第6話 イギリス編(前編)
自身の出生の秘密、それに纏わる全ての真実を知ってしまったジョージ。失意に伏して終わったフランスから離れ、彼はやがて決断を迫られる事になる。そして行き着いた先は、もう一つの島国。彼の行く末を映す様にして在る、あの曇天の国。
思えば遠くに来たもんだ。ヨーロッパ編第二弾、開幕。
All the world's stage, and all the men and women merely players.
〈この世はすべて舞台、人間誰しもその舞台で演じるただの役者〉
シェイクスピア『お気に召すまま』第2幕7場より
プロローグ
男は、この世界を愛していた。
彼の取り巻く世界は、木枠の中に収められた灰と黒と紺の生地。それらの幾つかは、細いストライプやヘリンボーン、そしてチェック柄であり、その白黒の色合いが地味な世界に微かなアクセントを添えている。男はそれらを柄の意味を額の広い頭の中で、そして美しい音色のごとく流れる用語でもって解釈し、その指で分かる上質な質感に、両頬に大きなえくぼを形作る。
その指が宙を浮いて辿る先には、紺色の生地に映える黄金の裁ちハサミが輝く。それをまるで意思を持ち、自らの動きに合わせているかの如く、軽々と指に引っ掛けて回せば、照明に瞬く切っ先はさっぐりと、心地よい音を立てて黒生地を裂いた。引いた白線にぴったりと付いて断つこの快感に、男は黒いスーツの、肩に張り付いた生地を盛り上げ、鼻歌を鳴らしながらその音を何度も響かせた。
男は愛しているこの世界を、その肩にかけたフィート表示の、黄汚れしたメジャーを揺らしながら見渡した。金の蔦模様のドアから伺える硝子の向こうは、ネオバロック建築が並ぶその脇で、コートを身に纏い蹲る人々と、黒タクシーが行き交う凍りついた冬景色が映る。一枚の硝子を隔て、宝石のごとく瞬く照明が眩しい、こちらとはまるで別世界のようだ、と、男はその愉悦に浸り、この小さいながらも年月が醸し出す情緒ある暖かな「舞台」の上で、その血潮が疼く感覚に鼻を鳴らした。
そこは、父から受け継いだ、仕立屋。恍惚と瞑る脳裏にその思い出を浮かべながら、これからお得意先のオーダーメイドの新調に取り掛かろうとする、その時であった。
ふと、目の前の硝子から、黒い靴底の凸凹が迫ったかと思いきや、それは男の円い鼻先にまで勢い良く突っ込んでいった。途端驚きでぴくりとも動けなくなった耳につんざくのは、幾重に硝子が割れる音。
男の愛した舞台は、こうして見事に破られた。
1、舞台装置
男を囲む真っ白な部屋は、一体誰によって、そしてどこに建てられたものかは分からない。唯一それを知る手かがりになる長方形のはめ殺しの窓も、曇天の下で茶褐色に枯れた草原が広がるばかりで、慰み程度に一本の樅の木が、遥か遠くで揺れているだけだ。
それ故か、蛍光灯の光によって更に眩しい白い部屋の中には、ずしりとした重さを思わせる幾つもの鈍色のパルプや道具が窓の下に散らばり、床に灰色の影を為している。そして、先程からぎしぎしと、向かいの端に置かれた白いベットの、スプリングの跳ねる音が天井にまで響いていた。
「はあっ、はあっ」
その合間から聞こえるは、声色高い息遣い。艶っぽい声を出しながらベットの上に這いつくばり、体を上下に揺らす男の影があった。汗によって艶やかに濡れる金髪が揺れ、短い息音と同時に、浮き上がる白い肩甲骨に沿って吹き出た透明な汗が、細身の男を縁取る。その声と共に、その動きと共に、「色」がむせ返っていく情景。汗によって更に動く男の太ももにぴったりと、幾重に皺を寄せて張り付いたタイトなスラックスは、蛍光灯の光によって陰影がくっきりと浮かび上がっていた。
やがて、窓と対する白いドアから、軽いノック音が静寂な部屋に響き渡った。
「誰だ!」
腕を屈伸し、荒い息を吐くと共に男は叫ぶ。
「ヨーナスです」
すると、ドアを境に弱々しい声が答える。それに男が一寸金の柳眉を下げれば、
「ちょっと待て!」
と、腹と腕に力を込めてはベットを押し、スプリングの勢いに乗じて飛び上がり宙を浮いて回った。両膝をつけて着地する間際、壁のフックに掛かっていたタオルとタンクトップをその手に掴み、徐に着込みながら蹲る。
「後は誰がいる!?」
「高珊ちゃんとカマラ君です」
「なら良い!入れ!」
白いタオルを肩に羽織りながら男は答える。すると、ドアの向こうで低い男の声が続いた。
「なら良いですってさ。良かったですね、姉御」
「良くねーヨ」
それに続くは不機嫌な女に続いて、ゆっくりとドアが開かれた。
すると、すぐ左手からベットの端に座り自分を見る青い瞳に、ヨーナスは一瞬怯えの気を出したが、すぐにそれを誤魔化した。今日出会う前までは何なくこなしていたそんなやりとりも、今に至ってはぎこちなく、特にヨーナスの方が目線を僅かに反らしたままで素っ気ないのだ。それを悟った青い目はふと、窓に向けて金の睫を伏せながら、代わりに、その背後にいる奴らを見上げた。
「ジョージの兄貴、トレーニングの調子はどうですか」
ヨーナスに対して堂々と中央に立ち、黒のパーカーを着て構えるカマラの事はさておき、その後ろから赤い満州服の映えた、左肩に三つ編みをかける女性、高珊を見据え、ジョージと呼ばれた男は一瞬の再会の目配せをする。
「お久しぶりでス……」
何故ここにいるのか、何故こうしているのか、二人の間にはそれを口に出す事など互いに野暮である事を知っていた。それに高珊は頷きつつ、久々に見たジョージの姿に半ば驚愕と戸惑いで口を開く。黒真珠の瞳に映るジョージは、体つきも表情も、全てがアメリカにいた彼と違っていたのだ。
今まで、滅多に人前で脱ぐ事が無かったジョージが、今や、たった一枚の薄いタンクトップ姿を晒している。タンクトップといっても、汗により濡れたそれはぴったりと体の線、その筋までに沿って張り付き、細身ながらも彼がれっきとした男である事を諭す、平らな胸板と角ばった腹部を浮き彫りにしている。
肩から裸のまま晒す腕も、湧き出た汗が仄かな色香となって、その尖った二の腕と血管の筋を生々しく魅せる。ここまで露出した彼を、女性として見たのは自分が初めてであろう――、と、くすぐったい心地に高珊は、やがてもう一つ悟った事に更に目を見張った。
「細い?いや、違う」
どんなに着込んでも薄ら見えていた肩の狭さと痩身の体。しかし今、目の前に額の汗を拭くジョージの姿は明らかにそれとは違っていた。毛のない柔和な質感を持つ腋を見せる、その腕の上腕筋には膨らみが出来ていて、のびる腰には今まであったあばら骨がすっかり埋もれてしまっている。
そして胸板にも、今までにない盛り上がりがあるのを見え、心ならずもも愛しい人が隣にいる横で、高珊は唇を引き締めながら胸が高鳴る音を聞いた。
「ジョージさン、変わりましたネ……」
「無駄口はいい。さっさと座れ」
一方、ジョージは顔を横に背けつつベットに指を差して座るのを促す。それは紛れも無く高珊に対してのもの。やはり、そして改めて、自分は女の中で一番彼の側にいられる立場である事を確認し、更なる胸の高鳴りを隠す様に、高珊は三つ編みを跳ねながらそっと隣に座った。彼女の身軽さを諭す軽い木音と共に、それが折れる程に、重量のあるカマラが脚をおっぴろげて座る。
やがて最後にヨーナスが、端に転がる白い椅子を引き摺ってジョージの向かいに腰を下ろす。そうして久々にこの三人(と、一人)が顔を合わせる事となった。微かな電子音を立てる、細長い純白の監視カメラをそれぞれ睨みつけながら。
そんな中、ジョージは右手でタオルを垂らし、見上げた目線を床に向け息を吐く。金の睫がその息に陰鬱に揺れた。
「俺はシテで倒れてから、気が付けばここで目が覚めていた。それからずっと閉じこめられている。だから、俺はここがどこで、何のために閉じ込められているのかさっぱり分からえ。具体的に教えろ。これは一体どういう事だ」
強い意志を示す瞳は、真っ直ぐにヨーナスを見据えるも、ヨーナスは途端床に目線を向け、並べた膝の上の拳を握ったまま答えない。それに高珊が助太刀する。
「すみませン、ジョージさン。シテでの事件はヨーナスさンにとっても色々な事がありすぎて、うまくまとまりきれてないんですヨ」
そっとヨーナスに顔寄せて、高珊は言った。
「ここはどうやら、フランスとオランダの国境沿いにあるアメリカ陸軍の敷地らしいでスネ。私、そしてヨーナスさンはあの事件が終わった後、荒れに荒れタシテで合流した途端に貴方のサポートに務めろト、マルコム大将らの一派に囲まれここに来たという所でス」
「無理矢理にだったか?」
「いいえ。私は私の意志デ貴方の隣にいまス」
大きな目を開き、きっぱりと言った高珊に、ジョージは薄く口角をあげた。それに続き脇からカマラがうずうずと、髪と体を揺らしながら高珊の後に続く。
「そうそう。ジョージの兄貴が寝ている間に、ほんっとうに色んな事があったんスよ。ジョージの兄貴に間違えられ、あの死に顔議員が猫に誘拐されては空の中に行方不明だわ、それにウェッブの親父とミナの姉御は動揺しててあたふたと喚くわでもう、身も心もみんなあの事件からバラバラになっている有り様です」
「おめー随分と俺のいない間に、色んな奴らとよろしくやってんじゃねーか」
きっと図々しく押しかけたに違いない。ジョージは思い当たる節に呆れ、ため息をついた。
「そうなんですよ……」
すると、ヨーナスが俯きながらも小さく答えた。ジョージはそれを待ち望んでいた様に、目だけを素早く彼に向け、震えた言葉のその続きを待つ。それにヨーナスは震えたまま言葉を続けた。
「みんながみんな……隠したがっていたものを取り繕う事が出来なくなって……、壊れたんです。何かが壊れてしまったんです。それは絆なんでしょうか、信頼なんでしょうか、仲間が上司が部下が……みんなどこか私から離れていってしまった様な……ああ、どうして、なんで………なんで」
「ヨーナスさン……」
「兄貴ィ、全然話に筋が通ってませんよ」
と、容赦なく指摘するカマラをどついて、高珊はヨーナスの震える肩に手を添えるも、彼はまるで世界の中で自分が一人になってしまったように、何も反応せず、何にも目線を合わせず、ただ突きつけられた目の前の事実に竦んでいる事しか出来ない。それをじっ、と、見つめていた青い目はやがて重々しく口を開いて言った。
「そうか……聞いたのか……お前たちもすべて……」
「ええ、マルコム大将から特別ニ」
高珊は更に、目をきつく瞑るヨーナスに代わり、淡々として応えた。
「私たちハ聞きましタ。貴方がどうしテ、あのシテで起こっタ騒動の渦中にいたのカ。どうしテ、3年も特別ニ閉じ込められていたのカ。そしテ、アーサー議員がどうして貴方を囲っテいたのか。すべて、すべてでス。マルコム大将ガ何の抑揚もナク、その真実を教えテくれましタ」
ジョージはそこから、高珊があえて自分は何の動揺も無い、と、構えている様をとうに気づいていた。それに再びジョージはゆっくりと口角をあげる。それを、まるで他人事の様に聞いている自分にも対して。
おそらく、心境は同じだ
黒と青、絡み合う交わりの中で互いは悟った。
二人は、震えるヨーナスを間に挟んで見つめ合う。その正面から構える互いの現実に。どういう顔をすればいいか分からず、だからと言ってヨーナスの様に明白に戸惑うまでには至らず、ただ虚無のままに互の瞳の中に映る、夜と昼の空を眺めている。
「だから、ダカラなんだって、言うのですス」
しかしその中で高珊は言う。この繋がりを何としてでも保つ為に。
「例エ、貴方の正体がクローンであろうガ、アメリカの敵の息子であろうガ、貴方はジョージさんです。ジョージさん以外の何者でもありませン。私たちの仲間以外ノ何者でもないんですよ。だから、だから。これから二人で一緒ニ、」
高珊は見据えるジョージに縋るように、身を乗り出し、その逞しくなった両腕を掴んだ。ジョージは何も抵抗もせずそのままでいる。それが、二人の繋がりを示す証だった。
「アメリカに帰りましょウヨ」
黒髪が涙で揺れる黒真珠の瞳と共に傾く。三つ編みが撫でた空気が、無表情のままのジョージの胸を寸時高鳴らせる。
「アメリカ」
一番身近な所であった筈なのに、遠い世界のようにジョージはその言葉を飲み込んでいた。ああ、俺は随分と遠くまで行ったものだ――、高珊の言葉が風景よりも何よりも、ジョージの道筋を静かに辿った。
「そうでス。みんなデNYに帰るんです。またあの時の様に戻りましょウ? ジョージさんとヨーナスさんハいつものようニ、警官としてあの摩天楼を大暴れする日々ヲ。そして私ハ、疲れ終わった後のまた美味しいご飯も作ってあげるんでス。そういう日々を、まタ、過ごしていけばいいだけの話じゃないですカ。上層部の狙いなんテ、世界の事なんテ、もう貴方がそれ以上関わる道理なんてどこにあるっていうんですカ。ねエ、だから、お願い、ジョージさン」
一言だけでいい。帰りたいって言って。
「そうすれバ、いつだっテ私ハ……!」
口走ったその先に、白い部屋の中で黒髪の穂先が舞った。高珊はそれが降りる間際、ジョージの首に白く細長い腕を回し、きつく彼を抱きしめていたのだ。長い睫毛が伏せていじらしく眉が歪む。嗚咽をあげたくなる唇を引き締めて、彼の汗ばんだ曲線の項に顔を埋めて。
その目の裏に映るのは、かつて過ごしてきた騒がしくも楽しい毎日。それを取り戻そうと必死に繋ぎ留めようと腕を絡ませ、彼の在る姿をその小柄な身体で縁った。
しかし、その夜の瞳の脇で、青い目は昼という、また違う世界を映し出していた。
確かに、高珊の言うとおり。そんな日に戻れればどれだけいいだろう。
例え上の者が裏切りの巣窟だったとしても、それに構わず、下の人間には下の人間なりの世界があるのだ。何も知らずに、そしてこれからも知らぬままで、ニア巡査部長や、メアリー刑事やカマラ、そして名も知らぬギークボーイら、白黒鮮やかな笑顔で迎えるNYPDの皆に囲まれながら、あの宝石のようにく空を覆う摩天楼の間を、何もかも飛ばしてコートを翻し、縦横無尽に飛べたなら。
ジョージはその黒いコートの裾が翼のように靡く様を、何もない白い天井から見上げた。
そんな自分を、空飛べぬ有象無象が羨ましそうに、頬でも染めて見上げる様を見る事が出来たら――どれだけ甘美で取り憑かれた快感に、この身を震わせられる事だろう。
「俺は……」
けれど――、その後に続いた言葉は、不自然で歪んだシナリオへ突き進む。
「いや……」
息をするのと同じ様に出た言葉。ジョージは、高珊は、互いに顔を斜めに見下ろし、斜めに見上げる。より遠くに、そしてより近くに。
「俺は、帰らない」
はっきりと、端正な鼻筋を下ろしたまま、ジョージは言った。その瞬間、この部屋の時が止まった。高珊はそれに抗う様、開いたまま動けない口を無理に引き上げ詰め寄った。
「何を……何を言ってるんでスッ!それでは貴方は、このまま幽閉される事を望むというのですカ!」
嘘だ、と、口走り高珊は首を振った。戸惑っていた。こんなの私の知っているジョージさんじゃないと。
「んな訳ねーだろ」
するとすぐに、ジョージは彼らしい気怠い声をあげ顔を背けるも、その後ピタリと止まった、その麗しい横顔が高珊の目に留まる。それはスナップ写真のごとく、一瞬の切り取られた彼の本性を垣間見た気がし、思わず声を裏返す。
「ジョー、ジさ」
「でも、なーんか、……つまんねぇんだよな」
震える高珊の横で、薄い唇をつんと尖らせながらジョージは言った。
「ただ、そうやって、自分の都合の良い事しかしねーで聞かねーで、そういう奴らとしか付き合わねーで、なあなあになれ合って生きていくなんて……なんかつまんねぇなって」
「な、尚更今更何を言ってるんです!?そうやって嫌いな物をはじき出していたのは貴方の方じゃないイカ!それをどうして今更否定なんかしようとするんでス!?」
「別に否定する訳じゃねぇ、ただ飽きただけだ」
動揺を埋め合わせるように叫んでいた高珊は、遂にそこで言葉が出なくなった。ジョージはそれに構わず今度は直に見つめ合う。その恐怖を影に移すヨーナスの漆黒の眼に、そして、それと同じ目をしていた蔑視の「彼」に向かって。
「ああ、本当に良い加減に気付くべきだった。馬鹿だった。本当に今までが全部馬鹿だったんだ。それにただ、気づいただけ」
最初の言葉を途切らせながらジョージは語る。それにヨーナスはみるみる目を大きく見開かせる。それは、彼を再び人形の様にしてみる眼差しであった。この美しい造形は、やはり誰に作られたものであって、その中には別の誰かが仕込まれているような、そんなジョージの内面の変化を相棒は、何よりも不気味な感覚として見ていた。ヨーナスはその時、音もなくジョージの前へと依っていた。覚悟する間もなく、タイミングに合わす間もなく呟いていた。
「ジョージさん、それでは貴方は一体」
これからどうするというのです。変わった所で、気づいた所で――、
「私たちに出来る事なんて、何も……!」
自分に言い聞かせる様叫んだヨーナスを見据え、ジョージはただ一言呟く。
「いや、俺には行くべき所がただ一つだけある」
ヨーナスは眉を潜め素早く続ける。
「それがムンダネウムだと?」
「いいや」
意味有り気にそこでジョージは「微笑んだ」。彼の白い均等に並んだ歯が照明によって瞬く。それにヨーナスが更に目を見開く一方、それを高珊は更に乱雑に首を振って異議を唱えた。
「そんなの絶対駄目でス!アメリカに帰らズ、ここにも残らないなんテ、そンな事をマルコム大将が許すはずモない!今度こソ、私たちは貴方の脱獄に協力する事なんて出来ないんですヨ!」
「だったら一人で行けばいい」
次の瞬間、高珊の怒声が椅子を弾いた。
「いい加減察してくだサイ! これからはもウ、私達はそれを止める側ニなってしまうって事なんですヨ!」
涙を溜めて言った叫びに、ジョージも真顔で向かい合ってそれを見た。そしてその目は剥き出しになった高珊の太腿の、あるはずもない柳葉刀の鋭い線の瞬きを見せた。そして、ヨーナスの引き締まった太腿に浮かぶ漆黒のハンドガン、その無駄のないシルエットを見せた。そしてジョージはその反響の中で思い出す。そうだった。それは、かつて自分に向けられた「物」だった事を。
そう、つまり自分は再びコレを向けられる頃までに、戻ってしまったのだろうか。と、思い馳せる。
「いいや、違え」
しかし、その衝動を留める様に、ジョージは静かに答えた。そこから浮かんだ笑みは寸時、荒涼感に揺らぎつつも途端、勢いよくあがった。
「それでもいい、別に」
と、言って自身に対する訝しげな視線で見つめる彼らを、ジョージは高い眼差しで見渡しながら続ける。
「俺だって、別に最初から脱獄するために、粋がってる訳じゃねえ」
すると、先ほどまで動かなかったタオルがジョージの手から落ち床についた。その後に彼の手元に残るは揺れる、くすんだ紅い紐。
「そうだ。ブラックパンサーと、話し合ってみるつもりだ」
途端、悲鳴にも似たザワめきを聞きながらジョージはただ、その髪紐を見下ろしていた。皆が戸惑う、その我らしからぬ行動に対し、自らもそっとわざとらしく口角を上げて。
***
それはヨーナス、高珊らの懸念にも関わらず、以外にも早くに話が進み、マルコム大将との話し合いが実現する事に至った。それにジョージは、マルコムの、別の意味で立場をわきまえない大胆な心意気を伺い知る。そして今、ジョージは部屋と同じ純白の警部補服を着こなし、黒い丈で覆った長い脚をで中心に立ち構えている。すると、ジョージの胸元に瞬く金の勲章を睨み、向かいに座っている眼光の持ち主は、自らの逞しい腕を掴んで言った。
「まさか、君が話し合いを提案するとはな」
彼方此方から何回も言われた言葉、それを改めて呟く低い声。その訝しげな黒い目に、ジョージははんと鼻を鳴らして、腰に手を置くだけにして応じた。それに向かいの男、マルコム大将は荒々しく手を腕を組んだまま勢い良く歩み寄る。そして、その瞳孔の開いた小さな黒目をぐるりと回し、側に立つジョージを見る。その眼差しはさながら、「人」に対して向けられたものでは、ない。
「君は、自分の立場を分かって、改めてここから出ていきたいというのかね」
一本の白髪無く整えられた口髭が、ジョージの頭上から揺れる。その隠遁のある趣がジョージの背中を震わせるが、だからこそジョージは無理くりに自信を持って慇懃に目を伏せ、それから顔をあげて軽々しい口調で答えた。
「ああ。俺はちゃんと、身の程ってのをわきまえているぜ。最初からこうしたのも、お前に文句を垂れた所で、戦った所でどーせお前には勝てないって事を、初めからちゃんと知っていたからだ。あのウェッブやアーサーと違ってな」
「賢明だな。さすがはお前も戦える男だ」
銃持つ者としての、交わすまでもない了解を経て、二人は目端に瞳ずらして見合う。「だから」と、それからジョージは続けた。妥協を覚えたその声で。
「俺が望む事はただ一つ。何も見られず、何も疑われず、たった一人で居られる時間が欲しい」
「ほう、その間に何をするつもりだ?」
「キティを探しに行く」
マルコムはその時、鼻で哂ってそれが無理である事を聡そうとしたが、途端、ジョージが言った言葉に真顔となって目を見開かせた。
「キティの故郷に行く」
その一言が何を意味するか――、それを察したマルコムの額に微かながら汗が吹き出した。
「そこで奴が、何者であるかを突き止める」
「何を言っているんだ貴様は」
思わずマルコムは口走った。
「あの女の正体は、我々NSAでさえ片鱗も掴めていないというのに」
「いいや、俺だけは、それを知る手立てがひとつだけある。それから奴がどこで生まれ、どんな風に生きて、そしてどうして自分の身分を隠してまでアメリカに飛んだのか。そしてどうしてこの俺を会ったのか、その理由の、すべてを知りたい」
しばし、溌剌として言葉を紡ぐジョージを黙って見つめていたマルコムは、腕を組んでジョージの後ろ姿を三度見据えて呟いた。
「なるほど、……分からんな」
そう、ただ、分からなかった。この人間ならざる「馬鹿」の言う言葉が。
「何故だ。分からん。どうして……どうしてそこまで、ただの他人に執着しているのだ。すべての事実を知った今、お前が心を向けるべき相手は自分自身であり、そして他の相手であるはずだ。何故そこまでしてキティを追い求めようとしている。お前にとってキティは何なんだ?」
「敵だ」
そこできっぱりと抑揚無く言った言葉に、それはそうだろうとマルコムは背後から頷いたが、ジョージは前を向いたまま、机の前に散らばった書類を目下に覗いて呟く。
「だからこそだ」
「何」
見返ったその先に、それを見つめる青い目の美しさがあった事に、マルコムは息を思わず呑んだ。
「お前のシナリオ通りにはいかせねえって事だよ」
そしてジョージは言ってみせた。その青い輝きの意味を悟ったマルコムは、己の懐柔と策略を構想し澱みに澱んだ黒い目をそっと伏せる。
「お前が、ヨーナスや高珊を遣って説得させて、俺を大人しくさせようっつー魂胆は無駄だって事だ」
それが白い部屋に閉じ込められ、捻り出した答えだった。余計なものを捨てて、集めて、また切り捨てて、削って。泣き叫ぶでもなく、荒々しく怒り狂うのではなく、静かに、静かに、ベットの上で座って考えた純粋なる直感の向こうへ。黒い瞳とそして――。
「お前……本当にジョージなのか?」
その声色には、彼お得意の策略の笑みは無い。ジョージはまた肩をすくめて再び鼻で哂う事で答えた。その反応に応じてマルコムは目を伏せる。
「そうか……わざわざ……苦労する道を選ぼうとするんなんだな」
「そうした方が楽しいだろう?今更だからこそ、尚更やってみねえと始まらねえんだ」
哂った顔のまま声をあげてジョージは言う。それにマルコムも俯いたまま笑っていた。自ら感じる情けない、男としての「意地」というもの。それを保つ馬鹿馬鹿しさを。
辛かろうに。それを言った所で何の慰めにならずに、絶対後悔する事を、何よりも自分が知っているだろうに。それでも、互いにやめられない。誰か、この取り憑かれた己を助けてくれともがきながらも。
長い、長い乾いた笑い声が終わった後、マルコムは息を切らしながら目端に溜まった涙を拭いた。それはもう二度と流れる事のない、人間ならざる者の、唯一の感情の証だった。
「いいだろう」
やがて、顔を勢い良くあげた瞬間に、マルコムは晴れ晴れとして言った。
「二週間だ」
ジョージは振り返る。金髪が生気に満ち溢れ優雅に靡いた。
「二週間だけだ。その間だけは君を何の監視もつけずに自由にしてあげよう。しかしその後は、いずれ呼び出して君は私の管轄下に置いてもらう。一日一秒たりとも引き伸ばす事は許さない。いいな?」
「ああ。その時は幾らでも、お前の掌で踊ってやるさ」
今度こそ、ジョージは自分の「意思」でもって答えた。もし、ここにアーサーがいたならば「契約」の縛りがそれを阻んでいた事だろう。しかし、今、アーサーは空の上にいて、ここには居ない。こうして今度こそ、彼を縛るものは何も無くなったのだ。皮肉にも、あの誘拐事件が誰にも予想もつかない形で、ジョージに絶好のチャンスを与える結果となった。
ジョージは背後から睨むマルコムの突き刺す視線にも構わず、放射線上から光る日差しに目を細め、再び口角をあげて笑う。その蒼い目の奥に揺らぐ澱みを、姦計を、衝動を、どろどろと血と共に溶けていった思いはまだ、ちゃんとその中に残したままで。
2、舞台の上と観客たち
ジョージは今、吹きすさぶ風に煽られ、黒いコートと幅の広い襟元を靡かせながら、かつて閉じ込められていた施設を眺めている。
外装も真っ白い平屋の建物は遠くに薄ら見え、それを囲む鉄格子が景色の中に線となって浮かんでいた。枯れた森林が広がる、冬間近の山と荒れ果てた草原、その間に聳える施設は真っ青な空に蜃気楼のごとく浮かんでいた。
さて、手元に黒いカートを持ってそこから旅立とうとしているジョージを、迎える者は三人だった。一人は、赤い満州服と三つ編みを靡かせる高珊。華麗な顔立ちを空っ風の中で歪ませ、大きな目を細めてはジョージに寄って言う。
「ごめんなさイジョージさン……。でも、私ハ本当ニ、貴方の事ヲ思っテ……!」
その続きを、ジョージは眼下に迫る彼女の頭を、その白く細長い手でぐしゃぐしゃと撫でて止めた。今までされなかった行為にぱっと高珊は顔をあげるが、それが一番高珊が嫌がる事だと互に知っている事に、ますます高珊はいたたまれなくなり、乱れた黒髪の中で涙を隠し、桃色の唇を引き締めて項垂れる。
「ジョージさん……キティさんを探しにいくというのであれば、やはり私も一緒に行った方がいいのでは……」
一方その左手にはヨーナスが、ジョージを見送る餞として、紺色の巡査服を着ては片腕で乱れた前髪を押さえながら呟いた。がしかし、それをジョージは口角をあげるだけの仕草に、俯いていた高珊も顔をあげ、脇からヨーナスの襟元を摘んで引っ込ませた。
「駄目でス。これハジョージさン一人で決着をつけなイといけない事なんでスヨ。彼の挑戦ヲ、他の人ガ介入してはいけませン」
「挑戦……?」
訝しげに振り返るヨーナスに、「本当に鈍いんだから」と、笑う高珊の瞳は、その向こうで同じ様に目を細めるジョージを見、そして上下に揺れ動かした。一方その側で灰のシャルワニを着るカマラは、腕を組み合わせしたまま、ふてぶてしく呟いた。
「チェッ。せっかくジョージの兄貴の見送りに、お迎えはこれだけですか。マルコムの親父もおろか、ウェッブの親父も来てくれないなんてねえ」
何気なく通り過ぎる第三者の声。その言葉が背筋を伸ばすジョージの、今の立場を神妙に悟らせた。ジョージはカマラの目から僅かに逸らして、施設を眺めそれを確かめる。この塊の中から放っておかれた、冷たい感覚を風のせいだと誤魔化しながら、やがて、名残惜しむ事なくジョージは目を伏せ背を向けた。
「じゃあな」
それに対して、今度ははっきりとした声でヨーナスが彼の名を呼んだ。
「ジョージさん」
ジョージはそれに応え、乱れた金髪をかきあげながら細い首筋をあげて彼を見た。マルコムの誘導の指示に、高珊と違い、ただ俯いたまま身体を震わせつつも決して応じる事の無かったヨーナスの弱さ、そしてその中にあった強かで惨めな意地。それをすべて見据えるような蒼い眼差しで見る。
それをヨーナスは今度こそ真正面から捉えて向かい合った。微かに顎を引き、彼を見上げる双眼は、眼鏡の中から凛々しく光る。そして、くの字に曲がった口を解きヨーナスはジョージに言葉を綴る。
「この場で正直に言いましょう。私は、まだ、この事実に対しては、何の答えを見出しそうにありません。例えそれが貴方だったとしても、正しいかどうか、間違っているかどうか、どちらとも言えないままこの場に立ち尽くしているままなのです」
ジョージはそれに、「そうだろうな」と、だけ言い首を傾けて笑った。
「それでいいよ、別に。だが、たりめーだが俺は俺を絶対に否定はしねえ。例えそれがお前だったとしても、誰か一人でも否定する者がいようってんなら、俺は違わず――、」
ヨーナスも「そうでしょうね」と、今度は脇で動揺する高珊と異なり、微かに口角をあげて応えた。互の脇に、太腿に備え付けられた二丁の銃は、互いを護るためにあり、互いを殺すためにある。始めから二人の在り方はこうだった。他人の言葉より、自分の言葉より、何よりもそれが真実を語っている。
「もしその時は、互いいにまた遠慮なく戦っていきましょう。出会った時のと同じ様に」
狂気の眼差しを寸時だけチラつかせるも、最後にヨーナスは再び、真摯な黒い眼差しを向けた。
「でも、最後にこう言わせてください」
瞬きしたその時、激しい風の中で言った言葉ははっきりと、神妙な面持ちで見るジョージの耳に届く。
「ありがとう。自分の中に隠さず、私にすべてを教えてくれて」
三度瞬くごとに、言葉を綴るごとに、深みが増すヨーナスの瞳。それにジョージは吸い込まれていく感覚に、思わず目を細め口を開く。
「これを貴方の問題ではなく、私たちの問題にしてくれて、ありがとう」
最後の言葉が脳裏に焼きつく感覚に、ぞくりとジョージが息を飲み、彼を見た。ああ、いい。この言葉を聞いて、俺は去りたい。ふと、そんな心地に浸っては衝動に沿って背を向ける。やがてガラガラと礫を削るカートの音が静かに響く。
「ジョージの兄貴!元気でー!」
やがて振り返る事なく手をあげるだけのジョージへ、カマラは両腕を精一杯広げて大声をあげる。それに高珊も片手で大きく弧を描き、その脇からヨーナスは沈黙のまま眼鏡をかけ直して見送った。
「それにしても、ジョージの兄貴、あのままどこへ行くつもりなんでしょうね」
そうして、水平線の彼方に黒い影が消えて無くなった頃、カマラ、ヨーナス両名が顔を見合わせて首を傾けると、後ろから高珊は二人に気付かないように目を閉じ、二人の肩に手を置いて、僅かに引っ張って言った。
「さあ、これから私達モ私達なりニ、このマルコム大将の手中となってしまった状況デ、出来る事を探しましょウヨ」
明るく声を張り上げながら、高珊は触れるか触れない形でそっと、ヨーナスのその逞しい腕に自らの腕を絡ませその肩の上に頬を寄せた。そして、真っ青に広がる空を見上げながら、すっと奸計の目を細めたのだった。
「頑張ってくださイ。ジョージさン」
3、紋章が示す謎
「で、ここまでやってきたって訳え!?」
そうして、立て屋の男が靴底に向かって叫ぶと、靴底は男の顔から離れ、再び硝子の外へと抜け出た。
「チェッ、なんだ開かなかったじゃねーか」
すると、悪態つく男は裾を叩きながら、今度こそはドアを開けて、店の中に乗り込んでいく。
「最初からそうしろよ!」
と、思わず眉間に皺寄せて叫んだ仕立て屋は、男を職人の目で再び見据える。
「って……お前一体何者なんだあ!」
6フィート以上と窺える、その長身に映える裾の長い黒のコートを着ながら、それは本人の体格に合わずぶかぶかで薄汚れていた。特に、裾の部分が地面の埃によって白く粉をふかし、皺だらけのコートはハンガーにもさえかけていない事が丸分かりだった。その見窄らしい出で立ちと、幅の広いYシャツという古風――、いやその古臭い服装に、「なんて下品な男だろう」と、今までの客と異なる風貌に、男は嫌悪で更に眉を顰める。が、照明がさっと前に出た男の顔を白く映した途端、今までに見ない、その流線が縁取る姿見に、男ながら口を引っ込み、その美しい姿に胸を高鳴らせたのだ。
そして男、ジョージは金髪を揺らめかせて作業台の縁に乗り込み、途端におずおずと尻込みしている小柄な彼を見下ろした。
「おい、俺はこの店に依頼に来た者だ。お前だよなあ、エディンバラのペンギンって呼ばれる超一流の仕立て屋っていうのは」
一瞬、仕立て屋はその言葉の意味が分からず固まるが、男の脳裏に、自身の立て看板のアイコンが、蝶ネクタイを締めるペンギンである事を思い出し、条件反射で勢い良く頷く。
「あ、ああそうだ……!確かに、私の事だねえ」
「そして聞いている、お前はすべての布柄、紋章に熟知し、そこから相手の素性を読み取る能力に長けているっていう、貴族かぶれのうぬぼれ屋だってことを」
「おい、最後の所言ったの誰ね!後で具体的に教えろや!」
男は今だジョージへの嫌悪を隠しきれぬまま、薄い唇を尖らせ悪態をついた。美しいながらもなんとも雄々しく図々しい態度、そして何より、彼の口から出された甘美なる声から響くアメリカ英語が更に男を不機嫌にさせるのだった。
「それはとにかく……む、そうね……。この英国に存在するすべての紋章、そして役柄を記憶し、それを見分ける頭脳を持つニコラス・テイラー様といったら、私の事ね。どうしたヤンキー、何かそれについて訪ねたい事でもあるのか?」
と、自身の漆黒のスーツからのぞくカットシャツに手を当て、えくぼを作る仕立て屋の男、テイラーは、あえて丁重なイギリス英語でもって挑発的に迎えるが、ジョージはそれを全く気にせず、相変わらずの調子で尋ねる。
「ああ、そうだ。お前はどんな布きれでも読み取れると聞いたが、どれくらいの小ささまでなら、大丈夫なんだ?」
その反応に更にテイラーが憮然として頬をふくらませつつ、やがてしぶしぶとサイドテーブルからニ、三枚の布切れを置いて言った。
「ふんっちょこざいな。この程度の大きさなら勿論、僅か一辺イッセンチのコレでも、私にとっては十分位見分けられるね。で、それで?アンタの持ってるのはどんなのだ?」
「これなんだけど」
と、布切れの間から差し出されたのは、一本の「紐」。
「鬼ィッ!悪魔アッ!人でなしイッ!アンタ人の話ちゃんと聞けよ!何なの?!ヤンキーは人の話を聞かない事が礼儀だって教わるの?!」
「お前、さっきからうるせーんだよ。いいからちょっと調べてみろって」
と、容赦のないつっこみに、顔を覆って嘆いていたテイラーは頬を膨らませ震えつつも、その紐を摘まむめば、顔を引き寄せ凝視した。
「あー……これは酷いねえ。赤いチェックだってのは分かるけど、使い古されてて、色もくすんでいるじゃないのー。何コレ、髪紐?」
テイラーはそのまま上に摘まみながら背を向けると、戸棚から仕事道具である黒縁どりのルーペを取り、それを凹んだ左目に差し込んで紐を見直す。照明の当たる所に掲げれば一気にその柄が、ルーペを挟んだ左目に浮かび上がる。
「とりま、チェックの様だから、色の数でも数えてやるよ」
「へーっ、それで分かんのか?」
ジョージは作業台の横にあるガラス張りの、糸巻きが転がるサイトテーブルに肘をつき、興味深そうに脇から覗き込んで言う。それにテイラーは黒い目を向けて答えた。
「ああ、チェックの柄ってのは、大まかに分けて二つの種類があるんだ。一つはあんたも知っているようなバーバリーの柄を代表する、1830年以降のイングランドにおけるスコットランド・ブームによって作られた、ハウス・チェックって奴でえ……」
「知らね」
「あっそ……」
あっさりとした答えに、テイラーは渋い顔をした。
「ん、まあともかく、あともう一つの種類としてクラン・タータンってのがあるんだよ。クランってのは氏族を表す意味だ。つまり、代々スコットランド、それぞれの一族に受け継がれていった装飾文様って事だ。まずは、そのどちらなのかを見分ける必要があるな。もし前者だったら、特に珍しくもない、誰もがよく着るチェックって事になるが……」
と、首を傾けながらルーペを輝かせ、眉を潜めるテイラーの仕草が、やがて前者の可能性は「否」である事をジョージに示した。
「ふうん、こんな風に同じ系統の赤色が重なるチェックてのはハウスじゃ見た事ないね。うん、これはクランだ。クラン・タータンだね」
「そうか……どこのクランだ。それはどこの『一族』のものだ」
突然、ジョージが低い声で牽制し、彼の狭い肩を握り締める。
「ちょ、いきなり怖い声出さないでよ。ちょっと待って。今からその数を数えておくから」
「数?」
「色の数だよ。クランタータンだったら、その地位や身分による制約が見えるはずなんだ。例えば、農民や兵士は一色、将校は二色、族長は三色で、貴族は四から五色っていう風に、位が高けりゃ高いほど柄の多用が認められている。で、このチェックは赤の重なりが多いからちょっと手間がかっかるて訳でえ……まあどうせ、将校が良い所なんだろうが……」
やがて、時計の音と、テイラーの数を数える声だけが店内に響いていく頃、ジョージはテイラーのひーふーみーと、呟く声にひたすら耳を澄ましていた。すると、
「……六、色だ、って……?」
その呟きが聞こえた途端、テイラーはさっと首を引いた。そして慌ててルーペを取り、垂れ下がる髪紐を今度はぎょろりと回る眼で睨みつけ、その色を改めて確認する。その彼の鼻息に髪紐が揺れて、やがてテイラーは重々しく呟いた。
「六色だ……間違いない。これは王族のタータンチェックだ……!」
「なんだって」
声を震わせるテイラーの横から身を乗り出して、ジョージも青い目を細めてその髪紐を見た。そこにあるのは何の変哲もないただの一本の赤紐。けれど、ジョージの横にぴたりと頬寄せるテイラーは、直視するのも畏れおおいと言った様に、その組紐を遠し気に、目を細めながら見ている。
「し、信じられねえ……私でも、王族のタータンチェックをこの手で見るのは初めてだ。おお、なんという事だ……これが王族の……」
と、その紐をいきなり両手で包みこんで震えるテイラーに、その感慨を知らぬジョージは高鳴った胸の動きに乗じて、彼の肩を掴み揺らした。
「おい、王族って事なら、具体的な地域も簡単に割り出せるだろ。教えろ!これは一体『どこの』!王族の!チェックだ!」
「知らね」
「はあっ!?」
言い返された答えに途端、ジョージは犬歯をむき出しに怒る。その脇からテイラーは振り返り、再びサイトテーブルの上に髪紐を置いて答えた。
「ああ、王族のだったら絶対数は少ないし、私だってすぐにつきとめられるはずだった」
だが、出来ないんだよ。と、テイラーは言う。
「辞典にも何も、こんな同じ赤色が交じり合う特殊なチェックなんて存在してないのだから」
「おい、それってどういう事だ、おい」
「多分、その辞典にも載らないって位、『古い王族』のものなんだろ。すげえ、とにかく、こいつはすげえ曰くつきの印だよ。ああ、こんなにくすんでいるなんて、なんてもったいない……」
紐を握る節々とした職人の手が震え、双眼も目の前の事実を捉えきれずに小刻みだ。しかし、それに反し、ジョージは粗々しくサイドテーブルを叩いて吠えた。
「冗談じゃねえ!突き止められなけりゃ意味がねえだろ!おい、手がかりはもうそれしか無いんだ!何とかして突き止めて見ろよ、おい!」
力強くテーブルを叩いて怒るジョージに「げえっ」と、テイラーは嫌そうに口を歪ませてるも、ふと、気になった事を思い出し、再び、這い蹲るようにして腰を屈め、ルーペを取り付けて髪紐を見た。
「おや、これは……」
そこにはやはり、気になっていた通り、ちぎれてしまった布に僅かながら、チェックの赤とは異なる色がある。微かに黒線に縁どられた灰色の部分、それは紋章学における、スクエアタイプのシールド、そのデキスター部分である事を長年の経験が悟らせた。やがて爪でゆっくりとその端を引っ張ってみると、その微かながら朱色の斜めに染まった棒が、それぞれのデキスターの端に添えられ、ちぎれた跡に沿って見える黄色のうねりは動物の尾だ。その途切れ途切れの手がかりが、彼の小さな頭の中に集まり、やがて一つの答えと、そして再び大きな「謎」を浮かび上がらせた。
「おかしいな……。スコットランド王族のタータンに、ヴィアトリス家の紋章が重なっているなんて……」
息を吐くほどの微かな呟きに、ジョージは大仰にして飛び上がった。
「なんだそれは!?」
それにテイラーはすっと腰を上げ、驚くジョージを見据える。その左目にルーペをつけたまま、困惑気味な面持ちと共に。
「この髪紐に載っている紋章は、特徴的な斜め十字の紋章で、イングランドの上流貴族、ヴィアトリス家の物なんだ。十数年前にアイルランド共和軍よる無差別テロで、一族の多くが巻き込まれ死亡してしまい、その血脈は一家族のみとなったと聞くけれど……」
「なら!」
テイラーも分かった分かったと、呆れつつ手を振り、サイトテーブルの下からある物を取り出した。それは、抱きかかえる彼の胸を覆う程の厚さを持つ金色の本だ。蔦文様の厳しい装飾が纏うそれをテーブルの上に置く。そして、厚いページを引っ掴んで広げる。滑らかな紙の擦れる音と共に、辞典が導くスクリプト調のVの文字。そこからテイラーが目当ての文字に指を差した。
「あったあった。ヴィアトリス家。イングランド中部、チェシャー州に1600年代から広大な土地を所有している貴族なんだってさ。1889年において侯爵の位を授与って……おいいう。すごいなあ。ここもなかりの家柄だねぇ……」
いちいち感嘆の息をもらすテイラーに、いよいよジョージは痺れを切らし、黙って拳を叩いた。
「うるっせえな!落ち着けっての!ふうん、どうやら現在、その爵位を受け継いでるのはただ一人、サルタイア・ヴィアトリスっていう男の子らしいよ。ヴィアトリス家唯一の正統血族者であった、今は亡きエディス・ヴィアトリスと、ロンドン出身で国際判事を勤めるサー・ホールダネスの間に生まれた若13三歳のご子息だとか……」
半分を占める紹介のページを捲りながら、顎を開けてつらつらと語るテイラーの下、指でテーブルを叩きながらジョージは肘をつき金髪を乱していた。おかしい。聞けども聞けども、彼が望む「彼女」の姿は浮かんでこないのである。
「……おい。その中から、二十代半ばの女の話は出てこないのか……?」
「え?いいや。一通り見てもそれっぽいのは見当たらないけど。え、何、その女ってのがこの髪紐の持ち主なの?だったら、尚更おかしな事だねえ」
顎に手を乗せ首を傾けるテイラーの脇で、やがてジョージは立ち上がり背を向ける。
「チェシャー州、ヴィアトリス家だな。よし、分かった」
パチンと手を叩いて片手をあげたジョージは、途端勢い良く黒いコートを靡かせて立ち去ろうとする。すると、テイラーは待ってと手を広げて留めた。
「ダメだ!そこに行っても多分誰にも会えないよ!」
それに対し、流し目に見返る慇懃な青い瞳へ、テイラーは辞典を掲げその背表紙を叩きながら言った。
「さっき言ったろ!血族者のエディズ・ヴィアトリスは既に死亡し、判事のサー・ホールダネスは今、公判の仕事でオランダにいて大忙しだ!なら、話を聞いてしかるべき相手はサルタイア・ヴィアトリスだろ!彼なら今、別の所のプライオリ・スクールに通っているらしい!尋ねるならそこに行くべきだよ!」
「プライオリ、スクール……?」
三度聞きなれぬ言葉に立ち止まるジョージ。その胴に途端、しゅるりと布すれの音を立てて、メジャーが囲んだと思いきや、それが思い切り縛り付いてたのだ。突然の事に思わず両腕を広げたジョージは、細身の胴を締め付けられ、そして無理やりその先を握るテイラーによって引き戻される。
「ああっ!?」
きっと睨みつけたジョージの目端には、やがて荒い息を立てるテイラーの鼻先が映った。
「ね、ねえ。じゃあアンタ、そのままプライオリ・スクールに行くつもりなんだろ?もし良かったら、いや!是非!私も一緒に連れて行ってもらえないかなあ……?」
汗を滲ませ、にやりと笑いながら大きな眼を乞うように見遣るテイラー。馬の様に均等に並んだ白い歯でにっかりと笑、ジョージの首元に吸い付く様に首をあげて続ける。
「その様子だとアンタ、ここら辺の地理全然知らねーだろ?ほら、どーせ自分は困らないけど、相手を困らせてるってタチだろ?ここの事、私が色々と案内してやるからさ。タダでガイドを雇えたと思ってー、なあ頼むよ?」
貴族の領域に踏み込める、と、いうテイラーの下心が露骨に現れる誘い文句に、ジョージは辟易したように肩を竦め深いため息をついた。
***
「プライオリ・スクール」。それは、イギリスの全寮制寄宿私立学校の事である。
当時、ヴィクトリア時代においては爵位を持つ貴族の子息は、必ず通っていたという由緒ある学校であったが、今現在、プライオリスクールに通う少年少女の割合はイギリスの中でも僅か7パーセントであるという。
と、そんな説明を、ジョージは何度目か分からない列車に乗りながら、向かいで口角泡立てるテイラーを見ながらぼんやりと聞いていた。
蒸気機関車が甲高い汽笛の音を鳴らし、地平線まで続く田園を滑る。その遥か向こうには、雲が萌黄色の草原に新緑の影を落としていった。途端、汽笛の煙が風景を掻き消し、車内にまで入り込んでくる。それに慌ててテイラーが窓を閉じて言葉を途切らせれば、ジョージは煙の中でため息をつき、額に肘つく手を当てたのだった。
「なーんだよ。こんなに解りやすくて教えてやってんのに、何つまんなさそうな顔してんのよ」
「そうじゃねえ。さっきから伯爵だと王族だの、ご子息だの、訳分かんねえ事ばかり綴りやがって、かったるくなっただけだ」
「それってやっぱり、つまんないって事じゃないかあ!」
テイラーは憮然に頬を膨らませながら、網籠からフィッシュアンドチップスを摘んで口に含んだ。
「まーっアメリカ人にはわっかんない感覚かも知れないけどさーっ、私達にとっては割と身近な事なんだぜ。この階級社会ってのは」
「そうだ。もうそっから分からねえ」
と、ジョージは額に手を当てたまま、もう片方の指をテイラーに指す。
「何でわざわざこそんな古臭えもんが残ってるのか、そっから既に分からねえんだよ」
「古臭いのは英国人の専売特許だからねぇ」
その一方でテイラーは、両腕を掲げ冗談気味に目を伏せて笑うも、やがて真摯な眼差しが、煙の切れ間から見える、新緑の畦道が映える田園へと向けられた。
「じゃあ君、聞くけど。この広がる風景がこんなに綺麗なのはどうしてだか分かるかい?」
「はあ……?」
「貴族がここを所有しているからだよ」
ジョージの懸念の声に、テイラーは景色を眺めながら言った。
「ここがもし、不動産の物や、成金共の物になってしまったら、あっという間に開発されて灰色の殺風景なつまらない景色が広がるばかりさ。貴族ってのはね、そういう目の前の事にしか興味の無い、我々下品な庶民に代わって、その多大な資本と、その余裕で培った教養と叡智でもって、次々と資本主義に犯されてしまっている世界から、この歴史と伝統を愛する英国人を守っている。そういう大事な役割を持っているんだよ……まあ、仕立て屋なんていう、典型的なロウアークラスの苗字を持つ私が、こう言うのもなんだけどさー」
と、窓枠の上に肘をのせて少し寂しげに彼は言った。
「英国で有名な観光地も、全て貴族の所有物だし、彼らによる有志でもって、我々はそのおこぼれにあやかって観光を楽しんでいるという事実がイギリスにはあるのさ。そうした方がいいのさ。だって、公共という名の下品な『烏合の衆』によって、潰された街々は数知れないだろう?ヤンキーの君にだったら尚更、心当たりがあるはずだろう」
テイラーはさすがに名指しこそはしないものの、その鋭利な眼差しでもって、ジョージの脳裏に浮かぶ、僅かな心当たりを突き止める。
「アメリカだって例外じゃないさ。ウチの中じゃ、アメリカ人を荒くれ共の子孫だって軽蔑する馬鹿もいるけど、ワシントンD・Cのキャピタル・ビルや、君のお気に入りだって言った、獅子が守るNYの国立図書館だって、アダム・スミスを始めとした我々イギリスの貴族たちが建てたものなんだせ。 どうだい、実に美しかった事だろう」
それにジョージは素直に答えられずに、「さあな」とだけ呟き、景色へとそっぽを向いた。テイラーの意見に同調するのも感に障り、だからといって、自分の本音に逆らって頭ごなしに否定する事も、どこかみっともない気がしていた。
二人を乗せる汽車は、錆びれた鉄が擦れる音を荒々しく巻き立てながら、雄々と平原に風を為して横切っていく。
「やれ平等だ、集団の知恵だといって、一辺だにした所で、出来上がる社会なんてのは醜い結末だってのを、俺たちはちゃーんと知っているのさ。例え美しい物を生み出す者がたった一人だったからだったとしても、それを見極めて支援し、世に知らしめていくのも近年まではひとえに貴族の役目だった。例え社会がピラミッド構造で、その階級に阻害があったとしても、美しいものはそういう構造でしか残らないってのを、我々イギリス人は培った歴史から分かっているって事なんだよ」
勝手に、すべての英国人を代表したかのように、胸に手を当て堂々と構えるテイラーは、円い靨を形作った。似てはいないが、そのV字の口角の上げ方は、Mr,ビーンのそれと同じだ。
「だからさ、君もそーゆう背景を知った上で、これからご子息に会いにいくんだぞ? 伯爵家の嫡男に対してちゃんと礼儀をもって接しておかないと、此処で恥をかくのはアンタの方になるんだからね?」
テイラーは、やがてゆっくりと上下にジョージを見据える。自身がプロデュースした灰のブリテッシュスーツと共に、赤ネクタイをセミウィンザーノットで締めて着こなしたジョージの、その長い脚を組む姿はやはり図らずとも美しい。そのスタイルの良さをさらに際立たせる見姿の、物憂げに田園風景を見下ろす様子は、実に被写体として格好だと、気づかれぬ様に、再び靨を形作ってはほくそ笑んだのだった。
そうしている内に、緩やかなカーブを描く線路のその向こう――、山を背後にそびえ立つ蒸栗色の屋敷がジョージの目端に見えた。
「あれがそうだよ!」
と、声をあげ、窓の外に指さすテイラーの後ろから、身を乗り出したジョージは。前髪を抑えながらそれを見据えた。思わずその屋敷に「ほう」と、唇を窄めた。
***
イングランドの片田舎。伯爵の所有地に建てられたプライオリスクールは、その伯爵自身が理事長を勤め、「子ども達が悠々と、都会の喧騒にまみれる事無く生き生きと過ごせるように」という理念を通した全寮制の男子校である。
駅を降り、駅口から直線に続く並木道を歩けば、手入れの行き届いた芝生の向こう、東西に広がる学校が正面から二人を迎えた。駅は正にこの学校のために建てられたのだと、テイラーは学校を見上げながら悟る。
さて、そのプライオリスクールの外装も、ヴィクトリア時代を彷彿とさせる豪欄としたもので、隙間なく彩られたネオゴシック調の印影が、その精巧さに合わせ、くっきりと浮かんでは並ぶ。それをいっぱいに見上げながら、繊細な感性を持たぬジョージにさえも有無を言わせぬ威圧感を知ろしめた。それに、圧倒されたこの思いを知る限りの智慧で形容し、ジョージは叫ぶ。
「やばい!すげえ!」
「君。今までの観光、きっと半分は損してるよね」
彼に呆れるテイラーも、小走りに駆けるジョージの後をちこまかと追い駆ける。金細工が優美に描くガラスの正面玄関を開けば、正直「見飽きた」と言える程に、そこも再び隙間無く、柱、壁に刻まれた蔦模様がおよそ5メートルはあろう吹き抜けにまで至っている。それに三度感嘆の息をあげながら、「ここは本当に学校なのか」と、首をあげるテイラー。その横を通り過ぎ、ジョージはその奥に通じて見える広い中庭の萌葱色と、その奥向こう、白いギリシャ柱が支える向かいの渡り廊下を見渡していた。
すると、ロンドンのビッグベンと同じ鐘の音が金細工と共鳴したと思いきや、一気に端々から人の騒ぎ声が聞こえ、やがて、渡り廊下より子ども達が溢れ出たのだ。金刺繍の校章を左胸に付け、黒のジャケットと群青色のスラックスを履いた少年らが次々と、手元に揃った本を持って駆け抜けていく。
「はあ……あれがプライオリスクールのガキ共か……スカした服着やがって……」
少し侮蔑した面持ちで見下ろすジョージには気付かず、人種も様々な彼らは溌剌とした笑顔で甲高い声をあげては通り過ぎていく。と、その時、左手の廊下から二人を呼ぶ声が聞こえた。
「何ですの貴方達。このスクールに何かご用がありまして?」
冷ややかながら、今時にしてはあまりにも丁寧な呼びかけに、拍子抜けしたテイラーは顔を向けると、並ぶ窓枠の日差しに照らされ、色白で細面な円眼鏡をかけている女性が一人、細身のシルエットを魅せるように黒のロングドレス姿で構えていた。後頭部にひとまとめにした黒髪、細長く整えられた眉、それらを一目たてテイラーはほくそ笑み、首を上下しながらパチンっと指鳴らして言った。
「あ、寮母さんですか!」
「あら……よく分かりましたわね」
「いやーっだって、如何にもって顔しますもの」
「はあ?」
「あ、ああっ。気にしないでくださいミセス」
と、慇懃に首を傾ける彼女に、両手を振って答えたテイラーは、眉を凹凸に曲げながら、彼女とは逆に首を傾けて笑う。
「いや~実は私たち、ちょっとした調査で、この学校の生徒の一人に用がありましてねえ……?あのう、サルタイア・ヴィアトリスという少年の事なのですが……」
「サルタイア郷に用事?貴方は何をするつもりでいらっしゃるの?」
すると、寮母は眉を吊り上げ、その長身を見せつける様に背を伸ばして迫った。
「貴方、お父様の御知り合い?」
「い、え……あの、その……」
「申し訳ありませんが、見ず知らずの方に、我が生徒、ましてや公爵のご子息を紹介する事など出来ません。物見見物のおつもりでしたらどうぞお帰り下さい」
と、寮母は不機嫌そうに声を低くし、扉の方へ手へをのばす。それにしまった、と、テイラーはまたわざとらしく顔をひしゃげて戸惑った。
「え、いや……そう言われましてもねえ……」
更にごねる要領の悪いテイラーを、今度こそはとぴっしゃり、寮母はその手を振り払って答えた。
「困ります。最近、多いのでございますのよ。そういう不審者が」
と、腕を掲げながら語った。
「ここは確かにこの通り、伝統ある歴史的建造物ではありますが、観光地ではなく現在もきっちり機能している学校でもありますのよ。観光気分でやってきてもらっては困るのです! ましてやここは将来を背負う貴族のご子息が、その若気な輝かしい生命を瞬かせる聖地たるもの!静かなるこの地を、貴方たちに侵されてしまっては困るのであっ」
「キャ―――――ッ!」
そう言っている側から、子どもたちの甲高い悲鳴が響いた。
「えっ?!」
それに寮母は、一方テイラーは微かな心当たりの中で、驚きで顔を見合わせる。
「なんですの!?」
「二階の廊下からです!ミセス!」
そう叫んだテイラーが指差す先は、渡り廊下の上、二階部分にあたる窓だ。その窓から見える数々の黒影、それは生徒たちのものであり、彼らは向こうからやって来る何かに怯える様、悲鳴を重ね将棋倒しに逃げ惑う。
「まっさかあ、またあいつがあ!?」
叫ぶテイラーの横から、スカートの裾を持って走る寮母は中庭を走りぬける。その後にテイラーも急いで続いた。先の渡り廊下を突き当たり右に曲がった先には、手に跡が残るほどに厳つい葉飾りの階段が映る。そこから更に大きく聞こえた少年の悲鳴の方へと一気に駆け上がれば、格子ランプが並ぶ長い廊下に至る。すると、列になって構える銀の甲冑像の中で一つ、「動いているもの」が、鈍い光を放つソードを振りかざして、少年達を追っかけているではないか。
「なあ……!?」
「やだあああああ!」
次々と教室から飛び出した、声変わりもしていない幼き少年らが、顔を青ざめてはつんざく声を立てる。
そして、かさばった甲冑を着ているその者は、これまた身の丈に合わぬ平たい剣を、乱れた円を描いて振り回しては、どすん、どずんと、床をその勢いで突き刺した。それにますます子ども達は一斉に悲鳴をあげて脇から脇へと散らばった。
「ちょっと何してんのさ、ジョージ!」
甲冑へ向かって「彼」の名を呼び、駆け寄ろうとするテイラーを、「来るな」と言う様に、ジョージは鉄の掌を彼に向けて指を開き、ゆっくりと首を振った。
「な……何しようとしてんのさアンタ……」
それにテイラーが脚を踏み出したまま動きを止め、寮母が身体を震わせながら彼の肩を掴んだ時、さっきまで悲鳴をあげていた少年達の声色が、突如として変わった。
それに、甲冑が鋼の音を立てて大仰に振り向くと、左の教室より威勢の良い同級生らの声に押され、中からはじき出された少年が一人、よたよたとした足取りで横から現れたのだ。
その少年とは、他の級友と異なり、一人だけ黒毛糸のベストを着こなし新緑のネクタイを結び、ぴんと布の張った灰色のスラックスで、その比較的長身な背丈と長い脚を魅せている身なりの良い少年だった。
覚束ない足取りで、甲冑の前を横切って揺らぐ黒髪は、前髪が目の下まで伸びて両脇に分けられており、ジョージから向かって右に分けられた前髪は、その若々しい生気を示す様に艶めき、バネのように跳ね上がっている。眉端が下がった黒く太い眉と、丸っこくも伏せ目がちの眼、そして突然の不審者に何か言おうと小さくごもらせている様は、彼の気弱な性格を印象付ける。がしかし、ざらりと床を削る音が彼の足元に鳴ったかと思いきや、それは音もなく唐突にそして自然に、彼の脚の後ろから現れた。
その糸のように細長い鉄の芯に、ジョージは、そしてその奥にいるテイラーは目を見開いた。
「お……?」
付け根にあたる部分には半月型の柄があり、そのカーブに沿って少年がそっと自身の指をはめ込むと、それをゆっくりと掲げて構えた。木枯らしがびゅうびゅうと窓を鳴らすその横で、曇天の日差しに一瞬その切っ先が瞬く。掲げると共に足擦りしては、後ろ足と前足を垂直にし膝を曲げるその構え。それは――、
「へえー何、お前。フェンシングでもやってんの?」
ジョージは甲冑の中にこもった鼻息を荒らし、続いて膝を曲げソードを両手にして構える。その一つの仕草ごとに高鳴る鋼の音に、少年の張った肩が震えるも、やがて俯いたままそれに答えたのだった。
「しょ、少々心得があります……。あ、っあの、退けるのな……い、今の内ですよ……っ!?」
しゃくり声も籠った弱々しいかつ、丁寧なイギリス英語に、一旦ジョージは肩すかしにつっかえる。も、牽制の言葉はよりジョージの闘志を煽らせ、柄を握る力を強めた。
「いいねえ、面白くなってきたあ!」
そして、ジョージの方が先手として、尖った爪先を前に出して走り出した。
「それはこっちの台詞だぜええええ!」
ジョージは飛び上がり頭上から一気に剣を振り下ろした。がしかし、慣れぬ剣の重さに勢いはあるが速度の遅いそれを、少年は構えを崩さぬまま早い後退りで避けた。
「おお!やるじゃねぇか!」
怯えのこもった目で見上げながら、業≪わざ≫をみせた少年に、にやりと口角とあげたジョージは、更に威勢の良い雄叫びをあげてそれを横に振るう。すると、少年は細長いソードをしならせて、それを右から弾く事で守った。手首に鉄の先で突くという、一点に絞った手慣れた技だ。
その時ジョージは、少年が攻撃に備える刹那、前髪の隙間から初めて、彼が闘志の目で自分を見据えている事に気づいた。
「お……!?」
唇を締めたまま眉をきっと顰める姿、少年が垣間見させるその狂気に「ぞくり」と、震えが甲冑全体にまで伝わる。そして、日差しが露わにしたその瞳が、黒のベストをより引き立たす「翡翠色」をしていた事に。
「あ――、」
それにジョージが蒼い目を瞬かせる合間、反射的に剣は斜めに振り下ろされた。が、床に突き刺さった先に何も無く、後退った彼も――、いない。
「な……!?」
はっとジョージが口を開き顔をあげて頭上に影端を捉えた時、そこですべてが決まった。
とすん
ジョージの持つ柄へ少年が片足をかけた寸時、細長い切っ先を素早く突きつけ、甲冑首の付け根を引っ掛ける。そして、ジョージの顔を覆った甲冑は、しなやかな少年の手首の動きによって、勢い良く弾かれたのだ。
その中には、広がった視界にきょとんとしているジョージが、でこを丸出しに金髪をかきあげられ、青い目を瞬かせていた。一方、その後ろで同じく呆然としているテイラー、寮母たちの遥か向こうにへかんっと甲高い音を立て、甲冑の首が跳ね転がる。その音を合図に、ドーム型の廊下の天井に少年たちの歓声が湧き上がった。
やがて、ジョージの滑らかな白い首筋を撫でていた矛先を下ろし、柄から降りたその少年は汗を垂らした顔をあげては「ふう」と、安堵のため息をつく。鋭い眼光をしていた翡翠の瞳は二、三回の瞬きの後に途端、丸っこい少年らしい目に戻り、周りの少年らに愛想笑いで眉を下げ口角をあげようとした。その時、
「調子にのってんじゃねえぞガキィッ!」
と、ジョージは顔を真っ赤にして、彼の顔をぶん殴ったのだ。
「ぎゃんっ」
その意地汚さを予測出来ず、犬の鳴く様な声をあげて少年は倒れる。その上に押し付ける様に飛び乗ったジョージは、その涙溢れる顔に容赦なく憤怒の顔をつきつけ、胸ぐらを掴み上げては彼の白い肌をひっぱたいたのだった。再び広がる喧騒の声、寮母もいよいよ両手で口を覆い震えている様に、ついに耐えかねたテイラーは、荒々しい歩調で向かった。
「あんたあ!もういい加減にせえよ!」
そして、腕を振り上げるジョージへと、真上から頭の甲冑を勢い良く押さえつけたのだった。ぐらんぐらんと甲冑が、ジョージの細い首を滑稽に回った。
5、黒衣の英国紳士
巡り巡るこれらの騒動に、色んな怒りも何かも通り過ぎてしまった寮母は、そんな彼らを学校の寮へ――、サルタイア・ヴィアトリスの部屋へと案内する羽目となった。
眼鏡の奥に諦感をも越え、無表情に腕を添えるその先は、重厚な唐草の装飾が為された木扉があった。ジョージとテイラーは彼女の心地も図るべくも無く、情動の赴くまま扉の向こうへなだれ込んでいく。するとそこは、人が寝過ごす部屋という事もあって、白漆喰と茶黒い木枠が囲むだけという、廊下と隔てたシンプルな内装が広がっていた。その部屋の真ん中、端の広いベットを覆う高い天蓋は、質感が良いと見える透けたレースの線が煌き、羽毛がたんまりと包んだ純白のシーツを透かし見せる。
「ひっろいんですねえ!しかも個室なんですか!?」
「え、ええ。全員がそうという訳ではありませんが、やはり侯爵家のご子息様であらせられますから。まあ……ここの暮らしが長い、という事もありますけど」
最後の言葉を寮母は飲み込む様に答えた。一方、二人の目線の行先には、円いテーブルと隔てて置かれたライトニンクチェアとデスクがあった。ジョージが軽く触れると思わず滑ってしまう程に、漆塗りが滑らかな質感を持ち、曇天の光を吸っては瞬いている。それは息をつく間も与えない精巧な彫刻細工も然りであった。
好奇と戸惑いで広い部屋を何度も見渡している内、彼らを見下ろすシャンデリアは、銀金具に支えられた五つの球体から虹色の片鱗を放ち、ジョージの目を青々して映した。
金具と茶褐色の木枠のみでまとまっているその部屋は、学校の様な派手さはないが、流行に乗らない品の良い「貴族の主」ならではの、庶民とは違う感性が描かれている。
それにより、テイラーとジョージはまだ見ぬサルタイア卿への思いを好奇の眼差しの中で巡らし、そして、デスクの棚の上に丁重に並べられた蒸気機関車の模型が、テイラーの笑みを促すのであった。それから外の景色は――、曇天を貫く新緑の針葉樹林に覆われた斜面が幽玄と聳えていた。それに思わずジョージは窓枠に手をついてそこで初めて感嘆の声をあげる。
「うわあ……」
空を斬る犬歯と高い鼻先に、しんと露垂れた冷気が触れる。西から通り過ぎる霧が、針葉樹林を抜ける情景。それはさながら、怪物達の蠢く格好の隠れ家である様で。
「なんかユニコーンでもいそうだな!」
「いそうじゃない、い・る・んだよ」
と、隣からからかうテイラーと共に、それを眺めている内、入口からシックなフリルを付けたメイドが、脇から構える寮母の指示に従い、カートを引いてアフタヌンティーセットを持ってきた。
カートの上、三段置きの細長いハイティースタンドはハート型を描き、陶器皿に置かれた華やかでこじんまりとした菓子は、上からとケーキ、スコーンとミルクレープ、そしてサンドイッチと、それぞれバターとジャム、バジル添えで並べられている。チョコケーキと苺ケーキが並ぶ、その茶と桃色のセンスの良いコントラストに、見帰ったジョージは高見から口笛を吹く。も、
「なんだよ、小奇麗なだけでちっちぇーんだなぁ!」
と、その国の文化を自分勝手な感性で見定めたのだった。その上、メイドがそれらを並べている目の前で靴底を突きつけ脚を組んで座る様に、脇と隣にいる寮母とテイラーは、心の中で盛大な舌打ちをしたのは言うまでもなく。一方、メイドはその言葉も聞こえない程に、ジョージの端正な顔立ちに惚れ惚れとしながら、甲斐甲斐しく花柄のティーカップとセットのソーサーを二人の前に置いたのだった。
「ちぇっ、やっぱ紅茶なのかよ」
相変わらずの口調でカップを掲げながら、ジョージは微笑むメイドから注がれる紅茶を眺めている。すると、テイラーがそれを横目に、ふてぶてしく口角を横柄に広げて呟いた。
「あんたねえ、そうやって自分からカップを掲げたら駄目だってば。こういうのはね、最初から全部メイドさんに任すのが作法なの」
と、胸の位置にソーサーを持って紅茶をすするテイラーを、ジョージは「うるせえな」と、睨み返しつつ、メイドにミルクを入れるようにと、カップを指して示した。それにテイラーは更に眉つり上げ、大口を開ける。
「はあ!?あんたミルクティーのつもりだったの!?だったら最初ミルク入れないと駄目じゃないか!そうしないとネットリ感が残って、ギドギドするでしょ!?それで臭くもなるんだよ!ああー!だからそうやって入れすぎない!1カップごとに8ccが基本!全く恥かかせないでよね、もう!」
ジョージのマナーの悪さに対し、手を掴んで逐一説明するテイラー。それにはジョージも鬱陶しいと言う様に身を捩じらして避け、目の前のスコーンを引っ掴んで口に含んだのだった。
「んがっ、まずっ。パサパサしてる」
「スコーンはそういうもんだろ!あ、こら吹き出さない!きっ、ちゃね!」
サルタイア卿の出番を落ち着いて待ってもらおう――、そんな寮母の気遣いは裏目となり、再び騒がしい声が主のいない部屋に響いた。それに寮母がやれやれと額を添えた時、背後の扉が音を立てて開かれる。そこからひょっこりと前髪を揺らし現れたのは先ほどの――、ジョージと一戦を交わしたあの少年だった。
「すみません、帰りのホームルームが長くなって、お待たせしてしまいました」
扉に手を付きはにかむ少年の、その細まった翡翠の瞳に、ジョージはカップに唇を添えながらみるみる青い目を見開かせ、思わず立ち上がって人差し指を突きつけた。
「な、おま、サルタイアって、お前の事!?」
「そりゃそーだろ。今までの流れからして」
テイラーの素早い突っ込みに、再びはにかみながら少年、サルタイア卿は歩み寄る。テーブルを挟んで指を差すジョージの右手を、その両手で包んでは会釈した。
「初めましてジョージ・ルキッドさん。ええ、この私が第24代伯爵次期当主、サルタイア・ヴィアトリスと、申します。先ほどの交戦の時はどうもお騒がせ致しました」
きっとそれは、今までに何度も交わしたやりとりだっただろう。
まだ幼き十三歳の少年、「伯爵」という肩書きを威勢良くはっきりと言ったのだ。そこでようやくジョージの目が覚めた。無理をしている訳でも、虚勢を張っている訳でも無い、ただ当然の事を言ったまでの、余りにも澄んだ翡翠色の瞳。それにジョージは途端居心地が悪くなり、下がってはそれを速やかに終わらせたのだった。その一瞬の間ににっこりと、彼が眉を下げつつ微笑む様が、またジョージの胸の内を苦くする。
一方で、テイラーの謙遜の行き過ぎた腰の屈めに対し、同じ様に屈めて穏やかに諭すサルタイア卿の挨拶はこうして一通り終わり、彼は遠慮がちにその細長い脚を組んで座った。
それと同時に、寮母とメイドが両脇から一歩下がって、彼を中心に恭しくお辞儀する。その恭しい態度にジョージは眉を顰め、テイラーは瞼を瞬かせた。やがてその後に、彼の声が凛として響く。
「さて、私を訪ねてここまで来た、という事には、余程の事情があると推察しました。挨拶もままならぬ所で申し訳ないのですが、一体貴方方に何があったのか、お尋ねしてもよろしいですか?」
本題へ切り出した彼の言葉は、簡潔かつ適切な流れをふまえていた。その目が少年らしい大きく丸い瞬きをしていなければ、その態度は老成した大人のそれと同じだ。
「女……を探している」
一方、ジョージは背もたれに寄りかかりながら素っ気なく答えた。
「女の人……ですか?それでどうして私が……」
それに翡翠の目を見開き、首を傾けるサルタイア卿。それにテイラーが半歩前に寄って後付けする。
「いやね、サルタイア卿。その女ってのが、こいつの国で行方不明になってる指名手配犯らしいようで。彼が唯一残された手掛かりを元に、彼女の居場所を突き止め様とした所、最終的に貴方様の元に引っかかった、と、言う事なのでありますよ」
最後に両手を広げて座り直したテイラーを前に、サルタイア郷は今だ懸念に思いつつ、ふっと目を伏せ、とりあえずは、と、状況を察した。
「そうなのですか……では、その手掛かりというのが……?」
「これだ」
それを結びつけるための髪紐が、ジョージの方から放り出された。それを目で追い、音もなく自身の手元に絡まるそれを見る。
「組紐……こんな汚れた赤い紐が……、私へと繋がる手掛かり……ですって?」
卿の反応は至極当然だ。やがて目を見開き、神妙に座る二人の交互に見つつ戸惑う。それに対し、ジョージは親指をテイラーに突きつけて言った。
「こいつが、この紐に残っていたサルタイアーが、ヴィアトリス家の紋章だって事を突き止めたんだ」
それに、七三分けのオールバックを撫でながらへらへらと笑うテイラーに構わず、ジョージは卿の胸元へとぴっと指先を向ける。
「お前のそれについてる紋章は、どーせむやみにひけらかすもんじゃねーんだろ?だとすりゃぁ、俺が追っているその女は、お前と同じ、ヴィアトリス家に縁のある可能性が高いって訳だ」
青色の眼光が、身を捩らす卿の胸元にある、獅子の紋章を銀色に瞬かせた。その眼差しに思わず胸を掴んだ卿は答える。
「た、確かに紋章というはイギリスでは一族の間でしか身につける事の出来ない大切な物ではあります……。では、その女性とは……ヴィアトリス家の……、私の親戚かもしれないと……?」
それにジョージは目を細む。
「ああ、あいつも丁度てめーみてーな緑色の目をしてたぜ。お前の方がちょっとこいーがな」
「そういう事情なのですよ、サルタイア卿。どうですか。何かその女性について心当たりは無いのでしょうか?お父様からか、またはお母様からか、その様な話を聞いた事はないですか?」
と、テイラーが尋ねた事に、何故か寮母は彼を睨みつけ唇を引き締めた。それに気づいたか否か、サルタイア卿は右手を掲げる。そして、顎に指を添えては考え込んでいった。
長い沈黙が続く。その合間、ジョージは紅茶の湯気の奥から、キティと血のつながりがあるのかもしれない彼の姿を、まじまじと金の瞼を伏せながら眺めていた。
たとえ、慣れない武器と視界が覆う甲冑でジョージの方に些かハンディがあったとしても、NYPDの猟犬と評される自らの攻撃を、あの銀色の細長いしなりで差し止めた少年は、まさにその技が示す通り、微かに男らしさの香る雄姿を為していた。
身長は凡そ165センチ以上と、やはり13歳の少年にしては随分と高く、また、その技を得るため、毎日血肉軋みながら鍛えていたであろう跡が――、幅の広い胸板を縁取る、黒いベストが明確に表している。また、太腿の逞しい張りも、その上質な布の質感をより醸し出ていた。
同じ筋肉質であるカマラの体型が横に広がっているものとすれば、対して彼は、縦にその発展途上の筋肉の束を為している。それがまた、深窓の令嬢の如く色白であるという懸隔が、ジョージの胸の疼きを諭すのであった。
一方顔は、真ん中分けという紳士ならではの古風な髪型ではあるが、丸っこい翡翠の瞳が左右に素早く動く様は可愛らしい。それはおそらく生まれつきのものであって、大人になっても変わる事はないであろう。それが故に、将来美形になる事は期待出来ないが、その丸みに沿って整えられた短く、頭から細くなっていく眉毛がその凛々しさを程よく保つ。しかし何よりも、フェンシングの鋒を向け、あの寸時人間ならざる瞳の瞬きがまた堪らない。
もう一度見てみたいものだ、と、ジョージはそこで薄く口角をあげたのだった。
その頃になって、ようやくサルタイア卿はその丸っこい目をジョージへと向けた。そしてゆっくりと顔をあげる。そこから張り詰めた雰囲気にジョージもテイラーも真顔になって構えた。そうして彼の口から紡ぎだされる、キティへの新たな手がかりとは――、
「分かりません」
「「はあ?」」
予想もつかなかった答えに対し、ジョージは思わず眉を顰め、憮然と身を乗り出した。
「どういう事だおい。ここまで待たしておいて、本当に心当たりが無いっていうのか?」
それにサルタイア卿も眉を下げ、慌てて首を振っては途切れ途切れに答える。
「え、ええ。私、本当にその人の事、知らないんです。お父様からも、ましてや死んだお母様からも、お祖母様もお祖父様からもそんな……そんなそんな……年上の女性の事なんて、全く、聞いた事ありません……!」
頭を掻きむして焦る様は演技では無い。本当に、この唯一の手がかりだった筈の少年には全く、キティへの心当たりが無いのだ。
「そんな……それってどういう事ね……」
その様子に慌ててジョージを見るテイラーを他所に、ジョージは彼の懸念をかき消すように口走る。
「冗談じゃねえ。確かにその女、キティは本当にここに居る。ソイツがヴィアトリス家の紋章をつけたその髪紐を持っていたのに、その女を次期当主サマのお前が知らないってどういう事なんだ?なあ、マジで!」
その青色の目で彼女の姿を見た者として、そして彼女の囁きをこの耳で聞いた者として、思わずジョージは立ちかけた。それを脇からテイラーがその胸を抑えて留める。
それにサルタイア卿もただならぬ空気を感じどったのか、「ちょっと待ってください」と素早く立ち上がり、テイラーの横、勉強机の棚を引いたのだった。そこから取り出したのは大小幾つもの木の額縁に収められた写真。その人目にはばかれぬ様、大切にしまっていたそれらをテーブルの上に置き、サルタイア卿は座り直して言った。
「それならば、い、一応、私が持っている全ての家族写真を見せておきます、ね。この通り、私が知っている縁の者はほぼ限られてしまっているのです。私、生粋のヴィアトリス家の血を引く者は、私一人しか残っていないと言わされていたものですから……」
「言わされていた?」
ジョージは疑問に眉を顰めども、今は食い入るように身を屈めてそれらを見渡していった。それに続いてテイラーもそしてサルタイア卿も、三人頭突き合わせる様にテーブルを囲む。視線を下ろした先にはサルタイア卿の幼き日々が並び、その側に佇む母親の姿が共に映っている。
その写真は、彼が愛の中で育くまれていった事を魅せるものだった。
白布に包まれた赤ん坊のサルタイア卿を、その豊かな胸の中に抱き上げるは、今は亡き母親、エディス・ヴィアトリス。その幸せな瞬間をに貯めた同じ翡翠の瞳に映しながら、息子の誕生を心より喜んでいる。その大きな瞼の麗しい顔立ちから、サルタイア卿は母親似である事を一瞬にして悟らした。
細長い金髪を、項にまでかかった所でひとまとめにした艶っぽさを写真ごしに醸す、淡い色のロングスカートを靡かせる卿の母、エディスは、その並べられた写真の中でくるくると踊り回る様に金髪と裾を靡かせ、幸せな息子との日々を謳歌していた。ピクニックの時、海で泳いだ時、アルビオンという名前の元となった、ドーヴァーの白い崖で海風に煽られながら撮った写真。少しずつ大きくなった息子との隣で母は変わらぬ美しいまま微笑んでいる。しかし、それは唐突に、途切れる様にして終わっている。
「5歳になった頃に、母は死にました」
寂しげに、サルタイアは答えた。
フェンシングを始める頃になったそれ以降は、同じ白髪をかきあげる上品な母方の祖父母が、愛おしい眼差しでその身の丈に合わぬフェンシングを構えている初々しい孫の姿を見守っていた。
日差しに映える芝生と薔薇が美しいチェシャー州、城壁が広がるヴィアトリス家の邸宅での穏やかな日々。しかし、その祖父母も立て続けに亡くなった事によってそれも途切れる。そうして、残された後の写真は、父親のものであった。
「お父様は、イギリスで法学を学ぶ者なら誰でも知っている、有名な国際判事であらせられますのよ」
寮母はそれからゆっくりとサルタイア卿の座る椅子に手を添えて言った。彼女がそう後付けした通り、深紅のカーテンを背後に、漆黒の法服を着、斜めに顔を向けて睨みつける様な眼光を放った、細長い鳶色の瞳の男がいる。彼は卿の父、ホールダネスである。その尖った鷲鼻といい、細長く角ばった眉間と顎といい、法の番人いう使命を背負った厳しい出で立ちを醸し出していた。
その分、無駄の無い輪郭と、その鋭い目の光は雄々しく、また薄いながらも唇はきりっと流線を描く。また妙齢にしては若々しさにしっとりと濡れた黒髪がかきあげられた様は、ジョージのそれとはまた異なる「美形」である事が寸時に読み取れた。
髪と眉の形は父親似。と、ジョージはそこからようやくサルタイア卿に向けて、その跳ねた髪の瞬きを見上げた。
パーティーの会場にて、スーツを着て令嬢と話している背の高い父親。そして、何らかの賞を取ったのか、如何にも偉そうな眼鏡の取り巻きに囲まれて賞を掲げてぎこちなく微笑む姿。どんな場面でも父親は、母と対照的にスーツか法服を着ていて、揺るぎがない。
「お父様の方は本当に優秀なお方でしてね。大学もスカラシップで奨学金を得てアメリカに留学し、ハーバード大学で法学を専攻して過ごした経歴ですのよ。それどころか入学時も卒業時もそれぞれ次席の成績をお持ちになっているのですわ」
「えええハーバードで次席ですか!?それは相当ですねえ!」
「んだよ、首席じゃねーのかよ」
と、またあっさとり言い切って額縁を持って笑うジョージに、一斉に睨む寮母とテイラーの一方、サルタイア卿はあははと肩をすくめて笑った。
「それ、絶対に父の前では言わないでくださいね。見ての通り、かなり自分にも厳しいですから、やはりそれをかなり気にしている所があるのですよ。いつも思い出話をすればアイツさえいなければって、会う度に今でも言ってる位ですからね」
「アイツ?」
サルタイア卿は笑いながら、ジョージの持つ額縁を指した。
「その写真に写ってますよ。卒業式の時のですけど、それは成績上位3人が並んで撮ってる写真なのです。真ん中が次席の父、そしてその左にいるのが首席、その人の事です。その方は、入学時も父を抜いて首席として入学式の式典で宣誓をしたとかで、父が相当悔しがっていたからよく覚えてます。父も勿論尊敬していますが、その方も相当凄い人なんだろうと思いますね」
「あら、その方は確か今、アメリカの国会議員をしていらっしゃいますよ。大統領候補にもなった事があるとか」
「あ、そうなんだ。やっぱりそういう人なんだなあ」
笑い合う寮母とサルタイアとの中で、ジョージは一人、父、ホールダネスと共に黒衣を着て並んでいる「首席」の姿に愕然としていた。微かに憎しみを込め、脇から見下ろしているホールダネスの睨みも我関せず、飄々と無表情のまま賞状を持ち立っているその男は、灰色の短髪を山高帽子からはみ出し、顔色の悪い痩せこけた頬の中で、灰の瞳が眉毛の下で浮かんでいる。その、死神と言われる前の片鱗を覗かす、見慣れた顔の持ち主は――、
「アーサー……?なんだコイツ、サルタイアの親父と同期だったのかよ……オイ……」
あっけらかんとしたジョージは、顰めっ面で距離を持ちながら、写真を見据えたのだった。
しかし後になりこの事を彼に訪ねようとも、おそらくあの死神は表情も変えないままあっさりと、「覚えてはいない」と、言うのであろう。容易に想像出来るホールダネスとアーサーとの差異に、滑稽やら哀れやらでジョージは一人薄ら笑いをした。それが、もう二度と叶わない妄想である事も含めて。
一通り写真を見終えたテイラーは、やがて諦感のため息をついて額に手を当てて呟く。
「確かに……こう見ても、その若い女性らしき人は見当たりませんね……。これじゃ、心当たりがあるって思う方が難しいですな」
「ええ、私も色々思い出そうとしましたが、やはりそれらしい方など全く検討もつきません。これは一体どういう事なのでしょうか」
サルタイア卿が落ち込むテイラーを見ながら肩を上げる。その後に続く言葉は、おそらく、そんな人が本当に存在するのか、と、いう疑念。
「てめえっ」
それをジョージは一睨みで否定したが、二人を隔てて空間が歪んでしまっている様な、そんな距離感を感じたまましばらく睨み合っていく事しか叶わない。
やがて、歪む空間に沿うように目線をはずしたサルタイア卿は、ちょっと失礼と呟き、手元の腕時計を確認する。そして、残念そうに眉を下げて言った。
「あっ、すみません……。丁度これからフェンシングの時間が始まるのです。今日の所は……ここでお暇してもよろしいでしょうか?」
固まる二人を他所に、サルタイア卿は突如立ち上がり、忙しく扉の横手にかけている白い防具に手をかけた。それにテイラーは、信じられないと言った様に目を丸くして声をあげた。
「えっ、ちょっと、あの……?」
自分の親戚かもしれないという、正体不明の女性がいたというのに、それよりもフェンシングの方を気にするというのだろうか。理解出来ぬその慌て様に、寮母がサルタイア卿をかばい、スカートの裾を翻しては前に出た。
「時期が悪かったですわね。あと一週間で、学院別のフェンシング大会が行われる所ですの。その優勝を目指すために、卿はその日までずっと練習を繰り返しておられたのです。いくらなんでもこのためにずっと時間を割く、というわけには参りませんのよ」
「ん、何?お前、優勝候補?」
先の試合でもあれ程仲間に持て囃されたからやっぱりか、ジョージは顎をあげたが、それに対してサルタイア卿は苦笑いで応えた。
「いやー……そう期待されてはいるんですけど、実は一度も優勝経験は無いんですよねえ……」
「まあっ、卿!いつもはあともう少しの所なんですから、後は優勝だけですよ!自信をお持ちくださいませ!」
と、拳を掲げて嗜める寮母を横目に、ジョージは机の上に並んでいたメダルの数々によって気付く。
「なーるほ、ど。つまり今までは2位か3位だった訳。へっ、そういう所も親父譲りかよ」
「ふええ」
「ジョージ様!」
そうして慌ただしく、マスクとサーブルをそれぞれ両手に携えたサルタイア卿は、扉を走り抜けながらも最後に振り向き、挨拶をした。
「それでは、また後で!」
やがて、揺れる黒髪の隙間から笑顔を向けるサルタイア卿は、素早く廊下を走り去ってしまう。その跳躍のある軽快な走りが、彼がフェンシングに対し並々ならぬ情熱がある事を魅せる。それを扉から見送るテイラーは、貴族でありながらも時折魅せるその子どもらしさに、一旦笑みが溢れる。しかし一方でジョージは、扉に手をつけたまま不貞腐れている。
「あいつ……もしかして……」
しばらくして、彼の後を追うようにテイラーも部屋の中から出て行った。それにジョージも後に続く。突然、共に出て行った二人に、メイドはアフタヌンティーの片付けをしながら首を傾けるも、それに寮母は介せず、彼らの後を淡々と見守っていたのだった。
***
「おかしいと思わないか」
やがて沈黙の中で、芝生香る噴水を横切ったテイラーは前を向いたまま、横につきポケットに手を突っ込んでいるジョージに尋ねた。それにジョージは「そらあなあ」とさっきつけたタバコを燻らして呟く。
「おかしいはおかしいだろ。アイツがキティに何の心当たりが無いなんてよ」
あいつは――、キティは、架空の女ではない。確かに、ここに、ちゃんとここにいる奴なのに。彼女の元から遥か遠い異国の空は、煙によって薄い青色に揺らめく。
「そうだ。その卿が彼女を知らないその理由自体が、実におかしいと思ったんだ」
「はあ?何、お前。あの写真見ただけでそんな事がわかったのか?」
「ってゆーか……お前は逆にアレで分からなかったのかい?」
と、ジョージの見下ろす青い目と同じ、色気を帯びた黒の光彩が、瞼の輪郭を半周してジョージを見上げ、読み取った事をそっと身体を寄せて呟いた。
「あの写真、額縁に収められてたって事は、普段は机に立てて置くって事でしょ?それをわざわざ棚の中に入れていたって事はどういう事だと思う?」
「……そりゃあ、あまり人に見られたくなくて隠してたって事だろ……」
何を当たり前な事を、と、唇歪めて答えたジョージだったが、自らの答えに疑問を持ち、への字に口を曲げてはくいと空に目を向けた。
「ん、にしては俺たちには簡単に見せてたよな」
「そこだよ!」
その言葉にテイラーはジョージの鼻先に指を突きつけて声をあげる。
「私たち赤の他人に見せるってなら、寮母さんやメイドには勿論、部屋に遊びに来る友だちにだって見られても構わないはずだ。それでも何故あの時、隠していたのか。考えるなら『あの写真に手を付ける資格を持った人』にだけは見られなくなかったんじゃないかな、と、私は思ったんだ。そいつにいつでも見られて……最悪の場合捨てらてしまう前に、自分が部屋に居る時以外は隠していた……と、考えるのが妥当だと思わないか?」
「資格?そんなモン一体誰が?いくらなんでも理事長だろうがなんだろうが、生徒の家族写真をどうとでも出来る奴なんて」
「親父さんだよ」
ふとした呟いたテイラーの言葉に、ジョージも思わず目を開いて納得した。
「そうか……、親父なら、家族の事情どうとかで息子にでも文句を言われる筋合い無くなるからな。親父が写真を見た瞬間に捨てる可能性があったからって……ああ……?」
そこでようやく、ジョージもテイラーがおかしいと言った理由が分かった。それに一旦思考が止まるジョージを通り過ぎ、テイラーは再び外廊下を歩く。
「ああ、実の父が息子の大切にしている写真を、ましてや妻や祖父母の写真を見て不機嫌になったりするなんて実におかしい話じゃないか。それに見ただろ、あの親父さんの写真」
自ら呟いた事に眉を顰め、テイラーは靴音を力強く鳴らした。
「大学の入学式、卒業式、仕事、パーティー……どれ一つとして、仕事や催しものばっかりで、家族と撮った写真なんてどこにありゃしない。そして、あの親父の写真の端にあった破れ跡……あれは雑誌やプリントから、わざわざ卿が切り抜きして、貼り付けたって事だろう。おそらく他の写真も、卿がチェシャー州の実家から必死で取り出していったものなんだろうな。あれがすべてだなんてそんな……二人の結婚式の写真も無いなんて……」
口にすればするほど脳裏に浮かぶ、健気な卿の見姿に、テイラーはますます居たたまれず、そして、そこまで卿に成さしめる父親に対する無責任な態度に、ぎっと歯を食いしばって怒りを表した。
「おい……って事は……」
「ああ、家族について何も心当たりが無いのも、父親から何も聞かされていないって事じゃないのかな。物心ついた時から、祖父母が亡くなって父の手に渡された7歳の時から、サルタイア卿はずっと放っとかれたままだって事だ」
「それってつまり……」
「ああ。サルタイア卿は、父親に愛されていない」
温い風と共に、金髪が揺らぐ隙間からはっきりと届いた声。ジョージとテイラーは互いに共有した事実に対する動揺から、思わず顔を向かいあわせた。
「突然切れてしまった手がかりの糸。でもそれ自体が、真実への大きなヒントなんじゃないかってだと思うんだ。こんなにあからさまにすっぱりと、誰かが持った鋏で切り取られた、鋒の揃う糸こそが、ね」
仕立て屋としての含蓄を瞳の中に伏せて、テイラーは心震わせて言った。ぴらぴらとその想いに呼応するように、ジョージがしっかりと掴んでいる髪紐が、揺れる。
「サルタイア卿とサー・ホールダネス父子の、この隠された歪な関係。これこそがヴィアトリス家の中で存在しない事になっている、そのキティの正体を切り取る大きな余り生地なんじゃないかと思う。こっからだよジョージ。こっからいよいよ突き止められる様な気がするんだよ!」
と、己の頭の中で織り込まれた糸筋に、テイラー(仕立て屋)としての血が疼くのか、その目は爛々として瞬き、拳を握り締める力が大きくなる。それにジョージは目の前にかかった前髪をうっとおしくかきあげながら、スティルカ式の石畳を見上げる。
「……となると、やっぱり怪しいのは父親、ホールダネスって事になるのか……」
「ああ、だろうね」
二人は再び向かい合い、深く頷きあった。そして次はジョージから切り出す。
「てかさ、さっきからすっかり忘れてたけど、そもそもこの髪紐の柄は、スコットランドの王族って分かったのが、そもそも始まりだったじゃねーか。おい、もしかして、この王族ってのが、ホールダネス家だった、て事はねーのか」
「いや、残念ながらそれは無いね」
ようやく捻り出して考えたジョージの推理に、テイラーはあっさりとて首を振った。
「サーの称号を貰う国際判事という立場しかり、能力や業績は貴族より勝るかもしれないけど、ホールダネス家は、名前を聞いただけで俺には分かるよ、所詮成り上がりのワーキングクラスにすぎない家柄だ。どんなに頑張った所で、イギリスの階級は絶対的に血筋で決まる。そう言った意味でもホールダネスが王族の一族なんて、絶対にありえない」
イギリス人として知っているてきぱきとした説明に、異邦人のジョージは圧倒されつつも、不機嫌そうに乱雑にタバコをつまみ、風に乗せた白い煙を吐いた。その脇で「でも」と、テイラーは指を顎に添える。
「んー、でもそれもまた、改めて考える余地もありそうだよね。ホールダネスとスコットランドの王族、そして彼が、あの聡明なヴィアトリス家の息子を、そしてその家族を嫌う理由。それを繋ぎ合わせれば……」
「どうなんだろうなあ」
「ねえ」
そしてしばらく、風が強くなった外廊下で顎を引いて考え込む二人。すると、その脇から黒い裾がふとして現れ、二人を呼びかける声が廊下の中で響いた。
「よくそこまでご存知でしたのね」
それは、先ほどまの余所者に対する態度とは違う、穏やかな声色だった。驚きで二人同時に顔をあげると、寮母が細長い背をのばし、陰鬱を込めた眼差しで彼らを見据えていた。お腹の下にそっと抑えられた両手から下は、吹き飛ばされるスカートの裾の中から黒いレースが靡いている。
「どことなく、そのご様子から大体お察ししていたと思いましたわ。貴方のおっしゃった通り、サルタイア卿はお父様、サー・ホールダネスに非常に邪険にされております」
「寮母さん……っ!」
テイラーは更に驚いた。この見ず知らずの他人の憶測が当たっていたからといい、生徒の、ましてやここ、イギリスでは大きなスキャンダルにもなりかねない貴族の個人情報を告白する事など大丈夫だろうか、と。しかし、同時にテイラーは悟っていた。
その震える瞼から、一歩も動かない事によって保っている鋼の顔から、その秘密を抱える重圧と苦しみによって崩れていこうとしてる事も。よもや親戚を知るすべも無かった絶望の最中、それを突き止めようとする者が出てきた事に、一種の奇跡をも感じ取っていたのだろう。テイラーはそれに応じる様に、誰にも告げないから、その後をどうか続けて欲しいと、風に紛れた勢いで微かに頷いてみせた。
それに、寮母はそっと手元をお腹から離し、眼鏡を整えながら小さく呟いた。
「祖父母様を失い、行く手の無くなった卿が、ホールダネス氏の手に乱暴に惹かれ、理事長、つまり私の叔父に押し付ける様にやってきたのは、六年前の丁度この時です。金は払うからここで一級の教育を施しくてくれ、と言ったきり、愛しい母を失ったばかりのその寂しさに泣き叫ぶ幼き卿にも、ホールダネス氏は名残惜しむ様子も無く、素早く立ち去ってしまいました。それっきり面会も、卿が何度も懇願しようとしなければ行おうとせず、それも卿の想いを無視して簡単に済ませてしまうどころか、手紙もろくに返事しようとなさりません。いくら国際判事は忙しいとはいっても、あれは幾らなんでも目に余るものでありましたわ」
「ひでえな。寮というりょか、それじゃまるで施設暮らしじゃねえか」
「施設暮らしが特別にひどいという訳じゃないけどさ」
そうしてジョージの言葉を遮った上で、テイラーは両手で眼鏡を整える寮母の元へと一歩近づいた。すると、彼女の小さな肩が小刻みに震えているのが目に見えた。寒さの震えではあるまい。
「……いえ、全く酷い話でありますわ。他の生徒が夏や冬に大顕で実家に帰る時、一人しんとした校内で仕事は哀しみを癒す最良の仕事……といいますか、ひたすら勉学と武芸に励む事で、沈黙から必死に足掻こうとする様は、見守るこっちもあまりにも不憫で、メイドも私たちも思わず目を覆ってしまう程です。それに気付かれない様、笑ってやり過ごす様子もまたいたたまれず……親子って本当に不公平、子は親を選べませんものね。それでも誰よりも父を慕い、まるであの6歳の時の、泣きながら手をのばした頃と変わらないまま父を追い求める姿は健気でまた哀れで……私は胸が傷むのでございます」
ぎゅっと、平らな胸の内を抑えて俯く寮母の、傾いた眼鏡の隙間から涙が微かに震える。おそらくそれは彼女も同じ境遇だったのかもしれない事を諭す。この修道院を改造した陰鬱かつ荘厳な「学校」という豪勢な空間の中に、籠もった弱き者の儚い思いが、風にのって柔くそして切なく広がっていく。
「そして、この大会が、父を慕う彼にとっての、人生の賭けになるのですわ」
やがて、顔をあげ、小さく口開いて寮母は言った。
「卿は手紙で父と約束を交わしたのです。プライドと顕示欲の強い父親の事でしたから、この英国紳士として名誉あるフェンシング大会に優勝する事が出来れば、きっと父はそこからようやく何かしら餞を添えてくれると考えたのです。そうした卿の惨めな程の懸命な催促によって、遂にホールダネス氏から『絶対優勝するなら』という条件で、約束を得る事が出来たのでございます。父に会えない寂しさから忘れるために、練習を重ねたフェンシングで父との信頼を深める。これは、サルタイア卿が積み重ねた苦しみすべてが報われるための、賭けなのです」
最後を区切って言い切る寮母の鮮明な口調から、卿と彼女の間で長い間、互いの傷を慰め合ってきた大きな絆がある事が知れる。ああ、とテイラーはその溢れる程に感じ取った寮母への思いと、大会の練習に走る卿の、あの笑顔の訳に畏れ入った。そうして、二人が距離を縮め向かい合っていく合間、無表情のまま離れて立つジョージは空を見上げた。そして、曇天の下に舞う風は、キ刃が絡む音をジョージの背後、遠い先から響かせた。
***
フェンシング舞台≪ピスト≫は長い。
何度その場に臨んでみても、会場を見据える度にそう思ってしまう。サルタイアはごわごわとした真新しい純白の防具に首を埋めて構えた。
幅2m、長さ14m。
白く瞬くこの領域が自分の世界の全て。自らはこの中で役者となり、相手との刃の演技を交わすのだ。
小さく呟くと同時に、共演者と向かい合った。合同練習で現れた他校の、白い防具に身を包む背の高い彼。最早語る術もいらないといった様子で、「En garde(構え)!」の呼び声と同時にマスクを被っている。
その彼に追いつかんと、今まで少しずつ少しずつ、引きちぎれる様の激痛に耐えて成し得た自らの背丈をのばし、腰の軋みをアクセントとして、サルタイア卿は薄く笑った。そして、自分は「役者」となり、一瞬にして丸く縁っていた眉を顰め、瞳孔を開く。表情の演技に、その瞬間を待っていたとばかりに友の歓声があがった。その度に「黒衣の英国紳士」などと渾名されてはいるが、白い防具に身を包めばその面影は無くなる。やがて、その瞳孔の開きはマスクを勢い良く被った後の、格子の向こうにいる相手へと向けられた。
そうすれば、彼にとって見えるものはその相手と、彼が踏みしめるピストと、そしてその手に持つ「殺意」の分身たる、剣しかなくなる。
そう思える自分を感じる瞬間が、彼がフェンシングを嗜む理由の一つでもあった。そして、すべての想いを振り切るように、何度も虚空に突きつけ盛り上がった腕を上げ、何度も踏み込みの練習を紡ぎ、いつのまにかバネの様にしなやかになった前足の爪先をつけて構えた。
体育館に響く審判の精錬な「Prêts?(準備はいいか?)」の呼び声に、分かりきったと答える「Oui.(よし)」の声。二人にはもう、己の声さえ聞こえない。それに審判が目を伏せて口角をあげながら頷きm「Allez!(始め)」と、勢い良く掲げた腕を交差した所で、その一瞬を埋めるように、互いに攻撃へ脚を踏み込んでは――、跳んだ。
その勢いに乗じて、突きつけられた相手の素早くしなった鋒に、サルタイア卿は冷徹な眼差しでもって動きを見極め、無駄のない直接的な距離から勢い良く短く弾く。それに向かいの彼も卿の実力を把握してか、当然と言った様に、機械的に後ずさって距離をとり、切り替えの速い、そして角度の効いた攻撃でその脇から突かんとする。しかしそれも当然、卿の防御が許すはずも無く、それを難なく受け止めて再び突き返す。こうして、澱みのない足踏みと共に刃の音が繰り返されていく。
やはり卿の試合は、サーブルという競技らしく見栄えが良くて面白い。と、防具を着た周りの少年達も、その試合に魅入っていた。
仲間達の間で評価されているサルタイア卿の強みは、防御力の高さと、スタミナを持ち合わせた消耗戦での優位的立場だ。相手の突きと斬りをしつこく弾かせて避け続け、その息つかぬ攻防の間で相手が息を切らし、力が弱まるのを待つ。そしてその隙を狙って、蜂のように衝撃の一手を加えて勝つのである。
一言に簡単にまとめても、そのためには高度なテクニックと同時に、体力面をも十二分に鍛える必要があり、そのどちらとも満足な実力に至るまで同時にカバーするには超人的な努力と時間が必要である事を仲間は知っていた。だからこそ、それを極限にまで耐え抜いた結果である、彼の技に何よりも惹かれるのである。
そう思い描いてる間にも、高差する刃は鋒が消え、よもや絡み合う音がその激しい動きを唯一教えるものとなっていた。それに交互に相手の動きを読む仲間達の視線がより素早くなる。そろそろか、と、仲間は彼が止めを刺すを待っていた時、それは突然鳴り響くアラーム音によって裏切られた。
「あれえ!?」
その動きを捉えきれず、仲間達が顔をあげると、卿より幾らか背の高い相手が獲った事を示す、左パネルの赤い蛍光灯が光っている事に目を見張った。
「い、いつの間に……!?」
仲間達のどよめきをかき消す程に、拳を振り上げ威勢の良い声をあげて喜ぶ相手は、マスクを外し、汗がしっとり張った髪を振り乱して喜ぶ。一方、「負けた」サルタイア卿は息を切らしながら、マスクをかぶったまま彼を睨み上げていていた。
「避けた手首を突かれたな」
身を屈む仲間達の背後から、腕を組むコーチがそっと呟いた。
「おそらく、剣を弾いた時に出た手首を突かれたんだろう。サーブルの場合は、避けるためには剣を弾くという行為で応じるしかない。そん時には、どうしても手首を相手に向ける必要がある。そこの一点をそっと、鋒が触れてしまったんだ」
仲間達はその言葉にざっと青ざめ、歓喜に大口を開ける相手を見た。コーチの説明を経験者として解するならば、避けられた鋒を相手は小さくまた弾き返して、そのまま手首に「当てた」という事になる。そうするためには――、一体どれだけのスピードとその僅かな部分に確実に当てるという繊細な「返し」が必要となるのだろうか。つまり、と仲間達は察した。
相手はサルタイア卿と異なり、スタミナを犠牲にする代わりに、ひたすらスピードと、避けられた後にすぐに攻撃出来る細やかな動きを習得する事で、すぐに「決着が着く」方針を貫いていたのである。
菱形の格子の間に汗垂らし俯く卿は、痛む頭の中、震える腕の痺れから知った。自分は今、全力を出して長い交接を成したのではなく、どれほどのテクニックを持っていたのかと、彼にただ試されたいたのだと。それと同時に思い知った。彼の軽やかな一撃は、最早一週間で到底追いつけるはずもない所まで、至っているという事も。
「くっそ……」
こっちだって、と、悪態をつきながら歯を食いしばる。
こっちだって、技術を犠牲にするつもりはなかったはずだった。そのために気を抜かずに、何よりも意識して練習に望んでいたというのに。一歩それに及ばなかった事と言うだけで、体育館端にして費やした汗かく日々を、すべて否定された気がした。その悔しさと憤りに唇を噛み締める。その苦味は父に対する思いとも重なり、卿の胸を焦がす。
相手に気づかれない様、紳士らしからぬ悪態をつけど、彼はそれに気付いた様に口角をあげた。それに卿がぎっと翡翠色の鈍い光を向けると、相手はそれからわざとらしく円い目をくりんと逸らし、悠々とマスクを被り直して背を向け刃をしならせている。卿は今一度のその広い背中を睨みつけ、マスクも外さぬまま構え直した。それはフェンシングプレイヤーとしての焦りを意味し、審判は寸時動揺に目を開かせど、仕方がないといった様子で目を伏せて構えろ、と、再び命令する。
三度始まった攻防戦。
卿は自身の限界を越えようとより素早く、勢いを持って突いてきた。息は更にあがり、脚は長い疲労で痛むが、テクニックが上手な彼に追いつくには、そのスタミナでカバーしていく事しか出来ない。捻った痛みをも乗り越えてただ正面に顔を向けて腕を振るうサルタイア卿は必死だった。彼に勝たなければ、優勝もできず、父親にも会う事が出来ない。もう忘れてしまいそうな程に聞いていない父の深く、含蓄の篭った微かな声をひたすら追って、卿はその矛先を相手へ突く。
「頼む、頼むよ…!」
しかし、演技する事を忘れてしまった役者は、何も知らない相手にその思いに反してあっけなく、鋭い衝撃と共に、その刃で喉元をさっと突かれてしまう。翡翠の目が動揺に震えた。
「があっ」
劈くアラーム音と、仲間が残念そうに声をあげる喧騒の中で、サルタイアは盛り上がってきた喉仏に丁度突かれた衝撃と、息が閉ざされる程の痛みで激しく咳き込んだ。
まさか、勝てないなんて。相手の雄叫びがよりその事実を掻き立てる。
「そんな、ヤダ…!ヤダよ…!お願い、私は…!」
お父様、と言いかけた所で目の端から一滴汗が溢れ出た。
***
「最後の、手がかりをお渡ししますわ」
風が吹き荒れる様になった荒野に立つ寮母は、髪を乱れるのも構わず、淡々として胸元から物を取り出した。その言葉に驚く二人の前に、無表情の寮母から突きつけられたのは四角い紙。それは、一枚の写真である事を悟らせた。
「テイラー様の言う通り、お母様とのお写真の数々はすべて、サルタイア卿自らが今や廃屋となっているチェシャー州の実家でかき集めたものなのでございます。それに私も同行したのですが、その中で戸棚の後ろに紛れ込んでいたコレを見つけたのです。これはこの先ずっと、卿にも内緒で自分の胸に留めておこうと思っていたのですが…」
言いかけた所でジョージが前に出てその写真を取った。あえて裏面に渡されたそれを片手で引っくり返す。と、まずその目に映ったのは、豊満な胸元を大きく開けた、レースと刺繍で形作られた純白のウェディングドレスを着るエディス微笑みだった。これが、見当たらなかったという「結婚式」の写真か。
「でもなんで、これをわざわざ秘密に?」
と、思った所で、隣で彼女の手を握って共に立つ新郎の姿を見た瞬間、ジョージ目を見開いて裏声をあげ、テイラーは脇から悲鳴をあげて口元を右手で覆った。
何故なら、新郎が、ホールダネス氏ではなかったからだ。
それは、黒いジャケットとタータンのスカート、そして分厚い布生地のスキャンドゥを履く、スコットランドの伝統衣装である「キルト」を着る新郎だった。栗毛の短髪を太陽に瞬かせたその男は、浅黒い肌を持ち、四角い顔には鼻から下まで髪と同じ色の髭が覆う。均等に生え揃えた白い歯を見せ、新婦と共にブラウンの目を細め笑う姿は、ホールダネスとは対照的に、顔の骨格も体つきもすべて角張っており、どちらかといえば無骨な印象を見せる。キルト姿という、その写真の中で浮いている男の正体に、ジョージはその顔から、そしてテイラーは彼が巻いているスカートの、同じ赤が重なる格子柄から読み取った。
「そっかコイツだ……!コイツとキティは顔がかなり似てる!」
パサついた栗色の髪をひとまとめにした、浅黒い肌を持つ女。瞳の色は違えども、その丸っこい優しい眼差しは彼女のそれと全く同じだった。
「そうだ、コイツね!コイツなんだよ!あの髪紐の柄を持った一族は!コイツがスコットランドの王族だったんだよ!」
突如として遭われた男の姿に、歓喜と困惑が入り混じる。眉と口角の上げ方が一致しない顔で二人は向かい合い、それを与して寮母は、その経緯を語った。
「ええ、そうです。私もあの髪紐を見た時は、自分の目が信じられませんでしたわ。卿がいる手前、その時は何も言えませんでしたが、それでも、その写真が何より示す通り、卿のお母様――、エディス様は確かに一度、ホールダネス氏と出逢う前に別の方と結婚しておられたようです。この事実は卿はもちろん、私たちにも一切知らされておりません。おそらく、それがホールダネス氏が隠したかった存在、そしてそのキティという正体を知る最後の手がかりだと思います」
すると、途端、テイラーは彼女の手を握って恭しく頭を下げた。
「ありがとうございます!これで、私たちも次の場所へ進む事ができました!」
「そ、そうなのですか?」
今度はそれに寮母が目を見開く。
「私はその人の事に関しては何も知りませんし、その場所についても皆目見当もつきません。一体それだけの事で何が分かるというのでしょう」
「いいえ、ミセス。この結婚式場の場所、私には心当たりがあります。そこの神父から話を聞けば、きっと、彼の正体にまでたどり着けるはずでしょう!」
「本当か!?」
「ああ!この教会、私、知ってるし!」
後ろからその肩を掴んで問うジョージと、勢い良くえくぼを型どって頷くテイラー。そしてそれを見守る寮母はやがて、二人が駅に向かっていこうとする雰囲気を感じ取り、再び、最初に会った時と同じ様に深々と地面と並行にお辞儀した。
「ジョージ様、ニコラス様、どうか、お願い致します」
乱れる髪の隙間から見据える眼差しはもう冷たくはなかった。それよりもより穏やかで、微かな期待を二人に託す様な、慈しみあるものだった。
「その結果をどうか、私達にもお教えください。しかし、これは場合によれば大きなスキャンダルにもなりかねない展開です。ですからどうか直接ここまで、そしてなんとしても卿にとって良い返事をお伝えください。是非、貴方の方から」
その震える声に、慌ててテイラーも背筋をのばし、彼女の言葉を受け入れようとしていた。そのぎこちない仕草に、寮母はふっと剥がれかけた仮面の情動に沿って微笑む。それにテイラーがえくぼを桃色に染めた事を、ジョージは肘を小突いた。
「じゃあ、行くか」
そうして二人がしばしの別れを述べて、荒地の丘陵に沿って駅へと歩き出していく。それを姿が見えなくなるまで見送っていた寮母は、そっと胸に手を当てては、希望に疼くくすぐったさににこりと口角をあげた。
「これで、卿にもようやく、お父様以外に親戚の方が……」
その言葉は曇天の雲を吹き上げる風によって乱された。一方で、敗北したサルタイア卿は一人舞台の上、白い防具をがぶったまま項垂れていた。
(中編へ続く)