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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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屍公爵は夜毎妻に囁く

作者: 網笠せい
掲載日:2026/07/10

 ミディオ・ル・スフォニア公爵夫人リディトは看病の甲斐なく亡くなった。まだ三十路に差し掛かったばかりの若さであった。


 階段を降りる多くの足音が公爵邸の地下墓地に反響して、先導する執事の持つランタンの光が揺れ、暗闇が切り開かれてゆく。夫であるミディオ・ル・スフォニア公爵は館に仕える人々と共に、地下墓地へと愛妻・リディトの眠る柩を運んだ。


 これほど重かっただろうかと、公爵は生前の妻を抱き上げたときのことを思い出す。詩歌や歌劇のように、その重みを羽に喩えることはしない。その種の過剰な美辞麗句は、妻・リディトとの数々の芳しい思い出を塗り替えてしまうような気がする。


 適度な重みと人肌の暖かさ、柔らかさが、今も公爵の腕に残っている。公爵に腕を絡める妻の結い上げた髪が頬をくすぐり、笑ってしまったことも鮮やかに思い出せる。


 遺体を柩におさめたときも公爵は妻を抱き上げたが、事切れた身体はずっしりと重く、以前のような暖かさは失われつつあった。妻の腕は首に絡まることなく投げ出されており、公爵はそのことで妻の死を一つ実感した。


 柩の中にいる妻の両手を胸の前で組ませたとき、公爵は彼女の関節が硬くなりはじめたことに気が付いた。柩には中に綿を詰めたベルベットを敷いてある。その柔らかさと妻の指の落差に公爵は愕然として、また一つ妻の死を実感した。


 繊細な百合の花が彫られた台座に柩を置いて蓋を開けると、燭台の炎で中が鮮明になった。妻・リディトは眠っているようにも見える。普段よりも白い顔をしているがその表情に苦しみはなく、ひどく穏やかだった。艶やかに朱の差していた唇は今や血色が失われており、公爵の名を呼ぶこともない。


 死者のための祈りがはじまると通気口からの穏やかな風が燭台の炎をそっと揺らし、参列する人々の影を左右に滲ませた。


 司教の長い祈りの後、ごく親しい弔問客やスフォニア公爵家に仕える人々はリディトの眠る柩に百合や薔薇といった花々を敷き詰めていく。これから彼女の住処となる柩は蓋を閉められて、地下墓地の棚の一つに仕舞われ、ひっそりと公爵家を見守るはずだった。


 使用人たちが柩の蓋を閉めようとしたとき、公爵はふと、妻の着ている服が気になった。死者の着る簡素な白い衣服……お決まりのドレスが、花々で彩られた柩の中にいる彼女に相応しくないように思えてならなかった。


「待ってくれ。リディトのためにドレスを選ばせてくれ。こんなに華やかな柩の中で、シュミーズドレスというのはあんまりだろう」


 公爵の言葉に参列者たちは顔を見合わせ、いかにも愛妻家の公爵らしいと悲しげに微笑んだ。そうして一人、また一人とお悔やみを述べて地下墓地を後にした。


 地上へと続く階段を登る足音がすっかり聞こえなくなった頃、公爵は妻の手をそっと握り、「少し待っていて」と甘く囁いた。ひんやりと冷たく強張った手が握り返してこないことに、彼はまた一つ妻の死を思い知る。公爵はため息を一つつくと、顔を上げた。


 そうして妻の生前に側仕えをしていた侍女に後を任せると、使用人たちを伴って屋敷に戻った。


 公爵邸のリディトの衣装部屋に向かうと、公爵も目にしたことのある色とりどりのドレスが所狭しと並んでいた。王宮晩餐会に出席したときに着ていた、レースをふんだんにあしらった華やかなドレスもあれば、週末に礼拝に通うときの控えめな色のドレスもある。礼拝用のドレスには同じ色の糸で細かく刺繍がなされており、遠目には質素だが手にとると優れた仕立て屋の逸品であるとわかる。一つ一つを手に取りながら公爵は困り果てて、執事の意見を尋ねた。


「どのようなドレスがいいだろうか」

「奥様にはお似合いになるドレスがいくつもございますから、悩まれるのも無理はないかと」

「まったくだ。私がリディトに特別に誂えたものばかりだからね」


 妻が馬に乗って庭を駆け回っていた頃に着ていた服を見れば、長患いをした肉体の軛からようやく逃れて軽やかに駆け回りたいのではないかと手を止め、オペラ観劇の際に着ていたドレスを見れば、美しいものを好む妻を一等美しく着飾らせて送りたいと公爵は俯いた。ドレス一枚とってもこれだけ思いあぐねるのだから、宝飾品や帽子や靴の類も選べないのは道理である。


 公爵は白髪の混じりはじめた鳶色の髪を撫でつけながら、お手上げだというように肩をすくめた。そうして妻が死んでから、初めてほんのりと微笑を唇に刻んだ。


「……一つでなくてもいいな。だって、あの麗しいリディトだからね」

「奥様のお着替えを何度もなさるおつもりですか?」


 困惑しても普段は眉一つ顰めない執事が目を丸くしている。公爵は軽やかに笑いながら「そうだよ」と答えた。


 一つでなくてもいいと決めれば、話は早かった。公爵はあっという間にドレスと宝飾品と靴を選び出した。帽子だけはいくつかの候補から悩んだが、柩に横たわる妻にはボンネットが向いているだろうと選んだ。普通の帽子は鍔の後ろが潰れてしまって不恰好になりかねない。


 公爵が着々と準備を進める横で執事は何度か口を開こうとし、閉ざし、そうしてようやく言葉を発した。


「旦那様、大変申し上げにくいのですが、奥様のお身体はこれから先、朽ちてゆかれるはずです。果たしてたくさんのお衣装を着ることができるでしょうか?」


 時の流れと共にリディトの身体が腐敗し、蛆が湧いて朽ちてゆくことを執事は心配したのだろう。衣装部屋は色褪せ防止のために日差しの届かない造りになっており、薄暗い。公爵は忙しなく衣装を選び、執事は主人の返答を待った。公爵はなんだそんなことかと言わんばかりに鼻を鳴らした。


「ミイラというものがあると書物で読んだ。異国の風習らしいが、リディトもそのようにすればいいのでは?」


 常軌を逸した主人の言葉に執事は押し黙り、公爵は変わらず愛妻への衣装を選び続ける。仕舞いには「リディトのために仕立て屋と工房の者を呼ぼう」とまで言いはじめた。新たにドレスと装飾品を作る気でいる。夫人の生前と何ら変わらない公爵の有り様に、執事は遂に根負けした。


「ミイラ作りができる者を、手配いたします」

「ああ、頼む。仕立て屋と彫金工房の者もだ」

「……かしこまりました」


 異国の鳥の鮮やかな羽がついた帽子を手にして、公爵は嬉しそうに微笑んだ。


「帽子は前に被せるのでもいいな。ボンネットだけでは寂しかろう」


***


 次の日から公爵は仕事を終えると地下墓地へと赴き、使用人たちに言いつけておいたドレスと宝飾品と靴の数々で亡き妻を着飾った。


 脚を持ち上げてシュミーズドレスの上から鮮やかな色のドレスを着せ、抱き起こして背中のリボンを緩く結ぶと、妻の顔色がほんの少し明るくなったように見える。公爵は大変喜び、精緻なレースのついたボンネットを妻に被せると棺に横たえて、大きく広がった袖口のドレープを整えた。


 死後に足が浮腫んだのか靴は入らず、柩の中に並べた。結婚した際に贈った指輪が指に食い込んでいた。他の指輪も入りそうにないので、公爵は遺体の胸の前で組んだ妻の指の上に大きな宝石のついた指輪をそっと置いた。


「おやすみ、リディト」


 亡き妻の白い頬をそっと撫でたとき、公爵は妻の髪がわずかに乱れているのが気になった。階段前で待っている使用人に、リディトが生前愛用していたブラシを頼む。公爵はすぐに柩の傍にとって返すと、「少し待っていなさい」と亡き妻に話しかけた。


 しばらくして、ブラシが地下墓地へと届けられる。公爵が丁寧に妻の髪を梳くと、何本かの髪が抜けてブラシに絡まった。公爵は息を呑んで、亡くなった妻の姿が変わってしまうことにひどく怯えた。


 ──リディト・ル・スフォニア公爵夫人は、永遠でなくては。


 執事が言うように、いずれ彼の妻の遺体は朽ち果ててゆくだろう。現に柩におさめた花々は萎れはじめている。日が差し込まぬ地下墓地はひんやりとしていて腐敗の進行は緩やかだが、公爵は在りし日の妻の姿をできうる限り留めておきたかった。


 地下墓地には公爵家の人々が眠っている。公爵は試しに自分の母の眠る柩を開けて、そっと中を覗いた。埃が舞い上がる中、十年前に亡くなった母が柩の中で朽ちて干からびているのを見て、公爵は慌てて柩の蓋を閉めた。いずれ妻・リディトも同じように朽ちてゆくのだろう。


 公爵は忍び寄る蠅どもを追い払い、妻の血肉を貪らぬよう留意し、卵を産みつけられぬようにと血眼になって柩の蓋を閉めた。使用人に申しつけて寝具を届けさせ、柩の横で眠ることにした。寝具を届けに来た執事は公爵の目をまっすぐに見据えたが、何も言わずに寝床を整えると地上へと帰っていった。


 公爵は急ごしらえの寝床に横たわって目を閉じた。小さな蠅の羽音が聞こえるのではないかと怯えた。どのようにして蠅を追い払えばいいかに頭を悩ませた。


 ──蝋を塗るのはどうだろう。


 公爵は蝋をリディトの全身に塗り込むところを想像してみた。蝿が寄ってこようにも、きっとツルツルとして脚を滑らせるだろう。公爵は翌朝王宮に向かう前に、使用人たちに蝋の準備を申しつけておくことにした。


 数日後、スフォニア公爵邸に医師と歴史学者が訪れた。ミイラ作りの書物を参考に公爵夫人リディトに施術をするためである。目の下にくまを作った公爵が出迎えると、彼らはたじろいだ。


「奥様が亡くなられて落ち込んでおられるのですね。よく眠れていますか?」

「いいや。妻の遺体に蝿が寄ってくるのではないかと気が気ではなくてな。君たちが来てくれて助かるよ」


 公爵がさも当然のように語るのに、医師と歴史学者は顔を見合わせて表情を曇らせた。地下墓地への階段を執事の先導でゆっくりと下っていき、医師はすぐに台座の端に手術道具を並べはじめた。歴史学者は鞄の中から壺を取り出し、柩の傍に置いてあったテーブルの上に乗せた。


「これはカノプス壺というもので、ミイラの臓腑を入れておくものです」


 うろたえた公爵の視線がカノプス壺に吸い寄せられる。なんということだと、公爵は前髪を掻き回した。


「妻の身体から臓腑を抜くというのか!」


 公爵の叫びが薄暗い地下墓地に反響した。燭台の炎さえ大きく揺らいだようだった。公爵が思わず握りしめた拳は怒りに震えている。彼が怒るのも無理はない。


 極力生前の姿のまま、自身の妻・リディトを永遠にするという望みが潰えたのである。


 歴史学者は耳を押さえていた指を外すと、淡々と話しはじめた。


「はい。そうしなくては、ミイラは作れません」

「私はリディトを永遠にするために、生前の姿を留めておくために、ミイラにして欲しいと頼んだのだぞ!」


 医師はメスを手にしたまま執刀を止め、二人の会話に耳をそばだてている。歴史学者は強張った表情で尚も口を開いた。


「公爵様、お言葉ですが、現在のいかなる技術をもってしても、それは叶いません。ミイラとて、姿形は変わってしまうのです。腐敗の進行を遅らせる程度のことしかできません」

「しかし……!」


 食い下がろうとする公爵に、丸眼鏡の奥の小さな目をしょぼしょぼさせながら医師が口を挟んだ。


「公爵様、もしも奥様がまだご存命だとしても、いずれは歳を重ねてゆかれたでしょう。歳をとって髪に白いものが混じる。皮膚もたるんでシワができる。体重が増えることもあったかもしれないし、老人になれば髪も抜け、腰も曲がり、目も見えづらくなったかもしれない。あなたはそれを否定するのですか? かつての奥様ではない、と……」

「それは……。そんなことはない。そんなことはないが……」

「同じことです」


 公爵は雷に撃たれたかのように愕然とし、膝から崩れ落ちた。公爵の上等な衣類についていたボタンが一つ跳んで、地下墓地の床に転がる音が響いた。繰り言のように力なく呟く公爵の声が、地下墓地に反響している。


「しかし私は、リディトを永遠に」

「……全ては変わってゆくものです。奥様のご幼少時代も、公爵様と共に過ごした時間も、今も、骨になってからの未来も変わらずに慈しまれてはいかがですか。それとも、骨になった奥様を想うことはできないと?」


 公爵は呆然とし、返事ができずにいる。歴史学者はテーブルの上に置いていたカノプス壺を鞄に戻すと「帰ります」と一言言い置いて地上への階段を上っていった。医師は並べていた手術道具を革のケースに一つ一つ入れて、その後を追う。


「公爵様、あなたがなさっていたことは、奥様のご遺体を使ったお人形遊びに過ぎません。あまり屋敷の方々に心配をかけぬよう。……それでは、わたくしも失礼いたします」


 去り際によくもそんな不敬極まりないことを言えたものだと、公爵は放心状態のまま医師の声を聞いた。もはや怒りも湧かない。


 反響していた靴音が止んで、公爵はようやく我に返った。タイルを埋め込んだモザイク状の床に指先が引っかかる。よろよろと立ち上がって、公爵は柩に眠る妻・リディトの手を取った。


「永遠などないと、彼らは言う。果たしてそうだろうか。リディト、君はどう考える?」


 公爵夫人リディトの答えはない。妻のかさついた指先にそっと自身の指を絡めながら、公爵はまた一つ妻の死を実感した。生前のリディトならどのように答えただろう。


 ──あなた。天の国にて、先にお待ちしております。すぐにはいらっしゃらないでね。


 公爵の脳裏に浮かぶのは、華やかなドレスに身を包んだリディトの姿である。長い髪を結い上げ、銀の髪飾りからぶら下がる宝石を輝かせながら振り返る妻である。


 公爵家の紋章の入った金ボタンで袖口を留めて、胸元に幾重ものレースのついたドレスの切り返しも鮮やかな、屈託のない公爵夫人の頬が削げていく。乾いた皮膚が骨に貼り付くように萎んでいって、眼球はこぼれ落ち、鼻が削げ、やがて骨になる。


 公爵は柩の中の妻に縋りつくと、大粒の涙をこぼして嗚咽を上げた。リディトに被せた帽子の柔らかな白い羽が舞った。ヴェールの向こうの妻の表情は変わらない。白い羽が野花の綿毛のように静かに漂いながら柩の中に落ちるが、涙で滲む公爵の目には入らない。


「リディト」


 鼻を啜る公爵の目に、地下墓地に持ち込ませたリディトの肖像画が映る。好奇心に満ちた輝く瞳に薔薇色の頬、整った鼻梁の下にある艶やかな唇は血色もよく、微笑んでいる。生前、高名な画家を呼び寄せて描かせたものだ。


「ああ、これが永遠か。……けれどもこれは、紛い物だ。本物の君じゃない。誰かから見た君の断片でしかない」


 公爵は妻・リディトの頬を撫でるが、暖かみも弾力もない肌は、ずるりと皮が剥けて崩れ落ちた。


 自らの手で妻の遺体を崩してしまったことに気がついた公爵は、涙を拭いもせずに力なく笑うと柩の蓋を閉めた。百合の彫刻が刻まれた台座にもたれて座り込むと、地下墓地の冷たさがしんと胸の奥に沁み入った。


 蝿が飛んでいる。


 公爵は忌々しげに蠅を目で追い、妻・リディトが骨になるまでしばらく柩を開けまいと誓った。肖像画のリディトは、優しげな微笑で公爵を見下ろしている。


 こうしてミディオ・ル・スフォニア公爵は、屍公爵と呼ばれることとなった。


<おわり>

【参考資料】

Weblio / Wikipedia

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