世界の終わり
ディナストラ学園の廊下を二人の男女が歩いていた。
現在は新たな入学者を迎える為の長期休暇の最中であり、また在学生も年に二度しかない帰郷のチャンスに家族の下へと戻っている者が大半で、校舎内は人も殆どいない閑散とした状況である。
「すまぬのうシンシア先生、口裏を合わせて貰うて」
足音だけが周囲に響く中、杖を片手にゆっくりと進んでいた白髪の老人がぽつりと切り出した。ディナストラ学園の長を務めるその翁は長く白い髭をゆったりと揺らしながら、己の傍らを行く鎧姿の美女を見上げて礼を言う。
横を歩いていたシンシアはルキウス学園長の謝辞にも何処か腑に落ちない様子で曖昧に頷いて、しかし納得できない所があるのか言葉少なに口を開いた。
「ですがよろしかったのですか? 推薦入学の者であれば奨学金は……」
「うむ。学費の払えない薦抜入学者は試験など不要で支給される。本来ならのう」
横を歩く学園長の言葉を聞いて、その行動の真意が尚も分からないシンシアはその形のいい眉を小さく顰めていた。
「では、何故あのような」
「入学前に少し確かめておきたいのじゃよ。彼の実力の程をのう」
「すると学園長も彼をお疑いで?」
シンシアの問いには言外に自分も信じていないという意思表明が含まれていたが、そんな正直過ぎる部下の言葉を聞いた学園長は苦笑しながらあっさりと首を振る。
「いやいや、疑ってはおらんよ。これは今後の為に必要なんじゃ」
そう答えたルキウスは、そこで我慢していた何かを解き放つように深く溜め息を吐いてぼりぼりと白い頭を掻いていた。
「しかし参ったのう。まさか魔物使いとは」
「……これまでにこのような事例はあったのですか?」
「このような、とは魔物使いが現れたことかの?」
「いえ、それもありますがよもや異界から人が現れるなどと本気で信じておられる訳ではないでしょう?」
シンシアの言葉に歩きながら暫し無言で考えた学園長はやがて
「あの推薦状は本物じゃよ」
と、ぽつりと答えた。深く凄みのある老人の険しい目に言葉を飲み込んだシンシアは、真剣な顔で老人に厳しい視線を向ける。
「ではあの男が魔物使いであるというのも?」
「まず間違いあるまい。あのような現象を引き起こす術式など、これまで一度も見たことがないでな」
「ええ、確かに」
先ほどの光景を思い出しているのか険しい顔で頷いたシンシアに学園長は苦笑いしながら首を振っていた。
「やれやれ困った事になった。異界から魔物使いが現れたなど、人が聞けば何かの冗談かと思うじゃろうな」
「あの男、如何致しますか」
シンシアの問い、そこには学園の教師としてではなく、彼女が生来持つの軍人としての物言いが含まれていた。
王国の脅威を防ぐ者としての近衛騎士に戻っている蒼い瞳に気が付いたルキウスは静かに嗜めるように語りかける。
「彼はこの学園の学生じゃよシンシア先生」
「王室は間違いなく、この件を知りたがるでしょう。報告を上げておかないと後々面倒な事にも」
「それはそうじゃろうが……」
幾らこの学園に自治権が認められているとはいえ、運営母体はあくまでも王家。
資金まで提供を受けているとなれば王室の意思という物は決して無視できる物ではなく、しかしと言葉を迷わせたルキウスは困り果てた顔で白髪頭を掻く。
「魔物使いがこの学園にやってきたと報せを受けたら王室はどう動くと思うかね?」
「まず間違いなく強い興味を持つでしょう。特に中でも姫殿下はその……」
「うむ。殿下は野心家でおられ、しかも好奇心旺盛であらせられるからのぉ」
ほっほ、と普段のように陽気な笑みを漏らした学園長は、やがてその場で足を止めるとその笑みを即座に消して一言。
「よいか、絶対に知らせてはならぬ」
ゆっくりと、しかし低く凄みのある言葉だった。かつて幾度も視線を潜り抜けてきた老人の放つ常にない眼光の鋭さに息を飲んだシンシアにルキウスは続ける。
「間違いなく世界を巻き込んだ大戦が起きようぞ。帝国はもちろん東の魔族達も黙ってはおるまい」
そう告げた老人の言葉には杞憂とは切って捨てられない現実味があり、シンシアは苦虫を噛み潰したような顔で頷いていた。
この話を聞けば王室だけではない、世界中が動き始める。ともすればこの学園を襲撃する国が出てくる可能性さえ十分にあり得る以上は、これを外へ絶対に漏らさないというのは当然の措置でもあった。
「魔物使い……よもやこの現代に現れようとはのう」
重苦しく呟いたルキウスは、その皺枯れた掌で杖を強く強く握り締める。
窓の外を見る老人の瞳は、眼下に広がる青く美しい海を映しながら、その遥かな彼方を射抜くように見据えていた。