夕立、バス停、出発地点
雨が垂れていた。
トタンを打つ雫が音を奏でる。ド、ミ、ラ。不規則な音階は軽快なテンポで頭上を滑る。
梅雨も明けてからの雨。遠くに見えた入道雲が降らせた夕立。バス停には俺ひとりで、ついでにいうとここの停留所にはあと一時間ぐらいしないとバスはやってこない。
後ろに鎮座した山は、今日も何かを守っているのだろう。新芽、動物、微生物。俺らの生活との境界線が引かれて、踏み込んで行けない場所となって、変わらない毎日を過ごしている。
雨は地を濡らし、やがて水の流れが俺のつま先にもやってくる。今日はサンダルだ。多少濡れても構わない。突然の夕立は、熱を溜め過ぎる羽目になったアスファルトへの褒美だ。前からは濡れたアスファルトの匂いが、後ろからは懐かしい雨の匂いが沸きたつ。
バス停の小さな屋根。その僅かなテリトリーに身体を収め、雲が去るのを待つ。五分かもしれないし三十分かもしれない。だけどそんなことはどうでもいい。今はただ、雨粒のつくり出すメロディをBGMに空を眺めるだけだ。
「なあ」
いつもの声は聞こえなかった。その姿も俺の目には見えない。優雨。俺の優しい幼馴染。
誰もいない隣に、俺は空を見たまま話しかける。
「ありがとうな、これ」
右手をちょっと上げておく。
返事はない。もしかしたらほんとうにいないかもしれないし、実はいるのかもしれない。でもどちらでも良かった。
「あと青空のことも。まさかお前が助けてくれたんだとは思わなかったよ」
誰もいないバス停。一応バスが走っていても、学校が休みのこの時期は誰もここへはこない。
「姉貴に聞いてみたら、あいつ今でもずっと感謝してるんだってさ」
雨の音だけが、俺の声に応えていた。
夏由くんは悪くないのよ。
お前が一緒だったからって何も変わらないのよ。
そう、何度も何度も言われたのも、もう二十年前のことだ。
わかっていても、頭ではどんなに理解していても、女々しいぐらいに心は何も理解できなかった。いや、したくなかった。
あの日、夕立が全て持っていってしまった日。
代わりに俺が、と考えては、それじゃあ優雨に同じ思いをさせるだけだと頭を抱えた。
一緒に乗っていれば怪我で済んだかも、と考えては、どうにもならないことに痛みを覚えた。
なんで優雨だけが、と思っては、助かった他の人たちにぶつけることは出来ないと、ひとり苦しんだ。
それから二十年。もう、随分と長い年月が過ぎている。
「ありがとうな、優雨。俺に付き合ってくれて」
あの日と同じ夏、夕立の時間。場所はバス停。
雨が、静かになってきた。トタンを打つテンポがだんだんと遅くなり、目の前に垂れる雫も小さくなってゆく。
もうすぐひぐらしが鳴き出すだろう。日が傾いてもすぐに、地面は乾いて匂いを変えるだろう。
夕立がきっと、全て持っていくだろう。
「好きだったよ」
もう誰もいない、ベンチに向かって、最初で最後の告白。
「じゃあな」
古いベンチから立ち上がると、反動でギイと音が鳴った。濡れたつま先がサンダルの中で滑る。俺はゆっくりと、明るくなった世界へと足を踏み出す。屋根のない、晴れた世界に。
「ありがとう」
誰もいなかったバス停から、そんな声が聞こえた気がした。俺は振り返らない。
「おじさーん、またねー!」
目の前の道路を見なれた車が通り過ぎていった。その後部座席から姪っ子が元気よく手を振っている。運転している姉も、ちらりとこちらに視線を寄こしてクラクションを鳴らす。
「おう。またいつでも来いよ。宇治金時、作ってやるから」
ゆっくりと小さくなっていくその姿に言ってやると、まるで「駄目って言ってるでしょ」と言わんばかりにクラクションが長く鳴った。
雲と雲の隙間から、眩しい太陽が地面を照らす。もう夕刻だというのに、その光は陰ることを知らない。
誰もいないベンチを背に、俺は家路へと足を進める。ボロボロで、誰も修理しようとしないベンチとトタンの屋根。二十年前から、変わらない寂れたバス停。
雨が垂れたその場所は、今でも誰かの出発地点だ。
【了】




