魔物使い
「な、なんだ!?」
「こら、暴れるな!」
こちらの驚愕の声を抵抗と捉えたのか、背中の上でこちらを抑え込む鎧姿の美女が鋭く一喝する。
しかし暴れたくて暴れている訳ではない上に、肝心のポケットに入った何かは女の制止などお構いなしで弘樹以上に暴れ動き飛び出そうとしていて、自分の服の中に蠢く何かがいるという何とも言えぬ不気味さを覚えた弘樹は咄嗟に縛られた体を起こしながら
「違う俺じゃない! なんか俺のポケットの中で何かが――――」
そう反論の口を開き掛けたその瞬間、折り畳まれた一枚の古ぼけた紙がシャツの胸ポケットからスルリと抜け出して来て、そのまま空中へと浮かび上がった。
部屋の中にいる全員が呆気に取られて声を上げぬ静かな室内で、まるでそれ自体が意思を持っているかのようにふわりふわりと部屋の中を飛びながら進んだその薄汚い紙切れは老人の前で浮いたまま静止する。
そして数秒の後、空中に浮いたまま動かなかった紙は折り畳まれた状態から誰に触れられた訳でもないのに音も無く独りでに開いた。
「これは、推薦状?」
弘樹を取り押えたままの鎧女が戸惑い混じりの声色で呟くように問うも、眼前に突然現れたボロ紙を前に目を丸くする老人はそれに答える様子はなく、まるで壊れ物に触れるかのように静かに手を伸ばしそっと紙に触れた。
途端、まるで操っていた糸が切れたかのように空中に浮かんでいた紙切れは急に力を失って重力に引かれるままヒラヒラと舞い落ち、やがて机の上に落ちるとそのまま動かなくなる。
今のは一体なんだったのか。弘樹は今さっき自分の見た物を全く信じられない思いで固まっていた。
一体どんな理屈で紙が自ら動いてポケットから飛び出すというのか、いやそれどころか紙飛行機でもないのに部屋の中をのたくるようにゆっくりと飛んで動いた挙句、折り畳まれた紙が空中に浮かんだまま勝手に開くなんて。
しかし予想だにしていなかった展開に硬直している弘樹を余所に、老人は眼前の光景に特段驚いた様子もなくその骨ばった指先で古びたその紙切れを手に取ると静かに目を通している。
弘樹の上に跨り膝と腕で強引に床へと抑え付けている鎧女も、特に動揺した様子も見られず、自分の感覚がおかしいのかと疑問が頭蓋を埋め尽くそうとしていたその時、長椅子に座っていた白い髭が前触れもなくゆっくりと動いた。
「ヒロ、キ……」
薄暗い部屋の中、色褪せた口ひげからぽつりと零れ出たその単語に答える者はいなかった。油断無くこちらを腕ずくで抑えている鎧女も、今も俯いたまま顔を上げようとしない少女も、誰一人答えようとしない。
何がどうなっているのか、説明を求めようとしたその瞬間、唐突に老人の錫色な瞳がポンと向けられて虚を突かれた思いのした弘樹は思わず開きかけた口を噤んで押し黙る。
「お主はヒロキ・ムトウ君で間違いないかね?」
老人のその言葉で、弘樹はようやく先ほどの呟きが自分の名前だったのだと理解し、戸惑いながらも曖昧に頷く。武藤弘樹、それは確かに自分の名前であった。
苗字と名前が逆になっているということは、ここは外国なのだろうかと考えた所でふと、ここに至るまで縛られたり剣を突き付けられたり突き飛ばされたりはしたが、自分の名前を名乗った覚えは一度もないと気が付いて
「おい、なんで俺の名前を知ってんだジジイ?」
「口の利き方に気をつけろ下郎!」
「痛ででで! 何すんだコラ!」
地面に押さえつけられたまま唖然とした表情で思わず問うた弘樹に答えたのは手許の紙に熱心な視線を向け続ける老人ではなく、こちらの身体に馬乗りになって押さえ込み続ける頭上の鎧女だった。
態度が気に入らなかったのか乱暴な動きでこちらの頭を地面に押さえ込んでくるその力は見た目から到底想像もできない程に強く、先ほど少女に吹き飛ばされた痛みも相まって弘樹は思わず悲鳴を上げる。
しかし、ごたごたと揉めているこちらには目もくれず注意深く小さな紙切れへと視線を向け続けていた老人は、やがて何かを見つけたのか杖を片手に急に椅子から立ち上がると驚愕の声を上げた。
「これは……なんと、そんなまさか!」
「学園長、どうされましたか?」
「シンシア先生。これを」
シンシアという名前らしい鎧女は呼ばれると組み伏せたこちらを放していいものか、一瞬だけ迷ったようにチラとこちらに視線を向けた末、すぐに立ち上がるとキビキビとした動きで老人の下へと歩み寄る。
学園長と呼ばれた老翁は地面に転がっている弘樹に気遣うような顔を向けつつも、すぐ傍まで歩いてきた鎧姿の女へと先ほどの紙切れを差し出して、何も言わず再び長椅子にゆっくりと腰掛け深く深く息を吐き出した。
杖を突きながら座る老爺は沈黙したまま何処か遠くを見ているようで、眉間に走る皺は先ほどまでよりも更に深く険しく刻み込まれている。そんな学園長に少々違和感を感じたらしいシンシアは、やや戸惑いながら手許の紙に目を落とす。
「分析鑑定結果、名前はヒロキ・ムトウ。年齢は15歳。性別は男、加護は――――」
紙に書かれている内容をスラスラと読み上げていくシンシアと呼ばれた鎧女の声は、途中から急に窄まっていき、やがて止まった。暫しの沈黙の後、シンシアの柳眉がゆっくりと困惑と驚愕の形に歪んでいく。
「加護は、魔物使い……!?」
「は?」
自分を押さえ込んでいた存在がいなくなり、縛られたままではあったがどうにか身体を起こした弘樹が上げた疑問の声は、今まで俯いていた獣耳の少女が息を呑む声にかき消された。
静まり返る室内。誰一人声を上げない中、暖炉の火だけが小さく爆ぜる音だけが辺りを包む。最初に口火を切ったのは紙切れを手にしたままのシンシアだった。
「お前は入学者だったのか?」
迷いのない凛とした発声にはこちらへ向けられた露骨な疑いと警戒の色が篭められており、何をした訳でもないのに責められたような気分になった弘樹は縛られたままの姿勢でジロリと睨み返す。
何がどうなっているのかさっぱり分からないものの、とりあえず胡散臭い奴だと思われている事は間違いなさそうである。が、言わせて貰えば何のコスプレだか知らないが鎧なんて着込んで本物の剣まで提げているような女の方が余程怪しい。
「何が入学だ。いきなり縛り上げやがって」
痛い思いをさせられた恨みを込めて弘樹が吐き捨てるように答えるも、シンシアはいう事を聞かぬ駄々っ子でも相手にするかのように眉一つ動かさず質問を繰り返す。
「この学園に入学するために来たのではないのか?」
「はぁ!? ふざけんな入学なんてしねえよ! いいからさっさとこの縄を解け!」
何の話だかさっぱり分からない上に、いつまでこんなハムのような格好で転がっていなければならないのか。
いい加減にしろと抗議の声を上げた弘樹に真っ直ぐなシンシアの蒼い瞳が僅かに揺れ一瞬の沈黙が辺りを包む中、後ろですっかり忘れていたと言わんばかり出し抜けにポンと手を打ったのは学園長だった。
「そうじゃな。シンシア先生、一先ず彼の縄を解いてやりなさい」
軽くそう切り出した学園長に、渋面を向けたシンシアはじろりと足元に転がる弘樹を一瞥する。こんな男の縄を解いてよろしいのですか?と無言で問う鎧姿の蒼い瞳に笑顔のまま頷いた老人を見て、何かを諦めたように息を吐いたシンシアは慣れた手付きで弘樹の腕を縛り上げているロープを解き始めた。
「ほら、動くな」
「痛てぇなくそっ、乱暴にしやがって」
悪態を吐く弘樹に尚も鋭い眼光を飛ばすシンシアは不承不承、といった表情を隠しもせず乱雑に解き終わったロープを纏めて鎧の腰元に戻す。完全に手足を解放された弘樹は、己の手足に付いた緊縛の跡を撫でながらゆっくりと立ち上がった。
「一応は警告しておいてやる。動きには気をつけろ」
油断なく腰に提げた剣の柄にさりげなく手を掛けたままでそう言い放ったシンシアは、まるで虫ケラか犯罪者を見るような目で弘樹を見下ろしていた。もし僅かでも変な動きをすれば容赦しない、と言葉よりも雄弁に語るその瞳に弘樹もまた負けじとガンを飛ばし返す。
が、そんな火花を散らす二人に割って入ったのは低くしわがれた学園長の穏やかな問い掛けだった。
「さてムトウ君、じゃったかの。手荒にしてすまなかった。儂は学園長のルキウスという者じゃ」
「学園長?」
「うむ。こちらはシンシア先生、学園の警備を統括してくれておる」
ルキウスと名乗った老人が、こちらの横で剣の柄に手を乗せたままの美女を示すも、シンシアは会釈一つもしないままじっと冷たい目でこちらを見据えて動かない。睨み返す弘樹とシンシアの間に漂う冷たい殺気の渦を知ってか知らずか、朗らかな笑い声を上げたルキウスは「二人とも随分と気が合うようじゃな」とか呑気な感想を述べている。
この場に他の人間が居なければ今すぐにでも剣の錆びにしてくれるのに、と言わんばかりのこの女の眼光を見て本当にそんな印象を持ったのであれば、この老人は今すぐ老眼鏡を買いに行った方がいいだろう。
「まぁ何はともあれ座るがよかろう。席だけは沢山あるからのう」
そう笑いながら皺だらけの手で促された長椅子は、先ほどの獣耳少女が座る横の席だった。チラと目を向けるとこちらをジッと見ていたらしい水色の瞳と目が合い、途端に向こうが慌てたように逸らす。そのまま言葉もなく長椅子の端へと避難するようにその小さな尻を動かした少女を横目に見ながらどっかと腰掛けると、先ほど少女に突き飛ばされた衝撃のせいかまだ少し痛む腰を柔らかいクッションが優しく包んだ。
「で、ヒロキ君。お主に聞きたいのじゃが、学園に入学するつもりがないなら何故ここに?」
「知らん。目が覚めたらここに居たんだ」
色々あったせいで少々記憶が曖昧ではあるが、今日は日曜日で学校も休みだったはず。それで景気よく遊びに出かけたは良い物の、どういう訳か気が付いたらここに居たのだった。
自分の記憶を幾ら探ってみても、こんな場所に足を踏み入れた記憶は毛頭なく、部屋の中を改めて見回してみた弘樹は良く分からない模型や器具、壁に貼られた地図らしき茶色く古びた紙、棚の中にびっしりと並べられややくたびれ気味の革装丁が厳めしい分厚い本の列をジロジロと眺めた末に対面に座る老人へ問いかける。
「一体何処なんだ。ここは」
「不思議な事を聞くのう。ここはエストラルダ王国にあるディナストラ探索士学園じゃよ」
「エス……?」
まるで聞いた事のない地名が出てきて目を白黒とさせた弘樹に辛うじて理解出来たのは、王国という事はここは日本ではないのだろうかという曖昧な疑問だけだった。
学園ということはここは何かの学校なのだろうということまでは推察できても、一体それが何処にあるのかが全く検討も付けられない。そんな弘樹に呆れたような視線を向けたのはルキウスの横で黙って腕を組んでいたシンシアだった。
「エストラルダ王国、ゲルノア大陸の西部にある王国だ。まぁ、ここは王国本土からは少々離れた場所に位置してはいるが」
「……何言ってんだお前ら」
エストラルダ、ゲルノア、地理の成績は決して良い方ではなかったのは自覚しているが、生まれてこの方そんな地名は一度として聞いた事がない。
いや、国名なら世界の何百とあるだろうし、まだ知らない聞いた事もないような場所もあるだろうが、大陸の名前を聞いた事がないなんて事があるだろうか。大陸なんて世界に7箇所くらいしか無いんじゃなかったか。