一 婚約破棄されましたが護衛騎士が優しいです
「婚約破棄する」
オルバリー公爵家の公子・フィリップの言葉が、ソフィアの耳に突き刺さった。
「えっ？」
信じられない。いや、まさか、そんなのありえない。
五年間、フィリップの婚約者として、務めを果たしてきた。貴婦人としての礼儀作法、舞踏、外交知識――決して得意ではなかったが、努力を惜しまなかった。彼と並ぶに相応しい女性になるために。
それなのに、彼は今、まるで虫けらでも見るような目で、冷たく言い放った。
「お前との婚約には何の意味もない。俺は貴族社会でのし上がるために、もっとふさわしい相手を選ぶ必要がある」
「でも、フィリップ様……それは、突然すぎます。私は――」
「突然？ はっ、違うな」
フィリップは嘲るように笑い、隣にいる金髪碧眼の美しい少女へと目を向けた。
「クラウディア、こいつに説明してやれ」
「そうね、可哀想なソフィア。でも、あなたには理解する知能があるかしら？」
クラウディア・リタール王女は、憐れむような、だが楽しげな口調でそう言った。
「あなた、オーヴェスト帝国のライマン皇太子殿下が、リタールにいらっしゃるって知ってる？」
「何ですって？」
「知らないのね。まあ、当然か。あなたみたいな下級貴族の養女に、そんな重要な情報が入るわけないもの」
クラウディアは小さく笑い、扇をひらりと揺らした。
「ライマン皇太子は、リタールとの貿易を拡大するつもりらしいわ。帝国とリタールの経済関係は、この国の命運を握っている。その利権を手に入れれば、どんな貴族でも大出世よ」
「だから、俺はその利権を確実にするために、王族と婚姻を結ぶ」
フィリップが言い放つ。
「俺は、リタール王家の血を引くクラウディア様と結婚するんだ」
「そういうことよ、ソフィア。あなたとの婚約なんて、もともと何の価値もなかったのよ」
「でも、私は……」
ソフィアは何かを言い返そうとした。
五年間、彼のそばにいたのに。彼のために努力してきたのに。
しかし、その想いは、クラウディアの次の言葉に一瞬で砕かれた。
「あなたは、アルザン子爵家の『養女』にすぎないんでしょ？」
胸が締め付けられる。
「そもそも、あなたのような血筋の知れない女が、貴族社会にいること自体、異常なのよ？」
貴族たちがくすくすと笑い出す。
「まったく、五年間もよく我慢したものだ」
「ええ、そうね。お情けで婚約者として置いてもらえただけ、感謝するべきだったのに」
心が折れそうになる。
悔しい。悔しいのに、何も言い返せない。
「さあ、理解できた？ あなたはもう不要なの。さっさと消えてちょうだい」
クラウディアの鋭い声が突き刺さる。
「こんな場違いな女が、ここにいることじたい、不快なのよ」
ソフィアはぎゅっと唇を噛みしめ、拳を握った。
視線をあげると、フィリップはもう彼女を見てもいない。クラウディアに視線を向け、その腰に手を添えている。
――五年間の婚約は、何だったの？
涙が溢れそうになり、必死で耐える。
負けたくない。でも、もう何もできない。
ソフィアは静かに会釈をし、その場を後にした。
傷心のまま、子爵邸へと戻る馬車に向かう。
もう、何も考えたくなかった。
しかし、馬車の前で、騎士エルンストが立ったまま私を待っていてくれた。
「ソフィア様」
彼は、いつものように冷静な顔で馬車の扉を開く。
「エルンスト、ありがとう」
「お疲れでしょう」
その言葉に、涙腺が緩みそうになる。
「私、フィリップ様に振られちゃった。私を愛してくれる殿方なんて、きっとこの世にはいないのよね」
ポツリと漏れた言葉に、エルンストは表情を変えず、静かに言った。
「そんなことはありません」
「でも、フィリップ様は……」
「フィリップ公子が、見る目のない男だっただけです」
きっぱりと断言され、ソフィアは思わず彼の顔を見た。
「ソフィア様は、リタール王国で一番美しい方です」
「そんな……」
「そして、誇り高い方です。どうか、その誇りを忘れないでください」
その言葉に、胸が熱くなる。
彼の瞳は真剣だった。
ソフィアは震える手で、涙を拭った。
「ありがとう、エルンスト」
心が、ほんの少しだけ、温まった気がした。
次回、出生の秘密！
