朽ち果てぬ真の夢
新亭569年。二十数年前に娘に姫長の座を譲り
つい、2年前に夫が死去してしまった。
いつかの夢も、遂には叶わない。
寂しくなった自分の家に飾ってある
月華を長めながら、過去を想起する。
結局、あの時の約束を果たす事は出来なかった。
この月華を用いて最高の刀を作り出す。
そんな事も出来ず、男があの技術を扱える手段も
結局は見付かることも無かったのだ。
「……」
由紀恵は既に年老いていた。
現在、霊具神姫全体で行なわれている
巨大な弓。それが何の為に作られているのか。
もはや、熱が冷めた彼女は興味が無かった。
満足に動かない体。僅かに動くだけで生じる
異常な程の疲労。もはや、動く事すら億劫だ。
今、彼女に出来る事は、過去を懐かしむこと。
久しく見て無い、孫の顔を見たいと思おうとも
今自分が向うのは邪魔だと理解している。
「錫音様……」
擦れた声だ、あの時とはもはや比べものにならない。
しわくちゃになり、腰の曲がった自らの姿。
老いさらばえた時代遅れの刀鍛冶。
周囲は今だ、自らを国宝などと謳うが
もはや刀すら打てぬ自分に価値など無い。
彼女はそう考えながら、ゆっくりと家を出る。
少し騒々しい都の情景。
今に興味を薄れてしまってる彼女には
その情景等、どうでも良いと感じていた。
「由紀恵様!」
「お辞儀は良いよ、こんな老いぼれに」
都の人々は自らを未だに敬ってくれている。
それが、彼女はむしろ嫌だと感じていた。
現実はいつでも非情だった。
霊具神姫の心得である、人を生かす刀。
その技術も、当然、人殺しの技術になる。
長い時を生き、その残酷な事実を知った。
どれだけ自分がその思いを大事にしようとも
万人が同じ心にはなり得ない。
自らの教えを忘れ、安易に刀を売る弟子も居た。
その刀がならず者に流れ、人死にが出続ける。
もはや、自らの教えなど、誰も興味を持たないかも知れない。
そんな事を思いながら、彼女は無気力に都を進んでいく。
何処に行く等の目的地なども無い。ただ気まぐれに歩く。
そんな時、遠くなってきている筈の耳にある音が聞えた。
「……この音」
とても澄んだ鈴の音だ。どれだけ時が経とうとも
一時たりとも忘れた事の無い、あの清らかな鈴の音。
色々な事を忘れた事もある中で1度も忘れた事も無い
自らを救い出してくれた、あの清らかな鈴の音。
まだ、姿すら見ていないはずなのに
彼女の瞳には、既に枯れたはずの涙が溢れていた。
「うーん……」
その鈴の音を辿り、その音源に彼女は近付いた。
そこには、周囲を見渡してる錫音が居た。
あの時と何一つ変わらない、美しい姿のままで。
一目見ただけで彼女だと分かる、あの美しい髪の毛。
その姿を見た彼女はすぐに体が動く。
「錫音様……」
「ん?」
だが、彼女に声を掛けた瞬間に自らの姿を思い出した。
同時に、一気に激しい後悔が溢れ出してしまった。
自らは、あの時とは全然容姿が違うのだから。
老いさらばえ、もはやあの時の姿とは違う。
年老いた老人。もし、錫音に気付いて貰えなかったら。
そうなれば、彼女は全てを否定されてしまうような
そんな、そんな恐怖が彼女に襲いかかる。
忘れられてしまう。忘れ去られてしまってる。
当然だ、当然だ。彼女は一体、どれだけの子供を救ったか。
何十年も前に救った、ちっぽけな命1つを
何故、今でも覚えているだろうと期待してしまったのか。
だが、その不安など、一瞬で無駄だと理解出来た。
「あ、由紀恵ちゃん。久し振りだね」
「え……」
彼女は年老いてしまった、今の自分を見ても尚
一瞬で、自分が由紀恵だと理解してくれた。
そして、あの時と何1つ変わることの無い
優しく、美しい微笑みを向けてくれた。
「良かった、久し振りに会うことが出来て」
「な、何故儂が由紀恵だと……こんなに老いさらばえて
もはや、面影など……錫音様と違って、儂はこんなにも」
「……私は妖怪で、あなたは人間だからね。寿命が違う。
でも、あなたはあなただよ、由紀恵ちゃん。
どれだけ年老いても、姿が変わろうとも
それは決して変わらない。あなたが私にくれた思い出は
あなたの姿がどれだけ変わろうとも、変わることは無い」
「錫音様……」
「お別れは辛いんだけどね……ふふ、でも、こうやって会えた
今生の別れになる前に会えて良かったよ」
「……儂との思い出」
「うん。絶対に私は忘れないよ。どれだけ時が経とうとも。
それに、花時雨だってあるんだ。忘れる訳がない」
錫音の腰に付けてる二振りの刀は変わらない。
だからなのか、彼女は改めて興味を持った。
その刀に、自らが生きた証である、その刀を。
そして、自らの始まりとなった刀を。
「……錫音様、久し振りに、あの刀を見せてはくださりませんか?
私の始まりと、私の努力の結晶を」
「うん、勿論」
ゆっくりと引き抜かれた、あの懐かしの刀。
自らに夢と目標を与えてくれた刀。
天下の名刀、白時雨。
そして、自らが錫音に贈った最高の刀。
自らが打った過去、最高の傑作。花時雨。
どれだけ刀を打とうとも、もはや花時雨を越える刀は
決して打つことが出来なかった。
それ故に、叶える事が出来なかったのだ。
錫音から預った、月華を元とした自身の生涯最高の刀。
それを打つという、自らの大願が。
だが、そんな事は、もはやどうでも良いと思えた。
自らが打った最高傑作。花時雨。
そして、夢の始まり、白時雨を見た事で
彼女は初心を思い出すことが出来た。
(錫音様の訳に立ちたい。凄い刀を打ちたい!
錫音様に刀を贈った男の子みたいに!
凄く綺麗な刀を打つんだ!
宝石みたいに、綺麗な刀!
白時雨よりも凄い刀を打ってみせる!
そして、その刀で
錫音様に沢山の人を助けて貰うの!
そしていつか、私の刀も凄いって思って貰う!
白時雨よりも凄いって! そんな刀を!)
自らが最初に刀を打つことを志した時だ。
きっと、出来る筈が無いとは思わなかった。
出来ない、無理だ、無意味だと。
そんな事を、あの時は一瞬だって思わなかった。
出来ると、そう信じて疑わなかった。
いつからだろう、自らが出来ないと考え出したのは。
あぁ、あの時だ。何度打っても白時雨に勝てるような
最高の刀を打てないと、そう思ったときだ。
きっと、その時から私は諦める癖がついたんだ。
だから、妥協した。だから、花時雨を妥協した。
白時雨よりも勝るような刀は打てなくとも
白時雨に勝るとも劣らない刀を打つと。
これが、私の初めての諦めだったのだ。
「……錫音様、申し訳ありません」
「え?」
「私は妥協してしまった。大恩人であるあなた様に捧げる
最高傑作を、妥協してしまったのです。
白時雨に勝つ事を諦めて、勝るとも劣らない刀で良いと。
私は、妥協してしまった」
「由紀恵ちゃんが私に贈ってくれた刀は最高の刀だよ?
妥協だなんて、そんな」
「いえ! 私は妥協してしまった。私は諦めてしまったのです。
私は幼い時、白時雨に勝てる刀を打つと、そう思った。
ですが、私は諦めた。白時雨に勝つ事を諦めて
白時雨に勝るとも劣らない刀を作る事を目標にした。
これは、十分な妥協。諦めなのです」
「でも、あなたが打ってくれた刀は今も私を支えてくれてる。
花時雨のお陰で救える命が増えたんだ」
「私が諦めなければ、もっと多くの命を救えたはず。
ですが、もう諦めません。錫音様」
過去を思い出し、本当の夢を彼女は思い出した。
全てに諦めを付けていた彼女が最後に見出した意地。
越える。何故、自らは月華を授かったのか。
諦めたく無かったから、そうだろう?
きっとあの時から、心の何処かでは理解してた筈なのだ。
自らが打った花時雨が、妥協だったのだと。
だから、月華を受け取った。白時雨を越えるために。
自らの技術の粋を投じて、いつか越えてみせるために。
「ありがとうございます。錫音様。
私が生きている間に、私にもう一度会ってくれて。
お陰で、最後の大仕事をする覚悟が決った」
全てに興味を失いかけていた彼女はもう居なかった。
色あせていた色が、一気に華やかに色付いた気さえした。
姿は年老いて、もはや枯れる瞬間に近しい彼女。
だが、その瞳はあの時よりも熱く燃えている。
越えるという決意を、生涯最後の夢。
「錫音様、改めて言わせてください」
「何かな?」
「私の夢は、白時雨を越える刀を打つ事。
この夢、必ず叶えて見せます!」
錫音は少し圧倒されていた。眼前の女性は年老いている。
長い時を生き、救った子達が年老いて行く様を見ていた。
何度も何度も、生命の最後を看取っていた彼女。
だが、今目の前にいる命は燃え上がっている。
最初はもう限界なのだと、彼女は感じていた。
何度も何度も人間の最後を看取っていた彼女は気付いていた。
彼女の命はもはや尽きる瞬間なのだと。
だが、今、目の前にいる命はどうだ。
原点である二振りの刀を見た瞬間に変貌した。
燃えさかるように、残り僅かな命を燃やしているように。
止めたいと、そう思った。このままだと死んでしまう。
このままだと、彼女は近いうちに死んでしまう。
何度も死に触れていた彼女にはそれが分かる。分かってしまう。
ここで止めなければ、彼女は近いうちに命を落とす。
……だが、止めることは出来なかった。
きっともう、自らが呼び止めても止まることは無い。
これは、彼女にとって、本当に最後の戦いになる。
……苦い顔をして送り出しては駄目だ。
彼女の心意気を無下にするわけには行かない。
そう考えた彼女は、あの優しい笑みを
消えゆく目の前の命に向けた。
「ありがとう。きっと由紀恵ちゃんなら出来るよ。
あなたの最高傑作。楽しみにしてるね」
「はい!」
その言葉を聞いた由紀恵は、錫音の前から立ち去った。
年老いた老人とは思えない程の速度で。
そんな彼女の背を見送りながら、錫音は涙を流す。
「……あなたの事は、絶対に忘れない。
そして、あなたが最後の夢を叶える為にも
この都は、私が守るから」
優しく花時雨を撫でながら、錫音は都を歩く。
この都に来ている危険な悪鬼、鵺を倒す為に。