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第1話 日本編(前編)

 享和三年癸亥の春二月廿二日の午の時ばかり、はらやどりといふ濱にて、沖のかたに舟の如きもの遙に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば「香盒ハコ」のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、松脂(チヤン)をもて塗りつめ、底は鐵の板がねを段々(ダンダン)筋のごとくに張りたり。


海嚴にあたるとも打ち碎かれざる爲なるべし。

みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異樣なるひとりの「婦人」ぞゐたりける。


浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。


故老の云、是は蠻國の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せられしを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、「虚舟ウツロブネ」に乘せて流しつゝ、生死を天に任せしものか―。


  う つ ろ 舟 の 蠻 女

          

                      『兎園小説』第11集より









 1、一瞬のやりとり


 2011年3月の東日本大震災、及び○○県における地下水崩壊廃棄処理事件により、経済や政治、そして雇用が更に圧迫している現在日本。


しかしその背景など「一見」おくびにも出さず、今日の東京の街並みは至って普通に、多くの人で華やかに賑わっていた。


場所は渋谷駅ハチ公前。

垂れた耳を持つ犬の冷たい銅像の前に立つある一人の男は、その12年ぶりに見る東京渋谷の騒がしい風景を穏やかな眼差しで見上げていた。


「いゃぁー!ほんっと久しぶりだよ!やっぱり東京はいいなぁ!」


と高い声をあげて男は騒音に負けぬよう、アイフォンの向こうにいる相手に呼びかけていた。


「え、NYとどう違うって?そりゃぁNYの方がデカいし、ビルも綺麗だし、こんなゴチャゴチャしてなくて良いけどやっぱさぁ…何というかこう人間臭さがあってさぁ…。」


と小田急と書かれたビルの漢字に安堵の息を漏らす。


あちこちに貼り付けられた「日本語」のネオンがこんなにも暖かみに溢れ、心を落ち着かせるものだとその時男―、日椴ひとどまつ 敬志たかゆきは初めて知った。


自分を取り巻いて見つめている女子高生にウィンクしながら手を振ってみると、小さな悲鳴をあげながら彼女らは固まるように逃げていく。その日本独自の反応も初々しくて椴は愛おしそうに笑う。


「じゃぁ義姉さん。早く来てね。俺、ハチ公前で座ってるから~。」


とこれから待ち合わせる高校の先輩でもあり兄の嫁でもある「彼女」にそう呼びかけ、椴は電話を切る。彼女と約束している久しぶりの母校と、実家に帰れる道筋を心待ちにしながら椴は再び青い空を見上げた。


と、その視界の中の中心にスクランブル交差点を走る、人だかりの中に紛れるたある「色」にふっと目を留めた。


「あ、れ…。」


それは何てことはない。紺色のバックをだらしなく担ぐ高校生が一人歩いているだけだ。

しかしその制服が、椴の「母校の服」だという事で彼の目に留まったのである。


「うっわぁ…俺ん時と全く変わってねぇ…。」


困惑と歓喜で口元を震わせるその先は、「鶯色のブレザー」という、制服にしてはあまりに派手なものであった。

昔の自分を思い起こさせるように交差点を俯きながら歩くその男子高校生は、小柄ながら重々しそうに紺のバックを担いでいる。


黄色と深緑と鶯谷色が斜めに走るボーダーのネクタイは着崩れ、抹茶色の細長いスボンを履くその足取りはおぼつかない。どうしたんだろうと思って顔を見ると―、


椴の鋭い眼孔が一瞬動揺に揺れた。


「綺麗だ。」


と、丹精な顔立ちをさっと垣間見せて椴は寸時に思った。

しかしそうは言っても周りからすれば何とも思わない顔立ちである。


その細長く真っ直ぐに耳まで垂れ下がる黒髪が稲穂のように揺れて彼の顔を隠し、そこからのぞく薄肌色の顔立ちは、黒い筆をすっと伸ばした細長い奥二重の目つきが浮かんでいる。筋が通った小さい鼻、薄い唇。真っ平な顔にパーツを貼り付けたような顔。


その位置が崩れやすい彫りの深い自分のと異なり、滅多な事に崩れそうのない均整のとれた顔立ちに、椴はときめいたのだった。


「うわあ…あんな…昭和男子みたいな奴、まだいたんだなぁ…。」


と呟いた時、その彼を突き飛ばしながら笑うカップルがいた。

最初から誰もいないように交差点を歩く金髪染めした男の、その下品な笑顔を嘲笑しながら、


「これだから本当の美しさを知らない野郎は。」


と男と少年を見比べながら呆れるように空を見あげて、ため息をつく。

そしてやがて交差点を渡りきり、ハチ公前を通り過ぎようとする少年と、頭一つ上の椴の視線が一瞬交差した。

虚ろな黒い目と生気に満ち満ちた赤茶色の目が混じり合い、そして喧騒の中に糸を引くように消えていく。


互いに何も言う事なく通り過ぎたその一瞬が、やがて互い大きな交わりの1つである事も知る由もなしに。


「・・・ま、大人になったら先輩の義理使わして、誘ってもみるかな。」


やがてそれを名残惜しみつつも、冗談気味に椴は彼へと見返る事もなく目を伏せたのであった。




2、うつろ船の蛮女


 少年はこの日死のうとしていた。


渋谷駅に乗り込んで行った先は山手線、東京駅に至りそこからバズに乗って向かうは茨城県水戸市、水戸駅だ。


曇り空が物寂しい無人のホームに降り立ち、虚ろな目を向けたまま少年は再び鹿島線の電車に乗り込む。


窓から見える景色はいつの間にか渋谷の混み合ったビル群と異なり、田畑に疎らに立つ真新しい一軒家だけが通り過ぎゆくものとなっている。


しかしそんな事は少年にはどうでも良い事だった。

虚ろな瞳に移るはどちらも何の面白みもない四角の集まりにすぎなかった様に見えていたから―。


「え!こんな寒い時に海に行くのかい!?あんたぁあそこはなーんにもないよ!」


とカートを引いた老婆のおせっかいをうざったそうに無視して、少年は駅を出る。

教えられた通りに進む先は、他の外都市の例に漏れず活気のない閑静な住宅街だ。

その間を割るように進む鶯谷色は、灰の空を背景に動く一点のように老婆には見えた。


やがて、進んだ先に見える久しぶりに見た色に、ほうと少年は白いため息をついた。


四角く、同じような形をした住宅街の隙間から、真正面に見えるは「海」だ。強くなった風に蠢く土色の海は、白いあぶく泡を幾重に重ねながら、黒い砂浜を行ったり来たり。


更に前方が開いた先には、砂浜から生える細長い草が風に煽られ、寂しく音を立てて靡いている。流された朽ちかけの流木の臭いが入り混る潮を嗅ぎながら、


「つっまんねぇな…。これが太平洋の冬か…。」


と寒さに身を震わせ、再びため息をついた。


―こんなくそつまんない場所が、この俺の「死に場所」。


呟いた言葉と目の前の現実にむなしさが込み上げ、少年は鼻をすする。

そしてぼんやりと土色の水平線を見渡していった。うっすら明るく光を放ってたなびく水平線の向こうに、ほぼ絶望的な面持ちでもってそれでも少年はその向こうに現れ出る「黒い点」を請うように待ち望んだのだ。それが、この今時の高校生がここを「死に場所」にする、唯一つの理由だったから。


何の変哲もない、この太平洋の海にはただ一つ、とある「伝説」があった。


俗称「虚船漂流伝説。」


その神秘的な逸話と意味深なメッセージによって、比較的人気のある話である。


時は江戸時代後期。


ここ、茨城県大洗町に位置する海岸に、ある日、「何か」がたどり着いた。


その正体は、巨大な「鉄の円船」である。上面がレンズのごとくガラスで覆いつくされた釜のような船。その奇妙な形に、それを見つけた漁師たちが恐る恐る中を覗くとー


そこには女がいたのだった。


見たことのない顔立ち、見たことのない豪華な着物を着た色白で美しい異国の女が、「箱」を抱え笑っていたのであった。

辺鄙な漁港の世界しか知らない漁師たちの目には、さぞかし奇異に映ったのであろう。

忽ちそれは大騒ぎにはなったのだが、如何せん言葉も通じず曖昧に微笑むだけの彼女に、誰も為す術もなく、結局領民は女を乗せたまま、虚船を送り返してしまった―。


それで話しは終わりである。


呆気ない結末ではあるが、その抽象的で印象深い伝説は200年経った後でもまことしやかに語りつがれている。


「いやそれだけではない。」


と少年は思った。


―おそらく、少なくともそれと似たような事が本当に起こって、この寂しい景色がすべてだと思っていた漁師たちの世界を変えたのだ。と。


その衝撃と心の震えが200年経った少年の心まで伝わった―。

何の変化もない水平線から目をそらし、少年は砂浜を歩き始めた。スニーカーに黒い砂が入り込む様子を、他人事のように見下ろす。



 少年がその伝説を知ったのは中学二年の時であった。


同級生らが騒ぐラノベ、ティーンズコーナーには目もくれず、茶色い背表紙を手にとったのをきっかけに、インクのつぶれた明朝体に書かれた一文字一文字が、次第に幼き少年の脳内を侵していったのだ。


少年はそれから妄想に耽った。


その異国の女は一体何だったのか、大事に抱える箱の中身は何物だったのか、船は何故丸かったのか。


「そして何のために女は流されたのか―。」


分かるようで分からない曖昧さがいじらしく、気づけば少年はそれに関する書類を読みあさり、自分なりの答えを見いだそうとしていた。


少なくとも少年は巷で騒がれる「UFO説」は認めなかった。そこには、SFの入る余地のない、人間の情念が籠もっているのだと「思いたかった。」


思春期ならでは情緒不安定も合い重なって、少年の歪んだこだわりは、やがていたかもいないかも分からない「異国の女」に対する慕情へと移り変わる。


それは二次元の女に惚れる、という話とはワケが違う、また新たな孤独の始まりである事を、少年は自覚し、その物分りの良いだけの自身を恨んだ。


そうして何度となく繰り返して描いた自分だけの『虚姫』。

茶色い髪を肩までのばし、虚ろに微笑む彼女の唇をそっと撫でながら、四角い教室の中で死ぬなら貴女の側で死にたいと一筋の涙を虚ろに流した。


少年はやがて無表情のままに砂浜に跡をつけ歩く。

せめて、せめて貴女にもう少し近づきたいと当てもない場所を探しながら、近づいてくる『死』への恐怖とその滑稽さにははっと乾いた声を上げた。


何も信じられなくなった少年が本気で信じていた事は、『彼女』がこの場に再び来てくれる事だった。


その馬鹿馬鹿しさと、どうしょうもなく込み上げる慕望の念に心が乱され、ふらりとスニーカーを海に濡らす。そのまま勢いで斜めに進み飛び込んでしまおうとした時、


すっと引いた海の向こうにある物陰が少年の死んだ目に映った。


「……?」


いや、物ではない。だらりと転がる細長く5つに枝分かれたものは、人間の「腕」だ。


「死体…!?」


はっと波打つ心臓を抑え、遠くにいるそれを伺うと、それは栗色の長い髪を乱して倒れる1人の女だった。


「お・ん・な。」


どくんと少年の心臓が落ちた。


青いチェックのワンピースに黒ニーソックスの出立ちで倒れている女は体中傷だらけ、そして砂まみれである。激しく打ちつけられここに流されたのかと、髪に隠れて見えない顔を伺おうと少年は恐る恐る近づく。


「おんな、この海に、おんな・・・・」


汗が出る心地に身を震わせながら少年は歩く。するとその砂音に気付いたか、のそりと女が顔をもたげゆっくり髪をかきあげた。


「―!」


少年はそこから見えた彫りの深い女の顔に、はっと目を見開き口元を抑える。


「が、がいこくじん…!?」


同じだ、と思った。


自分が考えていた、紙の上の「虚姫」と同じだ―!


翡翠色の瞳が、ブリュネットの髪の隙間からぼんやりと、向こうで動けないでいる少年を捉える。ぽかんと口を開けた女は、やがて眠たそうに目を伏せそしてまた倒れ込んだ。


「あぁ…!」


慌てて駆け寄った少年は、彼女の腕を掴みそれを首にかける。

何はともあれ、まずはここから助け出さないと―と立ち上がろうにも、


「わっおもっ…!」


ぐっしょりと湿り、気絶した女を少年の細身の体では支えきれず倒れてしまう。

仕方なくだっこするように背中を回めた少年は、背中ごしに感じる女の冷たい膨らみにほっと顔を赤く染めた。





3、経緯


 「ここは…?」


鈍痛に目を覚まし、女は声をあげた。

二、三回まばたきして自分の状況を把握しようと目をこらす。霞む視界に広がるは苔むした岩天井、そして足の向こうにはさざ波の音と眩しい光。


「洞窟…?」


なんでこんな所に自分が、と視線を横に向けると心配そうに自分を伺う見知らぬ少年と目が合った。

驚きのあまり飛び上がる、それと同時に少年も彼女以上に飛び上がって岩肌に背中をつけた。


恐怖と困惑に小刻みに震える少年の姿に、女は、ずきりと痛む頭の中からさっき海岸で見た少年である事を思い出す。


そして自分に鶯谷色のジャケットがかけられているのに気付いてはっと目を開いた。目の前の少年はワイシャツ姿だ―つまりは、


「…貴方が…助けてくれたのね…。」


ほぅと思わず安堵で微笑んだ仕草に少年が、驚いたように口を開けた。


「あ、あんた…一体!」


震える少年の口から出た日本語にここが日本である事も察し、女はまた目を伏せ寝込んだ。


日本か、―随分遠くまで流れ着いたものだ。

そのまま寝伏したい心地を抑え、ジャケットを掴んだまま女はふっと目を開く。


「突然の事で驚いたでしょうね…。 ごめんね。そして…ありがとう。」


息を出すように言ったカタコトの日本語に、少年は更に驚いた顔をした。


「あんた…日本語を…。」


「ちょっとだけよ。」


と突然走った痛みに顔を歪めれば、少年は途端に困った顔をして顔を近づける。


「だ、大丈夫か!?それにしても酷い傷だな…相当遠くまで流されたようだけど…!」


少年はジャケットをのけて、血が流れる右足を持っていたハンカチで抑えた。

ふと女は自分の体を見る。女の体は濡れているが潮臭くなく、砂も綺麗に流されて砂が詰まった傷口も、清水で丁寧に吹かれている。


「そこまで…してくれたの…。」


風が通った寒さに歯を食いしばれども、右に音をならす小さな焚き火がぼうと女の頬を温めた。

一方、少年は彼女の大きく腫れ上がった右足に懸念の眉をひそめる。


「酷ぇな。これ…何が埋め込まれてねえか・・・?」


赤くうれた傷口にそっと指を重ねれば、びくりと跳ねる女の反応と共に黄色い膿がべたりとついた。そして、その傷の中心に黒い丸があるのを見る。


「だん…がん…?」


日本人として馴染みのない傷口に首を傾げると、女は荒々しい息と共に腕を目の上に乗せ、天井を見ながら言った。


「罪を…おかしたの。」


「つ・み。」


「遠い異国で取り替えしのつかない事をしてしまったの…。それはその罰を受けた証。」



真摯な面持ちで片手で顔を隠す女の様子に、謀らずも少年は甘美な心地に浸った。


「罪を侵して流された」―それは虚姫の伝説と全く同じだったから。


女の身体をよく見れば腰、肩にも所々痛々しい跡と包帯の跡が見えている。

それと同時に俯瞰して見える、女の肉付きの良い太腿、なだらかな胸の膨らみがうかがえ少年の動揺を誘った。


我に省み、また熟れた傷口に触れると、熱をおびた膨らみを感じる事ができる。


「やばいなコレ…菌が入って熱になるかもしんねえぞ…。」


女も次第に息をきらし、溢れた汗をぬぐっている。


「待ってろ…今からすぐ病院でも…!」


枕変わりにしたカバンから携帯を取り出すが―。


「駄目…!」


悲鳴のような声をあげ女が武士の手首をがしりと掴んだ。


「…!」


久々に感じた人の力に、ぞわっと、武士の動揺が背中を震わせる。

色白の武士の手首に絡む浅黒い手は女のにしては力強くて―、


「私はまだここで捕まるわけにはいかないの…お願い…医者には呼ばないで…。」


請うように涙を溜める女の息遣いに、武士は付け入る間もなく頷づく事しか出来なかった。


***


 少年の行った先は、海岸沿いにひっそりと佇む寂れた雑貨屋だ。

石垣を無理に乗り越えて、少年はガードレールから居眠りする年老の男に声をかけた。


「じっちゃん!ミネラルウォーターと消毒液!」


突然の声にぱちんと目が覚めた男の視界の先には、この町にはない艶やかな抹茶色を着た少年がガードレールに跨っている。


「なんだ…?海の向こうからやって来たんか?」


口を開く男に走り寄り、少年は漁るように埃のかむる雑貨や菓子を抱える。

その真剣な眼差しに何があったかと更に眉を潜める男は、


「どうしたの。海岸で怪我でもしたのかい?」と尋ねた。


「違う…俺じゃない…でも、俺が助けないと…!俺が…あいつを助けないと…!」


「あいつ…?」


譫言のように呟く少年は、目を小刻みに震わせて実に不気味であったが輝いているようにも男は見えた。やがて少年は開いた片手で財布を取り出す。


「釣りは良い!とっとけ!」


ばんっとしわくちゃの千円札を机に置いて、少年はそそくさと道路を横切りガードレールを超える。


「お、お客さん!? 釣りどころか、足りないよ、コレじゃぁ!!」


叫ぶ男の声を少年は「あえて」無視して飛び越えたのであった。


***


 冬の太平洋は日が沈むのが早い。充電の切れかけた携帯に映された時間は午後6時半。


真夜中のように暗くなった洞窟の中で、焚き火がぼんやりと間を挟んで中に篭っている2人を映す。


血を滲ませながらも強く巻きつけられた脚を撫でながら、やがて女は腰をかけて言った。


「本当。感謝し尽くせないわ。お陰で具合も良くなってきたかも。」


と無理に笑う女の俯いた顔が、焚き火の影で見えた。

一方少年はビニール袋の中からパンを取り出し、ほおばりながらそれを見守る。


「あえて、聞かないよ。何があったかは。」


女の思いつめた顔を察して言った言葉に、女は「ありがと」と小さく呟いた。


「…でも、私は貴方の事は知りたいわね。鈴木武士(すずきたけし)君―。」


「な…!?」


何故俺の名前が分かったと問えば、女の指さす先に焚き火で燃える数学の教科書が綺麗な明朝体で書かれた、「鈴木武士」という文字と共に燃えていた。


「知っているのはそれだけじゃないわ。貴方、学校を嫌っているんでしょ。そして、すべてを無にするた

めに…ここまで来た。」


「……あんた…!」


「少し見てしまったのよ。」


と女は武士を神妙な面持ちで見る。


「私が寝てる間に、貴方が何の抵抗もなく、教科書を薪にした所を。そして、その時の目が虚ろだって事にもね。…そう。こうやって、人の気持ちを詮索した事が…私が侵した罪。それで私は銃に撃たれた。」


真剣な声で、女は答えた。

一方少年―、武士は女が言ったその罪の重さをその身をもって知った。


「どれ位前の事かは、さすがに覚えていない、でも、私は遠い異国―NYで「ある者」の秘密を知って追われる立場になってしまったの。その時の跡が、これよ。」


「にゅ、NY…!?そんな遠い所まで…!?」


「ええ。危ない所だったけどなんとか私は「そいつ」から逃げ出した。大雨で濁流した地下水路に飛び込んで―、ね。」


「え、そこからここまで流れ着いたワケ?!」


「ふふふまさか。それなりに段階はあるわよ。」


と、脚を組み合わせながら女は明るく笑った。


「私ね、あのままだったら本当に死ぬ所だったんだけど、地下水路に住むある者によって助けられたのよ。」


「誰?」


「白いワニ。」


「はぁ?」


何を言ってるんだと口を開く武士に「貴方も元気が出たようね」と笑った。


「あら知らない?NYの地下水路には白いワニが生きている、っていう昔からの都市伝説があるじゃない。私、それで彼によって引き出されたのよね。おまけに出口までのルートまで乗せてもらって、そこから彼の口添えでこっそり密流船に乗ってここまで来たってワケなのよ。」


焚き火に手を当てながらドラマチックだったでしょと笑う彼女に対し、武士は、「こいつは流れ着いた先で頭を打ったんだ」と思う事にした。


「…でもその密流船も、日本の海上自衛隊の監視船に砲撃されて、私はまた放り出されて流された。そして、貴方に助けられた…。」


感謝の眼差しをほんのり灯して、女は武士を見下ろした。


「そういう事、だったのか…。」


武士の言葉に頷き、次に呟いた女の言葉は、どこかもの寂しいものであった。


「それにしても…窮屈になったものね。」


「!?」


それに武士は何の事だと声を震わせながら尋ねた。


「前から、侵犯権に対して随分と厳しくなったって言うけど…あの自衛隊、有無を言わさず20ミリ機銃を打ちつけてきやがったわ。怖かったらなかったわよ。」


と、女は少々忌々しそうに目をそらして言った。

―確かに、それは自衛隊としては理にかなった行為ではあるが、それでも女は「襲われた身」として、灰色の から見える「自衛隊」黒文字が不気味で貯まらなかった。


「…そんな時代になったんすよ。この国は、『あの時』から。」


途端、武士は寂しそうに膝を抱え俯いて言った。


「財政がヤバいんだ。川も緑も全部「あの時」から駄目になって、大勢の人が理不尽に避難らされて、職を失って、みんなカツカツになってる。それも、その寄せ波の1つなんだ。きっと手放したくないんです。日本は今、海も土地もその利権を、保とうとして焦ってるんだ―。」


高校生らしからぬ流暢な言葉に、女は武士の性格を察して微笑む。

その感性はカバンから覗く、燃やせなかった古本からも見る事が出来た。


「その波が…貴方の所にも来てた、というのかしら…。」


武士は答えない。膝を抱え、気まずそうに横切れの目をすっとそらしただけだった。

女は寂しそうに口角をあげジャケットを羽織る。


「そんな事より明日…貴女どうするんですか…何時までもここにいるって言う訳でもあるまいし…。」


「そうね。でもこの身の上で公に出る訳にもいかないし、しばらくここにいるわ。」


あっさりとした言い方に武士はほぅと気付かれないように「笑った。」

そうか、良かった。暫くそこにいるというのなら俺も―、


「貴方は帰りなさい。」


自分を見ながら言った女に、武士はえっと声を裏返す。


「何言ってんだよ…俺がいなかったらどうやって生活するっていうんだ。」


「それでも、貴方に迷惑かけるワケにはいかないもの。」


そして、彼の制服を今一度見ながら言う。


「明日は火曜日。貴方には学校があるのでしょ?朝一番に帰りなさい。これが噂になる前に、お礼はまた別の機会にするから、ね。」


それは日常に暮らす高校生への気遣いであったのだろう。

しかし今の武士は、それによって一種の見捨てられ感に襲われたのだ。


「嫌だ。」


居残る言い訳は幾らでも出来たはずだった。しかしそれを思慮するまでに武士は至らなかった。


「絶対に嫌だ。俺も、あんたと一緒にいる。」


ひんやりと声の通った物言いにはっと驚く女の腕を、武士は掴んだ。


「矜持位は…立たせろよ。あんたが本当に治るまでここにいる。それが…助けた側の責任ってモンだ。」


掴む前に捻り出した建て前も、その請うような目までは隠せない。

女の困惑した表情に自分がどんな顔をしているかを察した武士は、慌てて手を離す。


「…貴方…。」


「…あーっ…。この話は取りあえずなしだ、取りあえず寝よう、もう寝よう。」


自分から言い出した問いを終わらせバツが悪そうに頭をかき、焚き火の前の地面に手をつき寝転がろうとした武士に、やがて女は纏ったジャケットを広げながら言った。


「入る?」


「は?」


真顔で固まる武士に女はふふふと笑った。


「こんな寒い時に私だけジャケットって、のも分が悪いもの。一緒に入ろ、ね?」


特に躊躇もなく笑う女と対照的に、武士は一気に顔を赤くさせた。

目の前には生足を太腿までさらけ出し、

大きな胸の膨らみの形がはっきり映っている女が―。


いや…いやいやいや、ここで動揺したら、逆にいやらしい奴って思われるだろ!


ごっちゃまぜになった思考の中で寸時に現れ出た答えに、武士はすくと立ち上がる。

そしてロボットのごとく小刻みに焚き火を回り、すとんと女の横に脚を閉じて座った。

きゅっと唇を閉める、困惑と緊張が入り混じった少年の表情に女はまたくっと笑った。


「な、何がおかしぃ…っわあぁっ!」


突然引き寄せられて感じる、女の身体つきと胸の膨らみ、そしてじわりと伝わる体温。今までよりも、想像した以上に暖かくて、柔らかくて。


17歳の少年はそれを拒否できる程、幼くはなかった。


「…負けたよ。」


敗北を建て前にして、武士は目を瞑る。潰れない程度に頭を胸に摺り寄せて、肌を通じて感じる弾力を気付かれない程度にほっと顔を染めて酔う。くびれに手を回し、もたれかかる少年の重量に、


「軽いわね。」


と女は呟いた。そしてその寒さに震える背中に腕を回して抱きしめる。


「夢みたいだな…。」


薪の割れる音に合わせて少年はうっすら本音をもらす。


「そうね、夢かもね。」


と少年の面持ちを察するように、互いの心境を隠すように、女はきゅっと抱き締めていたのであった。


***


 武士は砂浜を走っていた。


その両手には野菜市場から仕入れた瑞々しい野菜を抱えている。きっと喜ぶであろう彼女の姿を思いうかべながら武士も少し笑った。


そうして冷たい風から逃げるように洞窟に駆け寄った武士の目の前には、

裂けた赤いドレスにビリュネットの髪を下ろしたその「女」が座っていた。


「・・・お、お前なんでそんな格好を―?」


心臓が瞬時に高鳴った感覚に戸惑いギュッと野菜を抱えた武士に、女はその曖昧な笑顔で首を傾けていた。


「まさかお前、やっぱり虚姫―。」


ふと武士は、女がその手に大事そうに抱えている黒く四角い「もの」に目が映る。

それが何か目をこらそうとすると、目の前に迫るははだける赤布からのぞく2つの双丘。


「わぁあああぁあぁあああああ!」


汗をかいて勢い良く飛び上がれば、苔むした洞窟の天井が迫っていた。


「夢!?」


鎖骨の浮き出た胸元を掴み興奮で短くなった息を整えると、ここにジャケットをシーツ替わりに寝ていた自分しかいない事に気付く。


「あの人は!?」


汗を飛ばし辺りを見渡すも洞窟には誰もいない。

それ所か、薪の跡さえも綺麗に拭き取られたようになくなっている。


振り向いた先には荷物がすべて丁寧に押し込まれ、チャックの開いた学校カバンが枕替わりになっていた。


「なんだ…?」


ついさっきまで、自分でない誰かの体温を感じていながら寝ていたというのに―

彼女の名前を呼ぼうにも、名前を知らない女の姿口を開いたまま探す。


と、足音と共に眩しい洞窟の入り口から大きな人影が見えた。


「あ…!」


安心して声を上げる武士であったが、鈍く光る影の黒縁眼鏡が真顔に戻った武士を映した。


「おぉーい!!見つけたぞー!間違いない!この子だーっ!」


眼鏡をかけた雑貨屋の男が寸時に振り向き、誰かを呼ぶ。

そこから登りあがっていくのは、鼠色の巡査服を着た警官たちだ。


警官たちは物珍しそうに洞窟でジャケットをかぶって寝ていた武士を見る。


「…君、高校生だよね。子どもがなんでこんな所に寝泊まりしてるんだい。」


古株の男が肘に手をつき武士を睨む。脇から雑貨屋の男が、唖然とする武士を察しって言った。


「さっき交番から匿名で電話がかかってきたんだよ。鹿島灘の海岸沿いに君がいるから、保護してくれっていう通報をね!」


匿名で通報、まさかあの人が―、


「そんな…嫌だ…。」


かすれた声をあげて後ずさる武士を見ながら、警官は互いの顔を見合わせ、


「行くぞ。」


「はい。」


という合図と共にその「聖域」に足を踏み出す。


「やめろ…!入るな…!」


行き止まりの洞窟の奥へ逃げ込む武士を、警官は首根っこを掴み、両腕を掴んで引っ張り出す。


「やめろ…やめろやめろ…!放せ!俺はまだ…話を聞いてないんだぁあああ!」


大人の腕の中でだだをこねるように抵抗する少年を男は呆然としたように見守っていた。


「一体この子、何があったんだよ・・・!」


「生徒手帳を確認しとけ。ご両親にも連絡だ。」


「はい。」


腕を固める警官らの淡々としたやりとりに、半ば絶望したように鈍色の空に向かって叫ぶ事しか出来ない武士だった。


「嫌だ!嫌だ!帰りたくない!帰りたくない!」


少年の夢心地はあっと言う間に終わった。「女」に対する執着を野放しにされたままに。




4、高校


 それから4日後の午後3時頃、東京御茶ノ水。


冬の空は乾いた空気と合い重なり、都会の一等地にもかかわらずそれなりに澄み渡っている。

森の中から突き出るように聳える医科歯科大学のビル群を背景に橋を渡り駅を横切れば、医科歯科大、そして橋の向こうにキャンパスを持つ明治大学の学生らが騒がしく歩き回り楽器店が立ち並んだ賑やかな通りへと至る。


それを突き進んだ先、ガラス張りの豪勢な出で立ちを表す明治大学を手前に右に曲がると細長い坂道があり、その頂上右手には山の上ホテルが装飾と共に歴史ある雰囲気を醸し出す。そしてそこを横目にまっすぐ頂上から少し下る突き当たり。木々の中に紛れる様にしてその「高校」はあった。



谷に沿うようにして建つ高校の周りは、同じように谷に沿って建てられたビル群が遠くから向かい合うようにして囲む。その、いかにも都会にある風景の「高校」は、橙色の差しを反射して輝く抹茶色に縁取られていた。


椴は腰に手を当て、喜々としてそれを端から見下ろしている。


「なんか俺ん時よりも綺麗になった!?改装したのかな!」


「ええ、そうよ。確か5年前位かしらね。立派になったものよねぇ。」


その頭二つ分下隣で彼を見上げるは、花柄ワンピースに三つ編み姿と少々若作りがすぎる小太りの女性。椴の兄の妻であり、高校時代の3つ上の先輩でもある日椴 凜子である。


「それにしてもごめんね敬之君。せっかくの母校見学。予定よりも3日も遅くかかってしまって…。」


「しゃーないしゃーない。出張で小池先生がいないってなら、どうせ行ったって意味無かったし。」


それもそうねと二重あごに手を添えて笑う凜子に微笑み、椴は目端にある白線のしかれたグラウンドに向かおうと道路を歩いた。


やがて正面玄関へと至り、木の香りのする下駄箱を靴を脱いでひょいと通り過ぎれば、通りかかった女子生徒が学校に突如現れた蛇ジャケットを着こなす椴に、目を見張る。


「全く、そうやって女の子を虜にしてきた所も変わんないのねぇ。」


と、下駄箱先の階段を上がりながら椴の後ろをつく凜子は皮肉っぽく笑った。


「良かった~。建物そのものはあんま変わってねーんだな。12年振りだったし、もう面影ねーかと思った。」


と、輝いた瞳をキョロキョロと校舎に向ける様は、プレイボーイというよりそのまま高校生に戻った椴だ。


「制服着れば、目の下の皺以外は全く変わってないのかもね…。」


と、凜子は中庭の窓に浮く椴の綺麗にのびた鼻筋を見つめる。やがて二階に出て、中庭に沿った廊下を右に進めば目的地である職員室に至る。

椴の横にあたふたと追いついた凜子は、中庭の脇にあるテニスコートで練習する生徒を共に見ながら呟いた。


「12年経って変わったのは校舎だけ、じゃないわよね。」


「うん…そうだね。」


12年ぶりに見た校舎―、もとい日本の姿はまるでタイムカプセルを見ているようで、すべてが椴にとって眩しいように見えたのだった。


「変わった、変わった。『あの事件』以来、なんだかすべてがせせこましくなったような感じがするのよね。」


と、凜子。


「そりゃぁあたし達の時だって大変だったわよ?リーマンショックの波から抜け切れなくてアップアップだったけど、それがようやくなんとか立ち直れると思った矢先の事件だったもの。ようやく見えてきた、夢だとか希望が「また」一気に潰されてしまった感じよね。」


「うん…。」


「本当、この子達が可哀相。大人が希望を見いだせない世の中の鬱屈や鬱憤のしわ寄せを、この箱の中で受けているような気がしてならないの。」


「ほおーっ、さっすがー公民の先生の言う事は違うねぇー。」


「…っ、まだ講師よ!採用試験は受かってないわ!」


ワザとでしょ!とどついた衝撃に椴はわざとらしく笑った。下の体育館へ至る渡り廊下にも抹茶色の制服を着た生徒の笑い声が聞こえる。


「でも、それで急に第三党によった政権になるたぁ、相当だったんだね。」


「そうねぇ。脱原発には経済優先で妥協してきた自民党政権の面目は丸つぶれだったし、野党の民主党は、3年政権でみんなのトラウマがあったし…選択の余地がなかったのよ。」


と、抹茶色の盤上に錆びた画鋲で貼られた学級新聞を見ながら、凜子は寂しげに言った。


「でも今の新政党も大丈夫なのかしらねぇ。田中来栖首相。あの人、エリート色がない人当たりの良さに定評あるけど、笑顔で怖い事平気で言う人だもんなぁ…。あ、急にこんな変な事言ってごめんなさいね。」


とせっかくの故郷帰りに水を売った事に謝った凛子に椴はぶんと首を振り、中庭を面して向かい合う教室を眺める。


「2年B組…ここだ…。」


「あら、1年F組は通り過ぎて、そっちに思い入れがあるっていうの?」


「まぁなんつったて小池先生がいたからなぁ…。」


「本当に小池先生が好きだったのね。」


2人並んで窓から生徒たちが放課後を楽しむ様子を見守るが、方や凜子は少しいたたまれない様子で窓の端を見ていた。


「そういえば…B組にちょっと気になる子がいてね…。」


「?」


ふとした既視感に駆られ椴は顔をあげる。が、それは奥の廊下から凜子にかける声によって遮られた。


「あ、あの凜ちゃん先生っ。その人は…?!」


それはさっき下駄箱を通りかかった女子生徒2人である。

まさか椴を追ってここまで来たのだろうか―、と凜子は椴の恐ろしさを改めて感じつつ、その優越感に二重あごを揺らして笑う。


「んふふ、誰だと思う?実はこの子は私の恋びt…」


「嘘だ。」


「ちょ、即答しないでよ。」


真顔になったボブカットの女子生徒は、椴の視線にはっとなって顔を赤く染め隣の女子の腕を掴んだ。


「たっく、しょうがないわねぇ。この人は日椴敬之君。私の旦那の弟よ。つまり義弟。」


「やっぱ!?血ィつながってないんだ!!どうりで!名字同じだけも似てないもん、ね!」


口数の減らない子だなぁ、と椴は苦笑しながらその女子高生を見下ろした。


「そうだ。ちょっと、敬之君。私から先に小池先生に話つけておくから、それまで彼女たちと話してやってくんない?そういうの得意でしょ!」


「えぇ!?」


「よろしくね!」


彼女たちの空気を読んだ凜子は「頼むわよ!」と肩を叩きそそくさと廊下を渡っていく。


「え、ちょっとぉ!」


きゃぁっと小さな悲鳴をあげたその女子生徒は固まる友を引きずりながら、逃げる凛子に手のばす椴に近づいてきた。やれやれと頭を掻き、椴も廊下で彼女と向かいあう。


「もーっ突然こんな所にぃー蛇ジャケット着てる人なんてくるからぁー驚きましたぁー、何の用できたんですかぁ?」


ぴょんぴょんとはねる細い脚の動きに合わせて、深緑のスカートも羽ばたく。


「ん、ああ。ここの卒業生なんだよ。俺は21期生、君たちは?」


「38期生です。と いう事は椴先輩今、33歳なんですね。」


腕を掴まれたもう1人の生徒、眼鏡をかけた少女が凜として言った。


「あ、うん…!それでクラスは1年からF…B…I組だったよ。あ、言っとくけどこれ、洒落じゃないからね。本当だからね。」


「ぐうぜっーん!!あたし達も同じB組なんですぅー!」


「そっちかよ!」


と心の中で突っ込んだ椴に、彼女はまたぴょんぴょんと跳ね山吹色のリボンを揺らす。隣で三つ編みで眼鏡の少女も、


「私もです。」と恥ずかしそうに答えた。


同じB組か―、と思った時、椴はふとさっきの事を思い出す。B組の中にいるという「変わった子」、もしかしたら―、


「ねぇ…ちょっと聞いて良いかな。」


ぐっと端正な顔立ちを2人に寄せれば、更に頬を赤く染めて笑う彼女の顔が近づいた。


「な、なんですかぁ・・・?」


「そのB組にさ、なんか変わった子いないかな。」


「変わった子…?」


「そ、ストレートの黒短髪で目は切れ長で、顔はのっぺりしてて、淫靡さを漂わすような男の子。」


「いんび…インビ…?(印日…?)」


「淫靡はともかくそんな男子、どこにもいるような気がしますが。」


「あー!そうなんだけどー!こう、何か梨園にいるような雰囲気を漂わす感じでぇ…!あの伏し目がちな、黒い瞳が綺麗で幻想的でさぁ…!」


椴は両手を囲み、そのイメージをひねり出しながら語る。


「ジャニーズとかなんとかみたいなのが「格好良い」と思う女子高生の感性じゃ、伝わらないかな・・・。」


と思っていた所、腕を組んだ眼鏡の少女がぼそりと答えた。


「うーん…と、…そういう人ってもしかして…。」


「ん?」


「あーっ!もしかしてぇ詩織!今、愛しのブリブリの事思ったぁー!?」


その時眼鏡の少女―、詩織の瞳が動揺に揺れたのを椴は見逃さなかった。


「ブリブリ?」


「そ、それ…!すっ、鈴木武士の事でしょうかっ。あの人ならそれっぽい感じかな…!って、思って…背がちょっと低めの男子ですけど…」


「タケシってぇ~ブシっても読むじゃなぁいですかぁ~だからブリ。「スズキ ブリ」なんてどっちも魚の名前じゃん!?みたいな!?あははっ!」


彼女の、椴に対する面白人間アピールも不発に終わり、椴はすかさず詩織の方に顔を向けた。


「背が低いってのも、当てはまってるよ。で、その…鈴木武士ってのは、どんな奴なのかな?」


「椴さんが言う通り、見た目も含めて不思議な人です。どこか浮き世離れしてて…大人っぽくて…本を読むのがとっても好きな人。」


「そうかぁ? ただのぼっちじゃん。友達だーれもいないようだしぃ、根暗で人生かぁいそうって感じ?」


容赦のない一言であったが、その淫靡なイメージにぴったりな根暗な性格というのに、椴はむふふとほくそ笑んだ。


「でもぉ、なんかここからなんっか、高そうなノーパソ持ち歩いてたよねぇアイツ。」


あ、そう言えばと詩織も声をあげる。


「たしかに、ここ数週間前からか本を読む代わりに何かひたすら打ってたような気がします。」


「あたしが前罰ゲームで覗き込んだ時、ブログ打ってたよ?学校でわざわざブログなんて~もー!そこら辺とか根暗!!マジでブリだよね!マジブリ!」


「多分、読書ブログとか何じゃない?しょっちゅう古臭い本ばっかり借りてたし。」


へぇ詳しいねと椴が片眉をあげた時、図書委員ですからと詩織は照れくさそうに口角をあげる。横から彼女も「このこの~」と詩織の肘をつついていた。


「でも鈴木君。最近はそれもめっきりなくなって、ずっと中庭を見つめ続けてきたような気がします。」


本当によく見てたんだねと椴は詩織に微笑んで見下ろした。


「そして…あんな事が4日前に…。」


「4日前…?」


詩織が何か言おうとした時―突然、弾いたような爆発音が校舎に響いた。


「「っきゃぁぁあああああ!!」」


女子高生は金切り声をあげパニックに陥る。両腕を掴み合って2人がガタガタ震える一方で、椴は爆発音の中から聞こえた鉄がぶつかる音にぞっとした。


「この音は…!?」


途端に聞こえる叫び声は―凛子のものだ。


「何ぃ!?何なのぉ…!?」


「ねえ、これって…まさかじゅうせ」


「君たちはそこに伏せたままにいなさい!良いか、絶対に立ち上がるなよ!」


「・・・椴先輩!」


震える2人を片手で差し留め椴は凛子のいる職員室に駆け出した。


すべるように手前の入り口に向かい引き戸を開ければ、騒然として固まる職員の真ん中、立ち会いのために職員机から区切られた二対のソファが見える。


そしてその向こうの机の上に堂々と脚を組み交わす抹茶色のズボンが見えた。

が、椴の前にぬっと突き出る靴は先の尖った「土足」だ。


「ちょ…」


恐る恐る視線をその頭にまで移動してみる。そこには、抹茶色のジャケットを着た痩身の生徒が―。


「あっあぁぁああああ!?」


その正体に気付いた時、今度は椴の悲鳴が湧いたのであった。


***


 「確かさっきあっちの方に行ったかな!走れば追いつくかも!」


「マジで!?何て話しかければ良いんだろ~!」


最上階4階の西棟。廊下を走り抜ける別の女子高生2人に、1人の男子が、図書室のフロントから声をかける。


「うぉーい!!何急いでんだー!つーかさっきの爆発音―」


「それ所じゃないよ!さっきさ、すっっっっごいイケメンなD組の転校生みかけたんだよね!!」


クラスメイトの女子が図書室のドアから身を乗り出し、息を切らしながら叫んだ。


「イケメン転校生?」


「うん!うちの制服着たチョー背の高い、パツキンのガイジンだったぁ~!英語で話しかけられてチンプ

ンカンプンだったけど、声もすっごく良い人だった!」


「ちょっと美香!そんな所にいないで早く案内してょ!」


興奮気味の相手がぐいと肩を掴み引きずる。それにのせられたま美香と呼ばれる少女は


「山中もそんな所で暇潰してないで、一緒に見に行こうよ!」


と呼びかけまた走り出していった。


「ちっ、…暇っつうか 当番なんだから仕方なくやってるだけだっつの…。」


呆れる男子、山中は本を閉じながら息を吐くが、暇である事は確かだ。


「…ちょっとすいやせーん。一旦出るんで留守番お願いしますゥ。」


山中はふと向こうの読書室に突っ伏している利用者に呼びかけ、カウンターから廊下へ向かった。渡る途中にもう一度窓からちらりと様子を見るが、相手は突っ伏したまま何も変化はない。


「…にしても、蛇柄ジャケットの伊達男といい イケメン転校生といい、今日はやたらと妙な来校者が来たもんだなー…。」


と呟き、そのまま甲高い声がする方へ走っていく。

その後ろで階段を横切る、もう一人を知る事無く。


***


 煙草をくゆらす薄い唇が、への字に曲がって椴を牽制する。


「なんでお前がここにいる。」


と流暢な英語が、煙と共に騒然とする職員室に響いた。


「それはこっちの台詞だぜ!久しぶりだな、ガンマン…!ジョージ…!」


生徒役として机の上にはべるは、NYで喧噪を誇る悪徳警官―ジョージ・ルキッドであった。

逆立った金髪は後ろ髪を少し刈り上げ、均整のとれた色白の顔立ちからサファイアのような青い瞳が浮いている。その容赦は正に「美青年」と呼ぶに相応しいもの。


しかし、ジョージはその顔を気だるそうに歪ませながら片手をあげ、コルトガバメントカスタム―、世界一悪趣味の銃と評される黄金銃「ギルデット」を掲げた。


「つーか!!この日本でなに危なっかしいモン、掲げてんだよー!しまえ―っ!ここはアメリカじゃないんだ!」


はっとギルデットの瞬きに気付いた椴は英語で怒鳴りながら指をさす。

それをジョージは何ともないように目をそらし、ギルデットを左右に揺らした。ふと椴がジョージの見下す青い視線に続けば、彼と向かい合ってガタガタ震えながら座る禿頭に気付いた。


「こ、小池先生ェ!?」


それは椴の恩師、小池だった。その声に気付いた小池はソファの端を掴みながらガタガタと顔を歪ませている。


「あっ、ひ、日椴君たすけてぇっ。こ、ここコイツが突然あんな格好でやってきてうちの生徒を探してるって―。」


「生徒…?」


と、ジョージが突然机を蹴り飛ばした。


「だからさっきからガタガタぬかそうとしてんじゃねぇぞ禿!てめぇん所の奴にとっとと会わせろってだけの話に何おびえてやがる!!」


「ひぃぃぃ!日椴君、通訳をぉぉおおお!!」


「落ち着け小池先生ー!っつか、アンタ英語の先生だったろ!?」


そうして犬歯を剥き出しに怒声をあげるジョージを、椴が代わりに請負う事となった。


「猟犬君!つか、一体何なの!NYPDのお前がどうしてわざわざ日本まで来て高校生を探してるんだ!?」


ソファの背もたれを掴んで迫る椴に、ジョージはくいと煙草を口端であげながらにやけた。


「犯罪者を捕まえるためだ。コレはれっきとした俺の仕事だ、口出すんじゃねえ。」


「…その子を捕まる事が?」


「ちげーょ。俺が捕まえるのは、そのガキが4日前海で接触したとかいう「相手」、とだよ。」


その言葉に、椴は片側で固まる凛子に目を向ける。


「・・・義姉さん。コイツ、4日前海に行った高校生を探しているんだって…ねぇそれってもしかして…。」


その途端凛子は見る見る目を大きく開かせる。


「それ…鈴木武士君の事だわ…!」


やっぱりか―、椴は心臓が鉛になった感覚を味わった。


「おい、何言い合ってる。」


眉を潜めたジョージに、椴が湧いて溢れる凛子の言葉を英語で通訳した。


「その子の名前は鈴木武士って言うんだって。4日前に、学校の帰り際に家出をし、茨城県の田舎町の洞窟で潜伏してたのを保護されたって…。」


「そうか、でセンコーはそいつから「相手」の話は聞いてねぇのか?」


「あっ、あの事は学校側としておととい、きちんと話は聞きましたぞっ。だがしかしそんな…「相手」なんちゅー話は当人から全く聞いてはおりませんっ!」


一方額に皺を寄せて小池が下手な英語で応える。


「でもあの時は大変だったよなぁ…鈴木、確かここで面談したんだっけか…。」


「ええ、酷かったわねぇ。鈴木君の奇行にもうお父さんの怒鳴りちらしちゃって、仕舞には、門前の前で思いっきり引っ叩いたりもしててね…。」


遠くに聞こえる他職員の呟きが椴の耳に張り付いていた。


「そっか、まぁ具体的な話は「本人」から聞けば良いや。そのスズキタケシっつーヤツのいる所に今から案内しろ。」


とジョージはのそりと立ち上がる。


「そ、そないな事言いましても…もう放課後です。この学校にいるっていう事自体はいくら私たちでも分かりかねま。」


「あ?」


ジョージの声を荒げた冷たい視線にぎゃぁと小池は声をあげて叫んだ。


「落ち着け猟犬君!とりあえず、下駄箱を確認してから探すって事にしねえか!?な!」


銃を持った右腕を掴み椴は誤魔化すように笑う。

それを黙ってはじき飛ばしジョージはしぶしぶ扉へと向かって開いた。


その前に表れるは盗み聞きしていた生徒たち。同じ制服を着た長身美青年のジョージに、一斉に甲高い歓声がわくが、両手に掲げられたギルデットによってそれが悲鳴となるのに時間はかからなかった。


その一抹を苦々しく見守った小池は、震えながら悪態をつく。


「たっく何なんだい!日本の、しかも一生徒のプチ家出事件になんでNYPDがあそこまで首突っ込むんだよ!おかしいだろ!」


それはそれで実におかしいが、椴には一つ引っかかる事があった。


「4日前ってつったら、俺が渋谷で鈴木君と会った日じゃないか…。」


今の状況になって分かる、あの少年の寂しそうな瞳。

彼はあのまま冬の茨城の海岸まで渡っていたというのだ。


「どうして…そんな事を…。」


聞き捨てならない「父親」という言葉に疑念を向けて、凛子を見れば凛子は気まずそうに口元に手を押さえていた。


「仕方ないわ…いずれ貴方と引き合わせてもらおうと思ってた所だったし…。」


と、凜子は重々しく小声で話した。


「実はその鈴木君は、この頃からお父さんと喧噪が絶えなかったのよねぇ…。お母さんも入院中の身の上であまり立ち入る事も出来ないからって、助けにならなくて…。」


「この頃、か。」


凜子の涙を溜める瞳から、鈴木という少年の心境を把握した。


「面談した結果、鈴木君は多分、その事に気を病んで突発的にああいう家出をしたんじゃないかって思っているの。だからここ3日間は出来る限り学校に居残りさせて、対策をとってたつもりだったんだけど…。」


理由が実に曖昧だなと椴は思った。

それはおそらく、面談で鈴木は一切の黙りを決めていたのではないか。と椴は推理する。


「原因である「父親」が隣にいる面談なんて、言いたい事も言えやしないじゃねえかよ。」


椴はそれに一瞬、嫌悪に眉をひそめた。全くこういう「微妙」に気遣いがなってない所も、「先生」というのは変わっていないものなのか、と。


そしてまた、椴は凜子との間で一種の「見解の差」を感じとっていた。もう一度思い出す、あの少年の俯いた顔―、あの着崩した制服のままで少年は突発的に「家出」をするために冬の海を歩いた―?


「家出、なんかじゃない。」


椴は彼の「澱んだ目」を見ながら拳を握りしめて、言った。


「その子は家出をしようとしたんじゃない…。死のうとしてたんだ―。」


「た、たかゆき君!?」


何を言うの、と寄ってくる凜子をきっと端正な瞳で睨みつけ椴が威圧する。


「同じだったから分かるんだよ。家も、学校も、どっちにも自分の居場所がなくてただ生きているだけの生地獄。そういうので死にたくなるんだよ、高校生ってのは…。」


「日椴君…!だがそんな事は鈴木の場合、昔からあった事だぞ。何だって今頃になって…。」


騒ぎわめく職員室の中、小池の問いに椴は清覧とした顔つきで答える。


「多分だと思うけど、4日前にきっとここで何かがあったんだ。それをきっかけに鈴木君は急に死にたくなった―。」


「が、学校で?…何が?」


「分からない。でも、本当に些細な事に17歳って年頃は宝石の原石から毒の結晶を見出してしまう、不安定な「生き物」なんだよ。」


おそらく、あの時も、胸に抱えた「自殺」という毒の結晶が、あの海での誰かの接触によってささやかな「原石」へと一時的に変わった。


それが武士を生きたまま海岸に留まらせたのだ。かつての自分を重ね合わせてついた1人の少年の実像を、椴は饒舌に語った。


そして続ける。


おそらくその接触した「相手」というのが、ジョージが今探している「誰か」なのであろうと―


と、その時 甲高い金切り声がスピーカーから響いた。

皆が肩を震わせ顔をあげると、スピーカーからは誰かの悲鳴と共に何かが激しく倒れる音がする。そしてその隙間から激しい怒声が学校中に響いた。


「おぅりゃぁあ!!タケシスズキィィィィ!!」


それはジョージの声だった。


「テメェがまだ学校に残ってんのは分かってんだぁあああ!!今から3階の放送室に来い!さもなければ俺が今からお前の所に向かう!覚悟しろ!」


ノイズの入り混じった英語を聞き取り椴はくっと、顔をあげる。


「やっべぇ…!やっぱまだ学校に残ってんだ、鈴木君…!」


椴の、ジョージに対する恐怖の色を読み取った凜子は小池を見る。それに促され、小池は大仰に手を広げて言った。


「鈴木を探しだせー!!あんなアブナい外国人にとっつかまる前に俺らが見つけて保護するんだーっ!」


そう言う前に椴はジャケットを翻し既に駆け出していた。それに促されるように周りの職員も続いて職員室を出て行く。


「え、なんだろう。コレ。」


「面白そう!俺たちもやろうぜ!」


走り去る職員に続き、廊下にいた生徒たちも走り出し「鈴木」を探しはじめた。

一方3階のジョージも、殴り飛ばした相手を置き捨て、放送室の扉を乱暴にあける。


辺りを見渡し、がらんどうな3階の廊下に響く騒音や呼び声に楽しそうに口角をあげる。


「ほう?鬼ごっこの次は隠れん坊ってか?はっおもしれぇ!!」


と抹茶色の制服に映えるギルデットのスライドを引き、二丁拳銃で風のごとく駆け出していったのだった。


一方、椴は息を切らす胸の内で、鈴木武士が何故途端にブログをやめる事になったのか、それが武士の自殺未遂の鍵なのかもしれないと思っていた。


「頼むから…また…何かのきっかけで死のうだなんて思うなよ…!」





〈後編へ続く〉


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