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入学と奨学金


「な、なんだ!?」


「これは……!?」


 背後の三人はもちろん弘樹でさえ驚愕に息を飲む中、眼前の摩訶不思議な光景の持つ未知の迫力に当の弘樹が思わず一歩下がると、何故かそれを追うように宙へ浮かぶ『武藤弘樹』の名前はゆっくりと空中で捻じれ回転し風にたなびく糸煙のように細くなりながら、まだ血の滴る弘樹の指先へと素早く巻き付いていく。


「どわっ!? なんじゃこれ!なんか付いたぞ!?」


 己の身体に纏わりつく不気味な光に本能的な恐怖を感じて手を引くが、絹糸のように細く伸びたその光は決して切れることなくその動きに追従する。

 逃げようとも振りほどこうとも何処までも着いて来る謎の光の筋は、どれだけ手で払っても離れたり途切れたりする様子はなく、やがて空中に浮かんでいた『武藤弘樹』の名前が全て光の糸となって弘樹の指先に巻き付いて、そのまま溶けるように淡く消えていった。


 そして更に不思議な事に人形の胴体に赤く血で書かれた筈の武藤弘樹の名前も、まるで最初からそんな物は無かったかのように、一滴の染みも汚れもなく綺麗さっぱり消えてしまっている。


「なんという……まさか本当に」


 呆然とした様子のルキウスがぽつりと言葉を漏らす中、弘樹が今し方光が巻き付いた己の指先を確認すると、血だらけの指先に妙な模様が付いている事に気がついた。

 先ほど渡されたハンカチを取り出して拭いてみるが既に血塗れになっているせいか綺麗にならず、適当にそこらの机の上にあった手ごろな書類を手に取り滴る血を拭い取ると、確かにたった今光が巻き付いた部分に赤く細い不可思議な模様が浮かび上がっている。

 細い線が複雑に絡み合ったその模様は左手人差し指の爪、その全体に及んでおり擦っても擦っても取れることはなく


「おいこれ大丈夫なんだろうな? なんか気味の悪い模様が出てるぞ俺の手に」


「どれ、ちと見せてみなさい」


 老眼気味なのだろうか、やや目を細め顔を離しながらしげしげと弘樹の指先を眺めたルキウスは、ブツブツと口の中で呟きながら眉間に皺を寄せていた。

 これまでの飄々とした好好爺然とした横顔から一転、鋭さと険しさの同居するその表情に弘樹が思わず身体を固くする中、誰一人として声を上げない厳かな雰囲気の室内に張り詰めたような緊張感が漂う。

 どれほどの時間が経っただろうか。弘樹の爪先に浮かび上がった模様をじっくりと眺めた学園長はやがて、厳しい表情を緩めぬままにこちらに向き直った。


「ムトウ君、その手を翳しながら目の前の造魔に何か命令をしてみてくれんか?」


「命令?」


「うむ。なんでもよいぞ」


 なんでもいい、と言われても。人形に命令するなんて生まれてこの方考えた事もなかったし、こんなガラクタに言葉が通じるのかどうかも怪しい。

 そもそも俺にはこんなポンコツそうな人形にやらせたい仕事などありはしないのだが、と暫し考えた弘樹はおもむろに左手を上げて、先ほどから気になっていた目の前で揺れている白く長い顎の毛を見ながら呟いた。


「……あの爺の鬱陶しい髭を全部引き抜け」


「は?」


 弘樹の言葉に間抜けな声を上げた老人とは違い、命じられた小さな人形の反応は早かった。弘樹の言葉が終わると同時、それまで平和に机の上を歩いているだけだった木偶が、まるで悪鬼でも乗り移ったかのように走り始めその勢いのまま跳躍し傍に立っていた平和な老人の顔面に向けて飛び掛かったのだ。

 器用に皺を足がかりに顔へと飛び移った人形は、そのままルキウスの白い髭を掴むと全身をばねのように反らして捩じり、ギチギチと引っ張り始める。


「ぬわあぁあああ! 止めてくれえ!」


 たまらず悲鳴を上げたルキウスが両手で人形を引き剥がそうとするが、しっかと掴んだその小さな腕は、白い髭を決して離そうとしない。

 弘樹はそんな目の前の光景を呆然と眺めながら、どうやら自分の言葉が、あの人形に確実に命令として伝わったらしいと曖昧に理解していた。

 そして、自分がどうやら本当に魔物とやらを操れるらしいということも。


「痛い! 痛い痛い痛い! 抜けるぅううううう!」


 先ほどまでの飄々とした態度は何処へやら、悲鳴を上げながら右へ左へ走り回る老人が机や椅子に当たって物が次々とひっくり返り、それを見ていた獣耳の少女は


「わ、わわっ!? ひぇえええっ!?」とその小さな頭を抱えながら不思議な悲鳴を上げる。


「こ、こんなバカな!?」


 目の前の光景が信じられないらしいシンシアも悲鳴混じりの声を上げているが、七転八倒する老人をどう止めるべきか分からないのか動けずにいるらしかった。

 人形の全身運動により深く深く顔に刻み込まれていた皺が縦方向に伸び切って、ついには痛みに耐えかねたのか地面に倒れて辺りを転がり始めたルキウスを前に、対処する方法が掴めないらしいシンシアは腰に提げた剣を抜くべきか否か躊躇っているようで柄に手をやったまま動かない。


「て、停止! 停止停止! 止まれ! 離してくれ! ホントに抜ける! 千切れるぅ!」


 顔面で雑草むしりされている学園長の必死の命令、もとい全霊を込めた懇願も虚しく、ついに人形は一本二本とその白い毛を乱暴に抜き千切り始めていた。

 どうにか止めようと慌てふためくシンシアに、痛みと苦しみでブレイクダンスのような動きを繰り返す老人。びっくりしてソファの影に逃げ込む獣耳の少女も現場で突っ立ったままの弘樹も呆然とその光景を眺めるしかなく


「学園長! 動かないで下さい!」


 そんなカオスな状況を打ち破ったのは鎧姿で身を翻したシンシアだった。


「破岩斬!」


 そう叫ぶや否や腰に提げた剣が一瞬煌めいたように見えた次の瞬間、何かが震えるような鈍い音と共に白い稲妻のような閃光が走り薄暗い室内を切り裂くように照らす。

 直後、ルキウスの顔面にマウントの姿勢を取り、まるで庭の草むしりのような勢いで髭を引き抜いていた人形が見事に上下真っ二つに分かれて部屋の隅へと吹っ飛んでいった。

 そのまま部屋の壁に掛けられている偉そうな男の姿が描かれた無数の肖像画の一つに景気よく衝突した小さな人形は、力なく手足を放り出しながらだらしなく床の上へと転がる。

 部屋の中に残ったのは静かに剣を構えた鎧姿の美女と、傍で地面に転がったまま荒い息を吐く老人。そして目の前で起きた完全に予想外な事態に硬直したままの弘樹とソファの影からこっそりとこちらを覗いている少女だけであった。


「ひぃ、ふぅ、へひぃ……びっくりしたわい」


「大丈夫ですか学園長?」


 倒れていた床の上から荒い息を吐きつつも起き上がった老翁に、剣を鞘に戻したシンシアが駆け寄っていく。

 床に転がった杖を拾って差し出したシンシアに、苦笑しながら受け取ったルキウスはどうにか立ち上がるとヨタヨタと杖を付いて歩き始めた。


「いや助かりましたシンシア先生」


 礼を言う姿を見て学園長の無事を確認したシンシアは、そこでようやく弘樹の方を振り返って蒼い瞳に怒りの炎を燃やしながら声を上げる。


「お前は命令するなら内容をもう少し考えろ!」


「命令はなんでもいいってお前らが言ったんだろうが」


 あんなどういう仕組みで動いているのかもよく分からない代物が、まさか本当に自分の言うことを聞くなんて思わなかったし、仮に命令を聞いたとしてもここまで忠実に従うとは正直言って想像すらしていなかったのだが、もうそれを言っても始まらない。

 こちらに冷たい視線を向けてくるシンシアにジロリとガンを飛ばし返した弘樹はソファへと戻るとドスンと勢い良く腰掛けた。


「まぁ、ともかくこれではっきりしたわい」


 この短い間にすっかり歪な形になってしまった己の髭を撫で付けたルキウスも、そのまま自分の服に付いた埃を軽く払って近くの椅子に腰を下ろす。

 無理繰り髭を抜かれたのがよほど痛かったのだろうか、白い眉毛の下のしょぼくれた目がちょっと涙混じりになっているような気もしたが、弘樹は特に気にせずに足元の地面に転がって動かなくなった人形の破片をつま先で突くと


「これが魔物使いだってのか?」と言葉少なに問うた。


 弘樹の質問にルキウスは困惑の入り混じった複雑な顔で暫し考えると、やがて静かに頷いて開発され過ぎた鉱山のように禿げた頭をぽりぽりと掻く。


「……うむ。どうやら、推薦状は間違っておらんようじゃな」


「単に爺さんがアレに嫌われてたってだけじゃねえのかよ」


「ほっほ。あれは感情を持たぬただの傀儡じゃ。儂が所有者として登録されておったから、本来は儂の命令しか聞かぬ筈なのじゃが」


 そこで言葉を切った学園長は、部屋の隅で動かなくなっている人形の残骸へチラと目をやり、何かを諦めるように大きく息を吐いた。

 その表情は深刻そのもの、まるで己の余命でも宣告されたかのような顔にさえ見えて、一体何がそんなに気になるのかが分からない弘樹に学園長は言葉を続ける。


「登録されておらぬお主の命令を聞いたばかりか、登録されていた筈の儂の命令を聞かなくなった。これはもう間違いあるまい」


 間違いない、と言われても、あんな人形一つを操れるから何だというのか。汚らしい人形に命令を聞かせられるとしても、別にそれで何かが得られる訳でもない。

 強いて言えば散髪屋くらいにはなれるかもしれないが、恐らく客は今の学園長の髭のように全員が虎刈りにされる事だろう。

 どうでもいいとまでは言わないが、正直これが出来るからと言っても何ら嬉しくないというのが正直な所で、何をそんなに騒ぐ必要があるのかと呆れていた弘樹は、ふとこちらを向いたルキウスに


「指を見てみなさい」と言われてまだ血が僅かに出続けている己の指先に目を向ける。

 すると、つい先ほどまで爪の表面に浮き上がっていた赤い線がいつの間にか綺麗さっぱり消え去っており、それを見た弘樹は驚きの声を上げた。


「模様が、消えてるぞ」


「魔物が息絶えると契約も消滅する。……言い伝えの通りじゃな」


 言い伝えの通りだと言いながら、当の学園長の表情が晴れない理由は何なのか。その言い伝えとやらが一体何を言っていたのかは知らないが、たかが薄汚い人形を操れるだけでそんなに深刻になる必要があるとも思えない。

 確かにあそこまで自在に動くような人形は日本どころか地球上何処を探してもないだろうが、どうせあんな薄汚れた布に包んだだけの乱雑な扱いをされているような代物なのだから、ここらではさして貴重でもないのだろう。そんな物を操れたところで特に何か凄いことが出来る訳でもなし、多少驚きはしたが自分が人形を操れることを知った所で何ら益がある訳でもない弘樹には、目下何よりも先に確認しなければならない事があるのだった。


「それで学園長、如何しますか?」


 誰も彼もが無言のままで重苦しい静寂に包まれていた部屋の中、まず話を切り出したのはシンシアの硬質な声。深く考え込んでいたらしいルキウスはそこで顔を上げて、困ったように頭を掻くと椅子に座ったままの弘樹にチラと目線を向けてうーむと唸る。


「推薦状も言い伝えもどちらも正しい事が確認されてしもうた以上、このままという訳にもいかぬじゃろうが。……どうした物かのう」


「ちょっと待て。推薦だの入学だの魔物使いだの、そんな話はどうでもいい。まずこれだけは聞かせろ。俺は家に帰れるんだろうな?」


 魔術とやらがある別の世界に来てしまった。そして自分はどうやら魔物使いとやらの力があるらしい。これはもう疑いようがないというか否定しようにも否定しようがなく、どうにも動かせぬ現実であった。

 実際、獣の耳をした少女や宙を浮かぶ推薦状、一人で歩き回る人形を見て、挙句の果てに自分の血がその人形を自在に操る所まで目の当たりにしてしまった以上は否が応にも認めざるを得ない。


 だが何よりも問題なのは、来たからには当然帰らなければならないという事実だった。今日は日曜で通っている学校は休みだった筈だが、明日からは普通に授業があるし、流石にいつまでも帰らないという訳にはいかない。

 しかし、弘樹の問いに一瞬シンシアと気まずそうに視線を交わらせた学園長は、やがて言い難そうに


「……大変すまん事だとは思うが、それは出来ぬ」と頭を振った。


「はぁあ!?」


「この推薦状に使われておる異界からの転送魔術は恐らく千年も前に作られた物でな。資料もなく現代のあらゆる魔術研究でも異界からの転送魔術など再現に成功した例はないんじゃ。一体どういう方法を使っているのか、儂らにもさっぱり分からぬでな」


 呆然としたまま、まるで話の内容を飲み込めていない弘樹に、学園長はそこでゴホンと一つ咳払いをすると


「つまり、早い話が今のワシらはとてもお主を送り返す事は出来んのじゃよ」


 そう、とんでもない事実を告げたのだった。


「なっ、だっ、ええええええええっ!?」


 大量の書物と書類に囲まれた部屋の中にわんと裕樹の悲鳴が響き、壁に掛けられていた肖像画が勢いで一つ床へと落ちる。

 何処か遠くで鳥か何かが不可思議な鳴き声を上げた気がしたが、そんな事になど構っていられない。あまりの事実に仰天した弘樹は椅子の上に立ち上がって机を踏み越えながら学園長に迫っていくと口角泡を飛ばしながら騒ぎ始める。


「うっそだろ!? じゃあ俺帰れねえの!? マジで!?」


「誠にすまぬとは思うがどうにもならんのじゃ」


「冗談じゃねえぞオイ!」


 こんな訳の分からない世界に連れて来られた挙句、帰れないなんて予想もしていなかった弘樹が絶望の声で叫ぶも、ルキウスも困った顔で目を逸らすばかり。

 横のシンシアも苦りきった顔で、溜め息を吐くと気まずそうに目を逸らしつつも弘樹と学園長の間に割って入った。


「仕方がないだろう。推薦状が作られたのは既に千年前。現代では転送魔術は禁術に指定されているし、そもそも異界からの転送など現代の魔術では再現など出来る筈も――――」


「一方的に連れて来て返さないとかなんだそれ! 拉致だ拉致! 誘拐だ!」


「元はと言えば、お前が内容を読みもせずに承諾するからで」


「やかましい! こんな幼稚園児が適当に考えたような字で書くんじゃねえ! 読める訳ねえだろこんなの!」


「お主の言い分も分かるが、今の我々にはどうしようもないのじゃ。大変済まないとは思うが……」


「じゃあどうしろってんだよ! このまま見知らぬ場所で路頭に迷えってのか!?」


 決死の表情で訴える弘樹の問いに少し考える素振りを見せたルキウスは、ぽんと一つ手を打って


「では一先ず、この学園に入学してみるというのはどうじゃろう」と、唐突な提案をした。


「は?」


 目を白黒させる弘樹に学園長は我ながら名案だと言わんばかりに先ほどの推薦状を指し示すと、その内容を指差しながら告げる。


「お主は、推薦状の力でここへ来たのじゃ。つまり当然、この探索者学園への推薦入学の資格を有しておると言える」


「入学……?」


「一般入学とは違い、推薦状で入学した者は学費などが一切掛からぬのじゃ。学園の生徒には市内で様々な待遇も与えられるし、卒業後は国内における市民権も与えられる。卒業すれば探索者としての一通りの技術や知識も得られるし、そうなれば生活にも困らないと思うがどうじゃろう―――ぐぇっ!?」


 にこやかに説明する学園長の胸ぐらを掴んだのは裕樹の腕だった。まるでヒキガエルのような声を上げた老体をガクガクと揺さぶりながら、裕樹は目の前で揺れる皺だらけの顔にガンを飛ばして詰め寄る。


「ふざけんなよお前……俺は帰りてえんだよ。家に! 帰りてえんだよ!」


「そ、そんな事言われても……」


「お、お前! 先ほどから学園長に何という態度を!?」


 ガクンガクンと揺さぶられながら心底困り果てた声を出す学園長に、シンシアは慌てて狼藉者を止めに入った。が、裕樹はその手を跳ね除けて更に叫ぶ。


「やかましい! こんな怪しげな聞いた事も無い学園に通う前に、俺も通っている学校があるんだよ! ただでさえ最近はサボってばっかでヤバいのに、これで出席日数足りなくて留年したらどうすんだコラ!」


「ま、まぁ落ち着きなさい」


「これで落ち着いていられるか! こんなわけの分からない場所に連れて来られて、挙句帰れないだと!? お前らのせいだろうが! 推薦状だろうが別の世界だろうが知った事か! さっさと俺を元の場所に戻せ!」


「……し、シンシア先生」


「はい」


 胸ぐらを掴まれ首を締められた自分の顔色が赤から青に変わり始めたことで流石にマズイと思ったのか、ルキウスの辛うじて絞り出すような声にシンシアが素早く反応する。


「みゅぎゃっ!?」


 銀色に輝く籠手で固められた拳が一閃すると同時、またも一瞬で後頭部に衝撃が走り、裕樹は尻尾を踏まれた猫のような声を出しながらもんどり打って再び地面に卒倒する事になったのだった。

 完全に背後から攻撃される格好になった弘樹は、おもいっきり床に突っ伏した状態で転がる。ぐわんぐわんと揺れる視界の半分を赤い絨毯が占め、それでも弘樹が頭を抱えながら身体を起こすと、向こうでもルキウスがどうにか立ち上がろうとしているところだった。


「やれやれ。弘樹君、少しは落ち着いたかね?」


「これが落ち着いてるように見えるか? 老眼鏡買った方がいいぞジジイ」


「まぁ、ひとまず会話が出来る程度には落ち着いたようじゃな」


 穏やかな問いかけにも殺気丸出しで睨み付ける裕樹に、ルキウスは白い長髭を揺らしながら飄々とした態度で答える。

 今度こそこの手で全ての髭を千切ってくれようかとも思ったが、ルキウスの横に立つシンシアはまたいつこちらが襲い掛かってくるか分からないとばかり腰の剣に手を置いていつでも抜けるように構えていて油断がない。


 次に同じ事をすれば、今度こそ先ほどの人形のようにその場で叩き切られる事になるかもしれず、仕方なく立ち上がった弘樹が乱暴に椅子へ座ると、ルキウスはこほんと咳払いをして何事もなかったかのように話を続ける。


「さて、お主が言う所の元の世界に戻る方法じゃが……実は今すぐは無理でもこのまま完全に不可能という訳でもない」


「本当か!?」


 希望に輝き身を乗り出して問う裕樹の姿に、何か後ろめたい事でもあるのかルキウスは顔を逸らすと小さな声で


「まぁ、ちと可能性の低い話ではあるがの」


 と、ボソボソと呟いた。確率が低かろうがどうしようが、生まれた場所へ二度と戻れないなんて状況に比べればまだマシである。

 多少の無茶は承知の上、何か可能性があるのならと弘樹は机の上に乗り上げそうになりながら食い気味で「教えろ!」と叫んだのだった。

 そんな裕樹の言葉に答えたのは、腕を組みすぐ傍の壁に背を預けながら黙り込んでいたシンシアの蒼い瞳。


「さっきも学園長が仰っていただろう。これは遥か昔の技術で、現代でも再現できていないと」


 よく聞いていなかったが、そう言えばそんな事を言っていたような気もする。裕樹がコクコクと頷くと、シンシアは一つ溜息を吐いて言葉を続けた。


「そういった古代の失われた技術に繋がる遺物を見つけ出すのも探索者の仕事の一つだ」


「うむ。古代のアーティファクトなどには凄まじい力を持った物もある。もしそういった物を見付けられれば、あるいはお主の居た世界への道が開けるやもしれぬ」


「意味が分からん。俺にどうしろってんだ?」


「端的に言えばこの学園で学んで探索者になれということだ。探索者として地下深くや魔力の濃い場所に足を踏み入れていれば、いずれそういった珍しい遺物や異界に繋がる手がかりを得られる可能性もある」


「さっきから言ってる、その探索者ってのは何なんだよ」


 探索者学園だの探索者になれだの、それが一体何なのかも分からなければ決めようもない。そんな裕樹の問いに、髭を撫でて何かを考え込んでいたルキウスが楽しそうに口を開いた。


「おぉ、お主も探索者に興味があるのじゃな。簡単に言うと冥宮のような魔力が濃い場所を探索して様々な物を探してくる仕事じゃよ」


「探してくる仕事?」


「うむ。様々な素材や魔具、魔鉱石など我々の日々の生活に無くてはならない物を手に入れる事を生業にしておる。一昔前の言い方で言えば冒険者、といった所かの」


「推薦状に選ばれる人間というのは非常に少ない。お前はそれに選ばれ、しかも実際に魔物使いとしての才覚があるのだから、探索者としてそれなり以上にはなれる可能性は高いだろう。決して無理な話でもない筈だ」


 探索者、アーティファクト、冥宮、魔具、魔鉱石、冒険者……湯水のように次々と出てくる聞き慣れない単語の意味は分からないが、どうやら先ほどの人形を操った自分の魔物使いの才能とやらが使えるらしい。

 具体的に何をしなければならないのかはさっぱりだが、とりあえず何かの手掛かりを探してくるらしいとだけ理解した弘樹は、シンシアと学園長、それぞれの話を聞きながらどうしたものかと考えていた。


 こんな訳の分からない世界に突然連れて来られて、帰る方法もない以上は自分で帰り道を探すしかないというのは不本意ながら致し方のないことではある。


 まぁ最悪、先ほどの人形みたいな奴を代わりに働かせればどうにかなるかもしれない、と内心で消極的な判断を下した弘樹に、そんな胸中を知ってか知らずか、じっとこちらを見ていた学園長がニコニコと人の良さそうな笑顔で口を開いた。


「まぁお主が将来そのまま探索者になるかどうかは学園で学びながら決めればよかろう。今はそれより目下の生活、今日からの住む場所も食事も必要じゃ」


 確かに考えてみればこちらで生活する上で金もなければ知識もない身寄りもないの無い無い尽くし、右も左も分からない場所でいきなり宿無しというのは流石に厳しい物がある。

 学園とやらがどんな物なのかさっぱり分からないが、少なくともこの世界がどんな場所なのかくらいは学べるだろうし、それくらい知らなければ帰る帰らない以前に野垂れ死んでしまいかねない。


「あまり広くはないがこの学園に入学すれば寮もあるし、昼だけにはなるが学生が無料で食べられる学食もあるんじゃ。少なくとも食と住まいは保証されるという訳なんじゃが」


「入学はいいとして、メシが昼だけってこの俺に一日一食で過ごせってのか」


 ただでさえ訳の分からない場所に連れて来られて閉口しているってのに、それに加えて食事が一日一食なんて耐えられない、と抗議した弘樹に、横で話を聞いていたシンシアは呆れたような声を上げる。


「少なくとも飢え死にするよりはマシだと思うが?」


「ふざけんな! なんで俺がそんなひもじい目に遭わなきゃならねえんだよ!」


「ふーむ、確かにそれもそうじゃの。どうしたものか……」


 そこで暫し考え込んだ学園長は、ふと何かに気が付いたのかポンと膝を打って


「おぉそうじゃ。奨学金という手があったわい」


 と、声を上げる。金という単語に反応した弘樹はすぐに学園長へ問いかけた。


「奨学金? 金が貰えるのか?」


「うむ。ルオン金貨で二百枚。新たに生活を始めるには十分すぎるほどじゃ。優秀な生徒に我らが王国から施される就学資金じゃよ」


「……まぁいい。ならそれをさっさと寄越せ」


 優秀な生徒、とはまさに俺のためにあるような物ではないか。正直この学園とやらに通うのもまだ納得した訳ではないが、ただ他に方法が無さそうなのも純然たる事実な訳で。

 なんだか良く分からないが俺は推薦状とやらに選ばれたらしいし、魔物だかなんだかさっぱり知らないが操れる才能があるらしいし、奨学金とやらを受け取るのにこれ以上の人材はいないだろう。

 しかし、当たり前に金貨とやらを自分が受け取れると思っていた弘樹の期待は


「うむ。奨学金は試験こそ受けなくてはならんが、お主なら合格できるじゃろうて」というルキウスの言葉であっさりと打ち砕かれた。


「おい、試験受けなきゃなんねえのか!? 俺は推薦じゃねえのかよ!?」


 正直に言ってお世辞にも成績が良い方だとは言えない裕樹は、試験という言葉を聞くだけで蕁麻疹が出そうで眉を顰める。

 ましてや、こんな魔術だの魔物だのなんて信じられないような物が当たり前に存在しているらしい場所で受ける試験など内容も分からない上に対策のしようもない。


 そもそもにして、こんな場所に無理矢理連れて来られなければそんな試験なんて受ける必要はなかったのである。それを推薦という形で無理矢理入学させておきながら奨学金は出しませんってのはどういう了見なのか、弘樹にはさっぱり分からなかったがルキウスは当然のこと、という顔で話を続ける。


「奨学金は推薦による薦抜入学とは別の仕組みなんじゃ。すまんが、試験は受けて貰わんとならんのぉ」


「ふざけんな。どんな試験かも分からないのに受けてどうすんだ」


 文字も読めない奴が試験なんて受けても自分の名前すら書けないのだから受かる訳もない。

 というか、この世界がどんな場所なのかもまるで分かっていないような身の上の何を試験しようというのか、言ってみればこちらは生まれたての赤子も同じ右も左も分からぬ身なのだ。


「アホくせえ試験なんて特例として合格にしろ。この俺を拉致した罪は特別にそれで許してやる」


「さっきからなんでそんなに偉そうなんだお前……?」


 どっかと手近なソファに座り直し、ふんぞり返りながらそう言ってのけた弘樹を見て呆れた声を上げたシンシアの代わりにルキウスが苦笑しながら答えた。


「まぁそう心配せずともよい。お主の状況は儂らも分かっておるでな。試験ではその辺りもちゃんと配慮をすると約束しよう」


「……ったくしょうがねえな。分かったよ」


 どんな試験をやるのか知らないが、もし俺の目の前に読めない文字で書かれた試験問題なんて持ってきたら、即座にぐしゃぐしゃに丸めてあのジジイの口の中に突っ込んでやろう、と内心で呟きながら了承すると、学園長は満足げに数度頷いた。


「うむ。では決まりじゃな。試験は早速この後やるとして……まずは制服の手配からかのう。シンシア先生、そちらはお願いできますかな」


「はい」


 何か物言いたげにこちらを見ていたシンシアは、学園長にそう言われて頷くと部屋を出て行く。

 どっこいしょ、と声を上げながら立ち上がった学園長もその後に続いて部屋を辞そうとした所を途中で振り返って


「ああそうそう、そちらのお嬢さん。ええとミユさんだったかの?」と急に思い出したように声を上げた。


「は、はい」


 そこで急に呼ばれた少女が弘樹のすぐ横で返事をして、驚いた弘樹が顔を向けるといつの間にか獣の耳をしたあの少女は弘樹の横に立っていた。

 ずっと喋らなかったので殆ど存在を忘れ掛けていたが、この少女は最初からずっとここに居たのだった、と考えた所でちらとこちらに向けられた萌黄色の瞳と視線がぱちりと絡み合い、何に驚いたのか即座に眼を逸らされる。


 そんな少女の姿を見ていて、そういえば自分が先ほどこの少女の耳を触りまくった挙句、事故とはいえ地面に押し倒すような真似をしてしまったのだったと思い出した。トンでもない話が次から次に流れ込んできたので忘れていたが、警戒されるのは当然といえば当然の話で。


「お主の今後についても考えねばならぬのう。すまぬが二人とも、少しここで待っていてくれぬか」


「はい、すいません……」


 そう言って部屋を去って行った学園長の背中を見ながら、しょんぼりと肩を落とした少女はぺこりと頭を下げ、弘樹はそういえばこいつは何故ここにいるのだろうかと考えを巡らせる。

 先ほど目を覚ました時、この少女はどうやら自分を介抱してくれていたらしかったが、この小さな成りで教師という事はないだろうし、一体どういう立場なのか。

 自分が意識を取り戻した時、本当に安心したように笑っていたキラキラと輝く笑顔を思い出した弘樹は、肩を落とした少女の横顔を暫く眺め続けていた。



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