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第6話 イギリス編(中編)

6、キティの故郷(ふるさと)


 一本の髪紐を手がかりに紡がれた英国の旅は、いよいよ大詰めを迎える所となった。


 テイラーの心当たりを頼りに訪れた最後の舞台は、イングランドの最北端に位置し、スコットランドとの国境沿いに位置する古都。その名は、ベリック・アポン・ツイード。


「聞いた事ねーなー。なんだこの町は?」


 立て続けの長旅で浅黒い隈に縁どられた青い瞳は、道路を歩く景色を見上げて言った。


 そこは、平坦な田園風景から、ツイード川と呼ばれる河口側の川をアーチ型の煉瓦で作られた鉄道高架橋で横切るその先にあった。そして今、ジョージの見上げる先には、煤の跡をも残す石造りの家屋が川沿いに続くキャッスルストリートに列を為している。そして、現代的なスーパーや雑貨店もちらほらとその隙間に並び、電柱とその下で車が縦横無尽に道路の間を巡らしては、ジョージ達の道筋を阻んでゆく。それは見事に現代と古風な建物が重なり合う事なく、それぞれ入り混じっているという奇妙な町並みであった。


 そこは、カルカッソンヌの様な、観光地としての風情とも、NYの様な首都として整備された町並どちらにも至らず、中途半端な小ぶりの街といったものだ。


 平坦な視界の向こうに、木枯らしを鳴らす木を見ながらジョージは退屈そうにぼんやりと口を開く。すると、それにテイラーも半端同意したように頷きながら、草花が生い茂る崩れかけた石壁に手をついて言う。


「そうねー。ベリック・アポン・ツイードはイングランド最北端、川の河口東海岸にある街なんだよ。一応ツイードジャケットの発症の地として有名ではあるけど、わざわざここまで観光に行くって事はあんま無いかなー。まあ、私の大叔母がここの出身でなかったら、私も覚えていなかったけれど……」


 きょろきょろ辺りを見渡しながら、テイラーは指を差し、ジョージに道を示した。そうして、両脇の建物が視界を阻む道路を、バスや車とすれ違ちがいながら歩くことしばらく、ふと左手に広場が広がり、花に囲まれた白いベンチが置かれているのに気付く。そして、その斜め左奥向こうには、パンテオンの神殿の正面を象った4本のオーダーが支える一階部分と、一つのアーチを象った三角塔が細長く聳え時計塔が見えたのだ。


 それが唯一、街の象徴としてあるような、風情ある雰囲気を醸していたので、ジョージは小走りにそれに寄ろうとしたが、テイラーはその上質なスーツのジャケットの裾を握ってふるふると首を振った。


 「ベリックの見所はそれだけじゃないんだぜ」


 そして、えくぼを作ってはその右手の、視界の開いた橋へ続く石畳に親指を突き立てたのだった。それにジョージは大人しく従い、そちらに顔を向けると青い瞳が好奇に瞬いた。


「あれえっ!これは結構すごくねえ!?」


「ほらまた、君すごいしか言ってない……」


 橋の端に手をつくジョージは、夕日で眩しい景色を手を翳しながら見渡した。今居る橋を中心に、右手に見えるのはさっき通った、地形を咲く様に聳える高いアーチの鉄橋、そして左側にはそれより低いアーチ橋から貨物列車が汽笛をあげて通り過ぎる。ツイード川に憚る二つの橋が両岸の街を繋げる景色は、その間に茂る新緑の森と良いコントラストを為している。それはイングランドにありながら、スコットランド、「ケルト」の文化を色濃く残した城塞都市としての面影を唯一保つ、赤い瓦屋根が交互によく見えた。


「そう、ここが一番ベリックの地形と美しさが分かる、ポイントってわけね。結構絵になる風景だろう?」


 そういえば、キティとNYで最後に別れたのも、こんな風に視界の広い河口沿いだったか――、途端思い出すハドソン川の風景と重ね合わした青い瞳はふっと寂しげにアーチの鉄橋を見上げた。


「で、エディス嬢がそのスコットランドの王族と、結婚したかもしれない所があそこだろうな」


 それから、テイラーがスーツのポケットに片手を突っ込んで指差す先は、夕日の逆光で尖頂屋根が真っ黒に、赤い家々の中から突き出ている教会だった。


「あそこで十数年前に従兄弟が結婚式をあげた事があるんだよ。そこの芝生にあった白いブランコとあの写真、同じものがあったからね。根拠はただ、それだけだけど」


「いよいよって訳だな」


「ああ、行こう」


 清嵐な表情となって、ジョージはその教会を睨んだ。風が生ぬるく金髪を揺らし、川面の波面を穏やかに描いた。


***


 低い石垣が芝生を囲む石造りの教会は、その様式はゴシック調でも比較的シンプルに組み込まれた外装と内装であった。白いブランコが今は無い事に戸惑いながらも入ると、トレーサリーが縁取る細長い日差しが、弱々しい故に暗くそしてじめじめした雰囲気を漂わせ、その突き当たりに掲げられた十字架のイエス・キリストの顔に陰鬱な影を為した。

 

 しかしその一方で、中に入る二人の気配に気づいてひょっこりと現れた丸眼鏡の神父は、「やあ、ようこそ」と朗らかに、老僧にしては皺の目立たない、たよやかな桃色の頬袋を揺らして二人を快く迎え入れてくれた。その穏やかな目尻の垂れにテイラーも安堵のため息をつき、身を乗り出して写真を前にして問う。ここまでくりゃ、とことん最後まで付き合ってやる、という心意気で意気揚々と神父に答えを請うた。すると、


「それはいつ頃の事かはご存知ですか」


 と、逆に問うた神父の言葉に、うっとテイラーは身を起こす。それに対し、ジョージが正面から淡々として応えた。


「多分、20年より前だ」


 それは、キティの年齢を考慮しての事だった。ごくりと唾を飲んで頷くテイラーに、神父は「分かりました」と簡単に答え、一旦部屋に戻っては、緊張で待つ二人に向かい、やがて古い書類を両手に持って出た。


 それは、教会が創立されてからずっと記録され続けている結婚登録表であった。茶褐色に侵食してしまっている一枚一枚の紙をめくり日付を確かめながら、ジョージの指摘した通り20年より前の表を遡っていった。それに二人も沈黙でもって見守る。すると、遂に今日の25年前の5月30日の表を捲った所で、ぱあっと神父が明るい笑顔で応えた。


「あ、ありましたよ。これですね。エディス・ヴィクトリア様のお名前」


 言い終わらない内にテイラーとジョージは互いにそれを奪い合うように書類を取って凝視した。前任の神父が記したであろう黒いインクで記された達筆な筆記体。それは確かにタイプライターで押された「新婦」という項目に確かにエディス・ヴィクトリアの名があった。そして、その右隣に並ぶ新郎の名は――、


「アングイッシュ・J・カンモー……?」


「カンモー?それ、古いスコットランド語で『頭でっかち』って意味だぜ。なんだそりゃ」


「え、カンモーですって?」


 すると今度は、神父が小さな声をあげて、彼らとはまた別の声色で言った。


「それは『大首領』という意味合いもあるのですよ、テイラー氏。しかし、カンモー……カンモー家といいましたら、かつてこの地一帯を収めていたスコットランド王家の末裔ではございませんか。まあ、その縁のある方がここで結婚式をあげた事もあるんですね。なんと光栄な事でしょう」


 と、垂れた頬を掴み上げ、ベリック市民としての誇りの様に喜ぶ神父は、更にその喜びから滲み出る思い出に華を咲かせた。


「そういえば、今や幽霊屋敷となった海岸沿いのお屋敷も、十数年前はカンモー家が住んでいた所だったんですってね。亡くなった前任の神父が引き継ぎの時に教えてくださいましたよ。何でもその時は、とても可愛らしい後継娘もいたそうで、地元民は、その神父も含めてベリック嬢と呼び慕っていたそうですよ。あの頃が一番幸せだったて……あの、どうでしょう。その新郎の方はそのカンモー家の親戚か何かでしょうかねえ?」


 それは、神父にとっては他愛の無い話であったが、それが遂に、ジョージとテイラーの固まる心臓を貫いた。


 娘。やっとここで聞き取った言葉に一気にジョージの血潮が奔る。しかし、その勢いが強すぎて、逆に声が出ないのある。


「「とりあえず」」


 高低差のある青い瞳とブラウンの瞳が焦点を合わせず震えて言った言葉に、神父が笑顔のまま「ふえ?」と、首を傾けると、その顔に向かって二人は途端大声をあげて言った。


「「とりあえず、その屋敷の居場所を教えろってんだよ!」」


***


幽霊屋敷と呼ばれる館は、海沿いの高台に位置していた。一面に生い茂る森を抜け、芝生が広がる頂上に一つだけ残されているそれは、雨風に晒されつつもかつての歴史ある面影を辛うじて残し、およそ四階建て、幅50mはあろう巨大な館であった。夕焼けに彩られる黄色い壁と、そこに組み込まれた細長い窓枠からは、その部屋の多さも伺える。


 ジョージは風が諭す屋敷の壮大さに、口を閉じるのも忘れてしまっていたが、振り向くと、さっきまで見下ろしていたベリックの町並はすっかり森に覆われ見えなくなってしまった。


「あ…?」


 高台といっても非常に緩やかな傾斜で森と芝生が広がっており、この屋敷一帯は背後の鈍色の水平線が見える海を含め、すべてカンモー家のためにあるものだと、見知らぬ二人も無言のままに悟った。


 古代より残っているのであろう石塁に沿って東から屋敷の裏に回ってみれば、屋敷を境に白い礫が海に向かって広がり、満潮の海が揺蕩う。それから曲線を描く豪勢な手すりに沿って、向かい合う様に階段を上がれば、木造の格子扉がジョージ達の前に立ちはだかった。


「あー、やっぱしまってるよね……?」


 と、遠慮がちに押してみるテイラーの手元、そこに突然ジョージが左足を振り上げ蹴り飛ばす。激しい木音を立てて跳ね飛ばされた扉に、テイラーはわあっと、熱いものでも触ったかのように両手をあげて飛び上がった。


「ちょっとお!乱暴な事せんでよ!」


 それを無視し、ずがすがと入り込むジョージの背後に中指突き立てて後を追うも、中に入った途端、その怒りもすっかり忘れてしまう。十数年も放っておかれたであろうサビの臭いが、扉が放たれた事で今まで充満した空気と共に二人を襲った。


「うっわ……!きっちゃねっ!」


 その声の揺れで天井のシャンデリアが揺れ、細長い灰色の埃を落とす。せっかくの広大な屋敷も外より中の方の侵食が酷いものであった。白く分厚い埃は床一面を覆い、雪の様に忍び込んだ二人の靴跡を残す。玄関との境である階段をあがった先、転がった高価そうな椅子も机もばらばらに散らばり、右手の暖炉はこげた痕があれど、しんとして冷たい。そして、正面に迎えた螺旋階段も、向かいガラスから見える夜の空が点々と、装飾の隙間に瞬いては屋敷の中に潜む怪物の目のように不気味である。


「幽霊屋敷って呼ばれてんのは、伊達じゃなかったようだな」


 と、呟き、ジョージは背中にしがみつくテイラーを他所に、灯り代わりにとタバコに火を付ける。風に吹かされぬ様両手で包んでくゆらせば、ぼうと広がった光により、灰と橙が縁取る荒れ果てた屋敷が微かに映った。


「へえ、これじゃあ、こんなに大きくても幾らなんでも値段もたかがしれてるな。幽霊が出たとなりゃ、いくら安くでも買い取る奴なんてどうにも…」


「アホかあ!イギリスでは幽霊が出るほど高価になるんだってば!こんな一等地の大屋敷で、しかも幽霊が出るなんて、高くなりすぎて誰も手に負えられなかって事なんだろ!」


 しがみついたまま大声を響かせるテイラーに、ジョージは「ほんっとイギリスってわっかんねえな」と気だるく息を吐いた。そして、まるで生き物の様に蠢きそうな、唐草模様の螺旋階段を見上げて眉を顰める。


「それにしても、なんでだろう」


 かつて、この一帯を治める程繁栄を遂げていた王族の末裔、カンモー家。それが何故、たった十数年の間にいなくなり、こうして屋敷も酷い有様になっているのか。そして、ホールダネス氏が隠そうとしていた、サルタイア卿の母であるエディスの、前夫だったかもしれない謎の男アングイッシュと、この屋敷との関係。そして、ここに住んでいたという令嬢「ベリック嬢」の正体は何なのだろうか。


「そして、キティの手がかりを見つける最後の鍵は、ここにあるのか…」


 なんか、嫌な予感がする。


 と、やっと追い求めた行先に関わらず、ジョージは螺旋階段を上りながらタバコの火を震わせた。


「とにかく、一旦すべて探しに行くぞ。なんでもいい。資料やら本やら何かこの一家に関わる事だったらすべて、何としてでも見つけ出せ」


 裏声をあげて嫌がるテイラーをそのままに、ジョージは再び憮然として、ポケットに手を突っ込みながら身を屈め二階へと至った。両翼の廊下は一寸先も闇である。ジョージはその中を、呻き声の如く通り過ぎる風に急かされる様に通り過ぎた。


 ジョージの歩く二階の部屋は、分厚いカーテンで締め切られたまま仄暗い。ゲットー育ちのジョージでさえ、ここで人が住んでいた事を想像する事が疎まれる程に、すべての部屋はカビによる異臭を放っていた。それぞれに置かれたベットやソファも、引きちぎれては綿が埃と絡み合って溢れ出し、それが主人の部屋か、それとも子ども達のものか、その区別も難しいほど戸棚も机も空っぽで、乱雑に転がっている。


 その異様な光景に、ジョージは一つの部屋の扉に片手をついて顰める。やはり、誰かがあえてこんな有様にしていった様な気がして。


「くっそ!なんでだよっ…!」


 誰もいない場で遂に、ジョージの苛立ちが舌打ちと共に発した。全てを引っくり返された衝撃と長旅での疲労、今やここが自分の知っている現実がどうかも区別がつかなくなった混乱に、精神が軋み、身体に呼応するのだ。


「なんで、追い求めさせてくれねーんだ!」


 得体の知れない相手へと、犬歯で牽制し荒れ果てた部屋を荒々しい視線で眺めゆく。そして、脇の階段を降り、再び中央までの道をまっすぐに進んでいると、カビとは違う鉄の臭いにつんと、鼻筋ののびた白い鼻がひきつき、はたと脚を止めた。それは右手の、他の部屋より大きな扉の向こうからだった。ジョージはそれに一瞬目を見張った。


「あ……?」


 暗闇の向こうから臭う部屋。既視感のある光景に思わず目を伏せ、気のせいだと言い聞かせて中へ脚を入れる。そこは、金色の装飾品が為す白漆喰塗りの部屋だった。他とは異なる女性的で豪華な部屋が、向かいの窓から照る月光に反射してそれなりの光を灯す。すると、赤カーペットに漆黒の染みが、そこを中心に点々と散らばっているのが見えた。カビの臭いと共に本能的に気づかせる、このつんとした喉の奥まで届くものは。


「血……?」


その時、テイラーの声が屋敷内に響いた。


「なんだ!?」


 彼の切羽詰った「来い!」という声にジョージは舌打ちしつつ、走ってその声のする方へ向かった。正面玄関に至れば、テイラーが右翼側の手すりを掴んであっちあっちと暗闇の廊下へ指を刺す。それにジョージも三段飛びで階上まで飛び上がり奥の廊下へ走る彼の跡をを急いで追った。と、その突き当たり右手、海に面する小さな部屋の扉から、微かに灯火が漏れているではないか。


 何故だ、と、思ってその前に至ると、そこだけが唯一、異様な空間となっていた。そこは他の部屋違い、隅々まで手入れが行き届き、大量の洋書と資料が両脇を囲む普通の「部屋」だったのである。

 茶褐色の木机とハート型の背もたれをもったアンティ―ク調の椅子は、海に対する窓に沿って置かれ、陶器質のデスクランプが橙色に灯り、白い瞬きをもって部屋を照らしている。この荒れ果てた中で唯一そこだけに宿る生活感が、余計に不気味であると二人の戦慄をかき立てた。


「なんだ、これ」


「だ、誰の部屋なんだあ……?」


 やがて二人しておそるおそる、カーペットを踏んで中に入ると、その恐れを慰める様に程よい香りが漂った。何度も誰かが入ってきたというのだろうか。と、なればここが幽霊屋敷と言われるのは無理もない話だな、と、ジョージは察した。


「なんだろうな……主人の部屋なのか……」


「それは無いね」


 すると、後ろからテイラーがジョージの推理を否定して首を振る。


「さっき見たけど、右翼突き当たりの一階部分は使用人用のバスルーム、四階部分は食堂兼キッチンルームだったよ。水回りに近い所に主人の部屋があるなんてありえない。でも、確かに使用人の部屋にしても広すぎる気もするな。それにこの大量の本は……」


 推理を待つジョージの横を通り過ぎ部屋を見渡すエイラーは、目配せの中で思い浮かんだ答えに自ら目を見開いた。


「まさか、家庭……、教師?」


「家庭教師ィ?部屋持ちの?」


「あ、ああ……。今では滅多に無くなったけど、昔の貴族は子どもの教育を学校ではなく、住み込みの家庭教師にさせていたのが普通だったんだよ。オーケストラしかり、学校の授業しかり、一つの事を大勢で共有するというのは所詮庶民のする事であって、貴族であるなら優秀や教員や教授を雇入れ、貴族の子息、令嬢のお付きとして教育を独占してしかるべきだ、という風にね。」


「は?あのプライオリ・スクールを全否定?うっわあ。さすが、王族はやる事が違えな」


 と、呆れた眼差しでテイラーを見るジョージであったが、さしものテイラーも同じく冷や汗をかいて机の方を見やった。


「ああ、そうなんだ。全くもってレベルが違いすぎる。こんな事を十数年前までやっていたカンモー家の貴族としての対面というものは一体……ああ、庶民の私にはとても想像に及ばない程のものだ……」


 その声の震えは尊敬の念よりは最早、畏怖に近いものであった。しかし、途方もない貴族という存在に、憧れに踏み込んでいた筈のテイラーは、次第にその居心地の悪さに胃が重たくなっていく。


「まあ、とにかく。本当、なんでここだけがこうなってんのかね」


 秋の寒さに関わらず滲む汗を拭うテイラーは、びっしりと並んでいる棚の本を眺めた。理解のままならぬジョージに代わり、その中からこの部屋の人が何者であるのかを見破らんと首を回す。すると、その目端、ベットの枕元に均等に並んでいる赤い本の列に自然と目がついた。と、その背表紙が金の刺繍で「我がベリック嬢の日誌」と書かれていた事を知った時、いつの間にかテイラーはその本を他の本ごと引っ張り出していた。突然の行動に目を見張るジョージも、ベットの上に転がる幾つかの赤い本に理由を悟って共にその手に取った。


「我がベリック嬢?なんだよ。やっぱりここって主の部屋じゃね?」


「だから違うって言ってんだよ!もしかしたら、家庭教師がその令嬢の事をそう呼んでったって事だろう、がっ!」


「いや、家庭教師だからって、主人の娘に『我が』なんて付けるのおかしいじゃねえか。気持ち悪い」


「ああ、まあ。確かにそれはそうだよな。でも、コレ、見てごらんよ」


 と、テイラーは本を傾け背表紙とその反対側を見せる。そこには鉄製クリップの中心に小さな錠前がかかっていた。ジョージも自分が持っている方にも同じ鍵が掛かってる事を確認する。


 暗黙の了解なる後、賢明に引っ張って剥がそうとする唇をひん曲げるテイラーの横から、いよいよジョージが胸元から黄金銃ギルデットを取り出し、クリップに向かって咆哮を二発鳴らした。凄まじい爆音と爆風にテイラーもこれ程にもない悲鳴をあげ、涙を飛ばしながら向かいの棚へとぶつかった。


「んにゃああああああ!?イギリスは銃規制国家よぉおおおお!?」


 泣き叫ぶテイラーを脇に寄せ、ジョージは徐にクリップがひん曲がった本を取り出した。その中は年月が物語る茶色い羊皮紙のまとまりだ。その表面には隙間なくびっしりと万年筆で書かれた日記が綴られている。そして、開いた1ページ目にはくすんだ写真挟まっていた。それは、ジョージらが最後の手がかりとして手に入れていた、エディスとアングイッシュ夫妻の結婚式の写真だったが、ジョージはそこからすぐに同じ物だと気付く事ができなかったのである。


「え」


 何故なら、新郎の顔が――、原型を留めない程刃で切り刻まれていたのだから。


「な、に……こ、れ……」


 デスクランプが点っているだけの暗い部屋、本が取り囲む息苦しい雰囲気がジョージに更なる震えを促した。それにテイラーもひいっと身体を硬直させて、その悲惨な写真の有様を目にする。ジョージは勢いに乗せて本を開こうとしたが、それを青ざめた顔でテイラーが彼の手を掴む首を振って言った。


「いや、ジョージ。これは順に追って読みすすめた方がいいんじゃないか」


 それにジョージははっと汗散らして青い瞳を見開く。


「そうじゃないと、私達はこの屋敷の中に取り巻く禍々しい何かを、理解出来ない様な気がするんだ」


 カビの臭いに胸糞を悪くしていた二人に、再び降りかかるただならぬ恐れ。その写真はそっと脇に置いて無かった事にし、互いに汗が滲む顔を見ながら頷き合った。互いの手でその本を持って目を凝らし、二つのАが殴り書きされた日誌の作者名が書かれた本は、こうしてゆっくり読み解かれた。


 一人の謎の人物によって語られる物語。


 ここまで探し求めたキティの姿が、遂にここで明らかとなる。


7、君の名は


『それは、5月30日の、晴れやかな日であったという』

 

 日記の最初の一文は、そう綴られていた。


『芝生が新緑に靡き、森が芽吹き、花が咲き誇り、ベリックが一番美しくなる春の季節。街に鳴り響く鐘の音に祝福されてその日、一組の男女が婚姻を交わした。刺繍の細かいウェディングドレスを春の風に揺らす女はエディス・ヴィアトリス。23歳。チェシャー州の上流貴族、ヴィアトリス家の第三女。彼女の回りを取り囲む姉妹ら、親戚らが一年後、アイルランドのテロ事件で全員死ぬ運命にあるのをこの時の彼女はまだ知らない。一方、均等に並んだ白い歯を魅せて笑う、栗色の髭が立派なキルト姿の男はアングイッシュ・J・カンモー。26歳。この港町ベリック一帯を古代より治めている王家カンモー家の長兄かつ、当主にあたり、この日は腰の曲がった赤毛の母モーリーの、皺だらけの手で顔を覆わされた祝福に涙を流す。


 イングランドの上流貴族と、スコットランド王家の結婚という、青き血なる者同士の結婚という事もあり、ベリックの人々から非常に愛でたい事だとして、数多くの花びらと共に迎い入れられた。


 それから、数多なる期待に応じる様、豪勢な館での蜜月により、アングイッシュの寵愛を受けたエディスは、白いワンピースから膨らむお腹を愛おしく撫で、彼との子どもを身ごもったと墓前の家族に告げ知らせた。そうして、結婚より2年、結婚式と同じ5月の30日、萌黄の葉々が香り、白い雲が漂う青い空に元気な産声が響いた溌剌とした声は、母の絶叫に畏れ手を組んで震え祈っていた父も思わず、顔を綻ばせて飛び上がったという。


「おめでとう、元気な女の子ですよ」

 

走り寄る様に父が分娩室の扉を開いた時、笑顔で迎える白衣の助産師の向こう、汗をかいた医師に絹布で巻かれた生まれたばかりの娘と、彼は初めて向かい合った。


目を瞑ったまま歯もない黒い大口を開けて泣く赤ん坊。それにすかさず、顔を綻ばせた父親は駆け寄っては、逞しい腕にすっぽりと収まる我が子を抱き上げる。


 初めて受けた光に驚き、赤ん坊は身を捩らせて泣き叫ぶも、赤ん坊はまるで父親と血の疼きを掴む様に、差しのばされた指を、真っ赤でしわくちゃな枝の様な小さな指でしっかりと結んだのだった。


 娘の産声と共に、歓喜に打ち振るえる父の涙。額に汗をびっしょりかき金髪を濡らす母親は横目でそれを見上げた途端、緊張が解けその場で気絶してしまったという。


 そうして母が、産んだ我が子と対面したのは、膨らんだ頬の血色が桃色に落ち着いた時、そして羊水で血に濡れた髪と身体も剛毛の覆う父の手によって丁重に洗われ、栗毛が日差しに瞬く様になってからの事であった。


「よくやった、エディス」


 アングイッシュが、凛とした声を広い個室の病室に響かせて言った。それに対して寝たまま微笑む母の元に、厚布にくるまれた赤ん坊が寄せられた。微かな鼻息を、豆粒程の小さな鼻を揺らして眠る娘への愛おしさに自らの頬を寄せ合うと、赤ん坊の栗色の目蓋が揺れて母の頬をいじらしくくずくった。それから見つめ合う、同じ色をした翡翠の目と目。


 気絶した母に代わり、今までこぼれ落ちる程の娘への愛をその身に注いでいた父は、今一度優しく抱き上げ、眠る娘と妻を見下ろしながら言った。


「僕のすべてを、この子のために捧げよう」


 髭を生やした頬にすりよせて、再び目を瞑る娘を抱いて言った。


「血の繋がりだけじゃない。この身に宿るすべてのものを、知識、経験を思想を、財産を、地位を、僕のすべてをすべて与えていきたいと想う。この子は僕の分身でもあるのだからね」


「でも、貴方、この子は」


 ふっと寂しげに瞼を閉じた妻の心情を、夫として悟ったアングイッシュは、首を力強く降って口角をあげる。


「女の子だからなんて関係ないよ。この子は僕と君の子だ。無理に当主として意識させなくていい。この子はちゃんと女の子として、それでも、それに囚われないで自由に生きていける様に、僕たちの手でで育てていこう」


それに、一筋汗を垂らしながら安堵のため息をつき、彼の方へ愛おしく首を傾ける妻の、やつれた顔を撫でて慰め、アングイッシュは夫として、そして父として二人の家族を愛していこうと決めたのだった。意思のある男のブラウンの瞳は、やがてこの手に持つ娘に託すであろう自身の地、ベリックの町並を見据えていた。いつか大きくなった彼女の手を引きこの街を共に見たいものだ、と、これからの生活への期待へ、娘を抱く胸をふくらませた。


この父親の仕事は、他のアッパークラスの例に漏れず、ベリック・アポン・ツイードの土地を管理する事にあった。現代的な無機質で四角い建物を出来る限り避け、その土地を所有する事で不動産業界から守る事、そして歴史ある城壁などの管理の難しい建物を惜しみなく投財を注ぐことによって程よく保存し、市民たちに古き良き景色を残す事にあった。そのため、カンモー家の影響力は市官庁と別格を為す程のもので、父親は正にその役職としての資質を、その人間性はともかくとして、十二分に備えていた事はここに記しておかなければならない。 


 正に彼は、王族の末裔たる逞しい男だった。上品な質感を醸し出す、ライトブラウンのツイードジャケットとスラックスを着こなし、金ボタンが大きい新緑の羊毛ベストに、臙脂色のネクタイを常に身に付け、妻以外の前では決して気を抜く事はなかった。


 その分、妻に甘えていた事もあったのだろう。同じ大学院生として知り合って以来、口説きに口説いて結婚したという経緯もあってか、他の者から見ても明白に、奥手な妻の抵抗を介する事なく、彼女への愛を示していた。それはその妻との間に出来た娘に対しても同様に、いやそれ以上であった事は想像に難くない。


 その父親の第一子として、そして二人の間に産まれた唯一の娘として、「ベリック嬢」と呼び慕われた彼女は、初めての事で戸惑うばかりの両親の差し出される手から、その勢いに弾かれる様な形で、すくすくと育っていった。土地の名前からとった「ベリック嬢」という名誉ある名を抱えた少女は、まだ自らの存在の重みと責務をまだ知る事もなく、隙があればよく走り回る元気な子であった。


 母から譲り受けたフリルの服を風に靡かせ、王族の証である赤チェックのリボンで腰までのばした栗色の髪を結んでは、小さな身体をバネにして飛び上がる彼女の姿。それはまるで小動物の様であったという。

 

 しかし無理も無かった。好奇心旺盛の翡翠の瞳に映るカンモー家の領地は、すべてが何もかも新しい事の発見だったのだから。屋敷の四方に広がる萌黄色の田園と花畑は、羊たちを入れる余地を与えず、嬢は獣の臭いやその糞の存在を知る事なく、走りまわる健やかな楽しみを覚えた。そして、町との境に広がる森の木々も、黄土色の木漏れ日を透き通った葉々に通して彼女を灯し、木の香りは彼女に癒しを与えた。


 流れる小川のせせらぎは鳥の鳴き声と共に春の余韻を醸し、真新しい革靴の草花にくすぐられた嬢は尚も走り回り白い靴下を川べりの泥で汚す。そこには鳥も野生動物も数多くいて、柔らかな毛を風に揺らす子リスが、ひょいと彼女の服に張り付いてポケットの中をまさぐれば、そこからビスケットを頂戴する事も度々あったという。嬢もそれが楽しみで毎日、ポケットの中はクッキーの破片で汚れていた。

 

 そして最後に屋敷の背後には群青の海が広がり、それも彼女の独り占めであった。白いかもめが青に反して、その対照的な輝きをくっきりと縁取って彼女の元に駆け寄り、彼女に笑顔をもたらした。泳ぎもそこで覚えていったという。


 そうして一日中走り回って、泳ぎ回ってボロボロになった彼女を、母は腰に手を当て怒ったが、頬を膨らませながら白い布生地に草花の跡がついたのを「汚れた」という母に対し、


「それは違うわ、お母様。気に入らないから染めたの」


 と、堂々と抗議してる所に母はあっけらかんとした。しかし、その脇で父はよじれる腹を抑えながら彼女の天真爛漫な振る舞いと、その強気な性格をすべて(よし)としたのである。


 そうして、父の庇護の元、女中たちの甲斐甲斐しい世話焼きをも構わず嬢は、自由にのびのびと育っていった。そして、それは父の方針でもあった。わずか4歳の頃から、父は娘を引き連れて様々な所へ連れて行った。町並が見下ろせる高台に座って家族とピクニックをしたり、管理している牧場での羊の毛刈りや、同時に乗馬を嗜ませた。


「美しく晴れた皐月の朝またぎ、一人のなよなかな女騎士が、悠揚たる栗毛の牝馬にまたがり、森の小道の中を駆け巡っていた……か……」


 風に靡く草木より早く、馬を操って笑う嬢を見守りながら、父はカミュの一文にのせてその情景を例えた。また、猟場に赴き、父自らがマスケット銃で仕留めた鳥や動物の解体までさせていたという。そこで皆が嬢に対して驚いていた事は、女子でありながら、それに全く動じずに意気揚々として取り組んでいた事だった。それに驚く彼らを父はますます嬉しそうに、返り血を受けつつ賢明に汗をぬぐって取り組む彼女の肩を抱いていたという。そこで祖母、モーリーンは屋敷のベンチに座りながらと、その無骨な手の平を追い求める嬢を愛おしく見守りながら、隣で刺繍をしている母に呟いた。


「アングイッシュは、あの子を当主の器として育てようとしているのだわ」


 その言葉に、貴族の三女としての立場柄、意味が解らず首を傾げるエディスに、モーリンはその愛しい指に抱き上げられて笑う孫娘を見ながら続ける。


「我達カンモー家の子は、それが尚更当主であるなら、王何でも一人で出来る様にこなさなければならないっていう風にしているの。すべてを召使にやらしてただの木偶の坊になってしまったら、それこそどの身分より卑しい人間という考えでね。だから、アングイッシュは、あの子をただの大人しく可愛いだけのお嬢様にする気はまったく無いんだわ。あくまで堂々として、凛々しく、すべての智慧と人間性をそなえた立派な当主として育てていこうとしているのよ」


 彼女の続ける言葉は、に無表情のまま小さく口を開けて聞いている母、エディスに一抹の不安を疼かせた。


「当主は大変よ。この街の管理人として、これから色んな人と出会って話しをして、望むべき方法へ経営を導くためには、人と気兼ねなく向き合う能力と、その中で自分の意思を貫く意地と強さも必要となるわ」


 とは言っても、そこでモーリンは少し声を低めにして続ける。


「嬢が自分と違って女である事についてはアングイッシュもきちんとそれを意識してるはず。それも含めて人に――、ましてや男に陥れられない聡明さも、これからのあの()には必要になるのよ。彼女にふりかかるであろう様々な困難を、あの人は自分の全てを投じて、一人で乗り越えられるようにしてるんだわ。あの子の父親としての、義務でね」


 と、彼女もまたその「当主」を育てた、母としての威厳に満ちた顔で笑っているその隅で、レースを微かに揺らしながらエディスは、夫の愛と知ると同時に、その策略めいた笑顔に初めて、曇天の下で寒さを覚えた。娘の自由にいさせているように見えて、実はすっかり自分の考えていた通りに収めている夫の、誇らしげな髭の揺らぎ。一方、それに何も知らず、父に与えられたすべての事に、充実している面持ちで頬にすり寄せている娘の楽しそうな声。


 それにエディスは一人だけ、どうしてか残されてしまっている違和感に眉を顰めるも、この時の母はこれが夫の愛の示しなのだと思い込む事によって、唾を呑む喉の中にそれをしまいこんだ。そして、嬢が父の腕から飛び上がって頭から落ちていった事に悲鳴をあげる。


しかしその違和感は、嬢が6歳になろうとしていた時、いよいよ学校へあがる年頃になった頃から少しずつ明確になっていった。


「学校には行かせないよ」


 その日は雪の日だった。背後の窓が厚いカーテンに覆われ柔らかな暖気が漂う中、螺旋階段の脇、椅子に座るアングイッシュは、その膝の上に乗って遊んでいるベリック嬢を抱き留めて言った。


「何ですって?」


 それに母、エディスは夫に対して珍しく怪訝に、金の眉を歪ませて顔をあげた。それに対しアングイッシュは飄々として、自分の理念を語っていった。


「学校に通ったって、そこにいる先生が優秀である保証なんてどこにも無いじゃないか。それに、僕はこの国の学校制度には共感出来ない所がある。僕は、この子の本来の力をより引き立たせるためにも、自分の目で見定めた優秀な教員を集めて、ここで学ばせていきたいと思うんだ。もっと自由で尚且、この子がもっと楽しんで学ぶ思い出を刻んでいきたいんだ」


「そんな、学校は同世代の友だちと遊ぶ機会を得るために通うことだってあるのよ。それではこの子がもっと一人ぼっちになるじゃない」


「そんなのは教会の子ども達とで十分じゃないか。それにこの子はもう独りを恐れない素質を持っている。今更心配する事もないよ」


 と、大好きな本を読み耽り、両親の言葉も聞こえず一人の世界に浸っている娘を見下ろしながら、気づかれぬ様そっと頭を撫でる。ここからエディスは反論する余地を失い、口を噤んだ。それは、娘のためなら私財を投じる事を厭わない、父ならではの言葉であった。エディスはそこから彼の大いなる背後を知る。と、同時に、外の雪景色を眺めた時の様な寒気をも再び感じた。


「それでも、一番の教師がやっぱり自分だ、という訳ではありませんわよね?」


「変な事を言うなあ。それは産まれた時からそうじゃないか?」


 白く均等に並べられた歯を見せて、アングイッシュはケタケタと笑った。


「いや、違う。もっと専門的な、尚且教師としても優秀な人を揃えていきたいと思うのさ。そのためだったら別段教師じゃなくても構わない。僕のこの目に適う人がいれば、その人を雇い入れたいな」


「それなら、私の意見も是非取り入れてくださいますわね……?」


 それに構わずアングイッシュは、娘にそれを柔らかく説明している所であった。嬢はさっきまでのやりとりから既にその状況を理解し、ぺたりと小さな手のひらを父の大きな太腿につけて笑う。


「分かったわ、お父様。これからおべんきょうをするのね。私、色んな事を覚えられるように頑張るから!」


「頑張るんじゃない。楽しんで色々な事を学んでいくんだよ」


「あ、そうだったわね。はあい」


そのためにはなんだってしてあげる。


 父はその意思を示す様、おやすみなさいの合図として頬に優しくキスをしたのであった。それから嬢は赤カーペットに白レースのあしらわれたパジャマ姿で本を抱え一人、部屋に戻って床に就こうとしている。その後ろから聞こえた可愛らしい女の声。嬢はぱっと笑顔になって振り向いた。その先には愛しい母の微笑みがあったからだ。


「あら、お母様どうしたの?」


 父譲りの栗色の髪を肩に垂らして首を傾ける娘に、母はいつもの様に腰を屈めて向かい合う。その曖昧な口角のあげ方に、勘の良さを培った嬢は一種の思惑を悟り、すっと顔を真顔に戻した。


「ねえ、これから先生が来てお勉強で忙しくなる前に、お母様の実家に遊びに行かないかしら」


 しかしそれは、母からのよくある誘いだった。それにどうしてそんな躊躇する顔をするのだろうと嬢は疑問に思うも、それを笑顔の中に埋めて勢い良く頷く。


「ヴィアトリスのお屋敷!?うん、行く行く!久しぶりになるわね!お母様のお祖父様とお祖母様にも会いたい!」


「ええ、そうね。じゃあ、早速お父様に話をかけにいきましょ?貴女はあそこのお屋敷が大好きだから、きっと賛成してくれるはずだわ」


 と、図書館から集めた建築の本をぎゅっと抱きしめている嬢を横目に、エディスはおやすみと中のショーツが透き通った水色のネグリジェをふわりと靡かせて、夫の待つ部屋に戻っていった。それに嬢は少女が抱えるにしては大きく分厚い本を抱きしめる。


 様々な所に行き、脇から話す父の言葉が紡ぐ、見下ろす、広大な「世界」のを見聞きした嬢は、その翡翠の瞳ですべてを縁どらんと貪る様に、その知識を得る楽しみを覚えていった。


 特に言語にかけては、彼女の才能が最も生かされた分野である。まるで赤子の自分から覚える様に様々な言葉を吸収していった。これは、彼女が学問をする様になってから、実力がはっきり目に見えた分野である。その分、数学と理科は凡人「以下」であったが。


 しかし、不思議な事に、彼女には一つ、趣味が出来た。それはカメラであった。エディンバラに旅行に来た時、古のカメラ屋に見惚れた瞬間から、彼女は父にカメラをねだったという。それが初めてのおねだりであり、両親共に趣味のないものであったから、二人は首を傾げたという。そんな二人の懸念を他所に、彼女はそれまでにカメラを手放さず、それに関する写真集やカメラの本を嗜み、一つのカメラずっと大事に抱えながら景色や家族の姿を撮り続けた。私もさほど興味がないので深くは書かないが、彼女の出る場面では必ずといって良い程、それと一緒だった事は残しておこう。今にして思えば、あれが、唯一、誰に依らないで自分で選んだ物。唯一自分が自分たる事を示す物だったからかもしれない。


 それはともかく、嬢はその時、久しぶりに訪れるヴィアトリスの白い屋敷を思い描きながら一人微笑んでいた。あの時はただ走り回る事しかなかったあの頃と違い、きっとその日に訪れる時にその屋敷が彩る様々な装飾や技巧を逐一理解しながらより深く楽しめる事が出来るだろう。それを話したら、祖父母は、そして父はどんな顔をして自分を見るのだろうか。それだけで今夜は寝付けなくなりそうだった。


 それはやがて嬢が無意識のままに、父の方針にそってベリックの屋敷に閉じ込められる様になっていく前の夜の事。やがてその、エディスの実家、ヴィアトリス家に訪れた事が、後に彼女の人生を大きく狂わせる事になる。そう、その時に「私」と出逢う事によって。



***


 ヴィアトリス家の実家は、イギリスでも名高い農業地帯である、チェシャー州にある。


 不思議の国のアリスの原作者、ルイス・キャロルの出生地でもあるその地は、どちらかといえば慎ましいベリックと異なり、広大な農業地帯と木と石壁の組みたれられた、ベランダの草花が美しい観光地として活気溢れている街並みだった。そして私もここに訪れたのだった。


 私はその時分、ハーバード大学を次席で卒業したのを期に、裁判判事として故郷イギリスのロンドンに戻っていた。しばらくした後チェシャー州に落ち着き、それから2年が経とうとしていた頃の事である。


 判事という特権での充足した給料、そして多忙な仕事にも幾分と慣れていった私は、その日、知り合いの市長から紹介してもらった彼の娘と知り合い、チェシャー州のどかな田園と街並が一望出来る会員制の高級レストランに連れて行っていた。その市長は腹が膨れ如何にも尊大な態度だった事が癪に触り、私は曖昧の笑顔で首を傾けたまま彼の三段腹が斬れる滑稽な姿を思い描いていたのであるが、それに反し娘は、そんな男と結婚してしまった軟弱な母の影響か、穏やかで慎ましく、気立ての良い娘であった。藤色のボックススカートから覗く黒タイツ、丁重にセッティングされた桃色のグロスが私に好意の言葉を囁いている。それは正に「据え膳の花」としてはもってこいの娘であった。


 わざとらしく躊躇う彼女の腕を引っ張り自身の腕の中に添えて、夜、私はその場へ訪れた。予約していた一等席にマニュアル通りにエスコートし、優雅に豪華な食事に舌鼓を打つ算段であったはずだったのだが、入口に入った途端、私がその一等席というものに案内された時、目を疑ったのだった。


「これは一体どういう事だ」


 私は堪らず、注文を頼んだ支配人に詰め寄っていった。私が案内された席はレストランの奥、西に面するガラス貼りの壁に位置していたのであるが、それよりも奥、一段の段差を超えた先にあった、一面孤月状に硝子張りに囲まれ、花が添えられているテーブル席があるのだ。どうみてもそちらの方が高座である事は明らかだった。


 貴方が一番良い席を予約していたはずなのに、どうしてあそこに案内してもらえないんだ。と、指差して言った事に、支配人は深々とお辞儀をしては、淡々とこれだけ応えた。


「あちらはアッパークラス会員の方がお座りになる所なのでございます」


 私はそれに閉口した。先約があった訳でも無く、ただレストラン側が勝手にそう決めていただけの事だったという。「身分が違う」、それだけで私たちは正式な予約を受けてもあの席に座れないという事だというのか。私は納得がいかずに、そそくさと去ろうとする支配人の袖を乱暴に引っ張って言った。今時、身分制度など古臭い慣習だ。そんな事にこだわるより今は一人一人の客に対して誠実な態度をとるべきだ。それが高級レストランと銘打ったこの店の矜持ではなかろうか。と、


「足りない金なら今から払ってやる。私たちをあの席に案内しろ」


 と、財布からカードを取り出そうとしていた私の手をそっと白手袋が制した。それはまた、その行為を咎める軽蔑の眼差しをちらつかせた。


「そういう問題ではないのでございます。ホールダネス様」


 皺寄せた私に対して、無表情のまま言いのけた。


「貴方様は判事でいらっしゃいましたね。確かに、法に基づけばすべての人間は平等としてしかるべき、とおっしゃってはいますが、ここはイギリス。「慣習」というものもきちんと受け継がれているのであります。それは伝統と歴史を表すもの。私達は金ではかえられない価値を重んじているので御座います。この伝統を守っているわきまえこそ、この店の矜持があるのですよ」


「よくまあそんな戯れ言をぬかせるな。人を身分で区別し値踏みする事の何が矜持だというのだ!」


「ああ、言葉が過ぎましたね訂正致します。…私達は貴方様の言う通り、きちんと法の道理に従っておりました。貴方がこの事に怒り立って、予約を踏み倒して出て行くという選択に丁重に準ずるという事を」


 ――どうぞご自由に。


 タキシードを折り曲げて悠々と入り口の方へ手をのばす支配人の姿を見、私は最早彼が禄に話しを取り合おうとしない事を知った。そういう奴らとは幾らこっちが正論を言った所で、何もならない事は経験から思い知っている。私は仕方なく乱雑に椅子に座り直し、


「この片田舎が!」


 と、吐き捨てる事しか出来なかったのだった。それからまるで何事も無かったかの様に「立場をわきまえた」者への、厳かな接客から様々な香ばしい料理が配られていっても、憮然として煮えくり返った胃の中ではその味など最早無いのも同じだった。私は非常に不愉快にその料理にがっつき、銀燭の音を不均等に鳴らす。彼女が恐る恐る気遣う様子もそれを煽らせ、私は俯いたままこの悪習に伏していた。アメリカに、そして都会にいてすっかり忘れ、気にしないフリをしていた、我が故郷に確固として残っている努力や実力で追いつけない理不尽極まりない「身分」という重く冷徹な鎖。


 まさか、こんな所で実感する羽目になるとは。そして、そんな身分が低い私のくすぶった怒りなど構わずに彼らはやってきた。


「すまない。予約をしていないのだが、」


「いえいえ。いつまでもお待ちしておりました。ささ、どうぞ。一等の席をとってあります。」


 それから支配人は悪びれた様子もなく、私達の前に通り過ぎアッパークラスの彼らを案内していった。眉を顰めて振り向けば、黒コートを腕に抱えて、ツイードジャケットを翻す髭面の男が、目線を奥の特等席に向けて私の背を通り過ぎた。


「おや、良い席じゃないか」


 さっきまでの喧騒も何も知らない無抜けた笑顔に、私は目端にぐんと瞳孔の開いた目を寄せて睨む。それが「私」が初めて見たアングイッシュの姿である。その後ろに茶褐色ロングスカートを持って歩くは金髪の髪を鼈甲櫛をかけた妻エディスが続く。成る程美人だなと本能が目線を上へと向けたが、それが男の妻と分かるな否や途端に腹に熱がこもる。その時だった。私の下目端に栗色の細長い流線とピンクのフリルがひらりと舞う。最初、私は「あぁ、今度は娘か」と、訝しげに眉を潜めたのであるが、その片鱗は一瞬だけで、私が目を向けた時そこには誰もいなかった。



 寸時の驚きに目を見開いていくと連れの女がひょうきんな声をあげている。       


 何だとまた眉を顰めて振り向けば、途端私はまた大仰に眉を丸めて口を開けた。私達の座るテーブルに手を付き、空いていた丸椅子にちょこんと座る彼女がいたのだ。突然の事に固まる私を、彼女は翡翠の目をぱちくりと瞬かせて、小さな口をつんと尖らしたまま飄々としている。私はその時、怒った自分をぽかんと見つめいている様に、思わず吹き出してしまった。


「あら、何をしているのよ」

 

 奥の一等席の端に手をつき、咎めるは彼女の母親だ。しかし彼女はその声さえ窓にそっぽを向いて無視したのである。


「私、この席で食べる」


 その後、彼女はふてぶてしくそう言った。


「こっちの方が綺麗だと思うわ。だって私、この席の方が素晴らしいと思うんだもの。ね、お兄様」


 その時、彼女は首を傾け私に向かいその円満の笑みで笑ったのである。白桃色の肩のフリルが跳ねる上に、さらりと垂れた栗色の髪、晴れやかな口角のあがりと均等に生え揃った白い歯、狐月の瞳は前に見たエメラルドの瞬きに似て、浅黒い頬が薄桃色に染まっている。


 その幼き無垢な笑みは、私の煮えかえる心にすっと冷気が与えた。そんな感覚に私の顔は引きつるばかりであった。いや、吸い込まれたと、言った方があの時は正しい。私には分かっていたのだ。あのはその笑顔で私を庇おうとしていたのだと。


 アッパークラスの身分として申し分ない恩恵を受けていた彼女は、先走ってレストランに着いた時、端から一抹すべてを見ていたのだろう。その上で、彼女はこの席についたのである。何も知らない父を咎めるでも無く、かと言って声高らかに上から偉そうに諭すべくも無く、自ら下に降りてすべて「自分の我が儘」だとひっくるめておいて、自身も私と同じく「身分」に対する抗議の意を貫こうとしていたのである。


 培った教育の高さが染み付いた、幾重にも複雑に塗り固まった奸計の笑みは皮肉にも可憐であった。その時に私はもう、ああ、もうその時私は既に彼女の虜になっていた。これはもう、恋に墜ちるしか無かった。そして、それは決して許されない恋だった。


「嬢、何をしているんだ」


 そんな私を現実へと引き戻すのは、宝石が散りばめられた様に瞬く夜景を背景に佇むツイードジャケットの男、アングイッシュ。脚を組んで彼女を見下ろす淡々とした笑みは、静かに娘の不始末を窘めている。


「夜景が見たいならこっちの方が綺麗だよ。ほら、そんな我が儘を言ってないでこっちにおいでなさい」


 手招く様はよもや私に対する失礼など全く解せず、ただ娘の事しか見えていない様だった。それに嬢はさっと寂しげに眉を下げつつも、白テーブルを両手で握り締めぐっと力強く皺寄せて、はっきりと嫌と言った。


「それでも私、こっちの方が好きなの。こっちに座るわ」


「分からないな。そっちの方の何がこっちよりも良いって言うのかな」


「いいの、とにかくこっちに座る!」


「好い加減にしないか!」


 遂に、いつも温厚な父が牙を向き机を叩いた。その心情を解せぬ父の目からすれば彼女の行動は奇怪なものとしか見えなかったのだろう。荒々しい銀燭の音に彼女はびくりと肩を震わせ、じわり目端に涙を貯めつつも、彼女も同じ様に顔を顰め更に拳を力強く握ったではないか。「私は間違っていない」――、従順ならざる少女のいじらしい意地は私を恍惚とさせた。そんな彼女と対照的に、他の女達は脇でおろおろ戸惑うばかりである。それに激昂した父がいよいよ立ち上がった瞬間、彼女は叫んでしがみつく。


「いいから!早く戻りなさい!」


「嫌、嫌あああっ!」


 アングイッシュはそのごつごつとした手で、娘の手首を乱暴に取って引き剥がそうとしていたが、一方彼女も全ての料理を零れ落ちる事も厭わず、離れようとしなかった。少女の甲高い叫びは父の勘に触ったのだろう。途端父は目を吊り上げ、


「言う事を聞きなさい!」


 と、腕を振り上げたのである。それに娘はぎゅっと目を閉じたのだが、その時になって私の身体は反射的に動き、気付けば彼女を庇う様に抱きしめていた。


「いいです!もうやめて下さい!」


 小動物の様に震えている彼女を抱き留める恍惚と共に、私も叫ぶ。


「この子の自由にさせてあげましょう!私達は別に構いませんから!」


 その異様な光景に、父は自分がしようとした事に気付き、振り上げた手を止める。


「だが、しかし……!」


 怒りと戸惑いに唇を震わせる彼を睨み上げて私は続けた。


「私が良いって言うなら良いんです!とにかく、この子に危害を加えるのはやめなさい!」


 これではまるで立場が逆転である。雑多な視線が、可愛らしい娘を咎める乱暴な父親だと悟ってゆく中で、やがて父は私の腕を握る娘を見ると、そっと腕を降ろして項垂れた。


「そんなにそこが良いのならそこにずっといなさい」

 

 そして、唸り声を残し、アングイッシュは背を向いて行った。


「とにかく!そこに居るって強情を張るんなら、もう食事はやらないからな!ずっとそのままでいなさい!」


「あなた」


「もう、良い!もう放っておけ!あんな子!」


 弾かれた両手を宙に掲げたまま立ち尽くした妻は、最後に此方に顔を向け、なすがままに夫の後について行く他無かったのだった。しかしその時に振り向いた眼差しの真意を、この時の私達はまだ知らない。

 

 一方、一人きり残された娘は、自分を放っておいて注文をし始めた遠目の両親を霞んだ瞳で見、唇を震わせながらもぎゅっとそれを結び、頑なに離れようとはしなかった。その前には既に食べかけの料理の皿が並ぶ。


「君、もう一つコースを用意したまえ」


 私の背後で先程の恐れ戦いた支配人が、今度はゆっくりと深々とお辞儀し、それに従ったのだった。


「あ、あの……」


 それには及ばないと困惑気味に顔を向ける彼女の隣に座り、視線を合わせて私は笑う。


「いいよ。さっきのお礼だ」


 と、言った私に、彼女は「何の事か分からない」風に首を傾け誤魔化していた。可愛い。


「君の名前はベリック嬢というのか?」


 気まずい雰囲気の間を繋げる様、私は尋ねる。それに嬢もワイングラスに注がれた水を両手で掴んで飲みながら、その気持ちを汲み取って、うん!と威勢良く答えた。


「でもね、それは俗称っていって本名とは違うんだって。それで、私の名前は…」


「そうか。私も名前に2つのAがあるからって、普段はダブルエーとか呼ばれているな」


「そうなの?じゃぁ本名は?」


「それは聞かないでもらえるかな。あんまり気に入った名前では無いんでね、君もダブルエーと言ってくれたら嬉しい」


 それに、彼女は目一杯の笑顔で頷いた。


「うん分かった!じゃあ私も本名言わないや!」


 可愛い。


 やがて、支配人自らの手によって嬢の前に置かれた、豪勢な料理が華を添え、私達はのんびりと夜景を楽しみながら穏やかな会話を広げていった。連れも少女ベリック嬢が語る貴族の館や領地での話に目を輝かせて魅入っている。


「へえ~凄いわねえ。個人の館の外で狐捕りが出来るなんて」


「うん、前まで飼ってた梟……そう、梟がね、それがすっごい頭よくっで、一度に二匹も分捕った事もあったの。前に餌場を荒らされたのがそんなに悔しかったのかしら」


「梟は獰猛だからな、まあ、そのやられたら絶対にやりかえすという屈託無き精神は、非常に感嘆に余りある」


「そうそう、彼も梟飼っているのよ。小さい頃からでしたっけね」


「ああ、私の唯一の友人だ」


 久しぶりに味わう恋心の疼きと、心地よい気分にワインの酔いも手伝い、私は赤ワインのグラスを回しながら頬を紅潮して思わず呟いてしまった。その慇懃な言葉にさしもの嬢も一寸戸惑うも、向かいの女は一枚皮のはがれた私の酔った様を見ながらくすくすと笑った。


「あら、やはりそう思ってらしてるのね。どうりで梟と呼ばれている訳だわ」


「お姉様、それってなあに?」


 私がワイン独特の苦みに眉を顰める一方、嬢は意気揚々として彼女へ顔を向けて問う。それに女も付き合わせる様に首をのばし、紅い唇を引き上げて言った。


「お嬢ちゃん。この人の目をよく観てごらんなさい。ホラ、他の人よりちょっと瞳孔が大きいでしょ?あの鳶色の瞳とその瞳孔がとっても梟っぽいと思わない?」


「あ、本当ね!とっても綺麗な目をしてるわ、お兄様!」


 と、目線を避ける私を覗き込むように見上げ嬢は笑う。この容姿を嫌っている私を気遣って「綺麗」と言った事であるのは、傍から見ても明らかだ。そういった意味でも嬢は女とは全然違う。紅潮の頬を隠す様に私はじりじりと近づいて微笑む彼女から避けていた。


「顔つきも綺麗だけど、厳しそうなお顔でしょ?それからこの人は梟って巷でも呼ばれてるのよ。梟の様にこの人も容赦なく罪人を突き落とし貶める、おっそろしい裁判官なんだから」


 まるで怪談話でもする様に、両手を掲げ熊の手で嬢にいたずらをする彼女に、くずぐったく身を捩らせて嬢は笑う。私はまたそれに少し不機嫌になって鴨のロースを口に含む。


「おい、そんな悪者風に説明するのはやめろ。罪人を裁くのは判事の仕事だ。猟に出る梟と同じで、ちゃんと良い事をしてるんだからな」


「その相手が罪人だけだったら、良かったんですけどね」


 その声を私は聞こえない振りをした。一方、嬢は輝かしい目で私のその「梟」っぽい目を見上げて言う。


「お兄様裁判官なのね!?あ、だから梟って事だったのね!」


「さっき理由は聞いただろ?」


「ううん、そういう事じゃないの!裁判官と解きまして、「梟」と説きます!」


「はあ……その心は?」


「ホゥー(法)、ホゥー(法)」


 口を尖らして目を細める嬢の顔を見、私は思わず引き締めた唇を震わせ吹き出して声をあげて笑ってしまった。突然現れ出た「日本語」という突拍子の無い言葉と、それが6歳の少女の口から出たと滑稽さに私の心は解れたのである。高らかな笑い声を唇を引き締める事で無理に押さえ込み、唖然とする女の手前、私は愛おしく嬢の包み込める程に小さな肩を掴んだ。


「フフッ…さすは、チェシャー州。ルイス・キャロルの生まれ故郷だな」


「あら、じゃあ私はアリスかしら?」


ああ、そうだ。チェックのリボンを結び、右側に寄った前髪と栗色の髪を腰まで垂らす少女。翡翠の目を瞬かせて微笑む貴女は愛おしい少女、私の、「アリス」。


「ああ、…そうかもしれないな」


 抱きとめる情を「児戯」という名でそっと隠して私は笑う。


「なら、お兄様はロブスターの詩に出てくるフクロウね」


「そうか、だとするなら、ロブスターは誰かな?」


「後ろの支配人ね!」


 溌剌としたかつ含蓄の篭った嬢の笑い声に、知恵のない支配人は何の事だか分からないという様に後ろで首を傾けている。それに私も、嬢と共に額をつつき合わせて笑っていた。


 その笑い声を、遠目から焦げ茶の瞳が恨めしく睨みつけている。それに気付いたのは私だけであった。


***


 こうして、夢の様な夜を過ごした後、チェシャー州の景色の全てが淡い幻影に見えた。美しい花も家も彼女が居なければ意味も無く、ふと街並みを眺めて何か指を示しても、腰の位置からそれを興味深げに見上げる翡翠の瞳が無ければ、紡ぐ言葉はただ虚しいだ。


 気付けば、私の視界は人集りの多い街並みから、春の芽吹きが輝く檜の並木道となり、その森の中に聳えるヴィアトリス家の屋敷へと、吸い込まれていった。


 細長い槍が並ぶ金細工の檻の向こう、壮大かつ丁重に手入れされた芝生の奥にその屋敷はあった。神殿が屋敷正面にくっ付いた様な造形を為す、ネオロマネスク調の白い屋敷は、敷き詰められた砂岩の粒が芝生に反射し、より燦いて見える。近づけば尚解る、上流貴族として不充分の無い屋敷は、判事という確固たる立場を持っている私をも、寸時たじろかせる程のものだった。それでも私は歩調を早める。ついて離れない彼女の面影を追って。


「家庭教師になりたい、ですって?」


 怒りはすっかり収まっていたものの、眉を顰めたアングイッシュは裏声をあげて私を見据えた。


「ええ、先日の件は大変失礼致しました。しかし、彼女との会話を通して、貴女の娘御には数多の大人にもひけも取らない、聡明なる知性と感性を持っている事を実感致しました。その力を、そのまま凡庸な教師に任せる事などもったいないと思っております。なので是非、私を雇わせていただきたいのです」


 父の思いを反復する様な形で意図を強調し、胸に片手を広げて私は語る。彼に考える間も与えず、かといって退屈もさせない程の加減にして。


「この立場で得た経験を生かし、お嬢様のより良き素質を更に高めるお手伝いをさせていただきたいのです」


 案の定、父は言い終わった後に太い腕を組み目を伏せて、髭を撫でながら「ええ、ええ」と頷く。も、今だ懸念気味に眉を下げて問う。


「我が愚娘ながら、その様なお言葉を戴けるのは非常に有り難い事ではありますが……確か、貴方は判事でしたよね。判事に副業は認められていないでしょう。しかも、このチェシャー州から片田舎のベリックまでどの様に通い毎日娘に教えるというのです?」


 前もって予測していた疑問を述べる父に、私は用意した答えをつらつらと語った。不安気な相手に納得させるためには、あえて堂々としていた方が都合が良いのである。


「勿論、それについては私も考慮しています。なので職務上、何かの科目を教えるという事は出来ません。しかしその代わりに夜、嬢が習った事を復習する機会を補助し、宿題を見る担当につかせていただきたいです。貴族の子息子女共々が学んだというハビトゥスをどうか私に託して欲しいと頼みます。平日の夜、そして土日すべてを嬢のために全力を注ぎましょう」


「つまりボランティアでやるつもりで?」


 それに私はややあって体を斜めにして、静観な顔のまま詰め寄った。


「いえ、そのための報酬は図々しいながらも頂戴していただきたいものです。しかし、それもほんの小遣い程度で構いません。言うなれば、私は貴方のご好意で娘の宿題を見ている友人、そういう立場で居させて欲しいと願います。私は、嬢と飲食出来る部屋さえあれば何もいりませんんから」


「謙虚なフリして、今あっさりとすごい事要求してきてないか?君」


 ボランティアではなく、私はあくまで報酬をもらう要求も貫いた。そうでもしなければ、年端のいかぬ娘に無償で尽くす男など、下心があるに違いないと明らかに気づかれてしまうからだ。


「そうですか……だが……しかしですねえ……」


 そこで一旦は疑いを晴らし眉を下げたアングイッシュではあったが、やはり、突然来た名も知らぬ男の要求に戸惑うのか、私の周りをゆっくりと回る。しかし、私もここで引く訳にはいかないのである。


 後ろ手に腕を組み、広いロビーの向こう、遠目に見える階段を見据えて私は答えを待つ。今思い出せば、もしあのままでいれば、私の願いは達成されなかったのかもしれない。が、しかし、胸の熱に揺らぐ視界の向こう、手すりに細い手を添えて降りてくる女が、そっと私達に呼びかけたのだ。


「いいじゃありませんの。受け入れてあげましょうよ」


 それは、丈の長いカシミックプリーツを着た嬢の母、エディス・ヴィアトリスであった。輪郭が霞む金模様のを背後に微笑む彼女は、艶やかな金髪を三つ編みにしてアップにし、解れた髪のゆらめく様は妖艶で、たおやかな女としての曲線がくっきりと浮かぶ。その様はとても、一児の母と思えなかった。


 床にまで付きそうな貝開きの裾を、白濁色のマーブルの階段に滑らせてエディスは此方に向かう。角のある灰のパンプスからのぞく甲の素肌もきめ細かやく、私はその美しさに改めて見入っていた。彼女はその時、住み慣れた実家での休暇の影響か、いつもより自信に満ち溢れた翡翠の瞳を向けて言う。


「この人が家庭教師になったら、きっとあの子も喜びますわ。だってあの日あの子ったら、寝付けるまで貴方の話をずっと楽しそうにしましたもの」


「え?」


「エディス?」


 驚きに声をあげる私より、更に大きく口開くアングイッシュを横切って、エディスは正面から私と向かい合った。


「久しぶりに、私と一緒に寝れた事に舞い上がっていたのかもしれないですわ。それでもあの子、あの夜はとても楽しかったて言ってたの。あんなに騒いだ嬢はしばらく見てなかったわ。だからありがとう。此方からも是非お願いしたいものだわ」


 そうして彼女は私の姿をもう一度見据えてにこり、と、均等に口角をあげて笑った。それに「エディス……!」と、声を裏返し慌てる夫に妻は「あなた」と窘め、翡翠の目を鋭く彼に向ける。


「自分の娘のためなら何でもすると仰っていたでしょ?この人はあの子のお気に入り。好きな人を側に居させている事こそ、あの子のために出来る事ではなくて?」


 そうやって、きっぱりと言い放った。その理路整然とした端正な横顔に無骨な男の顔は不満げに傾きつつも、彼の理念がその言い訳を阻めて何も言えなくなる。それに私は歓喜に飛び上がった。


「ありがとうございます……!一生懸命お嬢様のためにをみますから……!」


 その喜びは声の震えとなって表れ、私はそれを誤魔化す様に、差し出された彼女の細い指を包んだ。絡まる指は冷ややかで、ネイルが彩られた薄い爪と同じ、きめ細かい肌質だった。それを彼女も密かに私の指に絡ませ、三度首をあげて笑う。


「此方こそ色々よろしくお願いしますね。改めまして、私はエディス・カンモーと申しますわ」


 と、手慣れた様子で片手でスカートを摘んで会釈をした彼女に、私は背筋のばした身体と同時に頭を下げて応じた。


「はい…!ちなみに私は…!」


 本名を名乗る勇気に喉を飲み込んだ私を、エディスは首を僅かに振って答える。


「いいえ、よろしくてよダブルエーさん。そちらも娘からうかがってますわ」


「は!」


「そんな事まで…」


驚く私と彼を余所に、微笑む彼女はいつまでも私の顔を見つめていたのであった。


***


 こうして、ベリック嬢と、晴れて家庭教師という名目でお近づきになる事が叶った。今まで真面目に業務に尽くした実力も合い重なって、ベリック付近の転勤は簡単に受け入れられ、私は身の回りを整えてから彼女の元へ、春の土曜にうかがった。


 正装で整えて屋敷に訪れた私を、ベリック嬢は母の手に引かれ螺旋階段から降りていった。髪を整えていた私の視線と向かい合わせになった時、彼女は驚きに目を見開かせ踊り場にたじろいでいたが、母に優しく背中を押された途端、花が開いた様に笑顔になり、私の胸の中に飛び込んでいった。


「ダブルエーッ!」


「わあっと、危ない!」


 あまりの駆け足っぷりに、丈の短いスカートから太ももが露わとなった。それから、駆け寄った私の首に手を回し強く抱きしめた。その息苦しさと心地よさは今でもこの身に染み込んでいる。くしゃくしゃになったカットシャツの皺を見ながら、その時になって、私はようやく「今生きているこの瞬間」を抱きしめて噛み締める。

 

 嬢をとりまくその他の家庭教師は、父の厳正な審査を通り抜けた、選りすぐりの専門家たちによって揃っていた。彼らは全員、父の指導に従い嬢を丁重に迎え、対等な眼差しでもって、それぞれ培った知識をベリック嬢ただ一人のために尽くしていく。まだ6歳になったばかりの嬢も一人前の『跡継ぎ』としてそれを受け入れ、一日中屋敷の中でそれに取り組む日々を続けた。午前早くに始まった授業を終えた後、教師と交えた豪勢な食事を迎えた後は、嬢が「自ら」選んだ習い事3つ――、乗馬とピアノと語学を嗜む。


 父による娘に情熱と思いが、みっちり詰め込んだその「教育」は、肝臓ガンで悶え苦しんで死んだ配管工の息子として生まれた私の目からすれば、夢のようでもあった。


 こうして目まぐるしい一日が終わり、夕日が街に残照を残して遠い海に消えゆく頃、私は吹きすさぶ潮風を掻き分け彼女の元へ訪れる。教師から渡された数多の宿題に取り組む嬢の、好奇心に湧く顔を見守るだけでも幸せであったが、それらを終わった後に、


「ね、遊びましょ!ダブルエー!」


 と、嬢が精悍な顔立から少女らしい笑顔に戻り、私を誘う事が何よりも嬉しかった。まだ年端のいかぬ少女とする遊びなど、大人の私からすれば至って他愛のないものではある。それは時として高価なドールハウスでのままごとだったり、私の背に乗った乗馬ごっこだったり、はたまたこの屋敷を舞台にしたかくれんぼや鬼ごっこだったり。(嬢は屋敷内に熟知してるせいか、これがめっぽううまかった)どんな時でも私の手を引っ張り、まだ残る教師や白黒の服を靡かせるメイドや執事をも巻き込んで、栗色の髪を波の様に揺らして駆け抜ける。


 それは、教会と習い事でしか、同世代の子ども達と触れ合えなくなったベリック嬢の短くも、大切な時間だったのかもしれない。それに私も、囁かな思い出の片隅に残ればいいと思い、と、出来る限りその時間を共に過ごそうと思った。


 休日には、嬢の頼みで、自宅で買っている梟を連れ狩りに興じていた。私の飼う梟「アウル」は優秀で、どんな時でも大物を録っていく。それを大はしゃぎで駆け回りながら、嬢は凧の様に浮かぶ彼を追いかけていく。と、追いかけていった際に嬢を見失い、梟を呼び寄せて彼女を「狩ってもらった」という笑い話(?)もあった。そうして夜、休日と共に時間を過ごした事もあって、当然ながら「教師」の中でもベリック嬢は一番私に甘える様になっていった。


 人形の様に眠る可愛らしい彼女も、いずれ私を「一番」とする日がきっと来る。このままでいけば、「貴方は他の男の子と違うもの」と大人としての「私」を意識する時が来るはずだ。 だが残念な事に、「大人」はそう両手をあげて持て囃されるものでもない。小娘のそういう心を手に取る様に分かった上で、接している生き物でもあるということだ。


 その優越感とその中に滲み出る彼女に対する、言いようのない罪悪感と嗜虐感は私の笑みを次第に歪ませていった。しかしそれでも私は彼女の握る手を放したくはなかった。今はただ私は息苦しさの中で、私はただ一人藻掻く事もなく、暗闇の中に歪んでいる。ランプの橙色に揺らぐ黒い影がふと、深淵の泡の様に見えた。


***


「どうしたの?」


 彼女の言葉と共に、波音が隙間を埋める様に入ってくる。私はさっと顔をあげると、曇天の中で緑色のプリーツを靡かせる嬢が、乱れる栗色の髪を片手に抑えて私を見下ろしていた。途端、私の喉と鼻に、嗅ぎなれたスモッグが呼吸を詰まらせる。


 しかし、私の身体はその馴染んだ臭いに胸を撫で下す。そうだ、ここはベリックじゃない。私の故郷、ロンドンだ。


 ベリック嬢は今までチェシャー州とエディンバラ以外に禄にどこかへ出かけた事が無かった。それ程に全ての事は概ね「ベリック」で事足りた、という事でもあるが、それでもやはり首都は見にいかなければという母の希望によって急遽、地元民の私が案内する事になったのだった。


 そして今、私は自前のスクータに嬢を乗せ、S字にうねったテムズ川を下っている。新緑色に濁っているテムズ川を下れば、ロンドンの一通りの見所を一望する事が出来る。それに嬢はすぐさま、私から顔を背け、その風景に魅入りながらパラソルをゆっくりと回していった。


「ねえっ、観て!これが国会議事堂ねえ!」


 その日、嬢はいつもより声高々として指を差した。その先にはまるで、石壁の様に立つ黄土色の議事堂がちっぽけな私達とスクータの前にのさばっていた。具合の悪い私を他所に騒ぐ嬢は、気を遣う事に長けた彼女にしてはいつもと違う様子だ。それ程、このロンドンの景色を少しでも脳裏に焼き付けておきたい。そういう事なのだろう。


「うっわ!すごいわあ!貴方の言った通りテムズ川を降れば名所が一面に見えるのねぇ!」


 辺りを見渡せば、ぐるりと遠目より取り囲むビルと、その特徴めいた輪郭を持つ名所の数々、僅かに脇から掠める萌木色にそよぐ木々の隙間からは、ビルの窓から反射した午前の日差しが、ゆっくりと波を立てて横切り、私達の当たりに光の粒を撒く。

 その都会らしい街並みに、好奇の目を瞬かせながら嬢はさっきから首をあげるばかりだ。「ビルの数も高さも、スモッグも半端ない」と、悪意無く笑う田舎育ちの彼女。そういえばその溌剌とした声に改めて彼女のめざましい成長ぶりをモーターの脇、彼女の端より見上げて思った。


 父に似て、元々大柄な方であったものの、乗馬での鍛錬と規律正しい生活によって背はまた随分とのび、肩幅や組み交わしている太股も、次第に少女らしい面影はなくなり、骨がしっかりと身に付く様になっている。その変わりに肉付きがよくなって、女性らしい丸みをおびた片鱗が、やがてフリルを捨て、タイトになったシンプルな服装からも窺える様になった。そして、胸の中心から角に丸まった膨らみに目をそらせば、いつの間にか右手より黄色い壁が迫っている事に気付く。


 彼女の更に甲高い声から、私はそれが名所中の名所、国会議事堂である事に気付いた。ブリティッシュとしての誇りを象徴する、ネオゴシック調の細長い線状要素の数々が、幹の様にうねる造形の中から枝分かれるかの様に、細長く区切られた格子窓がのぞく。


 歓喜に湧く嬢と共に見上げれば、左手より議事堂と接し、空へと尖ったビック・ベンが真下から上に迫って来る様に聳える。白い円盤を縁取る金枠がキラリと、黄土色の壁と共に光る。その圧倒感に差し迫われた私達が、モーターをしばし止めて見惚れた顔で見上げている頃、突然見上げる先にある窓が軋んだ音を立てて開かれる。


「ベリック嬢!ベリック嬢じゃあないか!」


「あら!おじ様」


 そこからぬっと表れ、川の中央にいる嬢に手を降る男。そのくすんだ金髪をかきあげ、細面から目尻の皺寄せ上げて笑う男には見覚えがあった。鼻の下が長く、その筋がよく見える特徴ある顔立ちは、


「与党の国会議員……ジェレミー・ライアン殿……!?」


「おや、そういう君は判事のホールダネス君じゃないか!なんだい、君が嬢を連れているのかい?」


 ははっと、格子に手を添えて笑う議員に対し、嬢は口を包む様に手を囲って声をあげる。


「ええ!じもてぃーのダブルエーに初めてのロンドンを案内してもらっているのー!もし良かったらおじ様も如何ー!?」


 と、親しげに「おじ様」と呼んでは手を振って呼びかける嬢。あんな顔をする相手が、両親と私以外にもいたというのか。現れ出た愛しい横顔に対して、私は黒く濁った視界に歪んだ。ゆっくりとスクーターで通り過ぎる嬢を目で追いながら、ジェレミー議員はへらへらと唇を緩ませ、眉を伏せて笑っている。その野卑さが滲み出る薄っぺらい顔を持つ者の声は、やはり下品な濁声で私の嬢の名を呼ぶ。


「それは是非とも光栄な事なんだけどねえ、これから退屈なかいぎに出なくちゃいけないんだ」


「サボっちゃえば!?いっそのこと、こっから飛び降りておじ様も行きましょうよ!」


 と、そんな男に今度両腕を広げる嬢に、ジェレミーは煩しい声で高らかに笑った。それを私は始終後胸のつっかえが吐き出される心地悪さに眉を顰める、なんだろうと、無表情のまま考えていた。この、手持ちの花をぐしゃりと土足で踏みつぶされたこれは――、彼女の視線を別の男から横取りされた気分からだろうか。すると、議事堂の五階窓からジェレミーは何かを投げた。落ちていくそれを通り過ぎ間際に嬢が右手で取ると、それは桃色の筒を持ったベアだった。


「それを僕の代わりと思って一緒に連れて行ってくれたまえよ。良い旅を!ベリック嬢!」


 既に通り過ぎた船に向かい、身を乗り出した議員はそう言って手を振った。優しく物わかりの良い嬢はそれに振り向いてベアを抱きしめる。


「ありがとうおじ様!また遊びに来てね!」


「ああ!お父様とお母様によろしく!」


 と、最後に口角を勢い良くあげ、グットラックと親指を突き上げて口角をあげるジェレミー議員に、嬢は橋下を通り過ぎるまで手を振っていたのであった。その時、私はその背を見ながら突如として悪寒に襲われたじろづく。まさか、嬢は――、


「ジェレミー議員とは知り合いだったのか…?」


 その声も思わず、深く唸るような物となった。


「うん!お父様のご友人なの!ダブルエーが屋敷に来る前は、うちに来た事も何度かあったわ」


 すると、嬢はこちらに顔を向ける間もなく座り込んでは、徐にベアの筒から紙を取り出し歓喜に声をあげる。


「バースデーカードだわ!こんな時にプレゼントだなんて、やっぱりそうだと思ってた!」


 と、肘をついて嬢への愛しき言葉が綴られたカードに掲げては笑っている。それに私はふと胸が軋む音を聞き、ふらりとモーターから手を離して彼女に寄っていた。


「全く、いつもあの人ったら、私ももう子どもじゃないのに……」


 と、言いつつ嬉そうな声色に、私の目は揺らめき、口元は微かに震えていた。


 いつもだって?


 声に鳴らない声が反響して、煩く響いた。


 だしぬいた男、あんな男、あんな男が嬢にあんな言葉を、あんなものを。大きなテディベアの黒い瞳が、引きつった顔の私を、嬢の肩から覗いては嘲笑ってる。


「そうか、それは参ったな……。あんな男の代わりというにはそれは可愛すぎる。あの男にはそうだ……」


 あんな醜い顔には、鼻の下をのばしながら、美しい嬢を厭らしい目で見下ろす下品な男には――、


「ヒヒがお似合いといった所だろうな」


「あら、酷いわ!」


 と、嬢はそこでようやく私の方へ振り向いた。しかしそれは私に対して怒りの目で頬を膨らまし、「彼」の擁護を紡ぐ言葉で。


「ジェレミーを悪くいわないでよ!あの人はとっても良い人よ!」


 勢い良く嬢が背を向ける間際、彼女の腕に抱かれたベアが遂に正面から「可愛げ」に微笑む様を見た。あのやさぐれた男の手に触れられた熊が、彼女の清らかな腕に、膨らみのある桃色の羽毛が覆う胸に触れている。その様を想像するだけで、私の腹の下からどす黒い塊が、胎にある、私を私たらしめるにある白い液体と混ざり合ってぐるぐると周り実に心地が悪い。この気持ち悪さを振り払おとした時――、


「きゃっ」


 彼女の胸に微かに触れた。次の瞬間、私の手の中でベアが掲げられていた。



「ダブルエー…?」


 目の前で突然、熊を奪い取った私の姿に、身を固めたまま戸惑っている嬢。しかし、私は眉を顰めて睨みつけたまま、そのベアの首元を握り潰し、そのまま真下、テムズ川の藻屑の中へと捨てたのだ。


「何をするの!?」


 私の睨みに脅えた彼女は、途端弾かれた様に飛び上がり、スクーターの端に身を乗り出して沈むベアを掴もうとする。その時、スクーターが激しく揺れて嬢がバランスを崩した。


「きゃあっ!」


 私が嬢と共に河に飛び込む勢いで後ろから抱き締めた事で、スクーターの重心が崩れて激しく傾いたのだ。大きくなった事で今まですっかり避け「られ」ていた、久しぶりの柔らかな少女の温もりは、実に甘美な心地だった。これで分かる、彼女がどんどん女らしい体つきになって、内側から色気づいている事がこんなにも、あからさまにそれをもっと味わいたくて更に強く握った。


「いきなり何するの!やめて!」


 しかし、色気づくと共に、彼女には父からしっかり教えられた幼き頃には無い「警戒心」をも明確に表す様になっていた。私の胸を脚を叩いてばたつき逃れようとする嬢は、それが父の言いつけ通りにと嫌がっている。そんな嬢の健気な矜持を男の腕力で握り潰し、


「動いちゃいけない、落ちるぞ」


 彼女のくびれた腰と肩をすっぽりと包んでおさめる。ここはベリックじゃない、私の庭、ロンドンだ。私の街で私の思う通りにして何が悪い。


 遠目に流れていくベアを見つめる彼女の翡翠をそっと隠した。彼女の耳元に顎をよせ、栗毛の産毛を揺らめかせて私はそっと息を吐く。「駄目だ」と、数多の女との褥で囁いた声で。それがまだ少女の嬢にとってトラウマにせよ、彼女の深淵に深く深くその声を刻み込めればそれで良かった。


「駄目だよ、あんな顔をそんな他の男にやっちゃ」


 それは、陰鬱と冷淡が籠もった声で。唇に触れた耳が微かに震える振動が実に心地良い。


「そうだ、後ひと月で君はまた大きくなる。それはまた女に近づくって訳だ。それだってのにまた

あんな風に男を誑かすのか?君は罪作りなんだろうか」


「は……?そんな……つもり……は……」


 涙を目端に溜めて身を捩り、典型的な弁明をする彼女を私はなだらかな太ももをひっつかむ様にして黙らせた。裏声をあげて涙を垂らした彼女を更に、絶望的な程にきつく抱き締めながら――。


「そいつは言い訳にはならないな。無自覚も無知の一種だって事だ。それで幾人の男に誤解をさせてきた?あ?」


 顎をしゃくって、スカートの丈をさすって太ももを弄って嬢の不始末に躾を課す。「これをしているのが下劣な他の男じゃなくて、私だって事を幸運と思うんだな」そう諭しても諭しても、嬢は「嫌だ」と弱々しくか細く鳴き、尻を突き上げては背中をしならせるばかり。その愛おしい痴態に私はそのむせかえる華々しさを咎める様に弄る手を強くした。息が互いに荒くなり、汗が滲み、互いの身体を密着させる。


「約束しろ。もうあんな事はしないって」


「あんな……事って……うわぁぁっ!」


私の手が彼女の膨らむ胸の間際、鎖骨の節々に這ったのに更に怖れて声をあげた。自分の出す声が動作が、そして言葉が、すべてにおいて悪い方になっていくのを彼女は私の思惑通り身をもって実感する。


「分かったな!」


 私は荒々しく有無を言わさず怒鳴った。それに嬢が訳も解らず俯くのがまた癪に触って、いよいよその膨らみの頂きに人差し指の腹を載せた瞬間、首をあげて嬢は艦橋の下ほぼ泣き叫ぶ様に言った。


「ごめんなさい!ごめんなさい!もうやらないから!やらないから!」


 首をあげて一鳴きした嬢の懇願に、高鳴る欲情の念を抑えて私は彼女から手を放す。それから勢い良くバランスを崩して転がる嬢を今一度片手で引っ張って私の胸に抱き留めた。それがさっき恐怖に陥れた男のものだったとしても、この河の中、スクーターにぽつんと浮かぶか弱き嬢が頼る術もまた私でしかないのだ。訳も分からない残酷な事実と共に相反し思い知らされた、高貴なる身分でも叶わぬ非力な身の程に戸惑い、嘆き悲しみ、嬢はぎゅうと皺を形作って私の腕を握りガタガタと震える事しか出来ない。それで呟いた言葉は、そう為さしめた相手へと向けられた、無自覚なる奴隷の言葉。


「ごめっ……なさっい……ごめん…なさいっ……」


 ああ、私は思わず更に震える彼女を愛しさが故に抱きしめてしまっていた。そうだ、これは君が悪い。君が私を差し置いてあんな男に近寄るから、こんなに愛している私を見捨てようとするから。彼女の律儀な性格を嘲笑い、それを利用して私の笑みは歪みに歪んだ。またそれを隠さぬまま涙に濡れた彼女の円い頬に頬ずりして言った。


「ああ、もう良いよ。反省しているんなら、もうこんな事なんてしない」


 だがお前も二度とするなよ。


 最後に瞳孔の開いた目で、揺らぐ彼女に隙も無く楔を打ち、震えをぴたりと止まらせた。


 それからすっかり脅えてしまった彼女のロンドンの旅は、小さく縮こまって震えたままで、私の折檻から逃れんと許しを乞う様に私の手を掴み、離れないままだった。相当不自由な生活ではあっただろう。しかし、親子の様だと手をとって笑う母への気遣いか、嬢は気丈に振る舞って、決してその事を話そうとしなかった。


 私は手を握りながら、それを図々しくも哀れだと思った。けれども、それでも、手放したくはなかったのだ。元々こうでもしなければ、到底手も触れ合う事の叶わない運命だったのだ。どんなにねじ曲がろうが、眠れる夜に不安で首を掻き毟ろうが、私は、そして彼女との関係に追いすがるしかないのだ。


 貴女の隣にいれば、私は自分の全てが許されるのだから。 それからベリックに戻っても嬢は私はその事については何も語らず、またいつも通りの生活を共に過ごしていたが、


 あの男は、あぁやはりあの「悪魔」だけは、隠し通したその変化に鋭く嗅ぎ付いてきた。そうしていみじくも、遂に嬢が9歳に近づく春日曜日の昼、私を応接間へと呼び出したのである。


 それは今でも――、あの運命の出会いよりも皮肉な事に、鮮明に訪れている。


 それは夏も近づく間際、霧雨がベリックの街を覆った日。そのためか屋敷はしんと水が張った様に静かで、微かな細波の音が、無数の雨露を払う私の耳にもよく聞こえていた。鈍欝な生温い霧を払い何時もの様に石畳を上がって扉を開いた時、仄暗い中から現れ出たのは、茶色のツイードジャケットに身を包んだ父、アングイッシュであった。


「今日は随分と曇ってますねぇ、寒くなかったですか」


「ええ、でも、傘を差す程ではないですね」


 いつもの様にとりとめのない話を交わし、そそくさとコートを脇に嬢の元へ向かおうとした私を、脇からアングイッシュは無言の眼孔によって留めたのだ。私はそこから何時もの愛想笑いから真顔に戻り、寸時それを横目に見下ろした。


「何か……?」


「すいませんね、ちょっとお話したい事がありまして」


 それに私は誤魔化すでもなく眉を顰めた。毎日一目会いたいとばかりに歩調を早めているというのに、父親にその大事な時間を止められてたまるかと。


「はあ……嬢の宿題をみてからでは駄目ですか」


 そう言った私にアングイッシュは首をあげて言い放った。


「えぇ、良いですよ。それを最後にしたいのであれば」


「なんですって?」


冗談にしてはあまりにも悠々とした物言いに、私は思わず背を向け廊下を歩き出した彼の後を追っていた。


「ちょっと待って下さい。さっきのはどういう意味なのです」


それに反し、歩調を荒々しくアングイッシュは無言のまま奥の部屋へと駆けていった。


「待ってくださいって!」


  角張った彼の肩を掴んで引けば、振り向いた彼は、唇を引き締め固まっていた。しかしその変貌ぶりに動揺する間もなく私は詰め寄って抗議する。


「いきなり何を言い出すんです!3年ですよ!長い間連れ添った家庭教師を急に変えるなんて……嬢のためにならないではありませんか」


それにアングイッシュは、徐に目を伏せて言う。


「えぇ貴方の思惑通り、私は娘のためなら何も厭わない父親です。だからこそ、貴方はこれからそれで足を掬われる事になるんですよ。つまり私は娘のために貴方を解雇する、と言ってるんですよ」


「何ですか……それは……ますます意味が分かりませんね……」


「おやおや、今日は随分と察しが悪い」


 と、腰に手を当て、心髄を射抜く様な慇懃な眼差しでアングイッシュは、諦感のため息をついた。そして、その真相を遂に語る。


「私が何も知らないただの木偶の坊とでも思っていましたか?……貴方が、私の娘に何をしていたという事を……!」


「はっ!?ちょっと待って下さい……!違う、私は……!」


「何が違うというのですか!大体私は最初から、貴方が私の娘を見る目が可笑しいと解っていたんです!彼女を見下ろす時の眼差しが、口ずさむその声色がただの少女に対してだけではなかった事を!」


 大口を開くアングイッシュは、口元を覆う栗色の髭の毛先まで怒りに揺らしながら怒鳴った。



「それには一種の艶があった、計り知れない欲情の裏返しが見えた!そうだ、私の娘は誰よりも逞しく美しい。けれどそれも最近、誰かから脅える様に屋敷の中でも萎んでいるばかりで、実の父に対しても恐怖を抑えた顔し向けない!」


 荒々しく回る舌は呂律も空回り、やがて叫声を奏でる。


「貴方は一体何をしたんだ!私の娘に!たった一つの宝物に!」


 無骨な男の言い放った煩しい声は、私の耳に重奏して鳴った。私はその響きに動揺に心震わせ俯きながらも、心の中で激しく舌打ちをした。


 誤算だった。やはりこの男を見くびってはいけなかったか。


私とて、目を合わせたその時から、この男だけは油断ならないと思っていた。目の前で今怒り狂っているこの男は、一帯の領地を治める当主として得た観察眼と、多くの貴族との交流で培った肥えた瞳で私の性根を見抜き、その技には、判事の私でも追いつくべくもなかった。


 しかし、それでも。と、私は怒りの中に笑みを零して彼の言葉に対峙した。


「何をした」だと?そうだ、この男は現に所詮、憶測故の不安から文句を垂れるばかりで、嬢から実際「何をされたかは」聞かされて無いのだとその時に私は気付いた。


 そうだ、あの娘が父に話すはずがない。私を慕っているからこそ、父を愛しているからこそ、愛する2人がこんな風に言い争う位なら苦しみを自分の中に潜めておく、嬢はそういう娘なのだ。


「よくやってくれたよ」


 と、嬢への愛しさに微笑んだ私は生気を保って顔を見上げる。そうであるなら、この状況をいつでも打開出来る。隠すためでもなく、プライドを守るためでもない、嬢の隣にいられるためなら何でもする覚悟が出来た。


「……そんなもの、ただの思い違いにすぎませんよ」


 さっきまで動揺していた私の、舵の取り方に今度はアングイッシュが目を開く番となった。


「さっきから黙って聞いていたら、随分とまあ、好き勝手にベラベラと憶測だけここまで語って喚きたてられるもんですね。私達をそんな目でしか見ていませんか。むしろ、邪な心を持っているのは貴方の方じゃないんですか?娘を囲う男がみんな赦せなくて、そんな風に思い込む事でしか、精神が保てなかったのですか?」


「な、何を言ってるんだ……?君は……」


「だってそうでしょう。貴方は源に、他の教師に対しても決して教師以上の交わりを娘に与える事は断固として許さなかった。貴方は自分のものだけに、自分だけを愛してくれる娘を欲していた。父と言う名の隠れ蓑にまんまと収まって、今まではそう出来ていたのかもしれませんがね、それをエディス殿は懸念して私を遣わした事には気付いていなかった様ですがな」


 今思い出すと、自分でも随分な事を言った様に思える。それにアングイッシュも突き刺さる微かな心当たりに身を固め、怒りと共に「心地悪さ」に眉を顰め、口端を滑稽な程に歪めていた。特に妻の名前が出た事に動揺の汗を滲ませる。


「そうでしょう、図星でしょう。私はそんな貴方から嬢を開放するために、こんな糞臭い片田舎からもっと世界を知ってもらうために居るんです。それを悪者扱いされちゃぁ溜まりません。まあ、貴方にとってはそれが道理かもしれませんがね。しかし、いつまでもその父親面が通じると思わない方がよろしいかと」


 言い澱む彼が、思わず身を乗り出そうとするのを、両手を出して私は静かに窘めた。心底呆れてしまった面持ちで目を伏せて口角をあげれば、アングイッシュは予想通り無骨な顔立ちを形作る、その表筋肉のすべてを潰した顔をして、私を睨んでいる。


 ああ、さぞかし悔しかろう。今までここまで追い詰められなかった様な、その動揺を滲み出す滑稽さに、私は思わず鼻を鳴らした。沈黙に伏せる嬢の健気な思を踏み台にして、私は音高く靴を鳴らして構える。身長、美貌、地位、すべてをお前が貴族としたこの世を愛し、その恩恵にのさばっていた頃、彼が映る物それらすべてを憎みに憎んで、惨めに這いつくばって手に入れてきたものを今日、この日のために見せつけてアングイッシュを見下した。


「もう、おいとましてもいいですかね」


 そうして口角をあげたまま、私は最後の節目を悠々として語った。


「この事は特別に嬢には黙っといてあげますよ。そうした方がお互いのためだ」


 やがてはお前が一番美しいと思ったもの、娘だって私の物にしてみせる。それでこそ、男の快勝というものだ。


 私はこの日、唾棄すべき男の浅ましい姿に、うっとおしく顔を背けて立ち去ろうとしていた。が、その瞬間をまるで狙ったかの様にあの男――アングイッシュは、再び、俯いたままぼそりと「あの言葉」を私の背中に投げかけたのだ。


 それは別人と見間違う程に低く陰鬱の籠もった忌まわしいあの言葉。私のありとあらゆる全てのものを一気に踏み潰したあの声は――、


「ドブ鼠の息子が、何大口開いてんだか…」


 時が止まったというのを形容すればきっとこういう瞬間なのだろう。弾丸が、心臓の根を貫き突き破る感覚に、私はピタリと歩を止め上擦った声をあげてしまった。


「今、何、を」


「どんなに高価な服や香水でごまかした所で、猿の物真で実に滑稽だ。似所詮糞尿入り混じる排水をすすり、腐りに腐った五臓六腑の臭いがその捻れだ唇から滲み出て臭いんだよ」


 よもや私の問いに答えず、アングイッシュはわざとらしく鼻をつまみ、厭々しいとしてその鼻先を外らす。言葉に対抗出来ない故の悪あがきか、と、あの時黙って手にかけたドアを閉めれば良かったのだろうか、しかしそう思った所で遅かった。私は振り返り、彼の元に駆け寄り最大の呆れを持って鼻を鳴らし、彼の言葉を大仰にして嘲笑った。けれど思った以上に乱暴に閉められたドア、吹き出した息の間の悪さが、私の意図を醸し、アングイッシュの眼光が真っ直ぐ突きつけられる。


「そいつはおかしい事を言いますな。高貴なる王族の末裔が娘可愛さに悪あがきですか?その娘に人間には尊卑など関係にあらずと、何度も教え諭していた言葉はなかった事にすると?」


「あんたを見てそれが真実を思い知った、それだけだ。判事とかなんだか知らないが、卑しい奴らのあさましい痴話喧嘩を聞くだけの仕事で、よくまぁそんな誇らしい面を掲げられるものだ」


 と、顔を斜めにあげ、心底呆れた様な面持ちで言う。


「そういう価値の無いものをむやみやたらにひけらかすのも、卑しい腐った目ならではというものだな」


「はっ何を言い出すんだかこじつけにしか聞こえな」


「黙れドブ鼠。お前に分かる様に言ってない」


 低い声に優位に立とうと笑っていた私の顔は、真顔になってそれを睨み下した。コイツ、本気だ。

その残飯を見る様な目は、鼻をつまんとする程に私に対し拒絶するひきつった顔は、悪あがきなんかでも無く、生まれついた頃からの生理的嫌悪だったのだと気づいたのである。


「あぁ、見るのも忌々しい位のこんな臭いのする男の側にいたら、娘が侵されてしまう」


 と、頷きながらアングイッシュは独り言をぶつぶつと呟き私の周りを、豪勢な木枠が覆う部屋の中をぐるぐると回る。


「ダメだ、ダメだ絶対に駄目だ。娘はこいつらとは違う。娘は私の娘だ。私の、こんな奴らとはそもそもその存在さえ知るべきでもなかった、高貴なる子なんだ。あぁ、ああ」


 そしてぐるりと振り返った寸時、向かい合った私を鼻で笑い、貴族としての優越感と余裕を盾にして言う。


「成り上がりはこうだから嫌なんだ。自分の生まれもった身の程を、どいつもこいつもニワトリみたいに忘れやがって。自分が特別だと笑うその姿が浅ましい」


 と、言った。その時の私はどんな何の顔をしていたというのか。こうして行動を辿る事しか綴られぬ程、その時の私は何も考える事が出来なかったのだ。眉を下げ、最も憐れみと侮蔑を並々ならぬ顔でひねり出して、男は言う。


「出ていけ、ここにお前の食う残飯などどこにもないぞ」


 そして男は、最後に勢い良く体を起こして叫んだ。


「出ていけッ!」


 同時に久々の鈍痛が私の頬を掠め、真っ白な頭の中を揺らす。殴った拍子に指を突き立てドアへと荒々しく突き差して叫んだ。


「出ていけ!卑しいお前と同じ空気は吸いたくない!」


 絞りきった声が、揺れる視界と合い重なる。私は眩暈に身を任せたまま首を擡げ、目元を髪で隠し項垂れる事しか出来ない。出て行く気力さえ湧かなくなった。


 すると、アングイッシュは私の肩を弾き飛ばし、それをわざとらしく汚物を触ったかの様に、手を振って叩いて背を向けた。


 よもや意味も為さない悪態と同時に、激しく閉められたドアの音。皮肉にも呆然としといた私の頭がはっきりと、それを聞き取り目が冴える。ぐらりと首が揺れて下を向くと鼻筋から雫が垂れ、赤いカーペットに一滴が染み付いた。それが赤色でないと分かるや否や、ボロボロと情けない位に溢れ出ていった。口端が無意識ながらもこんなに均等に震える様を不思議に思いながら、しんと雨音が降る部屋の中で一人、顔に位置する全ての端と端を皺寄せて、激しく鼻を啜った。


 ひゃくり声をあげて声を荒げて少しずつその顔を憎悪に形作って、私は呪詛の言葉を声にならぬままに吐いた。


よくもよくもよくもよくも。あぁああぁあぁあぁ。 


 溜まり溜まった怒りの言葉は、まとまりきれずにごちゃまぜに、私の贓物から絞り出る。それをひねり止める様に胸を握り潰し、ひん剥かれた我が鳶色の目は、虚空をぐるりと円を描いて瞳孔を開いた。


 あぁ、そうだ。私のこの目は梟の瞳、この手は梟の爪。嘘を真実と誑かし、地上に蠢く奴らをこの爪で食いちぎるためにあるもの。違う。こんな風に苦しみながら腐った贓物と、卑しい血が流れるこの自らを傷つけるためのものなんかじゃない。


 息もつかぬ程溢れ出る嗚咽の中で、私は脳裏に浮かぶ復讐の、その遥かな道筋に再び眩暈を起こす。その視界の先には暗雲垂れ篭める雲が目前と迫って、影を落とした。


 契れ。チギレ。悪魔を倒すは梟であれ。


 ふと、私がそう囁いた様な気がした。


***


 夕方に霧だった雨は次第に酷くなり、夜になると一寸先の闇となった世界に銀の糸を無数に垂らす。暗闇の中、ぼんやりと枠付けの明かりと灯すカンモー邸はとうに見えなくなり、木枝が落とす雨粒も払わず、ずぶ濡れた私は、森の中にある木小屋のこじあげて、白色のランタンの下、色あせた桃色のベットの上に座り込んだ。


ここはベリック嬢が作った森の中の秘密基地、寝泊りする位の出来にしあがるまで共に作り続けたものだ。春の日差しが急に恋しくなって、自身の体温で包み震える身体を慰める。館に篭るワケにもいかず、かといってそのまま帰る気も起こらず、私は逃げる様に、そして嬢の面影に追いすがる様に、ここに逃げ込んだのだ。


 窓に張った雨雫が、まだ止まらぬ嗚咽と共に、ぼろぼろと外の雨音に連動して零れ落ちる。私はそれを目を細めてぼんやりと眺めていた。何も考えられない心地の中で鼻を啜り嬢の香りを確かめようとするも、その鼻先に漂うのは、湿りきった木の臭いだけで、私の耳に張り付く雨音が余計に大きくなってくる。


 が、その時であった。私のその中から微かに聞こえるノック音を聞き逃さなかったのだ。薄汚れた窓から暗闇とは違う、黒が蠢いているのが見える。そのまま倒れこむ勢いだった私は飛び起きる様に立ち上がって真鍮のドアに手をかけていた。その心の隅にはそれが嬢である事への期待があった。


 まさか、舘を着の身着のまま出て行った私を眺めてそこから追いかけてくれただなんて――、情動にのせられたままドアを開けば、途端に水しぶきと雨音が迫ってくる。も、その視界は滑り込むように駆け寄った黄色の掛布に覆われた。それは、黄色の掛布を雨よけとして纏う、柔らかい線型を私の胸に寄せた女の姿。しかし、その感触は嬢のものではない、重なり合う水と水で張り付いたその身体は嬢のより凹凸があって、大きい温もりなのだと気付いた。長い沈黙の中、恐る恐る顎を「彼女」に額に載せれば、ゆっくりと掛布がはだかれて、きめ細やかな金髪が私の唇に優しく触れた私の濡れた腕を掴む、細長い色白の手首は、そして私をじっと見上げる金の睫毛の奥で瞬く翡翠の瞳は、ああ、いつも側から私を見守っていた、あのーー、



「びっくりしましたわ」



 その声はいつもの様に清々しく、そして貴族の令嬢ならではの上品さを持っていた。嗅ぎなれたシトラスの香りは、風にのって色付きを与え、ランタンを揺らす。と、共に、より鮮明に彼女の心配そうに私を見上げる顔の陰影がくっきりと浮かび、私は思い出しかの様に飛び上がった。


「びっくりしたのはこっちの方ですよ!どうしてこんな所に……!エディス様……!」


 首を振りながらベットに座り込んだ私に、掛布を首にかけ直したロングスカートを翻すエディスは、慌てて、私の隣に駆け寄って言う。


「それはこっちの台詞ですわ。気づけば貴方が夫と口論して、いきなり雨の中飛び出すものなんですから、一体何があったか気になりましたのよ!?ああ…こんなに濡れてしまって……風邪をひきますわ」


 と、母ら隣に座り、首にかけた掛布で濡れた私の髪と顔を甲斐甲斐しく拭いてくるエディスの手を、その時は掃く様にして払い、顔を外らす。


「やめてください。

私は貴方様の様な方に拭いてもらう立場ではありません。そんな、わざわざ来てもらうまで気にしてもらえる様な立場でも……」


「何を言ってらっしゃるの!?貴方は大事な家庭教師じゃありませんか!どうしてそんな卑下する様な事をおっしゃいますの!」


 それに対してエディスは、まるで見捨てられたというような声色で両手を私の方についてよる。まるで拒否をされた事に少なからずショックを受けている様だ。しかし、さっきまでの状況が状況なだけに、私は濡れた腕で目を擦りながら、彼女の言葉を憮然と受け入れる事しか、その時は出来なかった。


「そう思っているのは貴女だけです。現に私は今、夫に解雇命令されたばかりなんですよ」


 夫、という言葉に、エディスは、白い顔を更に白くして口を開いてその事実を嘆く。


「なん、ですって。夫が貴方を……そんな、どうして……」


 私は二人の間に落ちた掛布を拾い拭い、両手で髪の毛を整えながら、乱雑にして答える。


「さぁ、突然、お嬢様との教育方針について難癖をつけられましてな。有る事無い事言われている内に向こうの権力志向で、あっという間に解雇ってワケですよ。全く、幾ら何でも理不尽にも程があります……」


 と、仄かな悪態までに留めて思い出すあの顔に、荒々しく髪を乱す。やがて目端に彼女を伺えば、じっ、と瞬きもせず私の横顔を見つめたまま胸元を握りしめている。その、理由を聞けども今はただ、「夫」という言葉にも「娘」という言葉どっちにも依らず、その衝動に打ちひしがれているだけで精一杯な顔に私は寸時、瞳孔が開いた。


「エディス様……?」


 遠いどこかで雷鳴の音が聞こえる。それに向かい合う互いの心臓が鳴ったのだと、その時二人は気付いたのであった。深夜の森、雨の中に潜むあばら家で2人きりという状況も相重なって、嬢の見る目の艶めかしさに、私は遂に気づかないフリをしていた核心を得る。


「あの……」


 眉をゆっくりと下げ、腰をかがめた途端、エディスは息をついた瞬間にその胸元を思いっきり私の、同じ場所へと押し付けたのだ。その意味の恐ろしさに身体を固め、両手を広げた私からまるでその意図を拒否する様に目を瞑り、首を振って彼女は私の中に深く潜り込んだ。



「いや、嫌です!」


「は!?」


 空いた背中を素早く回し、隙間も無く握りしめて彼女は叫ぶ。寄せた皺がシャツごしに滲みを作って湿らし、それが彼女の触れる肌と共にとてつもなく妖艶に香りが漂った。


「いや!貴方が居ない屋敷なんて帰りたくないのです!お願い!残っていて下さい!貴方がいないと!貴方が側にいてくれないと、あの邸に、邸に私は!」


 そうだ、彼女はいつも、始めて出会ったあの頃から私の事を、誰もが羨む広く荘厳な館の奥からまるで牢獄の空を拝む様に嬢と手繋ぐこの私を、まるで手に入れなれぬ遠い世界への憧れでもって微笑み、目を細め見つめ続けていた。嬢と父が一緒にいた時も、嫉妬を押し殺して立つ私の隣に彼女は――、


「し、しかし……旦那様が決められた以上、もう私はそっちには帰る事など出来ません……」


 家庭教師としての立場を保ち、抱き返す事もなく恐る恐る答えてみるも、エディスは厭々と言って、更に強く抱きしめる。嬢より大きく温もりを持った体、嬢より凹凸のはっきりした体つきが、ぴたりとくっつき合う。そして今まで口にしない本音をここまでも吐き出し背中に手を回す彼女の、互いの身体を通して切なる思いが、色香と共に濡れた金髪を垂らして私の胸に収まる女の艶を醸し出す。


 沈黙の隙間を覆う様に降りつける雨の中、すべてを察した私の目、は再び瞳孔が大きく切り開かれた。それ以降の細かい事は印象には残っていない。何度かそれなりの建前な言葉を交わしたようなそうでなかったような、それでも彼女は私の元から離れ様としなかった。その上で、ある。


 私は目を開けたまま彼女の震える背中を包む様にして握り返した。ピクリと小さな肩をあげてはいたが、それも一寸の内、忽ち彼女は肩をすっと落として私の肩と肩の端に薄桃色のネイル瞬く細長い指でゆっくりと撫でる様にして縁取る、その囁かな触れ合いの中の勢いに乗せて、私たちは共にシーツの上に堕ちていった。ふわりと優しく寝そべってシーツの上に幾房となって金髪が波を描く。


 その中から現れで出た、美しい輪郭を縁取り顔立ちを互いに首をもたげてゆっくりと互いの顔を見つめ合い、夫とは違う顔立ちの男に恍惚に顔を染める彼女の顔を顎からそっと唇を触れると首をあげ、それを自然な動きの中で「求める」様に小さく唇を窄めて声を漏らす。その隙間を埋める様にら小さな桃色を同じ唇で覆えば、粘膜の音と同時に彼女は首に手を回し更なる奥へと私を誘った。


 常に殿方の妄想を拒否した、いや助長させたロングスカートはいざ捲ってしまえば、意外にも薄い布で幾重にも巻いていただけのものだったと知る。露わになった、微かに色気づく、絹のごとくきめ細やかな太ももを鷲掴みにする。


 小さな灯が揺れる中、絡み付く身体の隙間から混じり合う吐息と矯声もすべて、黒き森の茂みと雨糸が隠してくれる。その事実に私は身を捩らせ、背中の震えと共に全身でこの時間に歓喜していた。露れない姿で私の下にいる彼女は、あの男がかつて見、愛し触れた姿。


 それが今や、この卑しい男に組伏しられ、身体を反らしている事の、なんて哀れで、滑稽な事か。


 けれど、「良かった」。とにかく何でも良かった。


 あの触れるべくもない「嬢」の母たる彼女といれば、貴女と繋がれた感覚に陥る甘美的な酔いに頭が朦朧として、むせかえる汗と共に視界がぼやけ、貴女の事以外は何もかも忘れてしまえる。皺作り混じり合った布と布の間、そのねとりとした音を、激しい身体のだるさと吐き気で霞む虚ろな目で聞き、つうと伝った筋を見て、私はほくそ笑む。


 生きとし、生けたもの、すべてに――、「ざまあみろ」。


 愛する女を「卑しい男」に盗られた気分を、その賢い頭でうまく歌ってみせろよ。


 そう思いながら、その後すぐに私は言葉を忘れ、声を忘れ、真髄の底に這い出た快楽に

呻き、只管腹の下から疼く心地に溺れていって雨音の中、深淵の中に果てた。



8、疾走、失踪


「う、うええっ…もう、ダメだ、耐えられねえ…!」


 途端、白い膜がう水色の瞳が揺れ動く。ジョージはつんと雨の臭いを嗅ぎ、元の屋敷の「現実」(なか)に居る自分に気付いた。と、その肩を軽く突き飛ばして右から振り返ったテイラーは、転がる様に駆け寄り、向かいの洗面台の蛇口に力いっぱい捻り出す。も、水が出るか出ないかの間に耐え切れず、肩を大きく上下して、途切れ途切れの嗚咽と共に、胃の中の物を吐いた。


「うっえ、おっえ、むり、もう、無理……無理……!おっえええええ…」


 目端に皺と涙を寄せ、目をぎ瞑ったまま、肘を欠けた洗面所に突っ伏せてずるずると膝を床付けるテイラー。その溜まりきった吐き出す声は、今にも大声で泣き出しそうな程の悲壮感に満ち、日記を持って無表情のまま佇むジョージの背中をひんやりと冷やす。外もすっかり深淵の中な満たされ、雨も降り始めた部屋は水槽の中に似て、カビの臭いと充満した空気がテイラーの吐き出された酸っぱい吐瀉物の臭いと交わる事なく漂う。、それは余計にテイラーの情緒を不安定にさせた。


 飛び散る水流が渦巻けど、流し切れない自らの吐き出されたものの、鼻につく臭いに更に息をすって吐き出す繰り返しに、テイラーはほとほと疲れ果て、冷たい灰色の壁に手をつきうなだれた。


「うっぷ……!」


 ようやく水を口につけて、濡れる服も構わずびしょびしょに片手で口ゆすげば、胃酸が遡った喉の焼ける痛みと、収まらぬ吐き気に鼻をも覆って激しく咳き込んだ。



「おい、待てよテイラー。まだ日記は終わってねえぞ」


 しばらく、その様子を後ろから見守っていたジョージは、淡々と言葉を返す。それにテイラーは聞きたくないと言った様に、首を振っては目を瞑り、自身の口元を掴んで叫ぶ。


「嫌だ!もう嫌だ!こんな話、もうたくさんだ!冗談じゃない……こんな話!これ以上見れてたまるか!」


 テイラーは分かっていた。そこから先、どんな展開が待っていると言う事を。それがただ恐ろしくて、首を振る。それにジョージは小さなため息をついて、背を向ける事にした。


 そうして、彼の手に収まったまま、開かれた深紅の日記。その文字をもう一度色気を失った水色が追い、物語は続けられる。


「そうか……それで……アイツが……」


***


 私が何も告げずに嬢の元へ去ってから、しばらくが経った。その間、嬢があの屋敷の中でこの事をどう受け取って暮らしてきたのかは知らない。一方私は、そのまま何も帰ってこない返答に苛立ち、あんなに付き合った仲なのにと、日々を葉巻ですり潰す事に費やしていた。そんなある日、この不完全燃焼な状況に王手を打ったのは、意外にも私と幾度な逢瀬を重ねる事以外はいつもの様に、大人しく屋敷に留まっていたエディスの、あまりにも残酷な言葉であった。


「私、妊娠をしましたの」


 それは暖かな昼下がり、私のいない生活からようやく、何時もの軌道にのろうとした和やかな休日の昼休みだったという。曇り空が光を反射する、ぼんやりとした明かりの中で食事を終えた後、俯いたままぼそりと呟いたのが最初だったという。


「だって、あの人があんまりにも大口開けて笑って、最初から何も無かった様に振る舞うのが憎たらしかったんだもの」


 その冗談に笑う、より大人びた嬢の横顔に些か癪に触り、急にその空間をぶっ壊してやりたい衝動に駆られてたという。ああ、その場に居合わせて無いからこそ、その時の騒ぎはいかほどのものだったかと、相当凄まじいものだったろうと、私はエディスの語りを聞きながら煙の行く先を追った。


 アングイッシュがさっきまでの笑顔からみるみる歪んでいく様や、銀燭が荒々しくなだれ落ちていく甲高い音の中、彼は座ったまま俯くエディスの胸倉を掴みあげて、罵声を浴びせた事だろうか。それとも嘆き悲しみの入り交じる呪詛の言葉を、跪きながら彼女にぶちまけた事だろうか。


 エディスへの愛だけは本物だったからこそ、そ裏切られた衝撃と悲しみを、あの時はどこそ構わず露骨に表した事だろう。しかしエディスもエディスとて、それを宥める知恵も度胸も持ち合わせないから、薄黄色のショーツに皺をあげ、へその下をゆっくりと撫でながら「お腹の子」を気遣い、碌に話を聞こうとしなかったに違いない。そしてそんな両親を目の当たりにした幼きベリック嬢の、細い御足であとずさまったまま立ち尽くす事しかないその心境とは、如何ばかりだったか。


「知らないわ」


 私の問いに素っ気なく答えたエディスは、私の胸の中から離れつつシーツを引っ張り、その染み一つない素肌を背中をさらけ出したまま頬を膨らませ羽毛の中に顔をうずめる。口ごもった彼女が言うには


「色々あって忘れてしまった」


 らしい。全く都合の良い脳みそである。カーテンの布生地から朝の日差しが通って、それによって彼女の金髪が瞬く。その穂先を指先で撫でて、彼女の不機嫌を宥める一方、素足が冷える脚を放り投げ、再び甘い葉巻の甘美に酔いしれて思案する。

 

 エディスの胎に宿る赤ん坊の父親は、この状況が語る限り、紛れもなく私であるのは間違いない。だとすれば、この隣で布一枚隔てた私の抱擁に甘んじている裸のエディスは、いづれはアングイッシュとの離婚を望み、私との結婚を期待しているという訳だ。では、一体その後嬢はどうなってしまうのだろう。あの怒り狂った父親の元に頑として残ると、あの気丈な性格で意地を張り倒すつもりなのだろうか。


「さて、それもどこまでもつか」


 葉巻を吸った後の穏やかな心地に煙をはいて口角をあげれば、エディスはその「おめでたい頭」で自分の都合の良い解釈をしては、頬を染めながら笑みを零し、私の首筋にキスをする。そのくすぐったさに身を避けど「いや」と言って寄ってくる彼女に諦めた私は、葉巻を投げ捨て次の段階に誘おうと身体を寄せた。


「お手並み拝見とするか」


 さて、私が館に居ぬ間、ベリックの街を吹き抜ける冬の風が言うには、あの忌まわしき館に様々な不幸が起こったという。私は常に足首に波打つ草原を遠目に、茶褐色に苔むした屋敷を見つめつづけていた。随まで冷えつける風によって赤くなった鼻先は、夕方の日差しにちらついて鼠色の空に映える。誰もいない様に見える中が塗りたくられた真っ黒な窓枠は、騒ぎの跡の静けさを助長し、私の心の臓にまで寸時の高鳴りを促していた。


 この風と細波と共に、ゆらめく草木のざわめきしか残らない草原と、海の水平線に跨る屋敷では、その風によって「夫婦」の、互いを貶める叫び声が否応無しに聞こえていたという。


 けれど、互いが何を言われているか分からない罵詈雑言は、互いの傷を深めさせ、無味乾燥で愉快であった。その現、アングイッシュの思惑を遮る様に、どんどん大きく膨らんでいくエディスのお腹を見て、彼の焦燥感と憎悪がいかばかりのものだったか、その中に今私の面影を描き出し、何度手を振り上げ様としたか。しかしうずくまったままお腹の子を必死に庇い、敵を睨む様に見上げる、「卑しい」の子を宿す我が妻を見て、アングイッシュは何度その手を自らの血ですり潰したのだろう。


「お腹の子を降ろせっていうの」


「こんなに生まれたがってるのに」


「身分なんて関係ないの、私この子を宿して初めて分かった」


 我々には理解不可能な「母なる想い」を武器にして立ち向かう姿は、一見周りの同情を促しアングイッシュへ敵意を促す。アングイッシュとて、よりによって私の子を孕んだ女と、その子を抱えながら共に生きていく事は、王族としての矜持以上に男としてどうしても受け入れる事が出来なかったはずだろう。


 そうして遂に、精悍な顔立ちのままそっと差し出すエディスのその手に添えられた、乾ききったインクの中に、アングイッシュはもたれかかる様にして離婚書にサインをしたのである。確認した離婚書は酷く皺寄せて滲んでいた。暖炉の木音が鳴る間際、そんな離婚書を足組み交わしながらテーブルに放り投げ、ソファにもたれかかった私は思う。


 父にも母にもこんな時に限って「なかった事にされ」、ずっと独りぼっちでその浅ましい顛末を見守り続けたベリック嬢の翡翠の瞳は、どんな風に各射した光が入り組んで、瞬いていたのだろうか。


 葉巻を咥えながらぼんやりと考えていると、向かいに映る同じ翡翠の目が陽炎に瞬き、悦びに目端を綻ばせていた。そして今、臨月を迎えて厚い花柄のワンピースに、その狐型の流線を大きく描いた腹部の様子何よりも私に、「血の繋がった」存在がやがて表れる事を明確に諭し、それがまた不可解な気持ちをさせるのだ。被せる様な形で、淡い水色の毛糸で産衣を編んでいるエディスの細い指は甲斐甲斐しく動いている。「男だと分かってるのか」と問えば、


「どっちでも良い様にしてるのよ」


 と、言って、エディスは下を向いたまま、微笑んでいた。



***


「思った通り、ぴったりだったじゃないか」


 そうして今、自分でも驚く程冷ややかな声で見下ろせば、小さく膨らんだ四肢を水色の布着からはみ出たせ、母譲りの白い顔を紅色に膨らませる赤ん坊が映った。粉雪の降る一月の真夜中、白い雪を肩や頭に散らし、その目は目の前の光景に紅潮する事もなく、逆に冷え切った視線を徐々に落としていく。


「おめでとう、元気な男の子ですわ」


 すると、今まで見てきた「初めて子と対面する父親」とは違う態度に、恰幅の良い婦長が冷たい雰囲気を埋める様に、口を往々にして動かした。


「お母様に似てとっても可愛い赤ちゃんですわね。抱き上げた途端雄々しく泣きまして、お母様も汗びっしょりになりながらも、その声に涙して喜びましたわ」


「確か嫡男なのでしょ?いつか立派な伯爵家の跡継ぎになりますわね」


「お母様は今、別室でお休みになられてます。どうか寝顔だけでも見ていらしたらどうですか?」


 手を組み合わせ笑う、婦長のうっとおしい声。それをノイズとしながら私の心は冷え切ったまま「息子」を見ていた。


 やがて、逃げる様にしてその場を立ち去り、疲れた四肢をそのまま倒れ臥した後、息子と対面する事になったのは母の容態が安定した数日後の事。布着からはみ出る胸の中へ、私譲りの黒い産毛をなでながら息子をかき抱き、その母の乳房に吸い付いて吸う様子を脇に立って見下ろしていた時の事である。


「私、この子の名前を決めたわ」


 出産後の血のめぐりに顔を赤く染め、笑みを漏らすエディスは声艶やかにして呟く。腕を組んだまま、私がそれは何かと尋ねれば、


「サルタイア……、というのはどうかしら」


 と、金髪をかきあげて私を見た。


「サルタイア?聞いた事の無い名前だな」


「私の家の紋章に付いている斜十字を意味する言葉よ。だってこの子はヴィアトリス家の跡継ぎですもの。その証を名前からも示してあげたいじゃない」


 安堵する様に小さな吐息をもらせば、私もこの「人で非ず」卑しき自らの血が通った息子が「貴族」の名を背負う事にむず痒い心地となっては、斜め上に鼻をそらして笑う。目端にその「サルタイア」を見下ろせば、彼はやがて乳から離れ、母に抱かれた柔らかい心地に小さな口を綻ばせて濃い翠色の目を揺らめかせる。


 かれは嬢と同じ翡翠色の目。


 かれは嬢の血と、私の血が絡み合って同じ胎内に宿っている「証」。


 私からの反応が無い事に、やがて訝しげに首を傾けたエディス。それに私は腰を屈め手をのばす。両手でエディスとサルタイア、どちらも小さな2つの手を同時に包み込みながら片膝をつく。それに恭しく脚を揃えて向かい合うエディスへ首をあげ、用意した顔で、用意した言葉で誓った。


「よく頑張ってくれたエディス。これを期に結婚をしよう。この子の前で永遠の誓いを立てるんだ」


それにエディスは添えられた左手の薬指に、既に指輪を見出して頷き、「喜んで」と言った。


***


 結婚式の間際も、その後のチェシャー州での生活も私達はまるであの港町ベリックに残した二人を最初から見なかった事にして振る舞っていった。妻の父母を含めた周りの訝しげな空気や雰囲気も、何も知らずに泣き笑う小さきサルタイアの前ではすべて型無しとなり、彼の存在はこの不自然さを誤魔化す事には、大いに役立っていた。


 しかし私は、ヴィアトリス邸でのこれまでにない贅沢な生活、物心ついた時から憧れ続けた家庭をもってしても、歪んだ思いは抜けきれず、時としてベリックの駅に降り立てば屋敷までの道のりをひたすら辿っていった。


 どこかでふらりと嬢と顔合わせが出来ないものかと、見ない内に随分と真新しい建物が入り組んでいった乱雑な街並みを虚ろに見渡し、彼女の面影を伺えども、当然見当たらない。海へと入り混じるツイード川桟橋に寄りかかり、ぼうっとそこから森の向こうにいる屋敷を見守る日々を続けていた。


 肩にはアウル(二代目)が私の冷えた頬を温める様にして擦り寄り、ベリックの子どもたちが珍しげに、私の回りをうろちょりして、彼を良く見ようとして駆け回る。


 私は私の「世界」の中で、口をぼんやりと開き腕をゆっくりと仰げば「彼」は私の腕に乗り、私が勢い良く振り上げるタイミングを見計らって、吹き抜けた風の線に沿うようにカーブを描き、たおやかに曇天と青い川面の間を飛んで行った。


 今は往かれぬこの身なら、せめて彼が貴女の袖をかすめん事を――、


 アウルの雄々しい姿に盛り上がる子ども達の声を遠目に聞き、ざわつく崖に張り付く木陰が、私の心の内を象徴する様であった。


 嬢の居ない生活は、いつもの色気の無いものへと戻った。貴族の娘を妻にし、自分の血が通った息子を、貴族の後継としたこの立場を誰もが敬えろうと、赤子をあやす母と人懐っこく笑う息子の姿を見ても、切なげな心の内に宿るものは、嬢と過ごしたあのあばら屋の木の匂いだけだ。


 それは時として、胃の中がひっくり返っている様な、ごちゃごちゃした思いが入り混じる心地の悪いもので、彼を追い落とすために手に入れたこの生活は、果たして本当に勝利だったかは今となってはわからない。せめて、どんなに絶望した泣きはらした目でも、憎悪に恨んだ目にせよ、この私の元に嬢が駆け寄って首を絞める殴るなり、泣きついてこの胸を叩くなりしてくれれば、私はその想像をするだけで心が幾ばくか軽くなるのに。


 そうして自己を保ったまま、今日も仕事へと向かう。帰りを待つ妻と息子の姿に忌々しく目をそらしながら。


***

 

 茫然自失の毎日は、長い年月にしては大して綴る事もなく、時期は一気に5年後へと至る。いつも背中が気だるい心地に駆られた毎日は突如として、誰も予想のつかない展開となって崩壊した。それが皮肉にも「嬢」への再会を叶える事でもあった。



 その頃私は相変わらず、家庭へのいかがわしさに耐え切れずして、「仕事は哀しみを癒す最良の薬」と公判の仕事に熱中した頃であった。その甲斐もあってか、私はその年国際判事となる事を周囲から望まれ、その他諸々の諸準備に家を開けていた頃であった。


 そう、長らく居なかった「嬢」はその時に突如として現れたのである。深淵を覗く時は、深淵もまたお前を覗いているという言葉があるが、カンモー家も、ヴィアトリス家の内情を側より執拗に探り、私への介入を拒否するかの様にして、新緑の芝生の上へと立ったのである。


 その時、庭を挟み高見から門の間に立つ嬢を見た時、妻はそれがわが娘である事をしばし理解する事が出来なかっただろう。


 それもそうだった。離婚してから5年、それから一度も見捨てる様にして放っておいていた15歳の娘は、その頃とはもう既に別人となっていたのだ。


 それからも――、相変わらず乗馬で鍛えていったであろう身体は、数十年前にはその向かいに立ちすくむ母宿っていた事実から逆らう様にして、母よりも高い身長を見せつけ、腰まで伸ばした栗色の髪々が艶やかにして風に靡いていた。


 その髪が、大きくなった彼女の身体を――、大人の女性とも謙遜しない母親譲りのくびれを、陰影のはっきりした白シャツからはみ出ている胸の膨らみを、チェックのスカートが裾を撫でる肉付きの良い太腿を、一つの生き物の様にして撫でていく。


 また、子どもらしさを保っていた丸顔もこの年となればすっかり細面となり、ただ一つだけ変わらぬ双眼だけが、母を初めて見た時と変わらず同じ翡翠色に瞬いている。


 その蓋をしていた思いが、途端、張本人によって無理矢理こじ開けられた心地に、エディスは口端を皺寄せて扉の前で後ずさる。そんな母を睨みながら嬢は、大股にして歩き出す。石畳をローファイで踏み越える音は、背筋をのばす嬢の出で立ちを表す様に凛としていた。


「お母様」


 声も最早、様々な苦悩を浸ったまま歪んでいる重々しく、そして女でありながら「当主」として良い塩梅となった声色と変化している。あえて「母」と呼ぶ事によって彼女の恐れをあえて促している巧妙な思惑も、元のものより研ぎ澄まされていた。


「明日の夜7時に、ベリックに来てくれないかしら」


 何を言うのか、と、身構えていた母は、ベリックという懐かしくも酸っぱい言葉を聞いた途端、髪を逆立てて言った。


「突然来たと思ったら何を言い出すの!?いやっ、あんたたちの家とはもう縁を切ったはずよ!私はもうあの家とは関係ない!お願いだからこんな所に来ないで頂戴!」


 と、娘へとかける言葉に対する言い様の無い心地悪さに胸元を必死に抑えつつも、一方の娘はそれに無表情のまま口を閉じ、母の顔を見上げるばかりだ。その全てを達した様な顔立ちに、母は胸を更に強く握りしめ震え出す。


 その時に、自分が幸せを掴んだ事が、どういう犠牲の元で成り立っていたのかを沈黙の内から悟っていたのかもしれない。ふと、扉が風音と共にゆっくりと開かれたと思いきや、その隙間から母の膝に位置する所に2人と同じ翡翠色の瞳がきょろりとのぞいた。


「どうしたの?お母様、誰かいるの?」


 トーマスのぬいぐるみを抱えながら撫で声をあげるサルタイアは、外で聞こえた母の怒声に驚きその様子を伺おうと扉を開こうとしていた。透けた母のロングプリーツの向こうにいる人影を捉えんとするサルタイアの目の前が、途端弾ける様に叫んだ母の大声によって揺れ、けたたましい木音と共に金彩具の凸がサルタイアの豆粒程の小さな鼻を突き飛ばした。


 「来るなぁっ!」


 唐突として、そして理不尽にして、愛しき母に初めて怒鳴られ突き飛ばされたサルタイアは腰をぬかして尻餅をつく。サルタイアはその揺らぐ視界の中から自分に悪意はなかったのだと乞う様に、目尻に涙をためる。


「おかあさま、ぁ…?」


 母の姿を求めて顔を上げるも、少年のいたいけな思いはため息が出るほどに美しい金細工が覆う扉によって阻まれてしまった。


 それが、サルタイアにとって、母との最期の瞬間であった事は、記憶が曖昧な本人より、この私だけが知っている事実である。


***


 その時に、嬢が何を口にしたかは分かっていない。しかしあのエディスがあれ程可愛がっていたサルタイアを悪魔から阻まん様にして突き飛ばし、一人ベリックの屋敷に向かった事は事実である。


 そして丁度夜7時。エディスは群青色の沿岸の空を背後に、黒々とした小波の音を避ける様にして塩のふかれた扉を開いた。途端懐かしい家の芳しい木の薫りがエディスを覆えど、今となってはそれも忌々しいという様に扉を閉める。

 その先には数段上の居間から既に嬢が冷淡な目つきでエディスを見下ろしている。それにエディスは途端唇を引き締め、威勢をつける様に大股で歩き出して面と向かった。しばらくして沈黙が続く。


「何の用よ……」


「お母様はどうしてお父様から、私から離れたの?」


 嬢は口を開いたエディス二向かい突如として問い正す。それは嬢にとっては積年の蟠りを解く機会だったのかもしれないが、エディスにとっては踏み入れてもらいたくない所である。更に苦虫を噛み潰したエディスに対し、嬢が自分より高い位置からその優位性を見せつける様に無表情でいるのだから、それが余計に感に障るのだ。


「私……随分と耐えたわ。何度も何度も同じ事を繰り返し押し問答を続けてもこの屋敷の中で答えてくれるものなんて無くて、ずっとひとりだったの。貴女にこうして呼ぶ事が出来たのだってここまで位時間がかかったわ。だから、ねぇ教えて頂戴。私が、お父様が、貴女に何をしたというの?……何をどうしてお母様はお母様である事から逃げたの?」


「…そうやって、自分だけ良い人ぶった所が嫌いだからよ」


エディスは途端、その言葉に過剰にして反応し眉をひしゃげて言った。


「そうやって自分だけ悟った様な顔をして!私を見下して、今から説教でもしようって魂胆なの?そんなんだから私が離れたって事をあんただって察しなさいよ!」


「何を言ってるのお母様、私は別に見下すつもりなんて」


「うるさい!!私がそう思うんだったらそうなの!だからそういう所が嫌いなんだってば!」


 淡々と心がけていた嬢の期待を無残にも突き崩す様にして、エディスは髪を振り乱して叫ぶ。娘を睨む翡翠の瞳は憎悪と侮蔑に錯乱していた。


「何が高貴な者としての義務なのよ!そんなよく分からないもののためにこんなしみったれた家に、こんな退屈な田舎に生きていかなくちゃならないなら、私はどんなに醜態や偽善や嘘が狂気が渦巻こうとも「自由」な方を選んだだけ!あんたたちの千の言葉より、その中で生きるあの人の片手だけの温もりの方が暖かかった!ただそれだけの事!」


 それに嬢も顎を引っ込め眉を顰め、「何よそれ」と素早くして唸る。言い訳、悪あがき、退行症状――、知るかぎりかき集めた用語でもって揺れる自身の気持ちを保ち、罵声を聞きながらも依然として誠意で立ち向かおうとしていた。


「それでお母様は自由を勝ち取ったつもりなの?判事ホールダネス氏の庇護の元で住み慣れた実家にのうのうと暮らし、貴族サルタイア郷の母という立場にのっとって大盤振る舞い。それのどこが自由だっていうの?きっちり世間様の枠に収まってるどの口が言うの!」


「うるさいうるさいうるさい!!だからそういうのが嫌いだって言ってんだろ!」


 哀れみを含んだ視線に指摘された「正論」を、エディスは髪を引っかて振り乱し、ヒステリックに喚き散らして踏み潰す。言葉も賊のごとく乱暴になって、小刻みにして嬢へと尖った人差し指を突きつける。


「わ、私は、私達は――、人、間だ!小賢しくて浅ましくかもしれないけれど、闇の中の美しさを――一瞬の瞬きを前に、どうしようもなくそれに縋るしか無い生き物なんだ!楽な方に行って何が悪い!歪んだ方に行って何が悪い!それであったからこそ、いやそうだったからこそ、途方も無くそれが気持ちよかったの!今まであんたらみたいな「木偶の坊」どもと暮らしていたからようやく分かった!この脈打つ身体を触れ合う時の愛おしさが心地よさが、喩え何を捨てても構わないって思う程に美しかったんだって!これが人間よ、生きとして生きる愛しき人間の姿なのよ!」


「お、母様……」


「黙れ!それ以上戯れ言をほざくな!もうお前なんて私の娘じゃない!あいつの言いなりでしか生きていけないお前なんかといたくない!話は終わり!?それだったらもう帰る!もう二度とこんな所に戻ってたまるもんか!」


 エディスは何もかも殴り捨てる面持ちで腕を振って首を振る。その駄々をこねる様な仕草にと今までの聞き捨てならぬ言葉に、嬢は波打つ血の気がさっと引いて頭がふらついた。


「お前らがどんなに軽蔑しようが何だろうが知ったこっちゃない!!お前らが何を言おうが何を喚こうがとにかく私は戻るつもりは一切ないからな!?そうやって独りぼっちで惨めに足掻いてろ!私が戻らない限り勝負はお前達の負けだ!負け続けたままずっとそこであの男と一緒に舞台の上でくだらない人形劇でも続けていればいい!」


 そうしてエディスは片腕を振って背を向け、勝利宣言をしたかの様に堂々とし歩く。その手の行き着く先は茶褐色の扉の取手、今まで女中に開かされていたものを今度こそ自ら開ける事によってこの家との決別を示そうとしていたのだ。


「なんなの……何言ってるのか……全然分からないよ……」


 首を小刻みに振って、髪の穂先を揺らし掠り声をあげる娘を、その時エディスは最初から見なかった様にして小走りに走り去ろうとしていた。颯爽として扉に向かうエディスの瞳には、実家に待っているであろう息子の事しか頭に入っていなかった。


 さっさとここから出ていけば、あの愛しい翡翠の瞳の瞬きを、自分を求める小さな手の温もりが待っている。そうだ、あの時はそのまま突き飛ばして行ってしまったのだった。早く帰って謝ってあの愛する人と良く似た黒髪を撫でてあげなければ――、あの男のぼさついた栗色の髪ではない、愛しい街がいるあの花々とした世界へ。


 それを手に入れるために取っ手を掴もうとした。が、取手は途端に引っ込んでその手は宙を浮く。とっさの事に血の気が引いたエディスの、息子を映す翡翠の瞳の先は、茶と茶の隙間から覗く曇天の灰色と、そこから湧いて出る髭面の男の瞳孔の開いた瞳が映った。


「あ――」


 それは、すべての顛末を扉の向こうから見聞きした者としての濁った目。


 それは、すべて嬢が仕組んだ事だった。



 その瞬間に2人の、破裂音に似た悲鳴が湧いて出た。



 その後は立て続けに雷鳴のごとく、音と音とが絡み合い、2人の影ももつれ合ってぐるぐると浅ましくまたいみじく、皮肉にも激しいダンスの様に罵倒と怒声のリズムに合わせて狂う。それは最早彼らの意思ではなく、神が彼らの手足に紐でもつけて操っている様な不律で滑稽な有様だった。


 暴れるエディスに、その手を握りつぶそうとするアングイッシュの手のもつれ合いが続く。その惨めな舞踏の唯一人の観客は、堪えられずに背を向けて膝を床に付き、人間の声でない「鳴き声」に耳を塞いで聞こえないフリをする。 血を流す程に唇を噛み締めて、目を瞑っては眉間にすべての皺が寄る程に顰め、一人蹲るこの空間だけが本物であって欲しいと嬢は切に願った。が、しかし――その余地をも許さぬと、塞いでいた耳から震え上がらす程の破裂音が鳴った。


 どおんっ


 嬢の瞳孔が開く。


「嘘」


 その、遠い昔に聞いた事のある情景を思い浮かべると、どんっ、どどんっと木の壁から篭った音が嬢を否応なく現実へと戻す。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ」


 揺らぐシャンデリアの光明を受けて立ち上がった嬢は、しゅうっと息を切らして走った。その先に向かうは2人の踏み荒らした紫色のもののけの道、一階奥のエディスの部屋。その一歩手前に至る時、嬢はああっと叫び、目を開き髪を揺らして立ち止まった。


 夜の照明に瞬く白い部屋の中から、金髪を腰まで振り乱した蠢く影が、部屋の中から嬢の目の前を横切った。しかしてその細長いシルエットはのたうち回る獣のごとく声を絞った息を吐き、その腹の下を握りつぶす様に握りしめてスカートの布擦れの音を立てる。その擦り切れた裾の跡に沿って赤黒い無数の点がぼたりぼたりと落ちて、照明の光に孤月の白い瞬きを光らせている。


「お、か……」


「あ、が、あ…」


 その恐怖に慄き、嬢が掠れた声をあげると、それに縋る様な面持ちでぐるりと、影に縁どられた白目の中から翡翠の目がひん剥いた。その「気を抜けた」瞬間にぼんやりと開けた口からごぼりと口端まで覆う血潮が溢れ出して、色気を失った瞳ががくんと不自然に眩き。赤く染まった血溜りの中に俯き膝をつく、そして壁にもたれかかる様に身を翻し、激しい木音と共に倒れ込んでいった。


その一部始終を立ち尽くし見守っていた嬢は、その倒れ込んでから映る母の姿に騒然とした。白目を向いて息を求めんとひゅうひゅう、灯火の消えかかった声を出す。それさえも埋める様に絶え間なく無く流れる血溜りは贓物が溢れ出した様だった。

 

 自らの母が、そんな鉄の臭いが充満する埃まみれの、そして、自ら吐き出されたどろりとした血溜りの中で今、抜け殻になろうとしていた。しかし突然、ぴくりと肩を震わせたエディスは、乱れた金髪の隙間から覚めた瞳を錯乱させて、今一度ひゅうひゅうとその苦しさを思い出したかの様に息を吸いながら血だらけの手で胸元を押さえ、更にその白い生地を汚す。


 そして、上目遣いの霞んだ目は側に立つ嬢の姿を捉え、それを最期の残照としながら、血の滴る痛ましい指を差し出した。血だけではなく、目端から涙を流し、泡をふかながら彼女を求める。


「ャ…ア…ァ…ンン…」


 最早絞りきった声は途切れとぎれで、とても聞き取れたものでも無かったが、その時嬢は娘として自分の名前を読んでいるのだと気付いたのだ。


 弾ける様にして彼女の元へ駆け寄ろうとしても遅かった。彼女がその手を同じ細い指で絡ませた時は、それはエディスが死んだ瞬間だった。重ね合わせた瞬間、すっと翡翠の瞳は色を失い、血潮の中で瞬いていた生気は、ぴたりと止まった。そして力なく首もたげ、ずりずりとまだ生きているかの様に耳をすり潰しながら倒れ伏した。


 嬢が首を支え持ち、その腕に放り投げられた頭には、金髪と血が覆う。その死相は半開きになった口と目が途方もない闇示し、唯一動いているものはその頬に伝った涙だけである。彼女の血をその身に受け、母の死に際を、その血しぶきで彩られた顔で見送った嬢は、唇を噛み締めながらそうっと半開きのままの目を左手で閉じ、その母から受け継いだ翡翠色の瞳と別れを告げた。


血溜りの中でここまで惨めに死んでしまった血まみれの床を、壁を、窓を見渡しながら、せめてもの慰めと、丁重にして瞳を閉じた母を床に置いた。


 やがて、その側から立ち上がって振り向く。血と血の隙間から開く生きた翡翠の瞳はまっすぐと、血の跡を視線で辿る。そして行き着いた先に佇む、血にまみれた角のある革靴、眩しい部屋の中心で机に突っ伏す、真っ赤に塗れたツイードジャケット姿の父と、その手が持つ彼木目のショットガンを見据えたのだった。


「良かったねぇベリック嬢。最期にエディスが呼んでくれた名はやっぱり君の名だったよ」


 机の上に乗せた右腕の肘に額をつけて、顔見えぬアングイッシュはだらりと下げた片腕を揺らしたままずその様に言った。その声はいつも嬢に話しかけていた朗らかな声色そのものであって、それがより嬢の背中を震わせる。今にもだらしなく口を引っさげて目から、鼻から、しとどとなって溢れ出す衝動を右手の拳を握る事で抑えつけ、せめて母の死に場所だけは汚さんと、仁王立ちで震える唇を閉めたまま構えた。腕の隙間から覗いたのか、対するアングイッシュはそれをくつくつと笑いながら誉めた。


「そうだ、偉いねぇベリック嬢。そうだよ。いきなり危ない奴が現れた時はそうやって動じずに手を前に構えたまま無表情にして佇むものだ。こんな時でも僕の言いつけはちゃーんと守ってるんだねぇ。偉い、偉い」


 首のすわらないまま頭を右往左往にしてぐらりぐらりと傾けながらアングイッシュは口端を不自然に上げて笑う。それは、とても妻を殺した後に言ううものではない。その仕草も相まって父はもう狂ってしまっていたのだと、虚しい結末が嬢の心に染み入った。そうして一旦勢い良く首をもたげた後、首あげて嬢を見据えた顔は、目を細めたままにこりと笑っている。しかしその顔にべとりと張り付いた母の血潮がもう、その笑顔に応じる事が出来無いのを諭し示す。


「ごめんね。結局、こんな事になってしまって。君の今までの努力を、我慢を全部捻り潰してしまって」


 ずり落ちた散弾銃をしっかりと掴み直し、アングイッシュは徐にして脚を開いて嬢と正面にして向かい合って言う。


「お母様の言った通り、本当にどうしようなかったんだ。そんな有り様でもお母様はそれでも良かったなんて今、向こうで思っているんだろうかね」


 嬢は父がそんな事を言い出す意図を解せず、衝動のままに首を振った。背後に横たわる母も最早何も言わない、何も言えない。


 その後、父が娘にかけた言葉は数少なかった。言いたかった事は行動で示してしまったからなのかもしれない。そして最後に、アングイッシュは行動でもってケリをつけようとしといた。鉄と火薬の臭いが鼻につく木目のを両手で握り締め開いた脚の間に置き、。銃口をしっかり太い首の静脈と動脈にかちりと突きつける。それに嬢があっと反射的に手をのばしたのを、アングイッシュはゆっくりと首を振って阻んだ。


 その顔は最後まで愛しき娘を見据えている。口角の揺らめきも落ち着き、それはいつも見下ろす嬢の愛する姿となった。


「しばしの別れだ。私は先に行って、またあの喧嘩の続きをしているとしよう。待っているよ愛する私の娘よ」


 そして、銃身を絞る様に力強く握り締め、最後に天に仰ぐ様にして声を震わせる。


「神よどうかお願いします。可哀想なこの子にはせめて、せめてこの子だけには貴方のご加護があらん事を……!」


 震える喉仏が天を付き、銃口がそこに引っかかった音を立たその瞬間、どおんっと籠もった砲口の音が立って、血を噴き出した。無数の鉄の玉は彼の喉元を貫いてその栗色の後頭部まで引きちぎり、喉と頭の両側から血の筋が飛び散って、口開く嬢の顔にばしゃりと飛沫をあげて飛び散る。一瞬して抜け殻となった主の手から放たれた散弾銃は、鈍音と共に銃床をつき、勢いで倒れる主に沿って横たわり血溜まり中で瞬いていった。


 そして今、自らの血の中へと浮かんだアングイッシュの死体は、赤みがかった肉片と桃色の脳みそお塊となり、深紅の血溜まりの中にごちゃ混ぜに澱み、極彩色にして嬢の足元に広がる。今、彼女の足元に転がった2人の肉片を間にして、2人の血を受けた嬢はやがて、自らの脳片を引っ掻き回す様にかき乱し頭を抱え慟哭した。


***


 私がエディスと無言の再開を果たしたのは、仄暗い教会での葬式の場である。

天井の奥行きが光を阻み、辺りが薄暗く澱んだその中心、陰鬱に俯く磔刑像の前で、縦に置かれた純白の柩が二つ並ぶ。黒いスーツに細長い黒ネクタイを身につけ、私は立ち尽くした。


「まさか、こんな事になろうとは」


 脇から喪服に身を包む群集も、二人の死を嘆き悲しむも、そのすすり泣きの隙間から聞き慣れた声もまた、背後よりはっきりと聞こた。


「可哀想に。この先、ヴィアトリス家はどうなるんだ?」


「サルタイア卿が受け継ぐんじゃないの?」


「いや同腹のベリック嬢が受け継ぐべきだろう。血筋でいうなら彼女の方がずっと上だ」


「でも無理でしょう?エディス様を殺したあの男の娘なんだから」


「ああ、どっちにしても血まみれのご当主様になりそうだな」


「どっちにしても」


「ああ」


「なんて」


「「可哀想な話」」


有象無象共の声と一斉に向けられた視線を背中で受けながら、顔に影さす私は、彼女を見下ろした。


 その辺りを、柩の端を覆う程に埋め尽くされた白百合と霞草が放射線上にして美しく咲き誇り、柩も穿った骨のごとき純白な縁取りで花の中にうずめる様にしてその荘厳なる重量を醸し出す。しかしむせかえる程の花の香りに何層にも漂う、柩から漏れる死臭はこの籠もった空気に紛れ込む様にして充満し、目の前にして立つ私の鼻腔を歪ませるのだ。見下ろす花の世界とひん曲がる臭いに、私は冷ややかな目で見下ろして言った。


「あぁ、正にお前には相応しい姿かもしれない」


 白百合の芳香が醸す水滴の丸みも美しいとさえ思う。その中にふと颯爽として黒装束の片鱗を浮かべる者がいる。その気配、忘れる事のない石鹸の香りに気づき、乞う顔をあげれば――、翡翠の目を伏せたまま柩の側に立つベリック嬢がいた。喪服の黒がその母譲りの女らしい体つきのくびれや胸の丸みを艶めかしく縁どる。


「ベリック、嬢……」


 その双丘に魅入っている間にも見える両脚も、黒いストッキングに締め付けられ膨らんだ太股を印象付ける。そして、黒いレースごしに見える横顔は両親の原罪を代わりに受けた顔立ちで、佇む彼女の悲しみをより醸し出して私の情動をつき動かす。


「ああ、やっと会えた」


 私は思わず綻んだ。葬式は生者のためにあるというが、正にこの儀式は喪服に身を包む彼女を私が見るためにある。どんなに化粧をしても、どんなに元が美しくともその淫売な罪の代償のごとく子宮を無残に引き下がれた死体はあまりにも目に余る様相で、柩の蓋は固く閉ざされたまま開かれない。そう、その柩の中を知るものは並々と悲しみを映す鈍欝なる翡翠色の、柩を見下ろす、その彼女の目だけなのだ。


「どうやって言葉をかけようか」


 最早そんな事ばかりが私の頭に巡り巡り、気付けば私はその瞳を掴まんとして手をのばしていた。悲しみに崩れ落ちる彼女の支えになってやろうか、いや、逆にその面影を殺した父の姿映して怒り狂ってこの不毛な場を滑稽に掻き乱してもみようか。どっちしろただ嬢がその目を向いて欲しくてその首筋を触れようとする前、それを阻む者が現れた。


 嬢の肩をしわくちゃになった両手で掴みその弱々しく揺れる体を固めるは、柔ら気な白髭を揺らす嬢の祖父、そして私の義父にあたるヴィアトリス伯だ。


 何も言わずただそれに従う嬢を、祖父の身ながらしっかりと支える伯は、恨めしい翡翠の目を私に向けている。その脇から瞼を腫らす伯爵夫人も、両手で嬢の肩とそれを握る夫の手に添える。


「これから嬢をどうするつもりなんだ」


 そのぐもった声にあぁ、やっぱりそうきたかと私は途端うんざりした心地を、顔に添えた手で隠し、その間際に用意していた答えを寸時頭の中で整える。先ほどの黒の群衆は気付けば既にいなくなっていた。居ても居なくても同じだった。


「ヴィアトリス家に、引き取るしかないじゃないですか」


 そう言うと、二人は切望と懸念が交互に入り混じった顔をして向かい合う。


「それは言われなくても分かっている。でもどうするんだ、あの子は。あの子はこの子を一体どう理解すれば良いって言うんだ」


「確かにそこは問題です。あの子が彼女を受け入れるとは思えません。でもこうして親族がいるとなれば施設に送る事も出来まい。と、なると残る手段といえば」


「寄宿舎よ、寄宿学校に通わせればいいんだわ」

 

嬢の肩の位置にある祖母の頭が、掴む嬢の腕と共に揺れる。しかし私はその必死さに余計に可笑しくなって首を振る。


「何を言ってるんですか、この娘は6歳から今日まで父の方針からずっと学校に通った事もないまま屋敷に籠もっていたのですよ。そんな子が今更寄宿学校に通っても馴染めない事などとうに分かっています」


 3年間嬢と共にいた者としての見知った顔を向けると、伯もそれには心当たりがあるのか、うむむと唸って不安げに嬢を脇から見下ろす。丁度その時を狙って私は口を開く。横の「エディス」にも聞こえる様にして、私の声は高らかに凛として響いた。



「嬢を、オランダに連れて行きます」


 それは、私の願いが達成されるための最終目的。


「来月から私は国際判事としてオランダに赴任する事が決まっています。それに嬢も連れて行く事にしましょう。地元の学校に通わせつつ人並の生活は嬢が独立するまで私が保障します。なぁに、嬢はオランダ語を日常会話程度には流暢に話します。私も仕事故なかなか家に戻る事も相成りませんが、それなりのフォローは私が致しますよ」


 それが嬢にとってもあの子にとっても最良だとは思いません、か。「あの子のため」。そう言えばエディスも、そしてこの両親も、大抵納得をするのは周知の上だった。


 家に帰らないのであれば、あっちの方が嬢は自由なのではないか、


 この男は信用ならんがあくまでこの男も国際判事だ、判事としてもそれなりの殊勝を持ち合わせてもいよう。


 大方そんな事を都合良く捉えながら、算段を立て合ってるに違いない。そんな中でさっきから(いや、後にも先にも私は嬢しか見てないのだが)当の本人は何も言わず何も聞かず、陰鬱な瞳を半目にして伏せたまま、唇をぎゅっと引き上げているだけだ。その合間に付け入る作戦は効を奏し、私は仄暗い柩を見つめる嬢の中に分け入って、彼女の肩を両手から掴んだ。


***


 ジョージの掴む残りのページが人差し指で軽く摘む程度に減った。その心地に名残惜しい気持ちに反して、ジョージの捲る指は慌ただしく宙の中を空回りする。いよいよジョージが目の当たりにする話とは――、ベリック嬢が「キティ」になる瞬間とは。


***



 初夏の暑さも感じさせぬ程に木のざわめきが快く良く透き通る昼のベリック。その木立のざわめきをゆっくりと首を回してして振り向けば、屋敷を背景にして嬢が木立と同じ方へ栗色の髪を靡かせて私の前に降り立つ。石塁の上にしなやかな長い脚を揃え、ただ精悍な顔立ちで微かに私を見下ろす様は高貴なる貴族の娘の、最後の徒花であり、それが更に卑しき私の情動を煽らせる。一方で脇に抱えられた茶色のサウンドバック、揃えられたヒールの低いパンプスはこれから嬢がここを別れ、遠い異国に私と共に向かう事を表し、無表情の中に疼く高揚感を風が後押していった。


「あぁ、ここまで随分と待ったものだ」


 出会ってから6年、あっという間の様で途方もない長かった重みに眩暈がする。ああ、そうだ。ここで嬢をようやく、この手に出来るのだ。互いに達観した目で見つめながら、その瞬間を待ちきれずに差し出したのは私の方からだった。


 うっすらと笑みを零し風の波に沿って手を差し出し、すっかり早老の気が醸す手の上に若い女の柔らかな指がなぞる。ああ、これだ。曇天の光差すこの浅黒い、ほっそりと芳しいこの指が何よりも私が欲しかったもの。もう、離さない――離せなどしない。


 突然の情動に驚きに目を見開いた嬢の事も構わず、私は手を寸時勢い良く引っ張って彼女をその石から飛び降りさせる。何も言わず私は振り返り、彼女の手をしっかりと今一度握ったまま歩き出す。


「行こうか」


 私と貴女の、これからの世界で。


 黄土色の太陽の光は新緑の木々と混じり合い、その部分だけ萌黄色の輝きを放つ。それと共に深淵一色だった私の人生もようやく生きる実感が湧き、初めて世には色があるのだと、歩きながら私は悟っていた。ああ、残酷であるとも手に入れられた幸せはそれでも、美しい。


 世界のすべてが紆余曲折を経てようやく――、遥か頭上を覆う樹木の囁きが、そして足元を霞む風とが、私を褒めている様な気がした。早い内にあの男の臭いが残るこの街など立ち去って行きたかった。この手握る感触を味わう心地に身体が揺れる。


 が、しかし前を見るばかり、その感触がするりと抜けた瞬間にしばらく気づかなかった。途端、隙間を埋める様に私は振り向く。その先には嬢が手を宙に浮かせたまま、栗色の髪を靡かせたままそっぽを向いている。


「な……?」


 どうしたんだ、と声を上げようとした所で彼女は振り向いて言う。その抑揚の無い淡々とした口調で寸時眉を下げつつ、彼女は終始無表情のままで言う。


「忘れ物を、してしまったわ」


 と、一言。そして嬢は新緑を背後にその後の言葉をゆっくりとして言っていた。それはまるで、その情景をカメラのシャッターが区切るか様だった。


「私、傘を取りに行くわね。明日は雨になるだろうから」


 それを一陣の風が屋敷から吹き上げて嬢の髪が彼女の最後の顔を隠す。


「は……?」


 一瞬、その繋がりのない「意味不明」な言葉に判事の癖故にその奥髄を突こうと考えあぐねいた所、彼女はそれをそのまま唇を閉じて一瞥し颯爽と丈の短い赤いチェックのスカートを靡かせ、脚を駆けて屋敷に向かっていった。


 あ、と手のばす指の間をすり抜けて、屋敷へ進む彼女は遠目より錆びた格子の中に潜り込んでいく。どうやら、屋敷に戻っている事は確かな様だ。仕方ないと、横に立ち聳える私は太い幹に寄りかかり、また嬢が屋敷から出てくるのを待っている事にする。


 「傘」、腕を組みながら私は彼女が突然言い出した言葉の既視感に俯いて、このわだかまりの心当たりを探らんとする。


「否、」


しばらく時間が経ち、私は片腕を組んだままタバコをくしゃりと噛み潰して、火を付ける。

それ故か、タバコのメンソールから思慮が回った途端に、火のついた煙草がすとんと革靴の間に落ちる。その灰が長く太かった事に、私は時間の隔たりを知りどっと汗を吹かせた。


「まさか――、」


 誰も出てくる様子のない屋敷。私は途端に走り出した。


「っ、嬢!」


 そうだった、何故気づかなかった。


 息を切らしながら私は走る。あの言葉には、あの何気ない一言には、私に対する挑戦の意味がこもっていた。そう、あの時と同じ、出会ったときに交わしたあの時と同じ様に彼女はまた――!


 大股を広げて庭に駆け寄り茨茂る格子の間をすり抜けると、より激しくなった風に揺れ、ぎいぎいと白いテラスの扉が開かれたま不気味に揺れ動いていた。

その動きにまだ「中」に居るだなんて、囁かでそして切実な願いと共に、息つく間もなく屋敷の中に入る。久しぶりに見るほの暗い内装の屋敷を見渡し、情動の赴くまま私は叫び、滲む汗もそのままにただひたすらがむしゃらに走り抜けていった。


「嬢!どこだ、嬢!」



「傘を取りに行ってくるわ。午後から雨になるだろうから」



 嬢の言葉が揺らぐ。頭の中で反芻する。ああ、すっかり油断してしまっていた!屋敷の中に入ったからと、そのまま居なくなる訳がないだなんて!


 家の中に戻るからと言ったまま、そのまま「帰らなかった」男がいる。


その名は「ジェイムズ・フィルモア」。英国人の聖典、「シャーロック・ホームズ」の第46作目、「ソア橋」にて、ホームズの語らざる話として出された未発表の事件に出てくる話である。屋敷の中に戻ったのに「失踪」した。この、逆転の発想が面白いと以前彼女は私を前にして笑った事があった。


「嬢!嬢!嬢―――ッ!」


 曇天が窓を、そして私を覆う屋敷の中を泣き叫び、狂った様に首をあちこちに振り回し、息苦しさにふらつきもたつきど、歩調は止まらず、止める事もできす、私はただひたすらに嬢のスカートのあの赤瞬く裾の一片を追う。


 けれども嬢は見当たらず、ぎょろりと回る目は埃舞う床を扉を戸棚を、そして天井のシャンデリアを映すだけだ、途端視界がぐるりと回転し、もたついた脚は階段に躓き、そのまま一階まで転げ落ちてしまう。激しい音と積もった埃がまって私の辺りを舞い、途端にむせる咳と全身の痛みに呻く声が天井に連動して鳴り響いた。


 そんな事にもたついてられない、早く起きなければと思えども、節々が踏み潰されている様な痛みに贖い、床を這いつくばって拳を握って顔をあげる事しか出来ないのだ。


 ああ、世界が崩れる。その音を遥か先、正面玄関の開く群青の海からそっと静かに聴いている。


 その中でとうに私の知らぬ所に脚を駆けるであろう姿を思い浮かぶと愛しさと共に、これからの絶望に、私の呻きは嗚咽に代わり、私の口はぱくぱくと上下しながら目から溢れる涙を飲み込んで途切れとぎれに声を出す。


 結局、あの時からこんなに捧げて、尽くして、騙して、傷つけて、我が身を灰としてでも愛し通した先に残ったものは――、そんな貴女を手に入れるために必要だった、鎹の「息子」だけだなんて。


 こんな事があってたまるか!これから先、貴女が居ない世界で「あいつ」を世話する父親として生きていかなければならない思っただけで、その息苦しさに吐き気がしそうだった。


 その胸苦しさに乗じて私は叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。


 そこから先の事はもう、熱に浮かされた状態だった。屋敷を巡り、喚き声をあげて、泣きながら、叫びながら彼女の生きとし生けるものすべてを手持ちで持ったものすべてでぶち壊してやった。夜になって屋敷と私が影でど同化したままになってもそれでも、そこに貴女もいることはない。見つからない事実にただただ悲しくて、すべての根底突き崩された痛みが辛くてただ泣く。酸素と嬢を求める口を開きながら天井を見上げると、どこかから屋敷の主であったあの男の声が聞こえた様な気がした。


『それ見たことか』


『あの子は他とは違う。あの子がお前なんかの元に墜ちるはずがなかったんだ』


『そう、なんたって彼女は私の』


『娘だから――』


***


 嬢の失踪事件は数多くの波紋を呼び、祖父母はそのショックのあまりか否か、サルタイアを遺したまま死んでしまった。そして彼らは最期まで嬢の身を案じていた。


 そうして、彼女が彼女である事を示す、唯一の証人となった私は、こうして今も待ち続けいる。彼女の存在を私だけの物にして、今でも、十年も経った彼女がふいに、この蜘蛛の巣かぶる扉を開いてくれないだろうかと思っている。


 そのたった一つの、消して見えない光の先へ、私は今だ捕らわれたままなのだ。ずっとずっと彼女がいた頃の机の上に留まったまま、この年老いていく身体の中に宿る彼女への思いはあの時のまま、この身が蝋燭のごとく崩れ落ちる時になるまで、私は煉獄の灯火にこの身を燻ぶらせる事だろう。



9、楔


 黒インクが達筆な文字の締めで止まった時、本は丁重に、そして溜まった空気が吐き出される音と共に閉められた。それを見つめた青い目は、ゆっくりと窓の向こうへ、霞によって途切れ途切れの水平線を仰ぐ。曇天とは異色を為す深遠に青が沈む鼠色のざわめきを聞きながら、ああこれが世界の崩れる音だと、あの線から世界は少しずつ崩れていって深い闇の中にでも崩れ落ちているのだと、そんな事を思って目を細めていた。


***


「……ひでぇ話だったな」


「ひどいも何もそんなもんじゃねぇよ」


 吹き荒む冷たい風を顔に受け、金髪の隙間から同じ色の眉を顰めるジョージの後ろを、荒々しく右往左往していた小柄の男、テイラーも最早上品ぶる事も忘れ苛立たし気に、片手で宙を引っ付かんで尖った唇で唸った。


「なあ、教えてくれ。嬢は……ベリック嬢は一体何を憎めば良かったんだ?ホールダネスか?母か?父か?半分血を分けた幼い弟か?何の助けにもならなかった祖父母か?それともこの憎悪を生み出した階級社会か?それ自体を生み出したこの国か?ああ、もう自分でも何が良いのか悪いのか分からなくなっちまって何をどうすればいいのかもうどうしようもなく狂っちまったんだよ、畜生が!」


 見晴らしの良い草原にうねる雑草の上、唇をへの字に曲げ歯を噛みしめるテイラーの目尻には涙が溜まっている。その恨みと憎しみを入り混じる顔に沿って流れる涙は、彼の悲壮感を滲み出した。一方でジョージは、その白い鼻先を空へそっぽ向けたまま、単調に応える。


「おい、どうする、これを弟に話すのか」


「出来る訳ねーだろ!」


 それに、テイラーは怒りに声を弾かせた。


「自分が、こんな……!呪われた血に彩られるなんて知った時にゃ俺だって何をするか分からねえ!ましてや、卿は父をあんなにも愛しているってのに……!」


 呂律が宙に回る。その後の言葉を続けるのも憚る思いが先走り、うまく声が出ない。テイラーは悔し気に言葉を吐き捨てた。それをジョージは一寸吹き上がった風に金髪を大きくかきあげ、冷徹な眼差しのまま高めより振り返り、見下ろして言う。


「……おい、それでまたキティを『無かった事』にするってのか」


「しょうがねぇだろ!!現に彼女はもうここにゃ居ないんだ!もう戻ってくる事もねぇ!それだったら俺達は卿が望む方に向けてやるべきだろうが!」


 それにジョージは途端に目をひん剥いて、溢れ出した血潮の衝動にのせて指を海に突き立てる。それが壁であったなら突き破る程の勢いだった。


「馬鹿言ってんじゃねぇぞ、起こった事実をひた隠しにしやがって!そんなんじゃテメーも、同じ穴の狢じゃねーか!」


「だからって、卿をこれ以上苦しまろって言うのかぁ!?」


 曇天の空、新緑の草原の狭間。交わらぬ二人の檄を絡ませるは間を通り抜ける冷たい風だった。舞う木枯らしは森の中へ巡れども、それはやがて深淵なる森の中の闇に溶けて抜け出る事はない。


 そう、どんなに二人が思いを巡らせども、この事実が紡ぐ顛末は彼らの意図せぬ所で生まれる事になる。そう、最初から、他人の彼らに選ぶ権利など無かったのだ。


(後編に続く)

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