契約のいろは
「なんだ、このボロ布は?」
箱の中に収められていたのは薄汚い布の塊だった。灰色く薄汚れたハンカチよりも少し大きな布が円筒状に巻かれた何か。
訝しむ弘樹を他所に、学園長は幾重にも絡み巻き付いた灰色のボロ雑巾をゆっくりと丁寧に解いていく。その様子を眺めていた弘樹がまるでミイラだな、と内心で呟いた直後、薄汚い布にぐるぐる巻きにされていた奥から人の手が現れた。
「うげっ、なんじゃこりゃ!?」
「おお、暫く放置しておったのでどうなっておるかと思ったが、まだ魔鉱石は残っておるようじゃな」
思わず仰け反る弘樹を他所に、学園長が何処か楽し気にそう言って持ち上げたのは、一体の古びた人形だった。
僅かに赤みがかった茶色い木製で古びた小さな帽子と同じく小さな洋服を着て背丈は弘樹の膝ほどもないそれは手足の各所に間接があり、持ち上げられると手や足が糸の切れた操り人形のように力なくぐらぐらと揺れる。
こんな汚らしい人形は大人はもちろん子供の遊び道具にすらなりそうもなく、仮にそこらの子供へクリスマスにでもこんなものを与えたらきっと呪いの人形か何かと思われてたちまち泣き叫ぶ事は間違いないだろう。
「おい、そんな汚い人形をどうしようってんだ?」
しかし学園長はそんな弘樹の言葉に悪戯っぽい子供のような目でにこりと笑い、人形の背中にある小さなつまみをゆっくりと捻った、その瞬間。
これまでその皺だらけの腕の中で力なく項垂れていたその人形が、まるで電撃でも食らったかのようにビクリと震え、肩や足、腕を無秩序にビクつかせながらゆっくりと顔を上げる。
「うおぉ!? 動いた!?」
驚きの声を上げる弘樹を横に、目覚めた状態の人形を学園長がそっと机の上に置くと、人形は足元の感触を確かめるように何度かその場で足踏みをして周囲を見回すように顔を動かしてから軽快な足取りで歩き始めた。
山と積まれた本や書類の谷間を飛び越え、広げられたままの地図の上を踏み歩き、ねじ車が幾つも刺さった謎の機械を乗り越え、雑多に散らかった机の上を歩き回るのに、まるでタップダンスでも踊るかのように軽快な足取りを見せている。
「すごい……ゴーレム」
先ほどまで部屋の端で俯いていた尻尾の少女も、思わず興味を惹かれたのか顔を上げてこちらを覗き込んでいた。目を丸くして驚いている二人を見て、孫にプレゼントを披露したかのような何処か得意げな顔で学園長が笑う。
「ほっほ。これは造魔と呼ばれる人形での。言うなれば人工的に作られた魔物じゃ。ちと安物じゃから小さくて力も弱い、ただの玩具みたいな物じゃがのう」
玩具、と言いつつもしっかり二本足で立って歩き回っているその姿は、本当に生きているようにも見えて、弘樹は目の前で自分を見上げるその小さな人形から目を離せなかった。
本当に生きているのかそれともただの造り物なのか、弘樹が興味本位で試しに指先で突いてみると、人形は押された方向に数歩歩いて崩れた姿勢を即座に立て直しバランスを取る。そして、何かを訴えかけるようにじっとこちらに顔を向けてきた。
日本はおろか世界広しと言えども、こんな器用に歩いて動けるロボットなど居ただろうか?
見たところではモーターもないし配線もない、ただの木と糸で出来ただけの安っぽい人形が、ここまで精巧に動けるというのはどういう仕掛けなのかさっぱり分からない。
これが魔術とやらなのだろうか、と信じられない物を見る目で人形を見つめる弘樹が面白かったのか、学園長は何処か悪戯っぽい光を宿した目で満足そうに笑うと
「ムトウ君、これを操ってみてくれぬか?」
と、唐突な要求を口にした。言われた弘樹は数秒間その場に固まる事暫し。
「あだだだだ!」
弘樹は返事の代わりに学園長の白い髭をむんずと掴み、ぐいと引いて悲鳴を上げる学園長のしわがれた顔にガンを飛ばすように顔面を近付けていた。
「お前、ボケてんのか? それとも耳が遠いのか? 俺は魔物使いなんて知らねえって言ってんだよ!」
「痛い痛い! 引っ張らんでくれえええ!」
「何をしているこのバカ!」
「ぐへえっ!?」
眼前で行われた突然の暴虐行為に呆気に取られていたシンシアも、学園長の悲鳴で我に返ったらしい。目にも留まらぬ速さで腰の剣を抜き放つと剣を振るい、その柄で弘樹の後頭部を思い切り引っ叩いた。
背後からの急襲に一瞬で暗転した視界にパッと鮮やかな星が飛び、その場に昏倒した弘樹に向けてシンシアは怒りの声を上げる。
「学園長に無礼だろうが!」
後頭部を打たれ絨毯の上に横たわる弘樹にそう怒鳴るシンシアの背後、倒れる弘樹と同じく床に転がっていた学園長はひいひいと悲鳴混じりで己の髭を撫でつけながらゆっくりと起き上がった。
拳で自らの腰を軽く叩き、杖を付きながらどうにか立ち上がった学園長は、深緑のローブに付いた埃を軽く払いながら話を続ける。
「ほー痛かった……いやいやムトウ君、お主に本当に魔物使いの才能があるのなら、お主はこの造魔を自由自在に、それこそ手足のように操れるはずなんじゃ」
「だーから知らねえっての! そんなの初めて見たし、操り方なんて聞いた事もねえ!」
こっ酷く殴られた頭を抱えながら埃っぽい絨毯の上に転がっていた弘樹が怒った声で叫び返すが、学園長は少しも怯んだ様子なくニコニコと
「この推薦状が正しければ、お主の手にはその能力がある筈なのじゃよ」
「俺の、手に?」
意味が全く分からない弘樹は頭を抱えながらも立ち上がり言われた自分の掌を見てみるが、特に変わった様子もない普段どおりの自分の手でしかなく。
この手が一体何だというのか、説明を求める目を学園長に向けると、当の学園長は一つ頷くと横に立つ鎧姿の女へと視線を向けた。
「シンシア先生」
「はい、学園長」
何を言うでもなく名前を呼ばれただけで学園長の意図を汲み取ったらしいシンシアは返事をするや否や自分の脇に提げていた革製のベルトから一本の短剣を抜いて弘樹の下へと歩み寄り
「振り回すなよ」
冷たくそう告げて抜き身のそれを手渡した。全体的に細身でありつつ両刃の付いたその短剣は、刃渡りが弘樹の掌より少し長いくらいでありながら実際に手に持つとずっしりとした重みを有している。
大きく広がった鍔と柄の部分には黒い金属で装飾とコーティングをされた何かの生物の骨のような素材が使われていて、適度な硬さとしっとりとした手触りは掴み易く安定しており装飾品などではない実際に使用する事を考えた設計なのだろう事が容易に想像できた。
「なんだこりゃ……ナイフか?」
何故いきなり刃物を渡されたのか、意味が分からない弘樹が短剣をこねくり回して観察してみても特に変わった所はなく、これが魔物使いとやらとどう関係があるのか全く理解できない。
まさかこの刃物を使ってあそこの人形を脅せとでも言うのだろうか。
机の上でまだ意味もなく歩き回っているボロ人形を前に言う事を聞けと居直り強盗の如く刃物で脅している自分の姿を想像して心底アホらしくなってきた弘樹が説明を求める目を向けると、シンシアはさっさとしろと言わんばかりに白い手巾のような布切れを投げて寄越した。
「魔物使いが魔物を支配し己の手足として扱う、その契約には魔物使い自身の血が必要になると言われている」
「……何言ってんだお前ら」
「ちょこっとでええんじゃ。指先にかるーく傷をつけてくれれば」
「は? なんで俺がそんなアホな真似をしなきゃならんのだ!」
投げ渡された布は止血用だったらしい。ようやく自分が何を求められているのかが理解出来た弘樹が声を荒げて抗議するが、学園長もシンシアも全くたじろいだ様子はなく平然とこちらを見るばかり。
どころか、そういう反応は予想通りだったといわんばかりに腕を組んだシンシアは、まるで幼子に言い聞かせるような落ち着いた声色で話し始める。
「ムトウ、これはお前の為でもある」
「俺の?」
「もし本当にこの推薦状によってお前がその意思とは反して転送されてきたのであれば、この学園にも一抹の責任はあるだろう。だが、まずはお前が本当にその推薦状によって転送されてきたのかどうか。即ちお前に推薦されるだけの能力があるのかどうかを確かめる必要がある」
「……どうしろってんだ」
「左手の指先でよい。ちょこっと傷を付けて血を出させてみてくれんか」
「んだよそれ……」
なんで魔物とやらを操るのに自分の血が関係してくるのか全く意味が分からないが、しかしこのままやらないと話が進みそうもなく、これ以上駄々を捏ねたところで事態が好転するとも思えない。
訳が分からん、なんでこんな事をと弘樹が独りブツブツ言いながらも渡された短剣の刃先に人指し指の先をグッと当てると、想像していたよりも遥かに容易くその鋼色は皮膚を突き破った。途端、赤い滴りが刃先を垂れ落ち袖を濡らす。
「痛ぢっ!? 結構鋭いぞコレ!?」
予想より深く入った刃先に思わず眉を顰めた弘樹が指先を見れば、小さな傷から真っ赤な血がだらりと垂れて床へと落ちていき、その様子を見てうんうんと頷いた学園長は血が滴り落ちる指先を止血用の手巾で抑える弘樹に
「十分十分。ではその血の付いた指で、この造魔に名前を書いてくれんか?」
「は? 名前?」
またも意味不明な要求を行ったのだった。言われた意味をイマイチ理解できない弘樹が固まる中、人指し指から伝わるジンジンとした痛みと共に白い手巾が徐々に赤く染まっていく。
「魔物使いは己の血を使って魔物の身体にその名を刻み契約をすると言われておる。もし言い伝えが真実なら、契約によってその造魔はお主の意思に従うようになる筈じゃ」
「俺の名前を書くのか? コレに?」
目の前で突っ立っている人形には少なくとも記名欄のような物は見当たらず、こんなオンボロの何処に名前を書けというのだと不満げな視線を送ると、傍に立っていたシンシアが助け舟を出した。
「伝承では体の中央に書き記すそうだ。まぁ血で書く以上は垂れたりする可能性もあるし、大きめに書いておいた方がいいだろうな」
「あぁもう分かった分かった。書きゃいいんだろ書きゃ」
こうなりゃヤケクソだ。マモノツカイだかリュウグウノツカイだかしらないが、これでこいつらの気が済むのなら書くだけ書いてやると手首まで垂れる血の雫が己の袖を濡らさないように捲った弘樹は、机の上で直立している人形の胴体に血の滲む左手で名前を書き始める。
ふと一瞬、ここに書くのは日本語でいいのだろうかとの疑問が頭を過ったが、先ほど見せられたミミズがのたくったような字など習った事もないので書きようもない。
素直に日本語で書く事にして木質性の胴体にベッタリと赤い血を塗りつけていくと、木材の表面が予想よりも綺麗に成型されており滑らかな表面に血が良く伸びるせいかスラスラと書くことが出来た。
「ほら、書いたぞ」
言われた通り人形の中央、腹の部分にデカデカと血で書かれた『武藤弘樹』の文字に、妙な不気味さとおどろおどろしさを感じながら振り返って聞くと
「うむ。では最後に契約相手、つまりこの人形にお主が口付けをして契約が完了となる」
「ふざけんな! なんでそうなる!?」
血で人形に名前を書くというのも意味が分からず不満だったが、それどころか今度は眼前の人形相手にキスまでしろという。こいつらがどういう思考回路をしているのか知らないが、生憎と自分にはそんな事をして喜ぶ趣味はないのだ。
またも突拍子もない事を言い出した学園長をジロリと睨んだ弘樹は手に持った短刀で机の上のボロ人形を指し示し
「何が悲しくてこんな古汚い人形にキスなんてせにゃならんのだ!」と抗議の声を上げた。