探索士学園
絶句、とはまさにこういう状態を言うのだろうか、話を聞いていたシンシアも無表情ながら何処か顔を引き攣らせ、横にいたミユも僅かに顔を青褪めさせて口を噤んでいる。
そんな中、一人弘樹は片眉を吊り上げて深刻な表情を浮かべる学園長を指さしながらこれ見よがしに声を上げた。
「おい、誰かその魔法とやらでも何でも使って、この爺さんの言ってる事を翻訳してくれ。何だ異界って」
一体何を言っているのかさっぱり理解できなかった弘樹が問うと、相変わらずの冷たい表情に僅かな強張りを添加したシンシアが静かに口を開く。
「……要は有り体に言えばお前が別の世界からここに来た可能性があるという事だ」
「べ、別の? 別の世界って、まさかここは俺の居たのとは別の世界だってことか!?」
「飽くまで可能性の話だがな」
別の世界、とはどういう事なのか。あまりに突拍子もない話で理解が全く追いつかない弘樹の頭ではあったが、しかし同時に何処か自分の中で腑に落ちる感覚も確かに存在していた。
今も横に座っている獣の耳をした少女、あの耳は暖かさも動きも感触も間違いなく本物だった。誰に触れられた訳でもないのに勝手に動き浮き上がり宙を飛んだ紙だってこれまでの人生で見たことがない。
「この学園を知らないどころか、王国の名も大陸の名も聞いた事がなく、あまつさえ魔術さえも見た事がないというのは尋常ではない。少なくとも『この世界』ではな」
そう皮肉るように呟いたシンシアの言葉がぽつりと消える中、どうやら自分は何かとんでもない事に巻き込まれているらしいと確信した弘樹は軽く眩暈を覚えながら頭を抱えて口を噤む。
聞き覚えのない地名、剣や鎧を当たり前に着ている女、魔術や魔法を当たり前に信じている連中。別の世界という単語によって、これまでバラバラだった全てのパーツが組み合わさり、一枚に繋がっていく感覚。
受け止めきれない現実に押し潰されそうになっていた弘樹をチラと見た学園長は僅かに視線を伏せると、横のシンシアに向けて厳かに呼びかける。
「じゃが何より重要なのはそこではない。シンシア先生、中を読んでみてくれぬか」
弘樹にとって自分が別の世界に迷い込んでしまったという事以上に重要な話など無かったのだが、呼び掛けを受けたシンシアはこちらに一瞬だけチラと青い視線を向けると手元の推薦状に目を落とす。
「……魔術による特性分析鑑定の結果に基き汝を薦抜入学生として推薦す。名はヒロキ・ムトウ。年齢は15歳。性別は男、職級契約なし、加護は――――」
ルキウスに促されて折り畳まれていた紙を開き中に書かれている内容をスラスラと読み上げていくシンシアと呼ばれた鎧女の声は、途中から急に窄まっていき、やがて止まった。
暫しの沈黙の後、シンシアの柳眉がゆっくりと更なる困惑と驚愕、いや最早それを超えた恐怖にも近しい形に歪んでいく。
「加護は、魔物使い……!?」
「は?」
一人状況が分からないまま弘樹の発した疑問の声は、背後で獣耳の少女が発した息を呑む声にかき消された。
静まり返る室内。自分以外の誰一人として声を上げない中、時計のような不思議な機械が定期的に動く僅かな稼動音だけが辺りを包む。最初に口火を切ったのは紙切れを手にしたままのシンシアだった。
「これは……一体?」
「これが彼と共にこの場所へ現れたのじゃ。儂も見た時はまさかとは思うたが」
学園長の瞳は先ほどまでの朗らかな笑顔から一転、真剣そのものの色でじっと机の端を見詰めたまま動かない。
「そもそも推薦状が人間を召喚するなど、しかも異界からなんて聞いた事もありません。そんな事があり得るのですか?」
「ただの伝説だと思うておったがの」
シンシアの問いに自嘲気味にそう呟いた学園長は、一本の髪も残っていない頭をぽりぽりと掻くと僅かに目を伏せゆっくりと語り始める。
「記録によればこの学園が出来たばかりの頃、今から千年ほど昔の話ではあるがどうやら確かにそういう試みはあったようじゃ。その実験的に散布された推薦状が実際に異界から何かを運んだ例などこれまでただの一度も無かったのじゃが」
「何かの間違いでは? 流石に推薦状で異界から人が、それも魔物使いが召喚されて来るなんて俄には信じられません」
先ほどまでの無表情で冷徹な雰囲気は何処へやら、困惑と驚愕の入り混じった顔で学園長を見ていたシンシアは己の言葉を口内で噛み締めるように低く呟いた。
まるで自分が触ってはいけない物だと気付いたような雰囲気で推薦状を机の上へと戻したシンシアは、すぐに呆然としている弘樹の方へと振り返る。
「お前は本当に魔物使いなのか?」
「は? 何を言ってんだ?」
「隠さず答えろ!」
「知らねえよ! なんだマモノツカイって!」
今にもその腰の武器を抜きそうな剣幕で詰め寄ってきた美貌に、弘樹が思わず悲鳴混じりの否定の声を上げると学園長はその老いた目を僅かに光らせて問うた。
「ムトウ君。お主は魔物使いという存在を聞いた事がないのかね?」
「そんなもん知らん!」
「これはあらゆる魔物を思いのままに己の手足の如く操ってしまうという、特別な能力を持った者の事なのじゃが」
「マモノ?」
「この推薦状という物は、推薦される者の才能や技量などが表記されるようになっておっての。結論から言うとムトウ君、お主はその魔物使いの才覚をもっている可能性があるのじゃ」
魔術だ魔法だと話をしてきた挙句、今度は魔物だと。こいつらは一体何処の世界の話をしているんだと呆れた弘樹はふと、そういえば別の世界から来たのはむしろ自分の方なのかもしれないのだったと思い直した。
しかし魔物なんて御伽噺やゲームの中に存在する物であって、現実に見たことなんてある訳もない。というかなんだ魔物使いって、サーカスの猛獣使いのように鞭でも使って巨大な化け物を従えている姿を想像した弘樹は、到底自分にそんな才能があるとは思えずに首を振る。
「この魔物使いという才能は極めて珍しい。もしその才をお主が本当に持っておるのであれば、推薦状に選ばれるのも当然という物なのじゃが」
「だからそんなモン知らん。魔物なんて見た事もないし操ったこともねえっつの」
「ふーむ。なるほどのぉ……ちと待っておれ」
そう言った学園長はここで初めて席を立って部屋の奥へと歩き始めた。絨毯の上に乱雑に並ぶ大量の書類やら本の束、何に使うのか良く分からない真鍮色の器具の間を進んでいった学園長はやがて、部屋の一番奥の棚を開けて中を探し始める。
待つこと暫し、ようやく戻ってきた学園長が何やら奥の戸棚から出して来たのは、重厚な作りをした一抱えもある大きく黒い木の箱だった。
小さな装飾が施された蓋を薄っすらと覆う埃にふっと息を吹きかけ、舞い上がった埃が薄暗い部屋の中でキラキラと輝く中、皺の目立つ手で軽く払った老人はその箱を弘樹たちの前の机に置くと蓋をゆっくりと開いていく。
「なんだ、このボロ布は?」
精緻かつ荘厳な作りの箱の中に光が差し込むと、箱の中に収められていたのは薄汚い布の塊だった。灰色く薄汚れたハンカチよりも少し大きな布で円筒状に巻かれた何か。
訝しむ弘樹を他所に、学園長は幾重にも絡み巻き付いた灰色のボロ雑巾をゆっくりと丁寧に解いていく。その様子を黙って眺めていた弘樹がまるでミイラだな、と内心で呟いた直後、薄汚い布にぐるぐる巻きにされていた奥から本当に人の手らしき影が現れて思わず声を上げた。
「うげっ、なんじゃこりゃ!?」
「おお、暫く放置しておったのでどうなっておるかと思ったが、まだ魔鉱石は残っておるようじゃな」
思わず仰け反る弘樹を他所に、学園長が何処か楽し気にそう言って持ち上げたのは、一体の古びた人形だった。
僅かに赤みがかった茶色い木製で古びた小さな帽子と同じく小さな洋服を着て背丈は人間の膝ほどもないそれは手足の各所に間接があり、持ち上げられると手や足が糸の切れた操り人形のように力なくぐらぐらと揺れる。
こんな汚らしい人形は大人はもちろん子供の遊び道具にすらなりそうもなく、仮にそこらの子供へクリスマスにでもこんなものを与えたらきっと呪いの人形か何かと思われてたちまち泣き叫ぶ事は間違いないだろう。
「おい、そんな汚い人形をどうしようってんだ?」
しかし学園長はそんな弘樹の言葉に悪戯っぽい少年のような目でにこりと笑い、人形の背中にある小さなつまみをゆっくりと捻った、その瞬間。
これまでその皺だらけの腕の中で力なく項垂れていたその人形が、まるで電撃でも食らったかのようにビクリと震え、肩や足、腕を無秩序にビクつかせながらゆっくりと顔を上げる。
「うおぉ!? 動いた!?」
驚きの声を上げる弘樹を横に、目覚めた状態の人形を学園長がそっと机の上に置くと、人形は足下の感触を確かめるように何度かその場で足踏みをして周囲を見回すように顔を動かしてから軽快な足取りで歩き始めた。
山と積まれた本や書類の谷間を飛び越え、広げられたままの地図の上を踏み歩き、ねじ車が幾つも刺さった謎の機械を乗り越え、雑多に散らかった机の上を歩き回るのに、まるでタップダンスでも踊るかのように軽快な足取りを見せている。
「すごい……小型の造魔ですね」
先ほどまでシンシアの背後に隠れながらこちらを覗き込むように見ていた尻尾の少女も、机の上で軽快に動き回る小さな人形に思わず興味を惹かれたのか小さく感嘆の声を上げていた。目を丸くして驚いている二人を見て、孫にプレゼントを披露したかのような何処か得意げな顔で学園長が笑う。
「ほっほ、その通り。これは造魔と呼ばれる人形での。言うなれば人工的に作られた魔物じゃ。ちと安物じゃから小さくて力も弱い、ただの玩具みたいな物じゃがのう」
玩具、と言いつつもしっかり二本足で立って歩き回っているその姿は、本当に生きているようにも見えて、弘樹は目の前で自分を見上げるその小さな人形から目を離せなかった。
本当に生きているのかそれともただの造り物なのか、弘樹が興味本位で試しに指先で突いてみると、人形は押された方向に数歩歩いて崩れた姿勢を即座に立て直しバランスを取る。そして、何かを訴えかけるようにじっとこちらに顔を向けてきた。
日本はおろか世界広しと言えども、こんな器用に歩いて動けるロボットなど居ただろうか?
見たところではモーターもないし配線もない、ただの木と糸で出来ただけの安っぽい人形が、ここまで精巧に動けるというのはどういう仕掛けなのかさっぱり分からない。
先ほどの飛び回る紙切れといい、これが魔術とやらなのだろうか、と信じられない物を見る目で人形を見つめる弘樹が面白かったのか、学園長は何処か悪戯っぽい光を宿した目で満足そうに笑うと
「ではムトウ君、これを操ってみてくれぬか?」
と、唐突な要求を口にした。言われた弘樹は数秒間その場に固まる事暫し。
「あだだだだ!」
弘樹は返事の代わりに学園長の白い髭をむんずと掴み、ぐいと引いて悲鳴を上げる学園長のしわがれた顔にガンを飛ばすように顔面を近付けていた。
「お前、ボケてんのか? それとも耳が遠いのか? 俺は魔物使いなんて知らねえって言ってんだよ!」
「痛い痛い! 引っ張らんでくれえええ!」
「何をしているこのバカ!」
「ぐへえっ!?」
眼前で行われた突然の暴虐行為に呆気に取られていたシンシアも、学園長の悲鳴で我に返ったらしい。目にも留まらぬ速さで腰の剣を抜き放つとその柄で弘樹の後頭部を思い切り引っ叩いた。
背後からの急襲に一瞬で暗転した視界にパッと鮮やかな星が飛び、その場に昏倒した弘樹に向けてシンシアは怒りの声を上げる。
「学園長に無礼だろうが!」
後頭部を打たれ死体のように絨毯の上へ横たわる弘樹にそう怒鳴るシンシアの背後、倒れる弘樹と同じく床に転がっていた学園長はひいひいと悲鳴混じりで己の髭を撫でつけながらゆっくりと起き上がった。
拳で自らの腰を軽く叩き、杖を付きながらどうにか立ち上がった学園長は、深緑のローブに付いた埃を軽く払いながら話を続ける。
「ほー痛かった……いやいやムトウ君、推薦状が正しいのかどうかを確かめるにはこれしかないんじゃよ」
「知らねえよ何が推薦状だ。魔物使いなんて聞いたこともないわ!」
「お主が本当に魔物使いの才能を持つ者なら、この造魔を自由自在に、それこそ手足のように操れるはず」
「だーから知らねえっての! そんなの初めて見たし、操り方なんて聞いた事もねえ!」
こっ酷く殴られた頭を抱えながら埃っぽい絨毯の上に転がっていた弘樹が怒った声で叫び返すが、学園長は少しも怯んだ様子なくニコニコと
「いやいや、この推薦状がもし正しければ、お主の手にはその能力がある筈なのじゃよ」
「俺の、手に? 能力?」
意味が全く分からない弘樹は頭を抱えながらも立ち上がり言われた自分の掌を見てみるが、特に変わった様子もない普段どおりの自分の手でしかなく。
この手が一体何だというのか、説明を求める目を学園長に向けると、当の学園長は一つ頷くと横に立つ鎧姿の女へと視線を向けた。
「シンシア先生」
「はい、学園長」
何を言うでもなく名前を呼ばれただけで学園長の意図を汲み取ったらしいシンシアは返事をするや否や自分の脇に提げていた革製のベルトから一本の短剣を抜いて弘樹の下へと歩み寄り
「振り回すなよ」
冷たくそう告げて抜き身のそれを手渡した。全体的に細身でありつつ両刃の付いたその短剣は、刃渡りが弘樹の掌より少し長いくらいでありながら実際に手に持つとずっしりとした重みを有している。
大きく広がった鍔と柄の部分には黒い金属で装飾とコーティングをされた何かの生物の骨のような素材が使われていて、適度な硬さとしっとりとした手触りは掴み易く安定している。その感触や重厚感はこれが装飾品などではない実際に使用する事を考えた設計なのだという事を雄弁に語っていて、弘樹はその刃先の怪しい煌きをしげしげと眺めて呟いた。
「なんだこりゃ……ナイフか?」
何故いきなり刃物を渡されたのか、意味が分からない弘樹が短剣をこねくり回して観察してみても特に変わった所はなく、これが魔物使いとやらとどう関係があるのか全く理解できない。
まさかこの刃物を使ってあそこの人形を脅せとでも言うのだろうか。
机の上でまだ意味もなく歩き回っているボロ人形を前に言う事を聞けと居直り強盗の如く刃物で脅している自分の姿を想像して心底アホらしくなってきた弘樹が説明を求める目を向けると、シンシアはさっさとしろと言わんばかりに懐から取り出した白い手巾のような布切れを乱暴に投げて寄越した。
「魔物使いが魔物を支配し己の手足として扱う、その契約には魔物使い自身の血が必要になると言われている」
「……つまりどういうことだ?」
「ちょこっとでええんじゃ。そのナイフでちょこっと血を出してくれれば」
「はぁ!? ふざけんな! メンヘラ女じゃねえぞ!」
今し方投げ渡された布はつまり止血用だったらしい。ようやく自分が何を求められているのかが理解出来た弘樹が声を荒げて抗議するが、学園長もシンシアも全くたじろいだ様子はなく平然とこちらを見るばかり。
どころか、そういう反応は予想通りだったといわんばかりに腕を組んだシンシアは、まるで幼子に言い聞かせるような落ち着いた声色で話し始める。
「ムトウ、これはお前の為でもある」
「俺の?」
「もしこの推薦状が正しく、お前がその意思に反して転送されてきたのであれば、この学園にも一抹の責任はあるだろう。だが、この推薦状が本物なのかどうか、それを確かめるにはお前に魔物使いとしての才能があるのかどうかを確認するしかない」
「……どうしろってんだよ」
「左手の指先辺りでよい。ちょこっと傷を付けて血を出させてみてくれんか」
「んだよそれ……」
なんで魔物とやらを操るのに自分の血が関係してくるのか全く意味が分からないが、しかしこのままやらないと話が進みそうもなく、これ以上駄々を捏ねたところで事態が好転するとも思えない。
訳が分からん、なんでこんな事をと弘樹が独りブツブツ言いながらも渡された短剣の刃先に人指し指の先をグッと当てると、想像していたよりも遥かに容易くその鋼色は皮膚を突き破った。途端、赤い滴りが刃先を垂れ落ち袖を濡らす。
「痛ぢっ!? 結構鋭いぞコレ!?」
予想より深く入った刃先に思わず眉を顰めた弘樹が指先を見れば、小さな傷から真っ赤な血がだらりと垂れて床へと落ちていき、その様子を見てうんうんと頷いた学園長は血が滴り落ちる指先を止血用の手巾で抑えているこちらに
「十分十分。ではその血の付いた指で、この造魔に名前を書いてくれんか?」
「名前? 俺の名前を?」
またも意味不明な要求を行ったのだった。言われた意味をイマイチ理解できない弘樹が固まる中、人指し指から伝わるジンジンとした痛みと共に白い手巾が徐々に赤く染まっていく。
「魔物使いは己の血を使って魔物の身体にその名を刻み契約をすると言われておる。もし言い伝えが真実なら、契約によってその造魔はお主の意思に従うようになる筈じゃ」
「血で俺の名前を書くのか? コレに?」
目の前で突っ立っている人形には少なくとも記名欄のような物は見当たらず、こんなオンボロの何処に名前を書けというのだと不満げな視線を送ると、傍に立っていたシンシアが助け舟を出した。
「伝承では体の中央に書き記すそうだ。まぁ血で書く以上は垂れたりする可能性もあるし、多少は大きめに書いておいた方がいいだろうな」
「あぁもう分かった分かった。書きゃいいんだろ書きゃ」
こうなりゃヤケクソだ。マモノツカイだかリュウグウノツカイだかしらないが、これでこいつらの気が済むのなら書くだけ書いてやると手首まで垂れる血の雫が己の袖を濡らさないように捲った弘樹は、机の上で直立している人形の胴体に血の滲む左手で名前を書き始める。
ふと一瞬、ここに書くのは日本語でいいのだろうかとの疑問が頭を過ったが、先ほど見せられたミミズがのたくったような字など習った事もないので書きようもない。
素直に日本語で書く事にして木質性の胴体に指先から流れる赤い血をべったりと塗りつけて己の名前を書いていくと、木材の表面が予想よりも綺麗に成型されており滑らかな表面に血が良く伸びるせいか存外にスラスラと記名することが出来た。
「ほら、書いたぞ」
言われた通り人形の中央、腹の部分にデカデカと血で書いた『武藤弘樹』の文字は左手の指を使ったせいか少々不恰好ではあったが、逆にそれが妙な不気味さとおどろおどろしさを宿していて、本当にこれで正しいのかやや不安になった弘樹が振り返って聞くと
「うむ。では最後に契約相手、つまりこの人形にお主が口付けをして契約が完了となる」
「口付けって、これにキスしろってのか!? なんでそうなる!?」
血で人形に名前を書くというのも意味が分からず不満だったが、それどころか今度は眼前の汚らしい人形相手にキスまでしろという。こいつらがどういう思考回路をしているのか知らないが、生憎と自分にはそんな事をして喜ぶ趣味はないのだ。
またも突拍子もない事を言い出した学園長をジロリと睨んだ弘樹は手に持った短刀で机の上のボロ人形を指し示し
「何が悲しくてこんな古汚い人形にキスなんてせにゃならんのだ!」と抗議の声を上げた。
机の上で直立したままこちらを見ているそれは、見た目も汚らしい上に黴臭いし埃っぽいしキスどころか触れるのも躊躇いたくなるような不気味さである。まるで何かの罰ゲームのような要求ではあったが、しかし学園長は全く大真面目な顔で首を振って言葉を続けた。
「いやいや、口付けは最も古く原始的な魔術契約の手段なんじゃよ。ほれ、ゴブリンにされた王子様をキスで救うお姫様の話にも出てくるじゃろ?」
「俺がお姫様に見えるのかジジイ。お前さっきから適当な事を言ってるんじゃねえだろうな!?」
仮にここまできてただの冗談でした、なんて言い出した日には、このナイフであの学園長の額に俺の名前を切り刻んでやらないと気が済まない。
しかしここに至って真面目な顔を崩さないルキウスの横で、同じく真剣な顔をしたシンシアは腰に提げた剣の柄に油断無く手を置きながら机の上の人形を顎で示す。
「この状況で適当な事をさせる訳がないだろう。いいからさっさとやれ」
「だぁああ面倒くせえ! もう分かった分かった! やればいいんだろやれば!」
女とはいえ鎧を着込んだ、それも刃渡りの長い剣を持っている相手にこんな短剣で飛び掛かっても文字通りの一刀両断にされて終わりになるだろう事は想像に難くなく、仕方なく従う事にした弘樹は手元のナイフを引っ込めて人形の立つ机へと歩み寄る。
もしこれで何事もなかったら後で奴らのケツにこのナイフを投げ付けてやろう、胸中でそう決意した弘樹が机の上の人形に向き直ると、くすんだ茶色い木目の目立つボロボロのそれは相も変わらず不動の姿勢を貫いていた。
なんでこんな物にキスなんて、と胸中でブツクサ文句を垂れながら机の上で弁慶の如く突っ立って動かない古びた人形を持ち上げて顔を近付けると、己の血から漂う錆び臭さと古い木材特有の埃臭いようなかび臭いような妙な臭いが少しだけ鼻を突き、弘樹はちょっと眉間に皺を寄せる。
が、指先まで切ってしまったのに今更ここで躊躇っても仕方が無く、もういい加減こんな下らない茶番に辟易していた弘樹はバカバカしいどうにでもなれと半ば捨て鉢になりながら人形の頭にそっと己の唇を触れさせた。
無言、無音、無反応。特に何かが起きる訳でもなく、いつ止めればいいのか分からなかった弘樹が数秒の後に唇を離すと、人形にまだ付着していたらしい埃っぽい感触が口の中に僅かに残って不快感だけが後を引く。
「これでいいのか?」
人形を乱雑に机に放り出し、口元に残る埃っぽい何かを止血用のハンカチで拭きながら振り返った弘樹は、しかしルキウスとシンシア、そしてソファの隅に座っていた獣耳の少女の三人の視線が自分に向いていない事に気が付いた。
こちらを見ていた筈の三人は、まるで信じられない物を見るような目で机の上に横たわっていた人形を。いや、正確にはその人形と弘樹の指先の間の空間を見つめている。
一体何を、と視線の先を釣られるようにそちらを見れば、視界に飛び込んだのは蒼い光。今しがた血で書き込んだ人形の腹がホタルのようにぼんやりと、青白く光っている光景だった。
最初は弱弱しかったその光は見ている前で徐々に強くなっていき、やがてその光の発光源が自分の血で書き込まれた『武藤弘樹』の名前だと気が付いた頃、己の名前は更に青白く光りながら人形の胴体から空中へ文字通り煙のように浮かび上がり始める。




