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第5話 フランス編(中編)

3、その頃、ジョージの心中にいたキティは何をしていたかというと


「あら、あの部屋に泊まってる人がいるのね。珍しい」


 深夜。倉庫の窓から、田園の向こうに瞬くテラスを見上げる女がいた。やがて、カーテンを素早く引き、彼女はそそくさと倉庫の中に置かれたボロ机と向かっていった。まるで宿から自分の姿を見せられるのを避けるかの様に。


「あら、貴女の宿ってそんなに人が泊まらないの?」


「うん、だってせっかくの観光地が今G9ですっかり貸し切り状態なんだもん」


 と、そのささくれた机の上に手を組み座っている黒いタンクトップの女、キティが近づく彼女を見上げて言うと、金髪の女は荒々しく椅子をひいては彼女と向かい合う様に座った。屈んだ間際、照明の影でくっきりと彼女の谷間が縁どられた時、もう一人、向かいの端にいた少年が、寸時赤く顔を染めながら後ろを向く。


「やだわ、なあに武士くん。ごはんがあまり美味しくないの?」


 と、肘をつき、彼の頬をつんと指しながらわざとらしく笑う彼女に、少年――、武士は忌々しく彼女を見上げた。そのウェーブがかった金髪をかきあげて笑うその女こそが、ヨーナスが見惚れた「カルカッソンヌの天使」の異名を持つ、フロランス・バラデュールであったのだった。


「確かに、美人なんだがなあ……」


 金の睫毛を瞬かせて笑う彼女の薄い紫色の瞳は、優美な顔立ちを更に際立たせているが、その一方、小豆色ジャージを着てカスレをほおばる武士は、心中穏やかではなかった。何故なら、その目の前の女のせいで今、彼らはこの湿気た倉庫の片隅に身を潜める羽目になったのだから。


 武士は憮然として冷たい倉庫の床を右斜めに見下ろした。その先には灰色の床の上、仄かな照明に光る白い機体があった。それは、二つの四角いターボエンジンを上から覆う様に、平べったくおよそ全長3mに広がる翼を持つ飛行機。そのまま上に寝転がる事も出来そうな「全翼型」と形容される、近未来的な造形がそこにはあった。武士はその白の瞬きを見ながら思い出す。その飛行機が自分の乗っているK―7の尾翼に突っ込む、一気に機体を傾かせた事を。


「まったく全体、恐ろしかった」


 煙を吹き上げて森へと一直線へ墜落するK‐7の回りを浮遊するその飛行機。するとガラスで覆われたその機首から、金髪の美女が輝かしい目で笑っていたのを傾いた機体の中で武士は見たのだ。今でも、その美しくも戦慄の震える一抹に背中が震えてしまいそうだ。そんなカルカッソンヌを騒がせた謎の白い飛行機が、今、武士の目の前に迫っているのである。


「もーっ、だからごめんなさいって言ってるでしょ!?」


 すると、フロランスはどんっと胸を揺らしながら机を叩いた。


「だから、いきなり見たこともない飛行機にビックリしちゃったんだってば!こりゃ、私がカルカッソンヌ守らなきゃって思って思い切っちゃったの!それだけだったのぉ

お!」


 甲高い声をあげる様は、彼女があまり理知的でない事を示す。それが尚更武士の不機嫌を煽らせた。


「確かにな、そりゃー分かるよ。だかな、いくら何でも尾翼に突っ込むはねーだろ!尾翼に突っ込むは!こんな馬鹿なやり方生まれて初めて見たわあ!」


 スプーンを持った手でフロランスを指し、武士は眉を歪ませて叫ぶも、一方、落ち着いた声でそれを諭すは、黒レースのタンクトップで胸を強調しているキティだった。


「あら。この飛行機は元々そういうやり方で撃墜するものなのよ」


「は!?何だって!?」


「どゆこと?」


「って、乗ってたお前が知らねえの!?」


 二人の騒がしい様子から外れ、すっと眼下の飛行機を見下ろしながらキティは言った。


「元々、これはアメリカ陸軍が1946年に開発したXP―79っていう戦闘機なの。その通称名は、フライングラムよ」


「フライングラム……?空飛ぶ衝角、ですって…?」


 フロランスは大仰に紫色の目を瞬かせた。


「ええ。コクピットこどまとめて翼に収納したこの特異な形は、爆撃機の尾翼を機体ごと突っ込んで墜落させる、ってコンセプトで作られたものなのよ」


「なんだそれ…本当にアメリカの戦闘機なのか……?そんなの、まるで……特攻じゃねぇか……」


「そうね、でもそれと大きく違う所は、こっちはパイロットが絶対死なないように機体が頑丈に作られているって事よね」


「そうそう!だから私は無傷だったんだわ!」


 得意気に鼻を鳴らしながら胸を反らし、腰に手を当てるフロランスに、さしものキティも翡翠の眼光を見せつける様に勢い良く睨んだ。


「まあ、どっちにしろ馬鹿な事には変わりはないけど」


「ああ、持ち主と同じにな」


 と、言った武士の台詞に、えへへと舌を出してフロランスはおどける始末であった。


「でもびっくりだわー。この飛行機ね、昔機械整備士だったお爺ちゃんが、誕生日プレゼントにくれた奴なの。それがまっさか、アメリカの、しかもそんな昔の戦闘機だったなんて思わなかったわね」


「全くよ。私だってフランスでこれをお目見えになるとは思わなかったわよ。しかもコレって、試作機が墜落事故起こして以来、開発が中止されちゃった超ゲデモノ飛行機よ。それがどうしてこんな所にあるのかしら」


「んーっ分かんないっ。おじいちゃんももう死んじゃってるしさあ」


「あのな、もうちょっと考えてから答えろや」


口角をくいとあげ、あっけらかんとしたフロランスの調子に呆れつつ、キティは傷一つない翼の端を座ったままつうと撫でて言った。


「まあ、どうせ分からないでしょうけど、確かな事はただ一つ。貴方のおじいちゃんは凄い人、って事よね。こんなロストテクノロジーをここまで精巧に作り上げるだなんて見事だわ」


「ふふーん、カルカッソンヌ伝統の職人業をなめんなっての!」


 と、フロランスは胸を張ったまま、祖父の仕事場だったこの倉庫を見渡した。


「って、そんな感傷に浸ってる場合じゃねーんだよ。どーしてくれんだよっこれから」


 そんな二人の空気を遮り、武士は身を屈めてカスルを頬張りながら、苦虫を潰した様な顔で呟く。その目線の先には、フライングラムの向こうにある半開きのシャッターの奥、ほの暗い空間に転がるK―7の残骸があった。


「せっかく無賃移動の手段が墜落されちまったお陰で、こっちは騒ぎにならない様にって何もしねーまま身を潜んでなきゃならねえ。そのせいでキティも新しい仕事が出来なくて資金が稼げねーし、もう良い加減そろそろどん詰まりじゃねーか?なあ」


 そして今、武士は一番心配している事を、キティの元へ近寄りながらそっと呟いた。


「それに、このまんまだと捕まるぞ、ジョージに」


 その声にきゃーっと紅潮する頬を掴んで喜ぶフロランスはさておき、キティは腕を組んだまま寂しそうに目を伏せる。それに何かしら気が立って武士は更に声を荒げた。


「今までは何とか逃げてきたけど、それがこれからも出来るとは限らねーだろ。アイツらとサシで会いでもしたら、絶対に捕まるぞ!ましてや、こんな何もない田舎町に遭遇したら終わりだ!」


「まーっ!よくまあ地元民の前でそんな風に言えるわね!」


 あっけらかんと口開くフロランスの頭の向こう、レースのカーテンから広がる漆黒の田園を武士は指差す。


「あいつらも今頃ここに来ては、飛行機失踪事件の当事者が「俺ら」だって事をとうに気付いているはずだ!だから、この際、K―7は諦めて早くこっから逃げようぜ。それが一番だと、俺は思う!」


騒ぐフロランスを横目に、事情を知る相棒としての黒き眼でキティを伺う。


「どうなんだ、キティ」


「確かに、それが一番なのかもしれないけれど……」


 しばらくそれを聞いていたキティは、食べ終わった底の浅い器を置いて顔をあげた。


「でもね、武士。私達って別にどっかのお馬鹿さんみたいに、己の損得だけを考える人種でもないし、いつでも何でも一番の方法を選ばなくても良いんじゃなくて」


「はあ?と、いうと?」


「この際、ジョージが来るまで待てば良いと思う」


 背筋をのばし、なだらかな胸の谷間に手を置きながら言ったキティに、武士は驚きで口を素早く開く。


「おぃ……!それじゃムンダネウムまで辿り着く目的はどうすんだよ!」


「勿論達成させるわよ。でも、もう一つの目標は、ジョージと一緒じゃなきゃ出来ない事だから」


 そこで声色を変えてキティは、翡翠の瞳でしっかりと黒き眼を見つめる。


「武士、貴方にはちゃんと言ったわよね。私のもう一つの目的は、自分の口から包み隠さず真実を彼に知って貰うことだと。今までは事件に阻まれその機会が無かったけど、立ち止まった今、ここでようやく、達成出来るのかもしれないじゃない。こんな鬼ごっこもそろそろ限界にきているのであれば……」


「いや、無理だろ」


 しかし、武士は首を振って即否定した。


「ジョージが大人しくお前の話を聞くとは考えられない。出会った瞬間弾ぶちこまれて、ジ・エンドだろ」


 それに、と、その相棒を思い浮かべながら組んだ片方の腕を掲げた。


「あのヨーナスだって、幾ら事情を汲み取ろうと、お前をホイホイ、ムンダネウムまで手放しする訳がないじゃないか。あいつは義務感の強い奴だ、なんとしてでも命令通りお前をアメリカまで連れて行こうとするだろうがよ。なんたって奴は、保護という建前でお前を確保する事が何よりもお前のためになると思っていやがるからな」


 あの図々しいメガネめ、と斜め上に顔を上げて嫌そうな顔をする武士であったが、それを意外そうに目を見開くキティに更に唇を曲げた。


「おい、キティ、だから諦めるんだ」


「いや、それでも……」


 すると、らしもなくふてくさてた声をあげて、机に肘をつくキティは頭を掻き毟って唸る。そんな駄々をこねる様子に武士は呆れながらため息をついて、その側に両手をついた。


「仕方ねーだろ。こうなりゃとっとと、トンズラ決めるしか手はねーよ」


「う、うーん……何とか出来ないかなー……」


「む・り。できな・い」


 一言強調して見下ろす瞳が、何よりもキティの思惑が無謀である根拠を示した。ふと、そんな二人のやりとりを、蚊帳の外から伺っていたフロランスは、ある提案をそっと呟く。


「誘拐すればいいじゃん」


 途端、その言葉は倉庫に響いた。向かい合っていた武士とキティは動揺で互いの顔を睨む。


「「は……?誰を……?」」


「いや、だからジョージを」


 フロランスははんと、方眉をあげて笑う。ジョージと誘拐、その二つの言葉を繋げられずにいるキティがきょとんとしている合間、意気揚々と胸を机の上に置き、フロランスは腕を広げては語り出す。


「だって要は、あんた達はジョルジュと二人っきりになるチャンスを作りたいって事なんでしょ!?待つ事が無理だったら、もういっそこっちから誘拐して閉じ込めておけばいいじゃない!逆転の発想ってやつう!?キャッホウ!」


 そうして調子よく手を叩き、キャッキャと声をあげて笑うフロランスを、武士は呆れを通り越した感嘆の目で、ぽかんと口を広げて見上げた。


「おい、ちょっと待ってくれフロランス。誘拐って、あのジョージの事を?お前だって知ってるだろ?NYの猟犬って言われる化け物級のガンマンを……?なのにアレを……誘拐だって?」


「そうよ?何か問題でも?」


 と、首を傾けるフロランスに向かい、青ざめた2人は遂に大口を開けて爆発した。


「やっだあ!何言ってんの!?無理無理無理!絶対に無理だから!」


「あはははは!やっぱ馬鹿は考える事だけは一人前だなぁ、オイ!」


 首を振り、手を振って盛り上がる二人を目前にしたフロランスは、途中からかじりだしたフランスパンを噛み締め、口から白く整った歯をにっ、と、見せながら笑った。


「そんな事ないわよう?だって私、誘拐作戦に絶対に成功する一つの作戦を持ってるんだから。ねえ、それにひとまず乗ってみる事に、越したことは無いんじゃない?」


「なーにが作戦だ馬鹿!ジョージがどこに居るかさえ分かんねぇくせに!」


 すると、そこで予想外の答えが帰ってきたのだ。


「え、知ってるわよ?」


「……え?」


  武士は途端、真顔に戻って聞き返した。


「なん、だって?」


「ジョルジュは明日の夜8時に、シテで開かれるG9のパーティーに出席する予定だわよ?」


 その言葉に、キティも続けて真顔になって目を向ける。


「シテにですって?なんで貴女がそんな事を知ってるの?」


 重なる動揺に震えるキティに、フロランスはブイサインをかざして笑った。


「えへへっへへ。だって私、シャンソン歌手としてフランスの高官からそのパーティーに御呼ばれされたんだもん!お偉いさんのパーティーなんて、堅苦しいし乗り気じゃないからすぐ断ろうと思ってたんだけど、その人がこっそり、ジョルジュも来るって教えてくれるから受ける事にしたんだ!」


 という事は。宝石のごとく輝くヴァイオレットの瞳から伺える思惑を察して、武士は黒い眼を細めた。


「つまり……お前は明日、ジョージと同じ場に怪しまれる事なく、居られるって訳なのか…」


「そ!そのチャンスを使わない事はないんじゃなぁい?それに、あのシテには私が持ってる、もう一つ「切り札」があるんだから。ねぇ、聞いてみるだけ、してみない?」


 と、机に手をついて身を乗り出したフロランスは、桃色に色っぽく膨らんだ唇をそっと人差し指に付ける。やがて、しばらくそれを見て黙っていたキティも立ち上がって歩み寄っては、互いに大きな胸を突き合わせる様にして向かい合う。なだらかなくびれを見せつけ合い、互いに腰に手を当てて。


「……話を聞くだけなら」


キティは言った。顰めた眉に紛れる翡翠の瞳に、紫色の方はすっと細めて笑う。


 一方、武士はその二人の様子を伺いながら、「ああ、なんかもう色々駄目かも」と、三度(みたび)の困難に顔を手で覆った。


***

 

 鳥の鳴き声が聞こえると、カマラは横倒れから、膜の張った視界をこすって目を覚ました。テラスから差す日差しの筋が、秋の澄んだ空気と共に暖かくぼんやりと景色を映し、心地よい夢現に目を細めるが、白い視界の真ん中で、黒い影が椅子を引きながら入ってきた瞬間、カマラは考えるのをやめた。


 寸時に手のばすは、背後に仕込んだグロック18のストック。銃口を人影に向けんと腕を振った勢いで、シーツがはだけて露わになった体を、カマラは立て膝をつく事で自分の身を固めて構える。


『コロセ!』


 脳裏に過ぎる本能に乗じたまま、引っ掴む様に両手で銃を構え、音を立てるグロック18を顔の正面に無表情のまま添える。冷徹な赤い瞳は素早く黒影に向かい素早くトリガーに指をかけたが――、


「はいはい、だからやめようねー」


 黒影が気だるい声と共に、寸時グロック18の下に手を滑り落ませ、カマラの手首を掴み捻ったのだった。風の様に疾い、一瞬の出来事であった。


 「いて、いてててて!わああ、すいませんでした!ヨーナスの兄貴!」


 さっきまでの無表情で美しい顔立ちは一気に崩れ、太い眉毛を歪め為すがままにされる。身体ごと捻られたカマラはベッドに突っ伏され降参の声をあげると、黒影こと――、ヨーナスは大仰にあくびをしながらテラスに身体をむけて涙をこすり、


「全く、まだ強盗だった時の癖がぬけてないんだから、仕方ないですねー」


 と、手をすぐに離してYシャツにボタンをかけた。そうして、丸テーブルに二つのグロックが置いてある部屋の中、二人は淡々と女将の手料理の待つ食堂へ向かうために準備を始めたのだった。


 朝日が差し込む部屋の中で、ヨーナスはスルリと布擦れの音を立て、Yシャツを脱ぎ下ろす。身体に密着した白のタンクトップは朝日によって白く光り、また乱れたオールバックの髪を整えているヨーナスの、そのしなやかな筋肉質の上腕の盛りが、白く縁取られる。その血管がほんの少し浮き出る腕と共に、白いタンクトップが強調する胸板の盛り上がり、腹筋が六つに割れている事が分かる陰影、そして腰から臀部にかけて繋がる筋の線が、ヨーナスの頭身に比例してバランスの良い太さを保っている造形に、ベッドの上に立て膝をつくカマラはほう、と、感嘆の息をあけだ。


「うらやましっすね、兄貴」

 

 その声に察してヨーナスは髪を整えながら薄く笑う。


「そんなことないですよ。カマラ君だってまだ子どもなのに、すごいじゃないですか」


 壁にもたれかかるカマラを横目に見ながら、Tシャツを着ようと腕をあげたヨーナスと共に、カマラも灰色のカーパーの首元を掴み、下からそれを一気に脱ぎ捨てた。下着もつけず晒された薄褐色の裸は、18歳という年齢にそぐわない凹凸のはっきりした体つきをしていた。


「ほらね」


 くっきりと分け隔てられた胸板。くの字に背もたれて形が歪んだ腹筋も、より形が浮き上がって鍛えられた跡を示す。立て膝の上に置いた右腕も、絞るだけ絞った筋が盛り上がり、薄褐色の肌に刻まれた橙色の傷を浮き上がらせる。その雄々しい様に微笑むヨーナスであったが、当の本人は不満気に俯いて曲がった腹を見下ろした。


「いやー全然、まだ兄貴のようにはいかないですよ。肋がまだ浮き出ちゃうし、腰だって細すぎます。またまだしっかり肉もとらないと……」


 と、唇を尖らせてぶつくさと呟くカマラを、不本意ながらヨーナスは素直で可愛いと思ってしまった。ズボンを脱ぎ捨て、引き締まった脚にフィットした新調のスーツを履こうとするヨーナスとそれに続くカマラ。筋肉質の男2人が着替える部屋の中、ヨーナスは今、ジョージがサウナに行っていて本当に良かったと目端に思っていたのであった。そんな中で、カマラは最後にぼそりと呟いた。


「でも、黒ブリーフはどうかとは思いますけどね……」


*** 


 出入り口の西にある食堂は、ガラス張りの輝きで柔い光が注がれている。水色のテーブルロスに覆われたロングテーブル、金の燭台が置かれたその中央を境に、カマラとヨーナスはスクランブルエッグを、向かいに座る風呂上がりのジョージは、犬歯を剥き出しに浅黒く固いフランスパンに齧りついていた。


「いよいよ明日なんですね、シテに行くの」


 しばらく続いた銀燭の音と厨房の音と共に、カマラはジョージに顔を向ける。ジョージを真似て、整った前歯を剥き出しにパンを齧りながら。片方の目だけをカマラに向けるジョージの隣には、四角ガラスによって歪んだシテが青空に浮かんでいた。


「んな事より、今日はこれ終わったらさっさと事故現場に向かうぞ。今日中にキティを捕まえなきゃならねえ」


 カマラの問いに答えないジョージの冷たい一言に、大仰に前髪跳ねて驚いたのはヨーナスの方だった。


「ええ!?今日中になんて無理でしょう!?今回は諦めて仕事に専念しましょうよ!今日はここに届くドレスコードを待たなきゃいけないし、銃のメンテも大変なんですから!」


「んなら、テメーがやれ。俺は一人で行く」


「そんなあー」


「兄貴、俺がここに残ってやりますから」


 と、気を遣って笑うカマラであったが、その思惑のあるにやけ顔に、ヨーナスはぴしゃりと釘を打つ様に言った。


「言っとくけどね、カマラ君。君のドレスコードはないから!」


「ええー」


「パーティーにまでついてくつもりだったのかよ……。お前ホント図々しいな」


 そうしてやっとカマラへと睨みつけたジョージに、カマラは唇をへの字に曲げて肩を竦めたのであった。


「全く、貴方たちがいると退屈しませんわねえ」


 すると、奥の厨房から出てきたエプロン姿の女将が、食後のデザートを持ってきた。


「あ、ありがとうございます。ごはんとっても美味しいです」


 振り向き際にヨーナスは微笑み、渡された硝子の器に入ったフルーツポンチを受け取ると、女将は可愛らしく小首を傾げて尋ねる。


「なあに?お仕事の話?そういえは貴方方、何のためにカルカッソンヌまで来たのかしら?」


 それを、パンを口に頬張りながらカマラが即答した。


「お嫁さん探しです。今の話はそのついで」


「「お前ホント良い加減にしろ!」」


 遂に、二人の拳骨がカマラに頭に直撃した。


「まあまあそうでしたの」


 一方、変わらず唇に手に当て笑う女将に対し、「すみません騒がしくて」と、カマラの頭を掴んで謝るヨーナスであった。


「くっだらねえ事やってねーで、さっさとずらかるぞ」


 そうして、二人より素早くフルーツポンチを食べ終わったジョージは荒々しく足で椅子を引いて立ち上がる。ああ、ちょっと待ってください。と、ヨーナスは慌てて女将の前へと向いた。


「それにしても、女将さん。あの、今日はフロランスさんに会えないのでしょうか」


「うわあ、まだ諦めてなかったんですかヨーナスの兄貴、あ、いて、いててて」


 突っ込むカマラの首を羽交い絞めにして尋ねる一方、それに対する女将は途端、些か怪訝気味に眉間に皺を寄せ、再び口元にそっと指をつける。


「ああ、それねぇ。一応フロランスに昨日電話したんですけれど、今日はかなり大事な用事が出来て来られないんですって。でもあの子、変な事言ってましたのよ。大丈夫、貴方様には明日、シテで会う事になるだろうからって」


「え、どういう事ですか?」


「さあ……」


二人が首を傾げるその向かい、シテを背景に煙草を咥え横向くジョージは、疑念の青い目をすっと向けた。


***


 昼の日差しによってようやく明るくなったバラデュール家倉庫の一室。胸元を大きく開けた白いシャツと丈の短いジーンズ姿でのフロランスが、フライングラムの上に座っている。


「さあ、て。今からジョルジュ誘拐大作戦会議をはっじめるわよぉ~!」


「うわあ、タイトルからしてなんて無理ゲー……」


 と、本人の知る由もない誘拐会議がここで始まる。左翼側に寝そべるキティは、肘をついたまま深いため息をついた。その赤いチェックの布をうなじ部分に蝶結びにしたワンピース。フロランスと開かれた胸の中には、その膨らみに沿って金の十字架のチェーンが曲がる。


 その目前にフロランスは大仰に手に持っていた模造紙を広げ、コクピットの上に置いた。それは黒ペンで書かれたシテの内部図。祖父の手によるものだという、その予想通りの精巧さに、キティは好奇心に目を見開きながら、谷間を地図へと近づけた。


「へえ、こう見るとシテの城内って二重城壁になってるのね。その中に土産屋やホテルや、教会がこんなに複雑に入り組んでいるの」


「そ、正に絶対防御って感じでしょ!?で、パーティが行われる場所はここなのよん」


 と、桃色ネイルが映える細長く白い指は、入口であるナルボンヌ門から真っ直ぐ渡った突き当たりにある城を指している。


「何?ん?コムタル城……?」


「そ!昔の伯爵が住んでいた城なんだって!シテの中にまた城があるなんてすごくない!?正に城塞の中の城塞って感じよね!」


「うわあ、確かにG9のパーティとしてピッタリの場所じゃない。で、ここからどうやってジョージを誘拐するっての?」


「ふふーん。こういう慎重な奴ほど、神経質な程防御に敏感になって逆に足をすくわれてしまうものなのよ!」


 そうして、頭の中で纒まりきれない言葉をつらつらと語りながら、ばさり、と、フロランスは地図の上から再び透けた地図を重ねた。それと共に金髪も舞う。先ほどの一枚目の地図と重なり合ったそれは、所々ちぎれたミミズのような線が書かれただけである。それらは城や教会といった様々な建物の壁と絶妙に繋がっていた。


「あら、ヤダ。まさか、これって……地下道の跡……!?」


「あら、よく一目でわかったわね」


「うん、まあ。この間まで馴染みだったからね……」


 栗色の頭を引っ掻いては苦笑するキティを、さして気にもとめずフロランスはある一つの地下道を指差した。それは、コスタル城に幾つもある道の中の一つだ。それだけが唯一、コムタル城の背後に位置する出口より遠く、シテの壁をも超えた所まで続く地下道である。


「うちのじいちゃん、ボランティアで地下道研究もしててね」


 当時を振り返る眼差しで、キティの向かいで寝そべるフロランスは地下道を指で辿りながら語った。


「私が生まれた二十五年前のある日、じいちゃんは一人でこっそり、この地下道を見つけたのよ。おそらく伯爵が城を落とされたもしもの時にって、作られた地下道なんだろうけど、それをなんと孫の誕生プレゼントって事で上には報告しないで、私だけにこの地下道の場所を教えてくれたんだー」


「うわあ……世界遺産にんなんちゅー事を……。成る程、それであんたは誰も知らない地下道に忍びこんで、今までシテの中をタダ見したって訳」


「えへへご名答!」


 と、フロランスは陶器の太ももを見せつける様、脚を組み合わせ、ダブルピースをして笑う。それにキティも地図を見たまま笑った。そこからフロランスが導く、ある作戦に対しも。


「それによって今、貴女からそれを知った私たちも、監視をすり抜けパーティー会場に忍び込む事が出来る、と……」


「その通り!」


 パチンと、フロランスは指を鳴らす。


「誰も知らないこの地下道から二人が忍び込んでジョルジュを誘拐して、こっから通って行けば追いかけられずに済むわよんって事!」


「と、言うことは、城内にある地下道付近でジョージを拘束出来れば、成功する可能性が高くなるって事よね!? フロランス!コムタル城内の地図は!」


「ほいほーい」


 興奮気味に顔をあげるキティに白地図が掲げられた。コスタル城の内部図は、城壁塔に階段がある五階建ての構造である。巨大な樅の木を中央に立たせた広い中庭を囲む城壁と、大広間を北に向け、中庭の角には左上から右に辿ってA、B、C、Dと区別された同じ形の四つの塔が聳え立つ。城壁の内部も、外堀の側に部屋が並んでいる様だ。


「パーティー会場はこの通り中庭と、北側一面5階まで吹き抜けになっている大広間でやるのよ。で、その地下道に続く場所はココって訳」


そうして指した場所は、一階大広間と中庭の境界として横切っている廊下の突き当たり。中庭向かって東側のB塔の側にあった。


「一見するとそこは只の壁に見えるけどだけど、左壁端に沿って蹴り飛ばせばドアが開くはずだわ」


「へえ……伯爵の逃げ道というよりは、まるで暗殺者の抜け道みたい……」


 頬杖をついて地図を見るキティの頭の中で、次第にジョージ誘拐のためのシナリオが明確になっていく。


「二人で忍び込んだ後、客のふりをしてジョージを探し、無線で情報交換しながらその居場所を突き止めれば良いんだろうね……」


「そ、ね!それが分かれば、私がジョルジュを誘っていくわ。悩殺して私の楽屋まで連れて行って隙をついた瞬間に、あの子の綺麗な首筋にスタンガンをバチッとお!」


 と、勢い良くスタンガンを突きつける仕草をし、フロランスは興奮気味に笑った。


「そこで私たちが貴女の無線の報告に従って駆け寄った後、気絶したジョージに猿轡を嵌めて、手首を縛って三人で連れ出せば良いのよね。……大丈夫かしら」


「大丈夫よう!正直、私一人でも何とかなる位じゃない!?」


 フロランスは女性にしては凹凸に引き締まった腕を曲げて見せた。


「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけれど」


 それに困るように笑ったキティであったが、すぐに目を伏せ思案に耽る。女二人と少年一人がG9という大御所のパーティーで、男を誘拐するという作戦に対して改めて。


「いや、G9のパーティーにジョージが参加するのはきっと偶然じゃない……」


 言葉の中に潜む、甘美かつ危険な香りに酔いしれながら、キティはふとした予感に胸を掴んだ。


「ムンダネウム対策について話し合われると噂の最終日。そのパーティーでジョージが呼ばれされるのは、ムンダネウム対策の切り札にあたるジョージを、G9のメンバーに晒させるためなんだわ……」


 そう、その中でジョージはヨーナスと異なり、パーティーにおける重要人物だ。監視の目も本人が思っている以上に多いはずだろうとキティは予想する。そんな中で当人にも怪しまれずに近づき、誘う事が出来る人物といえば、ジョージが顔を合わせていないかつ唯一正式な招待客である、この目の前ではしゃぐフロランスしかいない。


「やっぱり天使様に任せるしかないようね……」


 と、切なげに見上げるキティを、天使フロランスは首を傾けきょとんと目を瞬かせた。


「おーい、用意出来たぞー」


 その一方、カウンターを挟んだ奥の扉から、武士の気怠い声が聞こえた。フロランスの歓喜の声に反し、重々しく開かれたドアへとキティが顔を向けると、武士が立っているはずの光景に、桜模様の瞬きがちらついた。


「な……!?」


それは、薄紅色の絹生地に、紫色のグラティエーションで波面が演出された川の上に散る桜の花びらだった。一面に咲く桜並木の花びらが吹雪となって川に散る一瞬を、スナップで撮影したように見える絹刺繍。その間際、それが赤帯で締められている事に気付き、慌ててその「振袖」を着ている武士を見上げた。


「へ?」


 黒髪をのばしたウィッグをアップにし、梅の髪留めが背後の窓から吹く風によってりんと鈴を揺らす。キティの視線に頬を赤く染めた武士の顔は、白粉によって自然体な白さを際立たせ、薄い唇に引かれた赤色の口紅がその艶やかさに花を添えた。キョロキョロと目配せする細長い瞼の上には、くっきりと引かれた蒼色のアイシャドウ。


そこには、「武士」である事を忘れさせる、「女」が確かにいた。


「そんなみんなよ……恥ずかしい……」


 その「女」が太い声で目を外らした瞬間、急に拍子抜けしてキティは首をかくんと曲げた。


「キャ――――ッ!やっぱ日本人がやった方がずっと似合うわーっ!」


 その脇でフロランスは武士へと駆け寄り、ぎゅっと目を細めは彼を抱きしめて叫んでいた。


「武士君似合う!顔薄いから女装超似合う!超おんにゃのこ!キャーッ!」


「きゃーきゃーうるせえな……てか、ほめてねぇだろそれ……。フロランスの助手として忍び込む時に、なんで俺は女装しなくちゃならねーんだ…?」


 彼女の頬を掴み嫌がる武士に、フロランスは更に豊満な胸をぎゅっと押し付けて言う。


「だってそうした方がバレにくいでしょ?もーっ、可愛い!本当可愛い!萌えー!」


「はあ……キティ……お前は……」


「オエッ」


「オイイイイイイイイイイ!」


 吐く仕草をして鹹かったキティに、武士は乱雑に痩せた胸元をさらけ出した。


「脱ぐ!もう脱ぐ!やっぱり脱ぐ!これ以上醜態を晒されてたまるか!」


「ちょっとお!勝手な事しないでよお!」


 脱ごうとした振袖を捕まえ、フロランスは詰め寄った。


「あのね、国際的な催しにだーれが、男物の地味ーで、暗ーい着物を見たがるっての!?私たちが求めてんのはね、そういう華やかなエチゾチックジャパンなのよ!ガキの分際で怪しまれずにパーティーに潜入したいなら、ちゃんと演出の事含めて考えてよね!?」


「はあ!?何で!?何で、女装を拒否した方が怒られなきゃならないの!?」


 掴み合い、引っ掻き合って叫ぶ誘拐作戦のメンバーに呆れながら、キティはそっと微笑みフライングラムを撫でた。横の窓と向かい合って空を見上げると、赤い瓦と対して雲のない青空。その秋の風情に安堵し、そして決意の目を空に翳す。


「逃げてきた側が追う側になり、そして追う側が捕まる日……それが明日。なんて奇妙な巡り合わせなのかしら」


 作戦が成功し、生意気なその口が自分によって猿轡をはめられる時、彼はどんな目をして背後の私を見るのだろうか。彼の瞳と同じ色をした空を見、加虐心と被虐心に胸が揺れ動く気持ちにぎゅっとラムの片鱗を握る。


 すると、左手の入り口から、瞑らな瞳を瞬かせるゴールデンレトリバーが入っては目前のキティへ駆け寄っていった。荒息を立てながら鼻を摺り寄せてくる彼を撫でていると、彼がラベンダー色の箱を噛んでいるのに気付く。それには白文字で律儀に「ヨーナス・トラヴィス」と書かれているのを知ると、キティの胸は別の鼓動を為して揺れた。



4、シテ内部、ついに来たる最終日


その翌日、シテ城内の昼。


G9のために観光客が一掃された城壁内、その中にひしめき合うは赤瓦の街並みだ。

寸時、そこには「現代」である事を忘れさせる程の「中世の世界」が区切り取られていた。入り門の跳ね橋は鎖によって巻き上げられ人の出入りを阻み、魔除けとして作られた不気味な人型彫像が刻まれた石壁や石門をくぐり抜けた先には、観光局用にひしめき合うカンテラガラスの貼り付いた、櫓付きの土産物屋店が並び、土産物を象った銅色の看板と、立て看板としての人形や模型がその中世の町並みを華やかに息づかせている。


 石畳の道をしばらく通った左端には、ゴシック様式とロマネスクが混在したシテ唯一の、サン・ナゼール教会が城壁より高く聳え立っており、北側と南側にあるバラ窓と壁には色鮮やかなステンドグラスが日の光によって極彩色に輝いていた。そして、その側にかつての司教が住んでいたという屋敷はホテルとなっており、こじんまりとした蔦覆いのそれはG9メンバーの宿泊所になっている。


 がしかし、彼らは今、教会の東、城壁の突き当たりに聳える「コスタム城」に席を構えていた。


 城壁、城壁塔には衛兵のごとく、トランペットという異名を持つ「FA―MAS」を構えた黒ずくめの監視員達が、物々しく間隔を均等に開けて囲っている中、新緑色の堀に囲まれた「城塞の中の城塞」と呼ばれるコスタム城の最上階に位置する、南の応接室にメンバーはいる。


 展示用に置かれた中世の甲冑、家具と、壁に貼り付けられた絵画がそれなりに風情を醸し出すが、決して広いとは言えない踊り場でもある一室に、彫像の石柱がいくつも並び立つ場所。窓から遥か遠くまで赤瓦の景色が見える中、特別に置かれた巨大な丸テーブルの上には、スーツ姿の9人の早老の男女が厳しい顔をして揃えていた。


「さて、いよいよ始まりましたな」


 きい、と、椅子に座る音を立て、窓を背後に肘をつく白髪の老人は、沈黙の中に頬の皺をあげて微笑む。その目尻にかけて細くなる眉をあげて話す、皺が多くも顔立ちの整った男こそが、アメリカを代表する、ジェイソン・ギルモア大統領であった。そして、今回特別にその両側に立つ二人の男を付き従えていた。


 向かって左には、白に近い灰の短髪を整え、灰色の一張羅を着こなす細身の男が。痩せこけた顔色の悪い頬の輪郭を持ち、髪と同じ色の目をした風貌。全てにおいてモノクロとしている、下院議員のアーサー・ベリャーエフ議員が。


 それから、対となって右に立つは、彼より10cm高い身長を見せつけ、その精錬されたしなやかな身体を深緑と赤縁の軍服で覆って胸を張り、口角をゆるりと上げる色黒の軍人、NSA長官兼アメリカ陸軍大将のマルコム・ワイアットであった。


 最終日のためにやってきた、「人間ならざる者」としての荘厳的な雰囲気を放つ二人に、思わず残りの、G9のメンバー達は緊張で息を飲んだ。


「あなた方がこれから、ムンダネウムについての師事をしてくれるんだってね」


 と、ギルモア大統領の右隣で鼻筋をのばし、唇を尖らせた様相で言葉を紡ぐは、イギリスのジェレミー・コリンズ首相。ギルモア大統領と古い顔馴染みのある彼は、腕を組み他のメンバーより少々気の置けない態度で二人を見上げた。


「ええ、ムンダネウム、とりわけ、トゥルーデの魔女に関しての事でしたら、アメリカの中でもこの二人の他に知ってる者はおりますまい。これから、私達が決める事柄において、何かしらきっと良い助言を与えてくれるはずでしょう」


 そうしてギルモア大統領がしゃがれた声で、皺の覆う右手をあげる。「トゥルーデの魔女」、彼のその言葉に一斉に動揺が走った事を、左の灰の目は見抜いていた。


「無理もない、何しろ、首脳陣が自国の被害を報告するのはこれが初めてなのだから……メンツもあって、今まで貯めていた事実がバレるんだ。動揺するのも無理はなかろう。」


 そう、心の中呟く一方、対にいる瞳孔の開いた黒い瞳は、まるで物見見物のように彼らを見下ろしていた。


「それでは、そろそろ話し合おうではありませんか」


 やがて、念をおす様にギルモア大統領は腕を組み合わせ肘をつき、司会者としての役割を背負う趣で呟く。


「第53回、G9首脳会議最終日の議題、トゥルーデの魔女とムンダネウムの対策についてを」


 しんとなった城内の中。そしてまず初めにと、肘をついたままギルモア大統領は神妙に語り出す。


「トゥルーデの魔女のついては、おそらく一番被害を受けている国は「私」であろう」


 と、ギルモア大統領は切り出した。


「私の所では、約五年前から魔女によるクラッキングを受けている。それによって起こってしまったトラブルも計り知れなかった。が、それは皆同じであろう?諸君よ」


 マルコムの指示通りあまり多くを語らず、ギルモア大統領は目配せして周りの相槌を促した。彼らもその内容を深くを掘り下げるつもりは無い様だ。ただ、頷いて口開く。


「そうね……私の所もあの……原子力格納庫の統制機関をハッキングされたわ…。あそこが暴走でもさせられたら……こっちだってお仕舞いよ……」


 今年の議長国であるフランスの、そしてG9メンバーの紅一点であるアントワーヌ・オベール大統領は俯きがちに赤い口紅を歪ませた。


「私も外国人登録者の名簿が改竄され、より多くの不法難民が流入する事態になってしまったよ」


 その隣、うずくまるアントワーヌ大統領の背中をさするは、イタリア首相のガブリエーレ・カルデローネ。G9メンバー随一の美形と評されるラテン系の彫りの深い造形を保ったまま、女性をフォローする事も忘れない。


「俺の所も、秘書の携帯電話が盗聴されて、娘の誕生日のプレゼントを先に知られた……!」


「「いや、それは知らんがな」」


 一方、全員の無言の突っ込みを受けるは、二重あごを揺らして拳を叩く、金髪碧眼の男。ドイツのテオバルト・ドイッチュマン首相。


 そうして皆が、魔女の被害を受けてる事実を、徐々に初めてメンバーにさらけ始めた。それは彼らにとって長年待っていた安堵、かつ屈辱的な瞬間であった。


「そして皆……、先月にその魔女からコレを言い渡されたのであろうな……」


 口ごもるギルモア大統領に代わり、脇からアーサーが黙ったまま体を縦にして、すっと紙をテーブルに置く。純白の中央に貼られたスタンプは、円と丸で形作られたシンプルなキャラクターが頬を染めつつ、ウインクをしながらにっと口角をあげている。三角帽子とローブをまとい、箒に跨っている姿は正に、


「そうだ……これが魔女のアイコンだ……」


「微妙に可愛いのが逆に憎たらしいわね」


 ギルモア大統領の両側から アントワーヌ大統領とカナダのシルヴェスター・コパーフィールド首相が覗きこんで呟いた。それに続いてアーサーは、首相の肩の上から銀燭色の腕時計をはめた手を突き出し、その紙を捲る。それに一同ははっと息を飲んだ。それは、メンバー全員の「個人用」メールに送られた魔女からのメッセージだった。メール文章には以下の様に書かれている。


「5年の猶予を与えた」


ギルモア大統領は徐に、最初の文面を読み上げた。


「我らトゥルーデの魔女を従えるムンダネウム一同は、貴様らによって歪んだ盤卓の世界を正せんとし、2xxw年までのムンダネウム計画を本格化する事に至った。それにG9もすべて順ずる事にしてもらう。

それに反発する形、またムンダネウム組織に刃向かう行動を取ると見なされた事があった場合には此方も如何なる処置をも辞さぬつもりでいるのでそのつもりで」


 フォントはそこで区切られ、最後には達筆なドイツ語で綴られる名前があった。


「ムンダネウム代表……ゲオルク・ライヒートか……!」


 テオバルト首相が大統領の代わりに呟き、悪態をついた。


「まさか、あの……研究都市ムンダネウムが、魔女を従えていたなんて……。意外だったと思いませんか、皆さん」


 薄いブラウンの垂れ目を泳がせ、薄い黒髪のオールバックをした細面の男、ロシアのフョードル・ブラギンスキー大統領が震えた声を隠そうとしながら呟く。しかしそれがあからさまに畏れである事を知ったギルモア大統領は、


「何を今更」


 と、言う様に今度は絶妙に含み笑う。それは真正面に対峙する、小柄で眼鏡の東洋人も同じであった。


「ん?でもちょっと失礼するよ」


 その思惑を読み取って手をあげる男が出てきた。


「……そもそもワタシ、これ見た時にムンダネウムの事よく分からなかったから、何の話かもよく分からなかったんだョ。そこまで戸惑うんなら、今一度ここで具体的に教えてくれないヵ? そのムンダネウムってのが、一体何の組織なのかを。」


 ぐもった声をあげる横っ腹の広い男、中国の胡慶紅国家主席は細い目を更に細めて、訝しげに辺りを見渡す。すると、戸惑っている事を指摘された フョードル大統領はぴくりと方眉をあげて、


「そうか、統制が厳しいとこっちの情報も得にくなるもんですかな」


 そう呟いて皮肉気味に笑う。それに二人が一瞬火花を散らした時、脇からジェレミー首相が間に入り、


「まあまあ、一応情報を共有する形で聞いてみようじゃないか。」


 そう留めて一旦は収まるも、


「お前が仕切ろうとするな」


 と、言う二人の思惑が漂う雰囲気となり、一気に場が張り詰めてしまった。


「まあとにかく」


 やがて、フョードル大統領は咳払いをしてこの空気の中で声を張り上げる。


「その事については正に一番詳しいっていう、彼に任せてもらおうじゃないか」


 そうしてロシア語で何かを呟き、向かいのアーサーを見上げる。それにアーサーは、


「分かりました」


 と、一度薄い睫毛を伏せてはロシア語で答え、前に出た。その只ならぬ間柄に、ギルモア大統領はマルコムと共に眉を潜める。それを脇目にアーサーは一旦クマに澱んだもう一度目を伏せてから、さっと見開き口を開いた。


「……ムンダネウム。それは元々、戦後下から冷戦までの間に行われた兵器開発にる激化した科学研究分野の中、ある一観的実験過程で作られた組織です」


「それガ、「国際研究実験都市」だったというのかネ」


「えぇ、その背景を知るには、当時……いや、今現在も続く、科学研究分野における課題について語らなければなりますまい」


 と、腕を組む胡国家主席に胸を張って向かい合い、アーサーは言葉を繋げる。


「そもそも科学研究というものは、前提として苛烈な競争社会かつ、莫大な投資によって賄われている分野です。研究成果はその競争の中で培われ、それぞれ違う国が同じ実験を行い、その研究成果の優劣で投資が行われ、実用化までのプロセスが為されている訳です。さて、この現状で出ている大きな問題を、主席、貴方はどの様に想像なされますか」


「それを我に聞くカ。愚問だねェ」


 と、腕を組む主席は、腹を机の縁に埋め込ませたまま深いため息をついた。


「競争社会には必ず敗北者が現れル。研究成果を得られず資金も無駄になったり得られないという悲劇に加エ、同じ実験を同時に行って一つしか得られないという非効率さも問題だネ。それに、負けた側の打撃も半端ないだろう。それこそ、科学者としての地位さえ脅かす程ノ、ね。」


「そうです」


「だから、競争ではない協同による科学成果を臨んだムンダネウムが生まれた、ト?」


「ええ」


 念を押すようにアーサーは低く答えた。


「今でこそ信じられないかもしれませんが、ムンダネウムは当初はその通りビジネスによって脱落した科学者保護と、その改善を臨むための慈善的事業として始まったものなのです」


「それは今も変わってないようでいるがなあ」


向こうにとってはね。と、付け加えるように、フョードル大統領は口角を歪めた。


「ええ。そしてムンダネウムは設立された当時は絶対失敗になると、えらく周りから批評をくらっていたようです。だがしかし、その賭けがどうだったか。それは、今になってようやく私達は理解出来たでしょう」


 アーサーは指を上げながら、石畳を鳴らし歩き出す。


「不思議なもんだわね。協同と競争、どっちが効果的かといったら俄然後者だと思うんだけど、どうしてそんな事に……」


 と、アントワーヌ大統領が体を前に寄せてつぶやいたとき、別の男の声が凛として響いた。


「魔女がそこで生まれたから」


 途端、一斉の目線が集まる中で、マルコムが窓辺を後ろ手に掴み、ついに口を開いていた。


「今から26年前、それはたった一つの偶然から生まれたのでしょう。ムンダネウムのスーパーコンピューターか何かの作用によって、突然他の性能をはるかに越え、ムーアの法則さえ乗り越えて、完璧な叡智を持った彼女が彼の前に現れ、彼の前に跪いたのです。その後の著しい研究成果、そしてその後の発展は偏に、彼女の助けさえ無ければ、為されなかった事だろうとこちらは分析しています」


「つ、つまり……」


「ええ。巷では彼女は、ムンダネウムの一機関という位置付けが為されている様ですが、とんでもございません」


 最後の言葉を嘲る声色で言い放ち、マルコムは張った肩章を歪めた。


「言うなれば、彼女こそが、ムンダネウムの核、絶対的存在なんですよ。彼女がいなければムンダネウムは成り立たないし、逆に彼女によって、ムンダネウムすべての恩恵はもたらされていったと、捉えるべきなのです」


 一言を強調したマルコムの語り口調に、皆がテーブルに手を突き合わせ、新たな彼女の定義に魅入っているその脇、アーサーは一人、背を向けたまま、斜め上に顔を傾け霞む灰の瞳を浮かべていた。マルコムの言う、絶対的存在という言葉をぼんやりと聞きつつ、その霞かかった視界に浮かぶ一人の「少女」の姿を見る。


 彼女は今、肩まで垂らした赤茶色の髪を、その細長い指でさらりとかきあげる。その流線の頬に毛先が当たってくすぐたいのか、彼女はゆっくりと微笑んでいた。時として群青の宝石の様に瞬く瞳を細め、艶やかな薄桃色の唇を優雅にあげる様は少女とはいえど、色気をほんのりと醸し出し、そして、手を添える仕草は慈母の面影を表している。


 この少女と女の節目にそっと立つ「彼女」こそが、トゥルーデの魔女。そして彼だけが知っている、サラ・コーヘンという名を持つ女の姿。


 そして、アーサーはそっと溜息をつく。彼女の編みあげた艶やかな髪を留めるかんざしに揺らぐ、その白い薔薇の美しさに。


「しかしこれはチャンスですぞ」


 突如、低い声色と共に含み笑ったマルコムの声に、アーサーは歩足を止める。彼女は、振り向くアーサーの肩に触れると共に煙となって消えた。


「ムンダネウムのすべてが彼女の恩恵であるならば、様はつまり、彼女さえ倒せればムンダネウムは壊滅するという事でもあるのです」


 しまった。そういう流れできたか。アーサーが訝し気に腕を振って顔を上げたのを、マルコムは今一度しっかり腕を組み合わせて構え、横目から見下ろして続けた。


「そう、つまり我々は彼女さえ倒してしまえば、後はどうとでもなるのです。複雑な様で実は至極単純な事態に直面している訳なのですよ」


 アーサーが椅子を蹴るように素早く詰め寄ったのに対し、マルコムはその目を交わすことなく正面を向いて手をあげる。それが壁に当たり擦れる音を立てた。


「私たち、アメリカはそこから、魔女壊滅作戦のために出兵を行うことを提案致します」


 あえて単調にいて言った言葉に一旦の沈黙が流れた。そしてざわめきが広がっていったがその中心、マルコムの隣に座るギルモア大統領は黙って足を組み交わし、その上に指を組んで乗せている。


「非常に口惜しい事になりますが、NSAの分析によると、魔女にこれ以上の防御でもって秘密情報を隠すことは限界のようです」


それはつまり、今のところ彼女に対抗する手立ては「世界中に存在しない」ということであった。彼らは悔しかった、アメリカに至らないその立場というのにも。


「だからといって、そのまま享受する訳にはいかない」


 続いてギルモア大統領が言う。


「ええ、なのでもう力づくでも潰すしかないでしょう。そのための準備は此方でも五年前から、瀬戸際の攻防戦の中で整えていきました」


ああ、やっぱりという聞こえぬ声が広がり、雑音となって消える。アーサーはその騒めきに分け入りたい羨望を抑え、それらを脇から睨みつける。と、


「それは些か難儀ですなぁ」


 その目配せに目配せして応える一人が、手をあげて言った。


「軍を出す、という事は、それぞれ議会の承認を得なければなりますまい。承認を得るためにクラッキングされてる事実を公表する、と、いう事を同時に要請してる意味にもなりますよ」


「そうだな、それではこの会議の意味がないではないか!」


ドイツのテオバルト首相が、はっと顔をあげて声を震わせる。


「そうよ!そもそもこれだって、極秘裏に行うために、ってした事じゃない!それなのにわざわざ恥を晒す様な事を要求する訳!?」


「まあまあ。アントワーヌ殿」


 苦笑しながらイタリアのガブリエーレ首相が腕を出す。


「そもそも頼りの人権侵害の摘発も、結局は証拠が足りないから示せないままだしなあ……」


 両拳を机の上に置き、ギルモア大統領を横目に睨むガブリエーレ首相に、ギルモア大統領は溜め息をついて目を伏せながら額に手を当てる。その二人の間にはダブルピースをし、栗色の髪をポニーテールにして笑うキティの幻像がある。しかし、そのため息こそがギルモア大統領の思惑の示しである事を次の言葉が裏付けた。


「分かりましたよ。それならば……私たちだけで出るしかないでしょう」


それに、アーサーだけが振り返って目を見開く。


「そんな…!貴方だってどうして議会の承認を得られると言うのですか!」


 その雰囲気から白々しい声をあげ、ロシアのフョードル大統領が垂れた目を吊り上げて言うと、ギルモア大統領はそれを遮る様に声をあげた。


「貴方たち、お忘れのようですがね」


一旦言葉を区切ってギルモア大統領は顎を引く。


「私の国だけなんですよ。ムンダネウムによって邦人が殺されたのは」


 その語尾が上がった老人の野太い声に、再び一斉がさっと波を立つ。先程の喧騒を呆れる様に見るグレイの濁った瞳に、一時の騒ぎを皆が恥じた。


「いいですか。皆さん」


 そして再び、念を押すようにギルモア大統領は語った。


「私達は今まで、貴方たちよりずっと密接に、そして今でもギリギリの緊迫感の中で魔女と関わっているのです。それにより、果敢に戦った多くのNY警官部隊がムンダネウムの救世主とか言うふざけた奴に腸を引きちぎられ、殉職した事をお忘れですか」


 会議中で唸る様に声をあげて怒るギルモア大統領の、荒々しい態度に皆が萎縮する。そこでは、さっきまで沈黙を保っていたカナダのシルヴェスター首相も、壁にもたれかかりため息をついた。


「それに殉職者だけではない、五年前の魔女の名を語ったテロリスト事件に突き入り、魔女はF35を自動に動かして、FBIの本部にまで侵入したのだ。そこで、我が聖母を、対策委員長であったアヴァ・ライス議員を殺害した!」


 怒りの声をぐもらせ、ギルモア大統領は拳に強く唇を押し付けて震える。


「えぇ。それによって、その場にいた彼も、瀕死になりかけたんですよ」


 と、後ろでマルコムは方眉をあげてわざとらしく指をアーサーに差して笑う。それにアーサーはその奸計に愕然とし、小走りする程に彼に詰め寄った。


「違う。待て。何を言っているんだ。」


 何故ならアヴァ議員は、何故なら私は。


 言いかけた所をギルモア大統領は目配せで「黙っていろ」と、素早くアーサーを切り捨てる。それに止まざらぬえなかったアーサーの、その憤りの無表情に、マルコムは今にも吹き出しそうな面持ちで口を結び、大統領を盾にする様に立ち聳えていた。


「とにかく、私は議会に承認を通すために、この事例を用いらんと欲しています。貴方方がそう出来ないとするなら、私達だけが行いましょう。ただ、せめて貴方たちには、それを容認する態度を示させていただきたいのです」


 ふっと笑ったギルモア大統領の伏せ目に、そこでようやく聡明な一同は、これが彼の誘導である事を思い知ったのだ。


「私だけ、という事もあるので、その報酬としてムンダネウムから得られた施設、科学技術等はすべて私達が特許を得る事に致しましょう。なぁに、貴方方の被害をもすべて代わり解決してあげるのです。それ位の事、良識ある一等国の、誉高きリーダーである貴方方ならまさかぁ、反対などなさらぬでしょうね?」


 語尾をかすれるような声をあげて、ギルモア大統領は首を傾け皺だらけの目端と口端をそっとあげた。その艶めかしい「正義」の言葉に皆は辟易したように顔を脱力する。


「そ、そんな……」


 それは、普段自分が口泡出して言うものであったから。会議の結末に満足したように肩をあげて息を吸うギルモア大統領の横、ロシアのフョードルは牙をむき出しにしたくなる口の震えを必死に抑えつつ、向かいを乱雑に睨みつける。


「はえ!?僕何かしたっけ!?」


 と、怖れでのぞけり背中を壁にぶつけるシルヴェスター首相を避け、アーサーは後ろから身を乗り出して机に手をつけた。


「少し待って下さいギルモア大統領。その決断は、これを考慮した上でのものなのですか」


 口調を強め、テーブルの上にあるメールペーパーを手の平で叩いた。


「ここに書いていたでしょう。刃向かう態度をとれば、ムンダネウム側がそれなりに対応するからそのつもりで、と。それによって何かが起きてしまう事態を考えないのですか」


 それに大統領は唇の下に皺を描き、黙らない忌々しき「同胞」を見上げる。


「起こる事とは……何かね。まさかすべての核兵器を操って魔女が仕返しするとか何とか、かね?」


 皮肉めいたマルコムの冗談から、一瞬目前に火花が散らして互いがすれ違う間、アーサーは、


「彼女はそんな事などしない」


 と、確信をついた声で言った。


「いくら悪の組織と定めど、そんな馬鹿をするはずがない。私が予測する限りでは、おそらく自らの大罪を相手にも見せつける方法でもって牽制をするのでしょう」


「と、言うと」


「私達が今まで行った違法諜報活動をすべて見せしめにする」


 再びアーサーを中心に、悲鳴にも似たざわめきが湧いた。


「そうだ。そんな事をしていたのは何も、魔女だけではない。我々だって今までは同じであったはずです」


 心当たりはない、とは言え、無い確証も無いという、心もとない互いの気持ちを確認する様に困惑の目で睨み合う各国のトップ達。その額に流れる冷たい汗は、同時に肝まで冷やした。心に幾つか引っかかるアレやコレ。その先に見いだす世界の崩壊にただ、畏れて。


「今までの諜報活動がすべて知れる事になった、と、いうだけで世界各国は信頼を失うばかりか」


 その「内容」によっては、「戦争」が起こるきっかけでさえも――、


「み、認めるかぁぁぁああああ!」


醜態役を引き受け、拳をたたいたのはテオバルト首相だった。


「ギルモア大統領!ムンダネウムに出兵はどうかご遠慮願いたい!そうなるとこれは貴方方だけの問題ではなく、我々の命運にも関わる話ですぞ!」


「そうよ!それこそ魔女の思うツボになってしまうわ!」


 続いて例のごとく アントワーヌ大統領もつかみかかる。


「どっちにしロ、それに一番困るのは美国、あんたの国だろうねェ」


 腕を組み悠々と薄い口角をあげるは胡主席。その隣でさっきまで火花を散らしたフョードル大統領は主席に体を寄せて笑う。一気に責められたギルモア大統領は、腕を組んだまま微動だにはしなかったが、その一方、マルコムはこの様にアメリカが利得を得る事を懸念する強欲な彼らを「誘導」し、手中に収めた黒い死神を流し目に睨んだ。


 ギルモア大統領の「精神論」にもあれやこれやと喚く彼らはまるで、それを淡々とクマが縁取る灰の目で眼下に見下ろす、「死神」の妖気にとり憑かれたゾンビ共の様に見えた。


 しかし、マルコムはそれでも笑う。


 そんな事もあろうかと、予定通りに目配せをして目を細めては、口角から白い歯を剥く。その妖気に取り憑かれていない唯一の相手に対して。それは、


「ん?別に良いんじゃなあい?」


 その時であった。周りの喧騒をあえて助長させるような、耳に張り付く様な粘り気のある声。それが奥から響いたのだ。その間際に挙げられた手、ふっくらと膨らんだ艶やかな指が、ゆらゆらと宙に揺れる。


 それは、長い沈黙を破った日本の首相、田中来栖のものだった。


 それにメンバーが、そしてアーサーが気付き、驚きの目が一斉に彼の顔へと向けられた時、田中首相はひゅうと口笛にも似た息遣いで笑みを浮かべ、挙げた腕をその短く太いもう一つと組み合わせた。


「田中首相……」


「ギルモア大統領、僕は別に構わないと思うよ。どんどん兵を出しちゃえばいいんじゃない?僕も安保条約で自動的に自衛隊出兵させる事も出来るし、いつでも支援はしてあげるからさ」


「な……!」


 その時、胡主席が初めて困惑の声をあげた。こんなにも安保条約を得意気に言う日本の首相が今まであった事か、と。


「お前アホか!?こんな事容認でもしたらアンタも同じ穴の狢になるぞ!」


 つい口調が私用になってしまった胡首席に対し、田中はにやける口元を指に添えて首をあげながら笑う。


「べつに?だって僕、全然後ろめたい事なんてしてないもんね。逆にありがたい位だよ。それでようやくムカつく「奴ら」を、正常位から責められるってんだ」


 二つの意味でね、とウインクしてみせた田中首相に、二重あごを震わせ睨みつける胡首席。その反応を解せずに途端、田中首相は真顔に戻り、上目遣いにそれを見る。


「あのさあ」


 その後に続いたのは、淡白な唇の動きが紡ぐ言葉。


「裏工作や謀略ですべてが何とかなるとか、思ってんじゃねぇよ」


 積もりに積もったその恨み。狐のように細長い目からぬっと片鱗を覗かせた田中首相の、その瞳孔の開いた目に、胡首席は、もとい後ろでその背中を掴むフョードル大統領は、バツが悪そうに顔を背けるしか出来なかったのであった。

 一方、その様子に唖然としている一斉の中、ギルモア大統領は唇をすぼめ意外そうに顔をあげている。それに、田中首相は両側の二人を脇に寄せる形で腕を広げ、彼と同じように肘をつき、指を組み交わせてはむふふと笑った。


「まあ、私達日本には、廃棄物処理に関する責任もありますからね。そろそろ、その肩の荷を下ろしたいと考えていた所です」


「ほほお。それはそれは。潔白という強みを持ってる貴方ならではのものですな」


「そうでもないでしょう、ギルモア大統領。貴方にだってあるはずだ。そんな脅しに怯えずにいられる、その確信を」


 白々しく答えた田中首相の微笑みに、しばらくの沈黙の後、嗄れた細い指でこめかみを押さえていたキルモア大統領は、そっと呟いた。


「ええ、確かに。それに怒ってどこかが戦争を仕掛けてくるなのらいっその事、仕掛けてくればいい。そんなの私には何の問題のない話しだ。なにしろ……」


 すると、ギルモア大統領は田中の仕草を真似て身を乗り出し、尖った顎を手の甲に乗せる。そして、悠々とはっきりした声で、澄んだ秋の空気を斬った。


「負けるつもりはないからね」


 G9の最終会議はこれにて閉幕した。黒い影から白い眼差しを向けて睨む、アーサー唯一人を残して。



4、バレる


 ランタンの格子から漏れる灯に映し出されるは、土塊たドーム。その中を踏みしめ、土音を立てながら縦に進む大小の黒影はキティと武士だ。フロランスの指示通りに二人は今、秘密の地下通路を息を潜みながら歩いている。どうやら、地下通路は地面と接する間近まで掘られている様で、天井から人の声と区別のつかぬ声が歩く二人の影を追いかけるように通り過ぎっていった。


「いよいよ、パーティーが始まるようね」


 キティは削り取られた土塊の天井を見上げて微笑む。その首筋から顎にかけての流線は彼女が色黒である事を忘れさせる程の灯火の白さで縁取られ、つい武士は厚く塗った赤い唇を微かに揺らして笑った。


「楽しそうだな、キティ」


 それは武士も半分は同じだった。大物のパーティーに忍び込むというスリルと共に、これが終わってしまえばジョージが、そしてキティが、互いにここまで「相手」にこだわる必要が無くなってしまう事に対してである。

 そうすれば。ムンダヌウムに行くまでしばらくはもう、誰にも邪魔をされずにキティと二人っきりで居られる。早くそれが叶ってほしい気持ちと幾ばくかの不安が、地下牢の暗さと冷たさと合い重なって心を震わせ、彼の歩調を早めさせるのだった。

 しかし、そんな面持ちで顔を上げてみたら、途端それが萎縮した心地に駆られ、武士はザクザクと進み行くキティの後ろ姿に眉を歪ませ、土の匂いをつんと嗅いだ。

 目の前に揺れるは、天辺をお団子結びにして、腰まで炭で塗りたくったような黒髪のウィッグをかぶるキティだ。武士の愛する翡翠の瞳は、今や安っぽいコンタクトレンズによって凡庸なブラウンで覆われ、健康的な小麦色の肌はこれまた粉がふいたような白いファンデーションで塗りたくられ、不自然に洞窟に反射した光に瞬く。せっかくの胸の膨らみもギリギリの所まで絞りに絞られたたスーツ。武士の振袖に対する彼女の変装が、それだった。


「普通パーティーに忍び込むってんなら、女の方が豪華なドレスでも着て招待客に紛れ込むもんじゃねぇのか……?」


 だがしかしここは現実、そんな事が滅多に起こるはずもない。


 そんな誰かの声が洞窟に響く心地がして、じゃあなんで俺の方がこんな派手な物を着てんだよ、と、桃色の着物が土に汚れぬ様、乱暴に裾を上げた武士なのであった。


「着いたわ。あの扉の向こうがコスタル城の端、パーティーの会場よ」


 いよいよ、と、キティは立ち止まって指を差す。その先には凹凸を為す土塊の扉の片側が、線のように黄金色に輝いている。ランタンを突き出し、黒髪のキティは意志に燃える黒の瞳で武士に振り向いて微笑む。


「さあ、いよいよ行くわよ」


 それに武士は真っ赤な唇を開け、慈しみ気に彼女を見上げた。みずぼらしいと言えど、やはりどこでも凛々しくと佇む彼女は美しい。そう思える自分にも自惚れながら、ふと自然に口を開いていた。


「キティ、この作戦が終わったら、お前に言いたい事がある」


「え、何そのフラグ」


 と、冗談気味に笑って振り返るキティに武士は目をそらした。彼女の腹の上にぶら下がる純黒のカメラが視界を覆う。


「とにかく、この作戦は、何が何でも成功させようぜ。お前にとっても、俺にとっても大きな節目になるだろうから」

 

 その声は掠れたが、彼女のカメラ持つ手を握るその力は強かった。それは、今時の別れを惜しみ、彼女の無事を願うために。


「分かったわ、待ってる。だから絶対に成功させようね。また、会えるために」


 すると、何かを察した様な落ち着いた声で、キティは彼の震える手を握った。冷ややかな手に重ねられた暖かい感触。武士はその手に額を乗せて目を伏せる。今までの事で、ジョージがどれ程強くて、そして厄介なのかを武士も知っている。しかし、それを乗り越えた先に見える未来は、その事実さえ霞ませてしまう程武士の脳裏の中で瞬いているのだ。


「どうか……無事で」


「貴方もね、武士。そして…ありがとう」


 その声が微かに震えを抑えた様に見え、武士が顔をあげた時には、既にキティは背を向けて立っていた。握られた手を離し、カメラを携え、まるでさっきのやりとりから振り切る様に溌剌とした声を上げて洞窟の奥へ進む。


「さあーて、じゃ、始めるわよ!ジョージ誘拐作戦、開始ぃ!」


 腕を振って勢いよく開かれた扉。その甲高い音が、コスタル城で起こる事件の幕開けだ。


***


「A votre santé(乾杯)!」


「みんな、今日まで本当にお疲れ様!今までの疲れを挽回する位楽しんでいってね!」


 夜9時。シテを一望できる見晴らしの良いテラスに手をつき、深紅のドレスを着飾って手を振るアントワーヌ大統領がワイングラスを掲げ円満の笑みで言う。その瞬間、一斉の「乾杯」が、庭の星瞬く夜空に鳴り響いた。


 こうして、ようやく最終日を終えられたG9に携わる大勢のアシスタント達は、数々の豪勢な食事が並ぶ白テーブルを囲んでその時を心より祝福した。パーティーの舞台は世界遺産、コスタル城の「すべて」。橙色の丸ランプが彼方此方に点在しているだけの控え目な演出は、より歴史有る石作りの風情を醸し出し、さすが期待通りだ、と、参加者たちは互いの衣装を見合わせながら微笑み合いグラスを翳す。


 中庭の向かい、テラスを真下にくぐった大広間は、これまた吹き抜けのが会場一面の広さを露わにし、クラスコ絵画の天井を始め、ロココ調の巨大な逆三角のシャンデリアが、感嘆に見上げる者を鮮やかにその蝋燭と垂れ下がった硝子珠で輝かせる。その中庭と対象的に、派手に演出された会場にも、白テーブルが並び、キャンバスに色彩溢れるかの如くフランス料理が載せられる。それに参加者たちもこぞってフランスの「芸術」に舌鼓を打ち、会話を華やかにしていたのであった。


 一方、それを階下から見下ろすアントワーヌは実に満悦愉悦だった。他のメンバーらは、全員黒タキシードに黒の蝶ネクタイ姿で背後に構えていて、彼女はその真ん中の前に立っている。唐草模様のテラスに肘をつき、一人深紅のドレス姿で手を振る様は、さながら同じ服着た家臣を従える城の女王様だ。その光景にフラッシュをたく階下のカメラには目を向けず、アントワーヌは議長国としての優越感に満たされた心地で、背後に一列になって並ぶ男達を見定めた。


「秋が始まったばかりとは言え、冷えますよ」


 その中で早速彼女を気遣い、テラスに向かうはガブリエーレ首相だ。その赤褐色の巻き毛と、優美な曲線を描いた顎に生える髭を丁寧にセットした構えは、彼の元から培った端正な顔立ちをより際立たせる。その情景を、疲れた体で早く回った酔いも手伝い、アントワーヌは惚れ惚れした眼差しで見上げて微笑んだ。


「ありがとうガブリエーレ、でもそれには及ばないわ。もうすぐ天使がやってくるから、その時まで待っていたいの」


「ほう。天使とな。一体どういうものなんです」


 と、ささやかなおとぼけ顔で口を開く彼に、


「それは、その時になってからのお楽しみ」


 そう微笑みながらその口に人差し指をつけ、その指は続けて彼が差し出すマカロンをつまみひょいとその真っ赤に塗られた唇に寄せて口つけたのであった。


「さっすが色男(ロメオ)だな。さっそく女王様に取り入ってやがる」


「まあまあ、そっとしといてやるのが我々紳士のエチケットでしょう。ささ」


 膨らんだ頬を震わせて訝しげるテオバルト首相の背中を押し、ジェレミー首相はテラス向かいにある専用の会場へと誘ったのであった。それに続いて、他のメンバーもそぞろになって会場と向かった。豪勢なホワイトケーキを中心に広がる、各国代表メンバー専用の会場にも、巨大なシャンデリアが金粉のごとく一流料理を照らす。やがて、会場の荘厳なる装飾めいた出入り口から、代表と関わりのある人らも挨拶にと入っていき、談笑という名の腹の探り合いが始まっていった。


 ざわめき始めた会場をその端から見守るは、脚を組み交わせ、片手に飲みかけのワインを持つタキシード姿のアーサーだ。一方、その隣に同じ服を着て立つウェッブは、窮屈そうにはち切れる服を左右に捻りながら、側にある食事を次々と頬張っていた。


「うんめえ!ちょーうめえ!っすがフランスだなあ、オイ!」


「フランスでもどこでも、お前はそれしか言ないだろ」


 そう皮肉る礼服姿のアーサーに、フライドチキンを片手に噛みついたウェッブは見返って笑う。


「そんな事ねえよ!料理ってのはなあ、景色も味の一つになんのよお。この世界遺産で食べれる一流料理なんて別格の別格だろ!」


 と、噛みかけのフライドチキンを差しながら窓から広がるカルカッソンヌの夜景を見やる。


「美味しく食すには、作法も大事な要素だと思うが?」


 それにアーサーは呆れながらも、久々に感じた友人との和やかな雰囲気で緊張に解かれた心地良さに目を伏せ、窓の縁に手をつきワインを飲んだ。


「確かに、良い景色だ」


 中庭から遠くまで見える街並みを見ながら、一言。


「ああ、俺もフェルナンデスやら、サーラーやらみんなから羨ましがられたぜ。こんな景色アメリカじゃぁねぇもんな」


「ああ、私も久しぶりだ」


 夜風に灰の髪を微かに靡かせ端に肘をつくアーサーの、疲労にやつれた中でも見える目の輝きに、のウェッブも安堵したように微笑んで共に景色を見上げた。


「あー、たしかーお前がフランスに行ったのって何だかんだと結構、昔だったけな?」


「ああ、大学の卒業旅行で友人と行った時だったな」


「あ、あん時の事はよう覚えてるぜぇ。俺、超羨ましかったもん!」


「ああ。楽しかったよ。2人でこの景色を見、フランス料理に舌鼓を打って、泊まった時も興奮して話が尽きなかったりな。あの時は若かった」


「へぇー。その友達って誰」


「お前とだったはずだが」


「へえっ!?」


 突然の事実に戸惑い、記憶を引き出せないままでいるウェッブを、


「老けたな」


 と、目端にぽかんと口開くウェッブを見やり、無表情のままアーサーは通り過ぎていった。


「く、くっそお。なめんなぁ!」


 途端、恥ずかしさで顔を染め歯を食いしばるウェッブは、開いた片手で背後から彼の左手首を掴み上げる。


「何をする」


 それを訝し気に振り向いたアーサーに、今度はフライドポテトをその眉間に突きつけて笑った。


「まだまだ俺は現役だぞアーサー!だって俺ちゃんと覚えてるもんね!お前がつい半年前に時計を替えたばっかだって!」


 それは、ほんの焚付けのつもりだったのだが、その瞬間、アーサーの疲労で淀んだ灰の目が驚きと懐疑とで瞳孔が開いた事を、その笑顔から読みとってはウェッブも目を見開く。


「う、なんだ。パーティーだからって調子乗って悪かったか?」


 そう思う間に、アーサーはウェッブの手から素早くすり抜け、皺になった手首の裾を整える。


「いつから気付いていた」


「え、ああ。付け替えた瞬間からだぜ、アーサーさんよお」


 慌ててポテトを頬張り手首を腰につけて、後ろから近寄ってウェッブは声を強めて言った。


「ほら、今まではブレゲなんとかっていう妙に洒落めいた女々しい時計だったじゃねぇか。それが今や何だ。G―SHOCKなんて急に男らしくなりやがって。別の意味でてめーらしくねぇな」


 それは、その白い細腕に嵌らず盤がそっぽを向いている、凹凸が成す黒一色の時計だった。それを見下ろしウェッブは方眉をあげると、それから避ける様アーサーはさっと背を向き、そそくさと袖の中にそれを隠したのだった。


「別に、ブレゲのは壊れてしまっただけだ。その修理の間にだけつけてるだけだよ」


「にしても半年は長すぎね?なんだよ、良い目付からお墨付きもらったって結構気に入ってたのに」


「そんな事あったか」


「ほーらお前も老っけたー!なんで忘れんだよ!あんなに仲良かった奴じゃん。お前みたいに頭良かったから、居酒屋のカウンターでチェスよくやったりよ」


 と、言ってみるも、アーサーは首を傾げたまま口を閉じている。


「いや……知らんな」


「はぁ!?嘘だろ!?俺今でもリアルに思い浮かぶぜ!ほら、背が高くてあの髪が――」


「名前は?」


 すると、そう言われた所でウェッブは途端振り上げた指をぴたりと止め、左右に目線を泳がせてしまった。


「あ、れ……何だっけ」


 萎んでゆく彼の声の後に、しばしの沈黙が流れ、アーサーは一言。


「老けたな」


「るっせえ!」


 久々にして、ウェッブはアーサーのその薄い鳩尾を撃ったのであった。


「ウェッブ、それよりもな、私はお前に言っておきたい事があるんだ」


 やがて揺れる視界の中、タキシード姿の鳩尾部分をさすりながらアーサーは呟いた。


「G9の会議の事、このままだとムンダネウムへアメリカ軍が出兵する可能性が高くなった」


「な……!」


「静かにしろ。まだ代表間でしか話されていない内容だ」


 ウェッブは慌てて四方を睨みつけながら、アーサーの脇に寄り耳を立てる。


「そんな、よりによってお前の説得に効果がなかっただ、ど……?」


「悔しいがそういう事になるな。前もってフョードル大統領を盾にして説得する手だては打っておいたが……、まさか、向こうが簒奪の取り分を減らす事も厭わず、最終手段に田中首相を使うとはな……どうやら、私の見込みが甘かったようだ」


「なあるほど、あの古狸をねえ……」


 と、会場の真ん中で胡主席と大声で笑い合う小柄の狸を、目端に見据える熊である。


「ああ、しかも彼らはネバダテロ事件をも駒にして、犯人のアヴァ・ライスをムンダネウムの被害者に仕立てあげ、議会に出兵を承認させようとしている。全く只でさえ、ネバダ州民に対する配慮をと、アヴァ議員の名指し避けをあれほど私が躊躇して、自分の意図を捻じ曲げてでも許諾したというのに。それを安易に利用する手立てをとるなど、卑怯者共め。よりによって、この私の目の前で。許さぬ」


「アーサー……」


 アーサーはその時、特に拳を握る事もしなければ、閉じた薄い唇は怒りに歯を食いしばる事もしなかった。だが、その低い声と取り巻きに囲まれ笑っているギルモア大統領を睨む無表情が、皮肉にも彼の怒りを何より饒舌に語っていた。


 アーサーはギルモア大統領の笑う横顔を見ながら思う。もし、自分が彼であったならば、あの代表を囲むテーブルに堂々と座って「黙れ」と、言える立場がもし自分だったとしたら。どれほど結果は、世界が変わっていた事だろうか。


「だがしかし……それが出来なかったのは、不甲斐なかった私のせいだ」


 今一度、深いクマに覆われた目を伏せて、アーサーは自身を責める事によって自身を慰める。戸惑うウェッブの横で、「次は負けるな」と、景気づけに、ワインを尖らした喉仏を揺らして飲み干しながら。


「だが次は、そうはさせない」


 血を求める吸血鬼のごとく赤いワインを拭った色白の男は、疲労をも超える意志に目をこらした。


「フランスから帰ったら、早速議会で対抗する。アヴァ・ライスの事を持ちだそうなら、この私自身が証人となって、何としてでも弾劾してやる」


 それを見、ウェッブは眉を顰めて詰め寄った。


「おいおい、早速って……やっと今日大仕事が終わったというのに、またアメリカにすっ飛んで仕事なのか?」


「仕方ないだろう。私には、議会にこの立案を不承認しなければならない義務があるんだ。いや、私にしか出来ない事なんだ」


「おい、やめろ。アーサー、お前どうした。ちょっとおかしいぞ」


 気だるい体を無理に立っている様に見えるアーサーの揺らぐ肩を支え、ウェッブが優しく留めるもアーサーは目の周りが陥没してしまう程の暗い面持ちのまま、ウェッブを見る事無くただ前を向いている。


「ああ、また悪い癖が出やがって」


 と、ウェッブは彼の肩を再び強く、愛しく握った。


「その通りですよアーサー殿。少々休まれてはいかがです?」


 すると、その様子を脇から高みの見物としていた宿敵、マルコム大将の柔らかな声が響く。後ろ手に腕を組み、左右の食事には一切手をつけず近づいていく様は、より筋肉の盛り上がりが強調された薄着のタキシード姿によって、精力に満ち満ちた健康的な有り様を示していた。


「ちっ、来やがったなブラックパンサー」


 憚りも無く舌打ちしたウェッブが忌々しく睨みつけて前に出たが、その袖を掴む事によってアーサーは無言で「いい」と断る。


「さっきから聞き耳を立ててみれば、随分と物騒な事を仰るではないですか」


 それに、シャンデリアを背景に黒い影を差すマルコムの白い目がぼんやりと光った。


「その通りだか何か」


 同じく濁光する灰の目を見上げ、対抗するアーサーとの狭間でウェッブは困ったように額に手を置く。


「は、それは困りますね。これは要は時間の問題なんですよ。出兵はそのタイミングによって、損失の有無は大きく異なるものです。それを知らぬ平和主義者に、むやみやたらとタイミングを掻き回されるのは、非常に迷惑な事ですからねぇ」


 語尾を上げて額に手をつける湿っぽい仕草は、滑稽の中にある彼の嫌悪感が滲み出た。


「政治に口を出す資格などないぞ軍人。これはあくまで大統領と私との戦いだ。君に出る幕はない」


「ほう。大統領が私の考えに沿っていらっしゃる事にはふまえませんか」


「尚更だ。私は大統領を私の元へ引き出す事を、議会に対する目的とする。君の側にいるから駄目なんだ。人の死を冒涜し、利用する事しか知らぬ君がいる限りでは、絶対に」


「は」


 すると途端、急にマルコムの口調が低くなり、厳しくなった。たった一言だったが、それで分かる勢いだった。


「そう思うのでしたら、貴方はあの事件で死んだ人の名を覚えておいでなのですか?」


「何が言いたい」


 そこで眉を顰めたアーサーに、マルコムは胸を張って言う。短調に、その中に微かなる哀愁を微かに滲ませながら。


「メンバーだけじゃない、あの事件によってアレクサンドロス・スミス巡査を始めとし、 ベン・フランクリン警部補、キース・ブルックス 巡査、キャサリン・ケード捜査官、 ルーシー・ゴールウェイ刑務官、そして ピーター・ライス、ジュリアナ・ライス夫妻 、そのご子息で小学校に入ったばかりのライオネル少年まで犠牲になりました。猫事件もよく覚えてますよ。ムンダネウムの用心棒、ホセによって隊長率いる部隊12人がすべて腸を引きちぎられました。ええ勿論、またまだ数え切れぬ程大きな犠牲を被りましたが、それでも私はその名前をすべて、この胸に留めていると自負しています。大事に、そして、いつまでも」


「ブラックパンサー……」


 ウェッブがその偽りのない深淵の眼を見張る頃、アーサーはそこでマルコムが自分に言わんとしてる事を静かに悟る。


「さあ、そう言う貴方は一体どれ程の死者の名前を覚えているのです。まさか、何も言えないままそんな口を叩く、という訳ではあるまいでしょうね」


 鼻を鳴らして見下ろすマルコムに、あくまでアーサーは長い沈黙の中、口を開いて答えた。


「それには及ばないな」


「と、言うと」


 お前に何が言える、と、いう怪訝の目を指の隙間から覗くマルコム。それにアーサーは薄く唇を開く。


「今ので覚えた」


 それを聞いた瞬間、マルコムは口を開いたまま固まった。再び始まる沈黙。その中でウェッブとマルコムの二人の間でだけに空気が張った。


「あ、あのなアーサー……ブラックパンサーは…そういう事を言いたかったんじゃなくて…。おおわっ!」


 思わず上ずった声を出すウェッブに対し、途端マルコムは彼の肩を引っ張りその場から離れると、ウェッブに突きつける様に怒りの顔で一気に顔を近づけろ大口を開けた。


「おい、今ので分かっただろ、ウェッブ!私は、あいつのああいう所がだいっ、嫌い、なん、だ!」


「わあった!わあったら興奮すな!ひとまず落ち着け!」


「そもそもついこないだだって、FBI捜査官の積年の告白もアッサリと断ったんだってな!それを部下に咎められたら「好意を持ってない事は別に悪い事でもなんでもないだろ」って本人の前で言ったて!?どんっ、だけ気遣いがなってないんだアイツは!大統領になれないのってそれが原因だろ、それが原因だろ!なれる訳ないだろうが馬鹿が!」


 と、いつもの飄々とした態度が途端、ウェッブの前では腕を振って乱雑に文句を垂れるものへと変わっている。


「あー、やっぱ噂になってんの。あれねぇ全く……、俺がその後どれだけその分までサーラーを慰める羽目になったか……」


「な!」


両肩をぐらぐらと揺らされながら答えるウェッブは訝しげに、眉を歪めて為すがままにされていた。そんな背の高い黒人同士の喧騒を横目に、アーサーは全く興味を介せず、再び窓の端に手をつきながら中庭の会場を見下ろす。しかしその目は明かりに瞬く会場ではなく、更に遠くの展望を見定めていた。


「まだ、勝算は私にあるはずだ。議会の不承認を得るだけではなく」


宙に下ろしたアイフォンを持つ手を握り、


「私にはまだ切り札が」


その手首にある時計をもう一つの手でさすりながら。


「ジョージがまだ」


そうして喧騒を背後に小さく呟き、目を伏せる。 そして、右手の親指がそっと画面を撫でた時、メールが送られた。それは、彼に宛てたものだった。


「パーティーは難なく続いている。これから後三十分、10時をもってして、お前と同じ格好をした男がスマホのGPSを辿ってやってくる。彼の案内に従い部屋に迎え。私もそこで待っている。そこで教えてあげよう。君のこれからの行く末を」


***

 

 中庭で続くパーティーでは、上の者が知りようもない悲喜交々(こもごも)があった。すると、その隙間にそっと割り込む様に、真ん中に聳える楠の木から突然、天使が羽毛を落として舞い降りる。


「ハァーイ!みんな、おっまたせえー!」


くるりと一回転した間際に、背中の天使の翼を広げ降り立つは、純白のドレスを靡かせるフロランスという名の「天使」であった。


「うわぁ、そっと所じゃねえ。堂々とだコリャ」


 脇の円柱から見守るは、多の参加者と共に驚きの声で見張る武士だ。一斉の視線が集まった様子をフロランスは実に楽しそうに、その紫色の瞳で見渡し手を振って微笑んだ。


「どうもどうもこんにちは~!あたし、このパーティーにシャンソンを歌うために招待されたフロランス・パラドゥーリュって、言いまーす!CDも幾つかリリースしてるから、気に入ったらそこん所もよっろしくう!」


 荘厳なパーティーの渦中に、大声をあげて指を差す様は、彼女が田舎娘である素性を露呈し、参加者達の呆れを促す一方、滑らかな漆器彫刻の造形を為す天使の羽ばたきよって揺らぐ、長い金髪の瞬き、その輪郭が縁取る整った小顔、そして体の線に沿った上質なコルクが描く艶めいた体型に、男たちは感嘆へのため息に酔いしれた。


「これはまあ、写真で見るよりずっと美人ですねぇ……」


 その脇、パーティーのボディーガードとして円柱によりかかるタキシード姿のヨーナスも、頬を染めだらしなく口を開き、他の男達の例に漏れず天使に魅入っている。その横を武士は顔を袖で伏せる形で横切り、マイクを持ってウインクする彼女の横に腰を折って構えた。それをちらりと見返りながら握ったフロランスの指によって、マイクが曇った音を立てて揺れる。


「準備OKー!それでは聞いて下さい!とってもキュートでラブラブに!題名は「聞かせてよ愛の言葉を」!」


 慌ただしい登場はやがて、滑らかな、それでいて水の跳ねるような旋律を響かせるピアノの生演奏によって整えられ、ゆっくりと始められた。フロランスはそこからそっと息を吐いて肩を上下し、凛と顔をあげると、そっと桃色の唇の繋がりを離す。大人しいピアノとフルートの旋律に絡まる歌声は、その美しい顔立ちによって更に妖艶に響いていく。


Parlez-moi d'amour,

  Redites-moi des choses tendres.

  Votre beau discours,

  Mon coeur n'est pas las de l'entendre.

  Pourvu que toujours

  Vous repetiez ces mots supremes:

  Je vous aime.


  Vous savez bien

  Que dans le fond je n'en crois rien

  Mais cependant je veux encore

  Ecouter ce mot que j'adore.

  Votre voix aux sons caressants

  Qui le murmure en fremissant

  Me berce de sa belle histoire

  Et malgre moi je veux y croire.


(聞かせてよ  あなたの愛の言葉を その言葉が わたしの心をときめかすの何度でも その言葉を繰り返してね 愛してるって)


(わかってるでしょ わたしがあまり信じてないって それでもやはり その言葉を聞きたいの あなたの声はやさしく 震えるようなささやきで わたしをとりこにするわ だから信じていたい)



 腰をくねらせながらゆっくりと城を見渡し、のびやかに、また跳ね上げながら、彼女は恋する乙女の胸の内を歌う。顔も声もそして胸も、艶やかに揺らしながら。参加者は再び感嘆に息を漏らし、この歌があってこそパーティーなのだと目を伏せ、微笑みあった。


 その華やでまた憂いある乙女の心情を謳う歌詞は、フランス語を知る者は眉を下げ、くすぐられた今昔のときめきを思い出し、一方、知らぬ者は音色の心地よさに眉をあげる。


 それにフロランスは美しい微笑みを見せる。も、その紫色の瞳は、そして背後で口元に袖を寄せる妖艶に揺らめく漆黒の瞳は、麗しく佇むであろう「ジョージ」の姿を捉えられずにいた。それは、向かいの三階の窓から神妙な面持ちで撮って構えるキティも同じだった。


***


 その頃、ジョージはフロランス達とは巨大なもみの木を挟んだその向かい、その右端に建ち聳えるC塔の中にいた。螺旋階段となっている円筒二階に位置する狭い踊場の壁に寄りかかり、石の小口が囲む窓からその中庭を目端に眺めていたのだった。

 

 左手をタキシードのポケットに突っ込み、右手にワインを掲げて見下ろすジョージにも、フロメリアの歌声は聞こえていた。しかし、その姿はイルミネーションに輝くもみの枝木に隠されてしまっている。それなのに、意味も分からないその音色にジョージは何故だか目を外す事が出来ず、俯いた顔の長い金の睫毛が哀しげに、ネオンを反射する青い瞳の上に揺らいでいたのだった。と、同時に、犬歯で噛み潰された灯火を照らすタバコが、残照の明かりと甘い煙を揺り動かす。タバコの吸殻は格子の端に固まって捨てられ、その中で真っ黒焦げな紙がタバコの炎に包まれユラユラと揺れ、跡形もなく落ちていく。


「そんな所にいたんですか」


 やがて、その美しい片鱗を崩してしまう事を躊躇いがちに呼びかける、別の女の声が聞こえた。聞き覚えのある声にふと「あいつ」を思って、さっと左手に顔を上げると、曲線の鉄格子に手をついて見下ろす黒いドレス姿の黒髪の女、ミナがいた。


「今度は正式に招待客として来てくれたんですね。一度そうした姿で会いたかったから、嬉しいです」


 愛おしそうに細い目を更に細め、ほんのりと桃色に頬を染めるミナに、ジョージは途端丸めていた青い目をきっと尖らせ、すぐに忌々しく目を逸らし格子に手をつく。挨拶も返さずうっとおしいという様に窓枠に肘をつく態度は、至っていつも通りの反応。

 しかし今日のミナは一つの覚悟を持って、アップした黒髪をかきあげながら、それに構わず高い紅ヒールの音を踊場で鳴らした。窓から見える、イルミネーションによって橙色に輝くもみの木は、囲む石造りの陰影と共に、情緒良き雰囲気を醸し出す。星の煌めきのごとく瞬くもみの木を縁取った窓枠の中へと、ジョージにそっと寄り添い、漆黒のドレスと黒髪を靡かせるミナ。

 彼の手前、精一杯見栄え良くしようと豪勢にかけたダイヤのイヤリングが、もみの木のイルミネーションの一つとなって窓枠の中心に銀色に光った。


「ジョージさん」


 相変わらず無視を決め込んで外を眺めるままのジョージに、彼女は更に詰め寄り首を傾けて言った。


「話を聞いてくれないと、アーサー様が酷い目にあっちゃいますよ?」


 その茶目っ気に笑うミナに、やがてジョージは目を伏せ舌打ちしながらも、縁に肘を付けたまま顔を向けた。


「あのさ、アーサーに関わりゃ、俺が何でも興味持つとでも思ったワケ」


「ほら、ようやくそれで顔を向けてくれました」


 そう指差して微笑むミナに、ジョージは一気に機嫌を悪くして「うぜえ」と、せっかく整えられていた金髪をかき乱し再び外に目を向けてしまう。しかし、その荒っぽさが逆に、きゅっとミナの黒生地から白く浮き出た胸を締め付けた。


「ああ、やっぱり貴方は何よりも美しいです、ジョージさん」


 ネオンが縁取るジョージの横顔の曲線に見とれながらミナは思った。綺麗な歌声とピアノの淑やかな演奏を背景に、喧騒から一旦離れた、この誰もいない狭い踊り場で美しい男と二人きり。これ程のない甘美な舞台の上でミナは一人、めかしこんだ自分を初めて綺麗だと思った。その興奮と共に続く、精一杯の誠実を込めて、桃色のグロスに瞬く薄い唇が息と共に声を紡ぐ。


「好きです。ジョージさん」


 それにジョージは横顔を向けたまま、青い目の片鱗を見せた。


「貴方の事、心から愛しています」


 ジョージは横目で自分に愛の言葉を伝えるミナを見た。きめ細やかな肌で整えられた色合い、緊張で歪む眉毛、細い目にしかれた濃紫のアイシャドウがラメによって瞬き、グロスもミナの掠れるような女の声を艷やかに彩る。そして、勇気をもって捻り出した身体を支えるかの如く、谷間が揺らめく胸元にぎゅっと握られた細い指の為す拳は、小動物の様に震えている。ジョージは、一瞬顔を歪ませたが、そのいつもと違う切羽詰った顔で告げるミナにも目を離せなかった。


「俺の何が、好きなわけ」


 やがて、柳眉を潜めたままジョージは問うた。他の女性と違って足蹴にしなかったのは、やはり長い付き合い故なのか、と、ミナは、初めて見せたジョージの態度にはっと黒髪を揺らすが、今来た機会とばかりに途端笑顔になって答えた。それでも、ほんの少しに抑えたままで。


「正直な所が好きなんです。他の誰かみたいに嘘偽りも無く、人を騙す事もなく、正面から向かい合ってくれる所が大好きです。だからこそ、冷たい態度も興味ないと周りの呆れや憎しみをも介せず、そうして全面に示す所も好きでした。そのために卑下にされても、どんなに苦しくなったっても、私はだからこそ貴方が愛しいとさえ思っていました」


 だから、どうしても貴方を諦めきれなかった。


 正直なままにミナはいった。その思いを目の前の本人に言えただけでも、心地よい感覚がじわりと胸の内から広がってミナは恍惚に震える。



 Parlez-moi d'amour,

  Redites-moi des choses tendres.

  Votre beau discours,

  Mon coeur n'est pas las de l'entendre.

  Pourvu que toujours

  Vous repetiez ces mots supremes:

  Je vous aime.


  Il est si doux,

  Mon cher tresor, d'etre un peu fou.

  La vie est parfois trop amere

  Si l'on ne croit pas aux chimeres.

  Le chagrin est vite apaise

  Et se console d'un baiser.

  Du coeur on guerit la blessure

  Par un serment qui le rassure.


  Parlez-moi d'amour,

  Redites-moi des choses tendres.

  Votre beau discours,

  Mon coeur n'est pas las de l'entendre.

  Pourvu que toujours

  Vous repetiez ces mots supremes:

  Je vous aime.



(聞かせてよ あなたの愛の言葉を その言葉が わたしの心をときめかすの 何度でも その言葉を繰り返してね 愛してるって)


(その言葉は わたしの心をときめかすの 人生はつらいけれど 運命には負けないわ 悲しみは愛によって 癒されるものよ 心のこもった言葉が 人の心を癒すものなの)


(聞かせてよ あなたの愛の言葉を その言葉が わたしの心をときめかすの 何度でも その言葉を繰り返してね 愛してるって)



 すると、天使の歌声が伴奏にのせてテンポが軽くなって早くなる。その華やかな流れに急かされる様に、ミナはぎゅっと手を握り、一度瞑った目を開いて言った。


「どうか、付き合ってください。……私を、貴方の恋人にさせてください」


 しばらく長い沈黙が続く。この告白に対し、ミナがふとよぎった「椴」の事を何とも思わないといったらそれは嘘だった。しかしミナはあえてそれを捨て去る。彼の姿を漆黒に染め尽くす。


 好きという気持ちに妥協を許してはならない。


 その意思でミナは首を振った。そうしない事で後悔するのは自分でもあり、相手に対してでもある事を知っていた。押しつけだろうが、迷惑だろうか構うものか。それが、「恋」の本質だと貴方に教えられたから。それが誰であるかをミナはあえて問わずに。


 ミナははっきりと言った。自分を貴方の一番にさせてくれと。それ以外のなあなあは許さない、と視線で語ってミナはただ返事を待つ。そして――、


「嫌だ」


 しかし、いや、だからこそ、ミナの告白に対しジョージはそれを正直にして打ち捨てた。


「無理。お前とは無理」


 ジョージはその時ようやく、頭一つ分上からミナと向かい合った。今度は柳眉をひそめたまま嫌悪の表情を全面に出す。唯一ジョージが、ミナに見せた真摯なる態度だった。


「駄目……ですか」


 ああ、やっぱりか。結果はミナにとって既に分かっていた事だったかもしれない。しかしそっと思い掛けず流れた一筋の透明な涙は、やはりその結果を悲しむ気持ちを隠しきれずに溢れ出す。


「ああ、駄目だ」


 その上で、ジョージは断りの言葉でさえも、甘美に震えさせる男の声ではっきり言った。それはまるで、ミナに後腐れなくさせているようで、まさかと思ってミナは目を開く。そして更に、胸と胸が微かに擦れ合う所までに寄って言う。


「なら、……なら、教えてください!私の一体何が駄目だっていうんです。顔なんですか、性格なんですか、やっぱり魅力がないからなんですか。おかしいからなんですか」


 みっともない、ああ、その気遣いにすかさず甘えてしまうなんてなんて面倒くさい女なんだろう、とは思っていても、涙と共に言葉も震えてそぞろに出てしまう。ここで今、こうして言わないと、自分が絶対にこれからも後悔してしまう不甲斐なさをミナは自分で分かっていた。


「正直が好きだと言っといて、自分に嘘つきな所が嫌いだ」


 対して、ジョージは石壁に手をついて答える。


「え……?」


 それに憮然そうに鼻をすすって口をへの字に閉じるミナであったが、


「あのさあ」


 突然、それにいよいよ呆れを通り越した様な面持ちで、ジョージは深いため息をつきながら目を斜め下に逸らして言葉を続けた。


「お前、あの毒蛇ヤローのたらしな所とかを見限って、それを持ってない俺に見出してるだけだろ?」


 それは相手を牽制するような語尾を上げる口調だった。


「は?」

 

 ミナはその言葉にぽかんと口を開いたまま固まる事しか出来なかった。ジョージはその反応に金髪を空いた片手で掻き乱し、目を伏せ眉を歪ませる。


「他人にこんな事語らせてんじゃねえよクソが。お前の言う俺の正直だとか、女を突き放す所が好きだとか、さっきから聞いてりゃどーっ見ても全部アイツと比べて話してんじゃねーか。胸糞悪イな、くっだらねえプライドのために、アイツへの不満や満たされねえ欲を、勝手に俺に投影して色気を吐いてんじゃねーよ。そういうのが迷惑なんだよ、すべて」


 その言葉に対する衝撃と共に、自分でも気づかなかった自分を語る人物が金髪碧眼の青年、「ジョージ」である事実を、その目でもってしても受け入れる事が出来なかったのだ。そして、そう言われた事に対する自分への答えをも。


「ジョ、ジョージさ……違う……あの、私は……!」


 出かかった言葉は涙ぐむ声で纏められずに宙に浮いてしまう。それがミナの真実だった。それにジョージは、ほれ見ろという様に片眉を上げて見下す。やがてそれを見限ったのか、再び金髪をかき乱し、恨めしく夜空を目端に見上げては、その先に浮かんだ「誰」かに向かって吐き捨てる様に言った。


「くっそ、よりによってこんな事で言われんくらいなら、最初っから野郎に言ってやれば良かった」


 そこから思い出すはあの蛇の目。ねちっこく絡む度に、どうせ君なら気づかないだろうと舐めてかかって露骨に突きつけてくる、その下劣な嫉妬と情念が入り混じった毒蛇の瞳を、ジョージも猟犬として悟っていた。それとミナの姿とを重ね見ながら、ジョージは苛立ちそっぽを向いた。


「興が削がれた」


 やがて、それだけを呟き、ジョージは踊り場に高い靴音を響かせミナの横を通り過ぎようとする。その手前、俯きながら目と口を震わせる事しか出来なかったミナへ、突然濡れる頬にすっと、ポケットに手を突っ込んだまま横顔を近づけ、金髪が触れるか触れないかの距離でもって、甘い音楽にのせ妖艶に流れる空気を犬歯を開いて切った。


「言っとくけど、俺は別に正直じゃねーそ」


 それは、今までにない低い牽制の言葉だった。ぞくりとミナの開いた背中が震える。


「俺も欲しい物を手にするためだったら、なんだってやるからな。味方だろうが敵だろうが、それを邪魔する奴だったらすかさず騙して貶めて、良い奴のフリして忍び込んで、ヤツが気付いた時はその首を捩じ切って食いつぶす。どんな卑怯な事でも何でもやってやるから」


 勘違いするな、俺は元からそういう奴だ。


 囁く時にして吐き出された荒い息が耳に当たって、ミナの白い首が引き攣る。やがてそっとミナの後ろ見を横流しに一瞥した途端、前を向いて乱雑に階段を降りてジョージは去ってしまった。一人、その顛末に取り残された踊り場で、甘美に酔いしれたまま立ち尽くすは黒髪を乱すミナ。突然大きくなった様に聞こえるピアノの旋律と、女の歌声が終わった途端、鳴り響く虚しい拍手の中で、すっとミナの涙に濡れた手が垂れた。


「そうですか……ジョージさん、貴方は……最初から……」


 震える言葉と共に、嗚咽も微かに溢れ出る。すると、そこから再び足音が。慌ててそれを隠すように窓に縁に手をつけて俯くと、そっと震える肩に、男のごつごつとした手が触れた。


「はいっ!?」


 驚きのあまり涙を散らし、ミナが乱暴に振り向くと、そこには眼鏡をかけた老人がいた。見覚えのある髪の薄い額と、低い位置にある眼鏡の奥から瞬く黒い眼が、涙を流すミナの姿を映していた。


「た、田中来栖首相!?」


 それはタキシード姿に身を包み、膨らんだお腹を締め付けている田中首相だった。


「おっと大丈夫かい?ごめん、途中まで上からずっと見てたんだ」


 ミナは後ずさる。他国の首相にとんだ醜態を見せた事に恥じ、慌てて目を擦って俯いた。


「ああ、ごめんごめん。君の感傷を邪魔するつもりは無かったんだ。けど、あまりにもさっきの事、不憫だったから」


 と、手を振って謝る田中に対し、ミナは頷きながら背を向ける。もみの木の下で金髪の女性に一斉に駆け寄る群衆の喧騒を眺め、やがて手の甲で涙を拭っては田中の声に応えた。


「不憫だなんてそんな、ジョージはさんはあれはあれで気遣ってくれたんですよ」


「そうかい?」


といっても、小さな肩を震わせたまま涙を拭う姿は弱々しく、今にも折れてしまいそうな程のものだ。しばらく田中は愛おしそうにその肩を下から抱いて、可哀想だと眼鏡の奥から彼女の横顔を見つめた。ミナは抵抗しない。一人でいるよりもまだ、惨めではないと思っていたからだった。ミナの啜り泣きは虚空の踊り場にしばらく続いていった。


「君は実に健気だね。椴君も惚れてしまったの、わかるような気がする」


「また、椴さんですか……」

 

 失恋を悲しむ女性を前にして、別の男の名を言う田中への態度に、やがて不満そうに顔をあげたミナ。その気配を察した田中はさっと距離を置いてグラス片手に曖昧に笑った。


「あ、いやね。ついこの間、彼が日本に行った時に機会があって、椴君と飲みに行った事があったんだ。そしたら、彼すぐ酔っぱらちゃってグチグチ愚痴ばかり言ってたんだったよ」

 

 それにやはりミナは憮然としたまま、眉毛を曲げ鼻をすすって向かい合った。


「はあ……なんだって今、そんな話を……」


「君の話しかしてなかったからね」


「え……」


 目を見開いたミナに、田中は元気が出たようだねと、窓の壁に背中をつけて笑った。


「ほんっとに、大人のくせに泣き上戸で、君がジョージ君に対して、あんなに惚れてる事に対する恨み言ばっか言ってくるわ、最後には僕をミナちゃんと思い込んで抱きついてくるはで全くまいった、まいったよ。それを知ってる身としては申し訳ないけど、あの結果はぶっちゃけ、良かった事なんじゃないかな」


 そうして、後ろ手に腕を絡ませ目を伏せる田中に、ミナもその間際に渡されたナプキンを受け取り、遠慮がちに吹きながらしばらく、吹っ切れたように隣について窓を見上げた。どうせここで泣き喚いた所で、失恋された事は代わりはない。ここで振り返ってくれるジョージなど、最早ジョージではない。私は彼の、そういう所が好きだったんだから。そう思って黒髪を勢い良くかきあげた。


「だから、そうだって私も言ったんです。でも、それでも私はまだ……」


「椴君を好きにはなれないと?」


 横目に見ながらしばらくの後、ミナは頷いた。田中はそれに眉を下げた。


「どうしてかなあ。なんか今まで話を聞いてると、ジョージ君と椴君、君がそれを分かつには、彼が言った事以外に、いやそれ以上に何か違いがあるからだと思うんだけど」


 もしや、と、田中は続く。それにミナは腫れた目を開く。


「それがまさか……、君の最もこだわる「鉄の意思」というものと、関係があるんやないの……?」


 遠目に見ながら言う田中の言葉に、ミナは俯きがちに笑うと、ドレスを靡かせると共にそっと田中の前に立った。絶妙に距離を置いて構え、縁に細長い指を添えてながらすっと孤月に目を細める黒目に、田中は一瞬、久々にして震えが走る。


「よく、気づきましたね。それも椴さんから聞きましたか?最も彼は馬鹿にしてたでしょうけど」


それに田中は寸時、走った畏れを誤魔化す様に更に明るい口調で笑った。


「あ、あっああ、そうだったねっ。でも世の中って不思議なもんでさあ、この僕は、彼と違ってそれにすごく興味がわいたんだよ。是非、酒のつまみとして教えてくれないか?君のいう鉄の意思というものを」


「はい」


一瞬の事。田中の言葉に目を見開いて目尻に貯めていた涙がつうと彼女の頬を通った。やがてそこから、口元を殆ど動かさないままその青白い首をゆらり、と、傾けてミナは応えた。


 田中はその時、彼女のあだ名として聞いた「幽霊」という意味を、その時に解したのだった。不気味な黒髪の揺らめき、思わずそれから逃れる様にして後ずさるものの、好奇心のために狂気の走る瞳孔はぐんぐん開かれていく。思わず田中もミナと共に口角をあげていた。対するミナはネックレスを揺らしながら、黒い布生地が覆う胸に手を当てて口を開く。


「では、田中首相。私が何故、こんな風にどんな時でも黒い服を着ているのか、ご存知ですか?」


「ん?趣味じゃないのかね?」


 汗をかきながら笑う田中に、ミナはふるふると生き物のように揺らぐ黒髪を波面のごとく振る。


「違います。これは……喪服なんです」


 その一言に更に目開く田中を、にいっと笑いながらミナは見据えた。ネオンの演出か何か、その顔に張り付く三つの弧月形が、黒く不気味に縁どられている様な感覚に田中は囚われる。


「それは、一体……鉄の意思をどう関係しているんだ」


田 中の震える声を弄ぶように、ミナは穏やかな口調で呟いた。


「私は喪しているんです。この世の全ての鉄の中に存在し、生きている死者の声を――、それを唯一聞ける者として」


 それが鉄の「意思」なのです。言い終えたミナの声に田中のワイングラスが大きく傾き、白い波面が揺らめいた。



***


 そうしてパーティーも中盤の終わりにさしかかった頃。


 ウェッブも田中首相と同じく階上の会場から抜け出して、A塔の階段を降りている所だった。憮然にして葉巻を吸いながら照明に瞬く頭をかき、窓から下の会場を眺める黒い目は、上に残してしまった親友を思い描いてる。


「せっかく一緒にフケようって誘ったのに、何がこれから大事な用事があるたあ」


 そうして、淡々と「じゃあまた」と、名残惜しむ間もなく背を向けて歩き去ったアーサーの後ろ姿を思い出しながら。


「たっく……、お前のために誘ったのに迷惑そうな顔しやがって」


 目の前を横切った青白い顔に、再び不満げに口髭を揺らしながら、ウェッブは力無く手すりに掴まり階段を降りていく。仄暗い灯火の光の下で、恰幅の良いウェッブの影が、細長く石壁を滑っていった。


 一方、はぐれ者の一人であるキティもその頃、乱雑に足音を鳴らして二階の廊下から目端に中庭を見下ろしていた。


「あのばっか共が!ジョージを探す暇無くなってんじゃん!」


 歌い終わった瞬間、寄ってたかる参加客に応じている内、辺りを囲まれフロランスと武士はすっかり動けなくなっていたのだ。得意の愛想笑いでひたすらお辞儀をする武士と、その前で「実に楽しそう」に、顔の立った男たちの口説き文句に、手を叩き大口を開いて笑うフロランス。


「ちょっと!ささっと抜け出してジョージ探すの手伝ってよ!」


 無線のイヤホンを引っ掴み口元に寄せて声を荒げるも、観客の騒音が雑音となって全く伝わらない。キティは更に苛立ちながら両腕を振り回し、カメラコードを鞭の様に振るって床を蹴った。そうして、物憂げに歩くウェッブと、歯を食い締り歩を早めるキティの両者は、同じ二階の廊下に両側から向かい歩いていく。


 それは、一触即発の事態であったが、二人は互いに窓に、壁に目を逸らしたまま向かいの相手にはまだ気付いていない。しかし、ウェッブがやがて、向かいの黒く細長いものを無意識に認識しようと目を向ける直前、それは突然開かれた背後の扉によって中断された。振り返ると、幾つも並んだ部屋の扉の一つから、ウェッブよりも僅かばかり背の低い、同じタキシード姿の男が出てきたのだ。


 今まで思い浮かべていたアーサーのそれより、微かに黒い灰の髪を重たげに垂らして目を隠す男は、歩くウェッブの後ろから少々慌ただしく肩をかすめて先越して歩いていく。丁度キティも二人の列に立って向かい歩き、その間に割り込んだ彼が互いの姿を隠すように重なり、素早く通り去る。そのまますれ違ったまま歩き続けるウェッブとキティであったのだが、やがて互いに振り向き、眉を顰めて呟いた。


「あれ、おかしい」


 しかしそれは、すれ違った互いの事ではなく、さっき割り込んでいった「男」の事であった。ウェッブはその時、彼と肩をかすめた時の、男にしては余りに丸い、ぶかぶかな感覚に違和感をもった。そしてキティは、すれ違い様に彼が「自分」と同じ様に体を逸らし「胸が当たらずに」避けた事に対して疑問に思った。

 

 つまり、それを意味するものとは。


「アイツ、男じゃない」


 互いに廊下の赤いカーペットに彼を見据えて確信する。この大御所のパーティーに、女がわざわざタキシード姿に「変装」して紛れこんでいる。それは実にあやしい事であると。


 ウェッブは見返り、「彼女」が出て行った部屋に向かい、同時にキティは一階に降りた彼女を追いかけんとD塔の階段へと飛んだ。焦燥感と共にウェッブが先に足蹴で扉を開くと、その先は誰もいない真っ暗闇な部屋だった。背後の照明からかろうじて見える部屋の内装は、赤いカーペットの上、その端に寄せられた豪勢な椅子と机にはシーツがかけられ、カーテンが掻けっぱなしの窓が突き当たりにある、それだけのもの。


「な……こんな所に、あいつは一体何の用があったんてんだ……」


 久々に背中に震えが走る嫌な予感に汗を垂らし、ウェッブは彼女が降りていった階段へと顔を向けた。


***


 一方、キティも彼女を再び捉えんと、広い中庭を小走りに横切って追いかけていた。しかし会場であるそこは多くの招待客が入り混じり、キティの視界と行く先を次々と拒んでいく。立ち並ぶ円柱を境に、中庭と面する外廊下へ逃げ込んでからしばらく、ふと、ジョージがさっきまでいたC塔の端、その突き当たりに真っ黒な入り口を見つけた。地図を見た記憶を手繰ると、そこはただのワイン用の地下室だったはずだ。


「でも、もしや……」


 キティはやがて息をのんでは再びその暗闇の中へと駆け寄ってするりと忍び込む。カメラのライトを頼りにして突き進むそこは、上階の城の内装とはうって変わって、荒々しく削られた砂岩が覆うだけの狭い地下通路だ。遠くから水の流れる音が聞こえるだけの暗闇の静けさが、キティの緊張を促すも、カメラを握ってひたすら土塊を蹴り白い息をあげながら階段を駆け下りていく。

 すると、その突き当たり右手の入り口と向かい合う。そこは木枠に覆われた造りになっており、ひんやりとした暗闇に浮かぶ、背丈以上の巨大な樽が奥まで並んでいるのが見えた。


「そうか、ここがワインの保存庫か……」


 そこから一際大きくなった水の流れる音を怪訝に思いながらも、カメラを掲げて辺りを見渡してみる。と、その間一寸、カメラのライトが右端奥の樽からはみ出る黒ズボンの裾を照らしたのだ。はっと一度視点を外らしたキティは、再びそこにピントを定めると、裾から天井と直角に立った角のある革靴がはみ出ているのが見え、その隙間から肌色の人の足首がある事に気付いたのだ。


「うそ……、そんな……やだ……」


 その辺りを並々と音を立てながら床に黒光りするワインが流れていたのだ。つんと鼻につくワインの濃密な香りに思わず、キティは眉を潜め腕で鼻を抑えてみたが、その中で微かに臭う鉄の匂いにキティはすかさず走り寄って樽の裏側を見る。すると、


「な……!」


 キティは目を見張った。樽から湧き出るワインを受け、真っ赤に染まった黒髪の男が仰向けに倒れていたのだ。そして、ワインによって真っ赤に染まる一面の真ん中、一本のボウナイフが白々しくワインと血しぶきを絡ませて白銀に光り、彼のだらりともだけた青白い首筋に真っ直ぐ突き刺さっている。


「い、いやああああああああああ!!」


 惨状のあまり叫声をあげるも、キティは素早く彼の元へ膝をついた。


「一体何があったの!?」


 波々と浸るワインの海から彼の首を持ち上げ膝枕にして置くと、体勢が楽になった事に意識が戻ったのか、男は眉を顰め苦しそうに目をゆっくりと開いた。それは、先程追いかけていた者ではなかった。


「う……うう……やられ、た……」


「駄目、動かないで!」


 起きようとする彼の首に刺さるナイフがぐらりと傾き、ぶしゅっと噴き出す音を出して彼女の顔にかかる。キティは胸の中へ彼の首を強く抱きしめ、致し方無いとしながら、悔し紛れに血の張った顔を歪ませて、そのナイフを掴んで固めた。


「女に……やられた…んだ…あの背の高いタキシードを着た、女に……」


「ええ、見たわ!その女がやったのね!でもどうして、貴方がこんな所で女に!?」


「それ…は…」


 助けを呼ぼうと辺りを見渡して焦るキティを、その双丘に埋もれた隙間から汗流す妙齢の男は、黒く澱んだ目を向け、掠れた声をあげる。


「おーい!どうしたー!」


 すると、遠くから響いたウェッブの声に、さしものキティも構わず顔をあげて叫んだ。


「来てー!男が刺されているの!」


 途端、ウェッブが転がるように樽室の正面に立った。そして、広がるワインの海のに浸りキティが抱きしめている男の顔を見、驚愕にライトを震わせた。


「お、お前は……、ガット!!」


 その男の名を知るウェッブは、ワインの海に水飛沫をあげて滑るように膝をつき、キティの静止も弾いて男の胸元を掴み呼びかける。


「おい、どうしたガット!それがどうしてこんな所で刺されてる!?」


 それに男、ガットは痛み故に意識の糸が途切れる間際に弱々しく、けれどもそれに抗うよう顔をぎっと締め付けながら「うっ」と口端に血を流しつつ、言葉を伝えんとした。


「申し訳ありませんウェッブ殿。……私はアーサー様の密約でジョージを案内する役目を……そうする前に突然、あの女が私達の同僚であると偽り、会場で私に呼びかけたのです……。集合場所が急に変更したから……その場所を今一度確認しておこうと……」


「それで、この地下室に……?!」


 ガットが激しく咳き込み、キティの胸に血を吐きながら頷いた。


「ええ……それに油断して背を向けた瞬間、後ろから刺されてしまいました……。ウェッブ殿……急いでください……あの女は……ジョージを狙っているんです……」


 ワインと血塗れになって仰向けになるガットの間、さっとウェッブとキティが青ざめた顔で向かい会う。


「間違いない……あの女は私たちを差し置いて、ジョージと接触しようとして私を……。あの後、いやもしかして今……、奴は私の役目に扮し、ジョージの所へ……案内する振りをして二人きりになるために……」


「そんな!」


 ジョージを狙っている輩が「私たち」以外に忍び込んでいたなんて、愕然とした思いながらもキティはガットを更に強く抱きしめた。 


「一体、そんなの、何者なのよ!」


 そうキティが翡翠の瞳を震わてせ戸惑う中、ウェッブが忌々しく舌打ちして階上へ続く扉の方へ顔を向けた。その裾をガットは最後に掴んで呟く。すべての灯火をこのために使うため。


「ウェッブ様……早く……ジョージを確保してください……そうしないと、あ……ぶな、い…盗まれるか……殺されるか……」


 やがてその言葉を最期にし、遂にガットは二人が反応する間もなく、穏やかな面持ちとなって瞳を閉じた。その後、虚しい水音だけが唖然と、その姿を看取る二人の耳に響いた。


「くそおおおおおお!あの、女ああああああ!」


やがて、キティが死んだ彼を今一度、その胸の中で哀しげに抱きしめるその横で、ウェッブはその音を振り払う様に湧き上がる怒りの形相で立ち上がり、荒々しく無線のイヤホンを掲げて外の仲間たちへと呼びかける。


「テメーらあ!ジョージを狙う侵入者がこの中に入ったぞ!とにかく部屋を探して回れ!ジョージと奴が接触する前に確保だ、急げェ!」


 ぐわんぐわんと怒声を地下室の中に響かせる。その声に、会場の男たちは顔を見合わせる。フロランスに見とれていたヨーナスも、さっと真顔になって斜め上に夜空を見上げた。


「え、ええ!?」


 そうしてウェッブは死んだ彼に素早く背を向け、ワインの飛沫あげて走り去っていってしまった。が、彼が乱雑に投げ捨てたイヤホンが、ガットが死んだことに対する怒りと悲しみを唯一示していた。それを見ながらキティは呆然として呟く。


「そんな……こんなんじゃもう、私たちの付け入る隙はないじゃない……一体どうすれば……いいの……?」


 屍となった彼の冷たい横顔をただ抱きしめながら、キティは騒めく事件の予感に身を震わせる。今はただ、家族の名前も、恋人の名前も呼ぶ事もなく、最期の瞬間まで仕事を全うし、この見知らぬ異国の真っ暗な部屋で寂しく死んでしまったガットへ、その弔いの意を示そうと、その開きかかった目を閉じる事しか出来なかった。


 しかし、その事件が始まる少し前の事。キティがその女を探して会場を回っているのと同時間に、また別の事件が起こっていたのである。


***


「ふう、やっと出られたぜ……」


C塔の二階をあがってD塔と繋がる先、純白の「女子」トイレに逃げ込み、着物姿の小柄な少年が洗面所に両手をついていた。乱れた桃色の裾から覗く、浮き彫りになった痩せた助骨に嫌悪して隠すように整えているのは女装した武士である。フロランスの言う通り、豪勢な着物に興味を示して寄ってくる取り巻きによって、一体何が面白いのか――、着物を始めアップした黒髪や簪や、ましてや紅までべたべたと触られ、男である事をバレないようにはぐらかすのに、すっかり疲労してしまっていたのだった。


 目の前の鏡に映る、そちらを見上げる「自分」の乱れ様に激しくため息をつき、俯いたままやがてゆっくり髪をかき揚げては簪を差し、口裂け女のごとく口端からカーブ状にひねり上がった紅を、目を細めて右手の薬指で丁寧に拭けば、再びふっくらとした唇を形作る。  

 その、少年らしからぬ手際の良い化粧直しによって、再び鏡の前では白を背景に微笑む、桃色の着物の映える「少女」が現れた。


「さて、と」


 これでようやくジョージを探しに行ける。と、息を一旦整えキティの無線に応じる様に武士は、広い裾口からトランシーバを掲げる。


「すまんな遅くなって。これから俺もお前と一緒にジョージを探しに行く。フロランスの方はさすがにまだ取り巻きから逃れないだろうから、しばらくは二人でやっていこう」


 そうしてトランンシーバを胸元に隠し、女子トイレの入口の扉を開く。と、廊下に至ったその目端にタキシードの蝶ネクタイが見え、慌てて廊下の端に避けた。


 その時、当然武士は気付かなかった。すれ違ったその相手こそが、灰黒い髪を持つ男装した背の高い女だったのだ。そして、その後からついていくように歩く、女より一寸背の低い金髪の美青年は、不機嫌そうにタバコをくゆらせて歩く――、


「わっ、うっそ!ジョージ!?」


 突然の目の前に現れた「獲物」に、ひいっと声をあげて驚く武士は、裾をあげては慌ててその口元を隠す。それを斜めに顔を向けて柳眉をすっと顰めて見下ろす、金髪の前髪からのぞく青い瞳。裾の影からそれを恐ろしげに見る黒く細長い瞳を、青い目は小馬鹿にした様に細めて鼻を鳴らし、すぐに女の背中へと視線を戻して背を向けた。


「よ、良かった……ばれなかったか……」


しかし、安堵の言葉とは裏腹に、押さえる心臓は跳ね上がったまま焦る動きを止めない。その動揺を隠す為に、武士はそっと向かいの廊下へと走り去っていった。


「大丈夫だ、東洋人の顔はあいつらには見分けられない。あいつらには見分けられない。」


 呪文の如く囁いて逃げるその不自然な態度に、ジョージはやがて、踊り場の階段から訝しげに振り向いた。


「なんだ、あいつ……なんかどっかで……」


「どうかしました」


 そこで女は、無表情のまま何の抑揚もない淡々とした声で振り向く。それは中性的な声を、より男らしくしようと低くしているものであった。すると、ジョージは白い首筋を後ろに向けたままやがて小さく答えた。


「おい、アーサーに言付けしてくれ、あと十分遅れていくって」


「何ですか急に……いや、それは幾らなんでも……これはアーサー様のご命令なんですよ」


「アーサーアーサー黙れってんだよオメーら。邪魔しようってなんらテメーも殺すぞ」


 そのドスの効いた声に、それを留めようとする女の細い指を、ジョージは途端、何が癪に障ったかのか、勢い良く弾いてその間際、革製のショルダーからギルデットを取り出し彼女の眉間に構える。そのあまりの早業に、身構する間も無かった彼女の隙を狙い、ジョージは裾を靡かせながら振袖の「武士」が走った跡を行った。それに対し、長い睫毛で灰の目を伏せ、軽く舌打ちしたタキシード姿の女は、続く無線の雑音に嫌そうに応じた。


「何だ」


「何だってどうしたのよう、ニキータ。あたしずっと30307にさっきから待ち伏せしてるのに、ぜんっぜん来てくれないじゃなあい」


 気だるい仲間の声に女、ニキータは白く太い眉を顰めて眉間に手を当てる。その艶かしい声から向かいの相手が今、深緑のドレスから腰まで太腿を曝け出し、フリルのついたタイホルスターから真鍮のナイフを撫でている光景が、脳裏の裏に思い浮かんだ。それに辟易する様に首を擡げてニキータは答える。


「緊急事態だ、ジョージが急に逃げ出した」


「ええっ。なんでえ?」


「振袖の女の事を追ったようだが、何故だがは解らない。仕方ない、時間も無いし人気のいない所を狙って今からこっちで始末するしかないな。連れて行く作戦はなしにしておけ。残りのみんなにもそう伝えてくれ」


「ええ?マリア様がそれで納得するかしらあ?」


 こっちの気も知らずに相変わらずの口調で話す仲間に、ニキータは無線を乱雑に止めその怒りを示した。


「ちっ、とんだ邪魔が入ったな。あの振袖のヤツさえいなければ殺れただろうに」


 と、腰元から白銀に瞬くボウイナイフを取り出し、ニキータはグローブのついた右手でそれを力強く握った。それはさっき、地下室でガットを仕留めた時のと同じように。


***


 武士はD塔3階に駆け上った途端、一気に近づく足音にぞわりと背中を震わせてて螺旋に見えぬ下を覗き込む、と、石壁から見覚えのある尖った穂先の髪揺れる影が表れ、武士は慌てて裾を擦っては音も無く螺旋階段を駆け上がった。


「やべえ……!ジョージ!?もしかして気づかれた!?」


 武士は手すりに縋っては三段飛びで4階へあがり、C塔まで向かう廊下の突き当たりまで突っ走る。そして死角になる角の壁に潜むも、どんどん聞こえる足音に焦燥感は冷めやらない。やがて反射的に、武士は背後のテンプレートの張られた部屋の中へと逃げ込んだ。誰もいない真っ暗な部屋の突き当たりの緋色カーテンにくるまり、やり過ごすのを待つのである。

 

 向かいの窓に見えるのは、そびえ建つコスタム城を護る城壁だった。並ぶ銃眼から漆黒に覆われたボディーガードが銃をもってあちらこちらへと移動しているのが見える。どうやら城壁の中にも通路があるようで、窓ごしから目端に視線を移すと、城壁は右手の塔から会場にも伝わっている事が見え、慌てて武士は黴臭いカーテンの中へ身をくるんだ。


 そうして、しばらくしんと静まり返った時間に、いよいよ武士はやり過ごせたのだと緊張した体を脱力させ、こっそりカーテンから顔を覗かせる。僅かに廊下の光さす先にも、人がいる気配はしない。


「もう、大丈夫か……?」


 それにゆっくりと扉に近づき、おそるおそる右手の壁のスイッチに手を伸ばし電気を付けても、硝子の割るような照明の音以外には何も聞こえず、一気に視界が明るくなる。それにいよいよ武士は安堵のため息をついて、ドアノブを回してゆっくりと開こうとしていた。


 その瞬間であった。


「オラアッ!」


 突然、激しい叩音と共に扉が弾き返され、その勢いで武士が部屋の中へ弾かれたのだ。


「うっわあああああ!」


 弾かれた痛みに叫び、倒れた拍子に頭が揺れた衝動に呻きながらも、武士は赤いカーペットを握って這い蹲る。それを扉の向こうから乗り出し、笑い声をあげながら楽しそうに見下ろすは、細長い鉄の棒の様にして立つ、ジョージの低劣な青い瞳だった。


「おかしいと思ったらやっぱてめーだったかあっ!なーに女になってこんな所に忍び込んでやがるんだあ!?」


 割る頭の衝動に乗せて、乱雑な足音が愕然と目開く武士の頭に鳴り響く。


 ばれた。ばれてしまった。認めたくなかったその事実に茫然として開かれた口に、ジョージの蹴りが直撃した。


「うがあっ!」


「はっ、いい声出しやがるじゃねえか」


 声にもならない呻き声をあげ、床を這い痛みに転がる武士の血の跡を踏み潰し、足音を鳴らしながらジョージは口角をあげて歩み寄る。


「よう、久しぶりだなリトルボーイ」


「き、キサマァ……」


 痛みに口元を掴み、身を捩らせながら睨み上げると、そこには優越感に蒼い瞳を揺らすジョージがいた。一方、ジョージは、桃色の着物を乱し細い肩と腕を曝け出し、悔しそうに鼻血を歪ませ、口裂け女のごとく捻り上げられた口紅をそのままにしている武士の、その同じ「男」としての痴態を心より恥じていた。


「はーっなんとまあ、気持ち悪ィ格好しやがって」


「うるせえなあ……ぐああっ!」


 悪態をついた武士の頭をジョージは乱暴に片手でひっつかみ、黒髪を握りしめて引っ張り上げた。更にしわくちゃになった顔で、白い歯を食いしばりながら血を垂らす武士に、顔を寄せ、のびた白い首筋に沿って陽気な眼差しで見据えながら嗤い、そして、見上げる。


「てめーがなんで娼婦みてえな格好したかは分からねえが……おめーがいるって事は……あの(キティ)も此処にいるんだよなあ?」


 そう言った口角のゆらめきに、武士は途端目をひん剥いて暴れ出した。


「や、やめろ!離せええ!!」


 自分の失態で彼女に迷惑をかけたくない、と、彼女を愛する者として両腕で髪をかき乱して抵抗する。しかし、その精一杯の抵抗にジョージはいよいよ機嫌を悪くしたか、舌打ちしては勢い良く助走をつけて放り投げる。そこからジョージに目もくれず逃げようとする武士に、その揺らぐ頭に向かって長い脚を高々と振り上げた。そして――、


「ぎゃああああああああああああ!」


 呻き声より先に武士が涙を吐き散らし、男のものと思えぬ甲高い声で絶叫した。ジョージがかかと蹴りをして、武士の頭を踏み潰したのだ。


「自分の立場分かって、この俺に背ェ向けてんのかあ!?ああ!?」


 荒々しい犬歯を剥き出しに喚く勢いに任せて、ジョージは物のごとく武士の「それ」を磨り潰し、擦れる音が互いに煩わしく響く。自分の惨めな立場をこれ程になく分からせるために力強く、ジョージは更にかかとに力を込めた。


「質問に答えろって言ってんだろ!」


そして、再びかかとを振り上げて、武士を壁まで蹴り転がした。さっきまでの鈍痛に武士も土足で穢され、乱された長い黒髪を顔にかけたまま、その間から淀む目でジョージの憤怒の顔を映す事しか出来ない。着物もその豪勢さは最早掠れ、ジョージの土足に汚れてしまい武士の白い上半身を曝け出した。


「いや、だ……」


 しかし、その醜態を晒してでも武士は乾いた唇で言った。どんなに惨めになっても崩れない、自分だけの思いを貫くために。


「ここで俺を足蹴にした所で、無駄だ……。キティは見つからない……ここには、いない……」


 ジョージはさっと金髪を揺らした。色を失った蒼い目は、「愛しい女をかばっている男」としての愉悦に浸っている武士の黒い瞳を見破った。何故か見破る事が出来た。と、共に何故かそれが異常に腹が立った。


 思わずジョージは、武士がそこから何かを言い終わらない内に、走って武士の顎を蹴り飛ばしていた。何度も何度も強く、武士が呻き声をあげ、そこから血飛沫が舞って窓に点が舞っても、そのまま止める事が出来なかった。鈍音が何度も何度も、ジョージにとってもしつこいと思う程に続く。


「さっきからガタガタうるせえな!豆粒より小せえケツもぶっこまれたてめーに、何が出来るとでも思ったのか?!」


 野卑な侮蔑と共に脚を下ろしてさっと距離を保てば、血と土と汗と涙にぐちゃぐちゃになって這い蹲る武士の貧相な有様を遠目に、心底、「うわあ」と、蔑みながら言った。


「まっるで、犯されたみてーだな。まあ、てめーにとっちゃあ初めての事じゃねーんだろ」


 「ああ、気持ち悪ィ」これが、こんな奴があのキティの相棒なんてほざきやがって。最早、動かない唇の代わりにぎょろっとジョージを見上げるその瞳が、何故それを問ふ。


 そうして、痛みの中乱された一方で、嗜虐心で更に美しく哂っている青年に、恥ずべき自分の過去が知らされた瞬間の胸の疼きを感じ、武士はいよいよ恥を知る。そこから彼に向かい溢れる悔しさを、憎しみを痛みに動けない体で自覚する。


「あのメス猫にどれだけ慰めを言われたかしらねえが、どんだけ着飾って偉そうに言った所で、所詮てめーも、な。発情期にキャンキャン喚いてる犬にすぎねーんだよ。分かれよ、なあ?」


 あてつけにタバコを咥えジョージは火を付けた。それを倒れる武士の上に燻らせ、その火付く破片を武士の浮いた肋骨に散らした。まるで白いハリボテがタバコのそれでジワリと黒いシミを広がるようにして成った痛みに、武士ようやく目が覚めた。


「がっ、あっあっ」


 それを嘲笑う隣のジョージへ、その熱さと痛みと共に、武士の頭の中ですっと、我ながらと、「あっさり」何かが消えてしまった。そしてその状態でも起き上がった。


それは最早、体力ではなくただ一つに対する気力でだった。それにジョージは楽しみ足らないと更に拳を振り上げるが、武士の、ジョージの知り得ない含蓄のこもった「睨み」にそれは止められる。


「あ、なんだ?」


 首を傾げる事でしか反応出来ない様子に、その睨みをきかせたまま首を引き、武士は口を開いた。その耳に一生張り付いてしまうように、低く、情念をこもった声で。


「てめーだって……穢れてるくせに……」


「ああ、なんだぁ?負け惜しみか?」


 その答えを武士は足蹴にする価値もないとして無視し、言った。その瞬間、びしびしと突風が格子を鳴らすも、その音に構わず凛とした声が、ジョージの耳にはっきりと届いたのだ。


「お前なんて……人間のなりそこないの……クローンのくせに……」


 ジョージがその言葉に金髪を揺らして青い瞳を瞬かせる。


 その時だった。

 

 突風に煽られてウェッブが振り向いた。


 アーサーが顔をあげた。


 マルコムが眉を潜めた。


 魔女が揺れた髪の中で目を細めた。


 そしてキティが、暗闇の片隅で翡翠の瞳を開いた。


 それは、彼らが「自分」が「言うまで」絶対に、本人に知られてほしくなかったその「事実」。


 それは残酷にも今、一人の少年によって告げらてしまう。


 それは、その時全員が仮定した「最悪な事態」の始まりだった。


〈後編へ続く〉




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