第5話 フランス編(後編)
「は、なに、言ってんだ、てめ」
途端、ジョージは嘯いた言葉を嗤おうとするも、武士の目がその戸惑いを許さなかった。蒼い目が震える。信じてはいないくせに言葉が何故か途切れてしまう。それは、喉の奥を突かれた様な心地に駆られながら。
「信じられるわけねーだろーな。だがな、それが現実だ」
一方、同じ抑揚で言い返し、武士はジョージと違うその細長い目を光らせ、血を噛んだ。
「知ってる者」の言葉は強い。その事実を知らぬ「哀れな者」は後ずさって構えてろ。と、言わんばかりの覇気をもって武士は、黒髪のウィッグを荒々しく投げ捨て、生身のままジョージと向かい会った。この言葉を口にした途端、全く恐怖が無くなったのだ。お前の行った通りどんなに汚れても、みっともなくても。
「俺は、お前と違って、人間だから」
そう言えた。そして、武士は今まで溜めていた彼に対する憎しみを、恨みを、この言葉のために使う。倒れそうになるすべての力をいっぱいに、喉にこめて出す。
「そうだ、てめーの……てめーの本当の正体は、実験によって作られたクローン……お前が今まで仲間とか思ってる奴らに守られてたのは、愛されてたのは、お前の人望や絆ってもんじゃねえ。てめーが人間のなりそこないの、禁忌と淫匿の人形だから、ムンダネウムの駆け引きの商品だから、それで大切にしてただけだ。まるで、そう。ペットのような、そんな感じだったて訳だ」
「な、に……を」
「黙れ。クローンのくせに、人間様に話しかけんな」
武士の素早い捨て台詞に、一歩後ずさって「そんなはずはねえ」と言おうにも、言えなかった。
人形。その言葉に残照がちらつく。今まで興味がないと、馬鹿げていると、気づかないふりをしていた周りの眼差しを。武士はあえてそれを強く突きつけながら、血が垂れる裸足のまま歩み寄った。
「はっ、なんだよ今更驚いた顔しやがって。しかも何だ?今、とっても傷つきましたなんて顔を」
一歩近づいて息を荒らし、武士は痛みに眉を斜めに曲げつつ牽制するよう首を傾ける。すると途端、目をひん剥いては力強く、喉にこめた勢いのまま怒声を吐いた。
「まあ、悔しいよな、憎たらしいよなあ!でも、言っとくが、お前にこれを「理不尽だ」と嘆く資格はねえぞ!利用された事にかまけて、金の檻に閉じ込められていた事に気づかないまま、これほど人を傷つけ殺しまくってそれを楽しんでいたお前の一体どこに、同情の余地なんかあるわけだ!」
武士は散々彼によって痛めつけられた肌色の胸板を叩きながら言った。名前など呼ばない。呼ぶ価値など最初からないという様な目を向けて、「お前」なんかに痛めつけられた「人間」として傷つかれた矜持に対する怒りに駆られる。それは、ジョージの「汚れた」という言葉よりも、冷たい拒絶の言葉だった。
「ああ、本当に馬鹿は哀れだ。ほんっとどうしようでもねえ!ああ、お前の命っみたいに。なあ、クローンがよ」
武士は今まで込めていた「馬鹿」に対する、家畜を見るような面持ちで顔をあげ、唸り声をあげる。固まるジョージの胸ぐらを細長い腕で掴み、抵抗しないその隙につけ込んで、憤怒の形相で甲高く、口端に血を流しながら彼を罵倒した。
「何も知ろうとしないで、何も分かろうとしないで!全部を全部キティにそれを押し付けて!キティを苦しませて!お前がいなけりゃ、生まれてきさえしなけりゃ、キティだって俺だって、いや-ここにいるみんな、みんなみんなみんな、こんなに困る事なんてなかったのに!お前のせいだ、お前のせい!お前なんて生まれてこなければ良かったのに!」
その言葉になってジョージは思い出した。ペルーの眩い日差しの中、真っ黒な残照の中でポニーテールを靡かせて見下ろす翡翠の目が、武士の目と同じ、仄暗い沼の色と同じ色だったて事を。その時になってようやくジョージは後悔した。ああ、あの時どうして水槽に使ったままあんな風に哂ってしまったのだろう。
「そんな、お前らは、それを」
ジョージは唇を震わせていた。汗がどっと吹き出る感覚に更に背筋が凍りながらも、見つからない言葉を藻掻く様に捻り出そうとしていた。
「ち、違う……俺は、お、俺は……」
よもや、ジョージの抵抗の言葉なぞ武士には聞く耳さえ持たなかった。頭を上下に振りながら、半ば武士は懇願するように、眉を下げるか下げないか狭間で口を開く。
「お前なんか、今まで死んだ実験体と同じように、胎児のままカプセルの中でへその緒引きちぎられて、血まみれて死んでくれれば良かったのに。生きていたってみんなが迷惑するだけだったのに。何故生きてる!?なんで、お前が!お前なんかが!死ねば良かったのにこんな出来ないモノなんて死んでくれれば……!」
武士にはそれだけ言えるジョージの計り知れぬ程の知識と根拠を持っていた。どんなに抵抗しようにも、年月が突きつける「事実」。
「ガキ」と馬鹿にしていた者に現実をつきつけられた青年は恥辱にまみれる。鉛を飲み込んだ瞬間とは正にこの事を言うのだろうと、武士の一言一言を飲み込みながら、ジョージの蒼白となった頭によぎった。そうして、智慧のある少年は言う。ジョージの逃げ道を封じるように、一本ずつその道を絶ち、脚をもぐ言葉を容赦なく言い放ち。
「ああ、でも同時に分かっているさ。こんな事言った所で、どうせてめーは野良犬みてーに生きたい生きたいってキャンキャン喚くしかねーだろって事を。クローンだって、人間だ、分かり合えるはずだ。そうやって優しい言葉を投げかけてくれる奴らはきっと、思ってたよりお前の側から現れてくれるだろうよ。それがお前を利用するためなのか、本気なのかは知らねえし、知ったこっちゃねえけどな」
唇を荒々しく拭き、自らの腕を噛み締めて武士は目を床下に外らす。ジョージを見るよりか、まだ血と泥まみれの汚い床を見る方がまだマシだと言った気に。
「お前を見るたび、お前を思い出すたびに、いっつも胸がムカムカしていた。なんでかって思っていた。でも、今気付いた。やっぱりお前がギリギリの妥協点だったって事に」
その呟きと共に乱れた黒髪をかきかげ、「あー」っと気だるげに顎を垂らす。
「何かを認める事ってのは、てめーが思う様な、誰でも一緒に平等って甘ったるい思考じゃねえよ。理解するって時点で、誰かの何か嫌だと思う気分を、その気も知らずに無言の内に否定して潰してるんだ。これ程ウザってえモンがどこにある?そういう気持ちだって人間として必ずある当たり前の事なのに……!」
腕を振り払い、武士は口角泡立てた。
「俺は、お前を認めてしまったら、そこでこの世はお仕舞いだと思うから認めない。それはな、キティだって同じだよ。自分のためじゃねえ、世界のために、俺もアイツもお前を生きていいものと認めない。お前には世界を天秤にかけられる様な素質なんて欠片もねえ。せめて理解あるトモダチとかいう所に行って、そこで犬同士馴れ合って生きていればいい……!今までの様に、他の奴らと同じ様に……!」
なあ、だから、頼むから、
つらつらと語った後、途端に顔を歪ませた武士は指を突き差して叫んだ。
「もう俺たち人間には構わないでくれ。同じ空気を吸わないでくれ、同じ層で生きようとなんて思わないでくれ。俺とキティの事は、もうほっといてくれ!」
頭を振り乱して狂ったように叫んだ。血を吐きながらもその中で罵倒を貫く白い歯は、輝かしく瞬いた。
ジョージはその間、始終精一杯歯を食いしばり、その叫びを聞いていた。筋力が崩れ、溢れてしまう目端の何かを出さないように必死だった。けれど、やがて武士の腕を乱暴にふりほどき、逃れる様にそれを突き飛ばす。無言と共に、タキシードの脇から茶色い皮製のショルダーホルスターを覗かせ、そこから素早くギルデットを突きつけた。軽い鉄の素早い音が、ジョージの卓越された業を武士に突きつける。黄金に瞬く銃から仄暗い口が真っ直ぐ、憎悪に睨む武士の眉間に突きつけられる。
絶対、外しは、しない。
金髪を揺らして前髪を覆い、表情は見せないで。いつもの感情で誤魔化して、ジョージはただ「殺す」とだけ呟いた。
「はっ、そうやっていつもの思考停止でいくか。全く、オツムの足りねえなりそこないが」
けれど、武士は全くそれに動じる事はなかった。
「人形なんかに、俺たち人間が何を構う必要がある?」
それどころか、それは死をも超える人間としての「尊厳」を見せつける絶好の機会でさえに思えて、痛む腕をつかみながら武士は口角をあげるのだ。ジョージはゆっくりと、穴の空いた軽いトリガーにかちり、と細長く白い指を引っ掛ける。武士はその音と共に、堂々とすくと立ち上がる。互に短い沈黙の間、ジョージは武士の啖呵に対する答えを呟いた。
「死んで、しまえ」
それに武士は高らかに笑いながら最後に応えた。
「てめーが死にな!」
そして遂に、引き金が引かれた。が、しかし――、横の壁から凄まじい爆発が吹き荒れた事によって阻まれてしまったのだ。ギルデットの弾は結局、凄まじい爆音に弾かれ、武士の眉間を貫く事はなかった。部屋は揺れ、壁の破片と赤と黒の熱風が目瞑る二人に襲いかかった。
「うわああああ!」
「なんだあああああああああ!?」
武士は吹き荒れた爆風によって窓に体を打ち付けられ、そこで気絶し倒れてしまう。一方、向かいのジョージは、吹き飛ばされた勢いにのって低い体勢で前転飛びしながら破片を避けつつ、片膝をつけて怒り狂うように叫んだ。
「ああああああああ!?今度は何だああ!?」
激しく埃舞う穴空いた壁を睨みつければ、一つの破片が崩れカーペットの上に転がった寸時、その穴の向こうから埃にまぎれ黒影が覗く。ジョージは気付いた時にギルデットを二丁構えて撃ちつけた。
「誰だ、てめえええええええええええ!」
激しい咆哮の煙で更に視界が曇った。向こうの穴からも弾幕が貼られ、がら空きになっているジョージにまっすぐ狙って放たれる。歪む顔の頬に血線が走る。それに苛立ったジョージは荒々しく腕を振ってその隙を与えまいと、端による間際にギルデットを放った。そして、至近距離からライスシャワーの様に飛び交う弾幕から飛び下がって後転し、脚を広げ数回転しながら扉を開けて盾にするジョージと、ギルデットの銃弾に跳ね上がる壁の破片に圧され、銃口を向けられない黒影も、慣れない狭場での接近戦に膠着状態へと陥った。
すると、しばらくして穴から投げられる長い筒、煙の中から見える見慣れたその筒の無数の穴に、「しまった!」と、すかさずジョージはキルデット両手に手首で耳を覆った。
***
その頃、その騒ぎで会場の観客はパニックに陥っていた。
爆音と叫音の中で、男女がもつれ合い出口を探そうとてすし詰めになり、動けないまま喚き出す。その豪華な衣装も身の丈に合わない矮小さを晒し出し、大口を開けて騒いでいる眼下の哀れな輩を横目に、四階にいたウェッブは爆音のする方に連れたヨーナスら達を従えて走る。そして、左手のドアに顔を向けて銃を手にかける。金のテンプレートが示す数字は、「10407」だ。
「ヨーナス、突っ込むぞ!」
「はい!」
後ろでグロック18を両手に掲げた彼の返事と共に、ウェッブは一斉にドアを蹴り飛ばした。
「おらああああ!!」
飛び込んだ先の部屋には、黒影が中央に銃を構え、向かいの壁に張り付いて腰をぬかしているタキシード姿の男に銃口を向けている。
「きっさまああああっ!」
その影に向かって唸り声をあげたウェッブは、自身の体を武器にして体勢を低くして突っ込んだ。銃口を向けられるより早く突きつけた肘打ちによって潰される黒影のヘルメット。鈍音と同時に倒れる勢いにのって、黒ずくめの腕を背中に回し羽交い絞めにしながら動きを固める。がしかし、その間際ウェッブは目端に見た。向かいの壁には穴が空き、その中から他の敵がいた事を。
「ヨーナス!撃てーっ!」
「はいいいいい!」
黒ずくめを押さえながら這いつくばって叫ぶウェッブの背中を、穴から銃弾がかすめた。途端ヨーナスも歯を食いしばって、すかさずグロック18の咆哮を放ちウェッブの援護をする。やがて、扉を盾にし脇から突き出る仲間の加勢も手伝い、ウェッブの背中の上で再び凄まじい弾幕が始まった。
一方、向かいの廊下から走り寄った応援が部屋に固まる敵を挟み撃ちにせんと、隣の扉から攻めようとしたが、その「中」から放たれたショットガンによって仲間は胴を蜂の巣にされ、体を捻るように飛ばされる。硝子窓を突き破って中庭へと落ちていく男に、更に観客の悲鳴が湧いた。
ウェッブは声も聞こえぬ頭上の爆音の中、部屋の向かい、煙の向こうで尻餅をつくタキシードの男をきっと睨んだ。「敵」は自分たちが駆けつけてくるまでそいつを狙おうとしていた。と、言う事は――、
ウェッブは羽交い絞めする力をぎゅうっと込めながら、絞りきった声をあげる。
「ジョージイイイイイ!逃げろ!こいつらはお前を狙っているぞ!」
その途端、彼は硝煙の中揺らめきながらも立ち上がり、フラフラとおぼつかない足取りで窓に向かっていった。どうやらそのまま、窓から間近に迫るシャンデリアにつたって内会場に降りていくようだ。
「え、ちょ、おま、何やってんの馬鹿!」
片目を瞑りながら怒りの声をあげたウェッブの懸念通り、敵の銃口が窓へと向けたれた。硝子の割る音が鳴り響き、崩れ降ちるように割れ散ったガラス片と共に顔見えぬ彼は、両手を振り上げて装飾めいた窓の格子を飛び超える。
「ジョオジイイイイイイイ!」
内会場にこもっていた観客は、天井から飛び散らされた破片と白煙に驚き、天井を見上げる。すると、シャンデリアが鳴り響く音と共に今にも落ちそうなバランスで揺らめき、それにぶら下がる男の影を見えた事に、口に手をあて声を荒げた。
誰かの叫声と共に、シャンデリアも向かいの窓から放たれた敵の弾幕によって虹色の破片を撒き散らした。と、同時に黄金色のチェーンも割れ、影は「すっ」と、掴んだシャンデリアと共に会場の白テーブルと共に落ちてしまう。
「い、いやああああああ!」
観客たちは迫る大きな影から離れるよう円状に逃げ惑う。割る音が何十にも重なった衝撃と共に、机のディナーは乱れ散り、白のテーブルクロスが跳ね上った。一方、影は砕けた机上のシャンデリアを掴んだまま、呻き声をあげ、テーブルクロスにもたれるように崩れ落ちる。
「おーい!大丈夫か!」
ウェッブは隣の窓を開け放し、その黒影を一瞥しながら、彼を狙う敵を脇からM10を放って阻んでいた。天井で繰り広げられる弾幕に伏せる黒影は、やがて埃舞う中ゆっくりと再び立ち上がり、硝煙の中で蠢く観客とテーブルを避けつつフラフラと奥へ走っていく。
その跡に続く敵の弾幕。それに観客は悲鳴をあげて一斉に脇に逸れる。
***
「せ、世界遺産になんて事を……酷い事になったわね……」
その惨状を、三階B塔の踊り場の窓からガットの血に塗れたキティが見下ろす。ガラスを三脚で突き破り、更によく見えんと片足をかけ、弾幕の舞台を片手掲げて見据えた。戦っている者以外、皆が伏せて縮こまっている状況を見渡しながら、一人身を乗り出しカメラを構えて煙の中を撮り続ける。そうしてズームした先に、一人だけ内会場を突っ切り、千鳥足のように奥へと逃げていくタキシード姿の男を捉えた。硝煙によって顔はよく見えなかったが、その細長いシルエット、そして「敵」に狙われている相手となれば、ジョージである事には間違いないだろうと、キティは悟る。
「そうだ。今、ジョージには誰も手をつけられていないんだ……」
キティはこの時、足場を乱す弾幕に介せず、とある一つの思惑に心囚われていた。
そうだった。ジョージを追う敵も、それを守ろうとするウェッブ達も、互いの弾幕に追いやられしまい、逆にジョージは今、「一人」になってしまっている。武器を持たない自分が彼らを差し置いてジョージを狙う時は今この時なのかもしれない、と、キティは思ったのだ。
すると、その思いを促すように胸元でノイズ音が鳴った。
「キティー!私、フロランスよー。ねえねえ、今、どうなっちゃてんのお?コレ」
彼女の無事を悟ったキティは無線を掴んで叫んだ。
「良かったフロランス!貴女無事だったのね!」
「うん、もう会場は酷い騒ぎだったからさ、とりあえず城から飛んで逃げて、シテのてけとーな城壁塔から城を見下ろしてる所よん。こっから見てもすごいわよー。そっちの鉄火場」
相棒フロランスは三角塔の天辺に手をつき、長い金髪と純白の翼を夜風に靡かせながら、爆音と発光に騒がしいコムタル城を遠くに見る。その情景を思い浮かべた時、キティに電流が奔った。衝動的だという自覚も重なりつつ、激しい弾幕の中でキティの応える声は、不思議と落ち着いていた。
「そうか……フロランス、今がチャンスかもしれないわよ」
「へ?」
首をこくんと傾けるフロランスに、向かいのキティは俯いて言った。
「このまま作戦実行よ、フロランス。今からそっから飛んで、内会場の奥で群衆から離れているタキシードの男……ジョージをそのままかっさらって頂戴」
「えええ!」
大声をあげて応えるその声色は「驚き」ではなく、「歓喜」だ。無線持つ手を震わせ、円満の笑みでフロランスは悲鳴にも似た声をあげた。
「いいの!?」
「いい!」
途端、キティの無線から「ヒャッホオオオオオオ!!」という雄叫びが響いた。フロランスは、滑るように三角塔に沿って走って、勢いよく飛び降りる。カルカッソンヌの夜の田園風景を背景に、下から吹き上げる風に乗って白い翼が開いて彼女の体が宙に浮き、夜空に浮く。その浮遊にのって翼は生きているように羽ばたき、体を反らす彼女をぐんと前へと押し出した。
「いっけえええええ!」
フロメリアはその勢いにのって腕を振り上げ空を飛ぶ。
「イッヤホオオオオ!!」
喧騒の道中、コムタル城へと白いワンピースがめくり、乳房や程よい肉付きの素足がギリギリのラインまでさらけ出されたのも構わず、「天使」はシテの城壁へ飛び降り、その間を縫うようにして飛んだ。高度を下げた途端、目の前に迫る三角塔を「おっとお!」と楽しそうに声をあげて一回転して避け、赤レンガの居城屋根をつたって走り、また飛び上がる。その間際、少しずつ右にそれ、再び回転したその体勢からトンネルを押し退く様に通り抜けた。その時に、翼がトンネルにひっかかりバランスを崩して地面に脚を擦らしてしまうが、それをもフロランスは笑顔でかわし、それをスケートのごとく地面の上で回転しながらバランスを保ち、絶妙なタイミングでトンネルを飛び出る。
「すげえ……」
その技を、会場から逃げ出した観客たちが城の脇から口々に指を差し、「天使」だ、「天使」だと声をあげて驚いていた。それを風によって乱れ瞬く金髪の隙間から見返り、天使はふふっと美しい笑顔で応え、目前に立ち聳える三角塔の天辺に脚をのせ、今度こそ満身の力を込めて飛び上がる。金髪が宙に浮いて視界が広くなったその先に、ついに煙の中から火柱が吹き上がって瞬くコムタル城の中庭が間近に見えた。
***
「内会場へ向かえ!」
堀を挟んだ城壁の中に構えていた警備隊が、ようやく騒動に気付いて駆けつける。そぞろにFA‐MASを持って会場に向かおうとしていたがしかし、、堀の間に掛けられた木製の回廊の奥からぬっと、ヒールの音を鳴らし緑のドレスを纏う女が、腕を組んでは現れたのだ。
「あらあ、邪魔してもらっちゃあ困るのよ。せっかちな殿方」
硝煙を背景に、女は分厚く塗った口紅を妖艶に。スリットの裂け目に白い指を這いながら、黒い紐下着が見える所まで脚を曝け出し、太腿につけたフリルのホルスターから、尖ったナイフをそっと掴む。
「そこをどけ、女!」
ただ観客だと思っていた警備隊はそのまま突っ込もうと走ったが、その寸時、女が軽く腕を振った瞬間に、男は鋭いナイフによって首を貫かれた衝動によってその場で倒れる。驚くその後ろにも、次々とナイフが投げられ倒される。両足を広げ、舞踏にも似た動作で始まる華麗な殺陣によって、構える隙も無い男たちは、次々と堀の中へ落ちていった。しかし、遂に城壁より放たれたFA‐MASの弾幕によって、ネイルで彩られた女の手からナイフが砕け散る。それから舌打ちと共に脚を広げ、回転してナイフを投げつつ避けた女は壁を背に片膝をつけながらにやりと笑った。
「だからあ、ニキータがジョージとしっぽり終わるまで待っててば、ってねえ」
すると、もう一つのホルスターから重い鉄の音と共に両手に取り出したのは、M79グレネードランチャー。再び回廊を渡らんとする警備隊のその足元に勢い良く構え放ち、ポンッとM79特有のゴムまりが跳ねる音と同時に、木製の回廊が警備隊と混ざって堀の中へと飛び散った。
***
同時刻だった。
空を見上げる女の甲高い悲鳴と共に、ついにフロランスは、コムタル城中庭に面するパラスの屋根の上へ転がるように着地した。しかし、そこで息つく間も無く転がった間際に立ち上がり、遂にその頂上から中庭の突っ切る様に飛び上がり、硝煙の中へ飛ぶ。途中、さっきまでその下で歌っていたもみの木の中に入り込み通り過ぎようとしていたが、ワンピースの裾が木の枝に引っかかり、ビリビリと糸を引き破れてそれを阻む。それに「きゃあっ」と声を上げて股間を抑えるフロランスに、翼は今一度大きく羽ばたきながら宙へ浮き、端から端へとふらつきながらもそのまま内会場へとフロランスを導いた。
そして、けたたましいガラス音が、弾幕の銃音をもかき消す程に鳴り響く。それに観客が、キティが、ウェッブが、そしてグレネードランチャーを掲げる新緑ドレスの女が一斉に、内会場に面した硝子窓を蹴り飛ばし、破片散らして突っ込む金髪の美女を見た。
「な……」
唖然と口を開いて振り向く女を、硝子を間にフロランスが垣間見る。通り過ぎるその間際に、フロランスが彼女に向かって目配せた事に、女はぞわっと開いた背中を震わせた。
「なに、あれ」
フロランスは弾幕と悲鳴の中を突進し、内会場を飛び回った。天井で張られた弾幕を交わす様、態勢を低くしてぐ幾つもの白テーブルの中へ潜り込んでは床の上を滑り、観客のドレスとテーブルクロスの裾を跳ね上がらせる。そして、吹き抜けになった会場の高度を使って大きく円を描くように空中を回り体勢を整えた。めまぐるしく回る視界の中に、皆が唖然として見る観客に対し、好奇に細める紫色の瞳は遂に、奥の壇上に手をついている黒ずくめの「相手」を見つけたのである。
「いったああああああ!!!」
甲高い声と共に口角をあげたフロランスは、天井からテーブルへと着地する。。途端、目の前で固まっているその相手に向かい、目を合わせば、止まらぬ速さで回転を繰り返す。そして彼の真上に飛び、振り上げたかかとを、落下の勢いと共に振り下げたのだ。
鳴り響く鈍い音が、彼女のかかと蹴りの直撃した事を周囲へと知らしめた。
「うっわ!」
彼女に踏み潰されるような形で、男はあっけなく倒れた。それにフロランスはその上に伸し掛る形で、彼の後頭部を肘撃ちでをとどめをさし、あっけなくもたげたその頭に手持ちの布袋をかぶせた。突然の荒技に呆れた全員の中で、それらはあっという間に行われた。そして、
「キティー!捕まえたよー!」
烟る硝煙の中で、うなだれる彼の腰に手を回し抱えるフロランスは、細長い腕をぴんとのばして手を振った。一斉の視線が、三階B塔踊り場のキティに注がれる。
「ね、猫だあ!猫が忍び込んでたぞー!」
それによって、三階の廊下に侵入者と戦っていたタキシードの男たちが、端の踊り場にいるキティの存在に気付き、一斉に銃を構える。
「うわ冗談じゃない!こう何度も撃たれてたまるかよっ!」
向かってきた弾幕を目端に睨むキティは、素早くアンブレラを開き廊下を横切って走った。そうして追っ手から避けるため手すりの上に乗り、滑るように階段を飛び降りていく。
「てな訳で、みんな残念でしたー!ジョージは私たちが貰いまーす!じゃあっ、ねー!」
突然の天使の乱入に呆然としている目前で、彼女は純白の翼と共に腕をぶんと振り、高らかに笑いながら奥へと走り去った。そしてキティが一階に至った丁度に、会場の裏壁から男の両足と両腕をそれぞれの手で抱えてては向かい合い、思わず笑顔で頷きあう。
「やったわね!」
「やったわ!でも武士君の方は大丈夫かな!」
「どうせ、今頃このどさくさに紛れてとっくに逃げてるわよ!」
「えへえ、それもそうねぇ!」
すべての喧騒の端に立つ二人は、同時に笑って同時に側の壁を蹴り飛ばし、一気に地下道へと、数多の追っ手から逃げおおせたのだった。
5、痛み分け
喧騒がようやく落ち着き、煙が脇にそれたコムタル城。それをライトで真っ白に照らすM14のボバリング音が煩わしい。
ライトによって黒光りする眉の皮膚をくねらせたウェッブは、厚い唇を潰す程に噛み締め、未だ喧騒に沸く中庭を四階廊下の窓からぐるりと見渡した。
「くっそお……。よりによって、あのべっぴんさんが猫の仲間だったっとはなあ……!」
ウェッブの唸り声、畏れおののく眼下のタキシードの仲間たちの向こうには、よもや扉の原型さも留めぬ黒焦げな部屋が広がる。それに更にぎりと顎の皮膚に波を作った事に、仲間たちは後ずさった。
無理もない事である。この立て続けに続いた事件を対応しきれなかった上、結果的に侵入者をも取り逃がしてしまった事に、ウェッブは懸念の意を醸し出していたのだ。しかしそれでも、それよりも、と、辺りで喚き散る無線でのやり取りの中、ウェッブは久しぶりに感じた悔しさに拳を震わせ、筋肉の束となった腕を振って叫んだ。
「おい!天使に捕まったジョージは見つけられたか!?何としてでも探せ!何とか取り戻せよ、なあ、おい!」
それに脇にいた男が無線片手に走り寄り、ウェッブを遠慮がちに見上げて言った。
「ウェッブ様、大変申し上げにくい事ですが、女二人はジョージを抱えたまま硝煙の中に紛れ逃げてしまいました。会場の中も外も随時捜索中ですが、報告によるとこの暗さと広さでは少々困難で……」
ああ、案の定だ、と、いうように顔をあげたウェッブは口を開き、やがて罵声を吐いた勢いで窓の縁を叩き潰した。崩れる石壁の破片と土埃が舞い上がる。
「くっそ!くっそ!くっそ!これじゃあ俺たちの完敗じゃねえか!!なんでこんな事になった!どうして!みんながいたのに!俺がいたのに!どうして、どうして!」
破片を握り締めたまま頭を抱え、白い眼光を震わせる様は、「最強」と呼ばれた男の微かな脆さを表した。その様子を見た男達は慰める言葉も見つからず眉を下げるしか出来ない。が、しかしさっきの男が再び鳴った無線の音に目を覚まし、続く報告の内容に更に目を見開かせる。
「ウェッブ様。その……あの……!」
無線から知った状況に戸惑う男から、それを奪い取ったウェッブは、顔の中心に皺を寄せ集める顔でそれに耳をつけた。
「なんだ」
「あ、ウェッブ殿!」
それはヨーナスの声だった。その聞きなれた声がやがて知らしめた事実、それは「ジョージはここにいる」という事だった。M14が当てる光と同時にウェッブの頭の中も真っ白となった。
「は……どういう事だ……?」
ボバリングの音がより一層大きくなった。
「ジョージはさっき二人に連れ去れれたんじゃ……」
「ですから!ジョージさんは今、私の目の下にいるんですよ、部屋は20401号室です!どうやら隣室から侵入者に襲われたらしく、さっきまでそれとずっと戦っていたようなんですよ!」
無数の銃弾の穴が生々しい壁を向かいに立ち尽くしたまま、ヨーナスは叫んだ。その横には粉々になって割れた窓が迫る。そこから堀の中へと侵入者は逃げていってしまった様である。
「おい、それは本当なのか……それに、ジョージは……一体なんて……」
「そ、それが……」
その問いにヨーナスは困惑気味に声を震わせる。彼の眼下には今、四肢を伸ばしたまま壁に腰まで寄りかかり、首項垂れ金髪を垂らしている「ジョージ」がいた。
「駄目なんです!傷一つないはずなのですが、何度呼びかけてみてもぴくりとも動かず、私の声にもまるで応じません!どうしたんでしょう……こんなジョージさん、今まで見たこと無い……!」
「本当に、どういう事なんだよおい……」
ジョージの奇妙な態度も相重なり、ウェッブが乾いた声をあげてテンプレートが傾いてる背後の部屋をもう一度見据える。その惨劇の跡中で思い浮かぶ、細長い脚を持った男のふらついた足取り。結局顔もよく見えないまま、「天使」に抱えられた連れ去られたあの細長い黒い肢体。もし、ヨーナスの報告が本当でならば―あれは、一体。
「さっきまで俺たちが必死になって守っていたタキシードの男は……天使に連れ去られたあいつは、「誰」だったんだあ?」
呆然と無線を力無く持つウェッブに、彼と同じタキシード姿の群衆は一斉にざわめき互いの顔を伺う。すると――、
「ウェッブ様!」
突然、脇の階段から駆け上がった誰かがウェッブの名を泣き叫んだ。それは中庭での将棋倒しと爆風と煙に、漆黒のドレスと化粧を乱されてしまったミナだった。絡まった黒髪をかきあげながら、はだけた胸元を抑える形で拳を握り締めている。
「今度は何だあ!?」
と、思わず苛立ったまま無線を振り上げたウェッブに、ミナは顔をあげて涙を散らしそれより大きな声を荒げた。
「ウェッブ様あ……!さっきからいないんです!いないんです!!」
「だから、誰が!?」
そして、その後に続いたミナの言葉に、一斉はそしてウェッブはさっき掠めた安堵よりも更に大きな「衝撃」に、身を打ち震わせる事になってしまった。
***
キティとフロランスは、シテを取り囲む草原を風に逆らう様に横切っていた。やがて上下に揺らされた背中に乗る男が紙袋の中から呻き声を上げた事に気付き、フロランスは横流しに彼を見上げる。
「痛くしてごめんねえジョルジュ。でももうちょっと待ってね!もうすぐ船に乗り込むからさあ!」
笑って前を向いたその先には、生い茂る漆黒の中から彼女が待つ船、修理が完成しその部分にだけ銀色の光沢を放つ「K―7」が、木立の音と共にその巨大な機体の片鱗をのぞかせた。それに歓声をあげるフロランスにその先に走るキティも姦計の笑みを浮かべる。
幸い、暗闇に紛れ追っ手が来なかった事もあり、そのまま2人はK-7に至り、左翼の入口へと下駄箱をつたって中に入る事が出来た。扉のすぐ向かいにある真っ黒な部屋を開き、そこからフロランスは誘拐した男を放り投げる。そして、
「K-7!飛んで!ここよりもっと遠くへ、シテが見えなくなるまで!」
と、アンブレラを振って声高に言ったキティの声をかき消す様、入口の横に張り付くレシプロが回り木立を波立たせる。壮大なフランスの草原は滑走路として最適だった。ぐるりと向きを変えたK-7は夜風をかき乱しながらゆっくりと進みゆく。その後は、さっきまでの喧騒が嘘の様に事が進んだ。
浮いた体によって機体あがった事を知った途端、一気に視界が広がり、みるみるシテの全貌が明らかになっていくのが分かった。そうして、開きっぱなしの扉から吹き荒れる風によって栗色の髪を乱されながら、キティはカメラを構え、暗闇に白いスポットで照らされながら噴煙湧き出るシテを撮った。その心地よい紙を切った様なシャッター音に、キティはいよいよ脱力してもたれかかり、そして緊張の糸がほどけた不抜けた声で呟いた。
「作戦は、終わった」
フロランスの豪快な雄叫びもまたそれを悟らせた。間もおかず手をつなぎ合い、抱きしめ合って互いの健闘を労う二人は、互の胸の柔らかさににやりと背中ごしにほくそ笑む。
「終わったわ……!終わったわよ、武士!」
やがて、中にいるであろう彼を探そうと、キティはフロランスを抱いたまま立ち上がり、暗闇の機首へと廊下をふらつきながら歩いた。と、閉じ込められていた男が、脚で閉められていた扉を叩いている事に気づいたフロランスは、慌てて部屋に寄って扉を開けた。開かれた勢いにのって、男が廊下に転がり這い蹲る。
視界は覆われど自由になった手足で辺りの現状を伺おうと、呻き声をあげながらあちこちに縋り付く様子をフロランスは哀れと思いつつその上に乗っかり、肉付きの良い両足で蠢く黒い胴を絞める。
「まあ、せめて布袋だけは外してあげるわねぇ、ジョルジュ」
と、その中から伺える美しい顔立ちを堪能出来る事を期待しながら、一気に袋を掴んで引き上げた。夜風が心地よく吹き抜ける開きっぱなし機内の中、水中から引き上がった様に息を吐きだし、呼吸を整える口端に血を流す彼の姿は――、
「えっ」
思わずその姿にフロランスは声を裏返した。
廊下から扉の外へと突き出されたその顔は、月よりも更に青白い荒削りで、瞼と頬に影を差していた。目端の微かな皺と共に凹んだ瞼からは、クマに覆われた灰色の瞳が虚ろに金髪の美女を見、星明かりによって光沢を波打つ短髪は、「銀色」だ。
紫色の瞳は瞳孔を開き、その差し迫った「事実」に、考えるよりもまず絶叫でもって理解した。それに対し、武士を探し続けたキティは訝しげに戻って目をこらす。
「なに、一体なんなのよって、いっやああああああああああ!!」
キティもそれに気付き、両手で口を覆い恐れおののいた。二人の相重なる絶叫に、「彼」は毛のない眉を顰め「うるさい……」と、薄い唇を微かに開き低い声をあげた。
***
コムタル城の中で唯一、何の攻撃も受けなかった本会場も荒れに荒れた跡を残し、G9メンバーがうずくまっていた。
テラスにいたアントワーヌは涙で霞む視界から捉える、眼下に広がった世界遺産の成れの果てに絶望し、両手で顔を覆いながら嗚咽をあげている。それをガブリエールは後ろか同じく膝を折って抱きしめる。慰さめている回りをボディガードが取り囲み、その中から彼は忌々しく、辺りを回るヘリコプターを睨んでいた。一方、他のメンバーもすっぽりと、黒ずくめの彼らに覆われるような形で点々と散らばってしゃがみ、沈黙に身を震わせている。その中で唯一立ってその状況を見据えていたメンバーは、がくがくと膝を震わせながらもクロスにしがみついているジェレミー首相と、その横で腕を組んで仁王立ちするギルモア大統領位であった。
「大変な事になりましたな。しかし、皆さん無事で良かったです」
と、その後ろ。分厚い蔦飾りの扉にをつけ、組んだ腕の片手に無線を持ちながら構えるはマルコム大将だ。さっきまでの騒動にも全く意に介さず、無線から流れる雑音を実に楽しそうに、目を細めながら首をあげてその音色に浸っている。その慇懃な態度に「もう少し慎みたまえ」と、呟き、ギルモア大統領が見返った。
「ワイアット大将。こんな事になった原因に心当たりはあるか」
「ええ、あります」
そして、彼の問いに素早く、マルコムは微笑んで言った。
「侵入者はどうやらこのパーティーに忍び込み、どさくさにジョージを攫おうとしていたようです。大物だから、世界遺産だからと「誰も近寄れないだろう」と思っていた、我らの自信を逆手にとろうとしたわけですな。しかし、その前にウェッブコミシュマーの機転が効いて、犯人を逃しこそはしましたが、何とかそれは阻められました。ジョージは、無事です。ちゃんとここにいます」
「そうか、ジョージは大丈夫だったか……」
床に指を差し、強調するマルコムの物言いに、大きく安堵のため息をついたギルモア、ジェレミー両者は顔を向かい合わせ微かに口角をあげた。
「じゃあ、さっきの……ジョージを連れ去ったように見えたあの「天使」は一体何だったんだ……?あの娘は…
…侵入者とは違うのか?」
「はい。どうやら、侵入者とは別に、あの猫とタッグを組み、ジョージを狙っていた一味のようです。ウェッブと侵入者の騒動のどさくさに紛れ、漁夫の利を得ようとしていたようですが、まあ所詮は女共の浅知恵。硝煙によって別の観客をジョージと勘違いして連れ去ってしまったようですなあ。まあ、それに気づけばいづれ、巻き込まれたその哀れな男も其処らへんかに置いてありましょう」
鼻で笑って答えるマルコムに、すべての状況を察した両者は、これからどうしようと彼の間でぶつくさ言葉を交わし合う。だがしかし、その間に割り込んだ黒い影が、
「いや、そんな単純な話じゃねえ!」
と、拳を振り回し、彼らの前に立ったのだ。それは、切迫した面持ちで、今にも噛み付く程に歯を剥き出しにして迫るウェッブだ。「なんだウェッブ」と、脇から眉を潜めたマルコムを、ウェッブは片手で堅い胸板を押し飛ばし、扉に弾かせた。突然の、しかも大将に対する荒業に、両者がひっと声をあげる時にウェッブは彼らに顔向けて叫ぶ。
「ジョージの代わりに連れ去られたその男は……アーサーだ!あの、アーサー・ベリャーエフ議員だったんだぞ!」
ウェッブによって初めて告げられたその名に、両者は、そして中の全員がざわついた。
「何、アーサー議員だと」
一方、痛む胸を押さえながら淡々として言った脇のマルコムに、ウェッブはその声が逆鱗に触れた様に突然、目をひん剥き乱暴にその胸倉を掴んだ。蝶ネクタイの紐を引っ張るように寄せて、今宵一番の恨みがましい顔でマルコムと鼻突き合わせる。
「おい!何しようとしてる!」
それは、メンバー二人が止める前に素早く行われた。歯を食いしばるウェッブと、唇を閉じ、無表情のままそれを見下ろすマルコムは、卵のような互いの濁った白目を殺意に光らせた。
「てめえ、さっきからわざとらしく驚いてんじゃねえよ……!お前、本当はとっくに知ってたんだろ?!10407に篭っていた男は、ジョージじゃなくてアーサーだった事をすでに!」
「な、何を言ってるんだね君は……」
「うるせえ黙って聞いてろ!!」
それはよもや、行き場の無い怒りをジェレミー首相に八つ当たりしただけの咆哮だった。ひいっと眼光に声をあげる首相の隣で、ギルモア大統領も唖然と口を開いたまま何も出来ない。ウェッブは更に、筋肉が護るその屈強な首を締め付けながら呻くような声をあげて続ける。
「ジョージが襲われた場所は20401号室だったんだ。そこに俺たちが逃した侵入者は確かにいたさ。でも、考えるとそれっておかしいよなあ?じゃあ、アーサーを狙い俺たちにそれを阻まれた10407号室の「あいつら」は一体何だったんだ!?」
「さあ」
瞼を伏せるマルコムの仕草に、ウェッブが遂に、
「それが、「お前ら」だったんだろがっ!」
と、があんっとその背中を金を蔦飾りに乱暴に押し付けながら叫んだのだ。
「お前はアーサーを疎んでいた!アーサーがいる限り、お前の「ムンダネウム壊滅計画」は永遠に実現出来ない事を知っていた!だから議会が始まる前の、このパーティーの間、テロを偽ったアーサーの暗殺計画を謀ろうとしてたんだ!騒動のどさくさに紛れて、漁夫の利を得ようとしていたのはお前らの方だったんだよ! ジョージとアーサーが二人きりで待ち合わせする事を前もって知って、それを言い事に、ガットに嘘の部屋番号でも教えてジョージを差し置き、あの部屋で一人きりで待っているアーサーを殺せと指示したのは「お前」だろ、なあ!」
それは叫ぶウェッブでさえ、頭の角に微かに自覚する程、口に出すのも憚る「内部裏切り計画」の全貌だった。そこに一斉が更に混乱し、動揺の波面が揺らぐ間、その渦中のマルコムはすっとその推理を面白そうに目を細めた。
「何を笑ってやがる貴様あ!これが本当でないと、このメチャクチャに絡まった事件のすべての辻褄が合わないんだよ!お前って奴は本当に、本当になんて野郎なんだ!クッソ!」
「別にその荒唐無稽さを哂った訳ではないぞ。実になるほどとは思ったさ。」
正義感を拳に込めて首を絞めるウェッブに対し、その悔恨の籠った眉の歪みも含め、マルコムはなんと初々しい者も見たような穏やかな面持ちでそれを見上げていた。
「だがしかし、証拠が無いな」
なぜなら、ガットはもう死んでいるもの。
それを都合良しと嗤うその口角の揺らめきに、遂にウェッブは白目を向いて咆哮をあげた。
「きっさまあああああああ!」
悲鳴と共に脇にそれて避けたメンバーの間に、ウェッブはマルコムごと突っ込んで、汚れたテーブルの上に彼を押し倒す。にやけた顔のままそのままに従う黒豹に、更なる一撃を加えんと大熊は肩腕を振り上げた。
「もう許さねえええ!」
「やめろ!ウェッブ!これは大統領命令だ!」
役人として絶対の言葉も介さぬ程の怒りの衝動を腕に込め、ウェッブは振り下ろす。目の前で嗤うその顔が己の太い拳によってどんな風に歪んでしまうのかを想像する刹那に酔いしれながらただ――、が、しかし、その腕を誰かに掴まれた反動によって、マルコムの上に乗っかっていたウェッブの身体が大きく揺らいだのである。
「な……!」
それに一瞬目を開かせど、怒りの勢いでそのまま弾こうとしたウェッブの腕の振るいを、更にそれを止める手がぎゅっと掴んで固める。大熊と評されるウェッブの、人間離れした勢いにも動じないその力を知り、遂にウェッブは腕を掲げられたまま目端に後ろを向いた。
そこには、ウェッブの手首を握り締める黒袖の右腕が、ウェッブの腕に沿ってぴんと張り出ていた。ぎりぎりとウェッブの反抗にその短い腕に宿る、ありったけの逞しい筋肉で袖をパンパンに膨らませた主はウェッブの後ろで丸めがねを光らせ、その顔に影を成す。その小柄な、老人の正体は――、
「た、田中来栖……」
反動と共に、瞳を震わせるウェッブの瞳がその雄姿を捉えた。先ほどかろうじて立っていたギルモア、ジェレミー首相が腰を抜かしている一方、その中央に堂々立ちって雄姿を魅せる田中来栖は、今一度ぎゅうっと、ウェッブの手首の骨と骨の間に指を捩じ込んで、それを諌める。
「ねえ、そこらへんにしといた方が、いいんじゃない」
野太い腕の力による牽制に対し、田中の声はまるで業務時のそれと同じだった。それが尚更彼の大胆かつ、冷静的な「首相としての器」を表す。多くを語らない田中の言葉に、手首の微かな痛みに震わせるウェッブの頭は、その深い意味合いを理解した。ここは各国の代表が集まる所、ここでアメリカ人同士が内部の揉め事で喧騒してしまっては、大統領の恥さらしとなってしまう。
「ねえ……?」
やがて、俯いた彼の顔を見ながら、ふっと緩めた田中の腕の力によってウェッブはそれを振り払い、そのまま身体をゆっくりと退いた。
「いいこだね」
戦える男として恥をかかせまいと自分から力を緩めてくれた田中の、その細長い瞼からのぞく黒き眼の気遣いにいたたまれなくなり、ウェッブはそのまま立ち尽くす。その間際、ギルモア大統領がせめての面子を保とうと必死に手を掲げた。
「で、出て行け!!お前はとにかくここから出て行け!いいから、その侵入者の素性を掴んでいけ!早く!」
その叫びに「言われなくとも」といった面持ちで一瞥すると、そのまま何も聞かず、何も答えず部屋からウェッブは逃げ去ってしまった。そうして、静まった騒動に安堵する観客の視線は、一斉に中央に立つ田中首相へと向けられる。その小柄ながらも倍もある大男を鎮めた出で立ちは、その腹の出た様相も短い肢体さえも逞しく、見えた彼らが羨望の眼差しへと意識を変える。その一方、それを最初から分かっていた様に、テーブルの上で目を伏せて笑っていたマルコムは蝶ネクタイを整えながらもそりと起き上がった。
「助かりました」
それは実に白々しく。すれ違いざまにマルコムは前を向いたまま礼を言う。それに田中が、
「いんや別に、君を助けたつもりは無いよ」
と、眼鏡の奥から瞳孔を開いた目でうっすら笑って答えた事に、いよいよマルコムは肩を上下しながら息を吐くように嗤う。
「いいえ、あのままでしたら…「相撃ち」になる所だったので」
そう言ってポケットに手を突っ込み、広い肩幅をあげたままマルコムは、ウェッブの後へと出て行き、田中はそれに目を伏せて「ふうん」と鼻を鳴らし悠々と窓へと歩き出す。その短く、淡々としたやりとりに面し、はるか遠い次元を感じ取った細面の二人は、揃って首だけを動かし、彼らを見守る事でしか値しなかった。
***
K―7は雲の中に入り、視界が一面の霧に覆われ冷気が入り込む。冷えた廊下の端に、再び首元を突かれてのびているアーサーの手前、二人の女が阿鼻叫喚に互いの胸倉をつかみ合い、機体の揺れに沿って身体を左右に揺らしていた。
「ちょっとお!どういう事よおキティ!誰なのこのおっさん!?あんたがジョージだっていうから捕まえたのに!何をどうこうしたらこんな勘違いなんて起こすのよおおおお!」
「それはこっちの台詞だ馬鹿天使ィィィ!大体頭まで蹴り飛ばしておいて、そこで他人だって気づかなかったわけえ!?幾ら体格が似てるからって、こんな間違い犯す馬鹿いるかあ!頭に輪っかがあんのは伊達じゃないってか、ああ!?」
「なんですって!?いたってその通りよ!」
「うるさい!もーっ、武士もさっきから見つからないし、この先どうすりゃいいってのよおおおお!!」
「あんた、さっきからそれしか言ってないわね!」
互に押し倒し、その勢いで痛めつけんと意気込むが、互の胸の膨らみが邪魔して不毛な喧嘩が続く。と、その喧騒の中、両腕をのばしたままのアーサーの手の先に、転がった無線が音を鳴らした。二人は寸時にそっちに顔を向け、よもや武士からの連絡だと思ったキティは素早くそれを受け取り、扉の脇に身体を寄せて口につける。フロランスも開いたドアから外へ滑り落ちそうなアーサーを抱えたまま、キティの様子に目を凝らす。
「武士、武士なの!?」
歓喜と困惑に震わせたキティの声に対し、無線の向こうより応じたのは、想像していた少年の低い声では無かった。
「そうかお前が、武士の仲間か」
機体の冷気がその声の冷徹さを助長し、キティの心臓を身体を冷やし鉛に変える。それは低いけれども、確かに女の声だった。それに震える翡翠の瞳は小刻みに、銀髪を持ったタキシードの背中を映し出した。
「まさか、あんたは……」
「ああ、武士は私たちが預かっている。ジョージとの決戦の間、こいつが気絶している所を我々が確保した」
「は、はあ!?」
向こうで水音を立てながら「彼女」はキティに、まずその様に牽制した。
「こいつが邪魔したお陰で私たちの作戦は失敗し、ジョージを捕まえる事が出来なかった。その責任はこれからきちんと果たしてもらおうと思う。勿論、お前たちにもな」
それと共に聞こえる、布すれの音と微かに反響して響く、聞きなれた少年の呻き声。それに、キティはっと汗を散らす。そして、それは徐々に怒りへと意識が流れ、無線を握り締めたまま声を荒げた。
「冗談じゃねー!それはこっちの台詞だろ!武士にまで手を出したら責任どころかお前ら全員を逆にとっちめてやるわよ!この人殺しが!」
「ほお、よほど自分の立場を知らないと見える。その人殺しに人質を取られているお前が、私達に強気にかかれるとでも思っているのか」
口角泡立てるキティに対し、淡々に応えたその声によって、再びキティのしんと冷たくなった。
「そんな」
「ともかく、武士を返して欲しければ私達の要求に応じろ」
そして、その場で一旦置いた女、ニキータは言葉を続けた。
「この先、お前たちどこかに着地して逃げる事は決して許さない。そのまま、私達の指示する所まで飛び続けていろ。その先で、お前たちには我らがリーダーに会ってもらう。そして、武士の身柄と交換に、お前が持っているゲオルク・ライヒートの写真を彼女に渡せ。それが条件だ。」
「っ、お前ら……!」
キティは思わず胸元に隠していた写真を握りつぶし、動揺から崩れ落ちる身体を保とうとしていた。無線の向こうの相手、そして彼らは、ゲオルク・ライヒートの事を知っていた。それとジョージとの忌まわしき関係、そして、その唯一の写真を自分が持っている事を知っていた。
コイツ、只者ではない――、それに気づいたのキティ荒い息に察したか、向かいの女は更に低く諭すように言う。
「わかったな。必ず、指示に従えよ。そうすればリーダーもそれなりに丁重にお前らを扱うだろう。だから、その写真は大事にとっておいておけ」
「アンタたち一体何者なの!?その、リーダーってのは一体……誰なの!?」
「マリア・ブリューメル」
無線の落ちる音が響いた。それが理解の合図と見て、女はやがて重々しく呟く。
「ああ、そうだ。私達があの忌まわしきムンダネウムから、ジョージを引き剥がしたマフィアの残党だ。そして我らがリーダー……マリア・ブリューメル様は、ゲオルク・ライヒートが恋焦がれたポーランドの少女、その人だ。つまり、ジョージの……母親にあたる御方」
ああ、そうだったんだ。
唇だけを動かして、キティは答えた。これですべての合点がいったのだった。何故彼らが自分達と同じようにジョージを狙ったのか。そして何故、自身の写真を欲していたのか。それは父と違う、身が震える程愛おしく、そして身が凍る程恐ろしい母の想いからなのだ、と。キティの胸の内が青い2つの虹彩の残照によって撃ち抜かれ、その勢いにのってキティは項垂れる。
「詳しい事は本人から聞いておけ」
やがて、また連絡するといって無線は一方的に切れた。何があったと、転がる無線と項垂れるキティを交互に見据えるフロランスを他所に、ぼうと天井のランタンの格子を見つめるうつろな翡翠の目は、これから起こり得る壮絶な出来事を頭の隅に巡らした。
それは、武士を返してもらうために、彼女らの指示に従わなければならない事、つまりしばらく横で気絶しているアーサーを含めた奇妙な三人生活が始まってしまうという事、そして、遂にこの問題の渦中の一人である、マリア・ブリューメルと話せるという事。
今日の騒動も含め、更に何かを考えようとすると、吐き気をもよおす程に頭が痛くなる。その中でぼんやりとすべての事をどうまとめればいいか、キティは痛む頭の中で考えていた。
やがて、戸惑うフロランスの応えるように、焦点を定めないまま小さく口を開き、息を出すと共に言った。
「やっぱりまた、うまくいかなかったって事なのね……」
***
「ああ、結果は痛み分けだったのさ。」
田中は一人、ライトの灯ったテラスの中央に立ち、ヘリコプターがかき乱す粉塵で裾を跳ね上がらせたまま、明るい夜空を見上げていた。
ここには結局、誰一人得した者はいなかった。全く酷い有様だ。と、田中は嘲る。
侵入者とキティの一味は互いの衝突によってジョージを捕まえる事には失敗し、ウェッブ達はそのどさくさに「巻き込まれ」彼女らを逃した上に、ジョージこそは守れたが、代わりに要人であるアーサーを連れ去られてしまった。その中でも対をなすマルコムの一味も、アーサーを暗殺する機会を失ってしまい、ウェッブ達の懸念をいよいよ深める事となってしまった。
全員がそれぞれの思惑に阻まれ、結果が中途半端となってしまったのがこの事件の全貌だったのだ。
さあて、と、田中は呟いた。
「この結果に笑えるヤツは、一体誰だったろうかねぇ」
それはやはりムンダネウムだったろうかと、田中は首をあげ、この空の上に蠢く「魔女」を、微かに煌いて見える星からその片鱗を垣間見る。
「まあ、せいぜい中で揉め合ってくれって、なあ?」
腰に手を当て、田中はゆらりと笑みをこぼした。これはあくまで魔女の代わりだよ、と、その我ながらその可笑しい冗談に。
やがて振り返り彼は行く。今頃、誰にもかまってもらえずただ一人ぼっちで壁にもたれかかかり、主を失った哀しみに泣き崩れているであろう彼女の元へと。
***
しかし、田中は知らなかった。このコムタル城での騒動には、中途半端という言葉も及びもつかない「一手」が為されたという事を。
「ジョージさん!ッジョージさん!」
数多に起こった上の騒動も知る由も無く、一面の壁が崩れている部屋の端に片膝をついたヨーナスはただ、必死に動かないジョージを揺らし続けていた。しかし、何度呼びかけど、ジョージは全く応じず四肢を放り投げたその指先も、力無く地に付けたまま動かない。その丹精な片鱗をのぞかす一つ一つの部位が全く機能を為していない。その人間ならざる面影に、さっとヨーナスは火薬がこびり付く頬をこすって後ずさった。
「ちょっとお!どうしたんですかあ一体……!」
これじゃ、まるで人形みたいじゃないか。
それを覆す唯一のものは、項垂れる金髪の隙間から瞳孔を震わせる青い目だけ。しかし、それも金髪によって一面に影が覆っている中なら瞬いていて、それが尚更綺麗であると共に、また不気味だった。両唇がつながるか繋がらないかの小ささで開かれた口から、息の掠れる音さえしないのだ。
ヨーナスはこれはまずいと悟り、その不気味さから逃げる様、医者を呼んでくると出て行った。
しかし、ジョージの頭の中は戦いの後故、冴えていたのだ。しかし、考えようにもそれはまた赤い紐が絡まってしまい、何も言えなかったのだ。そこでようやく言葉に成って出てきたものは、「どうすればいい」。
そう思った途端、もうそれしか巡らなくなってくる。まるで身体そのものが、考える意思から逆らんとするように。
ジョージはその中でも、淡々と事実だけを反復していた。自分を自分たらしめる意味の不完全さ、それを縁ってくれたはずの世界の、浅ましい欺瞞と醜態の実態を。
そして、それを顔知らぬ誰かがとうに知っていて、家畜を見るように自分を見下ろしていたという事を。今までずっと、自分が楽しんでいたと思っていたこの「人生」をずっと、ずっと。
「あいつは」
それに苛立つ自分、しかしそれを怒る筋合いも無かった自分。辻褄が合わないこの行き場のない思いを一体どうしてまとめられようか。いいや、できやしねえ。最初からいつもこうなんだ。
「お前を考えると」
やがて、ジョージはすべての思考を諦めた。蝶の羽ばたきの様に長い金の睫毛を伏せ、顔をあげて壁にもたれかかって眠る。その頬から流れたものが汗か涙か考えるのも億劫な程に。
一つ、ジョージのはだけた上着の胸元から再び、赤紐が転がりジョージの開いた右手にそっと、ほどよく収まった。
やがて、再び目を覚ます時にジョージは真っ先にそれを見るだろう。そして、そこから自分の為すべき事を見出すのだろう。すべての事を知ったその頭で、目で、今度こそ。
ジョージの右手に掴まれたまま、赤紐は風と共に、意思を持っているかの様に緩やかに靡いた。
それまではおやすみ、ジョージ。と。
(終)
あとがき
大きな転換期となった5話。ヨーロッパ編の一番最初の物語、これにて終了致しました。遅くなって申し訳ございません。9万文字だって・・・うわあああああああ。
策者が、いえ、ここまで読んでくださった皆様、本当にお疲れ様でした。ここまで読んでくださった事に深く深く、感謝致します。
さて、今回は心情描写に手を込んでいこうと考えましたが、今まで以上に銃撃戦がすんごい話になってしまいました。このシチュエーションのモデルは「アマルフィ」という織田裕二が主演(するがために新たに脚本が作られたという、大人の事情が絡んで映画化)したイタリアを舞台にしたサスペンス映画です。あまり深く話はできませんが、これがまた都市が最早世界遺産のローマを舞台に、様々な組織や団体が絡み合い日本語、イタリア語、そして英語がごちゃごちゃに入り混じってトタバタする話だったのです。一緒に見た家族はそのごちゃごちゃ感がよく分からなくて好きじゃないとは言っていましたが、(また)私1人だけがそのごちゃごちゃの様子に興奮して、すごく楽しかった思い出があります。その興奮を今一度体現しようとして書いた話でありました。
三つ巴ならぬ四つ巴。強者共め。
それでは、皆様またの機会がありましたら、6話でお会いいたしましょう。改めて読んでくださってありがとうございました。
今回、女子の身長の高さが半端ない
根井 舞榴
登場人物紹介
カンジョン・ミナ
…アーサー・ベリャーエフ議員の第一秘書を務める女性。身長158cm。韓国人。31歳。平凡な顔立ちと黒ずくめの地味な格好から「幽霊」と評されているが、「鉄の意思」を読めるという独自の理論を堂々と語る様相から、それなりに存在感はある。義父の影響から車好きで愛車はロールスロイスファントム。椴とは限りなく恋人に近い友だちといった関係。その一方ジョージの事を懇意にしている。テーマソングは「わるいことはしちゃいけないよ」
フロランス・バラデュール
…フランス南部カルカッソンヌで代々宿屋を営む一家の一人娘。身長181cm。フランス人。25歳。インディーズで歌手活動をしている「カルカッソンヌの天使」と評される金髪碧眼絶世の美女。歌声も美しくまた運動神経も高いが、頭があまり良くないのが唯一の欠点。いや、それがすべての長所をも凌駕している。その何も考えない能天気な性格から、キティ、武士の味方としてジョージ誘拐作戦を提案し、大胆な方法でもってそれを成功(?)させた。おじいちゃんがかなりのハイスペッカー。テーマソングは「うたうたいのうた」
ニキータ・スメタノーヴァ
…オランダのマリア・ブリューマルが仕切るマフィアグループの一員。身長191cm。旧チェコスロバキア人。36歳。濃い灰色と瞳を持つ「女性」。その高身長の体格から怪しまれぬ様に男装し、ジョージ誘拐作戦を実行しようとしたが、逆にそれが「仇」となって失敗する事となった。代わりに武士を誘拐し、キティにマリアと会わせる様命令する。ナイフ使い。愛用のナイフはボウイナイフ。テーマソングは「うそつき」 何この平仮名オンパレード