火種
時刻は既に昼下がり。少々傾き始めた陽光が窓から差し込んでくる中、アトラディア学園の廊下を二人の男女が歩いている。
普段なら活気溢れるこの場所も入学式を明日に控えたこの日、新入生達は入学の準備に勤しみ在学生達は長期休暇最後の一日を市内で惜しみ楽しんでいる事もあって、校舎の中は人も殆どいない閑散とした状況であった。
「すまぬのうシンシア先生、口裏を合わせて貰うて」
がらんとした廊下に足音だけが響く中、杖を片手にゆっくりと進んでいた禿げ頭の老人がぽつりと切り出した。アトラディア学園の長を務めるその翁は長く白い髭をゆったりと揺らしながら、己の傍らを行く鎧姿の美女を見上げて礼を言う。
横を歩いていたシンシアはルキウス学園長の謝辞にも何処か腑に落ちない様子で曖昧に頷いて、やがてどうしても納得できない所があるのか言葉少なに口を開いた。
「いえ。ですがよろしかったのですか? 通常は推薦入学の者であれば奨学金は……」
「うむ。学費の払えない薦抜入学者は試験など不要で王宮から支給される。本来ならのう」
横を歩く学園長の言葉を聞いて、その行動の真意が尚も分からないシンシアはその形のいい眉を小さく顰めていた。
「あの推薦状が偽物ではないかとお疑いになっているということですか?」
シンシアの言葉に歩きながら暫し無言で考えた学園長はやがて
「推薦状はまず間違いなく本物じゃよ。儂の指輪に反応することは勿論、書状の形式も押捺された校章も全て記録に残っていた通りじゃ」
と、噛み締めるように答えた。深く凄みのある老人の険しい目に言葉を飲み込んだシンシアは、真剣な顔で老人に厳しい視線を向ける。
「ではあの男が魔物使いであるというのも?」
「まず間違いあるまい。あのような現象を引き起こす術式など、これまで一度も見たことがないでな」
先ほどの契約の瞬間、青い光が迸り造魔を完全に操って見せた先ほどの光景を思い出しているのか険しい顔で頷いたシンシアに学園長は苦笑いしながら首を振っていた。
「これらを詳細にまとめ、素直に王宮に奏上してみるかね? 魔物使いが異界より推薦状を持って学園に現れたから学費を支給するように、と」
悪戯っぽく問いかけた学園長の台詞に、彼女にしては珍しくほんの少し困ったような顔を見せたシンシアは僅かに言葉を詰まらせながら答えを紡ぐ。
「王宮は間違いなく、この件を知りたがるでしょう。報告を上げておかないと後々面倒な事にもなりかねません」
「それはそうじゃろうが……」
幾らこの学園に自治権が認められているとはいえ、運営母体はあくまでも王家。
資金まで提供を受けているとなれば王室の意思という物は決して無視できる物ではなく、しかしと言葉を迷わせたルキウスは困り果てた顔で禿げた頭を掻く。
「伝説の魔物使いが異界よりこの学園にやってきたと報せを受けたら王宮はどう動くと思うね?」
「まず間違いなく強い興味を持つでしょう。特に中でも姫殿下はその……」
「うむ。殿下は才気溌剌にして野心家でおられ、しかも好奇心旺盛であらせられるからのぉ」
ほっほ、と普段のように陽気な笑みを漏らした学園長は、やがてその場で足を止めるとその笑みを即座に消して一言。
「よいか、絶対に知らせてはならぬ」
無表情で発されたゆっくりとした、しかし低く凄みのある言葉だった。かつて幾度も死線を潜り抜けてきた老人の放つ常にない眼光の鋭さに息を飲んだシンシアにルキウスは続ける。
「王家は今王位継承問題で揺れておる。間違いなく世界を巻き込んだ大戦が起きようぞ。南の帝国はもちろん東の魔族達も黙ってはおるまい」
そう告げた老人の言葉には杞憂とは切って捨てられない現実味があり、シンシアは苦虫を噛み潰したような顔で頷いていた。
この話を聞けば王室だけではなく、まず間違いなく世界中の勢力が動き始める事は想像に難くない。ともすればこの学園を襲撃する国が出てくる、そんな可能性さえ十分にあり得る以上は、これを外へ絶対に漏らさないというのは当然の措置でもあった。
「彼は魔物使いとしてではなく、学園からただの奨学金希望者として王宮へ報告する。この試験はその実績作りのような物じゃ」
「形だけの試験をすると?」
「無論、それだけではない。単純に彼の者の実力の程を入学前に少し確かめておきたいとも思うておるでな」
そう答えたルキウスは、そこで我慢していた何かを解き放つように深く溜め息を吐いてぼりぼりと髪の残らぬ頭を掻いていた。
「伝説によればかの魔物使いはただ魔物を操るだけではなく、単独でも非常に強力な戦闘能力を有していたとされておる。それが事実なのかどうかも確かめねばならぬでな」
「仮にそれが事実であったとして。あの男、如何致しますか」
シンシアの問い、そこには学園の教師としてではなく、彼女が生来持つの軍人としての物言いが含まれていた。
王国に対する脅威を防ぐ存在たる近衛騎士に戻っている蒼い瞳に気が付いたルキウスは静かに嗜めるように語りかける。
「どうもこうもせんよ。この学園の学生として迎え入れるだけじゃ」
「ですがあの男を見るに……」
「彼に何か気になることでもあるかね?」
「いえ。見た限りではそう簡単に従うような性質には見えませんでしたが」
「全くじゃな。とかく探索者というのは変わり者が多いからのぉ」
困った物じゃ、と妙な哀愁と含蓄のある学園長の呟きにほんの少し面白そうに笑みを溢したシンシアは、しかし一瞬で真剣な顔付きに戻ると先を行く老人へ更に問いかけた。
「ではどうされるおつもりで?」
「まぁ考えておくしかあるまい。こう見えても癖のある探索者との渡り合いには慣れておる」
年の功という奴でな、と笑った老人の返事はあっけらかんとした声ではあったが、しかし当の学園長の瞳には憂いの色が消えないままで。
「魔物使い……よもやこの現代に現れようとはのう」
重苦しく呟いたルキウスは、その皺枯れた掌で杖を強く強く握り締める。
学園の廊下から窓の外を見る老人の灰色の瞳は、眼下に広がる青く美しい海を映しながら、その遥かな彼方を射抜くように見据えていた。




