第7話 ポーランド編(前編)
ジョージがイギリスでキティの過去を突き止めている間、同時系列でキティは因縁の相手、「ポーランドの少女」と会うために、遠い東欧の地へ向かっていた。そこで明かされる、ジョージの出生を巡る世界の一片とは――、ヨーロッパ編最終章。ここにて、彼らは決別を果たす。
ぼくの苦しみは
単純なものだ
遠い国からきた動物を飼うように
べつに工夫がいるわけじゃない
ぼくの詩は
単純なものだ
遠い国からきた手紙を読むように
べつに涙がいるわけじゃない
ぼくの歓びや悲しみは
もっと単純なものだ
遠い国からきた人を殺すように
べつに言葉がいるわけじゃない
田村隆一『遠い国』より
1、青
ここは、海の色が空に吸い取られた世界だ。
海を覆う空は、ありとあらゆる蒼を吸い取って、正に自らこそが海であるとかのように深い群青色を為す。
その二つの海の狭間に、傷だらけになった体を銀色に反射して泳ぐ、一つの雫にも似た魚――、否、鳥がいた。これは、空という名の海へと、泡沫のごと消えていく、人々の一瞬の瞬きを切り取った物語である。
それは一人の男の、低いうなり声から始まった。
「う……うう……」
暗い部屋の中、白い首筋が差し込んだ光によって映える。それを徐にのばして喉仏を尖らせば、そのズキリと沈んだ痛みを感じ、彼は仰向けのまま呻いて目を開く。
その、ぼんやりと浮かんだ灰色の目が捉えるのは、低いモーター音と共に、空から吸い込んだ風で彼を冷やす扇風機だった。
「ここ、は……?」
そう声をあげると途端、彼の声に反応する動きが、自分の側にあったことに気付いた。
「良かった。熱はないようね」
そう呟いたのは女の声。男にとってそれは、聞き覚えのある声だった。
すると、彼が目端に瞳を向けるのを拒むように、柔らかい手の平が彼の目を覆う。けれど彼は今、彼女が自分の元へ布擦れと共に顔を寄せ、頭に響く甘い薫りと共に吐息を吹きかけていることを知る。それは、冷ややかな空気の角にある、生暖かくて穏やかな瞬間。
「でも……、どうやら昨夜から随分と疲れてしまっているようね。もうちょっと休んだ方が良いかもしれないわ」
と、優しい声で呼びかけられ、その胸の膨らみが影を作り、微かに男の頬を掠めた。その間際に男は目を開いて、指の隙間から斜め上を見る。そこから見えた翡翠色の瞳と目が合った瞬間、男は滾り満ちた情動に駆られ、空いた腕を振り上げた。
その瞬間、爽快な音が空に響いた。
「ぐあっ、よりによって丁度良いところに……!」
叫ぶ女はぐしゃりと頬が潰される痛みに顰め、生温い血が鼻と彼の尖った肘の角から吹き上がる。鈍音と共に女は冷たい床に転がり落ち、栗色の髪を振り乱しは幾筋の赤い血を床に散らした。
「ひゃっ!? キティ、大丈夫ぅ!?」
一方、側からそれを見守っていた金髪碧眼の美女、フロランスが驚いで駆け寄ると、足元で痛みに呻く女、キティのその向こうで、目の下を真っ黒な隈で縁取った色白の男が、鼻息荒く四肢を使い、這い蹲りながらベットから降りようとしているではないか。彼はカルカッソンヌで襲撃されたショックがフラッシュバックして、パニック状態に陥っていた。
「ありゃぁっ、こりゃやっばぁ!」
紫色の瞳をまん丸く開いて叫んだフロランスは、ひょいとキティを飛び越えて、男の元へ悠々と向かう。その間に男は、脚をベットの上に置いたまま憤怒の瞳でキティを睨み、血の付いた肘を振り上げて、襲い掛からんと罵詈雑言を浴びせた。
「この!悪魔の使いが! 私をここから離せ! 離せ! ああ!」
しかし男は呻き声をあげ、目を瞑ってしまう。後ろに回ったフロランスがシャツの首根っこを掴み、彼をキティから引き剥がしてしまったからだ。
「くっそ……まだまだ……!」
それから、向かいの壁に押し付けられた男は、負けじと立ち向かおうとするも、噛みつこうとした鋭い犬歯は虚しく空気を噛みちぎり、再び後ろに回ったフロランスに羽交い締めにされてしまう。それでも男は目を開き、彼女の腕の中で暴れ、彼女の金髪を振り乱させる。
「離せ! 離せって言っているだろ! 犯罪者共がこの私に触れるな!」
精一杯の声を振り絞って鉄の音を鳴らすも、染み付いた鈍痛とだるさが彼の勢いと情動を次第に蝕み、彼は悔し紛れに悪態をついて犬歯を食いしばり目を伏せた。フロランスとて顔を上下左右に激しく揺らされながらも、ぱっちりと開かれた紫の瞳は始終そのままで、かっちりと力を引き締めて、彼の身体を固めるのであった。
「離せ……離せ……離せ……」
海老ぞりに固められた男は、譫言の様に抵抗の言葉を続け、口端に擦り傷の血を流す。やがてむくりと起き上がった向かいのキティは、鼻血を啜りながら、男の首を両腕で固めるフロランスに言った。
「フロランス、離してあげなさい」
「えぇ! 駄目だよおっ! こんなに顔真っ赤にしてまだ離せって言ってんのょ! 滅茶苦茶怒ってんじゃん!」
「違う違う。顔を赤くしてるのは恥ずかしいから」
「へぇ?」
途端に目を瞬かせるフロランスは、身を引いた時に、胸に大きな弾力があった事に気付く。すると、タンクトップから白肌に映る深い黒線の谷間が半分もさらけ出され、そしてほぼ半裸に近い自らの身体を彼の上に覆い被さっていたのだ。
「あら、ごめんなさいっ」
間も置かずフロランスがぱっと手を離した瞬間、男は床に崩れ、鼻先を潰して落ちた。
***
男が再び目を覚ました時、その目が映したのは、顔をあげた彼を見下ろす、二人の女の姿だった。
「灰かむりの猫……! またお前が……!」
と、再び湧き上がった情動に身を乗り出せども、今度は後ろ手に回された腕が背後の鉄の棒につっかえて動けない。身を捻って抜け出そうとするも、ガチャガチャと鎖と鉄棒が擦り合う音だけが響き、それに乗せて身も左右に揺れるだけである。
「く……っ!」
振り向くと、自身の両手にかけられた手錠が見える。それに悪態をついた彼に、キティは一歩前に乗り出し膝を付く。
「そうやって抵抗するなら、しばらくそうしていただきますわよ。アーサー殿」
自身の名を呼ばれ、はっとして振り返ったその男――、アーサーは、錯乱した灰色の瞳で二人を見定める。それに一方は淡々とした面持ちで対峙し、そして一方は、きょとんとした顔で見下ろしていた。
「よくも、よくも……、こんなことをしてくれたな!」
すると、その二人に向けてアーサーの声が降りかかった。それは溌剌とした怒りの声だった。
「何がどうして、こうなかったかしらないが……! 今すぐ私をここから解放しろ! 私はこんな所で今閉じ込められている場合ではないんだ! いいから、ここから私を離せ! 今すぐ!」
「いや~そう言われてもねえ~、ぶっちゃけこれ、あたしたちの、とんだ勘違いから起こっちゃったわけでえ~」
と、片手で頭を掻きながらへらへら笑うフロランスに、キティは口を塞いで咎め、アーサーの怒りに答える。
「あら、随分と無精なことをおっしゃるものね。確かに私達は貴方を連れ去った誘拐犯です。でも私たちがこうして連れていなければ、貴方は今頃、土に眠っていたのかもしれませんのよ?」
「なん……だって……?」
その全てを悟ったような口ぶりに、はっと灰色の瞳が開いた。そして端から端へとその聡明な思考を巡らせ、ぴたりとはまった心当たりに止まったとき、キティの言葉が続く。
「そう、今や懐かしのあの……カルカッソンヌの城壁を突き破って貴方を襲った黒ずくめの男たちは、勿論私達と無関係。でも、このまま見ているだけでは貴方は彼らに殺されてしまうと思った。 だから私はこの『天使』に命じて、貴方を槍衾から引き剥がそうとしたのよ」
それにフロランスは、豊満な胸を揺らしては前屈みにして笑う。
「わ~っすっご~い、ただの勘違いをよくここまでホラ吹いて取り繕うことが出来るもんねえ~! って、あだあっ!」
横槍を入れて顔を覗き込むフロランスの顔を、片手で思い切り引っ掴かみながらも、キティの顔はアーサーの方へ向いたまま話を続けた。
「これで今の状況が分かったかしら? いや、貴方だったら、それ以上のことをもう悟っているはず」
顔を覆って痛みに叫ぶフロランスの手前、腰に右手を添え、左手を掲げ薄ら笑うキティ。それにアーサーは息を整えながら、憮然としたまま眉を顰めている。
「ああ……そこまで分かっているなら、どうして尚更、私を下ろさない。その役割を全うするために、私が降りてやらなくてはいけないことは沢山あるのだ。今こうして話している時間さえも惜しい。それなら、それでも何故……!」
そうだ。私はあいつらと戦わなけれならない。
義務感の意識に駆られたアーサーは再び身を乗り出し、首を傾けて彼女らに噛みつこうとする、が、涼しい風が開かれたドアから、汗で銀に瞬く彼の髪をひんやり撫でた時、灰の瞳が見下ろす海が、すべてを飲み込むように青いことに愕然とする。エンジンの唸りだけが、風に乗って時の移りを彼に諭した。
「なら、そこから降りて、本当に『ここ』の住人になりたいのですか?」
「……!」
落ち着いたキティの声がその深淵を覗かせ、アーサーは薄い唇を閉じた。
「分かりますか」
息を吐いて言う声は、更に冷たい空を突く。
「そう、この空の下には今にも、貴方を喰い殺そうと口開いている化け物がうようよいるんですよ。それも貴方を保護するためにと銘打って、堂々とね。こんな大きな飛行機、一旦どこかに降りて来たものなら、すぐに彼らが見つけ駆けつけて、そのどさくさに紛れて私達を含めて抹殺するに違いありません。それに貴方は逃げ切れると言い切れるんですか? そんなに疲れきった身体で?」
見上げた先にあるキティの眉は、苦しみに耐える歪みを見せていた。
「何ということだ……あの…黒豹め……」
その顔を見て、アーサーはある者の姿をを察する。目的を全うするためなら、卑怯にして無慈悲に人を殺すのも厭わない、あの忌まわしき『同胞』の姿。マルコムの白濁の眼孔を思い出し、より彼への懸念を募らせる。
「分かりますか」
すると、念を押すように、キティはうなだれるアーサーの肩に手を置いた。二人の影の間で光る翡翠の瞳が、彼を真っ直ぐ捉えて浮かぶ。
「だから貴方は目的のためには否が応なく、ここに留まっていなければならないのです」
それにアーサーは、キティを睨みつけながら息継ぎをするも、しばらく沈黙で向かい合う内に、抵抗する動きも、威嚇の震えも徐々に収まり、次に言葉を発したときには、いつもの無表情となっていた。
「……だからといって君たちだって、こうして一生飛び逃げるわけにもいくまい。飛んだ限りはどこかに必ず降りなければならないのだから。そこの目星はどうする? 一体、君たちは、この飛行機は、……私を連れてどこまで行くつもりなのだ?」
「それは……」
キティはその答えを、しばし倦ねた。目を伏せつつ、後ろで左右に飛び跳ねては二人の様子を窺っている脳天気な『天使』には聞こえないよう、アーサーへのすべての回答として、これだけを言った。
「……ポーランド」
「おい、まさか」
と、言いかけたアーサーの口は、翡翠の睨みに開きかけたまま止まる。
「えぇ、そうよ。私たちはムンダネウムへの脚掛けとして、次はそこに向かうつもりです。大丈夫、貴方の事はたどり着いた後にここに放っておきます。それを嵩に懸けて、後から味方を頼っていればいい。――それが、貴方を取り巻く全てのの状況というものよ」
睨みながら口調は淡々と述べるキティの説明に、アーサーはその気遣いを反古する声色で、キティを牽制する。無表情ながらも、その眉の凹凸には嘲りがあった。握る拳にジーショックがきらりと光る。
「……なるほど、私を守るためだとか、何とか気の良いことを言っといて、さっきからいけ好かないとは思っていたが、やはり所詮、私がここに居ることなど後付けだったということか。どうせ、君たちが狙っていたのは私ではなく、単純にジョージといったところだろう」
ポーランド。
たったそれだけの言葉で繋がりを紡ぎ出し、見破ったアーサーに、キティは途端に行き詰まる。一方でアーサーは、その眼差しを忌々しいとして顔を逸らし悪態をつく。
「全く、どいつもこいつも私たちを引き剥がそうして……」
「ふんっ、そういうホモソーシャルに分け入ってごちゃまぜに引き裂くこそ、正に女冥利に尽きる、というものですわ」
腰に手を当てながら、嘲りの笑みを零すキティに、アーサーは隈の皮膚を歪め睨みの一撃を加える。それにキティは気付かなかったフリをして背を向けると、相変わらずきょとんと顛末を見守るフロランスの元へ寄った。
「ともかく、これで貴方がしばらく降りられないことは分かったでしょう。不本意かもしれないけど、貴方にはこの奇妙な共同生活に汲みしてもらうわ。この部屋は唯一、バスルームも洗濯室もセットになってるところ、ここがしばらく貴方のお城よ。ね、そうでしょ。フロランス」
それに、嬉々としてフロランスは頷く。そしてちとちとと歩み寄っては、キティと入れ違いにアーサーの元へ向かい、膝を付いて後ろ手に回された手錠を外した。外された瞬間、勢い良く跳ねた彼の白い手を、それと同じく白い細指がかしりと、角張った手首を掴んで留める。
次に、彼女がその手を引き離したときには、掲げられた彼の右親指に、ゴム製の紐が繋がれた黒い輪っかが食い込まれていた。
「それだったら、この部屋の中だけ、自由になれるわ」
と、両手を膝につけてアーサーと向かい合い、にっこりと笑ってから立ち上がる。それに続いてキティも背を向けて歩き出して言った。
「それでは、アーサー殿、これから私たちは飲み物を持っていきます。その後にお話しをしましょう。私も、私の為すべきことをするために、貴方に聞きたいこと、沢山ありますのよ」
その後に「ようやくこれで記者らしい仕事が出来るわ」と、フランス語で小さくぼやいたキティに、フロランスはふふふと笑ったが、
「refuser(断る)」
と、アーサーが即答したフランス語に、二人揃ってぎょっとして振り返った。
「誘拐犯と、慣れ合うつもりはない」
それは、至極真っ当な答えであるが、同時に滑稽でもあった。身柄を拘束された圧倒的不利の立場が言うものではない、強い拒否の念である。
「あら、そうしたら、何をされるか分かって言っていますか?」
それに、キティも顎をしゃくって牽制してみるも、そんな若い女の脅しに、幾年の人生と経験を刻んだ灰色の瞳は揺るがない。
「すればいい」
と、キティに息つく間も持たせず冷徹に言い放った。覚悟を決めた瞳にキティもぐっと顎を引き、汗を垂らす。そして次に彼女は、微かに唇を震わせながらも勢い良く言い返した。
「ああ、そう! 女だてらに力ずくの拷問など、大したことではないと思って? 女だからこそ貴方に出来る恥辱というものがあるわよ」
それは、実に際どい脅しだった。脅す側が気まずさを覚え、眉を凹凸に歪ませる中、アーサーは眉間の端から皺を寄せるだけで、至極落ち着いたまま答える。
「それは私にとって恥辱にはならない。同意の上だからな」
男と女の間に過る一瞬の沈黙。
それにあらまあ、と、フロランスが僅かに頬を染めてその手を添える隣で、恥辱に塗れて顔を顰めるのはキティの方となってしまった。
「くっ、なら、仕方ないわね!」
すると、目を逸らしたまま、キティは腰にあるポケットに右手を突っ込み、何かを取り出す。掲げられたそれは、一枚のモノクロ写真。
そこに映った見覚えのある立ち姿に、ようやくそこでアーサーは動揺に目を開く。
「それは……!」
「そう、貴方が、そして貴方たちが、喉から手が出るほど欲しがっていたものよ」
ぴらぴらと見せつけるように振りながら、キティもそこでようやく、暗躍への跳躍の覚悟を決めた、鋭い眼差しと声で、アーサーを誘う。
「これを、取材費の代わりとさせていただきましょう。いかがですか、アーサー殿」
それは、キティが『NYの猫事件』からずっと今まで、命がけで守り抜いてきた駆け引きの道具。それをいよいよ、このときの為に使うことに決めたのだ。
しかし、それで降りかかるキティの更なる窮地を察し、フロランスはあわあわと慌て始めた。
「キティ……! 待ってよ! でもそれは、武士君を助けるために必要な……!」
しかし、キティは何も言わなかった。ただ神妙に、鋭い鼻先をアーサーに向けるだけ。そして、その写真を掲げる手を固めるだけである。しばらく、その様子をアーサーは口をぼんやりと開いて見ていたが、見つめる先にある、モノクロ写真の美青年の笑顔を一瞥したとき、ふと、目を伏せて呟いた。
「……いいだろう。君の要望に答えよう」
こうして、賽は投げられた。
ロシアの下級貴族の末裔として生まれた男と、イギリスの上流貴族と王族との間に生まれた娘。それぞれの境遇によって培われた教養と、交渉術を駆けた戦いが始まる。
そんな決戦を前にたじろぐフロランスを他所に、その渦中にある写真の青年は、相変わらずその爽やかな笑顔を魅せるばかりであった。
***
数十分後。二人は改まって、アーサーの部屋となった一室で、木製のテーブルを挟んで向かい合っている。その中心には駆け引きの道具である、一枚の写真。その端をそれぞれ浅黒い指と白い指とが向かい合わせて五本の指先を揃えている。
「それでは、私の質問に幾つか答えていただきます」
と、神妙に言いながら、キティが空いた左手から金のチェーンを取り出した。その先にぶら下がるのはキリスト像。ペルーにいたときにペペから貰ったそのお土産を、その写真の左脇に置く。
「敵の私に話すのには、色々と憚ることもあるでしょうから、神の前で話すという体でとってもらいましょうか」
そう言って、小さなキリスト像に手を差し伸べてアーサーに述べるキティであるが、そこには勿論、アーサーへの気遣いではなく、一つの罠を仕込んでいる。
「それを写真を渡す条件、とさせていただきましょう」
「ああ、分かった」
その了承に、キティはにやりと笑った。この取材の中では当然、アーサーが嘘をついて、まんまと写真を手に入れる可能性がある。その前に楔を打ち込んでいたのだ。
神の前で語る。
それはキリスト教圏なら、信者でなくとも分かる――、「嘘つかずに話せ」という暗喩だ。もし、ここで嘘をつけば、条件を満たさなかったということで、写真は渡さないままに出来る。当然アーサーや、ましてや今、キティの脇で祈りの構えで見守っているフロランスさえも、その意味を悟らない筈がない。こうして、彼にばかり良い思いをさせないようにした。
「さあ、嘘をつけるものなら、ついてみなさい……!」
しかしその一方で、キティは同時に「嘘をつくこと」を誘ってもいた。
キティは当然、今まで記者として、そして、当事者として、この全貌をそれなりに把握している。彼の語るこれからに、自分が突き止めた事実とどう矛盾するか――、その手数を一切見せずに彼が直接引っかかるのを待ち、後からそこを突くことによって、彼の本性を暴きだそうとしていたのだ。
その、彼を追い詰めるための一つの証拠も今、彼女の背後にもあった。
「では、始めましょうか」
大きな風が部屋を吹き抜け、上のランプを揺らしたのを合図に、キティは息を吐いて言った。頭の隅で、コング音が遠くに鳴った様な気配を感じながら。
「アーサー殿、あのカルカッソンヌでのパーティーのこと、あそこで貴方は席を外して、一体どうしようとしていたのですか?」
そして、右手で写真は押さえつつ、肘をテーブルの上につけたまま、キティは問いかける。取材はいよいよ始まった。
「ジョージを指定した部屋に呼び出して、話をするつもりだった」
すると、硝煙塗れのスラックスを履いたまま、最初に帰ってきた答えは、素早く、そして強い声であった。
「そこで、何の話を?」
「私の口から彼の出生の秘密を伝え、彼が何をするべきかを命令することを」
そこでキティは初めて合点がゆく。ジョージを三年もNYPDから隔離させた張本人が、彼であったことに。
「そして……、何をするべきだと、言うつもりだったのですか?」
一方、キティも動揺の素振りを見せずに顎を引いて質問を続けたが、そこでアーサーは初めて、脇のフロランスの方を見た。
「これからのことは、彼女を外して話したい」
「ほえ?」
菫色の瞳をぱちくりさせるフロランス。
「機密事項に関わることだ。このことを彼女も知ってしまったら、彼女も当事者の一人になる。と、なるといづれはアメリカの保護下にいなければならない。余計な手間……ではなく、事件に巻き込ませる前に、それは私も未然に防いでおきたい」
「ええー!? でもお!」
「どうせ君は、隠しことなど苦手あろう」
「そうだけどお!」
それにキティも、眉間に手を押さえ、やれやれと言ったようにポニーテールを振った。
「そうね、フロランス、貴女は席を外しなさい」
「ええーっ、やだっ。つまんないじゃない!」
「そしたら、私たちのためにランチでも作ってくれる?」
すると途端、フロランスは「うん分かった!」と、大声をあげ、颯爽とウェーブがかった金髪を靡かせて立ち去ってしまった。
「これはまた……随分と、変わり身の早い……」
「あの娘は、興味のあることが次に出てくると、すぐにそれに飛びつくんですよ」
と、唖然とするアーサーに補足しつつ、内心で「この喰えない男め」と訝しげに悪態を吐いた。
「わざわざ本当のことを話す風にして、フロランスまで追い出そうと演出するとはね……。それでだまされると思ったかしら。……甘いのよ」
いいだろう、あえて乗った振りをして、こっちから引き込ませてやる。――と、キティは豊満な胸を張って背筋をのばす。そこで固くなった筋肉が解れていくことに顔を綻ばせるも、やがて眦は鋭くして、無表情のアーサーと再び対峙する。
「さて、仕切り直しといきますか。では、そのこれからのこととは、一体何なのですか?」
「ジョージをムンダネウムに行かせようとした」
「な……!?」
それは、唐突に降りかかった事実。その証言を皮切りに、キティの知らない、それからが明らかになっていく。
「ジョージは、ムンダネウムにとってはなんとしても取り戻したい、成果であり、言うのも憚るが……彼らは少なくとも『息子』だと、思っている。そこにあえて乗るフリをして、私は、魔女に協働する立場を振る舞い、彼女との交渉を経て、ジョージを一旦引き渡すつもりだった」
「そう……でしたか」
それにキティは一旦、栗色の睫毛を伏せた。
「けれど、幾ら命令とはいえ、それだけに従うジョージでは、ないわよね……?」
「ああ。だから、その後に、私はこのように指示をするつもりだった」
そして、一旦の沈黙。やがてそこから温い息を吐いて、アーサーは神妙にして静かに、語った。
「そこで、機を見計らって……、ムンダネウムの指導者である、ゲオルク・ライヒートと、用心棒であるホセ・シモン・アーンズを――、斃せ、と」
キティは息を呑んだ。
記者と政治家。普段暴力には依らない二人に、突如過った重々しい言葉。
それに船内と同じくキティの心も大きく揺れる。一方で、アーサーも自ら明かした己の心境に、いつしか写真に触れる手首を片方の手で掴んでいた。
「……それで、ムンダネウムの壊滅を計ろうとしていたのです、ね」
キティは肘を付けた左手で拳を作り平静を装うが、拳は動揺に震えていた。
「そうだ。それによって、ムンダネウムの中でも最も驚異である、トゥルーデの魔女に大きいショックを与えたかった」
それには、キティもさもあらんと頷く。殺す側も、殺される側も、魔女にとっては同一である愛おしい男である。それがより、彼女の混乱を助長させるであろうと、想像に固くない。
「そこで再び私が彼女の元に寄って、私が――、彼女にとってのゲオルクになりたかった」
アーサーは白い睫毛を伏せて、小さく答えた。
「それによるムンダネウムとアメリカの統合、それが私の……計画の全貌だ」
冷徹な灰色の瞳を見ながら震える翡翠の眼光は、悍ましい光景を思い浮かべていた。
「なんと……なんということなの……」
愛する人を、愛する世界を守るために人生を捧げた彼女が全てを失ったとき、壁さえ見えぬ真っ白な部屋の中、彼女が白いワンピースをふわりと浮かし、崩れ落ちていく様を。
悲しみさえをも通り越した虚無の眼差しで、床を見つめる事しか出来ぬ哀れな白い魔女は、肩まで垂らした赤毛混じりの髪の中に、悲しみに打ちひしがれた顔を隠し、白い鼻筋から繰り返し繰り返し涙を流す。そんな眼下の彼女を自らの影で覆って現れるそれは、深遠の黒を身に纏う死神――、
「絶望に身も心も粉々になった彼女に、貴方は何も知らないフリをして、手を差し伸べるつもりだったのですね。ジョージもオーディンも居なくなったまま、彼女が頼る術はもう、自分でしかない事を知らしめるために、彼女の正義と愛しさすべてを利用して、全部自分の物にするために……!。魔女にとっての救世主は神ではなく、死神だってことを、彼女自身で選ばせるために……!」
「その通りだ」
否定の念も何もない、生気のない灰色の瞳。それを見て初めて、キティ怒りに眦をあげる。
「……とんだ、死神様だわ」
それから、キティは思わず悪態を吐いて忌々しく目を逸らした。それにアーサーは顔を伏せて、左腕を机の下にある膝の上につける。
「そうだろうか。ただ無暗に、ムンダネウムに攻撃をしかけて双方に虚しい犠牲者が出るよりも、こちらの方が最も犠牲の少ない、効率的な作戦だとは思わないかね」
「確かに、此ほど簡潔で割にあった作戦はないかもしれません。ですが、そのために、長年付き添った同胞を、そんなに躊躇もなく切り捨てられるものなのですか」
そこで、アーサーは眉を顰める。
「何を言うか。私は、同胞として、彼の臨む通りに、最大の鉄火場を用意しようとするだけだ」
「そうやって、本人に選ばせるフリして自分で操ろうとする魂胆、見え見えですよ」
それは、キティが『猫事件』で経験した、アーサーの与り知らぬ経験がそう諭した。キティは一度、ムンダネウムの用心棒、ホセと目合ったことがある。化け物じみたあの刺客は、ヨーナスと高珊の同時撃ちにさえ、善戦した男であった。
キティは、彼がホセであることは知らないし、その生死も知らないが、その一例を知るムンダネウムの用心棒たちと、ジョージを戦わせるなど、幾ら『NYPDの猟犬』と言われた彼でも、果たして勝てるのか、と、いう疑問が既にあったのだ。それっでも、やりとりの内に思考を巡らし、そこでまた、彼の思惑を知るに至る。
「そう……ジョージがその作戦に失敗して殺されようが、相打ちになろうが、貴方にとっては、どっちでも良かったんですね。彼女を絶望に陥れればもう、作戦は完成されたと言える。貴方の作戦の為に必要な最小限の犠牲というのは、オーディンとそのホセのことじゃない。ジョージのことなのでしょ……!」
すると、アーサーは答えない。ただじっと、膝の上に両手を置いたままキティを見るだけだ。それにキティはぎっと歯を食いしばった。
全く怖ろしい。そう思っていた。
生命を奪い、救われぬ魂を救う死の管理者。最大の邪神かつ最高神たるに相応しい高貴さと忌みさを持つ「死神」の考えることは、なんと清廉でまた残酷なのだろう、と。
「でも、ジョージだったら」
そして同時に、キティはふとして呟いた言葉に、自ら身震いした。身体が昼風に冷えていく。あの粗暴で人の好意を散々勝手に足蹴にしてきたジョージに対し、正直その運命に同情する者など僅かなのではないか、とも、思ったのだ。
ヨーナスや高珊のように悲しむ者がいたとしても所詮、ジョージが生け贄として、そして同時に、『クローン』としての後始末にされたことを毛ほどにも思わず、やがて何も知らぬまま、彼らは彼らなりの人生を再び謳歌するだろう。
そのためだったのだ。と、キティは悟る。好戦的な性格も、粗暴な性格を野放しにしたのも、周りからの好感を許さず、その上でジョージ自らがその道を選ばせるがためのアーサーの作戦であったのだ。
無理矢理脅して、「理不尽」と喚め立たせるより、じっくりと塞ぎ固めた道を目の前に立たせ、甘ったるい言葉でその気にさせて、自らが選ばせた風にすれば、最も都合が良いこともアーサーもとうに知っているのである。
「本当に、本当に怖ろしい死神……!」
目の前にいる血色の無い白の中に、人間ならざるどす黒い思惑が秘められていたのかと思うと、その鋭い眼差しを見ながら、思わず背筋が震えてしまった。
「質問したいことは以上か?」
それでも容赦なく、アーサーはその嫌悪をも情感のない声で払う。
「これ以上ないのなら、写真は渡してもらうぞ」
と、キティの情動も全く気にしないで、ことを進めようとする。感情に囚われていたキティが、あっと写真のある方に目を向けると、それは既に白い手に引き寄せられていった。慌てて目で追うも、顔をあげた先には、写真を片手に持ち掲げるアーサーの姿が映った。
「さあ、これで取材は終了だな」
相変わらず抑揚のない声で答える彼に、キティはそこで事の重大さにぞっと汗を噴き出した。
知りうる限り、その薄い唇が語った中で、矛盾点は存在しない。密かに隠し持っていた証拠もさえそれを裏付けない。つまり、このままでは嘘を指摘出来ずに、取引を破断にする事が出来ないのだ。
「くっそ、なら、やっぱり無理矢理でも奪え返すかっ!」
と、卑怯な挑みを覚悟し、キティはテーブルに手をついて立ち上がる。が、そのテーブルが大きな軋みの音を立てて、キティの押す手で傾いた。それにはっとして見下ろす。
そんな馬鹿な、さっきまでそんなことは――、その刹那、キティは思い出す。アーサーがさっきまで、片方の腕をテーブルの下に置いていたことを。そして、かつてのアヴァ・ライスとの攻防で仕掛けた罠も、テーブルの下で仕組んでいたことを。睨み上げる先には変わらず、腕を下したままのアーサーがじっとキティを見ている。
「こいつ……!下に手を置いている内に、テーブルに挿し込まれていたネジを取ったな……!」
それを知ったキティが怒りに目尻を釣り上げても、彼は至って飄々としている。しかし、押さえつけるテーブルの固さから、彼がその下で力強く何かを握っている感触が伝わる。くっとキティは両手をついて身を乗り出すと、アーサーもそれに対して澱みなく身体を斜めにして顎を引いた。
その瞳に宿る一瞬の殺意。それは間違いなく、応戦の態勢だ。もし、このままキティが約束を反故にして写真を奪い返そうとすれば、彼もその報いを受けさせようと、テーブルのネジで刺すつもりなのである。おそらく、その彼を射殺すような今の翡翠の目を。
火花が散り、互いの目配せがしばしの攻防を伴った。二人共、戦闘は不得意であるが、キティの方は運動神経については自信はある。しかし、相手は妙齢といえども、背も体重も有利な男。果たしてそれでカバー出来るかは分からない。しかも向こうは、得物を持っているのだ。
これがもし、フロランスが側にいれば何も躊躇はない筈だった。それこそが、アーサーの作戦の一つであったことに気付く余裕までは彼女にはなかった。
やがて、しばしの沈黙と共に奔る睨み合いの果て、アーサーの首筋から一つの汗が滴ると、キティは鼻筋を歪ませて目を瞑り、徐に舌打ちをした。そして、テーブルから手を離すと、何も語らず荒々しく腕を振りながら、その部屋を出て行った。
***
「でっ!? 結局写真奪われちゃったの!? それじゃあ武士君助けられないじゃないの!」
天井に吊るされたランタンが振動に揺れる別室で、フロランスが拳を振り下ろしながら、ベットに仰向けに寝転ぶキティに叫んだ。
「武士君を引き渡す条件として、その写真が必要だったんだよね! このままじゃ、武士君殺されちゃうよ!?」
疲れて横たわる身体に容赦なく、女の金切声が降りかかる。それに忌々しく眉を顰めながらキティはごろりと背中を向けると、フロランスは無理矢理その肩を掴み、丸太のようにキティの身体を転がして寝起きの顔ごとく憮然としているキティと顔を突き合せる。キティはそれにますます眉顰めながらもやがて答えた。
「いいえ、アーサーに取られるにせよ、取られないにせよ、私達が今、写真をブリューメル一家に渡せる可能性は、とても低いのよ」
「は!? どういうことなのよそれ!」
すると、キティは片方の腕を手枕して呟く。その、アーサーには秘密にしていた、悍ましい顛末を。
「じゃあ、順を追って説明するけど、二日前、あんの忌々しい、トゥルーデの魔女から連絡を受けたじゃない。貴女の携帯宛てに」
「え、ああ、うん」
「で、その時彼女は何て言った? 思い出してみなさいな」
それは、三日も気絶したままだったアーサーの看病をしていた矢先のことであった。見知らぬ番号に二人して飛び上がりながら、一緒に画面とその裏に耳をべたりと付けて聞いたことを、フロランスは目を回しながら再び紡ぎだす。
「えーっと、ここを狙う……? 奴らがいる、から? しばらくそのままポーランドの目的地まで、アルチュールを乗せていけって……? だからくれぐれも突き落とすなと……その間、この船は私が守ってあげるから……だったよね? あとは……」
「ストップ、今はそこまででいいわ。そう、彼女はいつの間にアーサー殿の味方になっていた、つまり、アーサー殿は、魔女にとっては有益な存在であることが分かったのよ。おそらく、アーサー殿はアメリカ側の中でも、ムンダネウムと協働路線でいこうとしている立場だったのでしょうね。ま、それは本人の口から裏付けは取れたけど」
全く、それを隠し通すつもりだと思っていたのに、ちゃんと本当のことを言いのけるんだから、流石だわ――、そう悪態つきながら、キティは息を吐いた。
「で、それが、どうしてブリューメル一家と会えないってことになるのかな?」
「つまり、今、魔女は今、協働立場を取るアーサー殿にとって、一番良い結果をもたらそうとするわけでしょ? それはつまり、アーサー殿の味方――、多分、ウェッブやヨーナスさんらがいる部隊を、一番先に目的地に着かせようとしているってことは嫌でも分かるじゃない」
「え、じゃあ、それって」
「そ、その時点で私たちもお縄に付いてしまうってこと」
それに、キティはお手上げというポーズで両手をあげた。
「そこで結局、写真がアーサー殿の手中になるのは、あの魔女の電話を受け取った瞬間から、決まっていたことだったのよ」
「はあ!? じゃあ、さっきまでの駆け引きは何だったのよ!?」
「この船が彼女の庇護にあると彼が気付く前に――、お互いの必死な駆け引きと見せかけた、私の罠よ」
と、悠々と言いのけた姦計に、フロランスは空いた口が塞がらなくなっていた。
「つまり、言わなくても良かった機密事項を、どうせ後から手に入れられる筈の写真のために、死神さんはペラペラ喋ってしまったってわけ。はははっ」
そこで、キティが口端を歪めて嗤った。フロランスはそのキティの横顔を恐ろしいと思った。アーサーが目を覚ました時から、そんな段取りで巧妙な裏を仕掛けていたとは知らず、脇にいた自分でさえ全く気付けなかったことに感嘆の域にまで至る。
が、しかし、それでも肝心な事がやはり何も解決していない。
「で!? 結局、武士君を助けられないことには変わりないわよね!?」
「ああ! もう!ちょっと大きな声出さないってば!」
それにキティはうっとおしく耳を塞いだ。
「うるさいわねぇ……分かってるつうの。だから、私は予め、こいつらに頼んでおいたわ」
すると、そこから勢いよく取り出したのは、細長い黒のフォルム。武士の持っているのと通じるトランシーバーである。つまり――、
「私はこの事情をブリュメール一家に伝えておいた。そこで何とか、魔女の思惑から外してもらえるように言っといたの、あんたちがアメリカより早く来ないと、肝心の写真は手に入れられないってね」
それに、フロランスは片眉をあげた。
「げえっ、よりによって脅す相手に要求したのお?」
「そうよ。でも、彼女たちだったら、任せられる根拠は、それなりにある」
と、キティはぶつくさ文句を言いつつも、それをしぶしぶ了承した――、東欧訛の女の声を思い出しながら言った。
「私もかつては、NYのカストリ記者をしていたから、その経験からして分かるの。マフィアの情報網とその収集力、身のこなしにかけては随一と言ってもいい。実際、ジョージの機密事項を唯一すり抜けて手に入れたのも、元マフィアのジュリアであったしね」
そうして、虚ろな翡翠の瞳に赤毛の面影を翳し、キティは語る。
「今回も、あいつらはよりによって、敵の本陣の侵入に成功していた。そこから相当の実力があってもいいと見える。もし、ブリュメール一家が先に目的地で私たちを迎えに来てくれれば、頭を垂れるのは、死神の方になるのよ」
と、最後に、キティは顔に影を差し。にやりと口角を歪めて吊り上げる。それにフロランスは戸惑いながら、頭を左右に振った。
「そ、そんなにうまくいくものかなあ?」
「確かに、色々と不安はあるわ。他に最善があるなら、是非それにのりたいけれど?」
そう言って、ちらり、キティはフロランスを見やったが、彼女はすぐに金髪をぶんと振って、
「ぜんぜん、おもいつかない!」
と、正直に言った。
「そ。じゃあ、しょうがないわね。私たちの命運はブリュメール一家に任せることにしましょ」
そうして二人が無言の目配せで方針を決めると、その途端、フロランスは菫色の瞳を大きく見開かせば、ベットのスプリングの勢いで跳ねるように飛び上がった。それに揺らされながら、キティはぎょっと身を起こす。
「な、なに?」
「じゃあさ! この船にいる間、もう私たちがアルチュールと戦う必要はなくなったってことになるわよね!」
「え、ええ、一応は、だけど――、」
「やったー! じゃ、これから心置きなくアルチュールと話せるわね! 気まずい船旅にはならなくて良かったわ! やったー!」
と、高い身丈をぴょんぴょん軽々と飛びながら、大仰に腕を振り上げるフロランスに、キティが右肩をがくんと落として拍子抜けした。
「え、この話をして、まず思うことがそれ?」
呆れるが、動きは子どもっぽくも爛漫な笑顔が美しいその様子に、キティは歪めていた口端が緩んでいく可笑しさに目を細めた。
「さーって、これからのランチにも精が出るわ! そろそろ煮上がってくる頃だから、見に行かなくっちゃ!」
と、豊かな胸を揺らして白い裾を腕まくりをしたフロランスは、颯爽と部屋を出ていこうとする。やがて、その背中へと大きな怒声がふりかかった。
「火をつけたまま! キッチンを! 出るな!」
2、追い駆ける
荒野に吹きすさむ風によって、黒く堅い土が踏み立つ者の脚を凍り付かせる。そして、泡立ったような造詣を為して岩ばかりが転がり、ここが地獄の釜の上だという風情を醸し出していた。
そして、その荒れ地に相応しい、隆々とした勇ましい黒人の男が並んで二人、互いに牽制の空気を張り付かせて曇天の空を見上げている。
「ちっ、全然空が見えやしねぇ」
その内の一人は分厚い雲を睨んでいた。その向こうに親友はいるのに――と、白い眼孔をぐるりと回し、脂肪が重なった黒い首をのばすも、愛しき親友の今を知るとが出来ぬ悔しさに、白い歯を食いしばっていた。
「そんなに親友が心配なら、教えってやってやらないこともないぞ? 遥か頭上のK―7がこれからどこへ向かおうとしているかを」
その歯ぎしりに、隣のもう一人が声をかけて答える。すると、先の男は黒の中に鈍く光る、白い眼孔から火花をあげて彼を睨んだ。その火花はやがて、風に乗って舞う。そうして一人は厚い唇をひしゃげて嫌悪を示し、もう一人は薄い口角をあげ、侮蔑でもってお互いを見つめ合った。
「さっきから俺にちこまかちこまかついてきやがって……うぜぇんだよ。なんだ? 他の奴らじゃ俺のお目付が叶わねえから、お前が直々ついてやっててるクチか? 残念だな、俺の目付役はお前でも務まらねえよ」
と、彼が開いた拳を握り締めると、同時に血管が浮き出る手首が盛り上がり、それに沿って筋肉の束が脈打って肩まで固まる。鈍器と化したその腕に殴られば、一溜まりもないことを、隣のムラートの男、マルコムも察して目を細めるが、それは恐怖の色は微塵も無く、好奇の眼差しといったものでますます睨みつける男――、ウェッブの葉巻が噛み潰されていった。
それにマルコムは煽るように、ウェッブ程の太さは無いが、自身も逞しく鍛え上げられた身体の線を、強調する様に肩を盛り上げて、再び薄い口角をあげる。
「なぁに、別にそんなつもりはない。ただ君と話をしたかっただけだ」
「はっ、嘘をつく時に決まってそう言うよなお前。 そもそもこうやって俺についているのだって、降りてきた瞬間アーサーを、あの飛行機ごと心中させる算段を進めるためだろうが……。 たっく同朋でも敵よりも憎たらしい奴だぜ。妨害するんだったら何でも、今からここで、決着をつけてやっても良いんだぞ?」
そうして、ウェッブは正面に顔を向けてマルコムを見上げ、目一杯に方眉をあげる。するとマルコムは、一旦後退り、両手を掲げて笑うではないか。その「戦う気は無い」という意外な態度と、殺意を見せる彼の前に躊躇なく、両手をあげている肝っ玉に、底冷えの感覚が背筋を通ってウェッブは目を見開いた。
「……何様のつもりだ?」
「だから、さっきからそのつもりはない。と、言ったはずだが? だから私はこれからお前に教えようって言っているではないか。死神議員がどこに行こうかというのを」
それに、ますますウェッブは大きく目を見開く。対してマルコムは、再び曇天を見上げて言う。その横顔は、凹凸のはっきりした厳めしくも、また美しい出で立ちであった。
「あの誘拐犯……灰かむりの猫の思惑を考えれば概ね想像が付く。あいつには女装をして、カルカッソンヌに忍び込んだ日本人の相棒を……ジョージの母親が束ねるブリューメル一家に盗られている。それを考えれば交渉の場として、この二組が出会う場所を予想すれば……」
その言葉に、ウェッブが思わず唸った。
「……っ、ポーランド、か!」
「あぁ。そうよ」
強い風が吹いた。
「おそらく、鬱蒼と茂った森の中に、その身を隠して落ち合う算段に違いあるまい。そこが狙いどころよ」
「そこが……アーサーが居るところなんだな……!」
「待ちたまえ、同朋。今の説明の中で、お前が思うことはたったそれだけか?」
さっと目を細め、咎めの一撃を加えるマルコムに、ウェッブは身構える。
「あんだあ……?」
「今の話からすれば、そこにいるのはアーサー議員だけではない。あのブリューメル一家が居るんだぞ。私たちが手に入れられなかった母親を、ジョージがクローンである『もう片割れ』の証拠品を今度こそ、それこそ今まで以上に、大規模な軍備を整えて確保する絶好のチャンスだというわけだ。それに写真を持っているメス猫も都合良くそこにいる。
ムンダネウムを倒すために必要な駒が全部、ポーランドに行き着くというのだよ。 どうだ、何とも言えぬ神の思し召しと思わないかね」
すると、マルコムは両腕を大仰に広げ、迫り来る風をすべて受け止める勢いで掲げた。それにウェッブがしまったと、と、顔をあげる。
「貴様……!」
『猫』と『ポーランドの少女』と『死神』。
アーサーが築き上げた駒の布石が一斉に転がって、黄土色に漱汚れた羊皮紙に描かれる世界の端っこに、互いの頭を突きあわせて止まる。その羊皮紙にある黒い森の中で、青インクの「ポーランド」という文字に身震いがする。
「さて、我々がここで取るべき行動は、二つだ」
幻想を前に汗かくウェッブへ、二本の黒い指が突き立てられる。そのすり減って指紋も見えない堅くなった指は本物だ――、本物の軍人の指だった。
「一つ、飛行機から降りてきたアーサー議員をどうにかして、猫を確保すること。二つ、これを機会にブリューメル一家のアジトを見つけ出し、ポーランドの少女以外は殲滅して奴らに殺されたガットの敵をとること。この二つだ。そして私はこの作戦にお前を入れるのを特別に許可しよう。さて、貴様はどっちに就くことを選ぶか?」
「馬っ鹿やろうが! そんなもん、アーサーの方に決まってるだろうが!」
「そうか。ならご自由にどうぞ」
「は!?」
ガットという言葉に動揺しつつ、アーサーの親友としての自分を選び、坂を降りようと足を踏み出したウェッブに、マルコムはあっさりと享受したのだ。
「なんだ……? 何を考えてやがる…? 俺がアーサーの方へ行けばアーサーを殺すことなどまず出来なくなるというのに……」
振り向きつつ、ウェッブが懸念の目で見上げれば、相変わらずマルコムは高見からにやりと笑っている。まるでその動揺を見透かした様な眼差しに、ウェッブに怒りを発し、真っ直ぐ指に力を込め、彼に突き立てる。
「もうどうでもいいや! お前が何を考え、どんな思惑をしようが、俺がそれをすべてこの拳でどうにかすれば良いだけのこと! 自分の利益しか考えねえゲス野郎に俺が負けるわけがねぇ! なんたって俺は正義の味方だからな! なめんなぁっ!?」
突き立てた指を折り曲げ、そこから固めた拳で激しく風を弾かせば、僅かにマルコムの睫が揺らめいた。そして再び、逞しい筋肉によって束ねられた、手足の長いを堂々と風に晒しながら、やがて彼は顔を伏せ、深い声で言った。
「一緒に、するな」
すると、そこから小さな頭をぐらりと傾かせて、ウェッブへ微かに上瞼を向けて睨む。素早い目配せと共に、ウェッブに放った言葉はずしりと重たく響いた。そしてその目は冷たく、暗い。
「……こんなこと、誰かに呟くつもりは無かったが、お前だからこそ今こそ言おう。 そんなに正義を愛するお前なら、きっと分かってくれると信じて、な」
それにウェッブは大仰にして口を見開き驚いた。それは確かに、今まで策士として隙を見せなかったマルコムが言ったものとは明らかに違う。ただ、その言葉を受け止めるのに必死で固まるウェッブを前に、同意をしたと見た黒い瞳は揺らめき、マルコムは続けて言葉を紡ぐ。
「あのな」
そうして、低く、風に乗った声がウェッブの身を揺らす。
「無意味な妄想に浸れるんじゃない、ウェッブ。 この世界には、お前の言うような、世界を一瞬に危機に陥れる者も居なければ、絶対悪なんては存在しないん。何故ならそんなもんがいたら、とうに私がぶっ潰しているからな」
それにウェッブは、汗が風に冷える首筋の心地悪さに眉を顰めながら、その鋭い光放つ白眼へと、口端上げて牽制する。
「……はっ、それは俺とて同じだが、黙ってきいてりゃ、まっさか本当に弱音を吐くとはな、ブラックパンサー。そういう理屈で自分を正当化したつもりか? みっともねぇぜ」
「その理屈もまた、妄想というのだよ、大熊よ。親友という名の偏見にお前はまだ、自分の目を曇らせているのか?」
「は、アーサーのことか? お前なんかと一緒に語るな……」
と、言いかけた所で、その白銀の一睨みに、ウェッブは言いかけた声を止めてしまった。マルコムを咎める、ウェッブの誉とする「理性」が、皮肉にもアーサーの理想をも僅かながら懸念してしまったのである。ウェッブは自ら開く目が、妙にゆっくりなのを不思議に思いながら、同じく不可解だったアーサーの灰の目を思い出す。ガラス張りの線が浮かぶビイドロの瞳の中にある種の――、
「あ……」
「アーサー議員の瞳の中に、果たしてお前は映っていたか?」
今度こそ、率直なるウェッブの動揺を察したマルコムが真顔のまま呟いた。
「お前が親友を思えども、親友がお前を思っているとは限らんぞ。そうだとしたら、この中で今、一番惨めなのはお前だ。 それを今一度親友に会って確かめてこい。今度こそ、そのセイギノミカタを名乗る目で、見定めてこい」
「お前に言われる筋合いはねえ……! 何度言おうが同じだ! 俺は!」
と、叫びかけた所で、突然マルコムは先の覇気もあっさり無かったことにして、颯爽と背を向き歩き出してしまったのだ。ウェッブの決意の言葉が、あっけらかんとした声と共に、空回りして宙に舞う。
「そうだな、後はお前が決めることだ」
マルコムは、啖呵を噛み倦ねいているウェッブを横目に、そっけなく言い返した。
「私の奸計は本当にここまでだ。ここから先は、君の判断に託すことにする、自由に決めたまえ。……良い知らせを待っているぞ。 少なくとも私は、君に悪いようには絶対にしない。あの死神と違ってな」
最後の楔といったように、ぼそりと呟いたマルコムは、風に黒い裾を靡かせながら、谷に向かって立ち去っていった。それにウェッブは、この荒地に放り出された感覚にぞうっと身を凍らせながらも、同時に、自らの湧き上がる熱に衝動を任せようと、目を回して虚空を描く。
「アーサー…!」
はやく会いてぇ。
曇天の空からウェッブは心底そう願った。早く会ってお前の口から早く、この俺を、この忌まわしい地獄の喧騒から解き放してほしい、と。このまま、濁流に呑まれてしまいそうなのを、忘れてさせてしまうほどに。
「待ってろ、アーサー……! 今は俺が助けに行く……!」
ウェッブは振り払うように、手持ち無沙汰だったМ10を振り上げた。鉄の冷たい感触が、胸の高鳴りを留めさせつつも、命綱のように握りしめる力は漲り、彼もまた、その勢いのまま歩みだす。
アーサーを救いに行くために、そして、自分が救われるために。
「はっ、……どうせ、悪役は汚れ役ってか」
そんなウェッブと対するように、マルコムは前を向いたまま、最後の弱音を吐き捨てた。波打った地平線を見据える瞳は色を失っていた。いや、闇というものだった。マルコムもまたそこから歩を進めるのである。マフィアの残等を皆殺しにする、その目的のために。
3、ジョージがテイラーのガラス窓をぶち壊して入っていた時に、キティは何をしていたのかというと
群青色に染まる空。木立のように真っ黒に広がる雲を横切るK-7は、今日も悠々と、空に散らばる白銀の星々と同じ色の翼を広げ、深海を泳ぐ。
夜なのに、その飛行機が銀色だと分かるのは、翼や胴体についた灯りがK‐7を縁取るから。そのぼんやりと浮かんでは揺れる灯りは暖かく、それは秋風の冷たさと合い重なって――、ジーショックの時計を右手で握りしめながら、それを見上げるアーサーの心の隅に、一点の酸味を過らせるのであった。
すると、彼のいる部屋、否、閉じ込められている部屋の丸窓から、すっと陰が出てきた。鉄の扉を軽く叩く音に、アーサーは頭をもたげて「いいぞ」と言った途端、扉は遠慮なく開かれた。
「おっまったせえ! ごめんね遅くなって! ご飯の時間だよお!」
一気に夜風の寒気が吹き込んでいく中、長い金髪と湯気を揺らしながら円満の笑みで現れる、天使、フロランス。
両手に底の深いホワイトプレートを掴んだまま、太ももの付け根までさらけ出した白のショートパンツを靡かせ、彼女は後ろ蹴りで扉を閉めた。そんな乱雑な態度に、ますますアーサーの隈は深くなるのであるが、仕方なく無言のまま腰をずらしては彼女のための席を空き、フロランスと向かい合った。その膝の上に置かれた手の親指には黒い輪っかが嵌められている。しかしその後、心地良い木音と共に置かれたホワイトプレートから漂う湯気の香りを吸い込むと、死人のように色の白いアーサーの顔に少し色が付いた。
「これは……?」
白い器の底がうっすらと見える程に程よく透き通った狐色のスープの中、焦げ目が香ばしいウィンナーが二本、蒸かされた大きなジャガイモの中に埋もれている。白いプレートと映える、鮮やかないちょう切りの人参と煮込まれてしなびれたセロリが華を添え、透明に重なるコタマネギが丸ごと、そのスープの色に染まり浮かんでいる。
そして、ちらほらと蒔かれた黒コショウが、鶏ガラの香りと程よく絡まっているのに一瞬、アーサーはその料理が何であるかを忘れてしまう程に見入ってしまう。
「いや……これは……ポトフか……?」
「ヤップ(そうよ)! ランチの時のカスルみたいな油ものは駄目だって言ってたから、同じ材料で作れるのにしたの! 我がフランスの自慢の田舎料理でぇす! とくとご賞味あれい!」
と、自慢気に指してフロランスはアーサーの隣に勢い良く座った。そして取り出したスプーンで空腹の赴くまますくって頬張り、目を細めて口角を勢い良くあげる。まだ何も手をつけていないアーサーを前に。
「ん~! 美味しい! 超美味しい! ほらアルチュールも食べてみなよ! はい!」
と、スプーンをひとさじ(さっき使ったもの)を差し出せば、アーサーは手の平を掲げて遠慮しつつ、手錠が食い込む手で、もう一つ用意されていた器を掴んで、やがて音も立てずに徐に啜った。すると、旨味が芯からじんわりと滲み出す感触に目を瞬く。
「美味しい……」
「でしょおっ!?」
小さな呟きを聞き逃さず、フロランスは叫んでアーサーの側に寄る。そこからようやく差し出されたもう一つのさじを受け取って、アーサーも今度は具をすくって頬張っていく。塩味と黒コショウが鶏ガラの味を引き出し、冷え切って疲労した体にはなんと最適な食事だろうと、汁が溢れる玉ねぎの旨味に酔いしれる。
「特に……玉ねぎが…美味しい…」
「よくぞ気づきましたあ! ぺコロスっていうの! 本当は牛肉買った方が安かったんだけど、キティがどうしてもこっちが良いって!」
「ああ、そうだな……こっちの方が良いな……個人的な好みだが、私は肉食べれないから……」
「へぇー! 肉は食べれないのに豚の腸詰めは大丈夫なんだぁー! ふっしぎぃー!」
フロランスは、時として鋭いことも言う。
「人の好みとは得てしてそういうものだろ……君もだべっていないでさっさと手につけたらどうだ。……冷えるぞ」
「あ!」
と、嫌そうに見るアーサーに、フロランスも湯気の中で、タンクトップに詰まった乳房を揺らして慌ててポトフを頬張った。
「うぐふっやっぱうまっはっあはっは! おかわりもっも、あるからっは欲しかったら、言ってね!」
「いいから、食べている時くらいは落ち着いていなさい」
父親のように諭されて、フロランスはえへへと、笑った。そうしてさじの叩く音が響く部屋の中、フロランスの騒がしい声をいちいち咎めるアーサーではあったが、器を掴む手で隠す顔は、心ならずも安堵で満たされていた。
と、同時に不思議にも思っていた。フランス料理はついこの間まで、これよりも豪勢で一流のシェフが腕をふるう、鮮やかな料理を堪能したはずだった。また、それなりに地位を持った議員として毎日、貴族として舌の肥えた祖父の意向もあって、世間で言われる美味しいものを食べ飲んできたものだと言うのに――、それとは違う、直に染み入る愛しさに戸惑いの瞬きをした。
「何故だろう」
自ら問いかけた言葉に、聡明なその男は自ら解きほぐす。それは、誘拐された身として、こうして寝転がる言いわけが出来ること、そして、自分の心情知らぬ、知ろうともしない爛漫とした天使との奇妙なディナーは、奸計と謀略の渦に身を投じようと覚悟した死神に、突如として与えられた「世界の隙間」だと気付いたからだった。
誰も知らぬ、誰にも咎められぬこの空間こそが、アーサーが何より求めたものだったのかもしれない。そして同時に思い出す、地の上で生きて食べたきた今までのことを。腹の中を探り合うためによってくる男たちのスーツの瞬き、香水をふりかけて来る女性たちの色鮮やかな極彩色のドレスと、その細腕にはめたれた金や銀の指輪。その中で夜景に浮かぶ料理の数々がなんと、まずかったことか。
それを無表情のまま無理矢理ほおばっていた、自分の縮んだ胃の痛みが今、重なった気がした。そして、何よりも色鮮やかに映るのは、カルカッソンヌの出来事だ。各国が奮発をして振舞った黴臭い古城での、白い布に置かれた料理の数々が、奸計と憎しみの濁流でぶつかり合い、噴煙によって無残に床に転がり落ちていくさまであった。
阿鼻叫喚に逃げ惑う高貴な人々の、そのヒールや靴底に何度も何度も踏み潰されて転がされて、その味付けも彩られた形もすべてが茶色一色のようなものとなり、汁を滲ませていたことも。また、その煙の隙間でアーサーは見た。鼻につんとつく、誰かが流した鉄の臭いも――、
「アルチュール?」
薄暗い部屋の中、ぼんやりと照らされた顔がよりその白さを醸し出す。首を傾けて覗き込むフロランスの声に、やがてアーサーは思い出したかのように、吐き出しそうになった胃の中を、ポトフで無理矢理押し込んだのだあった。
***
「ん、何か騒がしいわね」
調理室。鍋に煮込んだポトフを鉄のお玉でかきまぜていたキティは、甲高い声に後ろの壁を向いた。そこからやれやれと首をふってエプロンを結び直し、その部屋へ向かうと、案の定、フロランスがケタケタと笑い転げて唖然とするアーサーの横で素足を曝け出している。
「あら、随分と仲良くなっているじゃない」
と、扉に寄りかかっては、お玉を片手に掲げて笑うキティ。それにアーサーは鉄壁の無表情で顔をあげる。
「いや……どうでもいいことに、この子が勝手に盛り上がっているだけだ……」
「彼女と付き合うってのは、得てしてそういうもんですわよ」
と、言い切って腕を組み、息を吐いて得意気に笑うその目端、丸窓がくっきりと陰影に映し出された自身の顔を見た時、その鼻の下から垂れている二つの線に「ん」とキティは眉をあげた。
「え、ちょ、なにこれ」
扉に両手をついて丸窓を覗き込めば、のびた鼻の下、そこに「華々しく」太い鼻血が固まっているではないか。
「どうしてこれが、いつ、」
と、思った時、唯一の心当たりにキティは甲高い声をあげた。
「ちょっとやだコレエエエエ! 叩かれたときの鼻血まだ残ってたのお!」
「あらやだキティ、気づかなかったの?」
「ずっと流しっぱなしだったが……てっきりそれを誇らしげにわざと残していたのかと……」
「んなわけねーだろ!」
それにキティは両腕を振り下げて、恥ずかしさと怒りに顔を不均等に歪めて叫んだ。
「え、じゃあ何!? 今までのやりとりも全部こんな馬鹿みたいに鼻血二本垂らしながらやってたってわけ!? うわ、何それ! とんだ恥さらし!」
と、その光景を思い浮かべながら目をひん剥いたキティは、無様に猫っ毛の栗色を更にかき乱して狼狽する。それに更にフロランスは乳房を揺らしながら再び笑い転げて、アーサーの細い太腿を叩くのであった。そして女同士の五月蝿い叫びと笑いの狭間で、一人の男は何度目か分からないため息をつく。しかし、それはまた、穏やかで愛おしい感覚が滲むことに対する、戸惑いの色をみせた。
3、魔女に守られた空
フランスからポーランドへ向かう道のりは、随分と長い時間を費やす事となった。
と、今日も今日とて、青嵐なる青空だけの風景を見ながらアーサーは思った。
遠目から響く女達の楽しそう(一人だけは)な声にうっすらと目を細め、壁に寄りかかれば、彼女達も自分と同じく、最早時間の間隔も分からないまま、ここに居るのであろうと悟る。
飛行機を「ふね」といった先人はうまいことを言ったものだと思っていた。この青の中に時折風に乗って上下に揺れる飛行機はまるで海の中に揺れる「船」そのものだ。アーサーは微かながら船と海という連想した自らの言葉に無表情ながらも心ときめかせた。
今までかつて言った事は無かったが、アーサーは物心ついた時から船――、特に帆船には目が無い質である。まだ「死神」に吸い取られる前の、笑顔溢れる幼き頃にNYの海岸で一度見た、白いハンモックの姿が強烈で忘れられず、何度も何度もキャンパスをそれで彩った。
勇気を出して初めて、亡き祖父に骨董品屋でおねだりしたものも帆船のボトルシップで、今でもそれは自宅の書斎に大事に飾ってある。その頃のまだ、本当に何も知らなかった時の、一つ一つに初々しく心湧かせた思い出の象徴こそが純情の証である白い帆船がなのだろうとアーサーは理解していた。
しかし、突然ガタリと唸ったエンジン音で目が覚める。そうだ、ここが動かすは波を為すモーターではない。風を切り裂くエンジンだ。ここは空で、自分が乗っているのは船ではなくかつて、それらを撃墜せんとして作られた「爆撃機」だと言うこと、に、改めて口開く。
「……情けないことを言ったものだな……」
揺れるままに体を任せて寝転がり陰鬱なる息を吐いた頃、いつの間にかドアの側に裾の長いワンピースと長い金髪を靡かせて微笑むフロランスがいた。
「いつの間に……」
女性の前で醜態はさらすまいともそりと起き上がると、
「アルチュール、お舟が見たい?」
と、彼女は言った。その唇の揺らめきにぞうと背筋が凍る。
「馬鹿な、呟いてなんか」
その言葉を遮る様にフロランスは微笑んで近付いていく。
「寝てる間に気付かなかったろうけどあのね、今この船結構下りてきてるの。気分良くなったらさちょっと眺めでも見てみない?さっきからずうーっと死んでるみたいに具合が悪そうなんだもの、ちょっとリフレッシュしないとね」
「余計なお世話だ。言っておくが、この顔は生まれつきだからな」
と、眉をしかめて答えてみるとフロランスは相変わらず美しい顔立ちで笑い向かい合うように椅子に座り脚を組み交わす。どことなく会話が成り立っていない所がまた不気味で、天使の前に死神は当然ながら恐ろしくも思っていた。そして更に懸念気に眉を顰めるのは――、
「それに何だ……そのアルチュールってのは……」
フロランスはぱっと紫色の瞳を瞬かせた。
「え? 何? 貴方、自分の名前を私に尋ねるっての?」
「あ、あぁ……フランス読みでの私の名なのか……」
そうして気付くも、その瞳は影が差さっている。
「そうなの!可愛い名前になるでしょぉー?!」
「違う。私はアルチュールじゃない、アーサーだ」
何時もの、そしてどこでも変わらぬその言葉を、やせ細った胸に手を当て、白ワイシャツの皺を作ってアーサーは言う。
「アルチュールじゃない、アーサーと呼びなさい」
深い波を漂わす灰色の瞳が、凜として張り詰めた空気を放つ。それにフロランスがぱちくりと目を瞬かせれば、やがて、納得したように勢い良く頷き顔を上げると、笑顔で両腕を振り上げて答えた。
「うん! 分かった! これからは気を付けるね、アルチュール!」
「……………」
駄目だこりゃ。その思いが背後に立つ栗色の女と重なった。
「あーらあーら……、なーんかまた随分と、よろしくやってるじゃないの二人とも」
「どこが」
と、口開くアーサーの唇を、頬から乳房で押さえつけてフロランスは抱きついた。
「うん! そうよ! アルチュールはもうあたしのパパみたいなもんだもん!」
声高らかに笑うフロランスに対し、アーサーは色々と諦めた顔で、なすがままに揺らされているだけであった。と、フロランスは抱きしめたアーサーの髪に口付けしながらキティに懇願する面もちで言う。
「ねぇー、だからさぁ何度も言ってるじゃん! こんなに大人しくしてるんだから良い加減、解放してあげようよ!」
と、ベッドの上に放り投げだされたアーサーの白い腕を掴んであげる。その力無くだらりと下がった親指にはくっきりと跡を残す黒のゴム紐が食い込んでいる。
「ほら! 痛そうじゃん! 可哀想じゃん! ね、もうそろそろ良いんじゃない! なんで駄目なの!?」
と、痛いはずだろうに、その腕をぶんぶんと振りながら言うフロランスに、キティも額に手を当てて、やれやれと首を振る。それをやがてぴたりと止めて、指の隙間から血の気のない翡翠の目で彼を見下ろした。しかし、奸計全て曝け出した後の――淡々とした灰色の瞳に、またキティはため息をつく。
すると、腰元から鋭い光沢を放つナイフを取り出しては、徐に歩き出したのだ。
「言っとくけど……、私はまだ信用したわけじゃないからね」
と、言いながら、かちゃり、と、音を立てるナイフの禍々しさに目を瞬かせるフロランスの手前、キティは膝を立て、目を伏せながらその切っ先を掲げる。そして、アーサーの親指に絡む、そのゴムとゴムの間に挟み入れ、自らの親指を躊躇なく支えにしながら――、ぶつり、と、野太い音を立ててゴムを切ったのだ。
それにアーサーも、微かに眉を上げ、自由になった右手をさすってその軽さを堪能する。そして素早く絡みついた手首のゴムを取り捨てて、感謝するでもなく憎むわけでもなく、布擦れる中でただ「そうか」と、だけ答えた。そんな中でただ一人、フロランスだけが盛り上がる。
「きゃっほーい! ありがとうキティ! ね、アルチュール! ほら行こ! 外に出よ!」
解放されたばかりの様子を気遣う知恵もなく、今度は彼の腕に谷間を押し付けてながら、フロランスは彼をベッドから引きずり出した。
「ちょっと、おい、待て、あぶないっ」
そうして、またなすがままされるアーサーは、覚束なく長い裾から出た裸足でバランスを取りながら、今日初めて部屋の外をつたつたと出る。すると、かけ声と共に弾き飛ばされて、今度は勢い良く、向かいの手すりに腹を押し付けられた。
「あぶないって、言っているだろう……っ!」
痛みに眉を顰め、振り向いたアーサーであったが、目端に見える景色に身を固めた。それは、白い雲の流線の隙間からのぞく空の蒼――、
「いや」
アーサーは振り返りその先へと身を乗り出す。その空からえていたのは、雫の瞬きだ、と。
開かれた灰色の瞳は、水平線の向こうの瞬きを捉える。その光がさざ波によって翳り、彼の真下にまで広がる様を見据える。
「私たちは……ポーランドに向かっているんじゃなかったのか……!」
急に挿し込んだ光で、視界はぼやけていたものの、さっきまで「空」だと思っていた青さにさっとアーサーは後ずさる。
「ええ、どうやらK‐7はあえて、海岸沿いを渡って遠回りしてるみたい。この日数でいっったら、はたまたここはオランダの海か、ベルギーの海か……」
すると脇からキティの声がする。それに「そうか……」と、息を整えながら手すりを掴んでは、アーサーは再び辺りを見渡した。
息が詰まった。丁昼下がりの、見知らぬ異国の晴れた海と空。それは、雲、空、そして海がそれぞれくっきりとその存在を縁っては、風を受ける彼の目の前を横切っていた。ひんやりと額を冷やす潮風が、微かな香りと共に漂い、部胸糞悪い胃の中をすべて吸い上げてくれたような心地さが漂う。
海と空の狭間の中、白い首を徐にあげて、アーサーは言った。
「美しい……」
それに背後の女二人は、向かい合った。すると、フロランスが突然金髪を波風に靡かせて走り出せば、アーサーより前へと身を乗り出して笑い、同時にワンピースもふわりと浮き上がらせては、力強く指し示す。
「見てっ!船よ!」
すると、フロランスの白い指が示す先には、正面からフックを靡かせ、真新しく白い造形を為したキャビンを突き抜ける巨大な帆船が、白い波面の跡を残して漂っていたのだ。
「うわあーっ! 今時動いている帆船なんて、珍しいわねえ!」
「ホント、何かイベントでもあったのかしら?」
アーサーと同じように手すりを掴み、声をあげる女たちの隣で、アーサーだけは、違う趣でそれを見下ろしていた。巨大、といっても、両側の雲の隙間から見下ろす帆船は、ボトルシップの中にすっぽりと収まるような大きさだった。しかしそれでも、その勇姿を見せつけるように、白いフックが向かい風に一杯に開き、K‐7も自らの翼を動かし、後ろ風に乗りながら向きを変える。そのまま横切る所をだったのを、まるでアーサーのためだけのように、今度は正面より向かい合って飛ぶのである。
その交わりは一瞬だった。しかし、その一瞬がアーサーの目に焼き付いた。揺らぐ機体にバランスを崩して身を乗り出したアーサーの目前に、斜めから滑らかに帆船の全貌が映った。
木の格子が織り成す流麗な船の形。人は見えなかった。いや、最初から見ようとしなかったのかもしれない。古来の人々が培った布と木と、均等に絡まった紐が形作る芸術が今、その実用性をも存分にふるって海を渡る。
それは、あっと声をあげる間だった。アーサーの目はぐるりと回り、その中を颯爽と船が通り過ぎる。水面の瞬きを反射して白い帆は遥か向こうの世界へ、雲の中を通っていくのだ。
「綺麗だわ」
首長くしてその船の行先を見送ったアーサーの後ろ、雨炉をつかみ登りながら天井に手を掲げて笑うフロランスの言葉が、アーサーの心を波々と満たした。その言葉だけで十分だった。その言葉がアーサーのすべてを語った。
やがて離れていくその四角い造形の片鱗に、じわりと切なさがこみ上げるが、それでもアーサーは、そして、フロランスは、キティは、反対方向へ進んでいく自分の飛行機から降りるわけにはいかない。
胸に迫る現実を噛み締めて、アーサーは手すりを両腕で握りしめる。やがて雲の切れ間に消えていく帆船を見つめながら、やがてそっと目を閉じた。
「……さよなら」
女たちがその声に「何を」と、問いかけるも、その時にはアーサーは既に背を向けて、今度は自分達の乗る飛行機が進む先へと――、その顎から鼻筋にかけての尖った線を、真っ直ぐ向けていた。
***
「綺麗ね」
空の旅を続けてから数日。口癖になっていった言葉を、フロランスは飽きることなく今日も言い、手すりに肘をついて笑う。
その細める紫の瞳は、夕焼けに彩られた空と、黒い影を波面につける細長い雲を見据え、それを背後手すりに右手首をつけ、星を眺めるアーサーを見ていた。
秋の夕方。少し冷えてきた体を丈の短い黒のカーディガン(武士の私物)で羽織って、秋の空で靡かせる。群青と紫に染めあがっていく、秋の橙色の空はその細長い体と、鋭い鼻先を縁取る。
「死神なのに?」
と、問いかけるキティに、フロランスはアーサーは見つめたまま、顎に手をつけて答えない。その天使と言われた美しい横顔と共に、キティの目に夕焼けに照り返る金髪の波を見せた。
「もーっ、そうやってみんな死神、死神っていうけどさー、私アルチュールって結構格好良い方だと思うんだけど? なんかさー、ジョルジュっぽいところ、ない?」
「あらあら、さすがは天使様のお目金ですこと。だから間違えたってわけ?」
そうした皮肉を言って横につくキティに、フロランスは唇を尖らしつつ、その口角はすぐに上がった。それは、キティの豊満な胸に支えられて置かれたカメラを見たからであった。
「まあ、好きそうな人には、好きな容姿よね」
と、キティは一応は認めた風に、カメラを構えてその面影をズームする。アーサーの鼻筋や顎のライン、自分より白な肌の質感と、髪のはためきが明確にレンズの中に収まっていく。そこから、そっと深淵な瞳をも抜き出そうとしてシャーッターボタンに指をかける。
魔女に守られた空の中に佇む死神。
その意味と背景を知る唯一の者として、キティの翡翠の目が瞬く間、ぱっとアーサーがこっちを向いた。
「あ……っ」
シャッターの音が鳴る。眉下げたキティはこの時、しばらく体を固めて視線を外さずに見つめ合う。その中で、フロランスだけがにっこりと笑い、
「アルチュール!」
と、肘をついたまま片方の手を振ったのだった。
4、鉄の意思
鳶の鳴く音が、山奥の晴れた空に響く。
「わぉ、今日は随分と晴れたねぇ」
すると、ふっくらとした丸い手を掲げれば、円眼鏡に反射する光に厚い瞼に覆われた目が揺らいだ。
秋空に映えた青であれども、肺に吸い込むとほんのり冷気が溶けていく。そんな彼の隣りでは長い黒髪を靡かせる、黒スーツで佇む平凡な顔立ちの女が――、小柄の老人に対し、緊張した面持ちで彼と間合いをとって歩く。その目の下には深い隈が刻まれていた。
「あの……田中首相……?」
やがて困惑の声色で名を呼ばれた老人――、田中栗栖はぴたりと歩を止め、顔を向ける。その背後では、山と山の間から新緑に芽吹く独立峰が空に映えるように聳えていた。しかしその山は他のと異なり、均等な三角形の形を為していた。
「まあ、ご覧、綺麗だろう? あれがボタ山ってんだ。僕達が作った山だよ」
「ボタ山……え、作った……?」
「ボタは古い日本語で石という意味でね、炭坑で掘り出した鉱石をああして積み上げて作られた山って意味。つまり僕達炭坑夫が為した功績って事、鉱石なだけにね~」
「え、ええ……!?」
それにミナは声を裏返して田中に続き、山を見た。遠目からの眺めの筈なのに、その山は首を上げないと天辺が見えない程に高いのだ。あの高さを、当時鶴嘴のみの道具で掘り続けた男達が、汗水垂らし作ってきたのだと思うと、その苦しみを目の当たりにしてミナは口開く。そして、「鉱石」という言葉と共に心が揺れ、やがてミナは、彼女の主人、アーサーと離れ離れなったとき以来の、嫋やかな笑みを浮かべたのだった。
「なんと、美しい……」
「美しい? 不思議なことを言うね」
それにミナは、勢い良く首を振って、黒髪の隙間から田中を見る。
「いえ、美しいですよ。だって只の石と言われる山々に、こんなに豊かな緑が生い茂っているのですから……、その鉱石に宿った並々と満ちた生を吸い込んで、葉を芽吹かせているみたい……宝石の瞬きも好きですが、私はこっちの方が本当に美しいのだろうと思います」
風のざわめきよって、緑と黄緑色が交互にちらつき、そのボタ山を覆う木々を見つめて、ミナはほんのりと頬を染める。それに田中も両腕を広げて笑った。
「この程度のボタ山だったらあっちこっちにもあるさ、それくらい、ここは炭坑が栄えた町だったからさ」
「成る程、流石は田中首相の故郷ってことなんですね」
と、くるくる回る田中の子供っぽい仕草を見ながら、ミナはくすくすと笑った。
「あぁ、言われてみりゃ懐かしいなぁ。ごらん、ここの炭坑場からぐーっと、山と平野を超えた先が、朝鮮半島とも隣接する北九州に行くんだ。あそこから運ばれた鉄鉱石が製鉄所になって作られたんだよ」
ボタ山を中心に、ポツポツと広がる街並みを田中は指差す。その指先の動きに合わせ、口開くミナの首も左右に動く。
「随分と遠いんですね。移動はトラックか何かですか?」
「いんやぁ、そんな贅沢なもんじゃないね。あの麓にある駅までは蒸気機関だけど、そこまでは農家の牛引いて運んだもんよ。のろかったし、手間もかかったけど、馬だって高かった。そんな時代だったんだ。そんなんだから禿げ山の道路にゃ、漏れた鉄鉱石がごんろごんろ転がってて、その屑を椰子袋で広い集めるのが長男だった僕の、朝始めの仕事だったわけ」
ああ、何時もの政治家共の身の上話が始まった、と、呆れた顔を向かい合わせる木陰のお付き等を余所に、目を細め笑うミナだけは、灰の道路の真ん中にしゃがみ、よれて薄汚れた下着で円眼鏡を拭く坊主頭の、その黒い石片手に笑う少年の屈託の無い瞳を思い描いた。そうして、山道にも関わらず息切れ一つもなく登る、スーツ姿の小柄な男は、ミナを見返って話を続ける。
「そこから、親父と一緒の炭坑夫になったのは十五歳のときだった。当然の成り行きだよね。そこからはずーっと鉱山と駅を行き来する人生しか知らなかったもんで、ここを自分の世界だと思ってたよ。遠い所まで運んでくれる蒸気機関車が汽笛と共にいっつも憧れの眼差しで見上げるのが僕の唯一の楽しみだった。見上げていただけだったけどな」
「……ご苦労なさったのですね」
眉を下げて悼むミナに、田中は薄い後頭部に両手を回し、飄々として答える。
「まぁねー、炭坑夫はみんながみんな滑稽な位に荒くれ共しかいなかったからねー。口もデカいし態度もデカい。んなだからここでしか居られないような事情な奴らばかりがゴロゴロいたもんだ。ホント、何かに躓いた時にゃいつも僕は真夏の空気が詰まったあの、真っ暗な鉱跡を思い出すよ」
田中の性根がほんの片鱗垣間見えた。あの時代に生きた炭坑夫としての過酷なる人生は、ぎゅっとスーツの皺が描く身体の線が物語る。小柄ながらも盛り上がった節々の筋肉、力強く固まった皮膚の束が覆う土色の指。おそらく、そのスーツの下には鶴嘴の角で傷付いた跡が、その満ち満ちと張った皮膚の皺より多いのだろう。
そのことから、この悠々な性格と、あのウェッブの差し止めた豪力は、その炭坑夫として生きてきたすべての結果なのだろう、と、『政治家の秘書』としてミナは、今一度田中首相を見定めていた。
やがて、その炭坑夫共と束ねて知力と機転を存分に利かした彼は、スマートに政界を渡り歩いた彼女の主人、アーサーと異なり、鈍足ながらも意志は製鉄されたごとく強く、時として豪腕を振るって澱んだ政界に風を起こした。
ミナは頭の隅に「野蛮だ」と一蹴するであろう、愛しい主人の姿を思い描きながらも、腕は自然とあがりその土踏みしめる黒いスニーカーの歩幅はどんどんと広がり、田中に向かって正直に、ただ真っ直ぐに突き進んで口開き微笑む。そんなミナの慕情に気づかぬまま、木漏れ日の色彩の中で田中は歩き続けた。
そこから田中の身の上話は続いたが、それは概ねミナも知っていることだった。
鉄錆と骨の味を噛み締め、灰暗い鉄の中から這い上がった彼は、分厚く傾いた眼鏡から死んだ目を覗かせて、それを当時の炭鉱会社の社長へと向けた。
自らが作らされてきた、その灰色の壁と外部配管が織り成す四角い城を舊橋で叩き潰し、田中は、茶色く汚れたシャツから見える筋肉質の腕を振り下ろして叫んだ。それに続いた血気溢れる男たちは、汚い言葉と声で怒鳴り散らし、砂をあげて乗り込んでいく。
生活苦に対する怒りは、誰が誰をその鶴橋で打ち砕いたか分からなくなってしまうほどに溢れて、その日の激動を迎えた社内の床は、浅黒い血で染まったという。
そんな暴動を取り締まれなくなって、慌てふためいた社長室の面前を前に、その机の前に堂々として立つ田中は、鶴橋を掲げながら回りの残響をひと振りで押し留め、その手を彼の前に差し出したのである。立場を失った社長は藁をも縋るようにその手を掴むことしか出来なかった。その時の彼の瞳には、血に汚れた田中の、その、白く綺麗に整った歯を魅せる笑顔が、一体どう映っただろうか。
ゾクリと、不快とはまた異なった趣をもった背中の震えに、ミナは身を委ねる。そうして田中は、炭鉱夫という一身分から、炭鉱外社の幹部から社長へと、そこから政治の世界へと組み込んでいった。その経緯は想像には固くない。
そんな血濡れた過去から這い出た、田中来栖。それに、警察とて軍隊とて、炭鉱という名の国のエネルギー産業に対して付け入る隙はなかったのである。その暴動を自らの立世に利用出来たのは、田中の手腕がそうさせたのか、それとも、その暴動をも革命という名の元に肯定出来てしまった、時代の方だったのか。
「炭鉱夫は土を慣らすのが得意だからねえ」
と、新参者の彼を責め立てる奴らを、彼は決まってその言葉と笑顔で畏れさせ、灰塵に帰せしめた。
「そんな僕を選んだ時代もまた、狂ってしまったのかねえ」
やがて、崖の上に止まっては後ろに手を組み呟いた田中の、その低いため息が風によって木立と共に掬われる。その先には、白い霧にぼんやりと霞む彼の故郷が広がっている、
「ねえ、ミナちゃん」
やがて背筋のばす彼女の名を呼ぶ声が続く。表情は読み取れなかったが、その低い声は神妙であった。
「教えてくれないか? この世界は、今、どうなっていると思う?」
「え、わたしが……言うの……ですか……」
「ほらほら、そうやって誰から聞いた言葉で誤魔化そうとしないで、君が今、思うままに、誰にも聞いてもらえなかった言葉を今――、僕に聞かせてよ」
それに、困惑とときめきがミナの胸の内を巡る。
「君の言葉を聞きたいんだ」
それは。どんなに甘い言葉も、どんなに切ない抱擁をも超える言葉だった。アーサーにだって、ましてや椴にだって、そこまで求められたことはない。ミナは高鳴る胸にそっと手を置いて、田中と同じ景色を見上げる。遥か向こうの霞んだ地平線を仰ぎ、風がざわめく沈黙の後、緊張の糸をそっと解いてミナの唇が揺れ動く。
「鉄が……蠢いています……」
その言葉は自らの言葉を乞う田中に対する、ミナの精一杯の誠意であった。
「何なんでしょう、この心髄にまで届く胸のざわめきは。ずっとずっと感じているんです。あの地平線の向こうのそのまた向こう、そこに幾億、幾数百億も何万年の時代を超えた鉄の意志を渦巻き留める轟を最近、すごく感じるんです。でも何でしょう……凄く、気持ちが……悪いんです……まるでお腹の中、この身に宿る脳や乱暴に引っかき回されて、纏めて掬いあげられてるみたいな……」
思わず湧き上がった胃液の酸っぱさに身悶えしたミナは、黒スーツに身を包む腹の下を掴み、吐き出す口元を押さえて俯く。それにちらり、と顔を向ける田中に対し、ミナはもう一度しっかりと、地平線を見定めて続けた。
「信じられない……ありとあらゆる流動で理をかなえていた鉄の意志をこんなに纏めてひっくるめて織りなそうとする、こんなに、こんなに大きな意志が存在するなんて……!今までだって、こんなのを見た事なんて無かったのに……! 恐ろしい、恐ろしいことです……!」
「君にとって…そんな鉄の意志を、良しとするのかい」
「……分かりません」
じわり、と汗滲む手を握って、ミナは横流しに目を逸らした。
「鉄の意志は神の意志。神がお考えになることに私ち人間がどうこう出来ることはないのかもしれません。でも少なくとも、この不快は本物……そう……もしかしたら、神の名を語る悪意の仕業なのかもしれません」
「神と悪魔は紙一重ってか」
紙なだけにな。と、お茶ら気た言葉は喉仏に飲み込んで、田中は清覧な面持ちで彼女と共に空を見上げ「そうだね」と、彼女の言葉を受ける。
「田中首相……」
それは甘く色薫る声色であった。彼女の情動を表すように、長い黒髪が優美に彼女の肩が風をなぜる。
「本当に、信じて、くれるのですか……?」
それに田中は軽く笑顔で答える。
「政治家は真実を追い求めるのが仕事だ。だってそれは本当なのだろう?」
ミナは躊躇いもなく頷いた。
「それなら逆に信じない道理がどこにあるって言うんだい。それなのに誰にも今まで信じてもらえないまま、ずっと一人ぼっちで苦しかったろうね、寂しかったろうね。でも、ありがとう」
同じ背丈と、同じ黒い目を向かい合わせ、田中は言った。
「僕と出会うこの日まで、どんなに貶められても、傷付いてもその真実を言い続けてくれてありがとう。もう、大丈夫だよ。君のたすきはこの僕が繋ぐ」
微笑みと共に止まった時の中で、そっと差し出された手は武骨で勇ましい腕。ミナはそれを長年求めた番の手として、田中の言葉に琴線に触れて涙が溜まっていった目を細め、微かに唇を開いて笑った。何も言わぬ彼女の、その涙のわけを、何よりも田中が知っている。
田中だけが知る、彼女の瞳の奥に孕んだ狂気ちらつき、風を通って揺らぐ。田中はそれを見た時、今一度頭の隅で、ある者の姿を思い出した。
***
「あの子は可哀想な娘なんです」
それは、夏の日差しが眩しい――、昼下がりで出会った者の話である。
彼もまた、陽炎が揺らめく何の遮りの無い暑さの中でも長袖の黒いスーツを着ては、汗をしとどに流していた。その中でも、神妙な面持ちは消して崩さず、遠目より一本の棒となって立つ。目端のい小じわを寄せる平凡な顔立ちの男は言う。彼を見上げる田中はその時、汗を流しても不潔さを感じさせない綺麗な肌色と、凡庸さを表す目はやはり、ミナの面影を醸し出していると思った。
「田中首相、貴方は覚えていますか? 今から十数年前に韓国のある島で起こった、あの国からの砲撃事件を」
「覚えてるにきまっているじゃないか。なんだい、その忘れてしまったこと前提な口振りは」
田中は慇懃な口調で彼の横を通り過ぎて答えた。彼は今や、世界的に有名な某自動車メーカーの社長とならんとする大物であるが、首相という肩書きを持った田中を前にしては、その態度を享受するしか立場でしかない。とは言っても、彼が例え「何者」であろうと、田中の態度は全く変わることは無いだろうが。
「……なら、そこで亡くなった人については覚えていらっしゃいますか?」
すると、今度は更に低い声で牽制するように問いかけると、田中は彼の思惑を察し、はっ、と短い息をあげた。
「こいつァ、またまた試すような口振りで言うねぇ。あぁ、大体は覚えてるよ。そこに駐屯していた兵士が大勢と一般市民が5人とだったけ」
それに男は糸のように細い目端をくいとあげた。それは微かに痙攣している。
「5人……」
「何とも微妙な人数だったからねぇ、その人数はよく覚えてるよ。一般市民とはいえ、人道的犯罪として摘発する決め手にするにゃ、少な過ぎる。あそこにいた民間人だって結構生き残ってたケースもあったてんだろ? 当時の君ん所の大統領が、あそこで戦闘を砂噛み砕いて、踏みとどまったのは賢明だったと思うぜ。5人のために、これから幾数百万人の命が奪われ合う悲惨なことを決めるなんて、僕らの仕事なんかじゃないから」
と、田中は突然、陽炎の中でつらつらと語りだした。彼の歪みゆく顔を横目に、田中は一度無言で彼と向かい合う。そして、そこでふと笑みを零した。それは、これから彼が綴る話の流れを既に読み取っているという、ふてぶてしい意思の表れであった。
それに彼は、田中の、政治家としての実力を思い知り、暑さ故の汗か、恐ろしさ故の汗か、首筋に太い一筋を通して喉を詰まらせつつも、応える。
「たかが、5人ですか」
憤りと納得が併せ持つ、要領をわきまえた大人が故の苦悶を、細い目の中が静かに滲ませる。
「そうです……分かっています。私だって、あの時の首相がそう決断したのをとやかく文句を言うつもりは全くありません。当時の私もその立場にいたのならそうしたでしょう」
でも、と、続く言葉は、裾握る拳で表した。
「でもその5人が……、そのたかが5人が……、世界を狂わせることだってあるんです……どうしようもない絶望と、諦めの先に悟った狂った世界を……戦争が起こす悲劇というのはそういうことだってあるのです」
それに田中は眼鏡を光らせて、首をあげる。
「その5人は、全員ミナの家族なんです」
そして、突如として現れた事実が、二人が立つその場を一瞬だけ区切らせた。
「つまり、その5人は私の家族でもあります。兵役についた私をいつも心配してくれた優しき母、いつも幼い私を庇ってくれた大好きな兄、その兄を愛した美しい義姉、そしてその間に産まれた可愛い姪っ子、甥っ子たち。その中の末っ子として……、どこか不思議めいた神秘さを持って私を見上げた女の子が……彼女だった」
恐ろしいほどに青い空を見上げ、彼は言う。その中で最早彼しか知らない、遠くへ消えてしまった幼き彼女の面影を映していた。その家族が住んでいた曇天の下で、黒いスカートと黒髪をなびかせながら、ささくれた木柱に手をつき、白いカーテンの隙間から、訪れた兵服の自分を好奇に見る、その瞬く黒い瞳を。その薄い、あの時の白いカーテンが招いた懐かしい故郷の潮の香り求めるように、鼻を啜った男は、角のように鋭い顎をあげる。
「昔から他のやんちゃな姉兄と違って、ちょっと彼女には元から不思議めいたところはあったんです。でも、そんなのも、あの兄夫婦の元で暮らしていくことが出来れば、それもきっと、埋もれていったはずだったのに、なのに」
大砲の鉄が突如として、笑い合う夫婦の笑顔を吹き飛ばしたのだ。彼がその事実を知ったのは皮肉にも、兵役に飛び立ったその数日後であった。大勢のざわめきの中心に立って見たテレビの画面は、見覚えのある生まれ育った島が、異国の大砲戦火の渦中で火を噴き、かき乱されている惨状を映す。
テレビは瞬きのように、その場面、場面を映し出した。黒煙の隙間から見える、原型の面影もなく吹き飛ばされた家々とガレキの山、ボロ雑巾のごとく散らばった兵服の男たち、それを為した大砲の、どおんどおんと遅れて繰り返される音。彼はその大砲の音に急かされるように、迷彩服のまま、ナップザック片手に故郷へと飛び出したのだ。
「私の知らない形にまで、滅茶苦茶にされた悲劇と理不尽、ショックでしたよ。そのせいか、故郷に戻るまでのことは全く覚えていません。それでも、私はまだマシでした。誰よりも可哀想なのは、ミナの方です。テレビを見てただけの卑怯な私とは違って、彼女はたった6歳で、実際に惨状を目の当たりにしたのですからね」
「ミナだけが……、生き残ったのか?」
その言葉に答える声は、次第にひゃっくりが篭る。
「ええ、彼女だけがあの時、何故か、その時、大いなる鉄の、その憎悪の気配を感じて、海岸で遊ぶ家族から無理矢理離れて、急いで車の中に入っていたというのです。堤防横に置いていた車は、その砲火の爆風でふわりと宙に浮かんでは、向かいの雑木林までミナごとまとめて吹き飛んだそうですが、その形をしわくちゃにしてまでも、車はミナだけは『守り抜いた』というのですよ。そこから這い上がって彼女は、灰に覆われた空を、地面を、一人で走りました。さっきまでがれきが覆う海岸で、笑い合っていた両親とそして、走り回る兄と姉を求めて。煙に体中が煤まみれになっても、ずっとずっと」
続けて彼は語った。その間にも容赦なく砲撃は続いた、と。
遠くで、近くで、弾は当たって弾け、その度に彼女に火風が襲う。それでも彼女は走りつづけた。顔が爆風に真っ赤にただれ、それが煤に汚れても、自慢の黒髪が焦げた臭いを放ち散っても。そうして海岸の堤防に立った時には、既に彼女は裸足は傷だらけであった。ただ一つ、汚れのない黒い瞳はやがて、霞む煤の向こうで、笑い合っていたはずの家族のなれの果てを見る。
「信じられますか。あのときミナは見たんですって。砲火の爆風で溶けた、かつて何かだったであろう鉄の塊と一緒に、家族がみんながその中でめり込んでいたその光景を。虚空を描く祖母の手が、両親の腕が、そして下には兄と姉の小さくてぷっくらと真っ赤に膨れた脚が、そのごちゃ混ぜになった鉛色の塊の出足のごとく、はみ出ていたらしいんですよ……!」
彼は想像するだけでも生じた吐き気で、口元を覆った。
「そんな馬鹿な……そんなことが……」
そしに流石の田中も否定の念を醸したが、それを彼は無理に首を振る。
「いいえ、いいえ、いいえ、いいえ! 実際に見たこともない私達が現実とかとやかく言う資格なんてないんですよ! そんな残酷な話を6歳の少女が嘘でいうわけなんかない。とにかくあったんです。そういうことはあったんです!」
そしてミナは見たという。真っ直ぐ硬直した兄と姉だった足を支柱にして、その鉄の塊が、石の瓦礫を引き摺って海に向かっていくのを。
「待って……!」
それが、ミナの唯一の言葉であった。しかし最早、鉄の塊と同化し合った『物』は、何も言わずずるずると引きずられては、波にゆっくりと呑み込まれていく。ミナの黒髪が、波の揺らめきに乗って逆立つ。あっさりと引き込まれていった『それ』は波の表面を踊る。すると、それは間もなく四方から溶けるように分離していって、最後の一掬いによって、群青色の海と音も無く一緒になった。
その時ミナはこう思ったという。ああ、「持って」行かれた。と。
「持って行かれた?」
田中は眉間にぎゅっと皺を寄せた。
「えぇ……私が彼女と落ち合うことが出来たのは、追悼式が終わったその直後でした。白い菊花が広い斎場に取り囲まれたその中心でたった一人、まるで彼女自身が祀られているかのように黒い喪服に身を包んだ、小さなミナがそこにあったんです。そして、彼女はそう言ったのです」
奪われた命を悼む菊花は、天井まで縦横に並んでいた。その不気味ともいえる白い美しさの中に、彼女はいた。それが、もう、最早現世を戻る意志もなく佇んでいるかに見えて、彼は思わずいたたまれなくなって、後ろから走り寄り思いっきり抱きしめていた。
貴女はそっち側ではない、ここに確かにいるのだと、自分の全身で押し付けるように強く抱く。いや、もしかして命綱のように握っていたかったのはこっちだったのかもしれない。
しかしミナは涙も流さず表情も眉一つ変えることもなく、ただ、並び立つ菊を見上げながらそっと呟く。
「持って、かれたんだよね」
それは、底冷えするほどに綺麗で、そして恐ろしい声だった。その瞬間を思い出し、彼の拳は汗を滴らせた。
「その時、私は彼女に何を言ってやれば良かったんですか、そんなことはないって、理屈をこねて無理矢理目を覚まさせるのが正しかったんですか。あの沼底のような目を見て私は分かったんですよ。ああ、このまま彼女を妄想の中に閉じ込めてしまわないと、死んでしまう。すべてを奪われた理不尽を、それに対して悔しくても憎んでも、国家という素性の知れない相手に何も言えない、返せない辛さを受け入れられないで狂ってしまう! だって酷いじゃないですか、彼女は国のために愛しき家族全員をひとすくいに無残にただの物とされてしまった悲劇をたった、本当にたった一人だけで抱えていかなければならないんですよ!? 奪われたんじゃなくて、持ってかれたって思わなければならなかった……! あぁ……考えただけでも発狂してしまいそうだ! それだったらいっそのこと死んでしまった方がまだマシだ!」
彼の叫声は、誰もいないコンクリートの広場で響き渡った。素早く開かれた口端を皺で歪ませて嘆く。振り乱す顔にはうっすらと涙が溢れていた。
「だから君は、彼女を彼女たらしめるために、妄想の共犯者になることを、選んだのかね」
「……そうです」
あの頃の、若気溢れ出た声で彼は静かに囁いて、更に力強くミナの身体を縁取った。
「みんなね、あの鉄の中に一緒になったのね」
「うん」
「だからね、死んでないの」
「うん、うん」
「ううん、違うの、死なんて元々ないのよ。みんなね、昔からずっとね、鉄の中に生きてるのよ。だから私だけ助かったの。車の中に宿る命に助けられたから、だから」
両手で包めるほどの、その小さな頭で巡らして、このわけの分からぬ世界の怒涛に踏みとどまるために、彼女は滅茶苦茶な理論をまくしたてる。それがどうしようもなく、哀しい。
「ミナ、よく想像してみてごらん」
その言葉に振り返り、ぼんやりと空を描いていた黒の瞳は、名を呼ばれ次第に目の焦点を合わせていく。
「想像してごらん。戦争でも老衰でも、みんな土の中に潜って圧縮されて圧縮されたその熱に少しずつ溶かされてマントルの中にぐるりぐるりと、チラチラと輝くオレンジ色の瞬きと共に、この地球の中を巡っていく有り様を」
その言葉にぼうっとミナの瞳に灯が焚いた。それはそのマントルの中に瞬く火のちらつきと全く同じ色をしていた。
「綺麗だと、思う」
やがてそう言ってミナは彼の腕を掴む。ようやくそこで彼の存在を確かめている。それに滲み出た愛おしさに駆られて、彼は頬を寄せた。
「だからねミナ、君は独りぼっちじゃない。お父さんたちは、ちょっと君より先に行ってしまっただけなんだよ。大丈夫だ。また、きっとまた会える。やがていつか引き上げられ、車となって、ネジとなって何万年もかけて出会った人たちと共に、また君を、守ってくれるよ」
「うん、うん……ありがとう……ありがとう…叔父ちゃん……!」
小さな震えと共に、彼女の涙がボロボロと落ちる。それがようやく、溢れ出した思いをやっと流せた瞬間であった。そして、彼の肩にしがみついて泣きじゃくった時をして、彼は決意する。肩を震わせて言葉にならぬ嗚咽をあげる彼女を、繋ぎとめるように抱き締める力を強くして、震える肩の上に浮かんだ瞳で白菊を見上げる。もう、二度と離すまい、と。
彼にはもう既に妻が居た。彼女との間に生まれる予定の息子もいた。それでも、彼は彼女を自分の元へ引き取ること以外の道など全く考えられなかった。自分がこう言ってしまった以上、彼女の妄想を支える寄りどころは一生自分でしかないことを覚悟した。
彼女はもう人並みの幸せを手に入れることは出来ない。こんな妄想を寄りどころにしていく彼女を、見初めてくれる男など、一生この世に現れはしまい。ならば私が、唯一、人間として残った血の繋がった叔父の自分が、彼女を彼女たらしめるために、守っていかなくてはならないではないか。
「兄貴、ミナは俺が引き取るよ」
戦争への憎しみも、悲しみも通り越えて囁く、覚悟の一言を、白菊だけが看取った。
「しかし、そのためか、ミナには随分と気を使わせた生活を強いてしまいました。私の妻は優しく、ミナを快く受け入れてくれましたが、実の息子との兼ね合いではどうしても、どうしても超えられない溝が出来てしまっていた。息子たちだって――、表面上では従姉妹のミナを本当の家族のように慕ってくれましたが、それでもどうしても、兄弟の間に分け入れられた懸念の空気は拭えなかったのでしょう。それを何より、敏感に感じ取っていたのはミナの方だったんです。やがて人の目をいつも気にして脅えるようになり、彼女はすっかり影のようになって、幽霊とまで言われてしまっていた。彼女の妄想は沸々と、その影の中で誇大化させていって溢れ出す影が彼女を飲み込んでいってしまったんです……」
彼と田中は、陽炎が湯気のごとく揺らす地平線の森を見つめながら、大人になってもあどけない、ミナの笑顔を思い浮かべる。それは平凡ながら――、平凡だからこその愛おしさが滲み出るが、と、同時に背後に蠢く黒影を弄ぶようにも見えて、やはり恐ろしいのだ。
「でも……そんな中でも、ミナは束の間の幸せの手に入れたのもまた事実です。本当に…本当に…アーサー・ベリャーエフ様には何度頭下げても、感謝し尽くせません。理解して欲しいとは言いませんが、彼女の過去を考慮した上で、彼女をずっと側に付けてくれたことには本当に感謝しています。彼こそ正に、私以外に彼女の心の支えとなったもう一人の父と言えるべきでしょう。なんという心遣い、これぞ、貴族の矜持の為せる業なのでしょうか」
ちらり、と、田中は目だけを上目遣いに向けてその言葉を受けて、こう答えた。
「おやおや。君、椴君のことには問わないのかい」
「いえっ、彼は……」
それに彼が、眉を一瞬だけ歪めたことを、田中は見逃さなかった。最初は嫌悪の顰みだと思ったが、その俯きと首振る黒髪の揺らめきが語るのは、どちらかというと懺悔、である。
「彼には……大変申しわけないと思っています。あれほどにミナを愛してくれる男はもうこの世にはいないでしょう。それでも、やっぱりどうしても、彼には彼女を理解することは無いと思うんです。申し訳ないけれど、彼にはもう、手を引いて別の女性と全うな人生を送って欲しいとただ願うばかりです……やっぱり私じゃないと……私が支えてやらないと……」
「それならいっそ、僕も理解してやってもいいけど?」
「えっ」
あまりにも突然に、そしてあっさりと言われた言葉に、再び眉間に皺を寄せたがその途端、解いた顔を為して彼は顔をあげる。田中は口を閉じたまままたその横を通りすぎる。生ぬるい風がふいに上がった。
「あのね、僕が最初から、彼女の妄想に全く共感しない前提で、君の話を聞くとでも思ったのかい。……僕だってね、君と違って見たことはあるんだよ。鉄の中に人が溶けていく、その瞬間をね」
彼は田中が目を向ける方へ空を仰ぐと、先から二人に影を落とすオブジェがあった。それは、高さ5メートルはあろう巨大な銅製である。真夏の昼下がり。それだけはしんとした冷たさを魅せる深緑色のそれは、口が広く底の浅い壺のようだが、口は斜めに切り取られており、リベットが縦横に長方形を為して打ち込まれ、所々膨らんだ銅の凹凸が見せている。彼はそれを、「作者が実用的なものと見せようとした芸術品か何か」だと思っていた。がしかし、その予想を田中の途端鋭くなった眼差しが「いや、これは正真正銘の実用品だった」と、諭す。
「おや、君、ヨーコーロを見たことが無いのかい」
「ヨーコーロ……」
「溶鉱炉ね。君らが生まれるそのずーっと前に活躍していた僕たち炭坑夫の、御神体のようなものさ。この中に僕たちが掘って運んだ鉄鉱石とコークスを溶かしたものを右の穴から差し入れて、下から酸素を吹き上げる。そうすると化学反応でそのままじゃただのナマクラの液が、繰り返し繰り返し溶鉱炉が転がることによって、酸素と入り混じり本物の鉄鋼となって左の穴から出てくるって仕組み」
「そうなんですか……これが……それはまた凄まじい暑さだったでしょうね……」
それに田中は、喉をひくつかせ、くつくつと笑う。
「千度の炉の釜なんだよ? 涼しいわけがなかろ」
と、今は冷たい溶鉱炉のリベットを撫でながら、田中は笑う。
「酸素だからさ、すんごいね、爆発するんだよね。もうホント、一点の濁りもないオレンジ色が火花を散らした時にはさ、まぁるく綺麗なオレンジだと思わず手をのばしたら大惨事。ただでさえ暑いのに、幾つも重ね着した布さえも刃のように突き抜けて、僕の皮膚を食いちぎるようだったねぇ。あれから二度と無茶はしまいと思ったもんだよ。これが鉄と同化する瞬間なのかってね」
その掲げられた火傷跡の両手から、日差しが漏れて田中の目に透ける。
「でも火花を被るくらいならまだマシだったよ。中には、それを被った者もいたんだからねぇ」
「ま、さかっ」
と、言いかけた口を、彼は開いたまま止めることしか出来なかった。田中の溶鉱炉を見上げる黒い瞳があまりにも遠い、いや景色とも言えぬ何かを見つめるようで怖ろしかったからである。
「昭和40年代までは、よくあったものさ」
そう、そっけなくして田中は呟いた。
「まだコンピューターも、禄に充実してない時代だったからね、高炉の流動を促す仕事や、点火を作動する役目とか、地獄の釜のあたりにゃ、今では信じられないくらいに、うようよ人間がいたもんよ。そうだね……あれは……昭和33年の6月だったかな。初めて僕らの運んだ鉄鋼の成り行きを、この目でしかと確かめていたそのときだったか」
初めて見たものでも、やはりそこは油と汗と、煤のまみれる人間の吐き捨てた物が、すべて集まっているような物だった。だだっ広くむせかえる中でただ一つ、美しいといったものは、濁流のごとく縦横無尽に流れ行く橙色の川。うねりに合わせて光沢が揺らぐそれらが、鋼鉄の元になると考えるだけで、初めて田中は胸の高鳴りを握りしめて、カラカラに乾いた喉を飲み込む。そんな矢先の出来事だった。
それはある先輩と共にいた時だった。彼はベテランで、様々な急遽な事態が起こることを読み取り大事にする前に対応する能力で、幾度も田中を助けていた。それも、不思議なことに、機械の調子やコンベアの調子の加減を読み取る力があった。その日も、談笑しながら激しい轟音を立てて転がる溶鉱炉を監視していたときのこと。突然、なんてことのない瞬間に、笑っていた先輩が急に真顔になって、天井を仰ぐ。そして彼は言ったのだ。「機械の調子がおかしい」、と。
何のことやらと、さして変わらぬ溶鉱炉の様子に再び笑いかける若かりしの田中であったが、汗を滴らせたまま先輩の真顔は次第に不穏の影を帯びて、辺りをきょろきょろと見渡していく。すると、それから何に気づいたか、汗と煤塗れの背中を震わせると、一気に振り返り、田中の元に駆け寄ったのだ。
「逃げろ、来栖」
その時、先輩が言った。その瞬間、溶鉱炉が大きな地響を為したかと思うと、途端にぐらつき、大きく一振りした瞬間をして、そのまま地面に落っこちたのである。それに田中があっと声をあげた瞬間に、そこから当然、どろどろに溶けた鉄鋼が溢れ流れていく。数多の鉄を一瞬に溶かして、橙色の川が一気に田中に襲い掛かったが――、それをすんでで突き飛ばし、先輩がその身代わりとなったのだ。
それを思い出し、皺が為す目じりを田中はそっと閉じた。
唖然とする田中に迫る煙の向こう、ぼんやりと縁取られた先輩の影は、陽炎のごとくゆらりゆらりと、人間らしからぬ動きを繰り返していた。その後にけたたまいアラーム音が鳴った。地獄の底から喚く幾重の男たちの怒声と、おののく声が背中から脇から響き渡った。
汗が顔を縦から分けるように伝う感覚以外、その時田中は何かすべてが吹き飛んでしまっていた。しかし、ふいに開かれた視界で田中が見たものは、まるで油が浮くように、冷えていく溶岩と共に揺らぐ真っ黒な塊。そして、それを転がった溶鉱炉が、踏みつぶした。
「……それが、この溶鉱炉だったと」
「あぁ、そうだよ。その力ってのは、その人を助けるし、その人を殺したりもするんだなあ」
溶鉱炉にもう一度手を付いて田中はそっと呟く。その意味を問いかけようとした彼の歩みを拒否して、素早く田中は続きを呟いた。
「あの黒影の揺らめきが、どうもあの世の場面だったような気がしてねえ。官邸で良いメシ食ってる時とか、かわいこちゃんに太腿そっと触られたときとか、どうしてかいっつもそれだけがちらついて、いっつも僕をあの頃に引き戻すんだ。僕はすっかり、いや、僕もすっかり、この世の人間になりそこねた」
オンボロコンピューターの不調故、溶鉱炉の振るスピードが速すぎてしまったのが原因だという。しかし、先輩は一体どう死んだのか、激痛に駆られて意識を戻したのか、それとも、湯気の低酸素で死ぬことにも気づかぬまま溶けていったのかというのは、最早彼にしか分からないものだ。
そうっと、命の恩人であった彼の、その一片が混じっているかもしれないざらつきを撫でて、言う。
「僕はね、君と違ってちゃんと見てきた方の人間だ。僕こそ彼女を理解出来るに相応しい唯一の男なんかじゃないかなぁ」
と、鉄となって潰えた先輩の足跡を指先で辿りながから顔を上げる。そこから振り向いた田中は、目を狐月に細めてにっこりと笑う。その後に続く言葉は何故か、向かいに眉潜める彼に対する牽制の言葉だった。
「だからさ、君もそろそろ潮時なんじゃないかねえ。叔父だからというしがらみもやめて、君も君自身の人生を歩み始めた方が良いと思うよ」
「な……そんな……!」
「鉄の意志の名の元にしがみ付いていたのは、君の方だろう」
飄々としながら、田中は彼の心随を抉る。
「余計なお世話かもしれないけど、彼女から離れるべきは君の方じゃないかい。菊の中に取り囲まれた狭い箱庭中で一人、今だ彼女を抱き締めているのは、君だ。彼女が過去に捕らわれてるのも、彼女が一人ぼっちなのも、君がいることも一つの要因なのだろうね」
それがあまりに軽々しく言うものだったから、予想外の言われように、溢れ出した怒りは空回りし、彼は舌足らずに声を荒げる。
「い、……いきなり何をおっしゃるんです…か…!たったいまミナの妄想を理解しようと言った貴方が何を今更……!」
「あのね、僕が彼女と付き合うその真意は君みたいに俗っぽくも無ければ、みみっちく狭ったらしいものでもない。僕はね、もっと広く高尚な目的があるんだよ。一緒にするんじゃないね」
何の事だか、と言いたげな口の開きを田中は無視して、アスファルトが醸す陽炎の世界へと再び歩んだ。暑さに呆然と、そして突然の突き放しに、戸惑い立ち尽くす彼を最後に、田中は言葉をかける。彼の背後に聳える溶鉱炉を前に。
「あ、そうそう」
その声は低く、また、憐れみ似た眼差しで為された。
「あと、椴君のことだけれどね、君、あんまり彼のことみくびらない方がいいぜ。君はあいつのこと、真っ当な人間だと見ているようだけど、あいつもとんでもねぇ毒蛇様さ」
やがて、にたぁと特徴的な口角のひん曲がった笑みを浮かべ、腰に手をついた田中は言う。
「だってね、あいつは、愛のためなら自分の父親に、『初めて』を捧げるのだって厭わない、愛に飢え愛に狂わされてるんだったからね」
それに彼は大仰に眉をあげる。
「は……? ちょっと、それって……」
「そ、虐待以外の何者でもない」
彼の動揺に対して、飄々として田中は言い放つ。
「でも、彼はそれを、世間が認めない愛だ、とあくまでも言うんだ。彼とてそれを認めたら、狂ってしまうだろうから僕は黙ってる。あいつの前だといつも馬鹿にしてる愛って奴を前に、怯んでしまうからしょうがないんだ」
それに彼は愕然とした、ならば、彼が蔑んでいた、椴のプレイボーイの風貌もまさか――、
「とにかく、君も気をつけなよ。くれぐれも毒蛇に彼女の脚を掬われないようにな」
「ちょ……」
「じゃぁねぇ」
何かを言おうと身を乗り出した彼を放っておいて、田中は掲げた手首でくいと空を掻いては、森の向こうへと立ち去ってしまう。漆黒の影が為す顔が、更なる黒い瞳を浮かび上がらせるも、その黒さの理由を他に知る者はもういない。やがて取り残された男はただ一人、呆然としながら、再び溶鉱炉を見上げることしか出来なかったのであった。さっきとは違う趣を為した溶鉱炉の姿、しかし変わったのは彼の心情なのであって、あくまで溶鉱炉は不動して冷淡に、彼を迎えて入れて銅の有り様を見せていた。
***
風がざわめき、再び木立が揺らぐ。名もない雑草らの擦り合う音に乗じて、ミナの涙が小雨のごとく、乾いた土に黒い染みを作る。
「ほんとに……ありがとう……ござい……ます……信じてくれて……本当に……」
新緑のボタ山を間にして、向かい合う二人。ミナは小首を傾げ、指を水平にして涙を拭う。その細かやな仕草に田中も心が揺れて、そっと歩み寄っては無骨な手を彼女の頬に添えた。と、ミナも全く抵抗する素振りを示さずに、それも、無骨なる凹凸を気持ち良さげに目を瞑って摺り寄せたのだ。
そして、ミナの生ぬるい透明の涙が丸く盛り上がった田中の指の関節一つ一つを伝った時、自然の情動に従うように、心地よい布擦れの音が風と共に舞う。田中は力強く、ミナは優しく包むように、両手で互いの身体を抱きしめ合った。目を瞑ったまま、その暖かさ再び滲み出る涙を流すミナの一方で、彼女の肩の上に浮かぶ田中の瞳は、仄暗いままぼんやりと開かれていた。
***
「俺、いつも思ってるんです」
その瞳は、暗がりの中に俯く、騒がしい居酒屋のカウンターで突っ伏せる男の姿を映した。その男はいつも見せる威勢の良い姿身もすっかり萎ませて、ジョッキを放り投げては泣き崩れ、声を荒げる。
「あいつがいつか……、いつか誰にも見放されて誰にも見捨てられて、絶望に泣き崩れてて立ち上がれない程になってしまえばいいのにって」
そうして、彼は言った。
「そうすれば、あいつはやっと俺を見てくれると思うんです。やっと、やっとすべてを諦めて初めて人間として、ただ一人の平凡な女として俺の胸に飛び込んでくるんじゃないかって、そんな日を日々をいつか、きっと」
肘着く拳を、俯いた額に擦りつける。
「認めてなんか、やりませんよ」
そして、憤怒と悔しさに歪んだ顔は、田中のものや義父のとは違って――整ったまま、目の下に刻んだ皺の上に涙を留める。成る程、確かに。と、その時、田中は思った。蛾が纏う裸電球を睨みつける目は、獲物を自らの毒で食す蛇の目だと。
愛に飢えた目。自分と同じ者を追い求める目。『虚栄』を信じなければ狂ってしまう哀しい目。電球に瞬く犬歯をぎしりと噛み締めて、毒蛇は言う。
「鉄の意志なんてない、みんなやがて一つになって集まっていくもんなんて、冗談じゃない。あんな気持ち悪いものに俺はなりたくもないし、あいつがそんなものに片脚を突っ込もうとするならその脚をもいででも引き剥がしてやる。そんな鉄の意志どうのと、そんなもののミナは人身御供でもなければ巫女なんかでもない、ミナは俺のものです。『俺』のものなんです。肉片でも髪の毛一本でもとりこんで俺の一つにしてやります。いっその事、誰かにとられる位なら!」
「日椴君、君の言ってることの方がよっ、ぽど気持ち悪いよ」
ふふっと、僅かな笑みでミナの肩の上に息を吐いて口角をあげる。それに懸念した動きを微かに見せたミナをそっと離し、彼女の肩を包んで向かい会えば、ミナの涙濡れる瞳に今度こそ愛おしげに目を細める田中が映った。
「信じるからこそ、これから僕は君にお願いしたいことがある」
そして遂に開かれる言葉。甘く優しい声で導かれる、ミナを信じる本当のわけを。
「お願いだ、ミナ。これからしばらく、僕の側にいてくれまいか。これは鉄の意志というものが分かる君だからこそ、それを信じる僕だからこそ出来る、いやしなければいけない事があるんだ。分かるね?」
「はい」
眉を下げた陰鬱な表情に対し、返された返事はしっかりとしていた。
「私だって信じています。貴方がやろうとすることですもの。きっと、日本、いや世界のためになるこちおなんですって」
「ああ、勿論さ。君の上司にも悪いようには絶対にさせないつもりだ」
そうしてミナの心情を解して微笑む田中に、いよいよミナは黒髪を舞って頷き、さして変わらぬ背丈を持った彼の堅い胸にすべて委ねるのであった。
「ごめんね、日椴君」
最後の餞と言葉を添えて、田中はミナの肩を抱いた。
4、一方、ミナが常に気遣うその「上司」は一体何をしていたのかというと。
「これでキティから言われたものは大体か。フロランス、他に買い忘れた物は残っていないか?」
「うん殆ど買い切ったよ! 後は化粧水とファンデーションと、お菓子と雑誌と、テレビかな!」
「……そういうのは殆どとは言わない」
と、低い声でアーサーは、笑うフロランスを見上げるのであった。
アーサーとフロランスは今、鬱蒼と繁る秋の森の中、その中にぽつんとあった町の中に降り立ち、つかの間の地面を踏みしめている。
「賄い物を揃えたい」
そうしたアーサーの要望から降り立ったその町は、森の中でこじんまりとしながらも、それなりに風情ある、赤瓦の家々が石畳の脇に並んでいる。が、二人にとっては最早「よくある光景」であって、それよりも四角くて白い、看板の目立つ現代的な店を必死に探し当てては、船旅に必要な必需品を買いあさっていく。勿論、すべてはアーサーのカードで。
「それにしても、やっと手に入れられて良かった……」
と、赤い看板が目印の、「ユニクロ」で買った服を抱き締めてアーサーが呟くと、フロランスはあははと、甲高く笑って飛び跳ねた。
「ほんっと!今までのアルチュールっの服っておかしかったもんねーっ! 武士君の服借りちゃってさ!」
「袖が……」
「あっはははは! ほんっと股引みたいだったもんねぇ! 毎日あんなのを見て付き合わされた、あたしの気持ちにもなってよお!」
「そうやって笑い者にされた、私の身にもなって欲しいものだな」
「んっんんーまあねー! でもまぁ、一番可哀想なのは、武士君だよねぇ!?」
「……異論なし」
と、彼の辺りを飛び回る騒がしい女と、物静かな男との一連のやりとりを、町歩く人々は懸念気味に見上げている。一方、男達はあどけなく笑う金髪の美女を見ては、頬を赤く染め目端を綻ばせるも、頭揺らして笑う女が隣の男とさして変わらぬ背丈だと知るや、一斉に見なかったことにする。そんな様子を目端に察すアーサーは、歩きながら溜め息をついたのだった。と、途端に、彼女の細腕に体を引っ張られる。
そろそろ町を出て行く時間になって、(主にアーサーの)両手も塞がっていく頃、キティとK‐7が待っている町外れへと至る角に、小さな出店があるのが見えた。粗末な作りの屋根の影に覆われ、若干デッサンの狂った原色塗りの人形が乱雑に置かれている様は、正に場末の土産物屋といったところ。しかし、フロランスは、紫色の瞳を輝かせて走り寄る。
「きゃあああー! 可愛い!」
「あはは、可愛いのはお前さんもだねぇ」
「きゃっ」
すると、出店を覆う暗がりのカーテンから表れ出たのは、丸く赤い鼻が特徴的な髭面の男だった。腰が悪いのか猫背のまま後ろ手に構えてのろのろと歩み寄っていく皺の多い小柄な男。しゃがれた声を紡ぐ口の隙間からは黄ばんだ歯が見える。一瞬、アーサーは浮浪者とそう相違のない様相に眉を顰めるも、フロランスは全くその気もなく、いつものように微笑みかけた。
「ありがとう! よく言われるの! ねぇこれ、おじさんが作った奴なの?」
「ああ、そうさ。この街にやってきた旅人に、記念で君たち瓜二つの人形を作って街のオブジェと共に配ってやってんのさ、どうだいご夫婦、新婚旅行の記念に一個つくったげようか」
「夫婦だって?」
「おや、違うのかい? 随分とお似合いだと思ったからね」
色んな意味で、と、互いの顔を見比べて指差して笑う男に、アーサーはますます目の隈を深くした。その一方、フロランスはますます上機嫌に目を細めては、また勢い良くアーサーを引き込んでその腕を絡ませてぴたりと体をくっつける。
「えっへへ、そう見えるう?」
「と、言うと違うのかい? 親子?」
男は素早く指を交互に差すも、
「まさか」
と、目を伏せてアーサーは呆れる。それにますます首を傾げた男に、フロランスは口角をあげて答えた。
「えへぇ、あたしたち、誘拐犯とそれに誘拐されちゃった人でえす!」
とんでもないことを悪びれもなく、言い出したフロランスに、アーサーは灰色の睨みを効かせるも、男の方は一体何を勘違いしたか、租借した音を立てながら、ヘラヘラとアーサーの脇を小突いて笑う。
「えっへえ、えへえ、だんなぁ~……やるねえ」
それにアーサーはさっと身を素早く引いて、否定して答える。
「違う、誘拐されたのは私の方だ」
「……へえ?」
それにいよいよ、首を傾げた男に、アーサーは「長居は無用だ」と、フロランスを率いたまま歩き出してしまった。
「あ、じゃあ、おじさんありがとう! また今度よろしくね!」
フロランスは呆然とする彼に満面の笑みを向け、去り行く間際投げにキスを送ったのであった。
「いきなり何てことを言い出すんだ。今のでバレたのかもしれないぞ」
「んもう、こんな馬鹿でかい飛行機に乗ってるところで、バレたも何もないでしょうよ!」
憮然とするアーサーを後ろに構え、フロランスはリベットが形為す、銀色の扉を蹴り飛ばしたのだった。
***
「キティ! ただいま!」
木机と椅子が並ぶ食堂の向こう、貼りガラスを境にした厨房には、エプロンを着たキティが下拵えを済ましている頃であった。
「あら、お帰りなさい」
湯気たつ釜を背後に振り向いたキティは、布巾で手を拭きながらフロランスとその後ろのアーサーを迎える。その、胸の膨らみをくっきりと縁取る紺のエプロンと、疲れた体を迎い入れる優しげな姿身が、後ろに見える昔懐かしの白く丸っこい冷蔵庫と共に、可愛がってくれたアーサーの祖母を思い出してしまいそうで、彼は、何かがこみあげてくる前に視界を紙袋で隠した。
「……今、帰ってきた」
「おかえりなさい」
側に立つキティはそう呟き、翡翠の瞳を細めてはアーサーを見上げた。
「ねえーキティ、材料こんな風なもんでいいわけえ!?」
すると、フロランスの「ふるい」によって、紙袋から厨房のテーブルに買い揃えた数多の材料が転がる。パスタにニンニクと唐辛子、オリーブオイルとみりんとしょうゆとクリームとバジル。そしてその中で一際大きな南瓜が、ゴロゴロと銀色のテーブルを波打って転がった。
「今日のご飯はペペロンチーノなのは何となく分かったんだけど、かぼちゃって何よ。かぼちゃって。しかも醤油とみりんて……なんかコレだけ変なんだけど?」
「かぼちゃの煮込みを作ってから、潰して暖かいスープを作るのよ」
「南瓜なのに、冷製にしないのか?」
「冷製なんて勿体ないじゃない。スープは本来暖かくあるべきよ。前もって煮込んでおけば味を引き出せかなって思って、試してみようとしてるの」
キティはそうしてキッチンの方へ振り向いて、湯気の中から銀製の蒸し器を取り出した。
「まあ、いい。料理のことは君に任せよう……それなら……私は洗濯機の修理の続きでもしようとするか」
「お願いするわね」
アーサーはその様子を窺った上で、食堂へ戻ろうとする。するとフロランスもアーサーの背中を押し込むように叩いて後に続いた。
「あ、そうだあ! あたしもまだ脇に置いてあった洗濯物干し途中だったんだ!」
「脇?」
突然、野太い声がキティの後ろで響いた。
「確か……脇の洗濯物は私の服を置いていたところだろ。おい、干し途中て、まさか」
「そりゃ、汚れた服がありゃ、洗うのは当たり前でしょ?」
「それを言うな」
「なんで」
「なんでって」
「え?」
途切れた会話の意図が読めず、金髪を肩に垂らすフロランスに、アーサーは紙袋ごしに眉を微かに吊り上げて詰め寄った。
「私は別に頼んではいない……! 何故そんな余計なことをした……! それは普通放っとくべきだろ。まさか……、まとめて入れたわけではないだろうな」
「面倒くさいから纏めたに決まってんじゃん」
「なんて、ことを、したんだ」
「なんで」
「なんでじゃない……! 良い加減に……!」
頭を抱えつつ犬歯を剥いて呻いているアーサーを横目にキティは、「とんだ家族ごっこね」と、眉を凹凸にしつつ、微笑んだ。
一方二人は、そんなキティのぼやきも聞く間もなく、互いに持った紙袋をつつき合わせる。その言い合いはしばらく続きそうだ。キティは横目に、その思慮も奸計もすり抜けて、今はただ真っ直ぐに感情をぶつけるアーサーの横顔を見る。
相変わらず顔色は悪いが、灰色の瞳は今までよりもずっと生気があるように見える。フロランスを見据えるその眼差しには、彼にとって最も近い存在で、最も気の置けない相手がいるのだろうと察した。
夫婦でもなければ恋人でもない、ましてや親子でもない。強いて言うなら――、
「やっぱり妹さん、なのね」
そう言いながら、南瓜を真っ二つに切り落とせば、橙色の鮮やかで瑞々しい実が露わとなって転がった。
***
K―7が三人を乗せ、暗闇の海上に漂う雲を裂いては、尾翼にはためく洗濯物で泳ぐ。その中でほの暗いランタンが灯す食堂から、騒がしい音と声が漏れていた。
「んん! アルチュール! オリーブオイルとってー」
「かけすぎるな」
「分かってるわよ!」
「それから食べるときは、口を瞑りなさい」
「んもーっ!」
白い皿に盛られたペペロンチーノを三人で囲って、夕食が開かれている。
相変わらず騒がしいフロランスは右端に、それを咎めるため何時もより口数の多くなった人質のアーサーはその向かいに、そして、そんな二人に始終呆れっぱなしのキティは真ん中に、それぞれ、木製のボウルに盛られた、洗い出てのサラダを分けていた。
それぞれ均等に分けられて置かれたキャベツとトマトは特性の玉ねぎのドレッシングをかけられて、艶やかに瑞々しく瞬く。ペペロンチーノと南瓜のスープという、少々色の偏った食卓の中に新たな色が揃った時、ガラスに瞬くオリーブをつかみ合って騒ぐ二人は、その光景に目を見張った。
「頂きます」
すると、フォークを水平に挟んで手を合わせて目を瞑るキティに、慌てて二人も、既に食べかけたパスタを前に座り直して真似をする。
「……イッタキマス」
「イターキマスル!」
「何か微妙に違うわね二人共」
それと同時に、掻き込むペペロンチーノは心なしか更に香ばしくなったようで、フロランスは満足げに頬をあげた。
「うんまー! 微塵切りのニンニクも、輪切りの唐辛子もしつこくなくて一番良い塩梅! すごく美味しい!」
「南瓜は冷製するもんだとしか知らなかったあんたが、よう言うわ……」
呆れながらフォークを回すキティの隣で、アーサーがその湯気薫るカボチャスープをすすり眉をあげる。
「初めての味だ……しかも不思議だ……暖かいのにちゃんと南瓜の味がはっきりと分かる……」
「南瓜の煮付けは、元々、日本料理なのだから無理もないわね。良かった、ちゃんと味を引き出せたみたいで」
キティも自ら作ったペペロンチーノの出来映えにうんと頷いて噛み締めた。各々、素朴ながらも、細やかな盛り付けと上品な味付けで、美味を為す夕食を楽しんでいる。するとやがて、続く銀燭の音と会話の中から突然として凜としたキティの声が響いた。
「あのね」
ものを口に含んだまま、それぞれ紫と灰の目を向けた二人の真ん中で、翡翠の瞳は灯火の影に沈み、テーブルに並ぶ食卓を眺めたまま言う。
「この場を借りて、みんなに一度話さなくちゃいけないことがあるの」
「え、なにどうしたの?」
一旦間を置いたキティは、息を吸い込んで吐く間際に呟いた。
「……さっき、貴方達が買い物に行っている間に、連絡があったのよ」
「誰からだ」
「トゥールデの魔女」
寸時の沈黙後、銀燭の叩く音が聞こえた。しかしキティはそちらに目を向けることなく、俯いたままだ。
「そうか……、やはりな。どうりでこの飛行機が何事もなかったわけだ」
それに、アーサーは徐に目を瞑り、改めてその状況を理解する。一方キティはそこでええ、と、答えながら含み笑う。これで、辻褄を合わせることが出来た快感と共に。それから少しずつ、パスタを頬張りながらキティはその時の心境を語った。
「トゥルーデの魔女は教えてくれたわ。これからこのK-7は……ポーランドのカティンにある、森の奥地に不時着することになるだろうって。そこで私たち……いや、私は初めて、ブリューメル一家と落ち合う算段になっているみたい」
そして、キティはそぞろに続けた。
キティとフロランスが今、最も心配している武士については、監禁されているはいるものの、特に酷いわけではないから安心してもいいということ。そして、K‐7の遥か下では、様々な変化が起こっている、と。
「特に今、ヨーロッパに点在するアメリカの部隊が特別の編成をもって、K-7の後を辿っているみたい。その勢力も各々二つに分かれているってね」
「ふたつう?」
「そう、二つ。一つ目、それは勿論、私達を出迎える方の部隊よ。アーサー殿を保護する目的で、森の中に集まる一勢のことね」
「ウェッブがいる部隊だな」
それに、アーサーが確信をもって答えた。
「私を保護する部隊の中には、ウェッブも必ず居るはずだ。おそらくその中には、ヨーナスも居るに違いあるまい」
「えぇ、私もそれはそう思うわ。だからこそ、私が懸念するのはも一つの部隊の方なのよ」
清覧な瞳でランタンを見上げるキティの顔面に、鋭く己の指が突き立つ。
「魔女は言ったわ。後の一つは『母親』を確保するために、直接ブリューメル一家を襲う部隊なんだって。それも、膨大な軍備と人員でもって、これはもうほぼ殲滅と相違ない計画を立てているみたい」
「せ、殲滅って……」
フロランスは汗を垂らし、たじろいた。その一方で、短い鼻息と共にアーサーの冷徹な声が凛として響く。
「黒豹の率いる部隊だな。如何にも奴が考えそうな馬鹿げた話だ」
「くろひょう?」
「名はマルコム。私の考える協働路線と違って、ムンダネウムを徹底的に殲滅することを主とする派閥のリーダー。長身のムラートだ」
対して、アーサーは特に動じる間もなく、同朋ながらも軽蔑の眼差しを壁に向けて呟く。すると、キティはそれに憮然としてながら、眉を顰め、詰め寄った。
「……アーサー殿、貴方にはこの一連の魔女の告発が、何を意味するのか分かってると思うのですけど……、それを含めて、どうしてそう落ち着いていられるのか、理解に苦しみますね」
睨みをきかせた翡翠の瞬きに、アーサーは素っ気なく目を逸らして答えた。
「何も、君こそ一連の流れの中で気付くべきだろう。何も心配する必要がないと」
それにキティ、アーサーは揃って目を伏せてはパスタを頬張った。途端に広がる香ばしい湯気の中で、しばらく噛み締めている後、食卓を続けるキティの横で、アーサーの薄い唇の方が先に開いた。
「何故なら、これらがすべて、彼女が知っていることだと分かったからだ」
「魔女子さん?」
小首を傾げるフロランスに、アーサーはああ、と、銀燭の音が響く中で影を為して頷く。
「彼女は少なくとも、無益な殺生は好まない方だ。私を黒豹に殺させるつもりもないし、ましてや、彼女が一番慕う『神』にとって、一番大事な『母親』をおいおいと黒豹に連れて込まれることも望まないだろう。そうであるなら、私が決して望まないことを、彼女は絶対にどんな輩にも、させないということだ」
その呟きに、膝を手につけ、目を大きく開いたフロランスへ、アーサーは眼差しを真っ直ぐに彼女に向けて続ける。
「この後の左右を決める紐は、既に彼女が握っていると考えるべきだろう。大丈夫だ。私たちはこれからも彼女の保護の元で降り立ち、仲間に会うことが出来る。黒豹とて、結局ブリューメル一家を捕まえきれないまま、空回りするに違いあるまい。だから何も問題などないのだ」
「でも彼女の算段の中に、武士は入っていないのよ!」
と、横から突然、キティがスプーンを皿に叩きつけた。
「そりゃ、魔女は自分の正義のためになら、何をしてでもそうするでしょうよ。でもその中で、武士の安全を保証する所なんてどこにもない! ムンダネウムとマルコム大佐の槍衾の中で、武士が巻き込まれたりしてもしたら……!」
「キティ……」
さっきからキティの目がギラついていたのはランタンのせいじゃ無かったのだと、その時フロサンスは流石に感じ取っていた。そっと椅子を引きずってフロランスは彼女の肩に手をかけると、それは微かに震えていた。フロランスの思いやりを受け取ったまま、キティはかぼちゃのスープを頬張ろうと肩をあげる。
「どうしようもないだろう」
しかし、それに対して、アーサーは腕を組んだまま冷徹に言い放った。フロランスは驚いて椅子を引き倒し、立ち上がってはアーサーに歩む。しん、と天使が通り過ぎた。
「アルチュールー……ちょっと……」
「申し訳ないが、私は降り立った後にその部隊を引き連れて、その日本人少年を救う権限を持ち合わせてはいない。部隊は私の命令一つで扱えるようなものじゃないんだ。……悪いが、少年のことは今回、諦めてしまうのがよかろう」
「んまーっよう言う! 部隊一動かせないで、何が大統領候補様なのよ!」
腕を振り上げた後、フロランスはテーブルに手をつけて怒った。
「じゃあ、いいわよ! 私達だけでも武士君を助けにいけばいいじゃない! フライングラムだってこの中にあるんだし、あたしが飛んでまた攫っていってあげるって! ね!」
と、金髪逆立てて、フロランスは弾けるようにキティの肩を掴んで揺らすも、それをアーサーが一蹴する。
「いや、それも出来まい。どのみちキティと君は降りた時点で、我々の元で確保だろう」
「ああああああ、そういや、そうだったあああああ」
頭を掴んで首振るフロランスの、その金の房で頬を叩かれつつ、アーサーは腕組む両腕の力を込め、静かに遺憾が篭った声色で言う。
「忘れないでもらいたい、君が手をつくそのキティは、我々にとっても重要な参考人だというのを。少年を救うとどうと言うより、私はまず、キティが再び、どこかに逃げてしまうことを何より懸念しているのだ」
しかし、それに対して、キティは相変わらず懸念の睨みを鈍らせなかった。キティはそこで遂に仕掛けた。
「……そうやって、さっきから、ウェッブ殿が先に助けに来てくれる事前提で、話しを進めないで欲しいわね。ブリューメル一家だってなかなかの遣り手よ、もしかしたらあっちの方が先に来てくれる可能性だってあるわそうしたら、どうしようも無くなるのは貴方の方。貴方は数多の銃口を前に何も出来ずに、何も言えずに、立ち去る私の背中を見送ることしかできなくなる」
「ありえないな」
腕を握り直し、アーサーは素早く言い返した。
「私達アメリカの部隊が、マフィアごときに負けることなど、ありえない」
すると、乾いた笑いが途端に弾けた。
「さあ、どうかしらね! そのアメリカ様が血なまこになって探し回っても見つからなかったのが、マフィアじゃなかったの? それに、貴方たちよりずっと前からムンダネウムの正体に気付いていた組織でもある。だから、まだ、この決着の行方はわからないのよ」
栗色の髪を空いたテーブルに垂らすキティは、牽制の笑みを零す。先ぼそった声はアーサーの余裕を躾るようであった。
「それにね、あと一つ」
ますます眉を顰め、沈黙の中でキティを睨むアーサーに、キティは真顔に戻って警告を促した。
「そうやってどうこうと、魔女に頼らない方が良いんじゃないかしら。魔女が貴方にとってのいわれのない幸運をもたらすというのなら、いわれのない不運をもたらすのもまた魔女ってことになる。その幸運にすがらない方が身のためね」
「そんなこと、君に言われなくても分かっている。私とて、すべてを任せるつもりはない」
「そう、それならいいけど、……私は魔女がそんな慈母みたいに、これからの騒ぎを止められるとは思えない。むしろ、この三つ巴を利用して、何かしら手を付けることもあるんじゃ……」
「知らんな。それをここで今更で言い合った所で仕方がないだろう。どちらが正しいかは、降りてからすべて分かることだ」
「……そうね、すべては降りてから決まることね」
最後にぐっと眉を顰め、キティは両手につけた拳を握り締めたのだった。淡々とした駆け引きはこうしてアーサーの懸命な、キティにとっては一方的な落ちで終わった。冷えた食事の上、冷えた灰と緑の視線が絡み合う中、その糸を途切らせて前に出るは手を組むフロランスだ。
「え、ねえねえ、終わった? 話し終わったの?」
キョロキョロと怯えた目で二人を見るフロランスに、アーサーはしばらくして目を伏せては微かに頷くと、フロランスは勢い良く机を両手で叩き、激しい木音と共にパスタとサラダを弾かせた。
「はああい! 辛気臭い話はここで終わりいい! これから起こる大変なことは、降りてから考えましょ! この空の中にいる間はその話しはなーっし! つかの間の休戦を精一杯楽しみましょうよ!」
と、両腕でバッテンをした後、その空気を押し上げるように、フロランスは目を瞑って手を叩いた。
「てなわけでこれから、アルチュールに教えてもらったロシア語をここで披露したいとおもいまーっす!」
「何なのよいきなり……。あ、貴方たち、いつの間にそんなに仲良くなってたの……」
「暇だから教えてくれってしつこくてな、三時間も付き合わされた」
「そんな、無茶な……」
「はいはいはい!またそうやって二人で話し込んでないで! はーい、ではロシア語そのいち! やったー!」
無理矢理に盛り上がらせようと、挙手の態勢で大声をあげるフロランスであったが、それにキティはアーサーの方に顔を向けたまま冷たく言い放った。
「あ、あれ間違えますよ」
「馬鹿な、『ウラー』って言うだけだぞ」
そんな二人の前に、フロランスは両手を猫の手にした叫んだ。
「うにゃー!」
「ほーらっね」
「………………」
「なによう! 貴女たちの方が仲良くなってんじゃなああああい!」
料理があるのも構わずテーブルへ勢いのまま飛び込んできたフロランスを、脇からキティとアーサーが必死に受け止めると、抑えきれない勢いと共に、三人諸共テーブル肘を突いて倒れてしまった。けたたましい皿が割れる音と共に、騒ぎはしばらく続いたが、キティがすべてを終えて片付けをしようと腕をまくった時、見渡すテーブルの上の料理はすべて空になっていた。
5、化物の住む森
朝。明日へと迫った決着の終着点に向け、荒地の道路を列になって走り抜ける軍用車がある。
紫色と桃色が重なり合う空を背後に、白い太陽に透ける鰯雲。その景色を横目に一直線に貫く道路を轟音と共に走り抜ける車。その先頭には眉顰める黒人の男――ウェッブが、助手席に座り、土汚れた窓の向こうに見える水平線を睨みつけている。沈黙の内にハンドルを回す部下の隣で、頬杖をつくウェッブはいつもの漆黒なる服装と異なり、ヘルメットを被り、かさばる迷彩色のジャケットを羽織り、スウェットとズボンはたぼたぼの土色の厚着をしている。そして、無線機のソケット、左腰にはダガーナイフのホルスター、そして、お馴染みのM10を携えるという完全武装でふてくされていた。
そんな大柄なウェッブの、更に厳めしくなった姿身を恐れるように、背後の席から窺うのは、同じ迷彩柄のTシャツに身を包んだ黒縁眼鏡のヨーナスだ。
「随分とかかるもんですねぇ、流石、東部前線の激戦区と噂のある地域です」
と、ヨーナスが呟けば、彼の肩に頭をのせて寄りかかっていた小柄な女性、高珊が自慢の長い黒髪をもヘルメットの中にまとめ、俯き際にうっすらと長い睫を揺らす。
「ン……ヨーナスさン、もう起きてたンですカ」
「ああっ、ごめんなさい、起こしてしまいましたね」
慌てて離れてヨーナスに、同じく迷彩のジャケットをぶかぶかに羽織った高珊は、広い袖口を目でこすってヨーナスを見上げる。
「あァ……ヨーナスさン、眠れなかったンですカ」
と、虚ろな黒い瞳を向ける姿に相反した、その彼女の鋭い指摘に、「全くかなわないなあ」とヨーナスは隈の覆う瞳を細めて微笑んだ。すると、高珊の向かいに寝そべっていた浅褐色の少年が、大仰に欠伸をして起き上がる。そっちの方は起こされたのではなく、ちゃんと自分のペースで起きたようだ。向かいの席まで隙間無く人が詰まれたトラックの中で、ヨーナスと同じく迷彩色のTシャツと、サングラスがかかった土色のフード羽織る少年――カマラは、堂々と両腕を上げて背伸びする。半袖からはみ出た腕は肘まで黒のネックを纏い、筋肉の隆々が際立っていた。
「あれっ、もう朝っすかあ」
ふああと大きな欠伸をするカマラに、ヨーナスは指突き立てて咎める。
「しーっ、真夜中に出たばかりでみんな疲れてるんだから静かにして下さい」
確かに、向かいには見知らぬ三人の仲間が、揺れる車内でヘルメットを突つき合わせて眠っている。しかしそれでもカマラは、最後まで「はあい」と大声で答えたのであった。
ヨーナスと高珊はその様子に深いため息をついた。そのマイペースさから二人は、「二代目ジョージ」と皮肉っている。しかしカマラにバレると絶対に調子に乗るので、それは二人の間だけの秘密となっていた。
すると、タイヤがまた固まった土岩を弾いて車内を揺らす。
「キャッ」
甲高い声をあげてヨーナスの胸に飛び込んだ高珊の艶やかな黒髪が舞い上がると、ヨーナスは大きな手でしっかりとその小さな肩を抱き留める。それに白紅色に頬を染める高珊は、ヨーナスの逞しい胸板に身体をぴたりと握ったままそっと顔をあげる。しかし、対するヨーナスの太い首は、窓の向こうの景色へと向けられていた。
「全く……こんな荒れ地を行く私達と違って、向こうは余裕綽々ですねぇ」
厚い眼鏡が移すのは、朝日で影になり、まるで静止しているかのように飛ぶアメリカ軍輸送機、「C-17」である。真っ直ぐに空を斬る尾翼を悠々と靡かせて飛ぶ、すんぐりむっくりなシルエットは、全長五十三メートル、丸樽のような四つのジェットエンジンも楽々と携えている。
その中に、どれだけの屈強な黒ずくめの男達が収まっているのだと思うと、その「おっかな」さを唯一身を持って知る黒い瞳は、悟っていた。
「うぜぇよな」
一方、頬杖つくウェッブがそう答えて忌々しく見上げた。サイドミラーの向こうに映る飛行機は、アーサー議員の救出を第一とする自分達の部隊とは異なり、ブリューメル一家を直に殲滅せんとする部隊である。
「いっつもあんな風に俺たちを見下ろしやがって、ムカつくぜ」
「ええ、だからこそ、何としてでもアーサー議員殿を助けて、立場を逆転させないとですね」
はめ殺しの窓を通じて、ヨーナスが応じると、ウェッブは「ああ」と深く頷いた。それがアーサーが誘拐されてから、久々に交わし合った二人の会話であった。
「取り戻すぞ、アーサーを。そしてアーサーと一緒に俺たちで立ち向かうんだ、あのムンダネウムと」
「ええ、ジョージさんの呪いは私達の手で解くんでス。いや、私達の手で解いていかないト!」
それに高珊は身をヨーナスの脇から身を乗り出し、真摯な顔立ちで言った。
「私達、みんナデ一緒に考えて、話し合っテ話し合って決めたんでス。私達、ジョージさんを決して放っておくはしないっテ」
「ええ、ここまで来たならもう、とことん付き合っていきますよ!」
静かながらも威勢の張ったヨーナスの太ましい声に、ウェッブは前を向いたままでも微かに口角をあげて荒息をあげた。
「全く、お前たちは」
ウェッブは目を細めて思う。カルカッソンヌでの出来事以来、ひっくり返ってしまったすべての中でも、お前達の軸は全く変わらない、と。
「やっぱり世の中じゃ、こういう奴らがいねぇとしまらねぇよなぁ」
分厚い頬の肉を更に手首の甲に押し付けて、ウェッブは斜め上にくるりと黒目を向けてため息をつく。その口角の揺らめきには、一種の寂寥感をも微かに表していた。
すると、その一方で、向かいのカマラがふてぶてしく呟いた。
「でも、それだからって、この鉄火場に高珊の姉御も連れて行って良かったんすかね。おっかないっすけど、仮にも女ですよ、しかもこんなちっこい女」
と、本人の前で指を差して愚痴るカマラに、ピクリと黒の柳眉をあげる高珊。
「失礼ですね、カマラ君。高珊さんはこう見えても凄腕の柳葉刀使いなんですからね。それはもうなんたってチェック・ノリスのお墨付きなんですから」
「だよね、チェック・ノリスはすげーよな」
「え、チェック・ノリス?すげえ」
「チェック・ノリスは凄いですねえ」
と、始終沈黙も保っていた運転手も、ヘルメットの中に目を隠したまま呟く。それにいよいよ高珊は怒って、ヨーナスとカマラ、白と黒の手の甲をそれぞれわし掴めば、親指と人差し指の間を思いっきりつねった。
「モウ!髭老師ばっか言ってないデ、あたしのことヲ誉めてヨ!!」
「「あいたたたたた、すごいすごい」」
二人笑って痛がるさまに、ますます高珊は黒髪を乱して力をこめた。
「全く! 特にカマラッ! あんたよく姉御に対してよく言えるわネ! もっと敬意を払いなさンな敬意ヲ!」
それは、高珊とカマラの出会いの時から遡る。その日、ヨーナスとの久しぶりの再会に飛び出したのを遮って指を突き指せば、
「おい、小娘。ヨーナスの兄貴に馴れ馴れしく口をきかすな。とっとと失せろ糞餓鬼」
と、睨みをきかせて年上の彼女を侮辱したのである。その後は次に大口叩こうとする間も無く、上段飛び膝蹴りで彼の顎を突き砕き、天井にぶらさげ黙らせたのであったが、それ以来、「姉御」と呼び慕われていると思ったら、この有り様である。
「全く、もウ!」
すると遂に、ウェッブがその騒ぎ大口開いて笑い、隣の運転手もそれに乗じて鼻息をもらした。高珊の怒り顔はますます周りの笑いの渦を沸かすのであった。それから他の者の目も覚め、すっかり騒がしくなった一行をいよいよ、地平線一杯に黒い線が迫ってきた。
「森だ!」
ウェッブが大声をあげて一斉を振り向かせば、ぐんと森々の形が露わとなって見えた。それは秋という季節にも関わらず、薄ら寒い雰囲気を感じさせ、背の高い針葉樹がまるで化け物のように立ち構えている。しかもまた、枝と枝の間にもカーテンの如く蔦を繁らせて、更に不気味に生い茂る。
「なんて茂みだ……あの中に…議員殿が……」
正に死神が潜むに、相応しい。
そう思い馳せながらも、ヨーナスは後ろに背中掴む高珊に景気づけようと肩をあげ、息を吸い込む。と、同時にウェッブが拳叩いて威勢を張り上げた。
「よし、行くぜ!何としてでもアーサーを取り戻す!」
「「「はい!」」」」
ウェッブの勢いに乗せて皆も武者震いに声を揃える。ごうと鳴るトラックのエンジン音が煙を吹き上げ、いざ、魔物の巣窟へ。――と、思った矢先、ウェッブ達を乗せるトラックは突然轟音を立てたかと思うと、急に止まったのである。
「えええええええええ!?」
「わああああああああ!?」
叫び声をも掻き消す鉄の擦り切れる音が、象のような鳴き声となって響き、聳え立つ針葉樹の手前にと、タイヤを擦り潰すほどに前のめって止まる。
「なんで急に止まりやがった、キサマァ!」
なすがままにされて前に転がる周りの中で、ウェッブだけが腹をクッションにしてバランスを保ち、ハンドルに額付く隣の運転手に拳骨をかます。すると、揺れるヘルメットの中で運転手は、ハンドルを命綱の如く握ったまま口をぱくぱく開き、声が出ないくらいに動揺している。
「おぃ! とにかく脇にでも逸れて列から離れろ! 後ろにぶつかる! 」
胸倉掴んで焦るウェッブの様子に、今度はヨーナスが焦って後ろを振り向いた。すると、後列のトラックの厳めしい正面が、クラクションと共にこちらを突き破らんと迫るのだ。
「うあああああ!」
ヨーナスは無意識に高珊を抱きしめては、自らが盾にならんと最悪の事態に目を瞑った。しかし、軍用車はぶつかる寸で、急に右に逸れたのであった。それでなんとか接触せずに済んだが、何故かそのま止まることなく森の境界に沿って走り続けているのだ。
「あ、れ……?」
「あ、あの、ヨーナスさン……」
耳まで真っ赤にしながら上目遣いにヨーナスにしがみつく高珊の一方、ヨーナスは窓枠から遠ざかる黒い軍用車を怪訝気味に見つめた。
「どういう、ことだ……?」
「ヨーナスの兄貴! これを!」
カマラの呼びかけに続けて前を見ると、続く後列大小の車たちが、轟音と共に次々と先頭の車を起点にして、てんでバラバラな方向に散っていくではないか。
「な…!? こんな滅茶苦茶な編隊じゃなかったはず! こんなんじゃ見つかるものも見つかりませんよ!」
「止めなきゃ!」
「あ、待って!」
手のばすヨーナスをすり抜け、カマラは銃を両手に飛び降りて走った。
「おーい、止まれー! 止まれ!」
そして、獰猛を窘めるかの如く、差し迫ってくる次の軍用車を、両腕を振って止めようとしたが、高く聳える運転席は、カマラの姿を捉えず、それもまたカマラの横を通り過ぎ、左に逸れてしまったのである。
「気付かねぇ!?」
「そりゃそうですよ」
それに、後ろから砂煙に眼鏡曇らすヨーナスが、横切る軍用車に首を向けて答えた。
「ああいう軍用車はあえて、前が見えないように作られてるもんなんです。なんたっていざというときは、人を轢き殺すために作られた兵器でもあるんですから」
「そんな」
両腕下げるカマラの低い声が素早く過ぎ去った後、ヨーナスは砂覆う僅かな隙間からギロリと黒の眼孔をのぞかせ、走り去ろうとする軍用車を見据える。
「まあ、そんな物だから、こんなとこしても大丈夫なんですけどねっ」
と、言い終わる前に取り出したのは、黒のサイホルスターと同化したGLOCK-18。それを素早く右手に取り、手首を傾けると途端に連続した砲口が鳴り響き。軍用車の尻に飛び散った。すると、それに当てつけられた軍用車も石に、軋んだ音を立て噴煙の中で止まったのである。
「うわあさすが、ヨーナスの兄貴」
と、カマラが口笛を吹くと、それに次々と前に迫る車達も、ようやく事の次第に気づいて止まっていった。
***
一方ウェッブは、胸倉掴まれたまま運転手が指差すカーナビの光景に懼れていた。四角い光板が映す画面には、この先が『海』となっているのである。目の前に聳える木々は紛れもなく『森』だが、自分が今居る地点を示す赤い矢印が指す先は、水色の一色塗りの海へと突入することになるとあるのだ。
「なんだこれ……」
「私のところはいきなり密接した住宅街に」
「俺は崖になって……」
「入る直前に点滅が激しくなったと思ったら……」
すると、分岐点となった先頭軍用車の後ろで、一斉がそぞろとなって己の車を放って集まっている。互いに森に入れなくなった理由を呟き始める彼らの前で、やがてウェッブは逞しい腕を組んで唸った。
「なんだい、てぇことは、誰かがカーナビの画面操作をして、俺たちの捜索を邪魔してるっつーことかあ……?」
一体誰が? マルコムの輩か?
と、裏切り者がいるかもしれない仲間達を睨みつける一方、隣の運転手は俯いたまま答えた。
「トゥルーデの……、トゥルーデの……魔女だ……」
その声の震えと共に、ざぁと砂煙が舞った。
「魔女が……我々の邪魔をしようとしてるんだ」
大人が恐れ戦く声に、途端、動揺が皆の芯まで広がった。
「ちょっと落ち着いて下さい、そんな事まだ」
と、ヨーナスが肩掴んで留めようとしたが、それを彼は肩で弾いて飛ばす。振り向いたその顔は怒りではなく、今にも泣きだしそうな怖れからのものあった。
「だって、それ以外考えられないじゃないですか! このカーナビは電磁波の影響をも物ともしない、我々アメリカ軍事専用の衛星を利用する特別製のカーナビなのですよ!? それがこんな、茶番のごとく荒らされてしまうだなんて! このやり方は、正にあの魔女の手口だ! 魔女の手口そのものではないですか!」
震える指で叫んだ仲間の、切羽詰まった口調に、ヨーナスもその勢いに怯んで首をすくめる。
「そうかもしれねえ」
すると、思案気に俯き、髭をなぜるウェッブが小さくそれを認めたのだ。NSAはシャットダウンするならともかく、書き換えるなんてセンスは持ってねえと、ウェッブは悟る。それにますますヨーナスは目を震わせた。
「だとしたら、そんな、おかしいじゃないですか……だって……」
ヨーナスの震えにウェッブは目を伏せる。ああ、そうだと心の中で答えていた。
「アーサーと魔女は協力関係にあったはずじゃなかったのかよ……!? じゃあなんて、アーサーを助けようとする俺たちを、魔女は邪魔をするんだ……!?」
それがてんで見当がつかなかった。それはやはり、魔女は所詮アーサーと協力するつもりでは無かったのだろうか、それとも――、嫌な予感にウェッブの額に冷たい汗が滲んだ。
まさか、魔女は本当これを、「アーサーのため」としてやっているのであろうか。ウェッブの脳裏に、魔女と協力することを覚悟した死神の灰色の瞳がチラつく。
「それじゃ……俺達がしてきていることって……? 本当は、アーサーのために……なってねえ……のか……?」
ふと呟いた言葉を寸時、ヨーナスは本当にそれをウェッブが言ったものか、と、その唇の揺らめきを疑った。
「ウェッブさン」
しかし一方で、動揺する彼の横に小さな身体を出すのは高珊だった。
「やめましょウ、今ハそんなことを考えるのモ」
「高珊……」
「事実ハ、すべテ会ってかラ確かめれバ良いじゃないデスか、こんなところデ引き返しテ、アーサー様をみすみすブリューメル一家に取らされる器じゃないでショ?」
他に、方法はあるんでしょ。と、黒い眼はその小さな身体が持つ、精一杯の力を見せて瞬く。高珊の沈黙を始めにして、ヨーナスも動揺めいた背筋を少しずつのばし高珊の後ろで立ち構える。カマラもフードを口元で覆い、ぎっと光らせた赤い目でウェッブを見た。そして周りの男達も慌てふためいた両腕を下ろし、互いに無言で顔を向かい合わせば、視線は最後に真っ直ぐにウェッブへと向ける。
それに腕を組んで受け止めたウェッブは、さっきまで虚ろに見下ろしていた腕の力を強め、彼らの期待に答える。
「ああ、そうだな……、アッタリマエじゃねえか……!」
そして、息の詰まった声と共に、顔をあげて言った。
「そうだ! これから大幅に作戦を変更するぜ! おいてめーら! 信号弾は持っているよな!」
「え、ええ。念のために」
と、皆は迷彩服から盛り上がる物体に手を翳す。
「なら、良い! 総員、それぞれチーム毎に編隊を作る形で捜索だ! 半径百メートル毎に離れて、捜索後、K-7を見つけ次第、信号弾を砲弾して連絡しろ! その合流点の手順はてめーらの脳味噌に詰め込んだ通りで行え! 総員、作戦開始だッ!」
腕を振り上げたウェッブは遂にそこから大きな決断を示した。彼らは、その脳味噌の中からウェッブが言うその作戦の意味を知る。
しかし、その中でウェッブに異を唱えようと口を開こうとする者は居なかった。ウェッブは森の方へ身体を向ける。その広い背中で彼らの健闘を称えながら。
「おっし! 行くぞお前ら! アーサーは何としてでも、俺たちが助ける! あの魔女にも操れねえお前らの意志を見せつけてやりな!」
「「「「「ラジャー!」」」」」」
顎を引いた総勢が、輪郭の鋭い鼻筋をきりと向けて叫んだ。
「よし、行くぞ!」
聳える黒い森に向け、銃を構えたウェッブの立つ場に突然黒い影が為す。遠鳴の雷雲のごとく地を響かせた音の方へ、さっとウェッブは空を見上げ目を見開いた。
(中編に続く)