五 婚約破棄されましたが最上座に座ります
オーヴェスト帝国皇太子、ライマン・シュバイク・オーヴェスト。
冷徹な紫色の瞳が、会場を鋭く精査する。
彼の登場と同時に、場の空気は一変した。
貴族たちは皆、一斉に姿勢を正し、頭を下げる。
ライマン皇太子の権威は、それほど絶対的なものだった。
「なるほど、どうやら楽しげな宴の最中だったようだな?」
低く響く声に、緊張が広がる。
フィリップがすぐに前に出て、深く一礼した。
「ライマン皇太子殿下、ご到着を心よりお待ちしておりました」
クラウディア王女も優雅に一礼し、微笑む。
「ようこそ、リタール王国へ。殿下のご訪問を心から歓迎いたします」
「ふん……」
ライマンは彼らを一瞥すると、腕を組んで言った。
「リタールとの貿易協定について、フィリップ公子に監督を期待する、という手紙を先日送った。だがひとつ、確認しておきたいことがある」
「もちろんです!」
フィリップは胸を張る。
「私とクラウディア王女殿下は、このリタールと帝国の未来のために最善を尽くします!」
「ほう……」
ライマンの目が僅かに細められた。
「では、まず聞かせてもらおう」
皇太子が、チラリと横目でソフィアを見た。
「フィリップ公子、この令嬢は誰だ? 言ってみろ」
「ああ、これはソフィア・アルザンと申しまして、取るに足りない子爵家の養女です」
その言葉に、貴族たちがくすくすと笑う。
「どこで拾われてきた娘か得体が知れませんし、何の価値もない存在です」
「つまるところ、この場にいる資格すらないということですね」
クラウディアが微笑みながら付け加える。
「まったく、図々しい女ですよ」
パーティー会場に、レント侯爵の嘲笑の声が響いた。
深紅のドレスを纏い、皇女の風格を漂わせるソフィアを見て、ハーディ伯爵も、皮肉げに口元を歪めた。
「養女のくせに、ずいぶんと着飾ったものだな。誰の許可を得て、この場にいるのやら?」
ボルドン男爵も、顔をしかめて忌々しそうに吐き捨てた。
「身の程知らずとは、まさにこのことだな!」
「ただの捨てられた女が、なぜここにいるのかしらね?」
クラウディアが、冷ややかに微笑む。
「フィリップ様に捨てられて、惨めよねぇ……」
「貴族の血を引かぬ養女風情が、何を勘違いしているのやら?」
周囲の貴族たちもそれに便乗し、次々と嘲笑を浴びせた。
「まるで笑い者だな」
「捨てられた女の末路とは、こういうものか」
広間の空気は、完全にソフィアを貶める方向へと傾いていた。
「……なるほど」
ライマンはうなづいた。それを見て、ソフィアは静かに微笑む。
「捨てられた女というのは、私のことですか?」
「そうよ」
クラウディアが優雅に扇をひらめかせる。
「恥ずかしくて、この場にいることすら苦痛でしょう?」
「そうですね。確かに、悪い男に捨てられたのは事実です」
ソフィアは優雅に微笑みながら、視線をフィリップへと向ける。
「でも、それは――」
「私にとって損失ではなく、あなたがたにとっての損失では?」
場が、一瞬で静まった。
「な、何だと?」
フィリップの眉がピクリと動く。
「婚約者として五年間、貴族社会の作法を学び、教養を磨き、フィリップ様のために尽くしました。でも、それを『利用価値がない』と切り捨てたのは貴方です」
ソフィアの声音は静かだったが、確かな威厳を宿していた。
「私が失ったものは何もない。でも、フィリップ様が失ったものは?」
その言葉に、周囲の貴族たちがフィリップをちらりと見る。
「な、何を馬鹿なことを言っている……」
フィリップは動揺を隠しながら叫ぶ。
「俺は何も失ってなどいない! 手紙の件を言っているなら、皇太子殿下だって、きっと理解してくださるはずだ」
「では、確認しましょうか?」
ソフィアは優雅に微笑みながら、会場の最上座へと視線を向け、ライマン皇太子に声をかけた。
「皇太子殿下、私はここに座ります。よろしいですよね?」
「最上座……?」
クラウディアが眉をひそめた。
「まさか、あなた……」
「そうよ、最上座よ」
ソフィアは静かに、けれど堂々と歩を進めた。
「皇太子殿下が座られる席の、すぐ隣……」
その言葉に、広間の貴族たちの表情が強張る。
「おい、やめろ……」
「下級貴族の養女ごときが、そんな席に座っていいと思ってるのか!」
「頭がおかしくなったのか!」
フィリップも歯ぎしりし、クラウディアは顔を真っ赤にする。
「貴女には、そんな資格がないわ」
「誰が決めたの?」
ソフィアは、微笑みながら言い返した。
「その席に座る資格がないかどうか、それを決めるのは……ここにいる貴族たちではなく、ライマン皇太子殿下ですよ」
そう言い放つと、ソフィアは貴族たちの視線を一身に浴びながら、ゆっくりと最上座へと向かう。
そして――
堂々と、その席に腰を下ろした。
会場が、完全に沈黙した。
まるで、空間そのものが静止したかのように。
「な……」
「嘘だろ……?」
「養女が、皇太子殿下の隣の席に……?」
目を見開く貴族たち。
呆然と立ち尽くすフィリップとクラウディア。
その中でソフィアは優雅に扇を開き、微笑んだ。
「さあ」
彼女は静かに広間を見渡した。
「殿下、どうぞ私の隣へ」
広間の全員が、彼女の視線の先を見る。
そこに立っているのは……
オーヴェスト帝国皇太子、ライマン・シュバイク・オーヴェスト。
紫色の瞳が、静かに広間を見渡す。
「なるほど」
彼は、すっと顎に手を添え、口元に冷たい笑みを浮かべていた。
「いやはや、実に楽しい余興を見せてもらったな」
その声が響いた瞬間、広間の空気は、一瞬で氷のように張り詰めた。
次回、皇太子ブチ切れ!