第十一話 迷い人は夢で生きる(前編)
またしても長くなりそうなので分割。
終わりまでラストスパート
何かが違う。
教室に入った希はそう感じた。
教室の中を見回しても何も特に変わった事は無い。下駄箱から廊下を通って来たがいつもと同じ風景。まばらに生徒が登校してきて、時折すれ違ったクラスメートと挨拶を交わす。そこに日々の暮らしと変化は見当たらない。
――気のせいだろう。
そう結論づけていつも通りに席に座る。登校する生徒が増えてにわかに騒がしくなり、違和感は埋没する。
「はーい授業始めるよー。みんな席に着いてー」
やがて教師がやってきて授業が始まり、希は授業に集中する。頭の上で鎮座するアルルにも慣れた。邪魔といえば邪魔だがもう気にはならない。だが違和感は残る。希はノートから顔を上げ、もう何度目かになるが教室を見渡した。
英語教師が教科書を片手に英文の一節を開始している。その教師はかつて自クラスを担当していた関教諭ではない。彼はまだ入院したままだ。
視線を移す。佑樹が机に突っ伏して熟睡している。普段から授業中に堂々と寝てる奴だが、今日は特に深い眠りの様に希には思えた。不真面目な奴だが時間には意外にもしっかりしている佑樹だが、今日は珍しく遅刻してきた。朝から元気なのがデフォルト設定なのだが、教室に入ってきた時から眠そうで、席に着くなりそのまま眠っている。
二列前の机は二つ並んで空席だ。いけ好かない長田もどうやら入院しているらしいというのは件の佑樹の言だが、希たちクラスメートには教師から特に説明も無かった。ただ急病だ、という話だけだ。だが前日の様子からして何か前兆のようなものがあったかというと希は首を捻らざるを得ない。が、元気だった子供が突然倒れる、というのも珍しいにしろ無い話では無い。
関と長田は前日までと同じ。だがもう一人いるはずのクラスメートの姿が無い。
青葉修二。長田にいじめられていた青葉も今日は欠席だった。
――偶々、だろうか。
風邪でも引いたのかもしれない。まあだれでも偶には風邪ぐらい引くだろう。だから青葉が欠席しているのも特に気に留める必要は無いのかもしれない。
けれど。
希は制服のポケットに入っている鏡を握った。異世界にいる時しか持っていなかったアスラからもらった鏡。それが今日に限って制服のポケットに何故か入っていた。これに何かしら意味を見出そうとするのは考え過ぎだろうか。
鏡と居なくなる知り合い。関連性はどこにも無いはずなのに――
「まさか、ね……」
小さく頭を振って授業に再度集中する。それでも希は理解のできない漠然とした不安から解放される事は無かった。
午前の授業が終了する鐘が鳴り、昼休みの始まりを告げる。それまで椅子に座って教師の声を聞いていた生徒たちは緊張から解放されて歓喜の声を上げ、めいめいに一時間の休憩を楽しむために席を立ち始める。
希もまた彼らと同じ様に席を離れる。いつもならばまっすぐに食堂に向かうのだが、希は足を佑樹の方へと向ける。
「佑樹、今日はどうしたんだ? 珍しく遅刻もしてきたし、授業中もいつもより爆睡してなかったか?」
「ん……? ああ、希か……」
机に突っ伏していた佑樹が眠たげな眼を希に向ける。もう昼か、とぼやきながら頭を掻き、大きくあくびと伸びをした。
「寝たのが朝だったかんな。ちょっちばかし仮眠は取ったけど、やっぱ眠いわ」
「朝ぁ? 朝まで何やってたんだよ?」
「んー……人助けかな?」
「人助け? 何だ、道端に倒れてた妊婦さんを助けてましたって奴か?」
冗談だと思って笑い飛ばす希だが、佑樹は曖昧な笑いを浮かべるだけだ。
「……本当なのか?」
「まーな。ま、人助けとはちょっち違うかもしれねーけど」
そこで一度話を区切る。頭を掻いて佑樹は少しだけ悩んでいる素振りを見せ、だが「ま、いいか」と呟いて話を続ける。
「昨日伊吹先輩に絡んでた女の子たちがいただろ? ちっとばかし気になって後を追いかけてみたんだよ」
「何だよ、ナンパかよ?」
「ちげーよ! まあ、結果的にはナンパしたけどな」
「結局したのかよ」
「話を聞くためだったんだよ! これはお前のためでもあるんだからな。ま、好奇心がメインだったのは否定しねーけどよ」
「僕のため?」
「単なるお節介だと思ってくれて構わねーぜ? 話を戻すとよ、伊吹先輩がガッコでもハブられてんのはお前も知ってるよな? んで昨日のウチの生徒じゃない奴らにも絡まれてる。そりゃ伊吹先輩はおどおどしてるし、声もちいせーし、正直いじめられやすいタイプだとは思うけどよ、ちっとばかしイジメられすぎじゃねーかなって思ったわけだ。町中で見知らぬ奴に絡まれるっつーシチュエーションも、男ならともかく女からっていうのは、伊吹先輩から何か手を出さなきゃ有り得なくはねーだろうけど、伊吹先輩のイメージからすっと考えにくいしな」
「それで、お前は何で伊吹さんがイジメられてるかが気になった、と」
佑樹はうなずいてみせる。
「昨日の彼女たちも伊吹先輩の事を知ってるぽかったしな。尋ねてみたら前の学校で同じクラスだったんだと。まあそんな訳で彼女らに色々と話を聞いてたんだけどな……」
そこまで話して急に佑樹の歯切れが悪くなる。似合わない悩むような難しい顔をして口を噤む。
「そんなに言い辛い事なのか?」
「そうだな……まあ言うなら彼女の父親が原因っぽい事が分かったくらいだ。もう亡くなってるけどな」
「そっか……ここは感謝するべきか?」
希にしてみれば歩の事が特別気に掛かっていたわけでは無い。他人の事に自ら脚を踏み込んでいく程自分に余裕があるわけでは無いし、だが歩の置かれていた環境を好ましいとも思っていなかった。精々が手の届くなら少し手を差し伸べてもいいか、と思う程度。他者が当たり前に持ち合わせている程度の優しさだ。
しかし。
異世界でのアユムが頭を過る。「歩」では無く「アユム」の方を好ましいと思っている。それは恋愛感情ではなく同類を身近に感じる卑近な感情だ。キチンと言葉として聞いた訳ではないが、どこか自分に親しい(ちかしい)ものをノゾミは感じ取っていた。
「アユム」を知りたい。だが「ノゾミ」を形作るのが「希」であるなら、「アユム」を作り上げたのも「歩」だ。その為には「歩」についても情報を得られるのはありがたい。
同時に彼女本人がいないところで彼女自身の事を調べる。その事がひどく後ろめたい。
「いや、別にいいぜ。俺がやってることは褒められる事じゃねーし、俺が勝手にやってる事だしな」
佑樹もそんな希の気持ちを察してか、そう言って手をヒラヒラと振る。
「で、伊吹さんの事は分かったけどさ、それが何で朝まで起きてた理由になるんだ? まさかお前、話聞くために朝まで一緒にいたとか言わないだろうな?」
話を聞くなんて事を口実にナンパした女の子とイチャイチャしてしまいには――
思い浮かんだ光景がどうにも真実味を帯びていて、思わず顔を引きつらせてしまう。
「……何だよ、その顔は?」
「別に?」
「まあいい。まあ確かに朝まで一緒にいた事はいたぜ」
「マジかよ!?」
「病院にな」
予期せぬ言葉に希の言葉が止まる。佑樹は顔を前に向けて希の方を見ない。
「一通り一緒に遊んで仲良くなってさっきの話を聞いたんだけどな。そしたら途中で急に倒れたんだよ」
「たお、れた?」
「ああ。それまで元気に遊んでたのに、だぜ? しかも三人ほぼ同時にだぞ? 有り得ねーよな? ほっとくわけにいかねーから慌てて救急車呼んで病院まで連れてってさ。お陰で警察には疑われるし、今にも死にそうな三人を置いて帰るのにも気が引けて、朝までほぼ徹夜だ」
言いながら大きくあくびを一度。寝不足な状況に文句を垂れながらも、言葉ほど不満がある訳では無さそう。
「しっかし、最近周りでこういう事多いよな」
「そうか?」
「だって関の野郎に長田も二人ほぼ同時に、だぜ? 二人とも夜に倒れたらしいし」
「ふーん」
「ま、関は自業自得だけどな。昨日の彼女たちもそうだけど、長田も不幸中の幸いだな。真夜中で一人で寝てる時とかに倒れたらそんままお陀仏だっただろうし」
何気ない佑樹の話。だが突如希の表情が強張った。
過るある考え。まさか、と希は頭を横に大きく振り、そしてその予想が馬鹿げた話である事を確信すべく佑樹に尋ねた。
「……なあ、その女の子たちが倒れたのって何時くらいだ?」
「あ? そうだなぁ……ちゃんと覚えてねーけど、確か十時くらいだったか? ああ、そういえば長田もそれくらいに倒れたって話だったな」
ヒュッ、と奇妙な呼吸音が聞こえ、希は自分の呼吸が一瞬停止したような錯覚を覚えた。
ゲートとロング。異世界で自分たちが倒した敵と、吸血鬼に殺された学生。吸血鬼は学園の教師で、ロングはその生徒。二人とも異世界で死に、そしてその翌日に関と長田は倒れた。
単なる偶然か。希はそう思い込もうと自分に言い聞かせる。だが頭は勝手に考えをその先に進めてしまう。
昨日の女子生徒三人組。長田たちと同じ様に夜十時頃に倒れた。夜十時は希たちがメンダスィアンへと向かった時間。そしてあの世界ではどれだけ時間が経とうとも現実では時計の針は進まない。
昨日倒したエルフィーたちは何人だったか? 一人? 親玉とも言える存在は一人だった。だけどその他の小さなエルフィーたちは? たくさん? 数えきれないくらい? しかし最初に倒したのは何人?
何より、吸血鬼もエルフィーたちも共通しているのは明確に「人型」だったということ。
息が詰まる。体から熱が引き、足元がグラつく。自分たちが、殺そうとした? その事実に希の思考は侵され、犯される。視界がグルグルと回って、自分自身がどこまでも落ちていっているように思えた。
「みんな同じ時間に倒れるとか、ぜってえ何かあるよな? 俺はどっかの頭イカれた奴が毒物か何か使って仕組んだんだと思うぜ」
「ハハ……そんなマンガみたいな事……」
かろうじて言葉を返せたのは僥倖か。乾いた声で笑ってみせ、顔にも無理やり笑顔を貼り付ける。
「いーや! ぜってぇ何か裏があるって! じゃなきゃ偶然ってか? ソッチの方が有り得ねーよ」
犯人は、僕だ。口に出してしまえばどれだけ楽になるか。自分の想像はすでに事実であると確信し、ともすれば勝手に口から飛び出してきそうなその言葉を希はかろうじて飲み込む。
口にしたところで誰が信じようというのか。証拠も何もなく、そもそも異世界の存在さえ一笑されて頭の中身を疑われるのがオチだ。
しかし、だ。希は考える。それは、裏返せば自分が疑われる事は間違いなく無いし絶対に捕まらない事を示している。誰にも証明できないし、誰にも存在を理解されない。仮に現在の状態を狙ってやったとしても完全犯罪の成立だ。疑うこと無く自分の身柄は安心だ。希は人知れず胸を撫で下ろした。
そして希は愕然とした。自分の思考に唖然とした。誰かを自分が傷つけたとして、その事実は変わらない。なのに良心の呵責はそこには無く、浮かんでくるのは自らの保身を約束させる証左を探す思考のみ。
自分はこんなにも醜悪だったのか。他者を傷つけた事実よりも自らの在り方が自分を傷つけ、その事が更に希を切りつける。
「希? どうした?」
佑樹の声が意識を引きずり上げ、顔を上げるといつの間にか食堂に到着していた。訝しげな視線を送ってくる佑樹に「何でもない」と作り笑いを返して、知らずに立ち止まっていた脚を動かす。
自分の在り方がひどく間違っているのは今更だ。感謝の気持ちを忘れ、在り方を強制するこの世界から逃げ出したいと思っている時点でダメな人間だ。だからそれは今は忘れよう、と棚上げし、食堂の券売機に並びながら異世界とこの世界の繋がりに再度希は思考を巡らせる。
繋がっている世界と世界。明らかな登場人物としてこの世界の人間が異世界へと放り込まれている。しかも自分たちの周りの人間が。その事に希は今、気がついた。
だが。
(もしも――)
もっと早くにその事に気がついている人間がいるならば。
自分と同じ事を考えている奴がいるならば。あの世界で誰を傷つけようと咎められる事が無いとわかっている人がいるならば。
(まさか――)
嬉々として敵を切り刻むアユムの姿が浮かぶ。ある意味誰よりもあの世界を楽しんでいた彼女。「斬る」行為に喜びを覚えていた彼女。
「……いや、違うか」
関も長田も、学年の違う歩との面識はほとんど無いだろう。自分の仮説が正しいとして、人型のモンスターがこの世界の人間だとするならば、明確な害意を以て二人を傷つけたとするならば歩が自覚していると考えるのは少し無理がある。
いくつもの仮定の元の推論だ。まだピースは足りない。
「分かんないな……」
「何がだ?」
「気にしないでくれ。コッチの話だから」
「そうか? ま、色々と考えるのは結構だけどよ、早く食わねーと麺が伸びっぞ?」
佑樹に言われて手元を見てみると、なるほど、確かにラーメンのスープが少しすでに減っている。
(後でアユムに相談してみるか)
ひとまずこの場はそう結論づけて、希は割り箸を割ると豚骨ラーメンに箸を伸ばす。
「うん、やっぱウマいな」
「お前ホントにラーメン好きなのな」
「僕の血液は豚骨スープでできてるからな」
「お前はどこの博多人だよ」
他愛の無い会話を交わしながらラーメンを胃に流しこむ。瞬く間にどんぶりの中は空になり、いつも通りに手を合わせて食堂のおばさんに感謝したその時。
何かがズレた。
希は唐突に襲ってきた強烈に不快な感覚に顔を上げ――
「え――」
そして言葉を失った。
雑多に言葉が行き交っていた食堂の中を占めるのは静寂。一瞬にして空気が変わるその異常。佑樹と言葉を交わしてから顔を上げるまでほんの数秒。それだけの時間で周囲から音が消えた。
だが希が言葉を失った原因は更なる異常。
「佑樹……?」
佑樹は動かない。定食のカツを箸で掴み、口に運ぼうとした姿勢のまま切り取られた絵の様に固まっていた。
佑樹だけでは無い。食堂にいる誰もが、トレーを抱えた下級生が、談笑しながらうどんを啜る女子生徒が、単語帳片手にご飯を食べる先輩が姿勢一つ変えずに止まっている。その様子はまるで、時間が止まってしまったかの様で。
「時間が止まって……!」
希は立ち上がる。反動で座っていた席が倒れ、だが重力に逆らって斜めのまま停止している。立ち上がった希はそんな異常を気に留めずに食堂を飛び出した。
異常は食堂だけでは無かった。廊下を歩く生徒、グラウンドでサッカーボールを持って移動する男子生徒、生徒と話す教師。全員が静止したままだ。
それらを横目で見ながら廊下を走りぬけ、階段を駆け登る。普段は希の頭の上にいるアルルも今はその隣に並んで飛行している。
「伊吹さん!」
「希くん……!」
二階へ辿り着き、希は不安な面持ちでうろうろとさまよう歩を見つけた。足元にはまとわりつくようにネコのユンが寄り添っている。歩は希の姿を認めると駆け寄ってくると、大きく安堵の息を吐き出した。
「あの、急に皆が動かなくなって……その……!」
「落ち着いてください。こっちも同じです。よく分かりませんが、まるで……」
まるで異世界に来てしまったかの様。希はその言葉を飲み込む。
そんな事があるわけが無い。いつものあのビルに行ったわけでも無く、ましてや自分や歩だけでなく学校ごと移転だなんてそんな事があるはずがない。
否定を頭の中で繰り返し、希は歩の手を取った。
「とりあえず、ここから出てみましょう。何か分かるかも……」
「何かって何が……」
「分かりません。でも少なくともココにいるよりは情報が手に入るかもしれませんし……一通り校舎を回って、自分たちより他に動ける人がいないか探して……」
言いながら希は窓の外に視線を移し、そこで再度言葉を失った。固まった希を見て歩も顔を外に向け、そして同じ様に呆然と口を開けた。
「なんで、なんで……」
うわ言の様に繰り返す歩。二人の視線の先――高校の外には見慣れた町、メンダスィアンがあった。




