入道雲、きらきら
「あっつーい!」
エアコンをつけてくれない車から顔を出す。温い風が顔を叩いて行くだけだった。
遠くに立派な入道雲が見える。真っ白だけど綿でも綿菓子でもない。雨を降らすぞーっていう意地悪な集まり。
「ちょっと、青、危ないから顔引っ込めなさい」
運転席の母が前を向いたままそう言った。サイドミラーか、バックミラーか、少なくとも鏡のせいだ。
「だってさ、なんでエアコン切っちゃったわけ? あっついよー、もうスポーツドリンクも温いしさ」
「お母さんは、この空気が好きなのよ」
思いっきり文句を言ったつもりが、そんなのんきな声でシャットアウトされてしまった。そりゃ確かに普段住んでいる街や途中のサービスエリアよりは涼しいのかもしれない。でも暑いのには変わりなくて、真っ青過ぎる空から太陽は苛めるかのように世界を照らしていた。
仕方なしに、頭をやや引っ込めて窓にもたれかかる。いつもは四人乗るセダンも、今日は私と母だけだ。だから後部座席で思う存分のんびり出来るわけだけど、私の好きな音楽を一曲もかけてくれない車内は、もう充分過ぎるぐらい退屈だった。
かといって小生意気な弟がいても、無口な父がいてもプラスに働くことはなかっただろう。寧ろサッカーの練習だと張りきっていった弟とその面倒を見ると残った父がいない方が、まだ気が楽だろう。
まあある意味プチ旅行には違いない。来たのは母の実家、驚くぐらいの田舎なんだけれど。
ド田舎を出て、都心でも有名な大学を出た母は、入社した広告代理店で父と出会って、そのまま結婚して私を産んだ。仕事を辞める気はなかったらしく、出産時にもこの実家には帰らなかったそうだ。
だからなのか、仕事を辞めた今は、時折こうやって車で帰っていた。ちなみに仕事を辞めた理由は、弟が産まれたから。私ひとりならまだしも、ふたりになって、しかもそのふたりめの身体がちょっと弱かったんだから仕方がない。もっとも、今は体力もついて、元気にサッカーなんかしてるわけだけど。
まあ今更文句は言わない。ときに夜間保育に預けられ、小学生になったらすぐ鍵っ子になったことなんて。晩ご飯はいつも簡単なメニューで、うちの母は料理が苦手なんだと思ってた子ども時代のことなんて。
そんなわけで私がここに来た記憶があるのは一番古くて十歳のときのものだ。つまり五年前。本当はその更に五年前にも来てるらしいのだけれど、生憎あまり覚えていない。たぶん初めてきたおばあちゃんちというやつに緊張しっぱなしだったのか、つまらなくて寝てばっかりだったのか。どちらもありえる。
十歳の頃を覚えてるのは単純にそう昔じゃないからというのもあるけれど、そのときは弟が一緒だったからだ。当時二歳。おばあちゃんたちがみーんな弟に夢中で、かまいっきりで、私はひとり山道を散歩したっけ。
「あ」
「何、どうしたの」
記憶を掘り起こしていたら、ちょうど懐かしい山が見えてきた。名前は知らないけれど、確かみんなが天狗の山とか言っていた小さな山。どうしてそういうのかはわからない。おそらくそんな伝説でもあったのだろう。山のてっぺんが二股になっているから、遠くからでも見たらわかる。
思わず拝んでおいた。その姿に母が笑い出す。
「そういう律儀なとこ、ほんと夏由にそっくり」
「いーの。森のおばけには挨拶しておかないと」
じっと、手を合わせて三秒。次に目を開けたときには天狗の山は大きくなっていた。鳶がその上をくるくると風に乗っている。奥には入道雲。
いつまでも変わらない、夏の景色だ。
ここにある変わらないものは、いい。気持ちがいいし、ほっとする。
「ねえ、お母さん」
窓にふたたび持たれて、温い風を浴びる。
「なあに」と母は答えたような気がしたし、ラジオから流れる曲に合わせて鼻唄を歌い始めただけのような気もする。
「今日は、夕立かな。入道雲が、きらきらしてる」




