第7話 ポーランド編(後編)
14、少年の策略
曙の日差しが、夕焼けの如く照り返る季節。
橙色の空を横切る細雲が、空の色を借りてゆっくりと漂う。その情景を鉄格子のから目配せた少年は、シーツの中で横たわったまま背伸びをし、それからゆっくりと起き上がっていた。
まだ萎む瞼を擦り、しばらく揺蕩うその少年は、一糸纏わぬ裸体を底冷えの牢内に曝したまま、青白い細身の身体に映える幾つもの赤い噛み跡を撫ぜる。痛いというよりは、指先の冷たさの方に彼は眉を顰めた。そのまま忌々しく見下ろすは、その隣で寝入っている、艶かしい身体の曲線をシーツに浮かばせる女性。それから唾吐捨てる面持ちで、彼女の反対側へ身体を向ける少年は、手を伸ばす。
薄汚れた石畳の端に、投げ捨てられた水色のボクサーパンツを器用に、地べたのまま履き直し、下着さえ纏わずに裸のままシャツを羽織って俯きボタンを嵌める。すると、途端聞こえた小さな足音にようやく目を覚ませば、まだ嵌めきらない内に立ち上がりながら振り向いて、鉄格子を左手で掴み、壁に素早くその身を壁に貼り付ける。空いた右手にはあの緑色の表紙である、スクラックブックが握られていた。朝日の冷たい白い日差しがその少年――、武士は決意の顔を露わにする。
「来たか……!」
足音の正体は、森の中、朝霧にぼんやり影を映す身なりの貧しい男だった。やがて森の中から露被る芝生へと、水滴弾かせながら向かってきた人影は、武士のいる円筒の石牢の左手、勝手口にあたる古めかしい木扉の近くに止まる。
武士は目端ギリギリまでに瞳を寄せて、その姿を凝視する。それは、ここが貸し切りになっているとも知らずに、デッサンが狂っている手作り人形をあばら家で売っている愚かな行商人だ。そして、この廃城近くに出入りする、組織とは何の関係もない一般人であった。
武士は唇引き締めながら、彼の行動を懸命に追っている。まして今、冷気に鼻を疼かせて出したくしゃみを新聞にぶちかましたまま、鼻をすすって読む怠惰なその男も男とて、まさか隣で目を剥く少年の運命を握っているとは、思いも寄らないでいるだろう。
そうして、何事もなく男が新聞を片手に掲げたとき、そのタイミングを計った武士がふんと息を吐きだした勢いで細腕を振り上げては、鉄格子の隙間から本を投げ捨てたのだ。新聞の擦れる音と共に、芝生に本が落ちる音が一瞬だけはみ出た。
「頼む、今ので気付いてくれ……!」
思わず、裏声をあげて武士は祈るも、後ろに横たわっていた女が寝起きの声をあげて身体を捩じらせる。それにしまったと鉄格子から飛び降りた武士は、慌てて隣に膝をつきシャツを脱ぎ捨てる。
「な、に、今の音……ねぇ……」
やがて腋を曝しながら腕をあげ、身体を仰向けにした彼女の上に、再び裸となった武士が上に憚る。彼女がそのままならぬ動揺の気配に眠い眼を細めたまま、グロスを塗った艶やかな唇を開こうとするその前に、目をきつく閉じた武士の唇がそれを奪った。
「ん……」
まだ夢心地の中で触れられたその甘美な心地に、彼女は再び目を閉じてしまった。それが鉄格子の向こうで起こったことを悟られないための、武士の策であったのも知らず。
「あら、今日は随分と積極的なのね……」
それに彼の接吻に応じる彼女は、男女の身体つきの違いから開く隙間を埋めんと、しっとりと濡れた汗と共に身体の線を繋ぐ。白い息を掻き混ぜ合う中で、武士も自らの腰に絡んだ彼女の太腿を付け根から撫ぜては、昼間とは違う手つきで指を手繰り寄せていく。
日没後の夕闇が、此処でもまた始まろうとしていた。石畳に放り投げられた彼女の片手を掴んだ武士は、続きの一手へとほんのり赤くなったその耳に囁く。たどたどしい英語の羅列が彼女の欲情を煽らせる、それを知った上で武士はあえてこう言ったのだった。
「なあ……もう一度、やらないか?」
それに微笑み、首に腕を回して応えた彼女と共にもつれ合い、香りが蒸せ返っていく中――、
外の芝生に膝を付けた行商人は、見つけたスクラックブックを掴んだまま、その頁に書かれたメッセージに気づき、石牢の鉄格子を困惑気味に見上げて呟いたのだった。
「なんか最近は、変なアベックならなんやら、妙なことに出くわすなあ……」
***
「な、に……!? じゃあ、ナターシャ! お前はあの石牢にそんなに物を持ち込ませたというのか!?」
「あんまりも退屈だって言うから、幾つか本を持ってきてやった位よお。 物も書きたいってぐずるからそれも持たせてやったけど、せいぜいクレヨンとかパステルとか、飲んでも死なないやつか、全然武器にならない物しか用意しなかったわよ。それに彼ったら、警戒するどころかあたしにすっかり甘えちゃって……今日は4回もよろしくやってたんだからあ」
「き、さまあ……!」
「あれ? もしかして、未成年に手を出したこと怒ってる? あのね、言っとくけどあたしもまだ」
「馬鹿野郎! 今はそれを心配しているんじゃない!」
すると、トランシーバーの雑音を弾かせ、ニキータの怒声が響いた。
「お前、それ絶対に騙されてるぞ! きっと奴から此処の出処が、バレてしまったに違いないんだ!」
しかし、その種明かしにも未だ、夜の甘美に浸っている女性――、ナターシャは目端を綻ばせ間延びした声で答える。
「えー、大丈夫よお。あいつにそんな大それたことが出来るワケないわあ。まああっちの方は見た目によらず、ご立派だったけど、ね」
「もういい! 兎に角、今すぐ適当に逃げろ! もう、そこもすぐ襲撃されるはずだ! 早くしろ!」
「え、あ、ちょっとお、白の女王様?」
間の悪い彼女の戸惑いに、トレンシーバの破壊音で締めたニキータは、「くそ!」と、激しく悪態ついてはハンドルを叩いた。
「あいつ、弱っちいフリして、とんでもない爆弾だったな! くそっ、チッコイやつだからって油断した!」
「え、何、武士がどうかしたの?って、おわわわわ!」
運転席の脇からキティが身を乗り出して問い詰めるも――、身体が後ろに吹き飛ばされ、尻餅をついてしまう。ニキータが答えの代わりにアクセルを思いきり踏んだからだった。それから脇見にキティを鋭く睨むニキータは、食いしばった唇と共に靨に皺を為す。
「ああ! あえて言うならあの小僧はさすがお前の相棒だなってことだよ! 誑かすことにかけてはきっと、あいつはお前の良い後継者になれるだろうがよ! スクラッチブックをそんな風に使いやがって! 」
「はあ!? 何よそれ!? 」
次にブレーキが踏まれた。今度はその勢いに乗って、キティは前めのりになって飛び出す。そうして二人が煩く言い争っている其処を他所に、マリアは一人窓枠に肘をつけ、素早く通り過ぎる木々の映りを眺めていた。今更此処からどんなに急いだところで、どうせ間に合わないことを悟っていたからだ。最悪の事態から、マリアは其処からゆっくりと覚悟の準備へと入っていった。
「ムンダネウム、か……」
そして傍観の彼方を見据え、マリアは独り言つ。それは、キティから提案されたその言葉の反復だった。既に流線の彩りとなり鑑、賞の余地も無くなった景色にぼんやりと、今だ見えぬ彼の今の姿を思い浮かべながら。
「ねえ、もう一度、ゲオルク・ライヒートに会ってみたいとは思わないの?」
全てを見透かした面持ちで囁く翡翠の瞳に、紫の反射が麗しい水色の瞳は陰る。
すると、窓の向こうで――、何十年経っても一片も忘れ得ぬ、その灰色の左目が少し細まったような気がした。それにはっと顔をあげた時、三毛猫がまた鳴いた。
***
ナターシャは下着にローブを纏っただけの格好で、石回廊を降りていった。際どい所まで露わにした太腿に引っ掛けたガータベルトにはナイフが備え付けられている。女はひとまずニキータの言われた通りにしようと、憮然としながらも回廊を降りていったのだった。でも、それはまた別の夢のようにも思えて、ぼんやりとした顔が漆黒の窓に映る。
「そんな、まさか、ねえ……」
こんな、ただっ広い森の真ん中にいきなり襲撃者が現れたとて、この高見から動向はすぐ悟れるはずである、と思っていた。ましてや、今それを見張っている狙撃班も一マフィアの構成員ながらもその技量は、軍隊のそれと相違ない精鋭たちばかりである。
最早、此処には陳腐な例え方で言うなら鼠一匹入る事も能わないはずなのである。そう意気込みながらも、湧き上がった不穏を呑み込んで、ナターシャは白い雲を吐きだした。すると今度は、ぶら下げていたトランシーバの雑音が回廊にぶら下がったカンテラを揺らす。
「な、なあに。どうしたのよ」
すると、その腑抜けた声が導火線となったのか、向こうから狙撃班の怒声が冷気を切り裂いた。
「おい!これはどういうことだよナターシャ! こういう話は前もって伝えておけよ!」
「え、あは、ど、どおいうこと?」
ナターシャは言葉を途切らせる。それは、自らの心臓の音さえ煩わしいと、常に忍耐と沈黙に伏せる狙撃班の口から出たとは思えぬ、慌てようだったからだ。
「ちょっとお、何か見つかったんだったら、あたしにどうこう言う前にさっさっと討ち取って貰えないかしら」
「はあ!? 冗談を言うなナターシャ! あんな物をこんな物で今更討ちとれる訳がねぇだろうが!」
と、狙撃銃を持ち上げる鉄の音が大きく響いた。ナターシャはその言葉に、向かいの城窓を覗き込んだ。しかし、広がる景色は相も変わらず、冷たい風の音が揺らめかせる木々の波しか見えない。しかし風が、その風の音に紛れて微かにそして不気味に、均等な拍子で唸る耳鳴りにも似たモーター音が聞こえたのだ。
「空……?」
「とにかく! もう私たちにはどうにもならねえ! 今はもう逃げて生き残ることだけを考えていこう! 私たちは今から下に降りるぞ! ナターシャ! お前も後に続けえ!」
何が来たんだと問う前に、返信は途切れてしまった。立ち尽くすナターシャの耳から、何か分からぬ恐ろしい音がどんどん近づいていく。すると、それに急かされるように、ナターシャは彼が言ったのとは反対にーー、また再び回廊を降りて行ってしまったのである。こびりついた煤に手が汚れるのも構わず、ナターシャは髪を靡かせひたすら眼下に向かい足を急がせた。その、しっとりと滲んだ漆黒の瞳を見るために。
「嘘よ、嘘よ……! 嘘って言ってよ……!」
ナターシャは焦る気持ちを空回りながら、三段跳びでヒールの音を回廊に響かせた。
***
その時、シャツを纏う武士は石牢の隅に蹲っていた。下はボクサーパンツを履いただけで、細さゆえに骨が浮き上がる素足は血色の悪い色に晒されてと、ても痛々しい。
そして、ガタガタ震えながら、その浮いた膝小僧に額を押し付け、腕で脚を包む形で自分の身を抱いていた。武士は其処から一片も動かない。膝の上に垂らした艶の残る黒髪の隙間から様子も覗かずに、ひたすら縮こまって時を待っている。それは昨日の朝、行商人による投げ手紙で受け取ることの出来た、「相手」からの返事を忠実に守っていたからであった。
引っ搔き集めた英単語の羅列を並べた武士の請願に、鉄格子の窓辺に転がり、千切れたノートの切り端には、流暢な筆記体でこう返事が為されていた。
『あい分かった。勇気ある諸君の命を受け、これより黒豹による害獣の殲滅、そして君の救助を執り行なわんとする。
此処に命令する。XX日をもって犬と狼の間にて留まるべき場所に膝まづき、顔を伏せ屈み、脚から上へ決して頭をあげるな。さすれば黒豹の爪に削がれ、首から上は神のもと』
「それって上と神をかけたつもりかよ、ふざけんなっ! 一体何をするつもりなんだっての……!」
などと言って、白い吐息の中、曲げた脚を抱きしめる腕をきつく締めた。
「犬と狼の間」、それはフランスの古い言葉で黄昏時という意味だ。差し迫るその時を希望と不安に胸高鳴らして、武士はひたすら侍っていた。すると、その心臓を跳ね上がらせる甲高い足音が聞こえた。鍵の掛けられた木扉の向こうから段々大きくなったそれは、激しい衝突音と重なる。すると開かれた扉の向こう、藤色のローブを着たナターシャと対峙したのだ。
「な……!?」
武士は思わず顔をあげた。対して、ブラジャーの紐がずり下がる程に肩を上下するナターシャも、武士と鏡合わせの如く目を見開き汗を垂らしていた。先ほどまで互いに間近に交わしあった吐息が、沈黙の石牢に響き渡る。
すると、彼女の右手にぶら下がったナイフに、武士の動揺が揺らめいた。その一瞬、武士の伏せた睫毛の中の瞳が、姦計を隠す兆しに変わったのを、彼をよく知ったナターシャは見逃さない。
それは武士も同じこと。彼女が醸した懸念の念を悟り身を捩らせては、石牢の端に後ずさるのだ。それにいよいよナターシャは睫毛を勢いよく開かせた。
「ね、ねえアンタって……やっぱり、まさか……」
ナターシャが怯える彼へと向かって石畳を一歩踏みしめる。その時であった。
ナターシャの触れる石壁が途端四方に飛び散った。それと共に眩い黄色い閃光が横からナターシャを覆い、落雷があったのかと錯覚する程の破壊音に巻き込まれる。金切り声と共に顔をあげてしまった武士も、余りの眩しさにすっかり視界を奪われて爆風に吹き飛ばされた。
石壁に頭を打ち砕かれたその間際、武士は真っ白な景色の中でデジャブを感じていた。それは、ジョージと対峙した時のこと、そしてキティと離れ離れになってしまった、あの銃撃戦の日であった。
***
冬の夜になると、城と森は漆黒の闇に紛れて夜の一部となる筈だったのに、今宵は生い繁る森の形も、細長い古城の三角塔も白い縁取りではっきりと見える。それは爆発によって明々と瞬く炎が城の中心に渦巻いていたからであった。皮肉にもそれがマリア一行の目印にもなっていた。
「くっそお! 遅かったか! かなりやられてるようだ!」
ニキータがその光景を前に悪態吐き捨て、怒りの余りアクセルを踏み潰す。左右に揺れながらも城へ真っ直ぐ猛走する車は、途中の朽木や石を乱雑に踏み越えパンクする手前までの勢いだった。上下左右に激しく揺れながら、魔の森を走り抜けるも、三人の視線は常に轟々と灰色の煙焚く城一点に向ける。
「ねえ、アレを見て!」
すると、切羽詰る裏声でキティは窓辺から身を乗り出し、夜の空を差した。その先には、礎石を突き崩した闇に紛れる黒い飛行機が、横から城を貫いていたのである。それが奇跡的に一片も動かないまま城も、飛行機をその造形を保っていることに、流石に三人共口を開かずにいられない。
「ま、まさあそこから文字通り突っ込んだってことなのか!?」
「し、信じられない……!」
「ええい! もおおおおおおお!」
と、キティが一番に大声をあげ、車内に飛び込み脇から飛んだ銃弾から逃れた。
そこから何とか逃げ切り、いよいよ、既の距離で車を置き、三人は車内の中で顔を向かい合わせる。炎が揺らめき各々の顔を照らす合間、しとどに汗を瞬く互いを目いっぱいに睨みつけながら、まずはニキータが覚悟を決めた声色で言った。
「私は今から城に駆けつけて、できる限り仲間を助けて集め、安全な場所に避難させる。そのための殺生に躊躇するつもりはない。キティ、お前は」
一瞬の目配せの火花が炎の影に掻き消える。その中でキティも低い声で答える。
「私は……武士を探していくわ」
「そうだろうな」
「ならば、私は」
と、続いて言いかけたマリアへと、白と翡翠の瞳が鈍く光った。
「マリア様は馴染みのホテル、***に逃げてください! 私たちも仲間を連れていずれそちらに向かいます。ここより遠くへ、そしてその場所へ私たちを導いてください!」
トランシーバを握り締めるニキータの部下としての提案はともかく、それに肖って頷くキティへマリアは懸念に首を竦ませ、眉を顰める。
「それは、私がジョージの……母だからこそ言ったことなの?」
「いいえ全てはボスと組織の為です。ボスが居る限り組織は倒れないものですから!」
キティの答えを待たず、ニキータはそこでも義務としての懇願を発した。それにマリアも重々知った上で、「そうね……」と萎んだ声を出した。キティも目を逸らしそれには答えない。
「……ええ、分かったわ。その場所には少し心当たりあるのよ。其処に腰を落ち着けたら、貴女たちにも連絡するわ」
「是非、そうして頂戴」
キティの肩に手を置いて、マリアの眼鏡がその瞳の奥に宿る心情を隠した。キティは暫しの沈黙の後に伏せたまま頷く。途端、その顔を炎の閃光が縁取る。ニキータがフロントドアを開けたからだった。なけなしの弾をAIМに詰め込んで、城を睨みながら踏み出して叫ぶ。
「行くぞキティ! 早くしろ! でなければ此処までしかお前の援護はしてやれん!」
それに一寸、キティは身を固めた。そして頷くか頷かないかの間にマリアの方へ振り返るのを最後に、キティもニキータの後へ、業火の城へ走り出した。マリアは空いた手を掲げたままその二つの哀れなる女の背中を沈黙の内に見送ったのだった。
どんな時代であれどんな場所であれ、かつての自分がそうだったように、今日も女が地獄に飛び込むことは変わらない。その悲劇に、かつての少女は再び巡り合う。
***
数多の鉄火場を乗り越え、踏み越んだ初めての火事場は、今までの窮地など外に帰す程の凄まじさであった。
「ニキータ!ねえ、ニキータ!」
湿った布巾を口に貼り付け、腰を屈めて壁伝いで進むキティは、ぐもる声をはち切れる程に叫んだ。けれども、脇から次々と火を噴いて崩れ落ちる木片や瓦礫の割れる音に、自分の声さえ聞こえない。しかしそれでもキティは布を外す訳にはいかなかった。外してしまったが最後、黒い煙によって呼吸困難、意識不明に陥り、残骸の一つと化してしまう。キティは今一度焼け焦げる睫毛を広げ、マリアが、そしてゲオルクがかつて経験した景色を目の当たりにしていているのだ。
「なんて、ことなの……!」
しかしそこは最早景色とは言えない、事象の連続だった。赤と黒と黄色が轟々と炎の音を立てて四方上下と燃え盛り、真っ黒に煤にまみれたキティの身体を犯さんと舌を回す。それが木やら壁やら死体やら物やら何も区別なく全てを呑み尽くしていけば、それはキティの視界や行く手を惑わすのである。それでもキティは壁伝いに前へ進むしかなかった。掌がその火傷に爛れて、激痛に汗を吹き出しても離すことが出来なかった。この左右も分からぬ地獄の窯に今、布巾さえ身につけない武士がいるかもしれないから。
キティは激しい咳をしながら突っ伏した。呼吸不足で白濁した眼をぐるりと回し、涎垂らしながらも息をすること、そして、生きることを諦めない。
「此処で武士を死なせてしまうなら、いっそのことすべてをかなぐり捨てで、自分が死ぬ方を選ぶのがマシよ……!」
キティは炎に怯まず立ち上がる。その死への衝動が、キティを唯一生きる気力を与えた。それから何とか少しずつ炎を掻き分けて歩を進めていくと、途中で壁が崩れて道が途切れる。
すると、黄色の層を成す炎を背後に、汗と煤をべっとりと汚したキティを見る黒影がそこから現れた。手には銃らしき細長い棒状のものを水平に携え、突き当り右手に指を差している。その異様な背の高さから、キティはニキータの指示だと判断し、礼の合図に親指を立てればすぐさまその方向へと走り抜けた。目前に立ちはだかる扉を飛び込んでは押し倒し、その先へとニ、三回転がる。
そこから何とか身を持ち直し、踏ん張ったその一歩手前は階段の段差だ。そのまま転がり落ちそうになった拍子に立ち上がって階段を見下ろすと、炎が照明の役割を果たし、階下まで続く石回廊がありありと見せる。
「もしや、あの下に武士が……!」
躊躇している間もなかった。唾を飲み込んで腹を括れば、途端キティは腕を十字に構え、火の粉から身を守る態勢で、下から渦巻く炎の中へと飛び込んで行く。
***
「キティ! おい、キティ!」
ニキータはAIMを掲げて辺りを見渡したが、彼女の姿は見当たらない。
ちっと飛ばした唾も蒸発する熱線の渦中で、火を噴いた木片が落ちてくるそれを生腕で弾き飛ばしてニキータも進む。手の甲を額に翳しながら目を凝らそうとしていた。
「おい! 誰かいないのかあああ! リオリット! イアン! ナターシャ、ナターシャァァア!」
そして仲間の名を叫ぶも彼らは既に――、当人の面影もなく、炎の中で炭と化した枝の両手を掲げることしか彼女の声に応じない。近づこうとすると、人の焦げた臭いに途端、胃液の酸っぱい臭いが喉の奥まで湧き上がり、ニキータは後ずさった。此方を向いた黒焦げの顔も、目も鼻も口ものっぺらになって溶けている有様となり、それから全てを察したニキータは目を伏せて名を呼ぶのをやめた。
「くっそ……!」
誰のか分からない炭の塊を足元に、俯いたニキータが顔をあげた時には、その瞳の色は炎の色を映していた。
「よくも、よくもよくもよくもおおぉお!」
そして、般若の顔に汗を瞬かせて走る。
「うあ、うああああああああ!」
銃身を握る力を込めれば、何でも出来る気がした。正に、自分が炎を吐き出さんとする勢いで、白い歯を剥いては雄叫びを上げる。
そして、左手から迫る物陰に気づけば、突っ込んでいく。脇から突き飛ばす形で、その影を向かい壁まで押し飛ばせば、火の粉舞う残影の向こう、脇目から次々と横入りに立ち止まる幾つの影が出て来る。酸素マスクと防弾チョッキ、そしてMP5を構えた完全防備の出で立ち。
遠目より見据えたニキータは野晒しになった仲間の焼死体とそれを重ねると、更に忌々しく眉を顰め、口端の歪みを痙攣させながら彼らに呪いの言葉を吐き散らした。
「死ねええええ!」
その声に銃を構えようとした彼らへ――、ニキータは先頭から長身を生かした力強い左回し蹴りを喰らわせた。先頭が為すがままに退き、そこから、見える無数の影へ両手で構えたAIMの弾で撃ち尽くす。防弾仕様になれない酸素マスクを狙われて、炎の中で迫る発砲音の連続に黒影は追いやられていく。それでも立て続けに襲ってこようとする後続に、今度は前開きのショルダーホルスターからCZ5を取り出し、撃ち抜いた。
捨て身の弾は、彼らに反撃の余地も与えず、それが彼らの生きた最後の音となった。一面に血潮飛び散る惨状を為し、炎揺らめく通路を踏み歩み、真っ白な服を血濡れに靡かせるニキータは、髪の隙間から覗く、虚空の瞳に炎の光を借りて鈍く光らせる。それはまるで白の女王だと、そう呟く息ある者は、彼女の異名を最期の言葉とした。
やがて、通路の曲がり角に差し掛かったところで、また幾重に連なる靴音が聞こえた。そこで、手持ちのCZ75では射程の足りない距離感から、今度は右上腕からダガーナイフを取り出しては、左回しで振り回し相手の喉を炎ごと掻き切った。
血潮に視界を奪われつつ、その隙間から見える影に向かって踏み出せば、其処から次は下から顎を突き刺し舌まで貫いてやる。相手が呻く声も出さずに痙攣する間際をにやりと笑うと、今度は雄叫びをあけて迫ってきたもう一人を、痙攣するその男の腹を蹴り飛ばした勢いで二人丸ごと通路に投げ落とした。
「ぎゃあああ!」
もう一人が、死した味方の背に押さえつけられたまま壁に沿って引きずりあがると、そこへニキーがナイフが右水平回しに鋒を振っては、その首にすぶりと突き刺した。そうして、滴る血筋を辿ってゆくナイフ持つ女を、最後に立ちはだかった男は遂に、銃口を上にして上ずった声をあげる。
「うわ、うわああああ! ブラックパンサー……! ブラックパンサーアアアアア!」
それに、さして何も考えることもなくニキータは長い脚を踏み越え襲いかかった。寸分の違いなくナイフを翳してそのまま振り下ろせば、その煩い口も一瞬にして黙る筈だと、その笑った顔は語った、のだが。
「な……!」
ニキータは火の粉舞う刹那の中に、睫毛を揺らめかせた。ニキータの水平に回した腕が怯える男の首筋に当たる直前に、その肘を黒き手に掴まれたのである。
ひと振りで大静脈を掻っ切るつもりの勢いに構わず、ニキータの腕は一片も動かなくなる。その右脇から見える黒き指の節々と雄々しくも、その細さの割には大きすぎる力に、ニキータは痛みの呻きを吐き出してしまう。
「っう……!?」
その瞬間、黒影の横蹴りを右脇腹に一発食らってしまった。そして今度はニキータが、髪を振り乱しながら向かい通路へと吹き飛ばされてしまう。火の瞬く瓦礫と共に転がされてて回るニキータは、端々を焦がされた痛みに呻き態勢を立ちなおすも、彼女の攻撃から守った男を脇に弾かせるその影は、視界定めるニキータのその丁度中央へと歩みより、腕を垂らしてぴたりと止まる。
「なんだ……!? 一体、何者なんだ……!」
他の者と同じ服装、酸素マスクを羽織って顔は見えずとも、熱気の中に堂々と佇むその体つきは熟練者の覇気を為す。ニキータは激しく咳き込みながらも悟った。お互いに差して変わらぬ身長から相手の出方を伺う間、ニキータはその均等に張り付いた筋肉質の見事な造形に目を瞬かせた。それと共に、自らの細い肩と腕に悪態をつく。が、しかし、自分の手にはまだダガーナイフがある。対する相手は手持ちがない様子だ。
「大丈夫だ、勝てる」
口角あげかけたニキータはそれを無理に引き締める。これは、己の快楽の為ではない。復讐だ。復讐の為なのだ、と。ニキータは肺が焦げ付く熱い風を大仰に吸い込み、ナイフの柄を一つ一つの指を順番に絡ませながら握る。そして、集る炎が凪いで通路の間が明らかになった時、眦をつり上げ踏み出した。
「ああ、ああああああ!」
畏れを躍動のそれへと変える為に、獣染みた叫びでナイフを振って走る。しかし、相手の黒く長い足によってたった二歩の跳躍の後に、下から上への蹴り上げで投られてしまう。
腕を上げられ胴が開いたニキータの脇腹をまた、今度は脚の軸を寸時にステップで変えて踵で蹴りを喰らわせにきた。一回それをくらった身として今度は、そ手で受け止めてほくそ笑んんだニキータであったが、それを掴み足を掬おうとした狙いは虚しく、余りに強すぎた勢いにそのまま突き飛ばされ、両手ごと靴底に潰されてしまったのだ。
「がはっ」
何て速さだ、そして、何て強さなんだ。
ニキータは痛みに両手を掴み、腰屈みに後ずさりながら男を見上げた。ニキータとて、女だてらに一般の男を組み伏す程の力を持っているが、やはり、血の滲む鍛錬の果てに立つ『男』には、どう足掻いても叶わないと悟る。この世界に踏み込んでから、常に恐れていた存在に今、ニキータは侵されようとしていた。
「さすが、さすがだな……!でも……!」
諦めずに、ニキータは次へと踏み出した。再び男の蹴りが迫ったが、それを今度は寸時に身体を仰向けるに反ることで避ける。そこから身を捩じらせて落ちる間際に一本になったその軸足を掬うつもりだったのだが――、向う脛を蹴った筈のニキータの足は跳ね返される。男の硬さはニキータの柔い力には及ばなかったのだ。
地についたニキータは、不動の影にちいっと舌打ちをした。続けて身を低くして自身の顔へと突いてきた鉄の拳からは何とか飛び退くことによって避けて、ニキータはその拍子に転がっていた敵の銃を掴んで奪い取る。
けれど膝を付いて構えようとしても、続いて追い迫る男の攻撃に、最早間合いもとれることもないまま、その銃身を振り回して身を護ることしか出来なかった。
一度受ければもう起き上がれないだろう程の勢いで――、死角を狙って寸時にカウンターを入れてくる拳を、目端を凝らしながらニキータは銃を八の字に振り回しながら弾く、弾く、弾く。
しかし連続で躱したのも束の間、拳を弾いた銃の振動に立ち振るわなくなったニキータの腕を、その手は掴み、引き伸ばしたのである。ニキータの胸の内が鉛のように重くなった。
「やめろぉ!」
彼がその肘に片方の拳を押し付け、捻じ曲げんと手首を捻った時、割かれるような傷みに次に何をされるかニキータは悟った。だからこそ決死に踏ん張り、腕を元に戻さんとその力に抗う。
「くっ……うぐ、うぐううううう……!」
みしみしと音を立て、皮膚が皺寄せあがる腕と、相手の顔を交互に見やりながら、ニキータは歯を食いしばり汗を滴らせ、ゆっくりゆっくりと途切れなく力を一杯込めては、指を反対方向へ少しずつ戻して行く。
「貴様は……敵だ……!私達の居場所を……!私たちの仲間を奪った、敵だ……!許さない、絶対に、許さない……!」
自らの力を振るい立たせんと、呻くニキータの言葉に、男はそこで初めて反応を示した。酸素マスクの奥から見える白い瞳から、目を綻ばせてそれはさも滑稽、とでも言うように。そして彼も顔を近づけては、その微笑みによろめいたニキータへと雲った声をあげたのだ。最後の、そして唯一の言葉は、淡々と彼女にこう悟しめた。
「ぐうぜんだな、おなじだよ」
その言葉にニキータは瞬時、ガットの姿を酸素マスクごしに見据え、その衝撃に力を失ってしまう。その機が決着と相成った。
途端、さっきまで込めていた力が嘘のように弾かれてまで男が加減したのだと刹那に知る。そして両手から互い違いの方向へ捻られたニキータの細腕は、まるで火をも焚かれた木枝のように、天井へと尖ってへし折られてしまったのだ。
「ぎゃああああああー!」
骨と皮膚が引き裂かれる音と共に、ひん曲がった舌を出したニキータの悲痛の叫びはやがて、炎の盛る中に覆われていった。
***
キティが回廊から降り立ち、石垣の通路を通る先、その突き当たりで開きかけた扉の前には、横から破壊し尽くされたであろう瓦礫が散らばっていた。するとその石の隙間から覗く火に照らされた女の両脚に、キティは足を止める。
そこには、太腿の付け根に丈が僅かに触れる程の短い紫色のベージュを纏い、うつ伏せに倒れる女がいた。その滑らかな曲線を右から左へと辿っていった先、キティは炎の揺らめく中で、短い悲鳴をあげた。
「ああああ……!」
その頭は、大きな瓦礫に潰されていた。 生きていた時はさぞ美しかったであろうく艶やかな髪も、赤黒い血溜まりにどっぷりと浸かって、向かいの石壁まで飛びちった血痕と、キティの足元にまで及ぶ肉塊の破片が、余りにも浅ましい彼女の最期を物語った。キティは、例えとても生きていまいと知っていても、彼女の名を思わず呼ぼうとした。が、翡翠の目を錯乱させ小刻みに震える唇からは結局、その名が紡がれることはない。 それから涙と汗を滴らせ顔を伏せつつ、大股にゆっくりと石壁に手を付き、血に塗れた屍を除ける。そしてキティは屍の向こうにある、扉の向こうへ一気に飛び出す。
すると、そこで遂に、隅で肌を晒して倒れている、黒髪の少年と対面した。瞬間、喜びと困惑を同時に含んだキティの声が弾いた。
「武士!」
それは、一ヶ月余りになる、相棒との再会だった。仰向けに倒れている武士へと滑るように駆け寄っては、まずはその身を生死の有無も構わず抱き締める。目端に零した涙をそのままに、青白い彼の横顔を覗き込みその手を翳す。すると、僅かながら吐息を感じることが出来た。どうやら爆破を受けた瞬間に直ぐ気絶してしまったことが、煙を吸い込まず無事でいられたようだ。
「本当に良かった、本当に良かった……!」
と、気絶している武士へ、眉を下げ涙を零して、彼の額に滴らせる。しかし、背後でまだ炎は渦巻いている。今はまだ労っている間もないと、眦鋭くキティは、はだけた彼のワイシャツをもそのままに抱き上げ、裾を引き摺らせてながら、ひたすら出口へと歩み出した。
幾ら細身で少年といっても、脱力した男を女一人で担ぎ出すのはなかなかのは力業だった。しかし、彼の身体にしがみつくように掴んでは口の下に皺を寄せ上げ、少しずつも確かに武士と共に進み出す。途中、扉から抜け出たところで何か柔らかいものを踏み潰し、それから生暖かい液が飛び散る感触を受けたが、キティには最早それを何かと見ることさえ出来なかった。
それからようやく回廊を抜け出て、武士と共に城から脱出することが出来た。一気に顔面に開かれた真っ黒な森の景色と目を綻ばせ、冷たい水でも飲むように吸い込めば、熱気から放たれた身体は軽くなった分、急に走った火傷の激痛に顔を顰めて呻く。脇に止まったままのニキータの車の後部座席まで運び、武士をそっと横たわらせ、寝息を立てる武士を見据えれば、そこでようやく彼の無事を実感し、シーツに手を付いて、彼の上に侍りながら脱力の溜息を吐いた。
こうして、まず一番の目的を果たした。その後は――、そのまま燃え盛る古城を見上げて表面を焦がしたキティの鋭い横顔が、炎に照る。
「ニキータ……!」
そしてキティは、再び森の芝生踏みしめ歩き出したのだ。
「ニキータ! ニキータ! どこにいるの! ねえ、ニキータ!」
もう二度と、フランスで武士を見失ったような失態は犯さない。今度こそはと、業火の音に負けぬ声を張り上げて、キティは辺りを見渡した。
***
しかし、ニキータはそこから城向かい側の、円城の縁から外れた石階段に寝転がっていた。息もとぎれとぎれに煤と血と汗に塗れた顔は、炎の灯に照らされるも反応もなく目を閉じて、死の翳りを映している。生々しく動くのは、仰向けに晒された膨らみを為す胸の動きだけであった。
「私は、此処まで、か……」
苦しみに、途切れ途切れの吐息を繰り返し、汗滴たらせるニキータは、そこで力なく呟いた。片方の腕で押さえつけた垂れ下がる右腕はあさっての方向にねじ曲がり、関節ではないところから割かれた皮膚から、熟れた真っ赤な肉片と、ささくれ立つ白い骨が見え、紫色に鬱血した腕の血は限りなく黒に近い色に滴って、神経も繋がらない指を通じて血溜まりを為す。
他に外傷がない分、その腕の惨状が余りにも痛ましい。いっそのこと、壊死になりかける肉塊ぶら下げて繋がっているより、あっさりと斬り捨てられてしまった方がどれだけ楽だったものか。
そして、容赦のないことに、ニキータの吐息を聞きつけて、冷徹な鉄と鉄がぶつかり合う音がその耳に響き渡った。霞む視界の先に映る人影、向けられる銃口。あ、これでいよいよ留めを刺されるのだ、と、悟る。
それにいよいよニキータは、愕然として膝をついてしまった。血溜まりに両手を付き跪いた。もう、全ては間に合わないことを、細目に見やったニキータは悟った。
「悪いな……。もうお前との約束は果たせられそうにない……」
消えゆく吐息間際に、段差を枕に薄ら笑ったニキータは傍観の声色で最期への餞けを綴って、その長い灰色の瞼を閉じた――、しかし次の瞬間、ニキータの耳に届いたのは、いきなり割り込んでくる見知らぬ男の声だった。
「駄目でしょお。か弱い女の子に野郎どもが寄ってたかっちゃ」
今際の際にしては、あまりにも腑抜けた声色。それに睫毛を揺らめかせたとき、弾木の音に重ねて生々しく、骨の割れる音がニキータの耳を覆った。
「……え?」
あまりの大きさに目を開けると、ニキータに止めを刺そうとしたヘルメットの男の首が、捻じ曲げられていたのだ。膝を曲げたままマリオネットのように宙ぶらりんになった男は、声も上げることもなく、その逞しく白い腕に首を捕まれたまま脱力し、銃を落とした。
その腕によって折られた骨の付け根が、伸び切った首筋に瘤のようにはみ出ていて、不気味な瞬きを放っている。
「な……!?」
動揺の声をあげたのはニキータだけでない。脇にいたもう一人も慌てて、その黒影へ銃の弾を放ったが、その前に脇から差し込んでは、尖った肘で彼の腕を弾き飛ばす。それに夜空に銃声が劈く中、次に、空いた胴にすかさず蹴りをねじり込ませた。
雄叫びをあげる相手へ次に食らわすのは、助走をつけた右のストレート。それは彼が嵌めたヘルメットごと突き破ったのである。散らばる破片の一つ一つに、ニキータの驚く顔が映った。
「な、に……!?」
滅茶苦茶になったヘルメットの中身は、今や見るも哀れであろう。それに倒れ伏して細長い血を滴らせる相手と同時に、首を折った方も脇に放り投げ、屍の真ん中に悠々と立つ男が、ニキータへ歩み寄る。そのとき、廃城を燃やす炎がその男の全貌を縁取った。
それは、うねりのある癖毛が艷やかな男であった。ぶら下がって剥き出しになった色白の腕は逞しい筋肉の凹凸がくっきりと浮かび、右腕に彫られたトライバルの刺青が蛇のように絡みついている。
そして、眼下で呆然と彼を見上げる、汗と血に塗れたニキータを前にして、徐に膝を落として視線を合わす。それなりに年を重ねた目尻の皺に対し、黒目が子供のように瞬いていたのが更にニキータの戦慄を掻き立てた。
「おま、え、は……!?」
痛む腕を掴み、歯を剥きだしにしてうめき声をあげるニキータへ、炎の灯に浮かぶ男は、にっこりと無相応な笑みを浮かべた、その口端に皺が寄せあがる。
「僕の名前は、ホセ。ホセ・シモン・アーンズ」
そして、滔々とその名が紡がれた途端、ニキータの脳裏が明るくなり、その瞳が炎の照り返りよりも瞬きに満ちる。
「お前はあの……、ムンダネウムの……!?」
「おお、さすがマフィア。そこまで知ってんだネ」
「どうして、ここ、に……!?」
「どうしテって……君は、僕たちのリーダー、オーディンの大切な人の組織じゃなア、いか。だから、助太刀にきたんだヨ。でも、君たち、隠れるの得意だったカら、こっちまで手間取っちゃった」
そうして、飄々と言いながらホセと名乗る男は、やがて徐にニキータに身体を寄せると、その足と背中を掻き抱いて立ち上がる。190センチもある彼女を、それより小柄ながらも逞しい男の腕は難なく宙に浮かせて、その表情も余裕の微笑みで廃城を背に歩き出した。それにニキータは汗もしとどに息もとぎれとぎれに、為すがままにされる他なかった。
「とりあエず、今はおやすミ、お嬢さん。目が覚める頃には特別な治療を施シて、ちゃんとその腕も動かせるようにしてあげるからネ」
そして、その額の汗を手の甲で拭いながら、骨がのぞくニキータの血濡れの右腕を壊れ物を扱うように柔く抱いて更に高く、そして固く身を固め、刺激を与えないようにする。それが、さっきまで人の首をへし折った同じ腕とは思えない気遣いに、更にニキータは激痛と共に錯乱した。
しかし、一方で、その霞む視界は次第に新たなその道筋へと、抱かれる中で震えていく。
やがて、その長い睫毛は開かれ、そこから灰白色の中央に浮かぶ瞳が明らかになる。そこに映るは黒い森の隙間から瞬く一点のシリウス。そして、自分を抱くムンダネウムの男。
「……そういえば、マリアの行方なんだけれド」
と、何気なく問いかけようとしたところ、ホセは短いうめき声をあげた。瀕死の状態にいる眼下の二キータから、いきなり胸倉を掴まれたのだ。しかし、細目に見下ろすその眼差しは懸念というより憐れみだった。現に変色した腕の血に塗れたその顔は、顔面蒼白で脂汗にべたつき、その震える唇も色気がなく乾いた縦線が目立つ。その浅ましい姿ながらも、目だけは潤みの中で鋭い白濁の瞬きを放っていた。
「な、に、ドウシタの」
「……てけ」
そして、その厚い胸板をも掴み上げる手の力も細々となりながらも、極寒の中、震える唇は紡ぎだす。
「私を……ムンダネウムに連れて行け……!」
「え、いや、だから、今はマリアの行方ヲ」
「連れて行けッ!」
その覇気はホセの前髪を弾かせ、その口を閉ざした。ニキータは残りの力全てをそのために使う。それに割り込みは許せなかった。否、もう、そこで彼女は、叫ぶ以外の意識を手放していたのかもしれない。
「あのアメリカの男は……! 私たちの……ムンダネウムの、敵、になるんだよな……! だったら連れて行け……! 私も、ムンダネウム側となって、私があの男を、必ず、殺す……!」
一度、正義の道へと絆されそうになったニキータは、改めてそれは無理だとそのときに切り捨てた。お前のその、曇天の下でも眩かった翡翠の瞳はきっと綺麗な故郷の森の色なのだろうと、思い馳せながらも、でも、違う。私は違う、と。
私の目は、血の気のないこの灰白色の目は、暗い空と、灰色の家と、無機質な部屋の色だ。どうせ、そこからどう償おうが足掻こうが、希望を見出す前にこうして無残に同じ景色と行き着く。
どうせそうなるのであれば、最後まで血塗られたままで自分のやりたいことを貫いて。
「連れて、いけ……」
最後にホセが何か言いかけたところで、その左手は力を失い垂れさがった。それと同時に、首も肩にもたげてニキータは目を閉じる。意識を失う直前まで届いたのは、背後の炎の轟音だけであった。
こうして、ニキータはムンダネウムに行くことを自ら決意したのであった。しかし、それはキティの思惑とは全く逆の、悍ましい復讐の鬼と化すことで。
15、その言葉を、訳さないで
水平線から海岸に向かい、扇状に薄い雲が広がり、ポーランドの朝日を透かす。カーテンのように筋を為した日差しが、薄鼠色の海に白い島を浮かばせる中で、カモメが黒い影となって悠々と飛び交っていた。
潮風は柔く、波面も大人しいが、まだ劈く程に寒い早朝で、海に面した崖上のホテルのテラスには、まだ誰も座っていない。一方でその奥の、ガラス張りになったロビーのテーブルには、眩いシャンデリアの明かりを受けて、女二人(+一匹)だけが向かい合って座っていた。
一人は、白いマグカップに湯気立つコーヒーを飲む、ベージュのロングドレスに身を纏った痩身長身の老婆、マリア。その膝の上には今日も離れず三毛猫が眠っている。
それに対して、何も手につかず、白いカーペットが敷かれたテーブルの上に、置いたカメラを見下ろすのは、頬に微かな火傷と、僅かに縮れ毛となった栗色の髪をポニーテールにまとめた女、キティであった。その姿は痛々しかったが、相棒の武士を今、柔らかなホテルのベットに寝かせるが出来た後で、そのため息に安堵を含ませる。
「火傷……痕、残らないといいわね」
やがて、湯気の中から呟くマリアに、キティは栗色の髪を耳にかけながら答えた。
「ニキータ……来ないわね……」
「ええ、他の者からも連絡が途絶えている。……もう、間に合わなかったみたい」
高い天井から虹色の光を降り注ぐロビーのシャンデリアの光と、それを受ける黒のグランドピアノがより、それを背後に俯く二人のその侘しさを引き立たせた。
「これでもう、ブリューメル一家は壊滅……あたしの我儘で、五十年も続いていたマフィアはここにて掻き消えるのね……。犠牲になった者たちには、申し訳ないと思っている……味方にも、……敵にも」
と、白手袋を嵌めた手で顔を覆い、マリアを深いため息をついたが、そこにも自分と同じ、微かな安堵の気配があったのをキティは見逃さなかった。それは、ニキータがいなくなってから初めて漏れ出す本音――、彼女のもう一つの心境がようやく、ここで明らかになっていく。
「ああ……長い、長い、悪夢を、見ているようだった……」
キティはテーブルの上に腕を置いて組み交わす。あえて視線を合わせず俯きがちに、マリアの言葉を聞いていた。
「……私は、なんとしても、ゲオルクに会いたかった。この悲惨な戦場の中、もう、死んでしまったとしても、それをこの目で確かめるまで、どうしても諦めきれなかった。そのために、どんなにこの手に血が上塗りされても、私は生きることを選んだの。 そして、その矢先に、私はカルク・コーヘンと再会出来たのよ」
「今までの、オーディンの知りえない経緯はそこから聞いたのね」
「ええ、独自に追い求めたものとして、手に入れたのも多かったけれどね。それでより、ゲオルクの話したことは嘘ではなかったことが裏付けられたわ」
と、僅かに愛しみの眼差しを伏せて、彼女は続けた。
「あいつは……、カルクは、私がもう少女でなくなったことさえも露に思わず、私の誘いに悠々とのって会いに来たわ。戦禍の混乱の最中、数十年ぶりにあった同胞は、いつの間にか、白衣姿も馴染んだ髭面の科学者となっていた。不思議なことに戦時のときよりもやつれていたけれど、目だけは爛々としていて、何だが、大きなプロジェクトの開発部門のリーダーになって、それがうまくいって上々だと言っていたわ」
「それが……ムンダネウムなの……?」
「そう。あの時はまだ小さな組織でしかなかったけれど、彼は、社会貢献のために作られた至上初の業界に取り組むんだと、意気揚々としていた。それから思い出話とかこつけて色々と探ってみたところ――、カルクも実はゲオルクと、あのポーランドの荒地で深い関わりがあったのだと知ったの。そして、その後のゲオルクについては明らかに、私に隠している素振りをみせたこともね」
その瞬間、指の隙間から青い瞳が瞬いた。きっと、それに気づいたときも同じだったのだろう。
「私は、カルクが、その組織とゲオルクとの関わりについて隠していることを確信した。そして、きっと、ゲオルクはそこにいるんだと……。そう信じて、私はムンダネウムを新たな索敵の標的として、秘密裏に探ってきたの」
そうして、恐ろしい秘密を知ってしまった、と。マリアは声を震わせながら言った。
「カルク……あいつが、秘密裏にゲオルクの身体を使って、人体実験を行なっている、と……。ゲオルクと、そして、彼が持っていた、あたしを含めた幾つかの遺伝子をかけ合わせた、禁忌の生命を作ろうとしていると……」
「その実験に、ゲオルクも自ら関わっていたことを……」
「違う!」
すると、突然、マリアはテーブルを叩きつけて怒った。跳ね上がるマグカップの漆器の叩く音が人静かなロビーに響き渡り、キティの肩も跳ねる。
「少なくとも、彼は、その実験のことは知らなかった筈だよ! だって、知っていたらーー、許すはずがないんだ! ゲオルクはそんなことを認めるはずがない! カルクは……! きっと、ゲオルクに対してもそれを秘密にしていたんだ! だとしたらある意味、ゲオルクはその人体実験の最大の被害者とも言えるんだよ!」
狂気を含めた錯乱する瞳に、キティにはそれが恋の盲目故かと思ったが、確かに、今までの話しを聞く限りではそうした方が辻褄が合う。マリアの話すゲオルクが、そんなことをする筈はないだろうと――、
「でも、そうすると、貴女が言ったカルクはオーディンの奴隷となったことの辻褄が合わないわ……。奴隷になったのなら、どうして、カルクはそんなことをしたの?」
「ゲオルクの身体を使った人体実験を行うこと、それをゲオルクには秘密にすること、それをカルクはあくまで、ゲオルクのためと思ったしたことなんでしょ。それだったら矛盾はしない」
「いや、尚更おかしいわよ。それのどこが彼のためになるというの? 紛れもない人権侵害じゃないの……!」
「分からない」
するとマリアは、キティの叫びに共感の意を込め、首を横に振って答えた。
「そう、そこまでは私にも分からないの。一体、カルクが何をもってして『ゲオルクのため』に、そんな悪魔の取引にのったのか……それはもっと探る必要があるんじゃないかしら」
そこでキティを見上げる。キティはその「諭された」眼差しに突かれた刺激に胸が震える。湧き上がる情動を今はぐっと堪えて彼女は俯きつつ、再び唇を開いた。
「それで……貴女はそれを最初は自分で知ろうとして、乗り込んだのね……」
「その通りよ。それが出来るように、自分がこのブリューメル一家を牛耳ることに全てを費やした。そうして、やっと、やっとのことで、その日が巡ってきた。でも、狙いたいのは、実験場のことじゃない。私の目的はあくまでゲオルク――、ムンダネウムに忍びこんで、ゲオルクに関することを、少なくとも住所を、そしてあわよくばその場にいれば連れ去ってでもして、私のものにしたかったの……」
キティは頷いた。
「そうよ、なんととしても、私の元に戻したかった……!あの時の、今はもう名前さえ思い出せない、ポーランドの荒地に建った病院のときへ、と」
その言葉から窺える深淵に、感嘆の息を呑む翡翠色の視線から逸らし、外の海岸線を遠目に見ながらマリアは語った。
「でも、幾らのしあがったとしても、マフィアのボスの妾が直接乗り込む術はなんてない。だから、あたしを慕う部下たちに任すしかなかった。けれど、やっとの思いで差しむけた彼らが、電話口で言ったのは……『ゲオルク』のことでは、なかったのよ」
その名に含意を込めてマリアは目を伏せる。それにキティもひしひしとその意図を感じ取る。同じ字面でも読みの違う、そっくりだったけれど、別人の――、
「あんたはさ、理解できるかい。震える声で部下が、あたしが託したゲオルクの写真と、全く同じ容姿を持つ赤ちゃんが、GEORGEと名付けられたプレートが張り付いたベビーベットで、眠っていたというのを知った瞬間を――、それも、このあたしと、全く同じ色をした瞳を持って、抱える自分の顔を今、じっとを見ていると言ったときの、胸の震えを、さ……!」
段々と声を大きく、そして語尾を震わせたマリアの顔を見ることが出来ずに肩を縮こませる。瞬く白いテーブルシートが涙に叩かれる音が二、三度キティの傾いた耳に届いた。
「あたしは、何のことやらと戸惑う、部下に対して直感したよ。それは、ゲオルクとあたしの遺伝子を掛け合わせた、十八歳でタマを失った男と、そして、もうあの頃の少女じゃない、この老婆になった身では決して産むことの叶わない、ありえない命だった。それが、カルクの為した人体実験の一つだったんだって……!」
「おぞましい、と、思った……?」
再びのやり取り。今度は震えるキティの問いに、澱みのないマリアの声が響く。
「は? 何をだよ」
「だって、その、ジョージは……」
「何を……、言っているの……」
すると、キティの意図を読み取ったマリアの声色が突然変わった。むしろ信じられないと、逆にこちらの倫理を諭すような、その性根から出た弱々しい声が、どこまでもキティの真髄を貫いた。
朝日が昇る。そこから差し込んだ光が、マリアの身体を白く縁取る。その瞬間をして、マリアは自然を味方につけて、その辛苦を重ねた皺苦茶な筋張った手を胸に置いた。そして、眉を下げ、問いかける柔い眼差しでキティを見据える。その上がった口角の揺らめきは決して微笑みではなく、青い瞳は宝石のように瞬いていたというのに、どこか焦点が定まっていない。
それでも、光の中で彼女は言い切ったのだ。
「あの子は、私の息子だよ」
永遠に時が止まった最中で、伸びやかなポーランド語が響く。
それは、彼女の意志を最も明らかに表す言葉。
「そう、ジョージ。私の子。私の人生全て捧げた矢先に会えた、私と、ゲオルクの子」
私は、あの子の母親よ。
その言葉を、キティの本能は唇の動きしか捉えなかった。
「いいえ……、貴女には、拒否する権利はあったはずよ」
しかし、それをキティは深く沈んだ声で否定した。
「彼は貴女が望んで生まれた子ではない……。貴女も自分の遺伝子を勝手に人体実験に使われた被害者なのよ。それでも……母親の義務として、愛することを決めたとするなら、それは、あまりにも哀しすぎる自己犠牲よ……」
「はっ、ゲオルクだったらそうだったかもしれないけれど、あたしは違うよ。だって最初からずっとそうだったろうが」
すると、片眉をあげた拍子に瞳孔が開く。あり得ないはずだったが、その時、キティは青い瞳に浮かぶそれが妙に黒く翳んだように見えたのだ。
「あたしは、ずっと、ずっと、思うがままに、世界を裏切ってきたんだよ。ポーランドのためにと看護婦になったのに、敵国のドイツ兵を指を落としてまで助けて、殺すべき男に宇宙分の恋をして、彼に会うために生きることを選び、そのために闇社会に身を投じた。そして今、旦那との思い出や愛おしい仲間たちを犠牲にしてまで、写真を手に収めることを優先して、今、全てが滅んでしまったことにあれやそれや、そして悪事との因縁が絶たれたことに安堵してもいる。それが、あたし、なのさ」
ぎゅっと、顔の皺を眉間の中央に寄せながら、その辛苦を刻んだ顔に涙を一筋垂らして言う。
「これほど好き勝手に生きたあたしが、義務なんかに縛られると思ったのかい? 違うよ。あの子は、あたしに相応しいあたしの息子だよ。あたしの勝手で、あたしが愛する、あたしが選んだ大好きな人との子ども」
それ以上、何が理由にあるってんだ。と、マリアは嗚咽の狭間でもしっかりとした声で言う。
「生身で産んだ子どもより浅ましいなんて、ンなもん、どうあがいたって生めない男のよくも知りもしない道理だろ。男はね、知らないんだよ。産まれたばかりの子が、どんな姿でどんな臭いで、何の臓物と共に出てくるかも見ないで、よくも、よくもさあ……」
手袋を外し、掲げた両手を震わせて、マリアは上澄った声をあげる。その白く細長い自らの指から見出しているのは、血だ。その震える青い瞳からキティは気付いた。ゲオルクの血を、膿を、体液を受けた手。
それ以外に数多に被らればならなかった嗄れた手。キティは目を瞑った。それを知らないはずがないからだった。あの、拭っても拭ってもふとして鼻につくそこにない筈の、血の臭い。
「変わらないよ。女の身から産まれても、チューブから産まれても、生命ってのは誰も彼もどうしようもなくて、悍ましくて、生々しいのさ」
助け続け、奪い続けた両手。また、奪われ続けた手。欠けた小指を今度こそ曝け出し、その有り様が今、キティの目前に突き付けられる。
「だから、あたしは、あの子を取り戻すことを選んだんだ。連れ戻せ、と。そう、命じたよ。どうしても、この手に抱きたかったんだ。けれどそれが結局、あの子を一番の不幸に突き落としてしまったんだね。私がマフィアだったから、マフィアの手にかかってしまったあの子は、本人の意思ではどうしようもなく、その道でいかざるえなかったんだよね。……一番、行って、ほしくなかったのに、なあ」
声を先細らせて、マリアは手を覆って俯く。キティはその間、膝の上に手を置いて黙って聞き入るしかなかったのだが、次にキティが問いかけられる。
「貴女は……、あの子を見てきたのでしょ……ジョージを。あの子はどうだったんだい。あの子は……どんな子だったんだい」
ティは一瞬、あれ程培ってきた言葉というのを忘れてしまった。声さえ出ずに、空気しか吸えなくなる。それも喉まで通らない。けれど急に息苦しくなったというのに、翡翠の瞳は爛々と瞬くのだ。どう答えればいいか、わからなかった。ここまで、何の繕いもない積年の思いを目前に圧倒されて、生半可な返事ではすぐに思惑がバレてしまうと察していた。
「ジョ、ジョージ、あいつ、は……」
白い光の中で、その目と合った。綻ぶ眼尻に浮かぶ彼の瞳。宝石に瞬く青い瞳。そうだ、私はずっと見てきたんだ。それをみて、ようやく初めて自覚した。それに過る、あの手足の長い肢体、端正な顔立ちをわざわざクシャクシャに歪ませ、相手を小馬鹿にするような微笑み。
与えられることもなく、考えさせることも諭されることもなく、それは正に犬のように。その器や能力ばかりに触れられ、囚われ、野放しにされ、操られ、平和の生贄として丸ごと利用させられそうになった、生命。
目を瞑り、改めて思う。
ああ、死神よ。貴方はやはり、何てことをしようとしたのだ。
彼への憎しみを思い出す筈の古傷も今や、この高鳴る胸が作用して、身を拗らせても全く傷まなくなっているのがもどかしい。もし、彼が、その嗄れた手に抱えられることになっていたら、同じ血塗られた道だったとしてもどれほど違っていただろうと、思い馳せてしまう。
かつてキティも母としていたように、その同じ色の瞳で見つめあい、互いに孤独と愛情を受け合いながら生きることが出来たのなら、もしかしたら、彼は、あのポーランドの荒地に立った、精錬されたゲオルク・ライヒートの再来となれたのかもしれない。
と、自分もまだ、彼を器として見れない浅ましさにうちひしがれそうになる。
そうだ、彼は、あの、ジョージキッドは。キティは背を伸ばし、顔をあげ真っ直ぐにマリアを見る。それは、彼女もまたその背後に培ってきた自分を見せる。その証たるカメラをその時初めて両手で握りしめて。
「あいつは……、貴女によく、似ているわ……」
それが、ようやく言葉で紡いだ答え。それに柔い日差しが更に白さを増して二人に降り注ぐ。その中で真っ直ぐに見る翡翠の瞳を見て、悟った青い瞳は右から一筋の透明な涙を流して微笑んだ。
「そう、かい……」
か細い声をあげ、眉を微かに八の字に瞳を閉じる。笑みを浮かべつつ、コーヒーを持つ手は震え、その眉間に皺が寄る。それでも、キティは精悍に視線を外さないでいると、やがて震える口端から半目に伏せる青い瞳をして、マリアは、母は言った。
「なら、あの子はきっと、向こう見ずで、突っ走りで、意地っ張りで、情動的で、馬鹿で、愚かで、どこまでも正直な、男の子だったんだろうね」
そして、最後に俯せて泣きながら、こう言った。
「でもね、あたしは知ってるよ。あの子もきっと、ずっと苦しかった」
***
「それでどうして、貴女は今まで、オーディンと会おうと思わなかったの?」
最早、説得するまでもなかった。前目のりになって問いかけるキティに、マリアは三毛猫を撫でながら再び俯きがちに答える。
「ああ、ジョージの奪還作戦以来、向こうに出方を知られてね。逆に向こうからあたしたちが狙われるようになっちまって、あたしはそれ以来、あいつからずっと逃げ続けることしか出来なかったんだ。そう……あの、サラ・コーヘン、に、な」
「え……」
「そうだ。あの、忌まわしい、女。あたしとゲオルクの仲を切り裂き、あたしを葬り去ろうとしている、ムンダネウムの要であり、そして世界の害悪だ」
すると、マリアは小さな声でありながらも、最も憤怒を込めた裏目がましい声で、口を開きサラへ呪詛の言葉を吐き出した。それにキティは片眉をあげた。
「害悪、ですって? 彼女はオーディンの命に従っているのではないの?」
「いいや、違う」
するとそこで、また確信ついた言葉で首を振る。
「サラ、あの女は、そこだけはオーディンの意志を投げ捨て、自分の意志でしていることだ。あたしの存在を葬り去り、人体実験の証拠品を亡くし、ムンダネウムの落ち度を払拭して地盤を作り上げる。あたしはマフィアのボス、その悪行を成敗したという建前で、あの女は今までも容赦なく、そのクラッカーの技術であたしの命を狙ってきた。それから避けるために、あたしは今まで自分で何とかすることが出来なかったんだよ」
「なん、ですって……?」
キティは再び、世界が回転した心地に目が眩み、片手で頭を押さえた。
「それで、一番初めのことに繋がるんだよ」
そしてマリアは、一旦息を飲みながら言葉を紡ぐ。
「さっきも言ったろう、ゲオルクはカルクという元凶に、呑まれているだけなんだって。そして、あの女、カルクと同じ名字を持った、カルクの手にかかった者に今、覆い尽くされている。限りなく彼の味方としてありながら、それ故に彼の全てを支配している。そして、彼の胸の中にある唯一の、あいつにも操れないらあたしへの愛をも最も忌み嫌い揉み消そうとしているんだ……!」
すると、彼女もまた、突然降って湧いて出たサラへの憎悪に、両側の蟀谷にそれぞれの手首の付け根を押さえつけ、涙をぼろぼろと流しながら眉間を歪ませる。
それ以上語らずとも如何にマリアが、ゲオルクを、そしてジョージを求めながらも、それを散々阻まれたことが悔しかったのかが滲み出ていた。
一方、それにキティは愕然として、額に頭を付けていた。
昨日まで、キティもアーサーの言うとおり、ゲオルクが魔女を従う元凶かと思っていた。ゲオルクが、悪だと。けれど今、キティの目の前で嘆く彼女は、魔女がゲオルクを支配しているというのだ。頭の中がひっくり返る。現実では交わらなかった青い瞳と灰色の瞳が、どちらも見てきたキティの頭の中でぐちゃぐちゃに入り交じる。
互いの瞳の奥に宿っていた憎悪が、黄色い火花を散らしながら、目の奥が痙攣に震える。
一体、どっちが悪いというのだ。様々な思考や思惑や情動がまぜ込んできて、動けなくなっていく。誰の言葉か、自分の言葉か、その境目が曖昧になっていく。
「返して、返しては、くれないかしら」
そこから差し込まれたマリアの泣き声から、キティは元の世界に戻った。それから今更に思い出す。彼女が奪われ、求め続けていたものを、自分もまた持っていたのだと。
キティは今度こそ、動揺の素振りを見せなかった。眦鋭く口を閉じ、胸の中に手を突っ込んでは、そこで写真を取り出す。
迷いのない腕を勢いよく翳し、肘をぴんとのばした指には、皺くちゃな其処に写真がキティの作った風に靡く。
マリアはそれを見定めると、髪を内なる風に揺らめかせ目を見張った。それから震える指先は空中を描き、やがて、キティの右手とマリア左手の指は触れ合い、写真は渡ったのである。
その端を一掬いして離れたとき、証拠品を手放したキティは、そこで誰にとっての何者でもない、埒外の猫となった。自らの立場をわきまえて頭を垂れ退いたキティに対して、マリアは包むように写真を持つ。
七十数年を経て、戦火を逃れてジュリアの元に下り、彼女の赤塗れの指からキティに託され、数多の埃と人の血と、業を欲が積もった一枚。全ての者が血眼となって探し求める写真が今、世界の片隅にいる老婆の、淡い想い出の証として戻ってきたのである。
マリアの青い目に、去る日のゲオルクの姿が現れた。柳眉と尖りのある整った白い鼻先。傾けた銀縁の黒い軍帽から、僅かに覗く瑞々しい金髪、そして鍔の下から先の未来を明るく見据えた、若き気力に溢れた灰色の瞳。
「ああ」
その先がどんな結末になろうともしらないで、まだ、勲章の跡も付かない真新しい灰色の軍服が、どうなるかも知らないで。
重たげに垂れる真紅のヴェールを背後に立つ男は、その満ち満ちた声で何か手向けを添えてくれるように歯を見せて笑っている。本人でさえもきっととうに忘れてしまったであろう、その瞬間、その姿があった奇跡を、この一枚の写真は目に見えぬはずの色さえも、有りありと思い浮かばせてくれる。
全てを失った今、否、怨念と後悔と懺悔だけが残るこの世界の果てに在る、愛しい男の微笑みは、彼女の今までを許し、全てが拭い去られていく。
柔い彼の微笑みの端に老婆の指が触れたとき、そのくすぐったさに折れた線によって彼の目が細まった気がした。その動作をかつてマリアは包帯の隙間から見たことがあった。それが数十年の時を一瞬で飛び越え、マリア短い息遣いかを放った瞬間、写真をその胸に押し付けた。
「やっと、会えたわね……!」
そのとき、老婆は少女に戻る。白い日差しの中で、金髪の三つ編みの先が揺らめく様を、そのときキティも確かに見た。それをして、キティは遂に決意をその胸に宿す。
マリアは、肩を揺らす毎、息を吸う毎に涙を落とし、漏れ出す呻き声は漫ろとなって泣き声と繋がり、彼女はそこで全てを吐露したのだ。
「あああ、ああああああああ、あああああ」
やっと、やっと、取り戻せた。
マリアは嗚咽の中から言葉を紡ぐ。ガラス張りの向こうで薄雲と白浪が同じ方へのびる様はその風の形を、そして、マリアの情動を悟らせた。やがて、キティは、涙の跡を鈍色の日差しに照らして泣くマリアを見、やがてそこから勢いよく立ち上がる。
「分かったわ」
そこで決意を、蹲り写真を抱くマリアに告げる。
「写真だけじゃない。それだけじゃない、私が貴女と、彼を結ぶわ」
そう短く言葉を添えて、キティはテーブルから背を向けて歩き出す。マリアはそれに答えず、写真を抱きしめたまま更に深く突っ伏すだけであったが、拒否の意があるはずがないと、キティは腕を振ってそのままロビーの中央を横切り、入口近くの電話へと駆け寄った。
その顔は緊迫に引き攣りながらも毅然として、その受話器を取る。頭の中で繰り出したアーサーから教えてもらったジョージへの番号を指で澱みなく辿り、その音信の返信を待った。胸は高鳴り、目も引き攣る。それでもキティは意気込んで背すじをのばして、待つ。
キティは全ての事情を聞いた上、彼女が今まで賭したことを、ここで終わらせるわけにはいけないと思った。全ての事情を知った今、やはり、何としてもジョージとオーディンに会わせなければならないと。例えそれで、ジョージが拒否するにせよ何にしても、彼にはそれを知る権利がある。
それをよそ者の自らの判断で手折らせるわけにはいかないと思ったのだ。あわよくば自分の身柄を担保として取引する姦計さえ巡らして、その無機質な受話器音と向かっていると、激しい胸の高鳴りと共に、ガチャリ、と、受け取る音が鳴った。
「ジョージ……!」
「……なンだよ」
間違いない、ジョージの声だ。
キティは受話器を両手で持ち替え、思わず懐かしさまで覚えるそのテノール声に口角をあげてしまう。その声色からすぐに自分だと気づいたことには不可解に思いつつ、キティは汗を垂らしてそぞろに思いの丈を振りかけた。
「ねえ、聞いて、ジョージ。私、マリア、マリア・ブリューメルに会ったのよ。分かる? 貴方の……貴方のお母さん」
その端に一旦の躊躇の詰まりを見せながらも、言葉は止まない。
「ねえ、お願い。私も行くから、必ず、マリアとそっちに向かうから。それまでオーディンには手を出さないで。お願いだから、貴方とマリアを引き合わせて!」
邂逅の言葉添えとしては余りにも相応しくない唐突さ。それでもキティは縋るようにジョージに乞う。すると、受話器の向こうは何も答えない。それは、流石に戸惑っているんだろうと、キティにしばし冷静の影が過ったが、次に、息遣いがその耳に振り掛かった途端、それは一気に弾かれた。
その後に続いたのは笑い声だった。それも、先のジョージとは全く違う甲高く、若い女の声。
「ふふふ、おじい様の声をサンプリングしたのだけれど、結構うまく抜きだせたみたいね」
女は笑いながらそう言った。その瞬間、キティの背中が一気に汗に滲む。翡翠の目は半円に剥いて、閉じた唇も震えたまま先走るのは、心臓の鼓動と溢れ出る胸の奥の言葉だった。
「トゥル……デの……魔女……?」
「やっと、やっと見つけたわ。探した、ようやく、探せたのよ」
まるで、マリアの言葉に習うように彼女が答える。それに、一寸の冷たさがあることを、キティの勘は残酷に読み取らせた。そして、先の笑い声から寸時に神妙なものへと不文律に切り替わり、やがて彼女は冷たく低い声でこう言った。
「写真と、もう一つの『証拠品』。これからもどちらともまとめて潰させてもらう。私は決して貴女を許さない。ムンダネウムのために、世界のために、貴女には消えてもらう」
キティは、呆然とした面持ちで声も息もあげられないで、額を手につけいた。
そう、それまですっかり忘れていたのだ。その頭の中で入り時混じった灰色の瞳は、自分のものではなく、「その持ち主のもの」であったということを。そもそも、その持ち主はあくまで敵であったことを。
もし、少し前のキティであったならば、決して違わなかったであろうう理性が、数多の情報と情動に晒されて、押し流されたことによって、そのとき初めて誤らせたのだ。こうして、その隙をついて容赦なく仕掛けられた「死神の罠」に、彼女は今、まんまと引っかかってしまったのである。
それでも、世界最大の敵から冷徹な死刑宣告を受けながらも、彼女はよもや、それに怒り立つ気力さえ湧かなくなっていった。ただ、今は感情も時間の経過をも忘れ、その場に座っている自分を認識することしか叶わない。そして、今や思考の果てにある筈だったけれど、「あの男」と、乾いた唇はそれだけを紡ぐ。
そうしている内――、ようやく物を捉えたときをして、彼女の耳に突然劈いたのは、ヘリコプターの羽音だった。
***
日差しが急に強くなった。しかしそれは太陽ではなく、突風を弾く轟音と共に絶壁から這い上がってきたヘリコプターの瞬きだった。
漆黒の四枚刃が葉を散らし、仄暗いガトリング砲がしがみ付く子猫を放った老婆へと向けられる。すると、途端けたたましい音を立ててガラスの破片が白銀に散らばっていく。それに写真を守るように抱きしめながら身を屈むマリアが強張った目を開けば、テラスの白椅子やテーブルを隅に転がし、突風を掻き混ぜるヘリコプターと真正面に対峙した。
その瞬間、青い瞳は誰もいない操縦席から、一人の女の立ち姿を思い浮かべた。沸騰した身体の中の熱がマリアの全身を逆立てた。
それに、キティがロビーの向こうから声をあげると、風の流れが変わってその栗色の額が顕となる。その開けた視界からは、轟音と白い光に包まれながらマリアが両手を広げ、その光を受け留めていた。
『ブリューメル。私はお前を許さない』
そしてマリアは、そのヘリコプターから心臓にまで反響する、憎き女の声を初めて聞いた。若々しく、また微かな妖艶さを漂わせる声。あえて、忌々しい自身の立場を改めて思い知らす姦計と共に、その中でマリアは、自分だけが知る事実に、にやりと汗を吹き立たせながらも嗤った。
「なるほど、やっぱりカルクに似てるねえ」
答えたその一瞬の間があったことを見透かす青い瞳は、赤子を見るように細める。それに、ヘリコプターからの声は淡々としてマリアを牽制する。
『ブリューメル。よくも今まで、私たちを邪魔してくれたわね。侵した罪を今から償ってもらう。貴女がいるせいで、おじい様はいつまでも、あのときから囚われたままなのよ』
「はっ、そうだったろうねえ」
すると、それにマリアはとうに分かっているという風に、娘の声の若気をあざ笑う。
「そうだね、ゲオルク。本当は辛かったろうね。こんなしんどい女に惚れられちゃってさ」
目を瞑り、涙を一筋曇天の空に舞い散らしは、その写真を更に強く握り締める。そこにないはずの腕の温もりを思い描きながら。
「それが本当にゲオルクの助けになるってんなら、あたしは喜んでこの身を捧げるよ。なんだよ、七十年前の続きをするだけじゃないのさ。でもね!」
そこで、自らの眦を無理矢理に吊り上げ、彼女もヘリコプターの声に咆哮をあげた。
「それだったらカルク! お前もゲオルクから手を引きな!」
日差しがヘリコプターの縁を白く染め上げたとき、あくまで彼女もまた、サラとも言わず、魔女とも言わず、思うがままに同胞の名でもって、娘の声と立ち向かう。その写真を持つ手を掲げ、彼女の周りに散らばるガラス片の瞬きを照明に例えて、曇天の雲を搔き乱す漆黒のヘリコプターの縁から漏れ出る日差しに向かい、その罪に浸った身体を堂々と翳しては、羽音を吹き飛ばす声で言った。
「あたしのゲオルクを、ジョージを、これ以上苦しませないでくれ。あたしの、そう、あたしの! 家族を!」
魔女は最後まで、答えることはなかった。代わりに響いたのは、ガトリング砲が向ける無機質な機械音だった。そのとき、脇から連れ出そうと、走り出すキティの瞳に、狐円に細まった青の最後の瞬きが見えた。
その瞬間、鼓膜を突き破る砲撃と共に、マリアの全身に向けて弾丸の嵐が振り掛かった。そして、閃光から弾け飛ぶように、マリアの血と肉片がキティの方へと舞い散ったのだ。手に持った写真もいよいよ、千切れ千切れとなって掻き消えて、側にあったカメラも滅茶苦茶に吹き飛はされていく。
何が起こったか分からず固まったキティの右頬を、肉の筋が繋がった白い眼が叩いてずり落ちる。剥いた翡翠の瞳に映るその青を捉えれば、その瞬間キティは音も視界も捉えられなくなった。しかし、再び矛先を変えて放たれた弾が、遂にキティの翳した右腕をも、シャンデリアの彼方へと吹き飛ばしたのである。
キティは迸る血飛沫の向こうに、自分の腕だったものが滅茶苦茶な方向に折れ曲がって回転する様を見た。ぐるりと回った白目は、熱が燃え広がったような痛みに剥き、ひゅっと迫る絶望と同時に痙攣する。
「ぎゃあああああああああ!」
そして、獣じみた声で叫び、傷口を握った激痛と共に、頭から冷たい大理石に倒れ伏し、意識を手放した。真っ黒になった視界の端で、自分の名を叫ぶ誰かの声が聞こえた気がしたが、口をぼんやりと開き、血塗れに倒れたキティの蒼白の耳には、去ってゆくヘリコプターのモーター音しか聞こえなくなってしまった。
16、さらば、親友よ
濃淡入り混じる灰色の雲を見上げながら、ウェッブは小石を蹴り飛ばし、荒息を立てて森の中を歩む。すると、数時間同じだった景色の向こうで、木々の隙間から白い丘のようなものが見えた。その瞬間、ウェッブが黒い指を突き差して叫んだ。
「おい! あったぞ! あれだ! 間違いない!」
森の鴉を飛び散らす程の声に、後ろから部下が信号弾を発した。空を縦に切り裂く赤い煙よりも前に、他の地点にいる仲間たちはウェッブの声に気付いたはずだろう。
背後で部下が震え声で、皆が集まるのを待ちましょうと諭すも、そんな悠長な気持ちにはなっていられず、ウェッブは構わず駆け出した。それに慌てて続くのはヨーナスと高珊と、そしてカマラ。ウェッブは愛しき親友を浮かばせながら少しずつと揺れながら大きくなってゆく白い飛行機の側へ、駈け寄らんと駆け抜ける。
「待ってろ! 今すぐ助けてやるぞ!」
そして息切れの中でウェッブは、その彼の親友の名を叫んだ。
「アーサー……!」
それから藪を掻き分けて行けば、彼らは直ぐにK‐7の後部ハッチの扉口に辿り着くことが出来た。唾を飲み込むヨーナスと高珊を背後に構え、ウェッブば大股にアーサーの名を呼びながら歩み寄っていくも、鋼鉄の船に反響して響くだけである。
しかし、ウェッブは鼻っから返事を待つつもりはない。重いハッチの柄を掴み、腕力でぶんと振り回せば、根こそぎ引き千切れるように扉が開かれる。一歩乗り込んだ先には階段が続き、登りきった先と向かう窓から差す日差しが眩しく、その黒い目に照り返った。
「アーサー! アーサー! おい!いるんだろ! アーサァー! 俺だ! ウェッブだ! 助けにきたぞ!」
それに眉を顰めながらも、ひたすら親友の名を叫ぶ。すると、ウェッブの声に答えたのは、その緊迫した声に反して、軽々しい女のものであった。
「はーい、はい! どちら様ー? 今行くわよー!」
それに対して、咄嗟にAK-47の銃口を構えたのは一番後ろに立つカマラだ。
「誘拐犯の声だな。なんだ、まるで呼び鈴に呼ばれたみたく、呑気にのこのこ出てきやがって」
グリップを掴む浅褐色の指の力を強め、赤い瞳が眥と共に鋭くなるも、その銃口に手の甲を翳し差し止めるのは、高珊である。
「待っテ。あの女ノ声カラは、アブない気は感じないでス。余計ナ牽制ハしないデ此処ハ待つのガ懸命でス」
「いやいや、気も何も、これは普通にそう思うでしょ」
最後のツッコミは飲み込んで、ヨーナスは遂に、ウェッブの肩の向こうより長い金髪を靡かせる長身の美女を見上げた。
「ふ、フロランスさん……!」
柔い日差しの背後に、小麦色に靡く髪の隙間から、パースの整った顔の微笑みが白い光に霞んでいる。その美しさに頬を桃色に染めたヨーナスは、脚のつけ根までの丈しかない白いワンピースの、その霰のない姿に更に赤面して顔を逸らす。すると、急に顔の筋肉を鼻の中心に一斉に萎めて蹲った。高珊が鳩尾に肘をつき食らわせたからである。
「あらあら。なんだか賑やかねえ?」
と、一方、その美女ことフロランスは、眼下の彼らを怪訝気味に首を傾けるも、間も無く菫色の目を開けば、均等に並んだ白い歯を見せて唇を広げた。
「あ、アルチュール!? もしかしてアルチュールのお友達なの!?」
ウェッブが何か言おうとしたその瞬間に、手を叩いたフロランスは半分はみ出た乳房を震わせて、左手向こうへと嬉々として声をかける。
「アルチュールー! お友達! 貴方のお友達がやっと助けにきてくれたわよー!」
返事はない。しかしやがて、左手向こうから小さくも深い足音が船内に響いた。聞き覚えのある、いや、忘れるはずもない。喧騒に反する冷たく凛とした足取りに、いよいよウェッブの方も確信をついて左端に眼を詰める。すると――、
「やっとなどと言うな。私たちの為に彼らは駆けつけてくれたんだぞ」
「えへへ、そうだったわね」
舌を出すフロランスに咎めの一言を添える、低い声が続いた。相手を気遣う素振りから始まる決まり文句からも間違いない、奴だ。と、ウェッブは思わず綻んだ。
それから逆光が遮られて、彼の姿が有り有りと浮かび上がる。灰色の短髪と同じ色の、その瞳孔の開いた目が彼らを見定めたとき、三人は見慣れたその姿に、そして最後の一人は、その生気のないビイドロの玉が不気味だと、身を震わせた。
「アーサー!」
「ウェッブ、よく来てくれた」
ウェッブが渾身の力を出してその者の名を呼んだとき、その男、アーサーは微かに瞼を伏せることで受け止めた。それは最早、一月ぶりとは思えない、数十年ぶりにも似た幾重の情動が互いに溢れ出て共鳴するものであった。
「なんだか凄く久しぶりに感じるな……ウェッブ……」
端正な輪郭を描く鼻筋を向け、詰まった声で眼下の親友を堅く見据えるアーサーに、ウェッブは「ああ!」と、威勢良く頷いた。
そうして、見上げる親友には目立った外傷は見当たらない。目を凝らせば灰色の髪も整えられてるし、ワイシャツに黒のスラックスといった、簡潔ながらも皺のない清潔であるのも分かる。背後のカマラはその生きている者とは思えない顔色の悪さと窪んだ目の隈に恐れたが、彼をよく知る者から、すればいつものことなのでそれは考慮するに値しない。
とりあえず、比較的穏やかであったろう境遇をその目で知れたウェッブは、アーサーの無事に安堵すると同時に、彼を此処まで連れて行ってしまった自分の罪悪感から放たれたことに破顔した。
「おう! どうやらなんとか無事だったようだな! アーサー!」
「お陰様だ、ウェッブ。こんな物騒な森の中で探すのはさぞかし大変だったろう。約束を守ってくれてありがとう。感謝する」
そうやって笑うウェッブに対し、いつもの通り無表情ながらも穏やかな口調で礼を言ったアーサーは、それから後ろに構える三人へと、そしていずれやってくるであろう他の味方達へと目線を変え、背筋をのばして声を張った。
「皆の者、御苦労だった。私が無事でいられたのは、何よりも君たちのお陰だ。君たちの恩にはきっちり、これからの仕事で返そうと思う。此方の準備が整い次第、私もすぐに出発する」
それから一旦言葉を止め、強い意志の眼差しを向けると共に、太く静かな声で言った。
「そしてみんなで――、アメリカに帰ろう」
「はっ!」
それにウェッブと高珊は口角をあげて微笑み、後ろのヨーナスは雄々しい敬礼でもって応えた。ヨーナスと高珊はそれから手を取り合ってアーサーの無事を喜び、カマラとそして脇のフロランスは、互いに労いの眼差しで見つめ合うアーサーとウェッブの様子を身ながら、部外者ながらも微笑ましく眉をあげた。
やがて、降りる為の準備も整え、スーツケースを片手にアーサーが皆が迎える帰国への一歩を踏み出そうとしたとき、そこでふと、フロランスがアーサーに声をかけた。
「ねぇ、アルチュール」
それは必ずしも、何らかの意図をもって言ったわけではない。ただなんとなく、と、言うに等しいものだったのだが、何故かアーサーはそれに対し、踏み越えようとした靴底を段差の上に擦り付けてしまったのである。
「……なんだ?」
「アルチュール、良かったわよね」
その沈黙は天使が作った。彼女の金髪が風に揺れる音だけが聞こえる間に、フロランスは颯爽と振り返る。背を向けたまま俯いたアーサーの細い肩の角に、その豊かな胸を付けるようにして、遂に彼女は――、言ってしまった。
「あの魔女子さん、アルチュールの味方なのでしょ? それなら、これからは安全ね。これでムンニャネウムの殲滅作戦だって、貴方のお陰で防ぎきれるのでしょ?」
それに、フロランスはアーサーの目の窪みが更に闇に深くなったのも知らず、えへへと肩を竦めて笑った。
「このお陰で、色んな人が犠牲にならなくてよくなるのよね。良かった、それは本当に良かったわ」
フロランスの笑いが終わったのを境に、船内の空気が別次元のものへ変わったのを、皮肉にも彼女は気づかない。その時、時が止まったのはアーサーだけではなくなった。階段を降りた先で嬉々として彼の手をとろうとしたウェッブも遂に、笑顔のまま身を固まらせてしまったのである。
「……おい、女」
「あら、何しかしら?」
金髪を靡かせて目配せするフロランスに対し、ウェッブは手を掲げたまま、白目を光らせて問いかけた。
「……今の話は、アーサーから聞いたのか?」
「ふえ?」
急に真顔になり、ただならぬ雰囲気を醸し出す問いに対し、さっぱり意図が読めないフロランスは剽軽に睫毛を瞬かせてながら首を振り、甲高い声で応えた。
「あら、違うわ! 魔女子さん本人からよ! キティと一緒に携帯から声をかけてきた魔女子さんから聞いたの!」
「それは、本当のことか……?」
「ええ? なんでこんなときに、わざわざ自分から嘘をつく必要があるの? ってか、それがどうしたの?」
と、首傾ける彼女を前に、ウェッブは口を開いたまま小さく頷きを繰り返すだけで返事をしなかった。フロランスの答えは彼の期待を裏切るものではなかったが、それから更に溢れ出た嫌な予感に、次にウェッブはアーサーへと眦鋭く口走る。
「そう、だよなあ……お前が例えオフでも仕事を語らないってのは、俺だって知っている。なのに……なんでだ……?」
掲げた手を鋼鉄の壁に叩きつけ、拳を作る。
「何故、それを魔女が知っていたん、だ……?」
それにアーサーは、灰色の眼だけをウェッブの方へ滑らした。
「何を今更。魔女に抜け駆けされた経験など、今まで何度もあっただろう」
「ああ、確かにそうだ。けどなあ、今回その情報だけは――、ムンダネウム殲滅作戦、それだけに限っては……! 魔女があらかじめ知っているのはちんたらおかしいことなんだよ……! 」
壁を揺らす程のウェッブの怒声に、アーサーの隣のフロランスは驚きに肩をびくりと震わせた。
「おかしい! ありえねえ! ありえねえんだ! その話はまだ、全員が顔を合わせたカルカッソンヌの、G9にしか話されてねえことだろうが! アメリカの議会にさえ通ってないその機密事項を、なぜ魔女が知っている!?」
それはウェッブでさえも、主要人しか通されないパーティーの部屋で、こっそりアーサーが教えてくれたからこそ知れたことだ。
「ならば、その公会議で魔女に聞かされてしまったんだろう」
すると、そうあっさりとウェッブの疑念を振り払おうとするアーサーに対して、ウェッブは激しく首を振った。違う、違うと繰り返し叫びながら。
「いいや、ありえねえ、ありえねえ、ありえねえ! お前と違って俺はあの場所の警備も担ったから知っている。あそこは柱の中に住むシラミ一匹でさえ残さねえくらいに警備の縄を張ったものだった! 監視カメラさえ取っ払い、携帯も無線も何もかも通さなかった!」
森の木立がウェッブの怒声と共に風によって揺れる。
「あそこは、顔合わせた者の声と、唇の動きでしか分からねえ、魔女の弱点であった、人と人との通じ合いでしか伝わらない、完璧な舞台であった筈だ!」
「や、やだ……何なの……? ちょっと、それってつまり……」
そこでようやく、フロランスも尋常でない状況を察し、身を強張らせた。そして、外で談笑しながら待っていた残りの三人も、神妙な顔を見合わせ顔を出す。しかし、その中でアーサーだけは微動だにせず、口しか素早く動かさなかった。
「ならば、その会議室か、式典の会場に、魔女の手にかかった者がいたということではないのか?」
「じゃあ、それは一体、誰だ!?」
すると、白い歯と目を剥き出したウェッブの怒声が弾け出た。それは、一種の動揺の表れとなる震えをも伴っていた。
「おい、それはどういう意味だ」
アーサーが物々しげに頭をあげる。唇震えるウェッブに向かって灰色の睨みを効かす。そこから続く覚束ない唇の作動は、ウェッブの懸念に対し、明らかに訝しげな綴りを縁取った。
その声に今度はヨーナスがこの光景は夢なのかと恐れ入る。まるで、今まで敵に対して諌めてきた声を今、紛れもなく親友であるウェッブに対して言っているというのだから。
ヨーナスは動揺に目を震わせながらも、そこでようやく、今まで見て見ぬ振りをしていた騒がしい胸の内の確信をついた。冷や汗をかき、馴染みの二人を交互に素早く見やりながら、今まで脇で見守ってきた者としてのこの歪みを何より身に感じ取る。
大学時代の同期として出会ったという親友は、ジョージとの事件で数十年ぶりに再会し、それから五年も共に歩んできた。この二人の同胞は、たった数ヶ月のこの別れで明らかに、それぞれ何かが違ってしまっていた。
「てめえが勘繰ってるのと、同じのを考えてんだよ……」
対してウェッブは、自らの口からそれを言うことを拒ぶ。その姦計に嘲りに似た溜息をついて目を伏せるアーサーは、そこから大仰に両手を広げ、アーサーが議員として繰り返した演説の口調さながら、その思惑への懸念を諭そうとする。しかし、勢いの裏で奥底の真意を誤魔化す為の意志にも、ウェッブとヨーナスは見えたのだった。
「いいだろう。乗ってやる。お前が私をあの魔女の内通者と疑うのであれば、それには不可能な点が幾つもあるぞ」
ヨーナスは眦を吊りあげる。遂に、アーサーの太い声からその言葉が発された。
「私はカルカッソンヌでの騒動の後にすぐに誘拐されて、この空飛ぶ牢屋に始終閉じ込められたままだった。会議からパーティーにそしてジョージと待ち合わせするその間際でさえ、付き人といる時間、お前といた時間、その日その場所にいた部屋の中身からして、私が魔女と通じる時間は全くなかった筈だ」
この気まずい雰囲気の中で、不自然な程に饒舌となったアーサーの弁明に眉を顰めつつ、ウェッブは頷く。それは確かに、簡単に裏付けがとれるものであるし、何よりアーサーの多忙な日々をよく知るウェッブだからこそ、それは嘘でないと悟れた。だが、それでも――、
「なら、誘拐された後……、女にしか囲まれない……この閉じられた空間での長い日々では……どうだ?」
「此処のことか!? この百年も前のオンボロ爆撃機が!?」
すると、口端の歪みを懸命に取り繕うとした唇の震えに、片腕を振りながらアーサーの大きな声が弾く。
「ありえない、それこそありえない! この中にある電子機器など、どれもこれもアナログのロストテクノロジーばかりで、私でさえもロクにやり方の知らない使えないものばかりだ! パソコンも携帯も落とした中で、此処にいたこと自体が、私のアリバイなのだ!」
「じゃあ、女がさっき言った……携帯は? 」
「そんな物など私は知らん! そうだろ!?」
「ふえ!?」
突然、筋の通った鼻先を鋭く向けられたフロランスは、予想外に驚いて声を裏返す。更に驚いたのは、その腑抜けた声に対して、アーサーの答えは怒声だったのだ。
「そう、だったろ!と、聞いているんだ! どうなんだ!」
「え、あ、は、はいっ!」
フロランスは、慌てて背筋を伸ばす。飛行機にいる間には、想像もつかなかった突然のアーサーの豹変に汗を散らす。しかし、動揺する間もなく、睨みつけるアーサーの眼光に急かされるように、フロランスは答えた。
「え、ああ、そうよ! そうそう! アルチュールは知らない筈だわ! それに、充電も切れちゃって、一度も使えていない! アルチュールは一度も触れる機会はなかったはずよ! あったとしても、この私が気付いてないはずがないもの!」
「ウェッブさン。あの娘ハ嘘ヲついテませンヨ」
ウェッブの後ろで高珊が小さくその裏付けを推すも、それでもウェッブのひしゃげた顔は変わることなく、むしろ唸り声さえ漏れ出ていく。
そう、フロランスや高珊の言葉など、最初から耳を傾けてはいなかった。ウェッブの白目が日差しに瞬くその向こうには、そんな彼らの上塗りの声なども全て無下に帰す、確固たる物が一つだけ、目の前に輝きを放っていたのだから。
「アーサー」
それから、そのときを憚る合図として、ウェッブはもう一度彼の名を呼んだ。その名の者が顎先で狐円を描いて此方へ白濁の瞳を向けると共に、ウェッブは黒く太い指を突き差して、頬をゆっくり膨らましながら吐いた拍子に、言った。
「だったら、その……手首に垂れ下がっている、それは……なんだ?」
ヨーナスと高珊が何のことやらと差す方へ顔を向ければ、その細い手首には大きすぎる、無骨で重たげなG-SHOCKがあった。
「なにを、言っているんだ、ウェッブ……」
それに対し、弱々しい口調で誤魔化し、さっと手首を隠したアーサーに、遂に高珊もその不自然さに片眉を上げたのだ。
「アーサーさン……? アナタ一体どしタ」
「ああ、俺あ、カルカッソンヌのときからやっぱりおかしいと思ってたんだ。昔っから無駄に洒落心の効いたお前が、サイズの合わねえG-SHOCKを持っているとはどう考えても不自然だってよ……。しかもまるでお気に入りのように、どこでも持ち歩きやがって……あの会議だって……お前は……」
「な、何、それは一体、どういうことなんですか?」
緊張の汗を散らしてウェッブへ横顔を向けたヨーナスに、正面を向いたまま高珊が、ウェッブの代わりに応える。
「つまリ、アーサーさンのあノ時計ハ彼自身ガ選んダ訳でハ、ナい。貴方ノことヲよクしらなイ、別ノ出合いノ者ガ用意して渡しタ、といウことになルノでハ?」
「そ、そんな別の手合いの者なんてまさか……」
言葉をつっかえたヨーナスは、徐々に上目遣いの黒い瞳の色味を変えて、皆と同じ眼差しで渦中のアーサーを見やる。それに向けてウェッブは、手の平を差し出して首を傾けた。
「その時計を……渡せ」
そして、最後の覚悟を貫く言葉は、より低く深い声を伴った。
「お前が身の潔白を果たしたいのなら、その時計をこの手に添えてくれ。それだけでいい。お前のお得意の、そのしみったれた言い訳や誤魔化しより、それは何より真実を語るぜ」
さあ、と、更に上へと掌を差し出したウェッブの眉間に、汗が滴る。それは縋るようなものでもあったが、それでもアーサーは、白い手の甲の血管を浮き出してそれを固く掴み、その指の節々が奇妙な軋みを立たせるのだ。
「おい、どうした……」
「変な勘ぐりで誑かそう、するな……」
時計を渡さない方を選んだことに、ウェッブは愕然とした。言いかけた戸惑いの悲鳴を喉に押し込み、吐きだした次の言葉で、アーサーへの憤りを顕にした。
「勘ぐっているのは、どっちの方だ!いいから黙ってその時計を受け取ってくれりゃ良いだろうが!」
「それは……」
上歯で下唇を噛み締めたアーサーは、灰色の目を点にして唸る。
「出来ない……!」
目の焦点は一点のまま、小さく首を振ってそう言った。それに、次々と困惑を入り混じる叫びが連なった。
「アーサー殿!」
「アーサーさン!」
高珊が三つ編みを振る勢いで足音鳴らして彼へと迫る。物分かりが良い彼女とて、戸惑いが先立ち声を上ずってしまう。
「どうしテそウ意固地の悪イことヲ仰しゃルのですカ! 時計さエ渡しテくれれバこんな無駄ナ時間なド、スグ終わるのニ!」
それに続いて、首をアーサーに向けて叫ぶのはヨーナスだった。
「そうですよアーサー殿! 私たちにはまだ話し合える余地があるじゃないですか!」
「おい、アーサー! なんか答えろよ!」
「アーサーさン!」
「アーサー殿!」
三重に折り重なる叫びを前にしても、アーサーは動かなかった。しかし突然、黒のビニールブーツを踏み込んで前へと割り込んだ男が、弾みにフードを脱ぎ払い、逆立った黒髪を日差しに照り輝かせた。
「もういい、これ以上見てられない!」
そして、浅ましい光景を咎める厳つい口調で迫るその男は、腰元に巻きつけた深緑のフードから銀に光る小型のグルカナイフを右手から取り出したのだ。
「あんたらが仲間のよしみで嫌がるってんなら、代わりに俺がやってやる」
唸り声から太い声を発した男――、カマラは途端、身体を斜めから厚い胸板を反らして攻撃に身構えた。鋒の瞬きに反して、皺寄せる鼻筋と太い眉毛が為す陰からは、悪魔と呼ばれた赤い瞳を真っ直ぐに向けて、階上に細長い四肢を逆光に翳し、白い顔を影で隠す死神と対峙する。
「この薄気味悪い、ムンダネウムのスパイめ……! テメェが口を割ってしまったおかげで、これからどれだけの死ななくて良かったはずの仲間たちが、無様に斃されると、思ってんだ……!?」
その殺意を躊躇なく言い切る声に、三人が唖然と口を開く。止めようとする手をも弾き飛ばす赤い瞳の覇気に対して、灰色の瞳は相変わらず、意識のぼんやりと眼差しで顔をそむけるばかりだ。それにいよいよ、対話の余地もないと見て、激しい舌打ちと共に悪魔の牙が剥かれた。
「この忌々しい死神が! テメェが幾人の無垢な魂を黄泉に連れ去ってしまうその前に、」
一旦、息を吸い込んで、吐く。
「今から俺が!お前を殺してやる!」
それからグルカナイフを片手で回転させて、一気に階段を登って刃を突き立てようとしたとき、彼の前に立ちはだかり、透き通った白い首を代わりに晒す者が現れた。悪魔の攻めに立ち向かうのは、死神自身でなく――、
そう、「悪魔」と対峙する者とは古今東西関わらずーー、
「やめて!」
天使、と、決まっているのである。
「お願い! アルチュールを殺さないで!」
白いワンピースの裾を靡かせ、横から飛んで出たフロランスは、死神の盾にならんと両手を広げ、悪魔を対する甲高い声をあげた。
「ねぇ、ちょっと!どうしちゃったのよ、みんな!さっきまで無事を願ってたのに! アルチュールはみんなの友だちなんだよ! どうして友だちの前にそんな顔が出来るの!?」
金髪を情動に揺らし、死神を懸命に庇う天使の前に、悪魔は更に眦を吊り上げてナイフの柄を強く握る。
「どけ、女。俺たちを今まで騙していたスパイを、今更どう思っていうんだ」
「分かってないわね、ボーイ!」
すると、天使は金髪を振り乱し悪魔に言い返した。
「スパイでも、友だちってことなのよ! 私はアルチュールが何者であろうとも、今此処で見捨てたくはないわ!」
そう、天使とて最早、一連の流れから死神が「クロ」である事を疑う訳ではなかった。涙に透ける藤色の瞳は、三人の思惑を遥かに超える心当たりを翳しているのだ。
「それでも、だとしてもよ!」
フロランスは更に大きく口を開いた。
「みんな! 友だちであるアルチュールを信じてよ! こんなこと、アルチュールだって何か大切な訳があってしたのよ! これはきっとみんなのためだったのよ! だからお願い、アルチュールを殺さないで! だって……! だって……!」
そしてフロランスは振り向いた。貴方が時計を手放さない理由はそれだけではないのー、と開いた口を無言で動かして、アーサーを見やる。彼女の長い睫毛は仄かな心当たりの縁取りを描いて瞬く。
「ねぇ、アルチュール。私は、キティは、ちゃんと分かっているのよ。だって貴方、本当は……!」
そして、僅かに口角をあげながら彼の同意を促そうと体を向けたが、その次に睫毛が瞬いたときには驚愕の揺らめいた。
「アル、チュール……!?」
天使に守られていた死神は、懸命に健気な彼女さえも其処に棄て置き、その細い背中を向けていたのだ。手すりを両手で掴んでは伝い、ゆらゆらと朧な足取りで、彼女に一瞥さえ向けず階段をあがっていくのである。荒い息をあげ、窓の向こうを錯乱させながら辺りを見渡す様子は、目に見えぬ誰かを探していた。
その余りにも無碍な応えに、唖然と口開きながら死神に手をかけようとした天使を前に、小さな声で彼はある者の名を呼び求めた。
「ジョージ……!」
その名前にフロランスが目を見開くと同時に、壁にもたれかかるように振り向いたアーサーは、白息を吐き出して叫んだ。
「ジョージ……! ジョージは何処だ……!?」
冴えた眼差しで首を回し、死神は吠えるように叫び続ける。
「お前は、一緒にはいないのか!? ジョージ! お前は一体どこにいるんだ!」
無機質な鉄壁を左右に素早く見渡し、彼は鎖に繋げた忠犬の面影を求めた。
「こいつらでは最早、話にならん! 早く来てくれ!来て、早くここから私を連れ出してくれ!」
手摺を命綱の如く掴み、膝をつきながら首を乱雑に振りながらジョージの名を叫ぶ。それを、ウェッブは、遂に我が親友を醜態と見て、丸い鼻先に皺を寄せ上げて憤怒への血流に疼かれ、肩を突き上げる。
「アーサァ……! テメェ、そこまで……!」
「やめてぇ!」
そのまま階段を上がろうとした熊を前に、天使が咄嗟に金切り声をあげて我が身を張って止めようとする。その喧騒の中で、死神は介せずジョージの名を叫ぶばかりだった。その慌ただしい状況を諭したのは、意外にも凛と済ました、外れに佇む男の答えだった。
「ジョージさんは……いませんよ」
そして、逆光に眼鏡を白く光らせたヨーナスは、俯きながら言った。
「ジョージさんは今、此処よりも遥か遠い異国にいます。それ以上叫ぼうとも、ジョージさんはもう来てくれません。貴方を救うことより何も、あの人にも優先すべきことが出来てしまったのですよ……」
「嘘だ……」
ヨーナスの言葉に途端、アーサーは頬の筋力を全て落とす萎びれた顔となった。睨むヨーナスに顔を向け、首を小刻みに横に振りながらヨーナスの答えを拒む。
「嘘だ……嘘だ……嘘だ……。彼があの契約から、私以外に優先することなど……そんなものなどあるはずがない!」
「それは貴方が知らなかっただけです! ジョージさんはその時から、いや、ずっとずっと前から一人きりでその思いを抱え続けていたんだ!」
それに今度は、高珊が驚きにヨーナスを見上げた。一方、犬歯を剥いたアーサーが理性と品性をかなぐり捨て、乱雑極まりない声を張った。
「嘘だ!」
対し、ヨーナスは拳を握って怒声を効かす。
「本当です!」
鉄火場を潜り抜けた男としての、敵を威嚇する野犬の咆哮には、死神も叶わなかった。遂にその声から否定する余地を失い、へなへなと段に肘をついてへたりこんだアーサーに、其処からヨーナスは責め入る。口の仕草一つ一つを強調させながら、ヨーナスは其処から自分の胸の内を吐き出す。
「貴方が変わってしまったように、ジョージさんも変わっていったんです! 貴方が年月を経る毎に老ぼれていくのと同時に、彼は貴方の生気を吸い込むようにどんどん成長し大人になったなのです! 正に自然の理が故の結果だったのです!」
自ら言い放った言葉に、ヨーナスは目端に涙を溜めていた。
「諦めてください、アーサー殿! 貴方はもう、ジョージさんを操るには余りにも皺がれてしまった! 貴方はもうこれ以上、貴方の思う通りに人も、そして自分自身をも動かすことはもう出来ないのですよ!」
雄々しい叫びが示す通り、一際逞しく仁王立ちするヨーナスと、更に身を細ませて膝まづくアーサー、最早その差は歴然となってしまった。五年前、その体力の差をもってしても、超えることが許されなかった身分の違いが、遠い異国の艦内では、全て意味をなさない現実が其処にはあった。
アーサーを囲む四人の手合いに、一人のか弱い女とでは、立ち向かおうにも最早唯の時間稼ぎにしかならない。それを目配せで察したアーサーは、鯉口を繰り返し開くことしか能わないのである。
その弱々しい痩身に一体何が出来るというのだ。と、ヨーナスが眦の端を片方あげて降参を促せども、アーサーはこの場面をもってしても、薄い唇を震わせ、それでも立ち上がろうと再び、手すりを叩いて自らの身体を起こす。
そして、高見からヨーナスを見下ろす態勢へと灰の目を下へ回した。ふらついた足取りながらも、悲壮な程の意地によって立つ。
「……分かったような、口を効くな……ヨーナス……」
アーサーは横を向き、虚ろな眼差しから抑揚もない声で答えた。その虚ろな瞳には栗色の一房を揺らす女の背中が映る。唯一、まともに別れ、見送ることの出来た女を刹那に。もう、その名を呼ぶ力もなかったのだけれど――、
「私は……変わってなどいない……。今までもそして、これからも……」
狭い階段との狭間で、そこに吹くはずもない風がアーサーの短い銀の髪を靡かせた。それにヨーナスは毛並み逆立て、瞳孔が縮む。それがとある物の脈動の予兆であることは知らずして。
「変わってしまったのはお前たちの方だ……。いつの間に……そこまでブラックパンサーに毒されたのか……」
「アーサー殿、まだそんなことを……!」
しかし、そんなヨーナスの咎めは一蹴された。そこで正面を向いたアーサーが、目は戦慄に固まったままなのに、強張らせた筋力を無理に引き上げ、歯を見せて笑ったからだ。
「ははっ、ははっは」
肩を小刻みに上下させながら、目と口の揺れ幅が一致しない歪んだ笑み。乾いた笑い声が雑音なく響いて三人の動揺を煽る。それから細い右手で垂らした左手を掴み、窓の白い日差しを背後に更に天井へ歯を尖らせて笑い出したのだ。
「ははっはははは!」
身体の節々を外れた拍子で揺らし、喉をひくつかせて笑う様は、さながら硬直した死人が演じる生者の真似事。何かを思う間もなく、死神の成れの果てを見るだけで精一杯な彼らへと、懸念も同情も憐れみも全ての応えを否定して、アーサーは最後、大口に笑ったまま顔を俯かせて眼下の者らへ言った。
「そうだ! 私は変わってなどいない! これからも私は世界の平和を、その為に自らの正義を貫くだけ! それが例え、自らの心を殺すことになろうとも!」
それから、左手首を掲げて開いた口元、その時計盤に一気に近づけようと屈んだ間際に叫んだ。
「これは裏切りではない! 私は最初から誰にも寄りはしない! 私が寄るべきものは私自身だ! ただ一つの真実を求める私だけだ! その為に今からするべきことを!」
何か底から浮かんだ気配は、アーサーの地から湧いた情動か何か、と、ヨーナスは思っていた。それに戸惑う中、アーサーは歪んだ笑みのままに叫んだ。数多の者に告げてきた、最後の節目を飾る役目を負う。
「さようなら、諸君! 君たちの無事だけは祈ろう!」
粘膜の音を立てて時計盤に向かい、アーサーは人語としては聞こえぬ羅列を吐き散らす。すると、それはまるで呪文のようにして、突然艦の底が飛び跳ねたのだ。それに皆が一斉に足を取られた。地響きと共に男の太い、女の高い叫声がごちゃまぜに響き渡る。
「っなん、だ、これえ!」
「きゃあああっ!」
更に続く地響きに、後ろに転がり落ちそうに手摺に捕まりながら大声をあげるウェッブに続き、すぐさま階段を駆けて、アーサーを引きずりだそうとしたヨーナスだったが、途端後ろに引っ張られた勢いで足を掬われる。高珊がカマラの襟首と共に彼の背中を掴み、出口へと一気に駆け出したからだ。
「高さちゃん……!?」
「姉御!?」
驚きに為すがままにされる彼らを横目に、汗を飛ばす程に階段を飛び降りる高珊は唯一、アーサーの目から察したおどろおどろしい気に怖れ、歯を食いしばって叫んだ。
「くっ! 遅かったか!」
それから、三人が外へと転がり落ちて森の芝生に着地したとき、同時に入り口は地面から風によって浮き上がった。けたたましいモーター音と共に、地に張り付いた石を弾き、砕す轟音とがつん裂く中で、一人艦内に残ったウェッブは、景色の変わった出口の向こうへ、両足から弾き飛ばされそうになる。
「くっ、そがああああ!」
しかし、雄叫びと共に、太い腕で手摺にしがみ付いて何とか耐えながら、仰向けに這って段上を見やった。向かいのアーサーはウェッブとは反対に窓側に身体を飛ばされて蹲っていた。窓に身を寄せる逆光から顔は伺えない。一方、顔面に突風を受けながらもウェッブは、白濁に眼光を瞬かせる。風に波打つ唇から、それでもアーサーへと声を荒げるのだ。
「おいっ!冗談じゃねえぞ! こんなままで……! このままで終わらせてたまるかってんだああああ!」
再び艦内が上下に揺れ動いたとき、その拍子にホルスターから飛び跳ねたが、スピードシックスと名を持つリボルバーをウェッブは受け取る。それを揺れる勢いにまかせ、一回転してグリップを握っては、焦点の定まらない銃口を、端で怯えるフロランスのその向こうへ突きつけた。
狙う標的は唯一つ、段々と窓縁をつきながらなんとか立ち上がり逃げようとする親友。震える銃口は船のせいなのか、それとも自分のせいなのか。
「許せ、許せよ。親友なんだからよ」
小さく口走り言い聞かせるように、目には血脈を浮かばせ、親友を守るためにあったこのリボルバーを今、彼へと向けているの瞬間をまだ、信じられないでいた。
「いいのか、いいのか、本当にいいのか」
激しく揺れ動く空の中、やがて膝を立てて手摺を伝い、踊り場の先へと這い上がる親友を追う。その周りを銃口がぐるぐると囲む。
そうだ、ここでまんまと逃げられる訳にはいかない――、ウェッブは遂に黒の眉を吊り上げて、全ての覚悟を決めた。
「にげ、んなあああああああ!」
そして、悲鳴にも似た怒声と共に、遂に引き金を引いたのだ。どおん、どおん、と、重い銃声が二回鳴って火花が散る。そのぶれた弾道にも関わらず、弾丸は真っ直ぐ二発共に、アーサーの細い腰に当たった。飛び散る血がウェッブの頬にも当たった。弾丸の衝撃に身体を跳ね上げたアーサーは、腰を押さえたまま再び地べたに転がった。呻き声は、聞こえなかった。
顔は踊り場を越えた先に当たり、しとどに溢れる血溜まりの中で、長い足を藻掻く仕草が彼の苦痛を醸し出す。藻掻く度に散った血が、白いワイシャツを真っ赤に染められていっく。
「く……!」
その惨劇を見ながら、彼を撃った銃を持つ黒い手はまだ震えていた。しかし、ウェッブも風に煽られつつ、前へ前へとへばりつき、階段を上がっていく。何としても此処から連れ出さなければと必死に腕をのばして、アーサーのベルトを掴み取ろうとする。引き千切られる腕の痛みも通り越えて、ウェッブは一寸、一寸毎に指を伸ばすも、手前の段に掌を叩いた途端、また艦が軋む音を立て今度は大きく斜めに傾いたのだ。
「うわ、っとお!」
「っ、きゃああああああ!」
ウェッブは逞しい片腕を盛り上げて手すりを掴み、何とか態勢を保つ一方で、フロランスの腕は、自らを支えるには余りにも細すぎた。あっけなく離された拍子に、目を向き驚くウェッブの脇を掠めて、出口へと四肢を転がすフロランスは、あっという間に外に弾き出されてしまった。咄嗟にドア縁を両手で引っ掴み、彼女も何とか落ちるのは免れるも――、
「いや、いやあああああああ!」
艦は、フロランスを振り落とさんとするように左右に動き出した。恐怖に震えるその眼下には、森の海が広がっている。落ちたら、最期。フロランスは、ひいっとその光景に声を裏返す。風の波に脚を持ち上げられ、向こう向こうへと引っ張られそうになるのを、足をばたつかせ押さえるのに必死となり、その度に揺れる身体によって指の節々がドアの縁から離れていく。更に、旋回機砲が急に動き出し、フロランスを脚を薙ぎ払わんと爆風を噴き上げるのだ。
「誰か、誰か!助けてええええ!」
フロランスの泣き叫ぶ声に、其処でウェッブは外を見やって眉を歪ませた。
「くそ……!」
今からウェッブが駆け出しさえすれば、フロランスを容易に救うことは出来る。しかし、アーサーとフロランス、どっちともとることは不可能だ。自らの態勢を保つのに必死になっている中で、軋む筋肉の痛みに呻くウェッブは、交互に見やりながら決断のときを迫られていた。爆風がウェッブの思考を煽らせる。さて、自分はこれからの母国の運命を司る親友を選ぶか、それとも、目の前で今、自分に助けを求める只の一般人を救うか。
ウェッブは身をその爪で裂けるほどに手を握り潰し、左右どちらでもない天井へ目一杯瞼を開いて叫んだ。
「くそが、くそがあああああああ!」
そうしてウェッブが手をこまねいている内にも、フロランスは今にも落ちそうになる恐怖に叫ぶ。きめ細やかだった白い素足は砲火で煤に覆われ、熟れた火傷の跡が血に滲み、のばしきった両腕の震えも早くなる。青々に広がる眼下の森を見やり、まだ呑まれたくはないと、恐怖に目を瞑って脚を藻掻き続ける。しかしそれも、落ちるまでの僅かな間を作るに過ぎなかった。
「お願い! このままじゃ落ちてしまう! 誰か! 誰か助けてー!」
涙を流しながらドアを見上げると、その一仕草の力にも耐えられなくなって――、遂に片方の手がドア縁から離されてしまった。甲高い叫びが湧くと共に、その代わりとなって暗がりから差し出されたのは、彼女の二倍の太さはあろう黒い男の手。
「おい! この手に捕まれえ!」
それは機内から身を乗り出して叫ぶ、ウェッブのものだった。
「おおくまさあん!」
それに雫散らして破顔した彼女は、躊躇の間もなく残った片方の腕を離し、宙に浮く間際にウェッブへと手をのばした。枯葉の如く柔く拙い指の辿りを、黒い幹の様な手がしっかりと受け止めて、風をも裂く勢いで引っ張りあげると、目配せる間もなく互いに強く抱きしめる。艦は今度こそ二人を落とさんと傾き、さすればそれを景気にと、ウェッブはフロランスを持ち上げ一斉に両脚をバネにして、斜め前へと飛び降りたのだ。
「しっかり、捕まっていろよおおおお!」
刹那、宙に吹かれて何もかもが楽になったが、次に、鈍痛にも似た重力に落とされた二人は、硝煙を幾筋か引き連れて、一気に森の中へと落ちていった。
「きゃああああああああ!」
煙を抜けた瞬間から目前に覆われた木立に、力強く身構えたウェッブは、自らの背から着くように態勢を変えて、森の中へと突っ込んだ。激しく木々がぶつかり鳴らし合う音に加え、瞑る視界からも葉々の影が散らばってゆく。しばらく二人は縺れ合い、幾重の枝木に傷つけられながらもなすがままにされる。が、木立が辛うじてクッションの代わりとなり、ウェッブの屈強な身体も盾となったことで、鳥羽ばたく衝音と共に、なんとか太い幹の上で留まることが出来たのであった。
打ち付けられた背骨の激痛にゆっくりと身体を仰向けから立て直したウェッブの、その広い腹の上にはすっぽりとフロランスが収まり、しな垂れた金髪から、顔だけは無傷に薄っすらと紫色の瞳を覗かせた。
「たす、かった、のね……」
フロランスの安堵の籠ったかすれ声に、ウェッブも一旦は強張った顔を脱力させ、息を吹き出し頭を倒す。すると、その木立の隙間から艦の腹が通り過ぎて、激しいエンジン音を鳴らしながら、見上げる二人の顔に影を伝わせた。それが、親友との決別であることを、ポーランドの冬風に吹かれながら、ウェッブは虚ろに悟ってゆく。
しばらくして、尾翼で円を描いて飛び去るK-7を見守りながら、その細まった瞼の中には、そこにいるであろうアーサーの姿を思い描いていた。
彼は、あの血だまりのまま、倒れ伏して死んでしまうのだろうか。それとも、自分ではない誰かが、向こうで待ってくれているのだろうか。
「くそっ……たれが、よ……」
しかし、これ以上思考する気力もなくなり、ウェッブは自分の情動を冷たい空を透かし見ることで精一杯であった。それが膜に覆われたのも、空のせいだと嘯いて。
それは、芝生の上でK-7を見送った三人も同じだった。立ったまま遠く向こうで起こった顛末を、未だ俄かに信じがたいものとして見送るヨーナスの隣では、高珊がいつものように慰めの言葉をかけるも、このときばかりはさしもの彼も、目配せ一つ応えない。それからやっと彼の衝撃を察し、彼女も共に雲海の向こうへ飛び去るK-7を見上げ、二度と言葉を交わさなかった。
前髪だけが煩く風に揺らめく午後の日。それが、彼らの別れとなった。
17、別れと出会いと
目が覚めたのは、差し込む日差しに顔を顰めたとき。
ぎゅっと視界の焦点を絞ると共に、横から髪を垂らす何者が光を遮って顔面に迫る。それに一回瞬きをして見てみると、それはよく知る少年の顔となった。
「たけ、し……?」
乾いた喉と唇からは、擦れた声しか吐き出せない。しかし、その僅かな息遣いまで聞き逃さないでいようとした少年――、武士にとっては、奇跡とも言える瞬間だった。
「キティー!」
その瞬間、武士は涙でふやけた顔を皺くちゃにして、横たわる彼女の首に腕を回して抱きしめる。悲鳴とも歓喜ともどちらも含めた雄叫びが、彼女の固まった身体を震わせる。
「生きてる! 生きてる! 良かった、本当に良かったあああああああ!」
薄い胸板と柔い乳房が触れ合い、互いの熱が伝わっていくことで、二人は初めてそれぞれの生を実感する。今だ意識がはっきりしないキティも、その、少し逞しく硬くなってきた肌の感触に、次第に翡翠の目を見開いていった。そして無意識に、声も出た。
「わたし、いきてる」
「そうだ、生きてる! 俺も生きてるし、お前も生きてる! やっと、やっと会えたなあ!」
武士は更に頬を寄せ、彼女の顔にも涙を伝わて喉をひくつかせる。彼の言う通り、これが、互いが意識を持った上での、初めての再会となった。彼の言葉から、これまでの間に巡った出来事を徐々に思い出して、キティも彼に抱かれたまま目を瞑り肩の上に雫を落とす。
彼がここにいてくれて良かった、と、心底思っていた。もし、此処で一人だったなら。余りにも酷い顛末をこれから抱えて生きてくなど、耐えられなかったであろう。武士の身体がキティを起こしてくれるからこそ、触れ合う彼の心臓の音が暖かく伝わるからこそ、キティはここで生きていられる。そう実感をもすれば、途端愛おしさが湧き溢れて、彼の細い背中を抱きしめたくなる。が、情動に反してその顔は色を失った。
「そういえば、わたし、うでを」
引き攣った瞳に焼きつく光景、自分の腕が根こそぎ引き千切られて飛ばされた瞬間に慄く。けれども、無かった筈の左手が、自分の意思に応じてシーツに波を作ったとき、更にキティはぱっと目を見開かせたのだ。
「……エッ!?」
後からその動かし方を拙く辿ってゆけば、腕は不思議と『キティの意志の通りに』シーツの中から肘を曲げ、その中をくぐり抜けては宙を浮かせ、武士の肩甲骨を撫ぜたのである。左手は彼のシャツを掴んだ。それからゆっくりと開いて彼の背中を叩いた。柔い皮膚の感触から今、五本の指一節までも自在に動かせることを今更のように知った。武士の身体が、キティの腕の有り様を彼女に諭したのである。
「うごける」
次にキティが言った言葉はそれだった。すると、武士は身体を離して距離を置いた先から、驚きに呆然とするキティを、愛おしく見つめて頷いた。
「ああ、そうだ。あの時は夢じゃなかった。けれどお前は失ったわけじゃねぇ。また腕を取り戻せたんだ!」
「どう、して……?」
武士の声に生気の煌めきを灯した翡翠の瞳は、その左腕の、継ぎ目さえない浅褐色の上腕を見ながら、あまりの衝動に空いた口も塞がらない。一方、武士はキティの肩を揺らしながら更に大きな笑い声をあげた。
「俺もな! さっきまでもう駄目だと思ったんだけど! ここまで治せる技術がもう完成していたなんて知らなかったんだよ! 良かったな! やっぱ長生きはしてみるもんだぜ!」
そうして武士は、キティの掌に自らのを重ね、二人の前へと掲げて笑う。日差しによって二人の指の縁が透き通り、赤い血まで透けて見える。
「ちりょう……?いったい、だれが……?」
その奇跡の由縁もまだ分からぬままに、キティの指は白い武士の僅かに骨身を増した少年の手を握り返す。それに武士も応じ、互いに握り合う。少年ながらも慈父の眼差しを細まった黒い瞳が日差しによって穏やかに灯り、それを見据えたとき、キティはすとんと心地よく透き通ったビー玉が落ちたような感触が胸の内によぎった。
キティは背筋をのばし、翡翠の差し込む光の角度を変えては唇をゆっくりと開いてゆく。とても、とても武士と話したい衝動が沸いて出る。それを悟りつつm気づかぬふりをして首を傾ける武士は、その開いた唇の続きを待っていたが、それを聞くのはまた別の機会となる。その合間を別つように、突然脇から声をかけられたからだ。
「久しぶりだねえ、灰かむりの子猫ちゃん」
キティは初老の男の声、栗色の髪を翻した。すると、そこには入口の縁に背をもたれて立つ、小柄の老人が腕を組んで微笑んでいたのだ。久しぶり、とは言われたが、その毛髪の薄い丸眼鏡の男に、キティは全く見覚えはない。それに眉を顰め顎を引くと、男は飄々と笑いながらポケットに両手を突っ込み歩み寄っていく。見た目の年齢に似合わず、妙に張ったスーツのラインが気になった。すると、彼の正体を、隣の武士が背筋をのばしてキティに諭す。
「田中首相……」
「え!?」
驚きの声をあげるキティに、武士は穏やかに目線を下ろして説明した。
「ああ、ここはポーランドの日本大使館、そこに付属する病院の個室。今回は、特別の計らいで此処に治療させてもらってたんだよ。それを許可してくれたのが、この人ってんだ。紹介するよ、日本の首相、田中来栖首相だ」
「しゅしょう……」
「よっろしくう。それにしてもホント、武士君も懸命な判断をしてくれたよねえ」
と、紹介された田中首相は、国民の一人に紹介されたこそばゆさに笑いながら、呆然と見上げるキティに顔を向けて言った。
「そうそう、武士君はねえ、腕をもがれた君を助ける為に、僕らの方に連絡してきたんだよね。何故アメリカさんの方にしなかったのは分からなかったけど、そうでもしなけりゃ君の腕はその後も失くなってたままだったかもしれないしね?」
重々しく言うべきの言葉の羅列を、あえてか無意識か、軽々と続ける態度にキティは眉を顰めるままだ。それから、説明を促す翡翠の瞳に、武士は曖昧に答えた。
「う、うん……まあ、そういうことだ。失った部分の再生技術は再生細胞(IPS)の特許を取得した日本が一番進んでいるからな。俺も、それを唯一のよすがとして頼んだことでもあったんだ」
「そ、君の皮膚の一部から、再生細胞を腕につけて生えさせたから、当然拒絶反応もないし、傷の跡さえ有りはしないよ。ま、元の左腕にあった黒子とか染みとか傷とか、流石に其処までは再生出来なかったけどね。まあ、そっちの方が良かったっしょ?」
それにようやくキティも納得したように頷き、戻った左腕をもう一度掲げ、今度はその技術の成果に畏れた。
「すごいわ……だからってここまで、せいみつにさいせいできるとはおもわなかった……」
それに田中も同意して、大きく頷いた。
「うん、そこまで再生させる試みも、日本でも実は初めてだったみたいだよ。此処まで成功したのも初めてだって、今では病院の外も大騒ぎ。ま、つまり君は即席でこしらえた実験体、って訳だったんだけどね」
なるほど、一介の放浪女にこんな高度な手術が施されたのはそういう姦計があったからか――、と、今更キティはその事実に大して驚くこともなく、指の節々をくり返し折り曲げていた。
「そうなの……。こうしたものも、わたしたちのしらないところでどんどんすすんでいっているのね……しかもこんなあっというまにできるなんて……」
「「いや、三週間ずっと寝っぱなしだったから!」」
と、何も知らない寝起きのキティへと、武士と田中の爆笑が弾けた。一方でキティは真顔に身を僅かに起こし、思い出したことを叫ぶ。
「まりあは……!?」
それに対して田中は影を差して俯き――、
「猫ちゃん、いくらどんなに技術でも、死人を生き返らせることできないよ。それはきっと、未来永劫にね」
と、呟いた。それにキティは苦悶の顔で唇を噛み締め、瞑る目を手首のつけ根で支えた。そうだ、その瞼の裏は、彼女の最期を看取った筈だった。ガトリング砲の的となって肉片となったポーランドの少女の行き着いた先を――、それに苦し気に呻き始めるキティに、武士がその腕に触れて慰めるも、田中は冷徹に事の次第をまとめる。
「武士君、猫ちゃん。マリアはマフィアのボスだ。悪人だ。彼女によって一生を潰された人々だって沢山いたはずだろうよ。君がその胸に抱いたガット君だってそうだろう。手を下した相手は、僕らとしても不本意だったけれど――、それが彼女の、そして、その組織の受けるべき罰だったんだよ。それに部外者、ましてや非戦闘員の君たちが、罪悪を感じる必要なんてないんだからね」
と、田中の厚く太い指が、武士の小さな肩に付いて、彼の身の震えを支える。それに武士も田中の影の中、更に深い影を為して顔を伏せつつ、涙を滲ませて頷いた。
「それはそうと」
やがて、田中は哀しみに蹲るキティへと、遂に正気を取り戻す言葉をかけた。
「そうして君が、武士君の計らいで日本の庇護に浸っているのも今の内だよ、猫ちゃん。しかるべき処理が終わった後、僕らは引渡し条約の決まりで、君をアメリカに渡さなきゃならなくなる。それは、君たちの逃亡劇の終わり、そして永遠の自由からの終わりを意味するのさ」
これからに向けて、その覚悟はあるかい? そうして、首を傾けた田中に――、
「それは、目が覚めたときから初めて思ったことだわ」
と、其処でようやくしっかりとして物言いで、言葉を発し田中を見上げるキティ。武士の前で毅然とした態度を貫く健気な肩に、掴む手を強めながら武士は振り向いて、問う。
「田中首相……やっぱりそこに俺も一緒についていくことはできねえのか……」
「無理だね」
即答だった。
「忘れてもらっちゃ困るねえ。君は世間ではあくまで、猫ちゃんの犯罪に巻き込まれて誘拐された被害者、と、いう立場でしかないんだ。それならば君がいるべき場所は此処であるし、保護するべきは僕ら、日本人であるべきだ。君が猫ちゃんの共犯者、とみなされるのは、猫ちゃん自身はとても望まないだろうからね」
それにはキティもはっきり頷いて同意した。その全てを見透かした田中の物言いに、武士は圧倒されたまま、奥二重の目を逸らし、細めることしか出来なかった。
「それに、君を日本に必ず連れて帰るって、約束も彼ともしていたしね」
そう言って武士に目配せて口角をあげるが、それが誰か、ということを武士は聞かないまま、寂しげに目を伏せるばかりだった。
「それで」
一方で、胸元が露わになっていた襟元を整えながらキティは、田中にこれからを問うた。
「私を引き取る相手は誰かしら。それはやっぱり、アーサーのところなの?」
すると、田中は途端、口端に一つ一つくの字に皺を寄せ上げながらくつくつと笑い出したのだ。
「ふはははっは、違うよお。まあ君はまだ知らないだろうけど、死神君はもう、アメリカにはいないんだよ?」
「なんですって……!?それって、一体、どう、いうことなの……!?」
それに目を見張り、「まさか死んだのか」と、言いたげなキティの顔に、更に吹き出しそうになる唇を必死に閉じて、田中それを手で隠しながら答える。
「まあ、そういうことも合わせて、これからの相手に色々聞いてみればいいよ。そして、君が引き取られる先は――、ブラックパンサー、NSA長官率いるマルコム君のいるところさ」
キティはその瞬間、ぐっと唇を引き締めてその答えに身を震わせる。その情動によって肩の上に乗っていた髪が一房垂れたときをして、田中は徐に腰をかがめ、出口の方へと掌を差し伸べて言った。
「さあ、これが君達の、そして世界の運命が交わる場所だ。君たちは此処で別れるけれど、新しい出会いもこの向こうにはある。哀しみを恐れず先に行きな」
出口の向こうは逆光によって真っ黒だ。その先へ促す田中の顔は、日差しによって老いの皺さえ掻き消えて、眩しく映っている。
勿論、身構える二人に、その彼の誘いを断る権利はない。やがて二人は互いの腕を抱きしめ合っては、言葉も交わさず目配せで合図すると、その一歩を共に踏み出したのであった。
***
ポーランドの米軍派遣基地。
深夜、地平線まで見えそうな広大な飛行場は凍てつく闇に覆われ、白と黄色が点滅して縁取られた幾つもの飛行機の翼が、ガラス張りのフロントにいるヨーナスたちを掠めて通り過ぎてゆく。
森の木立に沿うように配置された橙色の電灯から、かろうじて見える景色を見渡しながら、ガラスごしのヨーナスは、陰鬱な瞳を黒縁眼鏡の奥に淀ませていた。
その後ろ、質感の良い紅色のソファに並んで座る高珊とカマラは、悲劇を受け入れようと今はただ構えているヨーナスの、逞しくも哀しい背中を見守っていたのであった。カマラが手を掲げては口を開こうとするも、高珊の左手が差し留めた。懸念する赤い瞳の目配せに、黒真珠の瞳がきりっと睨んで首を横に振る。「でも」と、赤い瞳の持ち主は太い眉毛を顰めてはまだそれに対峙する。
「だって、あの飛行機の時から、俺たちは一言もまだ話し合っていないというのに」
高珊はそれに頷きつつ、再びヨーナスの方へ顔を向けた。苦悶と悔恨を入り混じった顔をその小さな顔に貼り付けて。カマラの言う通り、高珊も何度その気まづさに口を開きかけたか分からない。けれど、それはよりヨーナスに余計な気を遣わせ苦しめることになるのも何よりも知っていた。いや、気を遣うことさえ出来ないかもしれないと高珊は悟る。
護るべき者からの、裏切りともいえる今生の別れと、本来ならその隣につきヨーナスの肩を叩いて慰め、励ますはずだった上司さえ、ヨーナスたちを放って立ち去った状況を前にしては、こうして彼が座ってられいられることさえも凄い位だと思ってしまう。
深かった絆の輪の中を、私的でしか関われなかった者たちが、今更付け焼き刃に彼らを知ったフリをして言葉をかけたところで何になろう。
それと同時に知っていた。彼を目覚めさせられる声を持っているのは、ただ一人だけなのだ、と。
高珊は今、その帰りを待っている。ヨーナスの後ろから飛行場を覗き込んでは、確信をついて唇を噛み締めた。
「そう、彼さエ、帰っテきたなラバ……!」
すると、彼女の後ろで自動ドアが開く合図が鳴ったかと思うと、そこから騒がしい足音が近づいていった。何だろうとソファごしに振り向くカマラと高珊。さすれば、似たような顔立ちを持ったアジア人らしき黒服の男たちが、真ん中の者を連れ立ってに支柱の影から姿を現す。すると、ヨーナスも何事かと振り向けば、黒縁をかすめた見覚えのある姿に、目を見開かせた。
「え……?」
背筋をのばしてそのまま立ち上がる。驚きにヨーナスの方へと向いた二人の間で、ヨーナスは首を僅かに傾けて凝視する。つま先までしっかりと見通せる距離からやがて指を差し、栗色の髪を下ろした女へ、無意識に掠れた声が出た。
「キ、キティ、さん……?」
「ヨーナスさん!」
ヨーナスの声に、キティも途端に顔を綻ばせ溌剌と彼の名を呼んだ。このとき、二人が面と向かい合うのは初めてだった筈だが、積年の思いを形容しきれぬ声として交互に弾かせは、それから迷うことなく同時に駆け寄った。
「キティさん! キティさーん!」
「ヨーナスさん! あぁ、ヨーナスさん!」
黒だかりを抜けた先――、どちら側にも侵されない明かりの点が瞬く場へと落ち合った二人は、衝突しそうになるのを互いの腕を取り合って押さえながら、歓喜の声を一杯に響かせた。
「キティさん! キティさん! よくぞ、よくぞご無事でー!」
「貴方の! 貴方のお蔭よ! ヨーナスさん!」
千切れそうになる程に腕を振るヨーナスは、五体満足のまま笑うキティの様子を首を縦に揺らしながら、何度も何度も見返した。その度に、無事であった心からの安堵と、辛い別れを経験した後からの念願の再会に、涙も流さんほどの感銘を受け、高揚と共に手を取り合ってはくるくるとダンスするように――、否、ダンスをして回り合った。
「良かった! 本当に良かった!」
そして彼女の肩を鷲掴み、ヨーナスは疲労と歓喜が故に緩んだ目尻から一雫の涙を流す。やがて霞む視界の右手、いつの間にかキティの脇からジド目で睨む武士の存在に気づき、更に甲高く声をあげた。
「武士君! 武士君ですね! 君も、よくご無事で!」
「お久しぶりですね。ヨーナスさん。俺も会いたかったすよ」
と、後ろ手に身を構えて遠慮がちに言った武士だが、その言葉は嘘ではない。ギルデッドの時に救ってくれた命の恩人へ、ようやく礼を伝える機会をこうして得られることが出来たのだ。
それから再び、何か気の利いたことを言おうとした武士に、そんな行儀は無用とばかり、その肩を掴んで微笑んだヨーナスは、それから一気に自らの胸の中に、キティごと抱き寄せたのだ。それは、今までのヨーナスとしては余りにも大胆だった。目をまん丸とする二人に構わずヨーナスはぽっかりと開いた胸の内を、彼らの愛おしさで埋めようと、深く、深く俯きながら抱きしめた。
「良かった! ずっと、ずっと心配してたんですよ……! 貴方たちにまた会えて本当に……! 本当に、良かった……!」
驚きに為すがままにされる二人を他所に、今にも慟哭しそうな声色で俯くヨーナスに、さしもの高珊も必死に抑えた嫉妬の念を懸念へと移り変え、手をあげる。
「あ、アノ? ちょ、チョッとヨーナスさン……」
と、諭そうとする高珊の声は途端、右脇からひょいと黒だかりから飛び出した同じ黒の影に遮られる。
「こう、さ、ちゃーん!」
「え、ア、ミ、ミナさン!?」
再会の渦は更に大きく広まった。NYから遠いこの地に巡り会えた瞬間を、ミナは高いヒールで飛び跳ね、高珊はソファーを飛び越え抱きしめあっては、ヨーナスたちよりも金切り声にも似た叫びで分かち合う。それにより一人置いてきぼりにされたカマラ。相変わらず図々しくその中に分け入らんと手を挙げる。
「おーい、俺もいるんすけどー」
それはまた新たな波紋を呼んだ。その声に下腹部の痛みを思い出したキティは、ヨーナスに抱かれたまま振り返り、それを為した犯人が今、飄々として此方に手を振っている。それを捉えた瞬間、全身の毛並みが逆立つ瞬間を初めて思い知った。
「カカカッカ……カマラアアアアアアア!?」
絶叫するキティの一方、唖然と固まる武士からすれば、命の恩人と自分を殺しかけた者とを同時に見る羽目になったのだから、その衝撃はキティの比ではない。
「な、なんててめえがここにいるんだあああああ!?」
「まあ、色々とありやして」
「ありすぎるだろおおおお!?」
そんな騒がしい再会の場面を、微笑ましく遠目より見守っているのは田中首相。やがて、その脇に立つ黒服の男たちが、恭しく場をとって礼をした。それに気付いて田中が振り向けば、今度は更に屈強な男たちを連れた長身の黒人、マルコム・ワイアットが仕立て上げたばかりカーキー色の制服でもって、田中を出迎んと歩み寄っていった。今までアーサーに対したのと変わらず、その高見からと煌びやかに瞬く金の縁に彩られた略綬を見せつけるように。
「こちらもお久しぶりですな、また会えて嬉しいですよ。田中首相」
「ありがとう。僕もだよ、マルコム君」
それから細面の端正な顔立ちでにこりと笑い、快く出向かた風に両手を広げるマルコムに、田中はにこにこ笑いながらも一介の米国の高官にも構わず、片方はポケットに手を突っ込んだままそれを受け取ったのだ。周りが沈黙の内、田中の行動に憤怒にしろ戸惑いにしろ心をざわつかせる中で、黒く大きな手と白く太い手、それぞれに刻まれた歴戦の傷を確かめ合う。
「さてさて、これで役者は揃ったんだ。早速、僕たちを、このまま彼の元へ連れて行ってくれないかねえ」
「ええ、勿論。丁度それが出来る頃合になりました。そのために迎えに来たのでありますよ」
と、応えるマルコムは、「ご案内します」と、下のロビーを正面に繋ぐエスカレーターへと手を差し伸べる。
「お、いいねえ。じゃあ、総仕上げといこうかあ」
両手を掴み、それから大仰に背伸びをしながら、田中はマルコムの脇を通り過ぎ躊躇もなくそちらに向かっていく。そのすれ違いの間際に一言、腰を屈めるマルコムへと言葉を添えて。
「これから君と心置きなく、長い話を出来ることもね」
それに長い睫毛を伏せたまま口端をあげるマルコム。それを合図に男たちが再会に湧く一同へと向かい彼、彼女たちを導いていった。
***
こうして、再会を果たしたキティたちは、やがてマルコムの案内と共に、飛行場を横切っていた。
「ちょっと、なんでこの子鼠が、こんなところにいるのよ!?」
「ハッ、ここで会ったが百年めヨ! 今こそ窮鼠猫の噛む恐ろしさを思い知るがいいネ!」
「えええええ、ちょっと二人とも、せっかく会えたのに急にどうしたんですかー!」
「おい、落ち着けキティ!」
黒だかりに囲まれながらも、歯ぎしりし合うキティと高珊。それにぎゅうぎゅうに挟まれるミナ、キティの腕を引いて避けようとする武士など、肘を付き合いながら進む一行は、ポーランドの夜に歯を震わせていた。お互いに更に牽制の言葉を交わそうにも、歯がかち鳴って言葉を紡げない。
「さっむ。めちゃくちゃ寒いなあ、おい」
「こんなだったらコート持ってくれば良かったですね。わざわざ外に連れ出して一体何を見せてくれるっていうんでしょうか」
そんな喧噪を他所に、ヨーナスは先ほどまで別次元にあった飛行場を歩いていることに今、不思議な面持ちで照明瞬く辺りを見渡している。すると、黒だかりの向こうでモーター音を世闇に響かせるジェット機が止まっていることに気付いた。
数多の作業員に囲まれ、照明によって橙色の縁取りに浮かぶ銀色のジェット機。一行はその丸い機首に向かう。すると、迫る様に広がる長い両翼を正面から対すれば、その大きさに皆が首をあげて圧倒のため息をつく。
「この飛行機は、一体……?」
と、思わず独りごちしたキティに答えたのは――、脇から劈く女の叫び声であった。
「キッティィィィイ! たっけっし、くううううん!」」
「え!?」
無遠慮に甲高い声が二人の名を叫ぶ。それに同時に振り向けば、逆光を背後に人だかりを飛び越えた白い陰影が着地して、側転二回の大技を決める。それに伴って金髪を舞い上がらせ、極寒に関わらず剥き出しに白い手足を四方に広げてきたのである。
「あい、たかった、よーん!」
飛行機の白い照明によって煌びやかに舞う金髪から、爛々と紫色の瞳を瞬かせて笑う美人に、その名を叫ぼうとしたキティと武士は、彼女の柔らかい胸の谷間に覆い尽くされたまま仰向けに倒されてしまった。それが、飛行場においてのもう一つの再会、フロランスの再登場となったのであった。
「キ、キティさん、武士さん!?」
「ちょっと、大丈夫!?」
彼女の戸惑いのないタックルに円状に後ずさった者たちも、頭から地面に倒れた二人にそぞろとなって駆け寄っていく。そうして、全く暇のない彼らのやりとりを若干引き気味に、見下ろすマルコムはいよいよ、声色の変わった作業員たちの声へ透き通った白目を回し、振り返った。
「きた、か……」
マルコムの低い声が唸る。その声と共に現れたのは、細長い黒の影。まるで要人のごとくに作業員らに囲まれた影は、睨みを効かせるマルコムを一瞥もせず風を為して通り過ぎていく。少し肩幅が広くなった長い男の肢体、黒のタイトな服に着替えた様相、そして坂だった短い金髪をジェット風に靡かせ、閃光が瞬く向こうへ消えてゆく。光の中で顰めた影は、黒だかりの中のただ一点をその瞳に映す。その色は透き通った水色をしていた。
「あ……」
その気配に一番最初に気付いたのは、キティであった。立ち上がるキティは、人影の中から際立って麗しい身体を晒す男が、此方に向かっていく様を見ると、翡翠の瞳を丸め、瞬きの仕方さえ忘れてしまっていた。
皆がその正体に後から驚きに身体を揺らす中、機首の前に立った彼は、両腰にぶら下げた黄金銃のスライドを触れるか、触れないかの間際に白く長い指を下ろして歩む。
「キティ」
そして、彼は言った。細長い金の前髪の間から眦麗しく、キティの顔を目一杯にその水色に映しながら、これで今度こそ、そしてもう二度と手放せまいとする意志を通じながら口を開く。
それが最後の再会。世界を巡り巡る追走劇の終わり。その花向けを、その影の男――、ジョージから締めたのだ。
「さあ、行こうぜ。世界の果てにまでよ」
それがいやに澄んでいた訳を、キティはまだ知らない。
終
数年ぶりの更新、そしてヨーロッパ編最終章、ここにて完結でございます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
これで一気に、物語の状況が変わったように思います。
別れもあれば、出会いもあり、ここでやっと、やっと、(二回目)キティとジョージが鬼ごっこから解放され、真正面から顔を向かい合わせることが出来ました。
アーサーという、GG、CKでも要たる登場人物が一味から離れるという大きな別れと引き換えに、
ここで初めてGGメンバー(ジョージ、ヨーナス、高珊、ミナ)とCKメンバー(キティ、武士、フロランス)が、敵味方の因果関係が(マルコムと田中によって)立ち消える形で合流することが出来たのです。これがもし、アーサーが別れなかったら、決してありえない展開でした。
なので、外すことは出来ないストーリーでしたが、GG1話から考えていたこの一斉入れ替え、こんなに寂しい気持ちになるとは当時は思いもよりませんでした。皆さまはいかがでしょうか。
いよいよ、ここからはヨーロッパを離れ、いざ、敵の本陣へ、アフリカ大陸へと渡る話となっております。いよいよ最終回への足音が聞こえてきました。どうか最後まで、彼らの物語を見守っていただけると幸いです。
根井舞瑠
登場人物紹介
マリア・ブリューメル:オランダの麻薬王、ブリューメル一家のボス。かつ、ムンダネウムのリーダー、ゲオルク・ライヒートが思慕する相手であり、遺伝子上でのジョージの母親。ポーランド人。89歳、181㎝。長らく正体を現さなかったが、対面を果たしたキティをして、「ジョージと似ている」性格の持ち主。また背の高さと瘦身の体型、瞳の色もジョージはマリアから継いでおり、全体的な観点からすると、実はジョージはマリア似である。ジュリアやアメリカ側が持ち得なかったムンダネウムの秘密と、その歴史を知る人物として、それをキティに語り継がせた。
ゲオルク・ライヒートを真摯に愛し、最後まで恋する乙女であったが、終ぞ最愛の人とは再会を果たすことが出来なかった。しかし、その思いの丈を語ったことは、後々の物語の展開に大きな影響を与えることになる。異名は「ポーランドの少女」。