傀儡
「いやいや、口付けは最も古く原始的な魔術契約の手段なんじゃよ。ほれ、ゴブリンにされた王子様を救うお姫様の話にも出てくるじゃろ?」
「俺がお姫様に見えるのかジジイ。お前さっきから適当な事を言ってるんじゃねえだろうな!?」
仮にここまできてただの冗談でした、なんて言い出した日には、このナイフであの学園長の額に俺の名前を刻んでやらないと気が済まない。
しかし至って真面目な顔を崩さないルキウスの横で、同じく真剣な顔をしたシンシアは腰に提げた剣の柄に油断無く手を置きながら机の上の人形を顎で示す。
「この状況で適当な事をさせる訳がないだろう。いいからさっさとやれ」
「分かった分かった」
女とはいえ鎧を着込んだ、それも刃渡りの長い剣を持っている相手にこんな短剣で飛び掛かっても文字通りの一刀両断にされて終わりになるだろう事は想像に難くなく、仕方なく従う事にした弘樹は手元のナイフを引っ込めて人形の立つ机へと歩み寄る。
もしこれで何事もなかったら後で奴らのケツにこのナイフを投げ付けてやろう、胸中でそう決意した弘樹が机の上の人形に向き直ると、くすんだ茶色い木目の目立つボロボロのそれは相も変わらず不動の姿勢を貫いていた。
なんでこんな物にキスなんて、と胸中でブツクサ文句を垂れながら机の上で弁慶の如く突っ立って動かない古びた人形に顔を近付けると、己の血から漂う錆び臭さと古い木材特有の埃臭いようなかび臭いような妙な臭いが少しだけ鼻を突き、弘樹はちょっと眉間に皺を寄せる。
が、指先まで切ってしまったのに今更ここで躊躇っても仕方が無く、もういい加減辟易していた弘樹はバカバカしいどうにでもなれと半ば捨て鉢になりながらそっと唇を触れさせた。
無言、無音、無反応。特に何かが起きる訳でもなく、いつ止めればいいのか分からなかった弘樹が数秒の後に唇を離すと、人形にまだ付着していたらしい埃っぽい感触が口の中に僅かに残って不快感だけが後を引く。
「これでいいのか?」
口元に残る埃っぽい何かを止血用のハンカチで拭きながら振り返った弘樹は、しかしルキウスとシンシア、そしてソファの隅に座っていた獣耳の少女の三人の視線が自分に向いていない事に気が付いた。
こちらを見ていた筈の三人は、まるで信じられない物を見るような目で人形を。いや、正確には人形と弘樹の指先の間の空間を見つめている。
一体何を、と視線の先を釣られるようにそちらを見れば、視界に飛び込んだのは蒼い光。今しがた血で書き込んだ人形の腹がホタルのようにぼんやりと、青白く光っている光景だった。
そしてその光は見ている前で徐々に強くなっていき、やがてその光の発光源が自分の血で書き込まれた『武藤弘樹』の名前だと気が付いた頃、己の名前は更に青白く光りながら人形の胴体から空中へ文字通り煙のように浮かび上がり始めていた。
「な、なんだこりゃ!?」
「これは……!?」
背後の三人はもちろん弘樹でさえ息を飲む中、眼前の摩訶不思議な光景の持つ未知の迫力に当の弘樹が思わず一歩下がると、何故かそれを追うように宙へ浮かぶ『武藤弘樹』の名前はゆっくりと空中で捻じれ回転し風にたなびく糸煙のように細くなりながら、まだ血の滴る弘樹の指先へと素早く巻き付いていく。
「な、なんだこれ!なんか付いたぞ!?」
己の身体に纏わりつく不気味な光に本能的な恐怖を感じて手を引くが、絹糸のように細く伸びたその光は決して切れることなくその動きに追従する。
振りほどこうにも逃げようにも何処までも着いて来る謎の光は、手で払っても離れる様子はなく、やがて空中に浮かんでいた『武藤弘樹』の名前が全て光の糸となって弘樹の指先に巻き付いて、そのまま溶けるように淡く消えていった。
そして更に不思議な事に、人形の胴体に赤く血で書かれた筈の武藤弘樹の名前も、まるで最初からそんな物は無かったかのように、一滴の染みも汚れもなく綺麗さっぱり消えてしまっている。
「なんという……まさか本当に」
呆然とした様子のルキウスがぽつりと言葉を漏らす中、弘樹が今し方光が巻き付いた己の指先を確認すると、血だらけの指先に妙な模様が付いている事に気がついた。
先ほど渡されたハンカチを取り出して拭いてみるが既に血塗れになっているせいか綺麗にならず、適当にそこらの机の上にあった手ごろな書類を手に取り滴る血を拭い取ると、確かにたった今光が巻き付いた部分に赤く細い不可思議な模様が浮かび上がっている。
細い線が複雑に絡み合ったその模様は左手人差し指の爪、その全体に及んでおり擦っても擦っても取れることはなく
「おい! これ大丈夫なんだろうな!? なんか気味の悪い模様が出てるぞ俺の手に!」
「どれ、ちと見せてみなさい」
老眼気味なのだろうか、やや目を細め顔を離しながらしげしげと弘樹の指先を眺めたルキウスは、ブツブツと口の中で呟きながら眉間に皺を寄せていた。
これまでの飄々とした好好爺然とした横顔から一転、鋭さと険しさの同居するその表情に弘樹が思わず身体を固くする中、誰一人として声を上げない厳かな雰囲気の室内に張り詰めたような緊張感が漂う。
どれほどの時間が経っただろうか。弘樹の爪先に浮かび上がった模様をじっくりと眺めた学園長はやがて、厳しい表情を緩めぬままにこちらに向き直った。
「ムトウ君、その手を翳しながら目の前の造魔に何か命令をしてみてくれんか?」
「命令?」
「うむ。なんでもよいぞ」
なんでもいい、と言われても。人形に命令するなんて生まれてこの方考えた事もなかったし、こんなガラクタに言葉が通じるのかどうかも怪しい。
そもそも俺にはこんなポンコツそうな人形にやらせたい仕事などありはしないのだが、と暫し考えた弘樹はおもむろに左手を上げて、先ほどから気になっていた目の前で揺れている白く長い顎の毛を見ながら呟いた。
「……あの爺の鬱陶しい髭を全部引き抜け」
「は?」
間抜けな声を上げた老人とは違い、人形の反応は早かった。弘樹の言葉が終わると同時、それまで平和に机の上を歩いているだけだった木偶が、まるで悪鬼でも乗り移ったかのような勢いで跳躍し傍に立っていた平和な老人の顔面に向けて飛び掛かったのだ。
器用に皺を足がかりに顔へと飛び移った人形は、そのままルキウスの白い髭を掴むと、全身をばねのように反らして捩じり、ギチギチと引っ張り始める。
「ぬわあぁあああ! 止めてくれえ!」
たまらず悲鳴を上げたルキウスが両手で人形を引き剥がそうとするが、しっかと掴んだその小さな腕は、白い髭を決して離そうとしない。
弘樹はそんな目の前の光景を呆然と眺めながら、どうやら自分の言葉が、あの人形に確実に命令として伝わったらしいと曖昧に理解していた。
そして、自分がどうやら本当に魔物とやらを操れるらしいということも。
「痛い! 痛い痛い痛い! 抜けるぅううううう!」
先ほどまでの飄々とした態度は何処へやら、悲鳴を上げながら右へ左へ走り回る老人が机や椅子に当たって物が次々とひっくり返り、それを見ていた獣耳の少女は
「わ、わわっ!? ひぇえええっ!?」とその小さな頭を抱えながら不思議な悲鳴を上げる。
「こ、こんなバカな!?」
目の前の光景が信じられないらしいシンシアも悲鳴混じりの声を上げているが、七転八倒する老人をどう止めるべきか分からないのか動けずにいるらしかった。
人形の全身運動により深く深く顔に刻み込まれていた皺が縦方向に伸び切って、ついには痛みに耐えかねたのか地面に倒れて辺りを転がり始めたルキウスを前に、対処する方法が掴めないらしいシンシアは腰に提げた剣を抜くべきか否か躊躇っているようで柄に手をやったまま動かない。
「て、停止! 停止停止! 止まれ! 離してくれ! ホントに抜ける! 千切れるぅ!」
顔面で雑草むしりされている学園長の必死の命令、もとい全霊を込めた懇願も虚しく、ついに人形は一本二本とその白い毛を乱暴に抜き千切り始めていた。
どうにか止めようと慌てふためくシンシアに、痛みと苦しみでブレイクダンスのような動きを繰り返す老人。びっくりしてソファの影に逃げ込む獣耳の少女も現場で突っ立ったままの弘樹も呆然とその光景を眺めるしかなく
「学園長っ! 動かないで下さい!」
そんなカオスな状況を打ち破ったのは鎧姿のシンシアだった。
「断裂斬!」
そう叫ぶや否や腰に提げた剣が一瞬煌めいたように見えた次の瞬間、白い稲妻のような閃光が走り室内を照らす。
直後、ルキウスの顔面にマウントの姿勢を取り、まるで庭の草むしりのような勢いで髭を引き抜いていた人形が上下真っ二つに分かれて部屋の隅へと吹っ飛んでいった。
そのまま部屋の壁に掛けられた偉そうな男が描かれた肖像画の一つに景気よく衝突した人形は、力なく手足を放り出しながら床の上へと転がる。
部屋の中には静かに剣を構えた鎧姿の美女と、傍で地面に転がったまま荒い息を吐く老人。
「ひぃ、ふぅ、へひぃ……びっくりしたわい」
「大丈夫ですか学園長?」
転がっていた床の上から荒い息を吐きつつも起き上がった老翁に、剣を鞘に戻したシンシアが駆け寄っていく。
床に落ちた杖を差し出したシンシアに、苦笑しながら受け取ったルキウスはどうにか立ち上がるとヨタヨタと杖を付いて歩き始めた。
「いや助かりましたシンシア先生」
礼を言う姿を見て学園長の無事を確認したシンシアは、そこでようやく弘樹の方を振り返って蒼い瞳に怒りの炎を燃やしながら声を上げる。
「お前は命令するなら内容をもう少し考えろ!」
「命令はなんでもいいってお前らが言ったんだろうが!」
正直言ってまさかここまで忠実に従うとは思わなかったのだが、それを言っても始まらない。
こちらに冷たい視線を向けてくるシンシアにジロリとガンを飛ばした弘樹はソファへと戻るとドスンと勢い良く腰掛けた。
「まぁ、ともかくこれではっきりしたわい」
この短い間にすっかり歪な形になってしまった己の髭を撫で付けたルキウスも、そのまま自分の服に付いた埃を軽く払って近くの椅子に腰を下ろす。
無理繰り髭を抜かれたのがよほど痛かったのだろうか、白い眉毛の下のしょぼくれた目がちょっと涙混じりになっているような気もしたが、弘樹は特に気にせずに地面に転がって動かなくなった人形の破片を足の先で突くと
「これが魔物使いなのか?」と言葉少なに問うた。
弘樹の質問にルキウスは困惑の入り混じった複雑な顔で暫し考えると、やがて静かに頷いて白髪だらけの頭をぽりぽりと掻く。
「……うむ。どうやら、推薦状は間違っておらんようじゃな」
「単に爺さんがアレに嫌われてたってだけじゃねえのかよ」
「ほっほ。あれは感情を持たぬただの傀儡じゃ。儂が所有者として登録されておったから、本来は儂の命令しか聞かぬ筈なのじゃが」
そこで言葉を切った学園長は、部屋の隅で動かなくなっている人形の残骸へチラと目をやり、何かを諦めるように大きく息を吐いた。
その表情は深刻そのもの、まるで己の余命でも宣告されたかのような顔にさえ見えて、一体何がそんなに気になるのかが分からない弘樹に学園長は言葉を続ける。
「登録されておらぬお主の命令を聞いたばかりか、儂の命令を聞かなくなった。これはもう間違いあるまい」
間違いない、と言われても、あんな人形一つを操れるから何だというのか。汚らしい人形に命令を聞かせられるとしても、別にそれで何かが得られる訳でもない。
強いて言えば散髪屋くらいにはなれるかもしれないが、恐らく客は今の学園長の髭のように全員虎刈りにされる事だろう。
どうでもいいとまでは言わないが、正直これが出来るからと言っても何ら嬉しくないというのが正直な所で、何をそんなに騒ぐ必要があるのかと呆れていた弘樹は、ふとこちらを向いたルキウスに
「指を見てみなさい」と言われてまだ血が僅かに出続けている己の指先に目を向ける。
すると、つい先ほどまで爪の表面に浮き上がっていた赤い線がいつの間にか綺麗さっぱり消え去っており、それを見た弘樹は驚きの声を上げた。
「模様が、消えてるぞ」
「魔物が息絶えると契約も消滅する。……言い伝えの通りじゃな」
言い伝えの通りだと言いながら、当の学園長の表情が晴れない理由は何なのか。その言い伝えとやらが一体何を言っていたのかは知らないが、たかが人形を操れるだけでそんなに深刻になる必要があるとも思えない。
どうせあんな薄汚れた人形を操れたところで特に何か凄いことが出来る訳でもなし、そもそもあそこまで自在に動くような人形は日本どころか地球上何処を探してもないだろう。
流石にびっくりはしたが自分が人形を操れることを知った所で何ら益がある訳でもない弘樹には、目下何よりも先に確認しなければならない事があるのだった。