カルクと似ているように思えた。赤毛交じりのこげ茶色の髪、同じ色の瞳、そして天才クラッカーとして、聊か不自然に思えた東欧の民族衣装も、ポーランド人だったカルクの意図をふまえれば、ここもピッタリ辻褄がある。


 今までの事実から推理すると、魔女は本当にカルクと血のつながった娘の姿なのかもしれない、あの手紙は比喩ではなく、カルクはその日、本当に娘を授かったのかもしれないと思うのだ。しかし、ならば何故、数十年経っても少女の姿のままなのだろうか。


 考えに耽るキティを、ジョージは瞬きもしないで見つめていた。一方、愉悦にキティを見下ろすマルコムは、その意見に肖る。


「お前の言う通りだ。ムンダネウムにおいてかなり、重要な位置に立つ女の可能性もあると、私たちも考えている。どちらにせよ、オーディンやホセと違って、彼女に関してだけはまだよく分かっていないのは実に口惜しい。それは……マリア・ブリューメルが、ムンダネウムから分捕った、資料の暗号解読が進めば、分かるかもしれないがな」


 冷徹な眼差しを青い空に向けるマルコムに、皆が固唾を飲んだころ、武士だけが身を乗り出しその広い背中へと声をかける。


「なら、その場所は、今のムンダネウムの在る所は、一体何処に当てはまるんです? まさか、此処から南米まで、わざわざ向かうってわけでもないのでしょ?」


「なら、ススギブリ君、君はどこだと思うかね?」


「いや、俺、どっちも魚の名前じゃないんで」


 と、注意した後、後に武士は「そりゃあ」と、制服の袖から出る指を床に差して言う。


「流れからして、此処、アフリカっつうのは自明ですよね」


「その通りだ。時代が経って開発がどんどん進み、より広大な敷地が必要となったムンダネウムにとっては、隠れ蓑となっていたジャングルは、段々邪魔になっていったんだ。オーディンたちはそれを機に、コストもかからず更に領域を広げられる新天地を求めた」


「なるほど。その候補として、人類の故郷であったアフリカに理想を追い求めるには何の謙遜もなかったでしょうね。なら今、ムンダネウムはアフリカの一体何処に在ると……?」


「さてね、そこまで懸命な判断が出来る君には、実は概ね見当がついてるんじゃないかな?」


 神妙な面持ちで顔を向ける武士に対して、マルコムは剽軽に片眉をあげる。すると、そこから腕を組んで思案していた彼は、やがて薄い唇を指の隙間からのぞかせて、言った。




「もしかして……ナミ……、ビア……か……?」




 クーラーの冷風がそよぐ中、辿々しい少年の声が遂にその名を告げた。田中、そしてマルコムとが彼の隆鼻を見つめては、思わず口走る。


「ほう、そのこころは?」


「ぼんやりとした記憶に過ぎねえけど……、確かナミビアって、数すくねえかつてのドイツの植民地だった、よな……?」


 艶めく髪を垂らして首を傾け、思考を巡らす少年の、無駄のない流線が縁取る顔立ちは、しばしミナたちの熱い眼差しを受けた。


「オーディンがドイツ、しかもナチスの残党とあれば、パイプのある地を選ぶのが自明だろう。歴史的にドイツはイギリスやフランスと違って、アフリカの植民地化には積極的じゃなかったから、自然とその選択肢も限られていく」


「じゃあ、どうして武士君は、その中でナミビアと判断したんだい?」


 腰に手を据える武士の脇から、そこでヨーナスは問いかけた。武士はそれに応じて、人差し指の天井に差す。


「一つ、科学研究には必ず大量の水が必要ということです。だから海岸沿いには位置する国だと、俺はまず推理しました」


 続けてヨーナスに背を向けて、武士は歩きながら言う。


「その次に、ドイツ人のパイプが特に強い、嘗てのドイツの面影を特に残す国は何処なんだろうと考えました。そしたら……」


「アフリカの中で唯一、ドイツ系白人の割合が高く、そしてドイツ語が辛うじて通じる北大西洋に面する南西部の国、ナミビアと言うわけね」


 すると、両手を下ろしたキティが絶妙なタイミングで締めをくくった。そこで武士は相棒の矜持だと微笑みながら、やがて彼女の隣に肩の触れ合う距離に寄り添って、ゆっくりと頷いた。


「ブラボー! ブラボー!」


 すると突然、寄せ合う二人の肩が驚きで離れる程に大きな拍手が湧く。


「面白い! 実に聡明な考察でいたく感銘した! 流石は伊達に、キティの相方を努めてきた訳ではないようだ! 先のアジト襲撃の件も含め、君の働きは見事だったぞ!」


 マルコムが大きな声で武士を褒め称えた。いきなり敵だった者に評価され、頭を掻きながらも嬉しいやら照れくさいやら、くすぐったい身体を捩らせて「あっはい」と、どもる一方で、キティは懸念に目を瞬かせ、彼へと顔を素早く向ける。


「ねえ、武士。襲撃の件ってどういうこと? 貴方はただ気絶していただけではなかったの?」


「さて! 此処までだよ!」


 すると、更に大きな拍手弾けた。それは、短く太い手によって為された田中のものであった。


「君たちもこれで、今まで謎めいていたムンダネウムについて、少し理解することが出来ただろう。その上でこれから君たちが何をすべきかを、今度は僕から諭してやりたいと思う」


 いいよね、と、目配せする田中に、無言で目を伏せるマルコム。すると、ふっくらと膨れた腹を反らしながら両手を広げて声を張り上げた。その大仰な仕草に否応なく目を向かざる得ないキティを見上げ、やがて田中へと向き直せば、さりげない田中のウインクに、武士は安堵のため息を吐いたのだった。


「まず、僕と、マルコム君からの話をしようかね。僕らはとりあえずこれから三日後にそれぞれ日本とアメリカに戻って、暫くお偉いさんがたの打ち合わせをする予定なんだ」


「え、アレクサンドリアまで来てまた戻ってしまうのですか?」


 と、ヨーナス。それにマルコムが頷いて言った。


「我々も残りたいのは山々なんだがね。電子を通じる話には必ず魔女の手が伸びてしまうだろうからやむを得まいよ。私たちは直に、これからの討伐作戦に関わる者たちと話し合い、必ず我々にとって一番都合の良い結果を為して戻ってくるつもりだ」


「それまでの暫くの間、君たちに此処でやってもらいたいことは……」


「ちょっと待ってくだせえよ」


 すると、田中を遮り、薄褐色の手を掲げたのはカマラであった。


「やってもらいたいことって何スか? つか、何で急に俺たちがアンタらに協力しなくちゃいけねえ流れになってるんすか?」


 太い眉を顰めながら指を差すカマラの言葉に、マルコムは唇を窄め、一方田中は大口開いて笑いながら身を乗り出した。


「あっははははは! おっかしいなー!えー? もしかして、こいつと同じようなこと思ってる輩って他にもいるのー?」


 腰を屈めて彼を指差しながら辺りを見渡す田中に答えず、キティを見上げるジョージ以外は困った面を互いに見せつけ合うばかりだ。すると、笑顔を崩さずままに立ち直した田中は、そのまま首を傾けながら高らかに、朗らかな声でこう言ったのだった。


「まさか、この話を聞いたに及んで、自分たちがまた元の生活に戻れるとでも、思ってなんかないよね?」



四、戻れる筈もなく


 分かっている、戻るはずがない。戻れるはずが、ないんだ。


 癖っ毛の男が振り向いて、「どうしタの」と、問う。その髪に位置する瞳孔の開いた灰色の瞳を揺らし、細長い腕を振って歩く男は、「なんでもない」と、歩調を早めていった。


 翡翠色のガラス張りの廊下に照り返っているその男は、白いマオカラースーツを着ていた。会合わせて彩明があやふやな灰のカーディガンを羽織り、脚の長さと背の高さが白の鉄格子によく映える様相を為す。


 彼は今、少し背の足りない黒ずくめの刺青男を案内人として従えて、ガラスと細い骨組みだけで造られた施設を歩いている。中の施設はは頭上数十メートルの天井まで吹き抜けとなっており、二人はその脇に沿った通路を歩いていた。ふと横を見やれば、太陽に反射した斜めの骨組みが向こうで煌めき、そちら側にも自分達と同じように、点となった人々が歩いているのが見える。


 青白い顔を向け、壮観な景色を眺めている男からは具合の悪さが窺えるが、彼の澄んだ灰色の瞳を見れば、その心配は杞憂と知れる。空調の行き届いた爽やかな風を、顔をあげて受ける仕草、脇に置かれた観葉植物の光が透け、斑の森となった床を踏み越える足取りには、生気が満ちていた。


 彼は、スーツという重荷から解放され、これからの覚束ぬ未来(さき)への不安をも今だけは乗り越えていた。議員であること、アメリカ人であること、常にアメリカの為にこの身を削るのも惜しまないこと、生まれ落ち、朝目覚めるときから床につくまで一度たりとも忘れ得なかった、その義務から解放された初めての気分を、瞳を閉じながらゆっくりと感じて入っていくのである。


 しかしそれをまだ、脇腹の痛みが咎める。血が滲み出たような錯覚に囚われ、灰色の瞳は掴む腰元を見遣り「分かっている」と、呟いた。


 そう、皮肉にも彼は、こだわり続けた夢から最も遠いところにいる。様々な経緯と情動を超えた先に行き着いた果て。脇から手を差し出した案内人に誘われ、遂に見えた「ムンダネウム」の景色。それは――、


「おお……」


 みるみる囲う筋肉が緩くなって広がる目を開き、アーサーは唇を窄めて呟いた。遠くに海岸が窺えるムンダネウムの全貌は――、偏に言えば白の世界だった。


 一望に眺められる殆どの巨塔は、線状様式の輪郭を麗しくして聳えち、その下をブロックを敷き詰めたように白い建物が並ぶ。その一つ一つも現代建築様式を為しつつ、間を網のごとく掛けられた鉄筋の渡り廊下が絡みつく。そして、宙の高速道路も縦横に空に十字を描いて掛けられていた。


 それは、統一感のある白と銀の景色。利権も派閥争いの跡も払われた、のびのびと広がる世界であった。アーサーはさんざその困難に関わってきた為にそれに驚いていた。思わず、両手を広げこのまま白の世界に飛び込ん行きたい情動に駆られ、歩を進める。それは、これまで世界一だと信じて疑わなかったニューヨークの摩天楼さえも、二度と思い返すこともない程に。


 ああ、と、アーサーは感嘆の息を吐いた。


「これがムンダネウム、これが、未来……」

 

 海岸の向こうに地平線が見えて、土色の別の街並みが見えるが、其処はナミビアの都市なのであろうと悟る。対比すれば、異次元の例えにも謙遜しないこの研究都市を、アーサーは何度も見返し、ようやく其処で人前に聞こえるように呟いたのだった。


「素晴らしい……。もう少し建築の知さえあれば、もっと感動に耽っていただろうが……」


「それは俺も同じク、っとお」


 一方で、刺青の男、ホセは、ガラスの柱にもたれかかっては、逞しい腕を組んでムンダネウムの景色を流し目に肩をあげた。すると、突然、後ろから声をかけられたことに、その肩は更に大仰に跳ね上がった。


「あら、ホセ。その方がベリャーエフ氏なのね?」


 吹き抜けのガラス張りに心地よく響く女の声。それに二人とも徐に顔を向けると、視界を盾に貫く黒人の女性が廊下に立っていた。


 透き通った薄緑のガラス面が霞むほどに、強い印象を与える女性は、膝丈までのばした真っ赤なノースリーブのロングドレスに身を包み、同じ色のターバンを巻く、派手な出で立ちをしていた。景色の向こうに見える灼熱の砂漠であったらさぞ似合っていたであろうが、この冷房の行き届いた現代建築の真ん中ではどうしても浮いて見える。しかし、微笑む彼女は、それに戸惑うアーサーの身構えに動じず、豊かな唇を開き、白い歯を見せながら堂々と歩み寄って言った。


 その溌剌と揺れる黒い瞳の輝きは眩く、丸い頬の膨らみもまた、健康的な筋肉の張りが日差しに透けて麗しい。しかし、大きな瞳の回りには幾重の皺が刻まれて窪み、差し出されてた黒い腕の筋は否応なしに年季を感じさせる。おそらく脇にいるホセよりは年上なのだろうと察し、アーサーは無表情のままその握手に答えた。その指は、女性にしては節々としていて、彼女の決して穏やかではない人生語らせた。


「貴女は、たしか……モニカ……モニカ・マニュエル?」


「ええ、ええ。その通りですわ」


 すると、微かな心当たりに目を細めるアーサーへ、彼女は両手で彼の手を大仰に振りながら笑った。


「あら、嬉しい。外の人は、殆どアフリカ人には興味ありませんもの。私のことをちゃんと知っているのは、いつも大事な味方と、悍ましい敵ばかり、貴方はどっちかしら?」


 と、いきなり物々しい言葉選びで話しかけるモニカに、ホセとアーサーは目配せながら俯く。


「もし、敵であったら――、ここまで曖昧に名前を挙げることはしなかったでしょう」


 と、答えたことに、モニカは同業者としての共鳴が響いたのか、更に満足そうに口角をあげた。


「お会い出来て光栄ですわ。アーサー・ベリャーエフ氏。改めてご挨拶を。私はモニカ――、モニカ・マニュエル。ナミビア政府の高官を勤めております。そして、このムンダネウムとナミビア内陸を結ぶ橋渡し……、そうね、ナミビア政府側のムンダネウム代表と思ってくださって結構」


「よろしくお願いいたします。仲間となる者同志、これからはアーサーと呼んでください」


「モニカと呼んで、アーサー」


 一通りの挨拶を終えて、二人は並んで景色を見下ろした。


「素晴らしい風景でしょう」


 と、モニカ。アーサーの頷きを見上げながら腕を広げ、悠々と述べ伝える。


「我が国のムンダネウムの介入を受け入れてから十数年と少し、最初は眉唾だった存在でしたが、禁断の金の卵があるだけだった、この忌まわしい我が国の汚点を、奇跡の大地に為さしめたムンダネウムには感謝してもしきれませんわ」


 アーサーは「敵地」とみなしていたこの場所に生きる者の想いを知るに至る。


「ナミビアは……アフリカは、貧しい国です。人類先祖の地でありながら、今ではどこにも見返られない哀しい、愛しい私の故郷です。それを唯一、新しい繁栄をもたらしてくれたのが、このムンダネウムのリーダー、ゲオルク様でございましたのよ」


 それから、腕を組み、キラキラした眼差しで窓ごしを見つめながら語った。


「貴方もご存じでしょうけれど、ムンダネウムは――、この世界に蔓延る資本主義の犠牲者がゲオルク様の勧誘の元で集い、協力し合って作られた施設です。そこから見出された研究成果を提供する代わりに、資金を得るビジネスとしてこの施設は成り立っています。資本主義と一線を化したそれは、」


「ソーシャルビジネス(社会貢献による業務形態)と、いうものですね」


 難なく答えたアーサーの目配せに、モニカはええ、と、威勢よく頷いた。


「それを元手にゲオルク様は、土地を提供してくれる、我々ナミビア側を殊更優遇してくれました。それによって輸入と留学でしか、発展の余地がなく、その資金で更に困窮するという地獄の連鎖に終止符が打たれ、我々は遂に自立を果たすことが出来たのです。それをどうして、まあ、貴方たちは敵視していたというのでしょう」


 そう言って肩を竦めるモニカから、アーサーは凡そナミビア側の言い分を理解した。彼女の意見には一理あり、共感の余地はある。しかし、彼女は知っているのだろうか――、とも思う。そのナミビアの発展をもたらした研究成果、というものには、魔女の存在があってこそであるし、そしておそらく忌まわしい、『人体実験』の上に為されていたから成り立つのだと。


 よもや、それを知っていたとしても、彼女は「ナミビアの発展」のためならば、と、その輝かしい微笑みの中で隠し通すつもりなのだろうかと、鑑みる。しかし、それを知るには、まだ余りにも彼女と知り合った時間が少なすぎて、アーサーは相槌を打つだけで精一杯であった。その思惑も知らず、モニカは安堵の笑みをアーサーに向ける。


「此処からは、私が代わりに案内を努めましょう。アーサー、ようこそムンダネウムへ。これからは何でも私に伺いなさって? なんならさっき呟いていた、この景色と、各々の建物の名称と由来と、そしてムンダネウムにおける役割なども含めて、一つずつお伝えしてもよろしくってよ?」


 おい、あんたいつから聞いてやがった。と、でも言いたげな刺青男は笑顔で一蹴して、彼女はそれから恭しく左の掌を、ムンダネウムの景色へと差し出した。


「此処は、この景色は、これから貴方の新たなる居場所、貴方の新たなる味方が集うところとなるのですわ。それはもう、一日でも早くお知りになりたいかと、図らずともお察し致しますもの」


「あ、ああ……そうだな……」


 新しい居場所、新しい味方。モニカの言葉が胸に刺さるガラス片のように痛んだ。粉々に散ったガラスの煌めきは、かつていた友や愛しい家族や労しい部下たちとの思い出。それをバラバラに割ってしまったのは、紛れもなくその破片に血を流す己であっても、思い起こさずにはいられない。


 それでも、追い縋るように彼女を見上げれさえすれば、首の屈伸から痛みが抜けていくのもまた皮肉ではあるのだ。


「その中には、君もいるんだろうか」


 ふとして呟いたアーサーの問いに、モニカは自分のことを言われたと思い、目を細めて答えた。それにアーサーは目覚めたようにはっと身を揺らすと、前を向き直す。その横顔は静謐として、また端正な輪郭を為して光を透かした。


「いいだろう。これからよろしく頼む、モニカ。暫くは私の側について色々と教えてくれ」


「ええ、どれから知りたいの?」


 と、問いかける彼女の声に、魔女が居る場所――とは、まだ言えぬまま、アーサーは執着の眼差しを微かに灯らせてながら、


「ムンダネウムの中心というべき、場所の名を知りたい」


 と、問う。それに颯爽と身体を起こしたモニカは、声高らかに右手を高く掲げて指を差す。


「それでしたら、向ける方向を変えませんといけませんわ。此方の景色からは見せませんもの!」


「なら、何処に」


「ほら、彼処ですわ!」


 と、モニカは景色の反対側に身体を向けて笑った。アーサーとホセはそれに肖り、同時に彼女の指す方を向いた。


***


 それは、旅客機の電灯のように。


 ポンと音が鳴って、明かりが小さい円を為した。当てたれた先には、細長い灯台のジオラマが映り、それは一面に広がる白い街並みの真ん中に位置し、他と画した高さをもって細長い影が街の上を滑っていた。


「この建物が俗に言う、アウトルックタワー。ムンダネウムの中枢機関だと、我々が睨んでいるものです」


 そのタワーを目前に見下ろす男が、白く反射する書類を片手に言った。


「ムンダネウムの主要機関の中で唯一、研究施設を持っていない管轄施設というものですが、それはムンダネウムの長と言うべきオーディンこと、ゲオルク・ライヒートの主な活動拠点、といったところでありましょう」


 男の溌剌とした説明に対し、ムンダネウムのジオラマを囲った幅の広い軍服の男たちは皆、胸に携えた数多な勲章を折り曲げては、上質な革の椅子にもたれかかって厚い唇を潰している。そんな状況を覚る、一人だけ席を立つ先黒人の男――、マルコムNSA長官は、暗がりの中で更に爛々と瞬く目で交互を見遣っては、今度は声を低めに続けた。


「高さは720mと、グアムの成金どももひっくり返る程の高さを持ち、彼らの技術を否が応でも思い知らされますな。その上階には各施設を統括するシステムが厳重に配備され、更にその上、ムンダネウムを一望出来る階にゲオルク・ライヒートがいると言われています。それこそがアウトルックタワー、見物塔の名称との謂れになっているとか、いないとか」


 彼の説明の流れに沿って、タワーの模型も紙の繊維を透かして柔い明かりが灯る。しかし、このアウトルックタワーの特色はその高さに非ずと、彼がやがて示す通りに、突然塔の付け根から四方の光の線が現れ、それが段々と伸びていった。


「しかし、この塔の注目すべきところは見上げるばかりではありません。このタワーは唯一、残りの主要な施設と繋がっているという特徴をも携えているのです」


 すると、四方の線が同じ長さで伸びてゆくと、その光がそれぞれの所で溜まって方形を為したり、三角錐を為したりと、中心と合わせてムンダネウムに五つの主要施設が浮かび上がった。そしてまた各々も、二つの光の線を発してまた互いの線と結ばれていく。こうして、アウトルックタワーを中心に、それぞれが繋がっているという構造が、軍服たちの前で明らかになってゆく。片眉をあげる一人はその形は正しく、ムンダネウムが得意とするところの、インターネットの網の目を思わせた。


「しかし、それが分かったとしても結局、我々が、最も懸念すべき『魔女の居場所』までは分からない、と、いうのだろう?」


 やがて、散らばる資料を指で叩く、カーキー色の軍服を着る一人が、横柄な口振りで眼鏡を僅かにずらしながら言う。それにマルコムも、背筋を伸ばしたまま頭が高い顔を俯かせた。


「それは紛れもなく……我々の力不足だ。大変申し訳ない」


「全く、盗聴、盗撮、ゴミ漁りの謂れある、NSAサマをもってしてもこの様とはねえ」


 一方、鍍金が瞬く右手を枕にして、溜息をつく蒼い軍服の男は、気だるい態度を露骨に示す。また、その向かいにい座る黒い軍服の女は、皺のよれた細い指を組み合わせ、マルコムを脇目に睨んだ。


「せっかく貰った現地の写真も、爆撃を行なう為には余りにも心許ないわね。どうしてこんな曖昧な資料しかなかったのよ?」


 マルコムは俯いたまま、唇を噛み締めた素振りを見せて語った。


「はい、我々はムンダネウムを仮想敵とした五年も前から全力を尽くし、果てには衛星の空中写真まで利用して、ムンダネウムの全貌を明らかにしようとしていましたが、しかし、どの写真も魔女の防御によって全て差し替えられ、ドローンも一つの漏れもなく破壊し尽くされてしまったのです」


 目を瞑る中で思い浮かぶのは、魔女によって差し替えられた可愛らしい子猫たちの画像。それを短く首を振って弾き飛ばしたマルコムは途端、重々しい口調で続けた。


「こうして残った全ての写真は、生ける機械として乗り込んだ我ら同胞が、必死になって手に入れた物なのです。……その内の殆ども帰ってはきませんでしたが」


 徐に身体を起こし、資料に貼り付けた写真を差し伸べるマルコムに、「そう……」と、寂しげに眉を落とす女ではあったが、


「はっ、そんな言い訳聞きたかないね」


 と、一方で、彼女の隣に座る別の男はそれをテーブルに投げ捨てた。それから空いた腕を組み、ひしゃげた口を開いて悪態を吐く。


「仕方ないから、これで何とか俺たちも作戦行動を考えてやるよ。俺はこの建物がそうじゃないかとふんでいるが……おい、マルコム大将、この建物の名はなんだ?」


 そして男は、アウトルックタワーより西に対する三角錐の建物に指を差す。すると、直陸不動のままマルコムは答えた。


「ジッグラトです。其方は五年前に建設が始まったばかりの一番新しい施設です。本来なら、このジックラトこそが、コルビュジエのムンダネウム計画における、中心であるはずだと言われておりますが……」


「ほう、ならピッタリではないか。覚束ない話だか、其処から話を広げていこうか」


 そうして各々が――、陸空海米軍それぞれの最高司令官達が顔を寄せ合い、また指を差し合っては本題へと乗り出した。外務省からの手引き、各議員からの斡旋の手順、互いに分け合う兵器や兵士の目星、互いの立場を考慮し合う手持ちの名称等、俯瞰の眼差しで見るマルコムの目の前に、ムンダネウム壊滅への具体的な形が表れていく。


 遂に、念願の端を垣間見える瞬間に立ち会おうと、身を乗り出したマルコムであったが、それを皺がれた男の手の甲が無情な現実を諭した。


「君は出て行き給え」


 それは、先程まで沈黙を保っていた一番年を召した男の物であった。それに、初めてマルコムの心の奥が揺らぐ。


「唯の諜報係が此処までを知る必要はあるまい。貴様の役割は此処までだ。今までご苦労だった」


 一際鋭さが立つ青い瞳を向けて、男は細長い顎をしゃくり、マルコムに退却を命じた。マルコムは嘲りの意を感じ取り、寸時唇の震えを自覚するも、すぐさまそれを暗がりの中に隠し、甲高く踵を返しては明かりから離れ、暗闇の中へと去っていく。遠くで円卓を囲む男女の声がこう続いていった。


「まったく、あの黒豹野郎の勝手行動は目に余るものでしたな。明らかにNSAとしてのやるべき範疇を超えている。まさか部隊を作って、外国にまで侵入をかけてくるなんて……」


「我々とともに所属している以上、これ以上決して好きにはさせるまいよ。今まで巻き込まれた人たちが可哀そうでしたな……」


「噂によれば、あの死神議員も黒豹に嵌められたって……」


「シッ」


 一際甲高い靴音が鳴った。


 出ていった先には眩しい世界が迫り、マルコムが目を細める間際、外で待機していたリンクが戸惑いの声をあげる。


「あ、あのブラック・パンサー。会議はもう終わったので……?」


 まさか引下げられたとも言えず、マルコムひしゃげた顔を向けつつ、それは眩しさ故だと嘯いて苦笑いをした。


「いや、まだだ。しかし、余りにもいたたまれなくて、途中で抜け出してしまったよ」


 と、言う間にも、背を向けて歩き出すマルコムを追いかけながらリンクは首を傾けていた。


「いたたまれないというのは、一体誰が……」


「彼らだ!」


 すると、急に張り上げた声でマルコムは立ち止まる。そして、後ろを僅かに振り返う彼は、眦を吊り上げて、雄々しくこう答えたのだった。


「全く、哀れなこったさ。あんな彼らがいずれの漏れもなく、私の計画の生贄になるというのだからな!」


***


「現代的な建物ばかり見つめていると、こっちの方が前衛的に見えてしまうな……」


 見上げるギリシャ建築のキャピタルビルに、ようやく我が故郷、アメリカに帰ってきたのだと、マルコムは冷たい風を端正な鼻筋で掬っては、じんと冷える身体の寒さとともに、愛おしさを染み入らせた。


 それから後ろを振り向けば、純白の建物の前に新緑の芝生が広がり、遠くに横切る柵を境に観光客たちが、キャピタルビルの階段に立つマルコムへせせこましくカメラを構えている。


 そんな折り、再び人の気配を感じて左に顔を向けば、黒ずくめの烏合に囲まれた紺色のコートを羽織る痩身の男が、マルコムに手を振りながら歩み寄って来たのだ。


「やあ、マルコム君」


 狒々のような顔の男を、その声から思い出したマルコムは、身体を向けて背筋をのばす。


「コリンズ首相」


 それは、客人を受け入れるための穏和な様相を為した。


「君もアレクサンドリアからの戻りだったんだよね? 遠いところからわざわざお疲れ様」


 するとその男――、イギリスのジェレミー首相は、マルコムの挨拶も待たずに労いの言葉を添えては、彼の肩を撫でて笑う。それが、アメリカに戻ったマルコムが受ける、唯一の好意であった。よりによってそれが余所者者からだとは、と、首を揺らされながら苦々しく目を細めて笑い返すマルコムの、その皺寄せた瞼の下には、薄っすらと隈が浮き出ていた。


「此方こそ、イギリスからお越しくださってありがとうございます」


 やがて、同じ遠出者としての苦労を偲ぶ返しに、ジェレミー首相はそんなことないよ、と、言った。ホワイトハウスの前で落ち合うこととなったマルコム大将と、イギリスのジェレミー・コリンズ首相。それはカルカッソンヌ以来の再会でもある。


「君の場合は、本当にお疲れ様だけどさ、僕に至っては例え魔女の盗み聞きに関係なく、一介のイギリス人として、この場に来なければならない理由があったしね」


 やがて意味深な言葉を呟いた首相は、マルコムの眼下にしゃがみこんでは、拙く芝生を摘み始めた。その沈むさまを見て、マルコムも心当たりがないわけではない。


「ああ……、ムンダネウム壊滅における友軍派遣の国民投票が、イギリスで反対となったことへのお詫びに、ですか?」


 自分で言うには憚ると萎む首相の代わりに、何の抑揚のない声がそれを告げる。すると、気遣いへの陳謝も込めて「そうだよ」と、ジェレミー首相は軽く目を閉じた。


「全く情けない話だ。物資支援のみの友軍なんて真似だけは、決してすまいと思っていたのに……」


 苦悶に歪む力も残ってない、弱々しい眉の顰みがより彼の無念を醸し出す。


「分かっている。アフガン戦争、イラク戦争のトラウマもまだ記憶に新しいし、今のところ、まだ何も被害を受けていない我が国が、ムンダネウムに同胞を送り込むなど、最初から難しいことなのは自明だった。それでも、私は出来る限りの説得はしてきたつもりだった。必ずこの法案を通そうと必死にやってきたつもりだ。けれど、結果としては、私は何もしはかったのと同じだったのだよ……」


「そんなことは決して……」


 あまりにも痛ましい彼の語り口に、マルコムも図らず慰めの言葉を漏らしてしまうが、ジェレミー首相は「そういうことにしておいてくれ」と、言わんばかり、激しく首を振りながら腕で身を覆って蹲った。「これは自らへの贖罪なんだ」、と。


「申し訳ない。君たちにこんな言葉を伝えることしか出来なくて。私は、私個人は決してムンダネウムをまともな組織だとは思っていない。目先の利益や狭い視点から囚われて、そのまま放ったままにしてしまっては、いつか、きっととんでもないしっぺ返しを食らうに違いないんだ……。私はその日が来るのが怖ろしい……」


「全く――……」


 彼の語りを聞き、マルコムは感情よりも先にその言葉を吐き捨てた。腰に手を当て、後ろのホワイトハウスを見やる眼差しは嘲りのそれではなく、哀れみを醸し出していた。ここまで律儀な奴などそうそういない、と。自国の長がこれであってはとてもじゃないが、他国のとあればそれはむしろ好意に転ずる者であると、マルコムは目を細めていた。


「貴方は、お優しい方だ」


 溢れ出る様々な言葉を飲み込んで言えば、それはまた自然と穏やかになっていく。


「この世の中、自分の意に皆がそぐわぬからと、せっせと敵方について裏切る輩もいるというのに、貴方は留まらんと必死に葦を掴んでいらっしゃる。それによって我々が被る不利益はともかく、志は実に立派、普通の者にならざぬ素晴らしい決意だと私は思いますよ」


 すると、 ジェレミー首相は咄嗟に名指しされたある者の姿を思い出し、焦りに素早く振り返った。


「あ、いや、決して、ベリャーエフ君をそんな風に言ったつもりは――、」


「どう思おうが結果は同じです。そう、さっき貴方が言ったのと同じように、ね」


 ジェレミー首相は息を呑む。寒さゆえに厚く籠ったコートが途端やけに熱くなった。


「我々が最も憂慮すべき事態は、自らの中にある、ということですよ。どんな思いで彼が裏切りを決めたとあれ、魔女対策に深く関わってしまった彼から、多分の情報がムンダネウムへと漏れてしまうことに、変わりないでしょう。それに向かい立つ為の対策も、正直まだ目星が立っていません。貴方様が心落ちする必要はありません。なあに、元からこの計画など、苦労の連続ばかりです」


 懸念を諭しながらも、あくまで威風堂々と白手袋の手を腰に添えて立つマルコムを見上げつつ、ジェレミー首相は眉を下げた。


 すると、二人の間に割り込むように。ホワイトハウスから階段を下りる靴音が鳴り響く。それに向かい合う二人も頷き合っては、やがて徐に階段を見上げた。


「なるほど、実に君の言う通りだな」


 その声に恭しく敬礼をするマルコムの一方で、ジェレミー首相は目端を垂らし、手を上げて答える。その相手は、冷厳なドリス式オーダーを背後に、極寒のワシントンにも関わらずスーツのみを羽織った優美な出で立ちを魅せた。「痩猿」との異名を持つ鼻筋の長いジェレミー首相と比べ、今だ頭皮の隙間も見えない掻きあげられた白髪と、彫りの深さが皺の造形を程よく引き立たせる端正な顔立ちが麗しい。その男はにやりと笑いながら軽く手を上げて応えた。


 こうして、マルコムの上司であり――、ジェレミー首相の個人的な友人でもある、現、アメリカ合衆国、ギルモア大統領の登場と相成った。


「議会は無事、たった今終わったよ」


 と、段上から突然本題に踏み切って立つ。それに緊張感の波を立てた二人の間を木枯らしが過った。


「結果はあえて言うまでもない。これからますます忙しくなる、と、だけでも伝えておこうか」


それから徐にギルモア大統領は、遠い空を仰いで言った。


「この日のために丸五年、長かったような、あっと言う間だったような……。不思議なものだよ。これから始まったばかりだというのに、何故か今長らく抱えていた重荷がやっと取れた気分なんだ」


 スーツの裾を冷たい風に靡かせながら、ギルモア大統領は横目でホワイトハウスを背後に空を見上げる。轟々と鳴る風の音――、否、議会から出た人々の騒めきを悟っていた。


「今頃外は、大騒ぎになっているだろうな」


 少し離れて歩こうか、と、ポケットに手を入れたギルモア大統領は、二人の間を分け入って我が物となった芝生に沿って歩き出す。後から二人も続いた。


「この瞬間をして、私の名は歴史に刻まれ、これから産まれ行く子どもたちは私を知るだろう。果たして、それがどういう者として映るのかは、次の賽の目次第だろうな」


 吹き荒れる風と面して、彼は葉のない木々の枝木を見つめた。ジェレミー首相からはその表情は伺えなかったが、己の采配が達成された喜びと、神の裁断に対する畏れとが、同じ国の長として否が応でも察せられた。


「本当に、始まるんだね……」


「ああ」


 緑の海を横切る三人の中で、ジェレミー首相は覚束なくホワイトハウスを見上げる。 一方、俄然前を向いたまま横に続くマルコムは、毅然とした面持ちで自分の気になることを聞いた。


「大凡、ムンダネウム壊滅の為に使う兵器は、如何程の物にする予定でいらっしゃいますか?」


 すると、まるで世間話に対するように、ギルモア大統領は実に軽々しい口調で答えた。


「ああ、大体原子力空母4隻に、駆逐艦を20部隊程、陸上部隊に6大隊分かな」


 それに後ろの二人が、同時に目を開いた途端、マルコムの方が素早く口走って応えた。


「思ってたよりも少ない」


「そっちかよ!」


 思わず突っ込んジェレミー首相は、自国の不甲斐なさとアメリカの恐ろしさを改めて思い知り、項垂れるのであった。


「不思議なことを聞くな。そういう情報こそ君の方が知っていると、俺は思っていたものだが」


 一方で、上目遣いに見上げるギルモア大統領の懸念に、マルコムは眼を逸らした。


「そうですね。私も先の会議にで伺おうと思っていましたが、何しろ機密主義の輩ばかりだったものでして」


 偽りもなく事情を述べれば「昔っから頭の固い連中ばかりなんだな」と、ギルモア大統領は鼻を鳴らす。


「まあ、いい。特別に私の方から、そこは計らってあげよう。NSAは、そしてそれを束ねる君は、我々の部隊において必要不可欠な存在だ。これからも影から支えて欲しい。共にナチスの残党を、そしてあの忌まわしい死神の首を、今度こそ掻っ切ってやろうじゃないか」


 嗜虐の色で瞳を濁らせてながら、歪んだ口角をあげ、かつての同胞の制裁をも一切辞さぬ眼差しで空を見る。そのギルモア大統領の冷徹な意思に、ジェレミー首相は身を引いてたじろいた。しかし、その一方で重しげな決意に対し、調子の軽い声が脇から聞こえた。


「あ、いえ。ギルモア大統領。そのことについてなのですが、一つご報告したいことがあるのです」


 すると、ギルモア大統領は立ち止まり、続いて隣に止まったジェレミー首相と同時にマルコムを見やった。


「なんだね? ポストを変えて欲しいというお願いか?」


「あ、いえ。違います。むしろ逆です」


「逆……?」


 曖昧な答えとともに、飄々とした顔でマルコムは、こうして何の脈絡もなく告げてしまったのであった。


「今日づけでもって、私は辞めさせていただきます。NSAの長官も、軍人としての大将の階級も、全て」


 二人の表情は固まった。軽々しい口ぶりと内容が噛み合わず、しばらくしてからその意味を悟ったとき、風によってその叫びは、ホワイトハウスの星条旗にまで響き渡った。


「え、ええええええええ!?」


五、決意の第一歩へ


 そこは紅色の表紙に埋められた書棚が囲む、重厚な執務室。突き当りの広い窓には、レースのカーテンごしに日差しを受けて、背の高い黒髪の男が立っている。


「ほう、マルコム氏が」


 それは、些か諌めるような口調で呟いていた。そして、後ろの柔いソファに腰を下ろし陰鬱に顔覆うジェレミー首相へ、黒髪の男は、上質なスーツが覆うその妙齢ながらも優美な肢体を向ける。


「あの黒豹が……全てを辞めてから、私設の兵士軍団を作ってムンダネウム壊滅作戦に乗じるとは、ね」


「ああ、その中にはきっと私たちの国の――、イギリスの義勇兵も参加する可能性が高い。そしたら、私はそれを止める権利がない……。これではまた、同胞が犠牲になってしまうではないか……それも、私設という、生き残る可能性が限りなく低くなる中で……! これでは、同胞を護るという体での、不参加の意味とは一体……?」


 と、自分の想いがますます無碍にされていく中で嘆くジェレミー首相。それを見遣りながら窓縁に手をつく男はその隣、執務机の右にある止まり木に手をかけ、其処に引っかかっている銀燭の餌台を摘んだ。

 

 そこで彼が一言「おいで」と言えば、先程まで微動だにせずに止まり木に佇んでいた白梟が、主人の声に嘴を向けては枝を伝い、彼の掲げる右肘に飛び上がってはその腕に留まったのである。


 その拍子に広げた両翼には数百の、丹精に並んだ羽の一つ一つが白い光を透かして瞬き、灰と白と黒の羽毛入り混じる翼は、描き撫ぜる風の勢いと共に揺らめいた。

 

 その、智慧の象徴たる梟を羨ましげに見上げるジェレミー首相を、梟と同じ瞳孔の大きい琥珀色の瞳が睨みつける。


「首相。そうやって、へこたれている暇はありませんぞ。それならば同胞として、我々の為すべきことはまだ、山のようにあるではありませんか」


 彼は餌を摘んだ指の開いた薬指で、自らの額を叩いた。


「いずれ、その紛争が終わったとき、裁判を担当する義務が私にはあります。そのための下調べを済ませなければならない。そのためには、全貌を、この国の中で最も知る貴方の協力が必要なのですよ」


 餌を啄む梟を片腕に、眼光鋭く流麗な顔を向け、男は梟の足取りを揺らす。


「いいですか。我々国際判事からすれば、戦いは終わってからこそが、本番なのです。その裁判の判決によって、紛争による犠牲者の生きた意味も、死んだ意味も大きく変わってしまう。彼らのことを思うなら、終わりのために、できることをするだけです。だから、今は前を向きなされ。俯くのは書類を読むときだけで良いのです」


 その覇気に、コリンズ首相は涙を微かにとどめた瞳を開いてはぼんやりと口を開いた。


「ホールダネスくん……なんか、君、変わったよね……」


 と、名前を呼ばれたその男――、ホールダネスは懸念に首を傾けたが、コリンズ首相はその眉の凹凸に、彼の言葉が演技でないと悟り、微かに口角をあげた。


「君がそんなまともなことを言うなんてね。先月までの君だったら、どうぞ好き勝手に殺し合ってくれれば良いとか、戦わないことを選んだ我らが、裁判のイザコザで奴らが取りこぼした美味しいところを掬っていけばいい――とか、随分とひっどいこと言いそうだったじゃないか」


「は……!? そういうと思うなら、なぜわざわざ相談しようと思ったのですか!」


「んふふ、それに反抗する気持ちを持つことで、自分を奮い立たせようとしたかっただけだよ」


口元を覆って、ホールダネスの悪いところまでを、自分の意志の糧としようとした強かさなる笑みに、ホールダネスは今度は梟と同時に首を傾けて閉口した。


「けれど、そうじゃなくて良かった。そうして全うに励ましてくれる方が、やっぱりずっとずっと、良いや」


 すると、安堵のため息とともに、コリンズ首相は口元から手を離した。


「どうしたの、ホールダネス君。何かあったのかい」


 紅茶にようやく手をつけたコリンズ首相に対し、ホールダネスは一瞬伏せる瞳に影を忍ばせて小さな声で答えた。


「もしかして、ジェレミー首相ですか? ゲオルクのクローン……あのジョージ・ルキッドに、彼の持っていた組紐の意味を教えたのは」


「え、ええ……!?」


 質問に対し質問に返され、しかも、かなり話題を逸らされたことに、首相は紅茶をこぼしそうになりながら、戸惑いつつ顔をあげる。


「え、ええー……? どうしたの急に? それもその、下調べってのに必要なこと?」


「ええ」


 瞳孔の大きい四つの瞳に押されつつ、ジェレミー首相は徐に頷いた。


「ええ、ああ、うん。知っていたのかい? カルカッソンヌでのパーティーのとき……あそこで、他の人たちみたいに、彼を高見から物みたいに見下ろすのがなんだか心地悪くてさ。そしたら、いつの間にか階段を降りて彼に話しかけていたんだよ、僕は」


 そして、無言の視線に従うように、紅茶の波面に、随分と懐かしく感じるカルカッソンヌの情景を映しながら滔々と語った。


「そしたらさ、城塔の窓の脇で彼があまりに哀しそうに横顔を向けているもんだから。どうしたのって聞いたら、その手にチェック柄の組紐をじっと見ていたんだ。で、ジョージ君、その主をずっと探してるって言ってて――、」


「それで、エディンバラのペンギンを彼に紹介したってことですか?」


「なんだい、これじゃただの答え合わせじゃないか。ああ、そうだよ? 僕が彼にアドバイス出来そうな心当たりはそれしかなかったしね……。で、それがどうしたんだい?」


「まあ……それが貴方に対する答えですよ」


「え、はあ?」


 と、今度は首を傾けるのがそちらとなった滑稽さに、ホールダネスは背を向けては拳の甲で口元を押さえたが、そのにやけ顔は収まり切れず、器用に梟の翼が隠した。こうして答えを有耶無耶にされたことの真意を、終ぞジェレミー首相は知らぬまま、遂に時間が迫ったか、やがて立ち上がった。


「まあ、それはともかく、君とはもっと話をしていたかったけれど、君の言う通り、僕も僕の戦いに行こうとするか……」

 

 そうして、扉の向こうにいるであろう者たちに声をかけてから扉が開かれて、執務室が一気に騒がしくなる。すると、ジェレミー首相は最後に指を差し、黒ずくめの一人が持つ本をホールダネスへと差し出した。


「そして、君の戦いのための協力するために、これを託すことにしよう」


「は? それは一体?」


「ムンダネウムの創始者の一人――、カルク・コーヘンの日記の一つだよ」


 ホールダネスは大きく目を見開いた。


「は……?」


「うん、マルコムくんがブリューメル一家から回収した、ムンダネウムに関する資料の一部だ。それだけは既に暗号解読されている」


「それは、かなりの機密事項ではないですか……。どう、して……。それを、私に……?」


「それだけをマルコムくんが処分しようとしていたからさ」


 すると、コリンズ首相は眉を微かに顰めて言った。


「僕は……、ベリャーエフくんを、あのカルカッソンヌで嵌めたのはやっぱり、マルコムくんだと思うんだよ。それから僕は、彼のしていることを手放しに支援するつもりはないんだ。本当だったら、ベリャーエフくんがしようとしていた、『紛争自体起こさないこと』こそが、最も僕が望んでいたことでもあったからね」


 かつてのカルカッソンヌで叫んだ、見知らぬ黒人の憤怒を彼は思い浮かべる。そのときただ震えながらもジェレミー首相は、その必死な形相から彼の訴えを真摯に受け取っていたのである。


「だから、マルコムくんに味方するフリをして、彼の動向をできる限り人を寄越して監視していた。そしたら、彼が徐にその本だけを処分しようとしていたことに気づいた。そして、それを僕らがすくねた。彼が不当に隠そうとしたもの――、それこそが、平等にこの紛争の裁判を見極めるための要素だと思ってね」


 信じるからね。


 そうして「野猿」は今度こそ、「梟」の目を正面から見つめて言った。


「中身はあえて見ていない。マルコムくんにバレて突き放される前に、それを君に託して、僕はそれを知らなかったことにする。そこに書いてあるがままを、君は裁判で必ず、嘘偽りなく、示してちょうだいね」


 ジェレミー首相は立ち去った。それを見送り、肩に梟、両手に黒い本を抱えて執務室に残されたホールダネスは「なんて、食えない男なんだ」と、軽視していた己が国の首相の手腕に呆然と口開く。


 そして、眼下に小刻みに震える黒い本を見下ろし、やがて恭しく机の上に置いては、その一ページを、心配そうに覗き込む梟と共に見つめあいながら、ゆっくりと開いたのだった。


 その本が語る事実は、やがて全てが終わったときに活かされることになる。


 そして、それはある者との邂逅を彼に呼び起こすものとなったのが、今は誰も知る術はない。ただ、そのときは最初の一文から心惹かれ、ホールダネスは食い入るように続きを追い駆けていったのだった。


 最初の一文にはこう書かれていた。


『この世のどこかにいる、ゴミのように捨てられていた人たちへ』


***


 アレクサンドリアの夜。


 それはまだ、地平線に僅かに霞む水色の空を境に、空に灯る星と鏡写しに煌めく夜光が麗しい景色だった。


「いよいよ、尋常ではなくなってきましたね」


 それは、車のライトが乱雑に行き交う大通りに面した、オープンテラスの呑み屋でのことだ。


 店内の明かりから、ヨーナスがよれたワイシャツにスーツのスラックスというラフな出で立ちで、僅かにはみでたテーブルの端に座っている。其処いらの雑貨屋で買った足首まで覆う革製のサンダルは非常に丈夫で、道路に散らばるチラシやゴミの感触が全然気にならない。


 騒がしい夜の街並みを横目に、眼鏡に光の線を掠めたヨーナスは、瓶ビールの底をその安っぽいプラスチックの白テーブルの端に置いて言った。


「はあ、なんかこう、本当ならあっちゃいけないことばかり起こって、振り回されちゃってるなあって、思いませんか」


 それから「紛争かあ」と、一際大きくため息をつき、腕を組んでは赤ら顔を俯かせた。彼の左脇には外と内を分ける薄汚れた透明なカーテンが隔て、向こうのカウンターに置かれたテレビは、ムンダネウムへの先制が決まった騒ぎに声を沸かせている。


 カウンターには、靴を膝の上に乗せて肘を椅子の背の上に置くジョージが、その隣では足を揃えるミナがじっと画面を見つめてヨーナスにそっぽ向き、出口の縁に手をつく店長でさえ接客を忘れ、お盆を腕の中にしまい込んではテレビの内容に見入っている始末だ。


 すると、一人の男の声だけがヨーナスに応じた。


「そうさなあ」


 何故か笑みを零した声色に、寂し気に目を下げたヨーナスが彼を見上げて言った。


「ウェッブ殿……」


 酔いの目ながらも、しっかりと首を起こし見上げる先には、紺色のラフなワイシャツを着たウェッブが、ビールのジャッキを持つ腕を肘につけて目配せした。

 

 それは、ポーランドでのアーサーの別れから一ヶ月を経て、ようやくヨーナスたちの元へ戻ってきてくた彼の姿であった。アーサーとの別れからの彼の不在によって、不安で心もとなかったヨーナスの面持ちが、アフリカ北端の夜景を背後にする彼を見るだけで、全て吸い上げられていく。


「ヨーナス、悪かったな」


 そして、なじみ深い、いつも自分を諭してくれたウェッブの声が懺悔の言葉を述べる。喧噪の中でも、それはヨーナスの心に染みいっていく。


「アーサーのことばかり気にかけてしまって、お前たちをほっといてしまった。俺は……知らなかったよ。アーサーがそこまで魔女に思い入れしていたなんて。そしていつの間に、あのジョージが灰かむりの猫の所在を突き止めるために、黒豹につこうと思っていたなんてな」


 と、カーテンの向こうにいるジョージを遠くに見上げながら、ウェッブは髭を揺らめかせ息を吐く。


 そう。もう、ウェッブには、黒豹に「寝返る」なんて悪態はもう言えない。


今や、正義は黒豹の側にある。己が命を賭して護るべきアメリカを裏切ったのは、親友の方であったのだから。


「俺は……とんだでくの坊だったぜ。それぞれの想いを知ることもなく、ばたばたと無意味にあっちにいったりこっちに行ったり。見向きもされていないことに気づかないまま結局は、ジョージを黒豹の手中に入れられ、アーサーのことも守れやしなかった。アーサーと約束していたことを一つも、やり切ることが出来なかった……」


 それは初めて、ウェッブが弱音を吐く瞬間であった。出会ってから五年と少し、そのときは見上げるほど眩しかった彼が今――、目の前に頭に指を添えて俯いている。しかし、ヨーナスもまたあのころと違い、幻滅に項垂れるのではなく、むしろ今まで以上の畏敬と愛おしさに目を細めるのだ。


「……やはり、皆さん。女性の方が好きなんでしょうね」


「ははっ、よりによってお前が言うようになったじゃねえか。まあ、俺も女の方を助けちまったしな」


 自嘲気味に笑ったのを、ヨーナスはグラスを両手に掴みながら目を伏せたが、その眼差しは今だ穏やかであった。


「いいえ、貴方の場合は、正義という名の志に、ですよ」


 それにしばしの沈黙が流れて、クラクションと共に車のライトがウェッブを逆光に染めた。


「……そう、だな。もし、あのとき俺がフロランスの方を助けなかったら、俺は一生、自分を許せなかった」


「ウェッブ殿……」


「ああ、ああ。後悔はしていない。俺は、俺の正義を為すために、自分で選んだ道を進み続けるだけだ。これからもな」


 自ら言い聞かせるように、ウェッブは微かに震える眦を押さえるように、太い指で眉間を押さえた。その含意ある言葉に、ヨーナスは眉を下げる。


「ウェッブ殿、やはり、貴方はついてきてはくれないのですね……私たちがこれから参加することになる……マルコム大将の部隊に」


「ああ」


 顔を見せないまま、ウェッブは声だけはっきりとして答えた。


「俺はあくまでアメリカに忠義を尽くす。けれど、それでも俺は、どうしても、あの黒豹野郎の元に付くことは出来ねえ。親友であるアーサーを嵌めて、殺そうとしたヤツにつくことになるのも、俺は自分をどうしても許せねえ」


 ウェッブはあくまで、たとえ証拠がなくとも、カルカッソンヌでアーサーを抹殺しようと嵌めたのは、マルコムだと頑なに思い続けている。


「ごめん、な、さい……」


 ヨーナスが俯いてグラスを握りしめたのを、ウェッブはそこで初めて顔をあげ、眉間から指を離しては微笑んだ。


「馬鹿野郎、驕ってんじゃねえよ。お前は只の一介の巡査だ。俺と違って、黒豹野郎に立てつく立場でもなければ道理もねえよ。巡査は巡査らしく全うに、上の言うことを聞いてりゃいいんだよ」


 意地悪なことを言うウェッブであったが、それは警察官として、よくある軽口であるを互いに悟りつつ、だからこそお前に責任はない、と、慰めているウェッブの心持ちも痛いほどに分かって、ヨーナスはますます哀しいのであった。


「俺は……別の友軍部隊につくことになったぜ。アーサーにとっては所詮同じかもしれねえけど、それが、親友だったあいつに対するせめてもの――、けじめなんだ」


 ヨーナスはグラスを持った腕で鼻を啜った。それに今度は声をあげて笑うウェッブも、グラスを持った腕の肘を付き、その指をヨーナスへ差しながら悠々と語りゆく。


「泣くんじゃねえよ。ぶっちゃけ俺は、贔屓目でもなく、アーサーがそのまま魔女に誑かされたとは思ってねえぜ。あいつは、まんまと色恋に操られるようヤツじゃねえ。あいつなりに魔女と、ムンダネウムに戦おうとしていたと思うんだ。そして多分、それは今も続いている」


 ヨーナスは俯いて聞いていたが、よもや、親友の裏切りをまだ信じていたくない誤魔化しにしか思えなかった。それを知ってか知らずしか、ウェッブの笑みは口角の上げように対し、眉間の片側に影を忍ばせた。


「あいつはな、チェスのときでもいつもそうだったよ。自暴自棄のように見せかけては、相手の油断した懐に忍び込んで、いつもギリギリのところで勝ちやがるんだ。だからの紛争も――、なんだかんだと、この戦いで全てを手に入れられるのは、あいつだけかもしれねえぜ」


「そう、ですか、ねえ……」


 グラスの掴む手をぎゅっと掴みながら、ヨーナスはそれを自分の中で要約しきれず、弱々しく答える。やがて、互いに暑さで結露が溶けた、ずぶ濡れのグラスを呑み交わしながらしばし沈黙に浸ったとき、ウェッブはグラスに縁をつけた唇を開き、突然、話の趣を変えて問いかけた。


「そういや、ヨーナス。なんだったっけ? 六年前、どーしてお前はあのとき、違反のグロック18を持っていたんだ?」


「ええ?」


 喧噪の夜中に大きく腑抜けた声が響いた。


「お前の処分を任せたのは別のヤツだったしな。すっかり忘れてたわ。心残りはできるだけ減らしてえ。今のうち聞いておこー」


「は、はあ……!? なんで今更……? もうみんな忘れてると思ってたのに……!?」


 照れくさくなって顔を腕で囲って隠すヨーナスへ、ウェッブはにやけながら前目のりに詰め寄った。


「いいじゃねえかよ! せっかくだから話せよ。これ以上渋ったら、上官命令で言わせるぞ?」


 ウインクをして茶化すウェッブに、ヨーナスは戸惑いながらも、そのいつものやり取りが、見知らぬ異国の地でよみがえった心地よさに、思わず腕の中でほくそ笑む。


「それは……ですね……」


 そして、湿った眼差しから、今は遠いニューヨークの街並みを、夜景に思い描きながら滔々と答えた。


「当時、上の者たちの日和見主義に、市民の安全や仲間の命が脅かされるのが、どうしても我慢ならなかったからです……」


「ほう?」


「当時はとても治安が悪い時期でもあったじゃないですか。突然の銃撃、襲撃。あの大都市NYではいつ、何が起こる分からないのに、私たちの持っている銃は、あまりにも心許ないと思っていたんです……」


「ああ、確かにそうだったかもしれねえけど……」


「市民や私たちオフィサーが強烈な悪意に晒される実情も知らず、安全なビルに籠る者たちの机上の平和理論は、更なる犠牲と哀しみを産むばかり。 あのときの私はそれを案じ、仲間のために、そして市民を守るために、より威力の強いGLOCK18を手にすることを選んだのです。 彼らが助かるなら、せめて私だけが、罪を被れば、いい、と……」


 すると、ウェッブは深いため息をついて、そのネオンを映す額に手を叩いた。


「ばっか、おめえ。そんな理由だったんじゃあ、アーサーのことも全然責められねえじゃん……」


 と、お酒の勢いを借りながら、大声を張り上げてウェッブはそのとき本気で怒った。


「そーいう不満は、自分だけで背負うんじゃなくて、誰かに話すべきだっただろうが!」


 周りがその喧噪に、一瞬こちらのテーブルに顔を向ける。視線を背後に悟りつつ、ヨーナスは五年越しのお叱りに、目を伏せつつ笑みは止めなかった。


「お前も誰かにとっては、その仲間の一人だってことも忘れて、勝手に頓珍漢な自己犠牲してんじゃねえよ! 全く、どいつも、こいつも、よお!」


 と、テーブル越しにヨーナスの腕を掴んでゆらゆらと揺らす。酔いの中に誤魔化す照れ隠しと哀しみとが、掴む腕の覚束ない力から察せられて、ヨーナスはなすがままに、彼もまた酔いに任せて泣きながら笑っていた。


「でも、今回のことも、ぜーんぶっ、そういう思いから、始まったかもしんねえよな」


 それからしばらくして、ウェッブは声色を落とすと、ヨーナスの腕を掴んだまま、目を細めて言った。


「アーサーも、ジョージも、そしてオーディンも……『何かのためなら、誰かのためなら、自分を犠牲にしてもいい。そうしてまで選んだことが間違いであるはずがない』ってのを正当化して、ここまでぐちゃぐちゃにしちまったんだからなあ……」


「……ウェッブ殿も、オーディンの……?」


「おうよ。そして、全ての始まりもそうだって今知ったぜ。因果なものだな、ヨーナス」


「え……」


 懸念の眼差しのヨーナスに、ウェッブは彼の腕を離し、椅子に座り直す。今度は酔いの目を帯びながらも微かに微笑み、慈父のような眼差しで言った。


「そうだと思わねえか。この物語の全ては、俺とお前から始まった」


 その言葉と共に、アレクサンドリアの熱風が吹き抜けて、ヨーナスの前髪が舞いあがった。二人はそうして空になったグラスを挟み、曖昧でなく今度は真摯に、正面を向いて向かい合う。


「私、たちから……?」


「そーだよ。あんとき、お前がそうしてグロック18を持つことを選んで、それを咎めるために俺がお前が会おうとしなければ、ジョージにも会えなかったし、アーサーともさして関われなかったろう。そこから色々と縁が繋がちまって、ムンダネウムとの因縁も出てきて、こうして、ここまでやってきたんじゃねえの」


 その言葉から、口を開くヨーナスは、粉塵舞いあがる中で、ネオンに瞬く眼鏡の奥から、その瞬間を映し出す。


 今や全ては懐かしい――、六年前、プラザのもみの木の前。黒い服と同じ色のジャケット纏うウェッブと、漆黒の巡査服がまだ真新しい、若輩者だったヨーナス。そのときにヨーナスはまだ、ウェッブの正体さえも知れず、そして、ウェッブが違反者を突き止めるために、とうに自分に目をつけていたことも知れず、勝手に一般市民が入ってきたのだと思いこんで、注意しようと彼に近づいった。


 その何気ない行動が――、こちらに気づくあのウェッブの黒い瞳の動きが、こうして今、かつてのバディだった男の名を持つ、このアフリカの大地を踏みしめる、大きな、大きな、旅路の第一歩となったのだ。


「ウェッブ、どのお」


 鼻水も垂らしながら震える口を開くヨーナスへ、ウェッブは、


「終わらせようぜ」


 と、あのときのように――、ヨーナスと真正面に対峙する黒い瞳を目配せて語った。


「これは、俺とお前の物語だ。お前は巻き込まれた、なんかじゃねえよ、俺とお前の決断が引き起こした全てなんだ。お互いに、責任をもってこの戦いにケリをつけようぜ」


 そうしてウェッブは先の言葉を否定する。巻き込まれた、自分のせいじゃない――、そういう面持ちで生き残れるようなヤワな戦いでないことを知っているから。そんな気持ちで乗り込んで潰えた、数多の別れを知っているから。


「……はい……!」


 最後にウェッブが差し伸べた手を、ヨーナスが両手でしかと掴み、テーブルの上に粒をしとどに落としながらも、笑って答えた。しかしそれからより情動が溢れて、口からもだらしなく嗚咽が溢れてしまう。それに、高らかに笑いながら彼の肩を叩くウェッブ。切なくも睦まじい同胞の姿を――、カーテン越しにジョージはカウンターに肘を置きながらずっと見守っていたのだった。


六、それぞれの分かれ道へ


 キティの顔面に日差しが当たる。顰めっ面に手を掲げながら空を仰ぐ。日差しは無機質な鉄の天井の隙間から漏れているのを悟り、その高さに眩暈をして、思わず足をよろめつかせた。それによって擦れた音から思わず足元を見やる。すると、薄っぺらい鉄床の穴ぼこから男たちが、数人驚いた顔で此方を見上げているではないか。


「きゃ……!」


 キティは下から覗かれた羞恥に顔を赤らめ、太腿の裾を引っ張るも、それはキュレットであったと思い出すと同時に、見上げる男たちもさして何を思うでなく、首を傾けながらキティの下を通り過ぎていったのだった。キティも男たちが渡り歩く景色を見上げると、キティは改めて、此処が何処であるかを悟る。


 しかし、それを確認しようにも、また劈く衝突音に目と耳を塞がれてしまった。


「ぎゃっ! 今度は一体なん、なの……!?」


 顰めた瞳から辛うじて見える光景に、翡翠の瞳は見開く。そこには、鉄の仕切の間に一人ずつの男たちが、チューブ携えて迫るロボットたちと戦い合っていたのだ。


 戦う男たちも生身でありながら、頭から腰にまで至る器具を身につけて銃を片手に奮闘し、それを振り回し、または拳で殴り倒して次々と音を沸かしていく。そうしてロボットたちが路傍の石の如く弾かれ、潰される勢いはとてもどんな屈強な男でも、生身では為されないものなのだと、鉄廊から見下ろすキティはサッシを握り締めながら悟っていた。


「あれは……プロテクターかしら?」


 ふと思い浮かんだ言葉を呟く。それは、人間の筋肉の動きに連動し、それより倍以上の力を引き出す保護具の名であった。保護するとはいえ、それを持ち上げること自体億劫そうだなと思ったものだが、丁度、キティと正面に位置する小柄な男は、それを赤子を背負うも同じと言わんばかりに、脇の男らとは段違いの素早さで、襲い掛かるロボットたちへ軽々と飛び跳ねては、痛恨の蹴りを喰らわしている。


 縦と横とに身体を捻らせ、空を回って踵を落とし、腕と脚をしなやかに銃と共に振っては、ロボットたちを鎧袖一触に薙ぎ倒して行くのだ。


「凄いわねえ……ん?」


 感嘆の息を吐くと共に、キティは何故か「既視感」を感じ、開いた口を閉じて首を捻った。あの軽業師みたいな動き、前にどっかで見たことあるような――、


「凄えな、まるで、ジョージみてえだ」


 出かかった言葉を、眼下に立つ兵服の男たちが代わりに答えた。すると、その隣で一つ結びの女性が、耳打ちする形で答える。


「あれだってね、彼、第二のジョージって言われてる奴なんでしょ?」


「そうだ。なんでもジョージを兄貴と慕って、組手を何度もやったっていうからな。それに影響を受けたとも聞いている」


「元からの素質も相まってってことだったのね」


「ああ。彼は十八歳、そしてジョージもウェッブ殿に拾われたのは、十八の時だ。この偶然さえも、運命ともいえるかもな……」


「しかも、もしかしたらジョージよりも凄くなるかもしれないって噂もあるんでしょ? だって見てよ、あの身体……」


 頭上から、女の倣いに沿ってキティも首をあげ直し再び彼を見る。あの身体――、ジョージと例えられるにしては小さい背丈、にも関わらず、薄褐色の筋肉の盛り上がりは大人のそれと謙遜なく、その差異が異性の胸を騒がせる体つきをしていた。


 体つきに関してはジョージより優れているともいえよう。それに、みるみる青ざめるキティ以外、女性陣は紅潮に顔を綻ばせていたのであった。中でもジョージと明らかに違うのは――、ヘルメットとタートルネックの隙間から覗く、水色の瞳とは対照的な、燃え盛る炎の瞬き。それを見た瞬間キティは、


「やっぱりお前だったかー」


 と、今度こそ目眩によろめいたのであった。さて、喧騒から一歩離れたところでは、兵服に身を包む男女の影が、テーブルに座る御老人の教官からレクチャーを受けている。


「で、よ。ここの突出部が排気口な訳な。こっからモーターが回って飛べるようになる。その最大の高さは20メートルくらいだ」


「えー! 凄いですね! 今はそんな小型なモーターで空も飛べる時代ですか!」


 手取り足取りの説明に、男の方はいちいち高揚しながらコメントを添えている。


「おうよ。そーやって三次元での白兵戦が可能ってやつだな。アメリカ陸軍御用達の最新補助器具っつやつよ。ここでいう通りの訓練さえ積めりゃ、もうてめーらは二度とゲームの世界には戻らねえ。そして、これのもっと凄いところってのは、」


「ところってのは!?」


 胸に両拳を当てながら大声をあげて「わくわく」の例え相応しく、肩をあげて口も開いて待ち構える男に、教官はしばし溜めて、ウインクしながら言った。


「これが、試作品ってトコかな」


 沈黙が奔る。やがて男の方は固まる女性に円満の笑みを向け、そして教官の方へ向き直って一際大きな声でこう答えたのだった。


「あっは! そういうの、大好き!」


 キティは鉄のサッシに肘ついてはその喧噪を眺めていた。いつもならば、彼女もまた意気揚々として、滅多に見れないこの軍事訓練の写真を撮ろうとしていただろうが、その腹の下にぶらさがるカメラは滅多にないシャッターチャンスをも怠惰に流し、だらしなくレンズをもたげるばかりだ。


 それは、拘り続けた手持ちの証拠写真さえも亡くし、キティは正にお役御免と言わんばかり、生と死も扱いに能わずと放り出されたことへの消沈である。今やキティは、機密の軍事施設に入り込むことも咎められない唯の野良猫となり、一方で、拍子抜けした顛末と、居心地の悪い宙ぶらりんな立場の中で、決断の時を迫られている。その憂鬱にも浸っていたのであった。


「はあ……」


 皮肉にも、逃げ回るよりも捕まえられたことで、かつての自由を取り戻し、全ては自分の意志次第で決まる未来へと、キティは改めて空を仰いで悟る。


 鉄の衝突音が煩わしく胸を急かす中、彼女が次に踏み出す先には、枝分かれが目前と待ち受けているのだ。その内の一つとは――、


「キティ」


 そのとき、キティの胸が一瞬にして軽くなった。心地よい鼓動の流れに沿って聞き慣れた声の方を向けば、そこには、すっかり元気を取り戻した武士が、鶯色の制服を着て悠々と歩み寄っていた。


「全く、俺んところに寄らねえで、なーにそんなところで油売ってんだか。黄昏れるような場所でもねーだろ?」


 腰に手をあてて呆れながらも、キティを見つけた安堵に緩む目端は隠せない。さすればキティも、相棒として武士を見上げる眼差しに愛しさを滲ませ、何度も繰り返した目配せを交わし、同時に微笑んだのだった。


 その後、キティの隣へと至って手すりに両肘をつき、ともに訓練の模様を眺める武士へ、キティは斜め上から長い睫毛を伏せる。それは、穏やかな眼差しの中に翳む、一寸の懸念を隠していた。


「武士、貴方はもしかして、私の心を読んでくれてるのかしら」


 隠しつつもキティは期待してしまう。しかし武士は、そんな思惑は流石に知らずして、「こんなの何が良いんだか」と、呆けの眼差しと共に組んだ掌を天井に掲げ、大仰に腕をのばして欠伸をした。


「キティ、俺が日本に強制送還される日が決まったぜ」


 やがて、武士は難なく呟いた。それにキティも驚く様子もなく「そう」とだけ寂しそうに答える。


「ああ。一週間後の朝10時に、アレクサンドリア空港発の便に乗って24時間だってよ。たっく、今まで一緒にやってきた長い道のりも、ジェット機に乗りゃたったの一日で済むなんてな」


 諦観の息で呟く言葉は、顔を向けないキティの答えを必死に引き出さそうとする意図があった。キティも、剥き出しの腕の肌からひしひしと感じ取っていた。


「やっぱり、そうなるのよね」


 キティはその結果に沈む声で受け入れる。が、当然そんな言葉で締めることはない。締められる筈もない。隣で無言のまま佇む武士の意図に応じて、そこから話を切り替えしたのは彼女からであった。


「ごめんね、武士」


 そして、やっと、こみ上げるような声で言った。カルカッソンヌで一度生き別れてしまったときから、ずっと言いたかった言葉だった。


「こうなってしまったのは、全て私のせいでしょう。私が、もっと早く魔女に気づいて逃げることが出来れば、貴方だって、私のために日本大使館に詰め寄らなかった。そうすればもう二度と、元の日々に戻れることがないのも、貴方もとうに知っていたろうに」


 手すりを片手で掴んだまま、ゆっくりと深く頭を下げようとする間に、徐に栗毛の髪を振る。


「いいえいいえ、違うわね。それはホントの意味での、元の日々に返されるってことなのよね。本当に、本当にごめんなさい。私はどうしても、自分の所為で終わらせたくなかった。私が貴方を連れ去って始まった旅なのに、私が貴方を連れて行くと決めた旅だったのに。残念に、残念に、思うわ」


 頭を垂らすキティ。その頂きに返ってきたのは、「辛気くせえなあ」と言う、気怠い声であった。


「いいよ、そんな今更畏まらねえで。俺とお前の仲なんだしよ」


 照れ臭く髪を掻きながら流し目に上を見上げ、次に少し強い口調で武士は言う。


「強いて言えば、あれはジョージを誘拐しようなんてほざいたフロランスが悪い。と、言っても、あのまんまカルカッソンヌに侍っていたら、ジョージに捕まえられて、それこそ二度と戻ってこれたか分かんねえ。アフリカの先っちょまで一緒にいられたんだ。此処が俺たちの最善線だった。そう思うことにしよーぜ」


 最前線にかけてな、などとの冗談は、目配せで表して、武士は再び、キティが隣にいる今在る光景をしみじみと眺める。その言葉から、武士はキティもきっと共に日本に帰ってくれると思っているのが見て取れる。しかし、それにはまだ答えず、キティは話を別の方へ逸らした。


「強がってない?」


「え?」


 キティは俯いたまま、更に踏み込んだことを問いかける。


「貴方は、本当はこの今までの旅でさえも、私にも言えず辛い思いをしたんじゃないのかと思うの。貴方を解放したつもりだったのは、あくまでも私の思い込みに過ぎないし、それに気づかないまま、私は好き勝手に貴方を振り回してきたんじやないかって」


「キティ……」


「捕まえられて、何も出来ない日々が続いたから今更、そんなことばかりを考えて過ごす日々だったわ。だから、武士」


 そして顔をあげ、やけに神妙な翡翠の眼差しで武士の黒い瞳を突いた。


「教えて頂戴。貴方は私の知らないところで、貴方と離れ離れになっていた中で、私に言えないことはなかった? 在ったなら今此処で全部言って頂戴。私は、私の所為で貴方が味わった苦しみを解った上でもう一度、貴方にしっかりと伝えたいことがあるのよ」


 武士は途端、喉仏に埋まっていた名前を飲み込むような、嫌な心地となって汗を滴らせた。自らを責め立てる筈のキティの問いはむしろ、武士にとって窮地に立たす事態となって迫ったのだ。


「まさか、キティ、勘付いてやがるのか?」


 キティに言えない数々が、剥いた白目に過ぎっていく。


 それは、東洋人の自分に興味のあった女を誑かし、その身を売ったこと。マリアのアジトが襲撃されて数多の人々が死んだきっかけを作ったのが自分であること。


 そして、実はキティよりも先にジョージに出会い、彼に全てをバラして彼を貶めたのは自分だったということ。


「なん、でもねえよ……」


 しかし、武士はその問いをはぐらかした。最初の動揺を悟られぬとうに息を整えてから、奸計のために神妙な表情を纏って、キティに向けてしっかりと、固く結ばれた唇を見つめる形で顔をあげた。


「本当に?」


 一方、キティも尻込まない。互いに唇を見つめ合い、その揺らめきが自らの望む言葉を紡ぐため、懸命に自らの唇を忙しなく動かした。


「本当に何でもねえんだってば」


「本当に、本当なのね」


「本当だってば。何でそんなにしつこく聞くんだよ」


 武士が訝しげな声を強めると、キティはバツが悪そうな顔を逸らし「ごめん」と、小さく呟いた。


「あえて不満をあげるとすりゃ、それはお前自身のことだぜ、キティ」


 すると、今度はポケットに手を突っ込みながら、武士がキティを問いつめる。斜めに顔を傾け、上目遣いに彼女を見上げ、やや切羽詰まった面持ちで細長い黒髪揺らして艶を見せる。


「何にも言ってくれねーのは、むしろお前の方じゃねえか」


 言いかけようとしたキティに構わず言葉を続ける。


「一緒に旅を続ける中、お前は確かに旅の理由を教えてくれた、写真を見せてくれた、誰も知らないことを俺にだけ伝えてくれた。けどよ、それでも俺は何も知らない。お前が何者で何処に生まれ、何処で育って今此処にいるのか、こんなに一緒に居るのに、俺はそれについてはお前から話しを聞いたことがない」


 どんどん大きくなっていく声に、キティが栗毛の尾を揺らして顔をあげる。それは、今にも泣き出しそうに、表情の筋が崩れかかる顔。


「キティ、俺たちは平等だよな」


「勿論よ」


 即答だった。


「だったらもう、教えてくれたって良いんじゃねえのか? 俺は、お前と巡り合ったその瞬間から既に、隠したかった全てをお前に知られている。なのに、俺は何も知れないなんてそれこそ不平等だろ。だから、」


 一歩踏み出した拍子にまた、キティは瞼を伏せて俯いた。


「そう、だわね」


 と、声はか細く。


「そう、だったわね」


 その一言はただ繰り返した訳ではない。武士とともに居ること、それがどういう意味を為すかを改めて悟っていた。


「そうだ。武士の相棒として、飛行機に乗る道を選ぶというのは――、そういうことにもなるんだ」


 唾を飲み込む。かつて味わったような、血溜まりを呑んだ感触がした。キティは武士の視線に耐え忍びながら、汗を滴らせ唇を震わせる。


 果たして、私は武士に話せるのだろうか、と、思い馳せる。


 自らの正体を、遠く望郷の彼方へ追いやった、海の向こうにある不浄な島で起こった日のことを。


 キティは一人問う。果たして、「武士といたいから」という理由で、私は私を語ることを選べるのだろうか?


「そ、それは……」


 武士に答える為に、そして自分に応える為に、キティは小さく呟く。その矢先、睫毛に映ったのは相変わらず、ロボットたちを薙き払うカマラの背中姿だった。轟音を鳴り散らしながら、敵を拳で肘でつき崩すその殺陣捌きに、心ならずもキティは、それに自らの思考を放り投げて見つめてしまった。


 すると、彼の素早い指の叩きや、寸止めにキュッと音鳴らす爪先の力加減に、ああ、と、別に嬉しいことでもないのに、目の先を綻ばせて笑ってしまうのだ。


 そう、あれはやっぱり――「ジョージ」の動きなんだなあ、と。


「私、そんなのに気付くらい、彼のこと見ていたっけな」


 半袖から動く、逞しい薄褐色の腕の脈動や、足の付け根から何の手入れもなく茫々に生える毛の揺らめきが、不思議とそれらとは無縁な陶器のように白い肌と華奢な身体を思い起こすのだ。


 翡翠色の視線はまた、別の趣を為してその線を追おうと辿る。計り知れぬ鍛錬を生かしたそのしなやかな動きをもってキティを襲い、その身体に痛々しい穴を幾つも開けたこと、そして、その傷口を無理役裂くようにキティの奥底を掴んで行ったのを。


「どうして、私だったのだろう。どうして貴方は私をそこまで追いかけていったのだろう」


 キティは知っていた。ジョージがマルコムに従う代わりに、自分の過去を突き止める時間を貰っていたということを。こっそりと教えてくれた高珊の、黒い瞳に映る自分の姿が、戦慄に固まっていたのを他所事のように思い出す。


 唯の悔しさにだけであろうなら、分かる。しかし、それだけに留まらず、わざわざ自分の故郷にまで追いかけてこようなどとは――、根回しなど彼らしくもない。そんなことに興味を持たない、唾吐き捨てるのが貴方だったのでなかろうか。それならきっと、『そういうこと』ではないのだ。


「知りたいと思う」


 そこまで一人、心の中で呟く。


「貴方は私のことを知ってどう思ったのだろう。私の見方がどう変わったのだろう。それとも、何も変わらなかっただろうか」


 それから一人、目を伏せて続く。


「知りたいと思う。どうして私だったのだろう。どうしてこの私を、自らの行く末を犠牲にしてまで、追いかけたいと思ったのだろう。そして、どうして」


 思い出す。銀の飛行機に映える金色の靡き、橙色の電灯に瞬いた宝石が如く青い瞳。


『行こうぜ、世界の果てまでよ』


  武士とは反対にこれから死地へと、この地のもっと向こうまで向かわんとする黒い裾の揺らめき。ああ、あそこまで追いかけといて、一緒にとは言ってくれない憎らしさや。キティは口端を歪めながら、それでもくつくつと笑った。


「……キティ?」


 武士は一歩踏み出し、両手を微かに広げて歩み寄る。しかし、そこからキティが長い栗色の髪と立ち上がった拍子に舞い上げたとき、その歩は止まった。


「河岸を変えましょう、武士」


 髪が落ちゆくその隙間から、翡翠色の鋭い流し目が光る。


「その場で私は伝えるわ。貴方の気持ちにどう答えるのかを」


***


 古深いアレクサンドリアには、今は無き灯台に限らず、現在も名高い遺産が残っている。その内の一つ、カーイト・ベイの要塞もまた、中世期の城壁が広がる景観と海の眺めが、元々灯台の場所に建てられたというのもあって、壮観の極みを連ねている。


 唯一残念なところといったら、名所が故に常に観光客が多く常に騒々しいことであった。


 徐々に陰ってゆく太陽に照らされた城壁の陰影と、そぞろに続く人々の声を通り過ぎながら、武士はカーイト・ベイの城中を歩いていた。風化を晒す、だからこそ情緒が胸に染み入る城壁を見渡すと、城壁内の広場は四方に黄土色の壁が取り囲み、武士の目前に三塔が高く聳え立つのが見えた。その鋸壁からは黒赤のエジプト国旗がはためいている。


 武士もやがて観光客と同じく、四隅に沿ってあった石板に座り、もう一度さめざめど黄土色の瞬きと、広場に生え揃う椰子の木、その線になぞって差し込む黒い影との色彩の艶やかさに感嘆の息を吐いた。それはやがて武士にとって一生忘れ得ぬ景色となる。何故なら――、


「どう、いう、こと、だよ……」


 騒がしかった観光客がいつの間にか疎らとなった中、武士は立ち尽くし、目を戦慄に強張らせていた。震える瞳の先には、橙色の丸外灯に縁取られたアレクサンドルの海岸線と、向こうに陰る群青色から白波を立たす、海を眺めるキティの背中があった。


 キティはやがて、群青の空に際立つ翡翠色の目を瞬かせてごめん、と、呟く。しかし、その何気ない一言こそが、柔い海風に吹き飛ばされてしまいそうな衝動を武士に齎すのだ。そして、キティは言う。この城塔の上から臨める、美しい景色で語るにふさわしい決意を。




「武士、やっぱり私は、貴方とは一緒に行けない」




 海風が、彼女の髪と声を揺らした。


「やっぱり、って、なんだよ……」


 一方、武士は残響を目端に追いかけて、咄嗟に出た惑いを口走る。


「嘘、だろ……?そんな、まさか……」


 武士はキティの発した言葉の持つ意味を、その言葉がもたらす彼女の行末を、全て察した上で首を振った。いや、そんなことがある筈もない、と、どこか遠いいつの日に習った英語の羅列を並べ、無理矢理自分の一番都合の良い解釈へ捻じ曲げる。


「誰かに今……銃でも突きつけられているのか?」


 汗を滲ませて、睨みあげれば、それにキティは未練を残さぬように、首をしっかりと振った。


「いいえ、それは違う」


「なら、死に際の誰かに、託されたからこそなのか?」


 武士の懸念はさすが相棒というべきか、キティの痛いところを突いてくる。少し眉を上げたキティだったが、やがてゆっくりと元に戻せば、


「違うわ」


 と、そこでもはっきり言った。キティはもう、ジュリアの声に追い縋ることは出来ない。ジュリアとの約束は皮肉なことに、自分が居ない形で果たされてしまったのだから。


「キティ! 行くな!」


 すると、望郷の彼方に浮かぶ翡翠の瞳を醒まさせようと、武士の咆哮が星の瞬きを揺れ動かす。大仰に踏み出し、両手を掲げ武士は叫ぶ。


「お前が行こうとしている道は絶対に間違っている! わざわざ死地に行くような真似を、相棒として受け入れるわけにはいかない!」


 ああ、つくづく、つくづく。こみ上げる彼の愛おしさが喉奥から零れ出るの押さえるためにキティは息を呑み、ゆっくりと頷いた。それから、


「やっぱり分かって、くれたのね」


 綻びかける顔を取り繕い、キティは声を震わせて微笑む。


「いいや! 分っかんねえよ!」


 しかし、武士は自らの必死さを察しない答えに苛立ち、片腕を振って声を荒げた。


「なんっ、でだよ! 俺と一緒に行った方が、少なくとも命の保証はされてんだ! なんでそれを無下にするようなことをするんだよ! おかしいだろ!」


 それにはキティも素直に目を伏せて、「本当にその通りだと思う」と、思いつつ、引き締まったままの唇はそれでも「ならば、ついていく」とは言わないのだ。


 ますます武士の顰みが歪む。答えてくれる毎に、ますます訳が分からなくなっていく。腕を振り下ろし拳を握りしめて、情動の趣くままに武士は歯を剥く。影が、もう一つのカーイト・ベイを地上に描いてゆく中で。


「もう良いじゃねえか! あんたは今まで本当に、本当によくやったよ! 身元もない、力もない、武器も持たない唯の女が、よく此処まで生きて来れたと誰しもが思うだろうよ! ここまでやったんだ、もう良い加減決めようじゃねえか! 義務とか責任とかに煩うことなく、欲望の趣くままに、身の保身に生きることを選んだって!」


 それは、キティにとって滅多に言われない言葉の羅列だった。しかし、それが仇と出たか、キティは街灯の光を借りるだけの眼差しを向ける。


「おい! いつまでもそんな曖昧な態度でやり過ごそうってんなら、無理矢理にでも俺は連れていくぞ!」


 そこで遂に、勢い良く彼女の手首を掴んで、武士は引っ張り上げようした。すると、武士の指からするりと滑り落ちたキティの指は、それから武士の頬に触れ、掌で包んだのだ。男子高生の頬より大きく、浅黒い手だった。


「武士」


 キティの凛とした声が鳴った。静謐な声色が醸す、彼女の生き様に、はっと武士は眉を下げてキティを見上げる。


「私が今、こうして貴方に言うことを噛みあぐねいているのは、私がどうしても其処に行かなければならない理由が言えない訳じゃない。そんなことより私は……貴方と別れなければならない理由を語るのが余りにも、辛いのよ」


 神妙を保ちながら汗を滴らせるキティの、荒くなった息遣いに合わせて、強張った顔を崩しゆく武士は、浅黒い掌の中で目端に一粒を煌めかせた。


「なん、なん、だよ、それ」


 やがて、顔の均衡を保つ力もなくなって、震える武士の頬に涙の筋が流れた。キティは、本当は今にも耳を塞ぎたいだろうに、と、悟りながらも武士の顔を真正面に捉え、それをもう片方の掌で優しく撫ぜて、そして両手で包み込んだのだ。


「ねえ、武士」


 慈みを為した声で腰を屈み、武士と同じ視線となって顔を近づける。


「本当は貴方から言ってくれるまで、待つつもりだったけれど」


 掌の中にある武士の為にだけに小さく、途切れ途切れに惑いながら彼女はこの言葉を紡いだ。


「武士は、私のこと、好き?」


 首を傾け、栗色の髪が撫でるように武士の頭を掠める。すると、武士は目を瞑った途端にわっと口開いては、嗚咽をあげて泣き伏せた。


「馬鹿野郎おおおおおおお!」


 獣のような咆哮をあげながら、武士はキティの手を握り返す。


「好きじゃなかったら、好きじゃなかったら、ここまでしてお前を止めるかあああああ!」


 肩をあげて理性の効かなくなった叫びが、音調もばらばらに響き渡る。キティは「そうだよね、ほんと、そうだよね」と、笑いながらも、その声は武士の情動に合わせて今にも泣き出しそうであった。


「ありがとう、ありがとう」


 頷きながら繰り返し、鼻をも啜る。


「そんなことを言ってくれるのは、この世界に唯一人、貴方だけ。私、本当に貴方に出会えて良かったわ」


「それなら、何故! 何故なんだ! お前は俺から居なくなってしまうんだ!」


 開けた口から零れ落ちる涙を弾かせて、武士はぐしゃぐしゃになった顔で嘆く。その浅ましい姿を前にしてもキティは、何の懸念もなく微笑んだままじっと見つめている。


「私は、その答えを出す為に、あの日からをずっと考えていた」


 そして、言う。


「私にとって貴方は何なんだろう。貴方を連れて行くと決めたときは、新たな不安と恐怖も確かにあった筈なのに、それでも道連れにして止められなかったのは。時として部屋に眠る貴方の横顔をずっと見つめながら考えていたのよ。それでも、貴方に分かってもらえるような言葉にするのが、どうしても出来なかった」


 そこでキティは顔を逸らす。目を伏せて、自ら納得するような仕草で頷いた。


「ある日、何気なく眠る貴方の横で膝を付いたとき、ええ、人間って本当に不思議よね。そんな時に限って急に思いつくものなのだから」


 武士はそのとき、目をうっすら開きながら、キティが語る間にもひくひくと喉をしゃくり、身を揺らしながら聞き入っている。寝顔を見つめられていた、その突然の事実に涙でべったりと濡れた頬をもほんのりと赤く染めて。


「何も語ることが出来なかった。それ自体こそが、私から貴方に対する答えなんだって気づいたの。私にとって、貴方は鏡だったんだって」


 キティはそれから、沈黙を置いて息を呑む。抽象的な今の言葉を噛み解くためのーー、最初の、そしてとっておきの一言を述べる。


「貴方は私、だったのよ」



 武士はそれに、ひくつく喉の奥を飲み込んだ。鼻水も涙も流しっぱなしに、しかし、目は微かな生気に瞬いた。


「俺が、お前?」


 武士の問いに、キティは掠れ声をあげて頷いた。


「そう、私は貴方だった……。それは、学校の屋上で貴方を見た日、都会のビルが墓標のように貴方を見守る屋上の景色を見たときから、とうに気づいていたのよ」


 そのとき、絶望に浸る真っ黒な瞳を、黄昏時の空へ向けていた彼を思い出す。今の景色と重なり、その中でキティは諭した。


「あれはきっと、私だったのよ。誰にも構われず、誰にも助けてもらえない、独りぼっちで死に向かい、片足を突っ込もうとしていた昔の私。貴方の姿を見た瞬間、私は私自身に出逢っていたの。いまや、その名を呼ぶさえも末恐ろしい、忌々しい故郷に置き去りしたままの私が――、」


 それは初めて、自らの過去を語る瞬間だった。その相手をキティは武士に選んだ。


「誰も助けてくれなかったから、今度は私自身の手で私を助けたかった。貴方をあの屋上から連れ出すことは、昔の私を救うのも同じだった。私は、私と旅をしていたの」


 そうだとすれば確かに、辻褄は合うと武士は思った。出逢ったあのとき、自分の苦悩を一文字も違わず言い当てたのも、自らをを庇って守り続けたのも、全ては自分だと捉えていたからこそなのだと。


 それは、相棒という言葉よりもずっと、ずっと深い意味なのだと悟れば、身体から隙間なく熱が込み上がってくる。目眩のするような愉悦に紅潮し綻びかかる。けれど、終ぞ武士は食いしばる唇を離すことはなかった。


 自分を愛する。しかし、その愛とは――、




「女が男を愛す愛とは、違う。それは、貴方でも分かるわね?」




 キティは瞬きをする拍子に、首を傾けた。そのときをして、キティは涙を一筋だけ流したのだ。武士はその問いに頷く。繰り返し、深く頷く。ボロボロに涙を流しながら薄ら笑って頷いた。全てが終わったという安堵、哀しみ。自らを皮肉る痛みに歪む眉。


「やっぱり、流石に、あいつよりは俺、魅力なかったかなあ……」


 キティがそれに「あいつって、誰のこと?」なんて、赤子に問う声色で言うものだから、武士は堪らなくなって、その谷間の深い彼女の胸に飛び込んだのだ。


 キティは何の抵抗もなく、両手を広げて受けとめる。するり、カメラが彼女の腋の下にと外れて、その時ばかりはキティの全ては武士のものとなった。


 腕を回し、武士の髪を撫でてキティは武士を抱きしめた。最初に出会ったのと同じように強く、強く。違うのは、最後を惜しみながらということ。武士の髪の細さや鼻の形が柔い胸から伝わろうとも、揺らがない。

 

 恋人とするよりも深い抱擁であり、何より変えがたい、決別の挨拶だった。


「武士、今まで本当にありがとう」


 布擦る音が、切なく武士の胸に滲む。背中から伝わる指の平の形が、擽ったくキティの心を揺らす。


「どうか、どうか、貴方だけは幸せになって欲しい。なれなかったもう一人の私、出会えたかもしれなかった私の代わりに、これから人生を全うしてほしい。どうか、貴方が居る、それだけで希望として生きる、どこか遠くにいる私を忘れないで。貴方にとって、私もそうでありますように……」


 武士は柔い胸の中に埋もれながら、目を開けば目端に映るであろう、群青色の海と空を思い描いていた。さざ波が、潮の匂いを穏やかに運ぶ。


「ああ、やはり、お前はうつろ姫だったのか」


 そんな言葉もあのとき、最初に言ったような気がする。そして武士は、最後にキティに聞こえる形で呟いた。キティは何も答えなかった。武士も続けることもなく、やがて曲線の縁に沿って、睫毛をゆっくりと伏せたのだった。


***


「あっれえ。どうしたのお武士君。まるで死人みたいだよお」


 夜。要塞の跡地から異国の情緒を眺めている武士に、誰がか声をかける。目端に見えた男のその名を思い出す武士は、「ああ」と、小さく答えて身体を起こし、向かい合った。


「田中首相、一体どうしてここに」


 石壁の縁に片手を置く武士に、小柄な眼鏡の老人、田中ははんっと鼻を鳴らし目を伏せた。


「なーに言ってんの。ここは有名な観光地だよ。そんなのを聞くこと自体、無粋なものさ」


 それもそうですね、と、答えた武士は、暗がりの中で血色の悪い顔を風に晒し、不気味な笑みをたたえている。その顔は涙の跡を為してふやけていた。


「それより君も、一体どうしたんだい? 自分の顔が今、どうなっているかも知らないの?」


 数多の男たちの影を背後に、照明に瞬く頭を掻いた田中の言葉に、武士は全く表情を動かさないまま髪だけを忙しなく振る。


「これは、まあフられちまったってやつでして」


 それからか細い声で言えば、また、石壁へと身体を向き直して顎に皺寄せ、肘をついて黄昏る。すると、更に剽軽な声が湧き上がった。


「え、マジで!? 僕、人がフられた場面に立ち会うの、これで二回目なんだけど!?」


「え……、一回目って誰……」


 弱々しく問いかけた虚ろな瞳に、田中は「あーあー」と、言葉を濁しながら、武士の方へと歩み寄った。


「まあ、それはともかく。なんてね」


 マルコムの口癖をわざとらしく真似、眉を下げた面持ちで武士を見上げる。


「君をフった相手ってのは、あの灰かむりの猫ちゃんのことだね……」

 

 武士はゆっくりと頷いた。


「ま、仕方ねえですよ。やっぱり金髪碧眼の美青年カッコワライに勝てるワケがなかったわけでして」


 自嘲気味に薄ら笑って頬杖をつく武士の隣で、田中は黙って同じ海を見た。


「ふうん、そういうもんかな」


 やがて、さざ波が闇の向こうに渡る中、田中はそれを否とする趣を醸した。


「僕は、結構無粋なことを言うけれどもね、見た目とか何とか関係なく、君から猫ちゃんが離れていくのは必然だったと思うんだよ」


 風が凪ぐ。代わりに揺れるは武士の心。虚無の瞳が見開かれる。


「それは、どういう」


「君、話してくれたじゃん。猫ちゃんをうつろ船の蛮女と見ていたんだろう? そういう話が好きな君にとって、そうやって彼女を位置づけること自体に、この別れさえ運命づけられたんだと思わなかったんかね」


「え……?」


 ぽかんと口を開く、理知的な少年でも及ばない領域を、後ろに手を組む、学を持たない老人の鋭い瞳が突き差す。


「君は知っていた筈だろう。うつろ船の蛮女は最後どうなったんだ? 再び海に放たれてしまったじゃないか。彼らの前から姿を消したんだろうが。そうだよ、人間ならざる女たちは、海の向こうにいた女たちは、古今東西、物語では必ず、夫や、恋人や子どもたちから姿を消す結末を迎えてしまう。玉依姫しかり、かぐや姫しかり、羽衣の天女しかり、西洋の話ではメルジューヌしかり……」


 淡々とした田中の語りに、武士はさめざめと懐かしい、あの古い本の匂いを思い出す。


「そう、いえば」


「異類婚姻譚の名のある通り、それは一種の道理でもあるんだよ。人というのは、どうして異国の女にそんな結末を、仕打ちを与え続けていたんかね。そうだ、そんな彼女たちを狂おしく愛おしいと思いながらも、いつまでも側にいる話にはさせなかった」


 武士は目を伏せる。否定の言葉は、出なかった。


「それは、なんで、でしょうね……」


「ホント、なんで、なんだろうなあ」


 そうやって、互いにトートロジーに呟き合い、田中は空を見上げ、武士は海を見下ろしそれぞれ頭をあげて、下ろす。


「常世から来る女は、必ず常世に戻る運命、か……」


 空に溶けていく水平線を見ながら、彼女を思う日々が続いてゆく。しかし田中の言ったようにそれを道理を解すれば、気が狂うほどの孤独も少しは和らいでゆくのかも、と、武士は思ったのだ。


「俺とお前は同じ。離れるべきと思ったのは俺も同じだったのかも、か……」


 武士は自ら納得する答えを導き出す。それは、あの箱庭で広げていった妄想のそれと同じだった。さて、病はまだまだ、武士を侵してゆくままか。それとも――、


「さようなら、俺のうつろ姫」


 妄想に始まり、妄想に終わる。やがて水平線が空に溶け込んだとき、武士も最後は空を仰ぎながら涙を流し、目を瞑った。


 


 キティと武士。長い旅路を駆け巡ってきたかけがえのない相棒は、こうして決別するに至った。そして――、二度と会うことはなかったという。



 キティは武士に背を向け、新たな一歩へと進む。



 このアフリカ最北端の地で、いよいよ、猫と猟犬が交わる。


(中編へ続く)


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