探索士学園
「まさか王国の名を一度も聞いた事がないとでも言うつもりかお前」
「ねえよ。ある訳ねえだろ」
「お前が持って来た推薦状にもディナストラ学園の名がはっきり書いてあるが」
そう言って示されたのは先ほど弘樹の胸ポケットから飛び出した一枚の書状だった。もうさっきのように暴れたり飛び出したりするような様子はなく、こうして見ている限りでは先ほどの独りでに宙に浮かび上がった光景がまるで嘘のよう。
書状の中身は所々が少しばかり薄汚れてはいるものの罫線や枠取りで全体として正式な文書らしい精緻な印象を与えるレイアウトにはなっていて、紙切れを改めて受け取った弘樹はこれが推薦状とやらなのかとしげしげと眺め始める。
一番上には赤い蝋で描かれた豪華な紋章が派手派手しく飾られており、その中央には小さなコインのような大きさのくすんだ金属板が埋め込まれていて、何かの図式が薄っすらと刻み込まれているらしい。
そしてその下にはミミズがのたくったような丸や今にも崩れそうな家を思わせる三角形、ひっくり返った魚のような図形まで様々な形状の模様が子供に並べられたような適当さでびっしりと書き連ねられていた。
じっくり見ること数秒、どうやらこれは文字なのだろうという事だけは理解した弘樹が幼稚園児のお絵かき帳を見せられた気分で眉間に皺を寄せ、大真面目にこちらを窺う学園長とシンシアを狂人を見る目で見ながら推薦状とやらを指先で弾く。
「なんだこれ。何語だよ」
「聖式文字だ! まさかお前、その年になって未だに聖式文字を読み書き出来ないのか?」
「見た事もねえよこんな文字!」
原始人が適当に考えたような図形を並べて文字だと言い張られても、こんな物は生まれてからこれまで見た事もなければ聞いた事もない。
世界史の資料集で古代遺跡の欄にでも載っていそうな記号を読むような特殊な訓練を受けた覚えなど一度もなく、弘樹が推薦状とやらを突き返すとシンシアは野蛮人でも見るような哀れみの目でこちらを見て、横で黙ってそのやり取りを聞いていた学園長が今度は静かに口を開いた。
「ムトウ君。聖式文字を知らないということは、魔術の基礎を故郷で学んではおらぬということかの?」
「は? 魔術?」
唐突に出てきた予想外の単語に、魔術だなんて単語をこの時代に大真面目で口にする人間を見る事になるとは思わなかった弘樹は一瞬固まって聞き返す。
弘樹の返答に学園長はポカンとした顔を見せると数秒の間が開き、やがて半ば呆れた声を上げたのは先ほどからずっとこちらを疑惑の目で見ていたシンシアだった。
「おい、大概にしろ。聖式文字だけじゃなく、魔術まで見たことがないとでも言うつもりかお前は」
「ねえよ! ある訳ねえだろ! 何だ魔術って!」
半ば叫ぶように答えた弘樹の言葉を聞いたシンシアの能面は今度こそ驚愕の表情に変わっていた。
チラと横を見れば、獣の耳をした少女までもが信じられない物を見る目でこちらを見ている。まるで自分の感覚がおかしいかのような周りの反応に、ほんの少しだけ自分の正気を疑いたくなっていた弘樹に、ズイと近づいてきたシンシアが確かめるようにこちらの顔色を覗き込む。
「本気で言っているのか? その歳まで魔術の存在さえも知らないで生きてきたと?」
「当たり前だろ。お前らこそ魔術って正気なのか」
弘樹の答えに、シンシアは何か危ない人間を見てしまったかのように顔を顰めて、関わりたくないと言外に告げるように僅かに距離を取った。
どちらかと言えば魔術を見たことがないのかなんて平然と公言できる人間の方が余程危ない奴だと思うのだが、どうやらそういう当たり前の感覚は目の前の連中には通用しないらしい。
「うーむ。魔物使いの加護を有しておるなら魔術の基礎くらいは、と思ったのじゃが」
そう言って困ったように白い頭を掻く老人も、魔物や魔術という物が存在していると本気で信じているらしかった。
揃いも揃って完全にボケているのかそれとも危険なオカルト崇拝者なのか、どちらにせよいい歳こいて魔術なんて信じているような奴らがこの世に存在するとは思わなかった弘樹に、白く長い顎鬚を一つ二つと撫で付けながらしばし考えた学園長は話を続ける。
「ではお主の生まれは何処の国かね? 身に付けておる服装もかなり見慣れぬ物のようじゃが」
「国? 日本に決まってんだろ」
「ニホン……?」
裕樹の言葉にその場にいる全員が動きを止め、誰も彼もが互いに顔を見合わせて暫し、やがて周囲には困惑と当惑の入り混じった微妙な空気が流れ始めていた。
そんな反応が返って来るとは思って居なかった弘樹が自分の発言の何がおかしかったかを思い起こしてみるが、全て当たり前の話しかしていない。
「学園長、ご存知ですか?」
しかしシンシアの問い掛けに、老人は険しい表情でゆっくりと首を振った。僅かな希望を求めて横に座る少女の方を見ても困ったような様子で目を伏せるばかりで、裕樹はその予想外の反応に思わず声を上げる。
「ちょっと待て。日本を知らない? お前ら日本語喋ってるだろうが」
「ニホン、ゴ?」
弘樹の言葉に目を点にした学園長はソファの後ろに立つシンシアへ顔を向けるが、背後の壁へ寄りかかって話を聞いていたシンシアはその表情にありありと不審の色を浮かべたままこちらから視線を外そうともしない。
それを見た学園長はまたも顎鬚に手をやりながら瞑目を始め、どうしたものかと視線を彷徨わせた弘樹がふと横を見ると、恐怖と困惑の目でこちらを見ていた隣に座る少女が慌てて顔を伏せる。
この三人が嘘を吐いているようにはとても見えなかった。とすれば目の前のこいつらは日本語を喋っているにも関わらず日本語を知らない通じていない、どころか日本が何処なのかも知らないらしい。
出てくるのは聞いた事のない地名国名。動物の耳をした少女に、鎧姿に剣を携えた女。宙を飛ぶ手紙に見た事もない文字、そして魔術まで。
一体ここは何処なのか、自分は何故こんな場所にいるのか、何がどうなっているのか何一つ分からない弘樹が頭を抱えたその時、静まり返った部屋の中で先ほどから口を噤んでいた学園長がゆっくりと口を開いた。
「よろしい。ではまず聞いておきたいんじゃがムトウ君。この紙が何かは分かっておるかね?」
示された紙は先ほど弘樹の胸ポケットから飛び出した一枚の紙切れ。薄汚れて所々が擦り切れつつあるその紙は、先ほど学園長の前に飛びながら辿り着いて以来、全ての力を使い果たしたようにピクリとも動こうとしない。
また動き出したりしないだろうかと一抹の期待を抱いて指先で突いてみても何らの反応も示さぬ紙切れには、見たことのない模様が文字として書かれている以外に特徴らしい特徴はなく、これが何かと問われても皆目検討も付かない弘樹は、お手上げと言わんばかりに肩を竦めた。
「知らん。推薦状とか言ってたな。なんなんだ、その紙は」
「これはこの学園への入学を特例で認める書状じゃよ」
学校の推薦っていうと、素行のいい優等生が優先的に入学できるという制度だったような気がしたのだが、しかしお世辞にも素行や生活態度がよろしいとは言えない身としては生涯無関係の話だと思っていたのだが。
一体どういう訳で推薦状なぞが出てきたのか、意味がさっぱり分からなかった弘樹は学園長に向けてそれが何だと話の先を促すと、学園長は朗らかな笑みを浮かべながら
「これは一部の高い才能を持った者をこの学園へ入学させる為に作られた書類なんじゃ。お主はそれに選ばれて、入学する為にここへ来たのではないのかね?」
「ない。学園なんて知らん」
「ううむ。ではここに来る前に、この書状を何処かで見た覚えはあるかね?」
言われて弘樹は過去の記憶をあれこれと掘り起こしていく。すると海馬の奥底からおぼろげながら浮かんできたのは道を歩いている時に急に紙が飛んできたという不思議な光景だった。道の先からいきなり飛んできた上にこちらの周囲を飛び回って目障りだった事もあり、腹いせに思い切り手刀を叩き込んだような気がしないでもない。
そして考えてみればそこから先の記憶がないのだ。鬱陶しい紙を景気良く叩き落したその瞬間、周囲の景色がグニャリと歪んだような気もしたが、あいまいな記憶に残っているのはそこまでであった。
「あー……確か纏わり付いてきて鬱陶しかったから叩き落したかも」
「叩き落した……?」
ひっそりと呟くように唖然とした声を上げるシンシアを余所に、学園長は興味深そうに白く色の抜けた眉を少し動かして頷く。
「ほう。それで叩き落した後は?」
「覚えてないな。気が付いたら地面の上で寝てて、目が覚めたら突き飛ばされて、また気を失って……起きたら縛られた状態でここに」
「っ!?」
何かを言いたげな弘樹の視線に気が付いたのか、長椅子に腰掛けたまま今まで黙っていた少女が声なき悲鳴と共にびくりと身体を硬直させた。
自分がされた事を思い出したのか一瞬で顔を赤くした獣耳の少女は、何も言わず弘樹の目から逃れるようにますます身体を縮こまらせる。代わりに口を開いたのは学園長の背後で腕を組んだまま話を聞いていたシンシアの一言だった。
「何を言っている。お前が呑気に寝ている間に未開の地からわざわざ誰かがここへ連れて来たとでも言うのか?」
弘樹の言を聞いてバカバカしいとばかり呆れ混じりに鼻で笑ったシンシアはジロリとその冷たく蒼い瞳を疑わしげに向けて言う。
しかし何を問われても当の弘樹だってそれ以上の記憶がないのだから答えようもない。何か文句があるのかと睨み返した弘樹とシンシアの間に火花が散るが、そんな一触即発の空気を止めたのは難しい顔で考え込んでいた学園長の唸るような声。
「いや、シンシア先生。彼の言っている事は本当かもしれん」
「は、はい?」
予想外の方向からの唐突な物言いに驚いた様子で振り向いたシンシアは、神妙な顔で推薦状を見つめている学園長に少し戸惑ったように聞き返した。
しかし眉間に深く深く皺を寄せたまま推薦状を丹念に読む学園長の表情は真剣そのもので、それを見たシンシアは何か感じ取る物があったのか言葉を呑んで口を閉じる。
問われた学園長は暫く推薦状を確認した後、大きく息を一つ吐くと机の上にその書状を置いて切り出した。
「シンシア先生。すまぬがここを見てくれんか、年老いたワシの見間違えの可能性もあるでな」
老眼でも始まっているのか、細かい字を読んでしょぼくれたらしい目元を指先で軽く揉む学園長の横で、渡された紙を受け取ったシンシアが示された箇所に目を通すこと暫し。
状況がいまひとつ読めない弘樹の眼前で、シンシアの無表情な白い顔が驚愕に歪んでいく。
「これは……!?」
「その反応を見ると、ワシの目はそこまで衰えてはおらぬようじゃな」
雑多に物が並んだ部屋の中にわんと大きく響き渡ったシンシアの愕然とした声に、頷きながらそう言った学園長は殊の外深刻な顔で推薦状を見詰めていた。
絶句したシンシアの鉄面皮と皺が渓谷のように刻まれた老人の渋面が二つ並ぶ様は何処か面白みのある光景ではあったが、しかしどうにも話の展開が読めない。
「おいこら。こっちにも分かるように話をしろ」
何か訳知り顔で話を進めようとする二人に向けて、完全に置いていかれていた弘樹が抗議の声を上げると、忘れていたと言わんばかりに学園長がわざとらしくごほんと咳払いをしてこちらに向き直った。
「いや、すまぬ。ここに書かれているのは、この推薦状が発行された年を記した物でな。この記述を信ずるのなら、この推薦状は今から四百年ほど前に散布された物になる」
「四百年、前?」
学園長から出てきた途方もない発言に、完全に虚を突かれた形になった弘樹はポカンと口を開けて聞き返す。あまりに素っ頓狂な話の展開に、一瞬何かの冗談を言っているのかと思ったが当の学園長は至って深刻な表情を崩さずに頷いて見せた。
「うむ。その四百年前というのは、この学園が創立された時代での。つまり推薦での入学を受け入れ始めた当初の話になる」
学園が出来たのが四百年前、それが何故自分の所に飛んで来たのか。というか、今から四百年前というと日本なら江戸時代になったばかりかそこらになるのではなかろうか。
そんな時代の紙が残っているというだけで驚きなのだが、しかし目の前の書状は多少の汚れやヨレは見られても状態としてそこまで劣化しているようには見えない。
本当にそんな昔の物なのか、仮にそうだったとして何故それがここにあるのか、疑問が尽きない弘樹を前に学園長は話を続ける。