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第7話 ポーランド編(中編-②)

10、1945年、ポーランドにて


「そうだ。慣れだ、慣れだ」


 泥付きの手袋のまま、ブリキのカップを掴んだゲオルクは湯気を白息と共に吹いた。中には、軍靴を浸す泥水とも区別のつかない真っ黒なコーヒーが満ちている。唇を尖らし、冷えついた端に口付けて一気に啜れば、体中がしばし活力に溢れる、至福な時が喉から流れてきた。例えそこから僅か数メートル先で、男が靴底を向けて死んでいたとしても。

ゲオルクはそれから目を逸らす、というわけでもなく、コーヒーを啜るそのカップの向こうで、唯一汚れなき灰色の瞳を瞬かせながら、泥沼の中に赤黒い血を浸す男を、脚立に座って見ている。


 何故なら、茶色いに身を包む男は敵だったから。そして、ゲオルクがたった今殺した男だからだった。


 ゲオルクを筆頭に14人の若い国防軍兵士によって構成された小隊は、既に立ち退きされた無人村の、一番大きな妻切りの壁に寄り添っている。視界を遮る森が鬱蒼とする谷間では、塹壕を掘って防衛戦を確保するか、このように人気のいない民家に潜むのが相応しい。


 だから自然と、無人村は縄張りを奪い合うための血なまぐさい激戦区となり、ゲオルクらの任務は、人少なな村に潜むゲリラや敵兵を討伐し、少しでも敵の侵入からドイツの確保した領土を防衛することであった。


「慣れなんだ、慣れ」


 可愛い後輩が、あどけない微笑みで丁寧に注ぐ貴重なコーヒーを、口の中で何度も繰り返し堪能する。本当は、この泥水に白銀の角砂糖でも中に溶け込んでいてくれれば、何の文句のつけようはないのだが、如何せん兵站の乏しい東部前線に、そんな贅沢は望めない。


  即席の釜を囲み湯気の向こう、揃って唯一の暖となる凹んだカップを抱き、談笑しつつ束の間の休息に浸る仲間に愛おしさがこみ上げ、薄く笑って再び息を吐いた。


 しかし、寒いのならばゲオルクたちは、その黄色い壁の向こう、その茅葺きの中に入れば良いだけのことである。


 それをしないのはそれが穴ぼこの開いた荒れ果てた家屋だから、という訳では無く、(それでも中の方がまだマシである)ほの暗い家屋の中に、朽木と同じように転がった、赤黒い血潮に斃れる女が今も居るのを知っているからだ。それは周回の際に、村人のフリをして、ゲオルクたちに襲い掛かったポーランド義勇兵――、ドイツ国防軍の精神的摩耗を狙った便衣兵だった。その時に持っていた武器は違いなくソ連製。しかも粗悪だと一目見て分かる。


 それは、経験もロクにないままに登用された、使い捨ての命。どうせ捨てるのに関わらず、彼らに大層な理想や理念で誑かしたに違いないだろうと、ゲオルクは悟る。数多に見聞きした事実を汲み取れば、ゲオルクの腹の中で珈琲が渦巻くようだった。


「全く、酷いものだ……女性にまで銃を手にとらせるなど……ソ連兵どもめ……」


 舌の端にちらつく錆の味を苦味に絡ませながらごくり、と、飲み干して、ゲオルクは青空の虚空を描いて思った。するとその時、端場から騒がしい声が聞こえて一斉にそちらへ顔を向けた。


 それは、斜面のある丘の中から、木々の間を滑って一人の男が現れたところから始まった。そして、雪と雨晒しで汚い花柄のフードを被り、斜面を降りている。それから泣きながら、喚きながら、ゲオルクたちが包囲する村に彷徨う男は、ゲオルクたちとさほど年齢に違いがないように見た。が、監視するドイツ軍に気付いてに怯える焦げ茶色の瞳はいかにも怪しげにギラついていて、ぴっしりとまとめた跡のあるボさついた、瞳と同じ色の髪は、明らかにこの朴訥な村の住人とも思えない。


 当然だが、あっという間にゲオルクの部下たちによって銃口を向けられる。すると、ますます、男は声を上擦らせて両手をあげて泣きわめく。涙を零す目は丸く可愛らしかく、また、小さな口髭が全く似合わない、幼顔の男であった。何とか紡ぎ出した言葉もポーランド語であり、当然銃構える若いドイツ兵士に理解出来ようもなく、ますます懸念は深まるばかりであった。


「どうする?」


「どうせスパイだろう、殺そう」


 と、素早く、男にとっては馴染みのないドイツ語で結論を交わし合う鉄兜の男たちを前に、ますます男は混乱をして大声で泣きわめく。互いに言葉が通じない非常に凍てついた場面の中で、タバコを燻らす向かい左手は容赦なく、冷徹に銃口を掲げた。それに手を振りわあわあと涎をも垂らして慌てふためく男に、嘲りの笑みを持ってタバコの端をあげて兵士は手袋を嵌めた指にトリガーをかける。すると、


「やめろ!何をしている!」


 途端、兵士たちにとって向かい右手から聞き慣れた怒声が発された。男も寒さに垂らした


 鼻水を振って顔を向ければ、焦げた家宅の壁に沿って黒に銀縁の軍帽を被るゲオルクが現れた。部隊の長として唯一、灰色のコートを靡かせながら厚手のブーツで歩み寄る美しい顔立ちは、先まで銃口を向けた彼らが一瞬にして羨望に魅入る程の眩しさがあった。怯えた焦げ茶色の瞳も、それにはっ、と、白い息を吐いた。


「しかし、ボス。こいつは」


 その中でも部下が慌てて弁明しようとするのを黒手袋はめた左手を掲げて差し止めて、虚ろな目で見る男の方へ筋の通った鼻筋を向ける。


『お前はどこから来た?』


 それに男は驚きに肩を震わせ、脇の部下たちも目を見開いた。眼の前にいる国防軍の鏡ともいえる、美青年の司令官が占領地のポーランド語で話しかけてきたからだ。


「え……?」


 突然耳に滑らかに滑り込んできた母国語に戸惑う男。それに今度は顎を引いて頭もたげ、今度は素早く小さな声で問いかける。


『落ち着け。私はお前を殺すつもりはない。さっきのお前の嘆きから大体の状況は分かった。向こうの森から来たんだよな。そしてソ連軍から偵察を命じられたんだな? それも、無理やりってね』


 すると、男は一瞬丘の方を見上げ、その後にすぐにゲオルクの顔を真っすぐに見ると、素早く二回頷いた。


『そうなんだあ。ひでえ、ひでえよ。俺はワルシャワから疎開しただけってのに、病院で看護してたらいきなり偵察に行けって、首根っこ掴まれて言われちまってぇ』


 と、ポーランド語で泣き声をあげる男の背後に辿るソ連軍の思惑を読み取り、ゲオルクの灰色の瞳がさっと色を失う。次の瞬間、彼は丘を背にして彼の前に立ちはだかっていた。


『つまりお前は囮だな? ただの弾除けとして使われた、今、お前に指示したソ連兵はどこにいる?』


 すると、焦げ茶色の瞳は斜め右上の曇天を見上げながら、手を掲げたまま答えた。


『あ、ああ。あの丘のへりに狙撃兵が何人か潜んでる……! 俺をデコイにして貴方たちをおびき寄せて一斉に討伐するつもりだ……! ちくしょうめぇ……!』


『な、ん、だと……?』


 それにまずい、と、ゲオルクは毛並み逆立てては、慌てて背後の部下たちに後ろ手に家に隠れろとジェスチャーをした。慌ただしい足音が背後に聞こえる。続いて自分の元に駆け寄ろうとした脇の部下たちにも、自分の腹の下へ手の位置を変えて同様に指示をする。ゲオルクが決めた独自のルールが、部下たちが槍衾になることを未然に防いだ。


 しかし、問題は肝心のゲオルクだ。謎の男を守るために、自らの背中を敵の渦中に晒してしまった。そこで逃げようとしたり、ましてや振り向いた瞬間をして、狙撃銃を構える見えぬ敵は、容赦なくその頭を撃ち抜くであろう。その軍靴の先さえ微動だに出来ない。一瞬にして死の縁に立ってしまったことに、ゲオルクは唖然として目を開く。


 この東部前線、寝たときでさえ、油断をしたことはなかったのに、本人の努力を越えたところで、戦争では唐突に悲劇が滑り込むのだ。


「私、も、ここまでなのか……? こんな、ところ、で……? あっけなく……?」


 身元も知らぬ、今こうして目を痙攣させている目の前の男の為に――、一方で、灰色の瞳も己の血濡れた姿を映し、血の気のない冷たさが皮肉にも美しいと対する茶色の瞳は思い馳せてしまう。しかし、この世界の片隅の――、変哲もない村でのその男との目配せがやがて、五十年隔てて世界を変えることになろうとはお互いに知る由もない。


 その中でゲオルクはやがて、美しい鼻筋を地面に向けると、ふっと口端をあげて呟いた。


『お前、名前は?』


 それに鼻水啜る音を交えて手を掲げる男は「ふえ?」と腑抜けた声をあげて首を傾ける。それに唐突におかしくなってゲオルクは吹き出してしまった。乾いた声だった。


『え、あの……カルク、カルク・コーヘン……ですけど……』


 そして、後から細々とした声で答えた。ゲオルクはまた笑う。一音でさえ何も響かない、心当たりのない名前。それが、自分の最期に聞く名前。ならばせめて、と、ゲオルクはその時思い出していた。今もありありと思い出す、忘れ得ぬ、親友の言葉を。


 ゲオルク、お前は正しくあれ。


「そうか……」


 最後に顔をあげて、彼は母国のドイツ語でもって、今度はまっすぐにその顔を見据えた。穏やかな眼差し、麗しい微笑み。まるで今背後に銃口を向けられているとは思えない姿で。そこで男――、カルクは背後の森さえ僅かに色づいたようにも思えた。


『私の名前はゲオルク・ライヒートだ。よろしくな』


 などと、最期の言葉のつもりなのに挨拶をして、目を細めて笑えば、ふっと脱力して身を伏せた。その余りの早い体勢に反応する間もなく、カルクは次の瞬間鳩尾を掴まれ――、そして一気に背後へと押し出された。身体が浮いて臓器が竦む気色悪い感触と共に、鳩尾を突かれた最悪な重なりに、カルクは豚のような声をあげる。


 しかし、次には灰色の柔い温もりを顔面一杯に受け取った。ゲオルクが、中腰に彼に抱き飛ばすと共に、彼の顔を胸で抱きしめたのである。その模範生たる運動神経を駆使し、ゲオルクは最期の動きを彼を守る、ただ一つのために使う。

 

 途端、弾ける狙撃銃の発砲が森を貫く。黒い森林を背後に弾ける血飛沫。ゲオルクは全てを覚悟して目を瞑ったが、背後の痛みは感じなかった。それにどうしてと思い馳せる間に泥濘の中に倒れ伏す。呻くカルクを胸に抱いたままゲオルクは振り向けばその光景に愕然と目を見開いた。


「な……!?」


 血飛沫は、背後から胸を貫かれて、膝を落としかけている部下のものだったのだ。馬鹿な、確かに逃げろと命令したはず、逃げる時間なんて沢山あった筈なのに、どうして――、震える眼光の先には、短い呻き声をあげ、泥を飛び散らして膝を落とし俯きながら血を吐いていた。揺らぐ鉄兜の縁に影が差して部下の表情は読み取れない。それに名を呼びかけようとした間際に、崩れ落ちる一瞬の間に全ての力を使ったか、ぐんと首を起こし、ゲオルクを見下ろした。生気のない黒い瞳と目が合った。そして、見つめ合うその眉間に血が噴いて大穴が飛び散る。


「ああぁ……!」


 血しぶきをその身に受けて、部下の最期を眼の前に突きつけられたゲオルクは、眉を下げてか細い声をあげた。一瞬の狙撃によって屍となった部下は、そこからうつ伏せに頭から倒れ行く。しかし、ゲオルクは部下の死に動揺しつつ、歯を食いしばり振り返っては、灰色のコートを靡かせ一気に部下の元へと飛び出た。それから倒れる間際にその身体に滑り込み、彼の持っていた銃の柄を握った。彼の意志を引き継ぐように。


「クッソオ! 撃ち返してやる!」

 

 部下の血の滴りを受けて、銃を装填する間際もう一発が、今度はゲオルクのはみ出た鼻先を掠める。それに今度もゲオルクも痛みが走ったが、それは同時にチャンスであった。その過った血の線が弾の角度を――、そこからその丘に続く狙撃手の位置を示すのだ。ゲオルクは息を吐いた時をして、その中から眼光を飛ばし、銃を力強く握った。そして、歯を食いしばり目をかっぴらくと部下の屍から飛び抜けて着地する間際に銃口をさっきの弾の方向へ突きつけた。


 スコープもないまま片目を瞑り、冷たい灰の瞳で一瞬に位置を定めトリガーを引く。大きい発砲音が鳴って、銃口の向こうの岩場から、黒影が痙攣するように飛び上がって血を飛ばし斃れた。その瞬間にゲオルクの足元にも弾丸は弾ける。刹那の一騎打ち。それはゲオルクの方に軍配があがったようだ。


「な、なんという……!」


 一方、それを這いつくばったまま見守るカルクは感激に眼光を震わせていた。その羨望の眼差しも露知らず、眦鋭く唇を引き締める冷徹な面影の中に、憤怒のマグマを渦巻かせ、ゲオルクは今度は膝をついて銃を構えた。一人ゲオルクの餌食になった後から次々と、潜伏していた残りの敵が蠢いているのを見逃さない。


 今度は目端にそれをとらえ孤円に銃口と膝の向きを変え撃ち放ち、今度もまた一発目で脳天をぶち抜く。続いて家屋の中に鉄の瞬きに向かって一発。息つく間もなく続けて三人を仕留めた。それにやはりうちらの司令官だと、拳握って意気込む部下たちに向かって銃を構えながら怒声を張って命令する。


「お前ら! 丘に向かって突撃しろ! 援護はここでする! いけーっ!」


 それに部下も威勢よく返事をすれば、先頭から丘に向かって手りゅう弾を投げつけた。それが丘の斜面に弾け散るのを合図に、大声をあげて部下たちも身を乗り出して駆けだしていく。その間際に投げられたスコープをゲオルクは前を剥いたまま片手で受け取り、取り付ける間に、部下たちがブーツを踏出し通り過ぎていった。丘を走りながら鉄の音を響かせて、冷たい空気を爆音と発砲煙の渦に湧かす一斉突撃に、いよいよ潜伏する意味もないと、向かいの敵も応戦を始める。木々の狭間で銃弾が飛びかう中、ゲオルクはそれでも無表情のまま、顔をのぞかせたその面々に向かって今度はスコープから次々と撃ち抜いていく。


 抜きのない正確な射撃に敵の感嘆の息をも聞こえた。今度はそちらへ一斉に銃口が向けられるのを、ゲオルクの援護射撃によって傷もなく飛びこんだ部下たちが歯を剥いて銃剣をふるっては敵の身体を抉り抜いていく。そうして、煙と湯気が漂う狭間で、ゲオルクと部下は助け、助けられつつ、再び敵の侵攻からドイツ領土を守り抜いたのであった。それは部下の血の上と共に。


***


「カルクはそこから、ゲオルクの奴隷になったわ」


 吹き荒ぶ冷風を受けて、マリアは薄い雲が迫る空を見上げた。昼から結構経ち、夜の気配を感じさせる寒さに、キティとニキータは我慢ならずに暖房の効く軒下にいるというのに、マリアは一切構わず外に立つ。まるで、当時の中に佇むように。


「奴隷って……」


「あの戦争は、当たり前だけどさ。綺麗なものが何もなかったの。この場所のように、この空のように、色がなかったの。その中で私たちは微かな色が今よりも鮮やかで、ずっとずっと忘れられない残照となって目に焼き付いたものなのさ。一番鮮やかに映ったのは血の色だったけど」


 手を翳して影を差したマリアの陰鬱な眼差しに顔伏せながら、口端だけは微かに上げている様子に、キティは何と答えればいいか分からなくなる。一方、言葉を知らぬ三毛猫は遠慮なく胸の中から顔を出し、彼女の顎に頭を擦り寄せていた。


「あたしには、分かる。あの瞬間、カルクはこの世に色があったことを思い出したんだ。銀縁の瞬き、黒縁からはみ出る弾力のある金髪、脈動する灰色の瞳。原色こそはなかったけれど、カルクはそれに目を奪われた。いや、いいや。そんなチンケな例えはしたかないね。そうだな……」


「彼を見て、自分の身体もあるんだと思いだしたんじゃ、ないかしら」


苔むした煉瓦に手をつき、ようやく紡ぎ出したキティの言葉に、顔をあげた青い瞳は曇天の中で一際綺羅びやかに映え写った。


「彼の色を見て、自分が色を捉えた者として知る。彼の微笑みを見て、高鳴る心臓を持っていた自分を知る。彼を見ることで、戦争の渦に巻き込まれて、透明だった自分がいることを知る。それは、この戦争において、何にも変えられない、瞬間だったのではないかしら」


 ニキータがキティを流し目に見やった。寒さに鼻先が少し赤くなっている横顔の鋭さと、クマが窪んでより浮き上がる翡翠の半角には、彼女もまた別の面影を辿っているように思えた。マリアもまた、にじりでるように微笑みを向ける。


「あんたも、そう思える誰かがいたのかい?」


 そう問いかけたが、キティは寂しげに目を伏せて、自らの腕を握るだけであった。


「では、それ以来、カルクはゲオルクの虜、に、なったと?」


それを悟って話を切り返したニキータにマリアはああ、と答える。


「それから、カルクは一転してゲオルクたち、国防軍側の味方になったんだ。イタチごっこって奴だね」


「でも、確か、ポーランド側はソ連側の味方だったのでは……?」


「ハッ、んなもん、勝てば官軍の理論だ。ポーランド人のあたしかりゃすりゃ、ソ連軍も、ドイツ軍も同じ。いや、どっちにとっても、()()()()()()()路傍の石と同じだったんだ。あたし達は存在しない者、透明だったのさ。所詮、占領地の劣等人だからと、あたし達はどっちにも人間扱いしてもらえなかったよ。尽くしたって捨て石にされたカルクのように。あたしのように……」


「ボス、貴女はその病院にいらしたのですね。貴女もカルクと同じく、ワルシャワから……」


 マリアは恭しく頷いた。遂にそこに繋がっていく。ゲオルクが守っていた領地から、丘を越えた病院で、彼の敵兵らを看護していたマリア。かつて敵同士だった二人が、どうしてそこから世界を裏切る恋に落ちたのか。


 そしてマリアは、語りだす。そこからまた、「カルク・コーヘン」という二人の間を取り次いだ男の名前と共に。


***


「どうしました、ゲオルクの兄貴」


 部下の死に対し、消沈に浸っていたゲオルクの目が覚める。

すると、いつもの言葉を呟いてはゲオルクの背を叩き、隣に座る者が現れた。目端に揺れる幼顔。端正とまでは言わないものの、窪んだ瞼の中にある焦げ茶色の瞳が爛々としているカルク・コーヘンだ。彼は、以前の戦いからすっかりゲオルクに心酔しており、丘向こうの敵陣営に身を潜みながら、そこから食料や衛生用品をくすねてゲオルクの部隊に横流しをしてくれた。そのお陰で今、手に持つ珈琲の中に白い角砂糖が浮かんでいる奇跡にも馴染んでいるのだ。しかし、その恩をもってしてもゲオルクの顔はあれより晴れなかった。


「私は、部下の命を犠牲にして助かってしまった」


「兄貴……」


 そうして美しい横顔が哀しみの夜に沈むところを、カルクは憐れみよりも、最後まで部下を気遣う優しさえの愛しみが増し、不釣り合いに微笑んでしまっている。それに周りの部下たちも眉を下げつつ同じように微笑んでいた。


「軍曹。悲しまなくてもいいですよ。あれはあいつが選んだ結末です。ああして死に際を自分で決められただけでも、この戦場じゃあ、幸せもんですぜ」


 と、言えど、ゲオルクは前を剥いたまま首を振る。


「私にはそこまでして守られる価値なんて、なかったのに。彼にはまだ幼い弟が三人もいるじゃないか。彼らちはこれからどうやって生きていけばいいというのだ……?」


 と、家族にまで気遣いの声をかけて目を伏せるゲオルクにますます部下たちは感嘆の声をあげてしまった。しかし、その一方で、ゲオルクはそのこだわり続けた正しさが故に、見落としていることがあった。そうしてひたすら嘆くゲオルクに対して、次第に苛立ちの気配が漂っていたことを。


 自分を卑下することが、その彼を慕う部下たちの失望を促すことがあることを。しかし、それを当人に向けるのではなく、その隣に食料品を持ちながらひたすらに見つめ続ける、劣等人とみなすカルクに向けられていたことを。


「おい、ポーランド人」


  その夜。カルクは小屋を出た瞬間いきなり尻を蹴り飛ばされた。無様に地に伏せて、持っていた籠からジャガイモが転がる。それに呆然として振り向くと、暖かな薪火の灯火を背後に向けられるは、侮蔑の目と目。


 この疫病神が、と、カルクを罵り、ゲオルクから習った下手糞なポーランド語で部下たちは言った。


「てめえを庇ってしまったせいで、ゲオルクの兄貴はすっかりしょげてしまった、仲間は死んでしまったぞ、どうしてくれるんだ、ああ?」


 しかし当然、それはカルクにはどうしようもないことであったのは向こうも知っている。それでも止まぬ、ただの八つ当たりであった。そして、彼らはそれが故に、無茶苦茶なことを言い出す。


「ゲオルクの兄貴が立ち直るには、俺たちが犠牲にならないまま、新たな戦果をあげなきゃならない。それを代わりにお前がそれを引き受けろ」


と、言い出す。ソ連のスパイから寝返ったカルクに今度は自軍のゲリラを命じたのだ。それをしなければ、お前の面を二度と兄貴には見せない、と。それにカルクはしくしく泣きながら、再び向けられた理不尽に嘆き自分の陣地に戻っていく。そのまままたドイツ軍を見限りそこで見聞きした事を陣地にいるソ連兵に伝えても良かったのだが、カルクはそれを選ばなかった。  


 カルクはソ連側を、そして、それに付き従い、自分を助けてくれなかった同胞を見限っていた。それよりも敵国の、ゲオルクの優しい眼差しの方が勝利よりも平穏よりも求め得るものとなっていた。


 だから、カルクは従う。泥濘にぐちゃぐちゃになったジャガイモの山の奥から遠い薪火の明かりをその端に灯って瞬く瞳が脈打つ。その瞳でしか映りえない景色でもって、目前に建つ朽ちかけた馬屋を見上げた。


 それから数日後の深夜。カルクは身を丸めながら、ゲオルクの守る丘と対するソ連兵が陣取る村に行き着いていた。和やかな談笑の聞こえる家明かりに目を向けて、その窓下に滑り込む。そこから部屋の中をのぞけば、貴重な牛をつぶしてシチューにして施す女性の頭巾と、その周りで大喜びに皿の音を叩く兵士たちがいた。


 中には明らかに背中の小さい女性兵士までいて、束の間の穏やかな時間を味わっている。ドイツのスパイと化した疎開人が外で潜んでいるとも知らずに。しかし、一方でまた、カルクは同胞である筈の時勢が自分たちには目もくれず、のさばっているだけのソ連兵に、今でもこみ上げる程に香ばしいシチューを施していることに鳴りそうになるお腹の中で煮えくり返る程の熱みを押さえた。


 そうだ。もう、自分は透明な存在ではない。そして、歯をくいしばり、その怒りを大事に拳で握り締める。自分の命を捨て石にしてのさばっている奴らに、躊躇する道理なんて、ない。

 

 窓の向こうが笑えば笑う程に、目を剥いてギラギラした瞬きで睨みつけ、それから一呼吸と唾を呑み込んだ後、土塊塗れの手で取り出したのは――、


***


「爆薬?」


 マリアの答えにニキータは戸惑いがちに声をあげた。



「しかしボス……その時、ただの一般人だったカルクが、どうしてそんな武器を……」


「馬屋ね……」


 すると、隣でキティが素早く答える。それにマリアは俯いた。


「馬屋? どういうことだ?」


 キティは下ろした掌で拳を作って語る。


「朽ちかけた馬屋は、戦争の最中で何年も放って置かれたままでいたんでしょ。その中には、禄に掃除もされないまま、馬糞も脇に溜まっていたんじゃないかしら。この寒い気候の中で、馬糞は凝り固まったまま、そして場合によっちゃ、陣地にいる兵士の便所代わりにもなっていたのかもしれない。それら排泄物の混合による化学反応から、そこから……あの……硝石が取れたんじゃ……」


「硝石……! そうか、爆薬の材料か!」


 そこでニキータも大仰に目を見開いた。


「頭はすごく良かったってことは……そういうことだったのね」


 キティはそこから、小さく呟いて察した。


「ああ。そこから先の詳しいことはよくは知らないけれど、そこから持っていた衛生用品で後付けして、自作の爆薬をあいつは作ったのよ。そう、あいつは……カルクのお父さんはかつては、あのマリアと一緒に研究したこともあるという、優秀な科学者だった。きっと、カルクの頭の良さと、科学の知識はそうやって培われたものなのね」


「マリア……って?」


「キュリー夫人ね。女性初のノベール賞科学者……」


「え、もしかして、あの、マリー・キュリーのことを言っている? マリアじゃなくて、マリーでは? それに彼女はフランス人じゃ……?」


「いいえ。確かに彼女はフランスに落ち着いたけれど、生まれは歴としたポーランド人よ」


 するとそこで、マリアは語尾を強めに否定する。


「マリーはフランス語読み。彼女の本当の名前はマリア。マリア・スクウォドフスカ=キュリー。そしてこの私の元になった名前」


「え!?」


 驚きに二人声を揃えたことにマリアも目を開きつつ、少し口角を上げて胸に手を置く。


「そう、カルクのお父さんがそのことを、友人であった私の父に話した時、父はいたく感銘を受けて、次に生れる子どもが女の子だったら、それに肖ろうとしていたみたい。まあ、それが私ね。当時としても、マリア・キュリーは、父を含め、ポーランド人の希望でもあったから」


 と、最後まで「マリア」と言って、その遠い雲を見る青い瞳に、ニキータは目を伏せて謝罪の念を示した。キュリー夫人をフランス人だと思い込み、ここでまたポーランドを透明にさせてしまったことに。その目線に答えず、マリアは仕切り直す。


「そうして、カルクは村を一つ潰した。晩酌を交わすソ連兵の家々に、ガラス窓を突き破って投げて入れては、その家を一気に炎の渦に呑み込ませたの」


 それからマリアは、彼の語りから聞いたその情景を煉瓦をスクリーン替わりにして思い浮かべる。轟音と悲鳴が渦を舞て夜の極寒をも掻き混ぜて、燃え広がる家屋の合間を堂々と走り抜ける、花柄のフードを舞い上げるカルクの姿を。


 その顔に火の粉が振り掛かるのも構わず、湧き上がる悲鳴を高らかに笑いながら吐き捨て、赤い炎の渦に舐めつくされ絶叫をあげながら炭と焦げて落ちていく敵兵たちと共にダンスのステップで、爆発で一気に明るくなった舞台を駆け巡る。


「あっははっははっは、ざまあみろ! ざまあみろってんだ!」


 そうして、振り向き際に火傷に呻く敵兵たちに指を突き差し、野卑な煽りで悪魔の高鳴りをあげた。すると、その顔に血の線が奔って飛び散った。しかし、そこでもう怯むカルクではない。代わりに一睨みで見かえると、燃える炎から銃を持つ女性兵士が頭から血をそして円らな瞳からは涙を流しながら憎悪の形相でカルクに銃口を向けている。


『この……! 人でなしが!』


 そして、先の微笑みの面影もない獣のような口を開いてロシア語で罵倒する彼女は引き金に指をかけるが、カルクはそれに言葉で答える代わりに、爆薬を彼女の顔面へ投げつけた。それに鼻が潰れる音と同時に爆音が弾け、彼女の身体を火種とするように、一気に爆風と炎が家の屋根を吹き飛ばした。それに追い立てられるように逃げながらも狂い笑うカルクは腕をふりあげながら、そして最後に答える。


「ここはポーランドだぞ! ポーランド語で話しな!!」


 こうして、カルクはゲオルクの部下たちの言う通りの、いや、それ以上の責務を果たした。しかし、この成果に大きな落とし穴があったことを、軍人でないカルクは知る故もない。元々、ジリ貧の攻防戦が続いていた地帯でいきなりの大爆発が起こっては、敵兵は突然ドイツの援軍が差し込んできたと思ってしまうものだ。それも短時間の内に、ということで考えるのは、当時からも最先端の兵器――、飛行機による爆撃だとみなされる。


 すると、敵兵もそれに迎撃しようと、同時に差し込ませるのである――、飛行機を。


 こうして、カルクがゲオルクのためにと思ってした炎の渦は、結局ゲオルクをも呑み込んでしまうのことになるのだ。


11、ポーランドの荒地に掻き消えた男


「襲来! 襲来! ヤーボ(爆撃機)だ! ヤーボ(爆撃機)が来たぞぉぉ!!」


 口覆い叫ぶゲオルクの声が、夜の村に響き渡った。突然の遠い爆音と炎の瞬き、そしてその明かりが一瞬その銀翼の縁を掠めたことに、いち早く危険を察知したゲオルクは、足取りを乱雑にしながら走り回り、兎に角にも叫び続ける。悟った事実に対する恐怖と困惑に、行ってきた道筋も頭の中から吹き飛ばし、ただ走り回って叫ぶことで、跳ね出るこの焦燥を抑えようとするのに必死だった。すると、両脇から部下がゲオルクの後を追って迫る。


「どうして!? どうしてこんな急にこんな辺鄙な村に!?」


「分からん! とにかく逃げて、爆撃からの被害を最小限におさえろ! その間に援軍要請の無線通知を!」


「兄貴! けれど、そのまま援軍の陣地に行かなくても良いんですか!?」


「ダメだ! あまりにも遠い! 向かっている間にただっぴろい農地で蜂の巣にされるだけだ! それよりもまだ、障害物の多いここでやり過ごす方が生き残れる! 行け! みんな死ぬなよ!」


「「了解!」」


 ゲオルクが焦りながらも冷静に状況を判断し、地面と水平に腕を振ったのを合図に、部下たちは鉄兜を被り直し、ちりぢりにそれぞれの態勢へと駆け抜けて行った。


「くっそおぉ!」


 しかし、すぐにその時はやってきた。空を見上げ立ち止まるゲオルクの身体を、空音が裂く。一瞬の影を為して星空を横切ったの銀の翼。けれど鳥らしからぬ機械音とスピードがゲオルクの錯乱する眼に、自らを襲いにきた飛行機だと聡める。


「来た……!」


 今だまだ綺麗な夜空を拝み見つつ、再び走り出したゲオルクであったが、途端甲高い轟音が斜め下から迫ると、隣の木倉庫が閃光を吐き散らし、赤黄の残照を灯して爆発した。真横からの爆風でゲオルクの身体が諸木のごとく吹き飛ばされる。


「ぐああああ!」


 器用して一回転して脚から着地したゲオルクだったが、すぐさま身を覆う程の噴煙と火の吹いた木屑が降りかかってきた。


「やばい!このままじゃ巻き込まれる!」


 火の粉を振り払いゲオルクは這いつくばった姿勢から跳ねるようにして逃げる。が、後ろからまた爆煙が鳴って、今度こそゲオルクは前めのりに転がり落ちた。

 

 それは、ソ連軍双発爆撃機による局地的爆撃の始まりだった。戦闘機でもこなければ、戦車、ましてや生身の人間が立ち向かえる術もない。東部前線における最大かつ最凶の敵。泥にまみれたゲオルクの見上げる遥か頭上には、よりによって三機の爆撃機が虚空を円に描いて鳥の如くゲオルクを中心にして回っている。彼の存在に気づいているのだ。  


 ゲオルクは激しく憎しみの眼で舌打ちすると同時に、再び駆け上がった。泥まみれの美しい青年は跳ね上がる土柱を避けきりながら、腕で頭上を覆って抜けきっていく。それからどれだけ曲がったか、脇に逃げ込んだことか。無我夢中に土煙をすり抜けていった視界の向こう、その先に櫓の木の端が見えた。そしてその辺りに、残りの仲間達が唖然としながら、爆風の中で走り寄るゲオルクを覗き込む。その遠目の彼らへ、ゲオルクは指を突き差して叫んだ。



「逃げろー!逃げて、農地の畦道に沿ってべばりつけー!」


 その口端血泡吹き立て、猛走で向かってくるゲオルクから畏れ逃げるように、部下たちは一斉に慌てふためき一面の田畑へと逃げ出した。それから爆音が激しくなりゲオルクも弾け出されるようにしてm村から田んぼへと走り出す。


 一見、何も隔たりのない田んぼに逃げ込むなど、爆撃の格好な的になるかに見えた。しかし、皆が後から飛び込んできた泥まみれのゲオルクの通り、畦道に平行する様に並んで潜めば畦の影の同一となり、途端に空から姿が見えなくなるのだ。爆撃の硝煙からその瞬間を見逃した敵機は、やがて爆撃を止めた後、機首の鼻先を村へと向けて機銃をてんでばらばらに撃ち放ちつつ、空に円を描きながら通り過ぎていく。ゲオルクの知己は見事に働いた。


 皆、虫の如く息を潜み、畦道の影の中で這いつくばった空を睨みながらも、此処まで激しい爆撃に、無傷でいられた我が身の奇跡と、恐怖の狭間で興奮して息があがるのをやめられない。


「よし、みんな無事だな」


 すると、ゲオルクは首を僅かに傾げ、前後ろに構える仲間の無事を確認しつつ、羽音の中からようやく薄ら笑おうとしていた。すると、その時だった、目の前の仲間達の光景に瞳孔の開いた濃い灰の目は勢い良く見開かれるのだ。


「カルク……?」


 ゲオルクは泥を叩き、彼の名を呼んだ。


「どうして、おま、ここに……!」


「にいーさーんー!」


 それに部下たちも顔をあげてぎょっとする。ゲオルクは野太い声で「そんな」と呻いた。畦道から覗く景色は、炸裂と崩壊の繰り返しによって、家や木々がすべて横倒しなり、ガラクタの寄せ集めとなっている。焼き畑の如く、彼方此方で赤々とした籠もれ火が、黄土色の煙を吐きながら夜空をぼんやりと透かすその惨状。その中で笑いながら、カルクがゲオルクを追っかけているのだ。先走る恐怖、畦がゲオルクの握りしめる手によって崩れて土塊が転がる。


「にいさーん!「にい、さーん!にい、さーん!」


「な……!?」


「なんだあいつぁ……!?」


 興奮冷めやらぬカルクがいち早くその成果を伝えようと――、否、一目縁のゲオルクと会いたいばかりに駆けくるだ。周りの爆撃もまるで最初から見えないような素振りで。


「なんだ、あいつぁ、笑ってやがる……」


「兄貴ー!あに、きー!」


「カルク! やめろぉ! こっちに来るなぁ!」


 ゲオルクが思わず身を乗り出して叫ぶも、爆音がかき消えて全く耳に届かない。それどころか、その銀鍔の煌めきを見つけた途端に、飛び掛からんばかりにカルクは更に駆けつけてくる。


「くっそ! このままじゃぁ!」


 するとゲオルクは、畦道から立ち上がると、足をあげて黒の軍靴でその上を踏み潰したではないか。


「兄貴!?何を!?」


 部下の驚きに応えず、ゲオルクは勢いに乗せて片脚で田んぼを飛び出し、カルクの元に飛び出したのだ。


「待ってください兄貴!」


「いけません、兄貴ぃ!」


 部下の声も、絡み来る炎も腕で払って、ゲオルクは再び火車の中に飛び込んでしまった。向かい来るカルクは自分が目的だ。このまま畦道で向かい入れる所を敵に知られてしまっては、部下たちの命が危ない。それならば、自らが離れざる得なかったのだ。現に今、手を振るカルクの背中に向かって銀翼の戦闘機が、家々の屋根に羽先が触れるのも構わず低空飛行で通路の間にを真っ直ぐに突き抜けて機銃掃射を食らわそうとしている。ゲオルクは歯を剥いて叫び、手足が千切れんほどに振り上げて走った。


「兄さーーん!!」


「カルクーー!!」


 そうして二人、胸を叩きつけるようにして落ち合い、ゲオルクは炎の灯火で煌めく目で見上げるカルクの肩を掴む。背後から土煙と共に弾幕の跡が向かって来た時をして、ゲオルクはカルクの笑みに答える間もなく一気に脇に引き寄せた。飛び込むように地に伏せてなんとか弾幕を避けきり、獲物を取り損なった飛行機は轟音と共に通り過ぎる。しかし、今度は横から爆撃機の絨毯攻撃が迫り、這いつくばる二人の遠くから爆撃を放ち、その爆風で意図せずとも二人を吹き飛ばした。


「ぎゃあああああ!」


「諦めるな! カルク! 走れエ!」


 なすがままにされるカルクの一方で、彼を抱きしめて、ゲオルクは飛び上がった拍子に踏ん張り、雪の上を軍靴の底で削って滑る。そうして、何とか立ったままの態勢を保ったのを機にして、彼を掻き抱いたまま一気に走り出す。腰を屈んだままのカルクは彼を見上げて涙ながらに叫んだ。


「兄さあん!」


「落ち着けえ! 次の十字路でお前を突き飛ばす! それと同時に一人で走れ! そうでないとあまりにも遅すぎる!」


 冷静に命令する彼のいう通り、飛行機の機首は、そしてて爆撃はどんどん彼らの元へ迫ってくる。それに応える間もなくあっという間に十字路にゲオルクは腕をふるってカルクと突き飛ばした。しかし、そのチャンスでありながら慌てっぱなしのカルクはそこでまた大仰に転んでしまう。それでも――、ゲオルクはそのまま通り過ぎることもなく、再びカルクを抱き起こす。引き絞った力で懸命に肩を引っ張っては彼の体重全てを引き受ける。その時であった。


 再び、いや、最後に、と言うべきか、ひゅるひゅると悪魔の口笛のような音が鳴り響いていった。その耳に劈くほどの大きさは、真上からのものだ空から黒く細長いものが一直線に降りていき2人の上に陰を為して、そして、


「逃げ、ろおおおおお!!」


 叫声に乗じてゲオルクは、最後の力でカルクの肩章を引っ張り上げ、カルクを次の十字路の向こうへと投げ飛ばした。その瞬間、あけすけになったゲオルクの真上から光が瞬いたかと思うと、赤白い火花がゲオルクの目の前でキラキラと瞬いて散っては、その中で一瞬にして縦横に炎が巻き上がったのだ。それは土埃や、屋根の木屑ではなく、ゲオルクでさえもその内と一つとなってごちゃまぜにした。


 手足が黒い噴煙と共に巻き上げられ、宙に浮く心地の中から、自分が遂に、爆撃に巻き込まれてしまった、と悟った。熱風の眩しさに目を瞑ったが最後、自らの半身の皮膚が皮ごと、熱によって末広って焼かれていくのを、激痛と鼻につく臭いで気付く。抗えぬまま宙を舞う毎に、爆風が彼の身体をオーブンに焼かれる豚のように皮膚が捻っていく。プチプチと焼かれ千切られていく感覚、中から白い骨をも、関節の枠もなく乱雑に引きちぎられていく。その痛みと自らも信じられ得ぬ程に噴き出した血潮の中でゲオルクの絶叫が鳴った。その口開く唇に炎が灯るのにひたすらに足掻き、悶えながら。


「あっ、あぁぁっあああああああああ!!」


 タカがはずれたゲオルクの叫びは、その僅か手前で転がるカルクにもはっきりと聞こえた。仰向けに腰をつけたままはっと汗を散らし、目を覚ましたカルクはその光景に息を吸った。


「ど、どうしてっ」


 爆風の煽りに前髪吹き飛ぶも、カルクの焦げ茶色の瞳は、黄色い閃光を灯しつつ動けぬまま、光に包まれながら、軍服や皮膚を焼かれ四肢を引きちぎられ血飛沫沸き立つゲオルクの惨状を見た。


「ど、どうして?」


そして今、この胸掴む我が身は無傷でいることに愕然としていた。その身に残るは手の腹部の痛み。それで彼は思い出す、ゲオルクが爆弾が落ちる前に、自分を投げ飛ばしたことを。それにより、爆発の前へ出られたのは自分の方であり、後からの巻き風によってより更に外に放り投げられた結果として、炎から逃れることが出来たのである。


 けれど、けれど、それでも、と、彼の戸惑いは収まらない。こんな天地程も違うこの境遇の分かれ目は、僅かな距離で定まってしまうのかというのを。それが戦争だったと言うことを。


 ゲオルクも、炎の隙間からぐるぐると回る視界の中で寸時、唖然と見上げるカルクの無事な姿が見えた。今、二本の赤桃色の筋の房がだらしなく繋ぐ、その奇怪に振り回る腕を伸ばせば、届きそうな程の近さに、灰の目は炎に溶かされながらも意地として見開いた。だからカルクも炎の中に手を伸ばす。涙を弾いたこの手が、その路棒に届けば少しでも取り戻せるのではないのかと。けれど、ゲオルクの腕は炎の間に離される。カルクの手からではなく、自らの身体から。


 生き物の如く蠢く筋の房が、腕を白い光の中へとぽんと突き放し、指広げた手が、光を求めて行けば最後に霞んだ陰となって掻き消えた。その姿を最後に遂に四肢すべてを取られたゲオルクも、血と泥とによって、焦げて黒ずんだ身体となり向かいの光に包まれながら、飛び散る土木と絡まり合った。


12、世界を裏切る恋をして


 アウシュビッツの昼下がり。曇天が塗り重なって、このまま日没に気づかぬまま夜になりそうな暗がりを諭す。その中で、建物内を縫うガイドの一行がぞろぞろと横切ったその建物の部屋の入口には、三人が揃って俯いたまま座っていた。その奥には、割れた裸電球が虚しい、天井が仄暗いドームがある。 


ドームは縦に長く、薄いベニヤ板で簡易に作られたベッドが並んでいる。収容所の収容者達が寝泊まりしていた部屋であった。


 女三人+一匹はやがてその中に入って佇む。底冷えな空気が流れる中で、これまでの話を終えたマリアが電球を見やって白い息を吐いた。


「そう、ここまでが彼の話。そしてこれからがいよいよ私たちの物語よ」


 マリアの腕の中、桃色の腹を見せては眠る子猫以外、張り詰めた空気に神妙となった二人がマリアを見上げた。始まるのだ、遠い異国に生きていた、戦争さえ起こらなければ出会わなかった二人の話が。


「でもどうして、ポーランドといっても、そんな僻地の爆撃にやられた彼と病院に籠っていた筈の貴女が……」


 そう言いかけたキティに、「それはこっちが知りたい」と言ったのは腕を組んだマリアだった。遠くで見えぬ筈の飛行機の音が聞こえた。


「私と彼は、泥の地で出会った。何故そこに彼が居たのか分からない、でも居たの。そして私は彼に気付いてしまった。何百、何万といた死体の山の中で、ありえないことだったのに。たった一人、彼を私は見つけてしまった」


 格子からのぞく草原を見つめると、ふと青い瞳にスカートの裾を泥の上に被せてへたりこむ少女の姿がぼやけて映った。丸い眼鏡をかけて俯く少女、金の三つ編みは力なく寄れて毛先が茫々と伸びて肩に落ち、まるで彼女の心の有り様を映すようだ。


 靴底厚いブーツで覆われた脚も、死体のごとく放り落ちて泥に浸かり、彼女の血と膿にまみれた手で支えるつっかえは、死体で出来た堀。そんな地獄絵図の片隅で、彼女はつかの間の休息を得、眼鏡に覆われた土くれの顔は、心は皮肉にも安堵で満たされていたのだった。そう、こんな所でも落ち着いていられる程、彼女のその後の生活は苛烈さを極めていた。 


 顔をあげて彼女は悟る。


 街中での診療も戦火が迫って来たことにより、避難する形となって、彼女、マリアは看護婦として従軍することが決まり、親元からも離れ、年下のカルクと共に、急遽ハリボテで設置された知らぬ沼地での病院の中で。ひたすら治療を迎える日々を強いられたのだ。

 

 戦闘が激しくなっていく度に、どんどん運ばれてくる負傷者達。最初こそは一人一人をポーランドを奪還せんとする、勇敢な痛ましい兵士達を愛おしみ、慈しんできたのであるが、連日山の様に溢れてくる兵士たち、そして市民らを前にマリアの目は少しずつそして確かに死んでいった。


 水は足らず、包帯も足らず、彼らの血と、膿と、臓物の臭いを染み入るように毎日一心に受けながら、脚が疲労と恐怖に震えても、治療道具を持って寝転ぶ彼らの間を走り回るのを止められなかった。やがて、そのブーツは救うであるはず彼の脚を、そして巻かれた血濡れの包帯を踏んで走るようになり、乱れた三つ編みを跳ねて息吐く彼女の目は、その音を聞く度に剥き、心がひび割れていく。


 むせ返る部屋の暑さと、外の極寒が彼女の身を更にささくらせ、その中でもろくに着替える事も出来ず、他人の体液にまみれたこの身で汚れた毛布で寝転ぶ生活が続く毎日。


 同じ少女どころか人間としての尊厳でさえ、それでもまだ、血まみれの彼らよりましな無傷の我が身を慰み、またその言葉が彼女の苦しみを助長させる中、シラミが畝ねる木枠の上で彼女の、誰のためでもない涙が眼鏡を伝って降りていった。


 そんな日々の中で遂に彼女は倒れた。緊張感に硬った身体の具合が悪くなったのではなく、その溜まった苦しみの重圧に耐え切れずに伏せたのだ。井戸の水を組んできた皸だらけの手が遂に手桶を放り投げ、向こうに見える病院をぼんやりと見つめつつ、彼女は「行かねば」と、水を台無しにした自分への、医師の怒声を思い出しつつ立ち上がろうとするも、まるで意思以外が死んでしまったようにどうしても動くことが出来ない。


 思い出してしまった途端、行きたくないという気持ちが走ったのだ。疲労からではない、ごまかさずに彼女は目を強く瞑って悟る。またあの、うめき声が波立つ死体と病人とけが人が転がった病院の中で誰にも構われず、生きていかなければならない腐り果てた青春に。


 病院の中で死んでいった者の埋葬も追いつかず、積み上げられた堀は極寒の中で晒されて氷のごとく塊り、列をなしていた。その向こうに立つ教会は霞のごとくゆらめき、彼女は思わず眼鏡をかけて目をこする。と、その手が他人の黄色い液をさっきまで使っていたのだと思い出せや、彼女は勢い良くそれを泥に叩きつけ、泥は鋭い彼女の横顔をびちゃりと汚す。


「う」


 それにふと声を出した。それが引き金となった。


「う、ううううううう」


 唇が自然とへの字に曲がると共に、目端が歪んでそこから透明の液が流れ落ちる。それを「もったいない」と思うほどに、今度は手の甲でそれを吹こうとしても何故だか腕は動こうとしない。そうした我が身の不条理に更に涙がこみあげて彼女は虚空を見上げ泣いてしまった。誰も私を見ない。見てくれない。そう思って歯を見せて、噛み付くように喉元をひくつかせては言葉を知らぬ赤子の様に大声をあげた。そうだったはずなのに。彼女の耳に、風の音に混じって確かに聞こえたのは布すれの音。


 マリアははっと涙を散らして横を向く。飛び跳ねた三つ編みの隙間から、その正面に映ったのは死骸の中、赤黒い血がしっとりと滲む濃緑色の切れ端だ。マリアは大きく見開く青の瞳の中で、それが微かに動いているのを見、最初は風の揺らめきだと思っていた。しかし、彼女が「あっ」と思わず声をあげて腕を掲げた時に、それは、確かに意思をもって彼女の声に答えたのだ。


「嘘、でしょ」


 言葉にするよりも前に、スカートを滑らしてマリアはその布を掴んでいた。そして気付く。その布の中に感じた人の皮膚の感触を。ぬめりと血と脂肪が絡み合った物体が寸時彼女の冷えた手を温める。マリアはひいっと声を裏返した。よりによって、こんな肉塊が「生きている」のだと思うと。けれど、その肉塊は、離される事を拒むように身を捩ったのだ。するとやがて、ずりずりと他の死体がよじれた隙間に崩れていく。怒涛の音にして差し迫った死体の波から避けるため、マリアは立ち上がった。その皮膚の切れ端をずっと離さないままに。


 波は揺れる。マリアはそこから掴んだ一つを引きずり出すために足を踏ん張る。徐々に、波の揺れ合いの中で両手で掴める程にそれが出てれば、マリアは泥付いたその手で躊躇なく血みどろのそれを引っ掴んだ。

それから先はヤケというか、意地というか。それが何であるかもわからないままに、頬を膨らませながら歯を食いしばり、歪んだ額の上汗を滲ませつつ、僅かな指に残った力を全て注ぎ込んでは引っ張ったのだ。その痛みの反動故が、その肉体もやがて蛇のごとく身をにじらせて、遂に――、


「きゃあああああ!」


 死体の波が真上からマリアにそぞろとなって落ちていく。マリアの悲鳴は泥水のはねる音と、死体が転がる音とで混じりあった。ばらばらと積み重なった死屍の中、片方の眼鏡がヒビ割れる。それでもマリアは引っ張りあげたそれをひしと抱きしめては共に仰向けに落ちて身をまかせ、泥の中に浸かった。死屍が上から「襲いかかる」恐怖と痛みは、その時にしか覚えてはいない。それよりも彼女が気になったのは、今その上に覆いかぶさった、助けた影に覆われたい引きずり出した肉塊の、その正体であった。


 自分の身体をすっぽりと覆った、その黒き物体にマリアは細目に脇から覗き込むと、その目一杯に映ったのは赤と黄色の脂肪の塊、どろどろに溶け合って彼女の睫毛を汚す彼の右半身であった。すっぽりとおおったその身体は、彼女の太腿の内側から、その引きちぎられた四肢の擦り切れた皮膚を垂らし、布切れのごとく見えたその一部は、全身でさえも「雑巾」だったのだとマリアは知った。


 それに目を剥く瞼の上へだらりと線を引いて顔から落ち、ぴちゃりと地に付いたのは血管が繋ぐ瞬く灰色の瞳孔だった。それが少し回ってマリアを見たようだった。


***


 マリアの声は、悲鳴とも、歓声とも区別のつかない勢いと形相で、教会の中まで振動したという。それに駆けつけた医者、そして仲間の看護師らはやがて、死体の海の中で仰向けに、男を抱きしめたまま目も剥いて固まるマリアに騒然とした。


 そのあまりの無残さに泣き喚く者の間をすり抜け、いよいよ担架が運ばれる。後から脇を掴まれてでも彼から離れよううとしなかったマリアと共に、瀕死のゲオルクは遂に教会の中へ運ばれたのだった。

 夏の日射のごとく眩しい治療用の照明に、マリアは地獄の夢心地から目を覚ます。けれど、現実もさほど変わりなく、マリアの前に備えられたベットの上にその悪夢が再び蘇った。掴みっぱなしだった彼の上の布切れをようやくそこから離し、マリアは膝をついたまま距離をとって今一度彼の姿を見据えれば、そこには照明によって真っ黄色に染められ、ぼろ布が脇に放り投げられたままの全裸の男が横たわっていた。


 マリアは彼の血で浸った手で顔を覆い臓物の臭う息を吸い込んだ。羞恥からではない。それでさえも気にならない程に、彼の身体がズタズタに引き裂かれていたのだから。


 まず、マリアは改めて、彼が一人の人間だと認識事にしばしの間が必要だったのだ。四つの手足は乱雑に、不均等に引きちぎられてべろべろと広がった皮膚片から血が四方に散らばっていた。唯一残ったその半身でさえも――、右半身を覆う火傷が泥と絡み合って、今だ固まらないまま崩れ落ちてはじっとりと彼の身体を、その股間にあるものまで犯していた。彼が彼たるものは左半身に残った、泥で汚れてはいるものの、陶器のごとく真っ白だったであろう、血肉に反して皮肉な程に綺麗な肌に形づけられた、従軍で痩せこけた真っ平らな胸板と肋骨の影と、そして、端正な左顔と金髪であった。


 その中で、虚ろに長い睫毛を伏せたまま、僅かに火傷した口端の隙間からひゅうひゅうと息が通る音が聞こえる。彼は流石に意識はないものの、まだ悪夢の中に佇んでいるのだろう。


「なんてことなの……」


 マリアは息を詰まらせて思う。彼の苦しみとこれからの地獄を。本能的に戦慄を駆り立てるじゅくじゅくに滴る皮膚片と臭いに、マリアも倒れ伏しそうになる。


「これならいっそのこと、死んでしまった方が……。彼にとっては天国だったのかもしれないな」


 彼の、そして彼女の言葉に代わるように、向かいに照明を当てる髭面の医師が、哀れみと嫌悪を入り混じった顔で呟いた。


「こいつは酷いな。きっと滅多にない至近距離から爆撃を受けたんだろう。炸裂弾を全身に受けて裂かれながら、その上に爆風に煽られオーブンの中にいるように料理されちまったんだな……。それがあ、どうして一体全体こんなところまでたどり着きやがったんだ……」


 当時、聖職としてみなされた医師も、長期戦でよれた白衣を垂らしたまま、声も荒らしげに吐き捨てる。俯く間際、向かいの汚れたマリアへ向ける眼差しは明らかに「迷惑」と、どうせ助からない者をどうしてわざわざ引き出したんだと言うようだった。マリアはそれに口元覆ったまま、驚きで目を見開くも、一旦看護婦の矜持を取り戻し、それは医師の言う通りだと思うことにする。

 

 そうだ、どうせ助かりはしない。

 

 いそいそと背を向きだした医者のその向こうにだって、今や瀕死で横たわる、自分らと同じく過酷な状況に置かれている患者たちが満としているのだ。そんな中で、どうせ死んでしまう程に重傷な彼に構っている暇も物もないのである。それはマリアにも十二分に分かっていた。分かっていたが――。マリアは背を向ける医者の後ろ、屍になりゆく彼の前で頭を下げる。滲む涙を眼鏡に伝え、そのひと雫が彼の腕の一片に触れた。すると、彼が、その息の隙間から微かに声をあげた。


「あ……」


 自分の声と彼の声が同響する。その時――、


「……待ってください」


 医師は持ち上げた眼鏡を思わず落としてしまった。従順でおとなしかった筈の看護師、マリアの口から発せられたものとは思えないほど、それは強かで、なお初めて自らに対する怒りを込めたものだったのだから。


「分かりました。貴方が何もしないというのなら、彼の世話はすべて私がいたしましょう。ここに運んで追い出すなど、出来ません」


 その言葉に途端に医師の心は跳ね上がる。拳を木枠に激しく打ち立てて、込み上がったのは怒りだった。


「お前の耳は節穴か!? だから言ったろう! 患者がゴマンといる中でどうしてお前だけをコイツに任せられる!? お前のやることはまだまだ残っているのに!?」


「ですが!だからといって、彼を死なせることなど看護婦としての、私の気持ちが許せません!」


「お前の言うことなんてどうでもいいんだよ!?看護婦ごときがプライドなんどもちやがって!そんなモン泥にでも捨ててしまえ!」


「そのひとかけらさえ失ってしまえば、私はもうとうにこの病院から出て行っていました!」

 

 それは、医師の声よりも大きい、マリアの叫びだった。まるで丁寧に言葉で押さえなければ、彼を飛び越えて医師の胸ぐらを掴むまでに至ったであろう。だからこそマリアはあえて丁寧な口調で叫んだのだ。眦鋭い青い瞳が、今まで沈んだ湖の色が、曇天の反射を背後に、海となる。


「損得で世界は回る。そう語れぬ程、世界って甘くないのではないすか! その証拠がここでしょう!」


 と、他人の血にまみれた自身の胸に手を当てて、青い眼は爛々として瞬く。


「もはや、病院の機能でさえもない、病気になるために来ているようなこんなところ! 誰が得としているものですか、誰がここで生きているものですか! 今更効率など語ってもどうにもならない。こんな世界の果てにまで来てから私はようやく分かりました! それでも何故私は、私たちは逃げないのです!? 何故、動くのをやめようとしない!?」


 汗を散らしながらマリアは自問自答をしていた。そして、何故私は、彼を見捨てようとしないのか。


「損得、意思など神の裁断で嘲笑れ、流されてしまったこんな不条理の中でただただ、もまれるだけの救いようのない、我々弱者に残されたものは、そんなつまらないものじゃない! そうして悪態つく貴方にだって、一欠片でもそれはある唯一のものがある! だからこそここにいる! 違いますか!?」


 血膿が薫る地獄の中で堂々とした綺麗事。しかし、眼を剥いて汚れた乙女を見て、医師は咄嗟に思ってしまった。綺麗事にこれ程まで、ここまで震えてしまうことになろうとは、自分のひび割れた声に眼に震えが、そして何かが溢れ出す。それを面目、必死に鼻をすすって医師は顎を引いた。そしてマリアは、眼鏡がずり落ちるまでに、そばかす目立つ鼻筋を歪めて、マリアは決意の言葉をかすれた叫びと共にあげる。


「だから、私は見捨てない。せっかく取り戻したこの命。私は全力でこの人を助けます。彼のために、そして私のために。どうか!だから、どうか!」


 そうして威圧に後ずさる医師を前にマリアが前にかつんと床を叩いたとき、その音に共鳴して、突如、石造りの部屋が絶叫によって震えた。


「!?」


 その絶叫は、医師の白衣を、マリアの三つ編みを驚きと恐怖の内に舞いあげた。マリアが青い瞳を眼鏡ごしから下へ向けたとき、その眼鏡が舞い上がった膿にびちゃびちゃに汚れた。その下で、仰向けに横たわっていた彼が喉仏を尖らせ、、火傷の隙間から口を開けては声を荒げていたのだ。更に衝動を際立たせるは、火傷で溶けた身体が痙攣する様。千切れた腕を、脚を、本能が赴くがままに震わせて暴れたて、理性を払った死に際の蟲によく似た動きを為す。それに医師も、マリアも息をのみ動揺に身を引いた。


「くそお! 意識が戻っちまったのか!」


 絶叫の中で、医師が屈んで耳を塞ぎ答える。マリアは眦を震わせる。ならば、彼は今、業火に焼かれながら生きている渦中にあるというのか。


「駄目、動かないで! あぶないわっ!」


 泣き叫んで、抵抗して、ベットからずり落ちていこうとした彼を、とっさにマリアは叫びを斬って飛び込んでは、彼を抱きかかえた。激しい木音と共に必死にしがみついては体勢を戻した時、その時に彼の顔を掴んでいたその指を彼が噛み付いたのだ。


「きゃああああっ!」

 

 突然、自身にもふりかかった痛みにマリアは眼を閉じた。その僅かな隙間からがっちりと捉えて離さない歯は首を向かいへ傾けて力強く彼女の指に噛み付く。固まった血まみれの指に生暖かい彼女の自身の赤が伝う。


「痛い!痛い!」


「衛兵! 衛兵! モルヒネだ! ありったけのモルヒネを!」


 医師はすぐさま振り返り、向かいの御堂へと援護を呼ぶために走り出した。援護が来るまでは彼女だけが彼を助けるただ一つの綱であった。が、彼女はその余裕もなく、噛み付かれたままベットの縁に手をついて、その痛みと衝動と共に押さえるのに必死だった。


「痛い!痛い!痛いああっ……うああああっ!ああああああ!」


 彼女の指に食い込む、皮肉にも白い歯は、彼女の叫びを煽るかのごとく、その肉を何度も勢い良く角度を変えて皮膚の線をちぎっては、うめき声をあげるごとにどんどん食い込んでいく。滲み出る痛みは、その溢れ出してきた生暖かい血がよりと共に際立たち、それから背け眼を瞑ると青ざめた顔から汗がしとどに溢れ出していく。まるで、顔から血が吸い取られていく嫌な心地。唇噛み締め、口の内側から血がにじみ出ても、その痛みの方がまだマシだった。やがてその歯が肉が裂いて、血を跳ねて、その白い先がしんとした空気に触れた時、マリアの眼が堕ちた心臓と共に剥いた。


「いや、いやあああああああああああああ!」


 自分の骨が、歯の重圧に割れる音が聞こえた。血肉も混じり合って骨が散らばっていくその痛みが、幻覚を呼び起こし、白濁の中で青紫色に浮かぶ瞳の血管がどくんと浮かぶ。それでも、それでもマリアは彼女の指を千切ろうとする彼を突き飛ばそうとはしなかった。


 そうなりたくなる衝動の右手を必死に抑えベットの木枠に食いつけた爪が傷を作る。

歯をぎりりと音を立て、そばかすが、眉が、これでもない程にぐちゃぐちゃに歪んでしまったとしても、流れ出す涙が汗と混じり合って揺れる影の中にぼろぼろと落ちていってしまったても、彼女は倒れ暴れる彼を崇め伏せるように動こうとはしない。その指に力を込めて抵抗もしない。ただ、為すがままに彼に身を委ねるだけだった。彼女の指が血しぶきと共に彼の口の中、逆方向に折れ曲がった時、その折れた音に対し、彼女はそっと呟いて言った。


「いいよ、千切っても」


 そのままに、噛み付かれながら、やがて彼女の指も彼の手足と同じく、離れていくその間際の刹那を、上下に揺れる影を見ながら汗を垂らす、彼女は決意した。その決意がうっすらと口角をあげ、一瞬の安堵をもたらした。


 辛かったよね。苦しかったよね。マリアは呻いて首を振るだけの、その化物に問いかける。


 こんなのって酷いよね。貴方の気持ち、分かるよ、「今」なら。


 霞んでいく世界の中で、歯を噛む貴方を思う。こんなに痛くて、悲しくて、それを誰にわかって欲しくて、助けてほしくて彼も今、暗闇の中で見えぬ私に必死に縋っているのだと。


「いいよ いいよ」


 遠のいていく意識の中で、マリアは真っ白になった。そして最後に、優しげに呟いた。彼の漆黒なる交わらぬ闇に向かって、少しでも届くように何度も何度もくり返し。


「貴方のためなら、この指をあげる――」


 ***


 ほう、息吐いた声と共に、マリアの髪がふわりと舞い上がっては、やがて白の世界へ落ちていき、血飛沫舞った床へ落ちた。そこから転がった彼女の指は不均等な高さにそれぞれ千切られて、親指以外はすべて切り離されている。血だまりがベットの脚を波々と浸し、自らの血を頬に受けつつ、彼女は気を失った。

***


 白い手袋が微かな布すれを立てて脱げ落ちる。その白き布から羽化するかのごとく開かれた生身の指はその向こうの窓で――、唇噛み締めたまま目を剥くキティの顔が「すべて」映っていた。


「ああ……」


 手袋をそっと拾い上げながら、片膝立てるニキータも、騒然としてその氷の顔が寸時戸惑いに口開き色づいた。近侍であるニキータでも、今まで見たことの無かった彼女の手袋の下。親指だけがつんと冷たい空気を突き立てて、それ以外は――、白い羽毛がそっと立つぶつぎりの幹となっている。その親指以外が歯によって千切れてしまったその手こそが、今まで語る彼女の話を事実として諭し、ようやくそこで二人が、寒さと共に背中を震わせた。


 当人が語る、本当の話。負の遺産の空気を裂く本物の「無くなった」指。


 片腕に猫を抱えながら、曇天の光を背後に指を見せる老婆マリアへと、口を開いて身を乗り出して見上げた。ああ、これが本物。数多の偽善者たちの言葉がたったそれだけの一つに露となって弾き飛ぶ。これがやはり、事実が故の力なのか。


 そして、それがもう一つ示す事実とは、その光を通り過ぎるその指、その指から、神話の如く美しい男が生まれたということ。


マリアはそれを示すために、そのなくなった指を見せた。だがしかし、途端その罪の証を恥じるように片の手で覆い、両の手を胸に押し付け腰を折って伏せる。傾いた帽子の中、その眉が歪んだ顔は、古傷の痛みに耐え忍ぶようにも見えた。


「私は、あの日から、毎日、毎日、この指の激痛に耐え忍んで血の滲む包帯を巻きながら、彼の身体を世話してきた。どうせ死にかけだからと、いいえ、そのおぞましい姿に誰彼が一歩も近寄ろうともしないで、彼をそして私を、誰ひとり助けようとはしなかった。あの、狭い病室の一室。彼がいる、私がいる。そこだけが伽藍堂。遠目から騒がしい教会の中を向かいの廊下の窓から見つめて、それだけが、私と、彼の景色となっていった……」


 その時の苦労の、その超えた日々を思い起こして、マリアは――、あの時と同じ青の瞳は、天井の鉄の骨組みを仰ぎ見る。


「私はずっと一人ぼっちで、彼の世話をしてきた。朝も、昼も、夜も。熱湯を取り替えて、彼の火傷をしたじゅくじゅくの身体を隙間もなく、壊れ物を扱うように血潮を吹いて、新しい包帯を取り替えてきた。と、いってもすぐに汚れてしまったけれど。彼の身体がそうだったから、だけじゃないわ。私の手だって、いつも、汚れていたのだから」


 マリアの短調な語り口からうかがえる、その視覚的な壮絶さ。数多の血を見てきたニキータでさえも、思わず目を伏せて想像するのをやめる程である。


 ニキータはその経験から知っていた、「死体が美しい」という言葉が、一時の神妙性を増すのは、逆に、血まみれになって死にかけても声あげて、地を這って意地悪く生きる方が醜く、浅ましいからだ。人は生まれる前から知っている。それに誰ひとり正面からして向き合うことが出来ないのからだと。しかし、今、目の前にいる、自身が崇め奉る彼女には、それが、出来た。


「その度にだったの、屍だった彼が、その時に初めて声をあげるの。尾を踏まれた犬の呻きのような、鳴き声のような、声じゃない様な声をあげて身をよじらせて、痛がるの。その瞬間がいつも私は辛かった。貴方を救った自分の道を選んだ私の、その正義が間違っていたような気がして。私はその時彼の、その顔を撫でながら、自分を慰めるために言うの。苦しいでしょうね、悲しいでしょうね。でもね、でも、お願いよって」


 その時、初めてマリアは涙ながらに応えた。


「声がかすれる。包帯の隙間から睨んだ灰の瞳に震える自分の姿が見える。彼の身体を掴んで、眉をゆがめて私は言った。私を悪者みたいにしないで。だって、でも、そうしないと貴方は、死んでしまうのよ、って」


 子どもを諭す様な面持ちでマリアは手を掲げる。誰もいない、誰も掴めない指無き手で。


「夜、貴方が闇を怖がって呻くから、私はいつでも灯火が途切れない様に側に付いていてへたりこんでいたわね。暗がりの中、橙の木漏れ日の中で横たわり、微かに胸板にはしった傷を引き裂きながら眠る彼を見続けていた。医師の言葉が頭をよぎる。それでも、と、答えた私の立ち姿がランプに映る。血肉求めて彷徨う白い蛆虫が散らばる床に転がるときがあっても、けれど、それでも、灯火がふと消えれば私は立ち上がり、すがる様にマッチに火を灯していた――」


「何のためにですか」


 思わずニキータが立ち上がって、大声をあげる。


「何のために貴女はそこまでできたのですか。そう思いながらも、どうして!」


「分からない」


 茫然と骨組みを見上げて沈黙するマリアの隣から、キティも後から立ち寄って答える。睨むニキータを他所に、マリアを見上げながら神妙にしてキティは呟いた。


「無理よね、私たちにはもう、理解する範疇を超えているわ。その時を、その時代を生きた者にしか分からないものが、そこにはあったのよ。きっと」


 キティは汗垂らしながら精一杯に言葉で説明をつこうとしていた。けれども、当人にとっては露知らず、その身を抱きしめている。その目を剥いた青色は、荒い息と共に色が変わった。


「そうよっ、あの時よ!」


 俯き唸ったマリアの、その切羽詰った声色にキティは翡翠の目を開いて後ずさる。マリアは、キティの言葉の一片を掬いあげ、口を勢い良く開いたのだ。両手を剥いてその手を掴みとるように覆って、帽子を跳ね飛ばす程に顔をあげ、天井を見上げ、唸る唇は口端を皺寄せると共にうっすらと上がっていた。


「いつのことだったか、もう時の感覚でさえ分からない程、随分とたった時のように思えるわ。彼は生きてくれた。側にいた私の生命を吸うように、か細く、長く辛抱強く彼は生き続けてくれていた。それでようやく、蛆もいつの間にやなくなって、包帯にも血糊がつかなくなってきた頃、私は干し芋のスープを掬い、瘡蓋がのってきた右半分の顔に、スプーンを添えた、その時だったの!」


 それは地平線に夕焼けが沈む頃であったと、マリアは語る。橙色の光の筋が廊下の窓から二人を眩しく照らす中、彼――ゲオルクはその吐息で、彼女の耳から垂れた黒髪を揺らす。それは、いつものうめき声でも違った。それは、瞑った目の中に宿る意識が示す、言葉であった。生きた屍、化物が、遂にひとりの男に戻った瞬間だったのだ。そして寄せた耳に確かに、届いた。初めて呟く彼の言葉とは――、



『ダンケ』



「ああ……、あああああ! なんてことだったのか!」


 マリアは俯きながら叫んだ。その叫びが怒涛となってキティとニキータの情動を促す。


「ガラガラの声、蚊音のごとく細く途切れそうなあの声! けれど、その声が! 初めて聞いた彼の言葉は! 真っ直ぐ私の身体に染み渡った! いや、衝動を突いたの! だってだって、どうしてよ!」


マリアは頭を降って嘆いた。


「どうして、貴方のその声が! 独逸語でなくてはならなかったの!」

 

ああ、悲しかな、彼は敵国の男であった。しっちゃかめっちゃかにされた彼を、敵国なのか、自国の人間が、そんなことなど分かるはずもなかった。乞うて乞うたその瞬間を、神が残酷に絶望の底の底へ突き落としたのだ。ああ、なんということか。周りある幾多数多の同胞を殺した憎っくき敵国の人間と同じ男を、私は――、


「でもね」


 一旦大きな息を吸って、マリアは嘆きに震えた身体を固め、立ち尽くしたままの二人に勢い良く呼びかける。やがて、ぱっと押さえた手を離し、むき出しになった青の目が涙を散らす。


「その時に私は、私は、手元に持っていたスープを放り投げて、放り投げてまで、私は彼の身体の上に乗ったの。彼の頭に横たわる枕ごと両手で掴み、彼の上に土足のまま押し乗ったの。その声を皆に、いいえ、これを神にでさえも聞かれぬように覆った。私の涙が雨のように落ちて、彼のぼんやり開いた顔と口に、涙が何度も何度も! 何度も……!」


 同じだ、やはり、ジョージの瞳と同じだ。心臓の高鳴りと共に、マリアの絶叫の中でキティは幾度も呟いた。思ってもいけないことが、キティの硬った身体を縛り付け、甘美な痛みを与えつつ、その青から逃れられない。また、キティは思い馳せる。ゲオルクはその時、ようやく光が戻った世界の中で、それを見たのだろう、と。


 路傍の紙屑に身体の上に、おなじく紙屑のごとく顔を顰めて泣く彼女の瞼から、綺麗な青の瞳が浮かんでいるのを。他者は自分を映す鏡。その鏡たる、その青の瞳から、そこから吸い取るように水色を帯びた雫が、影から僅かに差し込んだ日差しに煌めいて、炎に包まれていた自身の身体を冷やし、清めてくれる。その青にゲオルクは吸い込まれたであろう。


 生死の境から抜け出したばかりの彼には、知るべくもなかった、その悲喜交々が絡む故に美しく映えた青の瞳を、彼はただ美しいもの美しいと思うままにうっすらと微笑んだのだ。それに。その醜く火傷が覆うからだひしと抱きしめて、彼の肩の上で嗚咽をあげる。けれど、その中で震える唇に中から彼女も答える。彼の言葉にはっきりと自分の国の言葉で大きく言った。


「ジェンクイエン(ありがとう)……」


 ここまで死なないでくれてありがとう。どうして助けたなんて言わないでくれてありがとう。


 いっそのこと死んだ方が良かったなんて、言わないでくれてありがとう。


 誰も助けれくれなかった私に、気づいてくれてありがとう。ありがとう、って言ってくれたことに、ありがとう――。


 何の力もない、何の取り柄もなく、戦争という悲劇に放り投げだされたひとりの少女の、胸痛ましい程の思いが溢れ出し、まとまらずにやっと彼が聞いた言葉がそれである。


 仰向けのまま彼女の肩から覗く右目が、そのポーランド語に開いた。そして、彼女の抱擁に答えようとした時、自らの四肢の喪失をも知り、更に大きく、大きく開いたが、嗚咽あげて揺れる視界の中、夕焼けさえもかすむ青の残照に浸ろうと瞳を閉じ、彼は何かを思うよりもまずは、彼女の肩に唇を添えてその声に応えのだった。

 

 マリアは、ずっと彼を見つめ続けてきたマリアは、ゲオルクのそれら全てを察した上で、それからますます顔をくしゃくしゃに歪めて嗚咽をあげる。そして彼の身体すべてを強く抱きしめ、ゲオルクはその痛みをも何も語らず、為すがままに擦れあう皮膚と皮膚との触れ合いに身を委ねた。


 そこから日の沈んだ部屋から、二人の影はやがてゆっくり一つと相重なった。


「ごめんね、ごめん、ね」


 そこでマリアは遂に泣いた。肩を震わせ嗚咽が漏れだす。


「あたしは今日、断言するよ」


 見つめるキティ、ニキータを前にして、手袋を嵌めた拳で額を押さえ、あの時と同じように溢れる涙を拭いながら、俯いた瞬間をして彼女は語尾を裏返し、こう言い切った。


「あの瞬間、どの過去よりもどの未来よりも、どの世界よりも、どの空想よりも、誰よりも何よりも、あたしは激しい恋をしたんだ」



13、透明のわたしたち



「短い間だったけれど、陳腐な例えで言えば、正に私にとっては、つい昨日のこと。そして一生のような日々だった。目覚めた彼との日々は、それは私の人生そのものだった」


 虚しい青の瞳が、七十年の雨風によって吹き抜けた、天井の穴を神の後光の如く見上げる。


「彼にとっては目覚めたからの方が地獄の日々との戦いだったのかもしれない。それは私にもよく分かっていた事だった。けれど、その一片をもあの人は少なくとも私には見せようとしなかったのよ。御飯の時、着替えの時、そして包帯を変える時、僅かな時間を惜しみなく遣って、その部屋に訪れる度にいつも、その目見た出会った時から恋に落ちてしまったように、いつも私を乞うてくれたし、いつもその腕無き手で、あのにっくきアーリア人の男は私を抱きしめようとした」


「それに対して貴女は?」


「どうせ、同じことよ」


 上目遣いに猫を抱いたキティの問いかけに、マリアは自ら眉を潜めて目を閉じては自らを薄ら哂った。


「少しでも、少しでも、あの人がせめて生きていけるように、全てが終わったその日をあの人と迎えられるように。なんてね、今考えればとんだ幻想をあの時は本気で抱きながら、あの人を生かせることに全てを注いだ。それにお互いに疲れきった後は、夜の病院の片隅で二人きり、爆撃の恐怖に怯えながら微かに灯された明かりをボロ机に放り投げ、その橙のこぼれ日の中で互いの顔を見つめながら寝たわ。彼は、夜を怖がっていた。私をいつでも求めた。それでも、そばにいてやれなかったときには、彼は私の血のついたガーゼを依り代に、いつもそれを側に、その頬の下に置いていたの」


「では……今までの話はその時から……ゲオルクから聞いてきたのね……」


 マリアは、顎の下に皺を寄せ挙げて唇が震え言葉が紡げないでいる。しかし、キティの問に素早く頷くことで答えた。そして、しばらく沈黙の後に、震えた声で語りだす。


「そう……私は、唯一残った左の、かつてそうだったろう彼の美しい姿を垣間見える、そのぬくもりが縁取る身体を抱いて、夢に見るのが幸せだった。血の舞う膿の舞う汚れたあばらのベットを舞台にして、ある時は互いのことを語り、またある時はただ、抱きしめ合ったまま何も語らず、教会の端っこで灯る秘密の部屋での日々は続いた」


 マリアはふと猫を撫でる手を放し、口元を覆った。猫もふと、頭を撫でてくれる心地がなくなったのに気付いて小首を傾げてはマリアを見上げる。一方でニキータはは眉を顰めて唸る。ああ、なんとも形容し難い愛の讃歌だろうかと。


「そして、ボス。その写真を受け取ったのも……その時だったのですね?」


「ええ、そうよ」


 今度はニキータの問いに対し、マリアが頷くと共に眼鏡が一寸白く光った。


「あの人は目配せで、布切れで泥にまみれた自らの制服を指し示したの。今思えば不思議ね、あの部屋の隅に置かれた服をどうして今まで捨てようとしなかったのか。そして、そのくり返す目配せの中で、私はベットから起き上がって察した。その中に何かあるのだと言うことを。そうして、唯一残った釦の貼り付く胸ポケットの中から、不思議。あの戦火から免れて、写真が、写真が残っていたのよ……」


 そう語るマリアは既にその手に抱いたかの如く、何もない手をゆっくりとそれを掲げては恍惚と笑った。それを指を口に添えてキティは些か騒がしい胸の内にぞうと身を震わせた。我が身に持つ、守り抜いた写真にそんな経緯があったのだと思うと、我をも、その写真を持つ資格がなかったのかもしれないと自覚に打ちひしがれていく。


 それは衝撃の瞬間だったろう。嫌でもキティはマリアの胸の内を察せる。目の前で四肢切断となってしまった、愛しい男の本来の姿が、あの生人形の如く美しい肌と顔を持った男であったとするならば、神が与えた恩恵と試練に何と胸を震わせた事だろうか。そうその写真の現れ。それこそが、正に、全ての始まりだったのだと、キティはもう一度その事実を認めた。


「それを彼は私に与える、と言ったの。残った半分の唇で覚束なく呟いた。最早自分が持つ腕も無いのだから」


 それに対する答えを、きっと彼女は抱きしめて示したのだろう。手足を無くした男のために、全身でその思いに応えるために。古今東西数多の人々の人となりと狂わせ貶める戦争というものが生んでしまった、歪みに歪んだ愛の芽生えが確かにかつて其処にあった。


「彼がやがてその疼く痛みの中でそれを乗り越えて、その時に茶目っ気に、健気に、その笑顔を返そうと皮膚を引きつって笑ったあの顔はいつまでも忘れられないわ。短い中で最後にあの笑顔だけが、最後の別れの走馬灯の中で、霞んで思い浮かぶものなのよ」


 その言葉を境に、キティとニキータは互の顔を見合わせた。そうだ、さっき、「短い間」だとアリアは言った。ゲオルクとマリアの別れがどんなことだったのか。2人はまだ知らない。世界を混乱に貶めるその二人の出会いと締めるその出来事とは。マリアの次の呟きでやがてキティは「ああ」と声を上げて察す。出会いを引き入れたのが「戦争」であるならば、その別れももたらすのもまた、戦争なのだと。


***


 別れは時流の如く、なんの前触れもなく突然に降りかかった。その日、今日もゲオルクの肌を綺麗に洗おうと、暖かい湯を湯おけの中にたんまりと入れ、抱きながら廊下を歩いていた時だった。ゲオルクの部屋が見える渡り廊下の窓を覗こうと、白日が眩しい窓を見上げた、その時であった。割れた眼鏡の先、向かいに見える教会の端が突然爆発し、その烈火が彼女の視界を覆う。続く耳に劈く爆音と土色の豪風。それを合図に、再び、轟々としたうねり声が天井より響き渡っていたのだ。湯おけを抱きしめ蹲ったマリアは「遂に来てしまった」と、恐れ慄く。何度も幾度となく繰り返された爆撃。それが遂に、この僻地の教会にまで、そこが病院であることを諭されて狙われたのだ。マリアはうち震える。「何度経験しても、この音には決して慣れない」と。


その声さえもかき消され、更に大きな豪音が遠くで鳴った。人々の悲鳴が湧いたのに、凝り固まった恐怖が突き動かれて、マリアは三つ編みを飛び跳ねた。


「そんな、なんてことなの!? 貴方たちは市民をもなぶり殺しにするというの!?」


 そう悪態つく間もなく、窓から除く地面には爆撃機の影が幾つも成し、教会の上を通り過ぎていくのだ。マリアは再び、眼鏡のかけ直した拍子に自らを奮い立たせ、爆撃の渦中へと身を投じた。こんな下衆な奴等の卑怯なことで、自らの矜持を潰されて溜まるか、と。精一杯に強がりながら。


 しかし、今回の爆撃は今まで経験したものとは程度が違っていた。まず、とりあえず上司の医師たちの判断を伺おうとして、阿鼻叫喚にふためく患者たちを必死に宥めながらもスカートの裾を摘まみ、執務室のドアを開けたとき、そのこげた匂いに目を顰めると共に、その先の惨状に目を見張った。


「な」


 部屋を同じくした周りの看護師たちの泣き声がマリアの身を退かせる。ドアの向こう、黒い煙の隙間から見えたもの。それは、医師たちの集まる執務室が爆撃の直撃をくらい、血走った白衣が瓦礫の中に引きちぎられ、見るも哀れに焼け焦げた医師たちの死体が転がっていたのだ。


 涙の溜まった目は悟る。その中で落ちた木屑に胸を貫かれ、串刺しに口に血を垂らして絶命している、あの、贔屓にしてくれた医師の真っ黒な顔に浮いた白目の濁りを。


 ひいっと上ずった声をあげるが悲しむ暇もなかった。追い立てるように鳴った閃光と爆発。側で嘆き悲しんだ仲間たちが悲鳴と共に次々と、同じ骸になって巻き込まれゆく。マリアは哀れに泣きながらも其処から走り逃げるしかなかった。プリーツの裾ごと自分の脚さえも引っ張り上げて、走り抜けた病室を後戻りする。脇から潮騒の如く響き渡った悲鳴とうめき声、そして嘆き悲しむ断末魔。こうして助けの医師でさえも失ってしまった手前、、マリアが捨て置いた患者たちは最早助からず、このまま爆風の中に身を焼かれてしまうのだろう。


しかし、この混乱に乗じてマリアに出来ることなど路傍の石にも満たないのを何より自分自身が知っていた。ならば、自分が抱えられる精一杯の人だけでも守ろう。その胸に抱けるのは一人、そして、マリアが選ぶ相手もまた、たった一人だ。


「ゲオルク!ゲオルク―ッ!」


 それは、声もかすれかすれに、血を滲ませながら彼が必死に教えてくれた名前。彼の名を彼女は叫ぶ。焦げる三つ編みを振り乱して汗もびっしょりに、煙と炎の光しか見えなくなった病院の残骸を走っては、見渡すをひたすらにくり返す。混乱の中で唯、彼を助けるという決死の思いの基で冴え渡った勘が――、壁が崩れ落ちる、彼の病室がある渡り廊下を見定めた。


 ちらつく炎を飛び越えて、その掠めた炎の熱さに脚が飛び跳ね転がり落ちても、その焦げた臭いが鼻につきまとい、血の滲む踵に自ら追い打ちをかけるように挫かれた痛みが重なって呻けども、混凝土の土くれを引っかき、地べたを支えに歯を強く食いしばりながら、マリアの青い瞳は黒鳥舞う曇天を睨んで立ち上がった。


「ゲオルク!どこに居るの! 今行くから待ってて! ゲオルク!」


 マリアは彼の手足となって、もう二度と地獄の業火に焼かされぬように引き出してやらんと、手足を振り回した。彼の身体は私の身体だ。指を生贄に、自らの血と涙と汗を引換えにして連れ戻した私の男だ。鉄火場の中で我片方を求めて、眼を振り回す自分はなんて滑稽だろうと、その時でも思う。けれど、そう思わなければマリアはそこで死んでいた。そう思わなければ、生きていけなかった。


 やがて、そしてやっと、黒煙の隙間からぼんやりと浮かんで暗がりが横目に浮かんでいるのに気付く。身の覚えのある転がり落ちた花瓶の中の紅い花を見据えては、そこから迷わずスカートの裾翻して突っ走った。


「ゲオルク!」


 ドアが空いていたままで良かった。部屋の中は暑くなっていないだろうか。ベットから転がり落ちていないだろうか。そしていま、彼は私を求めているだろうか。

 

様々な憶測を早く突き止めようと部屋の中を抜ければ、次の光景にマリアの三つ編みが驚愕に跳ねた。彼を求めてさまよう炎の揺らめきの向こうに、黒影が蠢いていのだ。それは薄い影が重なり合っているかに見えたが、それはそれぞれ別の者であったものと知る。一体、何者だ。側で真っ黒に焦げて倒れている仲間の屍を踏み越えて、あの者たちは何を囲んでまさぐっているというのだ。


「まさか――」


 火の中でマリアの青い瞳が澄んだ色で瞬いた。そうだ、仲間なのではない。敵なのだ。ドイツ軍、その無機質なアルファベットが浮かんだ。そして、その部屋には四肢をバラバラ引き裂かれた同胞の患者がいる部屋なのだ。全ての合点がいった時、かっとマリアの焦げ付いた眦がつり上がって血を滲ませた。


「返せえ!」


 咄嗟に湧き上がった咆哮はそれだった。目前にある炎さえ掻き消えた情動急かされた身体は、炎の舌が舐めずる痛みさえ思考の外とした。マリアは飛び越え、否、炎の中から生まれたかのようにそこから吹き出した。


「ゲオルクを、返せーっ!」


 もう一つ足りとも貴様らに奪われてたまるか!


 今まで溜まった怒が、死の淵に立つ身体を奮い立たせた。私の青春を、私の人生を、私の仲間たちを奪い、嬲り尽くしてこれ以上一体何を望むと言うのだ。ゲオルクは、ゲオルクだけは――、何としても奪われてたまるか、と。その為ならこの身を炎に犯されようと構わない。何故なら、もう私の身体は全て彼のために注いだのだから。


 背後から跳びかからんとした勢いで迫れどもマリアはふと振り返った黒影に訳の分からぬ怒声を受けると、それから激しく肘を胸の上に突かれ哀れ仰向けに弾き飛ばされてしまう。


「きゃぁっ!」


 それは凄まじい激痛、かなり力の強い男のものであったことをマリアは焦げた壁に打ち付けられながらも悟った。しかし、火傷に張り付いた皮膚を、激しい呻き声と共に服と共に無理やり引き剥がしてでも、彼の姿を捕らえる事を彼の名を叫ぶ方を選んだのだ。


「ゲオルクっ!ゲオルクー!」


 それでも、彼女の懸命な叫びは炎の風に掻き消され、黒影は全く何も介せずに蠢き揺らめくばかり。やがて真ん中から何かを一斉に持ち上げる動作をすれば、列を縦にして煙の中へまんまと姿を晦まそうと歩く。


「ゲオ、ルク……!」


 すると、その人集りからすっと何か白い物が出てきた。崩れ落ちた瓦礫に足を掬われてバランスを崩し揺れ動いた黒影から、その反動に腕が出た。包帯を巻かれた太い幹の様に斬られた、ゲオルクのそれが彼女の方へと突き出されたのだ。


「あぁっ!」

 

 マリアは悲鳴をあげた。その反動がまるで彼が我へ助けを求めているようにも見えて、行かねばと悟った。腕の中の無くなった彼の為にも炎を乗り越えてこの手で掴めばならぬ。その為ならば何だって! 炎を青く照りかえした瞳は、脇の瓦礫を映し素早くそれを掴んだ。立ち上がる間際、力を込めて持ち上げる腕も背中も焼け爛れた血を噴き出す痛みをより力に替えて、真っ赤に顔を腫らしたマリアは憤怒の形相で牙を向いた。


「うあ、うああああああああ!」


 私のものは、私のものだ。マリアはぶんと瓦礫を振り上げた。それは最早、理不尽に対する我慢の臨界点。そして彼女が生きる為の事全てを賭けた決死の決断であったのだ。そしてマリアは叫んだ。それはその時に初めて宿った殺意。


 それを奪うものは須らく、死ね!


 しかし、その瞬間に大きく雷鳴が鳴り響く。持ちこたえられなかった梁が炎に溶かれマリアに容赦なく降りかかってきたのだ。それからの記憶が全くないのは恐らく、炎の梁に頭を直撃されてしまったからであろう。と、語る。そうして、たったさよならも言えぬまま、マリアとゲオルクの運命の出逢いはこうしてぶつ切りに終わった。


「あの時を知っていれば、最後に交わした言葉を、もっと焼き付けておけば良かったわ……」


 沈黙に打ち据える二つの影を横目に、マリアが締めを括った一言は、皮肉にも素朴なものであった。しかしそれが余計にあっという間に運命を分かたれた二人の、その悲愴をより掻き立てたのだった。


***



 気付けばすっかり日も落ちて、アウシュビッツの夜が開かれる。


 真っ黒な地平線の向こうに、夕陽の篝火が微かに空に照り映える。美しい夕闇の狭間に覆われた世界に一人建物を見渡せば、影絵のように、煙突突き出る真っ黒な凹凸を見据えた。


 おかしいわ。まるで影絵のようだなんて。


 キティは自ら呟いた例えに自嘲した。これは元々の景色、この光景を真似た物こそが影絵だ。そういえば昔、草原に広がる白い雲雲の曙を見て「わぁ、まるで絵に描いたみたい」と指差した言ったときに、笑われたこともあったけか。それと同時にキティは懐かしい皐月の草を嗅いだ。不自然な程に明るい青色をした空を背後に、太陽にキラキラと茶色い髭が、高らかな笑い声と共に煌めいていたのを。途端、キティの俯いた顔を、建物の影が隠した。


「キティ」


 すると、後ろからニキータに初めて名を呼ばれた。黒影の壁に挟まれた、幅の広い砂利の道の真ん中で、細長い白の女が歩み寄った。血の気のない、覚束ない脚の揺らめきは幽霊を諭させて不気味だ。


「そろそろここも閉館時間だ。行こう。もう暗くなる」


 それにキティは俯いたまま頷き、黙ったまま二人並んで帰途に着こうとする間際、前を向いたままのニキータは、そっと唇を開いた。


「私は……あの方と知り合った時に一通り馴れ初めは聞いていたはずだったが……、まさかそんなことまでは、全く知らなかった……驚いたものだ……」


 砂利を踏む音が響く中、ニキータ暫しの思考の後にまた語り始めた。


「……私が聞いたのは、その後からの、あの方の悲惨な人生だった」


 から、と、強調して語りは続く。


「あの方は……あの後、奇跡的に瓦礫の中から這い出では意識朦朧の最中、病院での館内放送から終戦の知らせを聞いたらしい。ポーランドは連合国であったから、一応は我々の勝ちという恩恵を得ることが出来たというが……たったその安堵得る為には……この国は余りにも払う犠牲が多すぎた」


「マリアの家族は、どうしたの……?」


 それに、ニキータは言うまでなく、と、吐き捨てる。


「マリア様のご家族は、ワルシャワでの空襲でいなくなった。と、伺った」


「いなくなった?」


 不可解な表現に、キティは首を傾げる。


「ああ……マリア様は先におっしゃった通り、外地にいたから、その時は共にいなかったのだが、まだ火傷の身も熟したままワルシャワに駆け戻った時に初めて、あの方は遠く地平線の見える焼け野原を目の当たりにした。それだけだ。それだけなんだよ。脚が付け根まで真っ黒になっても焼け跡を走り続けてきたというのに、誰一人の証言も当てにならぬまま、ご家族は見つからなかった。それから一擦りの進展もなく、ご家族はあの日から居なくなったままなのだ。戦争というのは、命だけを奪うのではない。その人の生きた証さえも、奪うものなのだ」


「そう……」


 淡白を貫き通したニキータの語りはいつの間にか饒舌となって、一旦の詰まりで締まった。キティは自分自身の心当たりを掠めて彼女と共に、少し斜めに俯いて頷いた。死んでしまったという事実にさえも与えられぬ別れ程、煉獄というに相応しい苦海はない、と。


 キティも忌まわしいあの日、一度に両親を失ったときには、目の前の惨状にも関わらず、悪夢の続きなんだと全てを信じることが出来なかった。


 やがて葬式が行われ、第三者の輩が喪服を着て死を悼む姿を横目にして、其処でようやく両親の死を実感した位である。それを知っているからこそ、キティは今自らを失踪という形で葬ることにより、生きているか死んでいるか分からぬ悩みに苛まれる人生を罰として、あの男に押し付けた訳なのだか――、


「いや、いやいやいや。私のことは今はどうでもいいのよ」


 キティは徐に栗色の毛を振った。きっとマリアは、年齢的を考えても最早生きている可能性など無いにも等しいが――、今でも家族は「居なくなった」のだと、言い続けるのだろう。いつかその青い瞳が永遠の陰りに差し込むその瞬間まで。


 やがて、歩幅を整え背筋をのばしたニキータは、未だ猫背に打ち震えるキティへと言葉をかける。


「……これで貴様も流石に分かってきただろう。家族もそして自らも戦争によって全てを失ってから、強者にも弱者にも破壊し尽くされたこの絶望の地で、マリア様が此処まで至るのに、どれだけの血反吐を滴らせて今までを生きていったのかを。身よりのない女一人――、

そのために、マフィアのボスに取り入れ、その妾となって数多の罪にその手に血を染めながらも、他の部下たちの尊敬と信頼を得て、やがてこのマフィアそのものを自らの手に掴むまでに、一体どれだけ身を粉にしてきたのかを……」


 だから、と、ニキータは微かに眉を下げて、キティへと詰め寄った。


「ヨーロッパという言葉は余所モンにとっちゃあ、随分と聞こえの良いようにも見えるがな。西欧と東欧の生まれと境遇の差は雲泥だ。私は、お前の生まれを知らないし興味もないけれど、お前はきっと西の方の生まれだろう。目を見たら分かる。生まれた時から既に目の輝きささえ異なっているのだから」


 合っている。キティは苦虫を噛みつぶした顔で、少し鼻筋を歪めてそちらへと向けた。


「そう言う貴女は……、一体どういう出自だったのかしら」


「ふん、私の生まれはチャウシャスク独裁政権後のルーマニア。そして汚れた灰色の部屋の隅っこ、白い鉄格子のようなベットの中、と、だけ言っておこうか」


「チャウシャスク独裁政権……?それ、もう何十年も前の話しじゃない……?」


「は? なんだお前。独裁政権が壊れたからって、それから簡単にめでたしめでたしってなるとでも思ってんのか?」


 狂気の色を混ぜた瞳でもって見下ろされ、翡翠の瞳が戦慄に震えた。


「そんな風に私達、ドブ鼠の子ども達をあの方は進んでこの組織に引き入れてくれたんだ。あのナターシャだってそうだ、あの方に付き従う我々は皆、あの方のお陰で初めて生きることが出来たとも言える。今までどうしてわざわざそんなことを、と思ったが、あの話を聞いて分かったよ。あの方は私たちを救うつもりで自分自身を救っていたのだな。魔女だとか救世主だとかそんなことなど私には知ったこっちゃない。我々にとってあの方こそが、唯一無二の、そして絶対的なお方なのだ」


「……それが釁られた道だったとしても……?」


「キティ、綺麗な手程、私たちの手を弾いたものさ」


 無表情の顔から、冷徹な声と共に陰影を皺くちゃに歪ませる。それに唇引き締めるキティを前に、ニキータは顔を戻して言った。


「だから、私は私たちの為に全てを尽くし、お年を召したあの方の、今度はその手足となって行く。その為にはキティ、お前の力が必要なんだ。あの方の話を聞けば大方その意図も理解してくれたつもりで言うが、あの方は、お前の意思で写真を渡してくれることを望んでいる。お前から根刮ぎ写真を奪え返すなどこの腕ならワケもないが、あの方がそうお望みにならないのであれば、私もそれに肖りたいんだ」


 と、言いつつも、彼女は次の一歩でその長身を見せつけて、更に迫っていた。ああ、これから段取りを付けようとするつもりなんだなと、嫌が応にも感じ取ったその覇気に、無意識にキティも身を縮こませつつカメラを握る。そして遂に、鉄格子が並ぶ端。電灯に照らされて向い立つ二人の対峙の時が迫った。


「返して、貰おうか」


 ニキータは、掌をキティへと差し出して言った。


「写真を私に渡せ、キティ。あの話から分かっただろう、その写真は元々マリア様の物だ。地獄を彷徨うばかりだったあの方の、たった一瞬の、美しい青春を映す物だ。それはなんとしても、我々の物にしたい」


 生暖かい吐息を撫ぜ、砂利の音鳴らす。鋭い眼差しが引き締まった薄い唇と相い重なり、女にしては些か無骨な、男とするには余りにも流麗な、その中性の魅力を引き立たせた。それを前に、掠れた息を吸い込むキティは、一歩向かいの闇へと紛れながら眉を顰める。


「分かってる……。マリアの話は正直、私がこの写真を守る為にしてきたこと全てをなかったことにしてもいいと思う程のものだったわ。ええ、そうね。本当にそう。私だって彼女程、この写真を持つに相応しい人は居ないと今は思うわよ……」


 けどね、けどね――、

 

 胸を片手で鷲掴んだまま、俯き顔を前髪に隠したキティの、過呼吸に似た息遣いだけが彼女の苦悩を諭させる。そして一度強く指を折り曲げて、その痛みに呻いたキティは、剥いた目を前髪の隙間から覗かして答えた。


「それでも私は……! 貴女がガットを殺したことを忘れたわけじゃない!」


 まだ生暖かかったその屍を――、その血を受けた唯一の腕を掴み、その感触を想い立たせるようにキティは叫んだ。すると、あの日を見透かす鋭い咎めの視線に、目を見開いたニキータは口端を水平に緩め、流し目に僅かに俯きながら小さくこう呟いただけだった。


「そうか、それがあの男の名前か」


 すると、キティはその顔を見た瞬間、緊張に張った何かが切れた音を頭の中で聞いた。それからみるみる身体が解き放たれる感触に包まれて、溢れ出す情動と共に、正面からニキータと対する。キティは髪を波立たせて咆哮をあげる。人類の負が詰まったこの場を背後にして、キティの語りは皮肉にも、絶好の機会と想いが合わさった瞬間だった。

 

「私は、もう、これ以上、誰かが死ぬのを看取りたくはない!」


 キティの叫びは、沈黙に伏せるアウシュビッツに反響する。


「私は、ここにあった悲劇を繰り返したくない! この殺し合いの連鎖を終わらせたい! 最小限の犠牲なんても言いたくない! もう誰一人も犠牲になって欲しくないの! その為には、まだ、この写真を渡すのは今じゃないのよ!」


 風が吹いた。その時に翡翠の瞳が涙に潤んだ。その一滴一滴は映し出す。その闇に消えていった命を。このアウシュビッツに並んだ収容者の虚ろな顔を、ジュリアを、ニューヨークの警官たちを、ガルシア神父を、ガットを、父と、母を――、


「私と、一緒に行きましょう……!」


 そしてキティは、逆に彼女を誘うのだ。


「ムンダネウムへ……!」


 一陣の風が茫々に枯れた草を靡かせる。ニキータの底冷えの心臓が、その言葉を乗せた風の回る音にどくん、と、上がった。


「マリアと一緒に、ムンダネウムに行って、その長に会いに行くのよ! そして、狂気の沙汰にいる男を、あの時のゲオルク・ライヒートに連れ戻すのよ!」


「貴様……本気なのか!?」


 ニキータは細指を握りしめ立ち上がる。キティの差し伸べた手は風にも惑わされぬまま動かない。


「そうよ、貴女も来るのよ、ニキータ! そうすれば写真も、貴女のものになったのと同じ。このままじゃあと一つの掛け違いで、もっと大勢の人が死んでしまうのよ! それをなんとしてでも、避けるのよ! それを貴女の罪滅ぼしとしてほしい!」


「な、に……?それは、一体、どういう……!?」


「私は腹をくくったわ。後は、貴女が決めることよ」


 そうして最後の締めをも括り、キティは前へ進んだ。ニキータはそれに対し空いた手を掲げ身を捩りながら下がる。今だ、その不可解な可能性へと誘われた戸惑いは、全てを決めた彼女の視線に掬い上げられてしまう。


「私は……私は、私は……」


 今までも思ってみなかった。当たるべくもない光の側へ、ニキータは誘われてしまう恐怖に震えた。いや、そもそも光なのかさえ分からない道への誘いに懸念が混ざる間際、例え宵闇だとしても、貴女の隣に入れば構わないと思う、マリアへの裏切りにも思えて、ニキータは声を震わすことしか思考が回らない。


 そうだ、マリアだ。ニキータは閃く。自分のことを考えるのに慣れなかったニキータは、また忠誠心へと思考を棄てて、腕組んだ片方の肘をもう片方で支える。


「マリア様の為になるには……!マリア様は一体、どうお考えになられるのか……!」


 その時、彼女の声を傍から阻んだのはその主の声だった。


「ちょっと貴女たち、そんな所にいたの!?」


 聞き慣れた怒声に咄嗟に振り返れば、何処からか駆けつけたマリアが中腰に跼めて荒い息を吐いていた。その姿にニキータは愛おしさを滲ませるも、ただなら声色と青ざめた顔に、不穏な影が過ぎる。


「マリア、様……?」


 急な空気の流れに惑い、眉を顰める二人の合間を切り裂いて、金切り声に似た叫びで丸眼鏡を震わせせるマリアは言った。


「今から急いで合流地点に向かうわよ貴女たち! さっき連絡があったのよ! もう一つの部隊が、アメリカの特殊部隊に攻撃されてるって!」


 その言葉に二人は驚愕に髪を揺らした。


「な、なんですって!?」


「どういうことなのよ! 一体どうして!?」


 それに唾飛ばし、拳を掲げて問い詰めたのはキティだ。しかしマリアはそれに構う間もなく踵を返しては、白手袋はめた手を掲げて言う。


「分からないわ!とにかく大変なことになったのよ! 早く車に乗って目的の場に向かいましょう! 急いで! 時間がないのよ!」


 と、闇に紛れて走るマリアの後ろで、二人も汗滴る顔を向かい合わせては、素早く頷き合った。それからニキータがコートを翻し車のキーを取り出したのに続き、キティも焦る心地を押さえつけんとカメラを両手に構えながら大股に走り出す。そして、闇の向こうへと求めるその名を、キティは掠れた声で呼んだ。


「武、士……!」


<後編へ続く>

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