三 婚約破棄されましたが戦う覚悟を決めました
夜明け、ソフィアは静かに鏡を見つめていた。
昨日までの自分とは違う。
もう「子爵家で遠慮しながら暮らす養女」ではない。
オーヴェスト帝国の皇女として、この世界を堂々と生きる。
「では、準備を始めましょう」
エルンストの落ち着いた声が響く。
鏡の前に座るソフィアを、数人の侍女が取り囲む。彼女たちは皇太子訪問の先遣隊として帝国の意を受けた仕立屋や美容師たちだった。
「まずは、ドレスからですね」
ソフィアの身体に当てられたのは、ピンクと深紅を基調としたドレス。
オーヴェスト帝国皇室の象徴色だった。
「あなたの瞳の色を引き立てる色を選びました」
皇室の人間としての気品をまとったデザインは、今までのシンプルな服とは比べ物にならない。
「……美しい」
鏡に映る自分に、思わず息をのむ。
しかし、それだけでは足りない。
侍女たちが手際よく髪を結い、宝石のような髪飾りを添える。
さらに化粧が施されると、ソフィアの雰囲気は一変した。
そこにいたのは、もう"垢抜けない令嬢"ではなかった。
鋭さと気品を備えた、堂々たる貴族――いや、皇族の姿があった。
「これで、ようやく皇女らしくなりましたね」
エルンストが静かに微笑んだ。
「ですが、装備だけでは意味がありませんよ。次は、戦いの準備です」
エルンストは、ソフィアを子爵邸の広いサロンへと連れて行った。
「あなたに必要なのは、戦うための心構えです」
「戦う?」
「パーティーの場は、戦場です」
エルンストは真剣な目で言った。
「言葉が剣となり、油断すれば心を抉られる。貴族社会の戦いにおいて、一瞬でもひるめば、相手の餌食になるでしょう」
「餌食……」
「まずは、心の制御から始めます。一切、動揺してはなりません。表情を崩してはなりません。相手の言葉に感情を乱してはなりません。」
ソフィアは、深呼吸した。
「私に、できるでしょうか?」
「できます」
エルンストは断言する。
「あなたは皇女です。威厳を保つことが、あなたにとって最大の武器になるでしょう」
彼は扇を手に取り、目の前で広げた。
「例えば、この扇を使って、相手の視線を誘導することができます。相手の注目を集め、心理的に優位な立場を取るのです」
彼が扇をひらりと動かすと、つい視線がそちらへ向いてしまう。
「これを応用すれば、相手の意識を巧みに操れる。場の空気を支配することができるのです」
「そんなこと……」
「できます。あなたは元々、他人を魅了する力を持っています。それを意識的に表に出すだけで大丈夫です」
ソフィアは、エルンストの目を見つめた。
この騎士は、ただの護衛ではない。
自分を導こうとしている。
「わかりました。詳しく教えてください」
エルンストは満足そうに微笑んだ。
「では、さっそく実践していきましょう」
一方、リタール王宮の一室では、フィリップとクラウディアが密談をしていた。
「ライマン皇太子の訪問が決まったな」
フィリップが満足げに微笑む。
「これで、貿易利権は確実に俺たちのものだ」
「ええ。ライマン皇太子が持ってくる新しい貿易協定を、私たちの手で管理すれば……」
クラウディアはゆっくりと笑った。
「兄のディモアが、どれだけ私を軽く見ようと関係ない。フィリップ、あなたと手を組めば、私は王位に近づけるわ」
「はっ、当然だ」
フィリップはクラウディアの手を取り、唇を寄せる。
「君が女王になれば、俺はリタールの最高権力者になる。権力さえあれば、俺も実力を発揮できるはずなんだ。あの野暮ったい子爵家の養女と違って、本当に価値のある女性、つまり君と、並び立つ男になれる」
クラウディアはフィリップの顎をつまみ、くすくすと笑った。
「女を選ぶ目はあったわね、フィリップ」
「もちろんさ」
だが、彼らはまだ知らなかった。
彼らが見下した「不要な子爵家養女」が、堂々たる皇女として帰ってくることを。
そして、彼らの野望を打ち砕く存在となることを。
子爵邸ではその夜、ソフィアが再び鏡の前に立っていた。
以前とは、違う自分が映っている。
「これで、パーティーへ向かう準備は整いました」
エルンストが隣で言う。
「ソフィア様、あなたはこれから戦場へ向かいます。ですが、忘れないでください。あなたは、一人ではありません」
彼の真剣な眼差しに、ソフィアは微笑んだ。
「ええ。私は皇女。オーヴェスト帝国の誇りを持つ者」
深紅のドレスを翻し、ソフィアは毅然と立ち上がった。
「行きましょう、エルンスト」
「御意のままに」
こうして、皇女としての誇りをかけた戦いが始まった。
次回、パーティー会場に殴り込み!