捕縛
邪魔だった。鬱陶しかった。むしゃくしゃしていた。まるで良からぬ犯罪で逮捕された容疑者の供述のようではあるが、何故そんな事をしたのかと問われた時の動機としてはまさしくそんな所だろう。
瞬間的な破壊衝動というか、突発的なフラストレーションの解放とでも言おうか、あれこれ言い訳を並べたって結論としては要するに、ただ単にそんな気分だったというだけなのだが、それが時として人生を一変させてしまうことは珍しいことじゃない。
とはいえ、まさか自分の人生がそれだけで一変してしまうとは欠片も考えていなかったのだが。
休日の昼過ぎ、たまの休みに近所へ菓子か漫画でも買おうかと散歩がてらブラブラと外に出た折、白い変な紙がこちらに向かって勢い良く飛んできた。説明できる状況としては、ただそれだけだ。
ゴミの一つや二つ、普通なら軽く避けて終わりな所ではあったのだが、しかしその紙切れはあろうことかこの俺の周囲を蚊か蝿のように纏わり付いて来て一向に離れない。
やや薄汚れながらも几帳面に折り畳まれ赤い封蝋に精緻な印章を押されたその一枚の紙は不自然な飛び方をしながら執拗に自分の周りを飛び回り、あまりのしつこさについイラっとした俺は
それを思いっきり、叩き落してしまったのだった。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
暗闇の中、耳朶に届いたのは弱々しく物静かでありながら何処かこちらを包み込むような温かさを孕んだ優しい声色。
何処か躊躇いがちに向けられた棘のない穏やかな囁き。その音吐は春の日差しのようにほんのりと柔らかく、闇の中に落ちていた鼓膜を擽るように心地よく震わせてゆっくりと意識を覚醒させる。
「苦しいですか? 何処か痛みます?」
頭上から聞こえた懸命な呼びかけに重い瞼を静かに開くと、まず見えたのは薄暗い空間と飾り気のない石造りの天井だった。
所々に埃の付いた硬質で鈍く冷たい印象の灰色の石材が視界の大半を占める一方で、そのすぐ横の大きな窓からは何処までも抜けるような青空と輝く太陽が覗いており、ガラス越しの暖かい陽光が寝起きの重い網膜を貫くのを感じた弘樹が思わず目を細めると、窓の向こうから照り付ける日差しが一つの影によって遮られ人型に切り取られる。
「どうしよう、まだ学園長先生は戻らないし……」
その影の正体が窓の外の青い空を背景にこちらを心配そうに覗き込む一人の小さな少女だと気が付くと同時、その少女の鮮やかな萌黄色に輝く二つの瞳ががっちりと弘樹の視線を縫いとめていた。
新緑が芽吹く春の草原のように暖かく透き通った不思議な色合いの大きな目。そんな目が覗いているのは少女が目深に被った鼠色なフードの奥底で、そこから僅かに零れ出た細く艶やかな少女の茶色の髪が優しく弘樹の頬を撫でる。
ふわりと漂う花のような甘い香りにゆっくりと瞬きを繰り返すと徐々に明瞭になってきた視界の端、乱雑に詰まれた本の束と机の脚がチラと見えて、そこで初めてどうやら自分は何処かの室内、それも冷たい床の上に寝転がっているらしいと気が付いた。
「あ、あの、すいません。ちょっと触りますね?」
呼びかけに応じようともしないこちらの様子を見て心配になったのだろうか、すぐ横でちょこんと膝を付く少女は美しい薄黄緑の瞳に気遣う気配を宿らせながら、僅かに逡巡しつつもそっと手を伸ばすと弘樹の身体に柔らかく触れる。
少女の掌から伝わる暖かく優しい感触が弘樹の寝惚けた頭をゆっくりと覚醒させ、ここは何処だろうかと未だ寝起きの重い頭を持ち上げて周囲に目を向けるが、そこには見覚えの全く無い部屋が広がるばかりだった。
磨かれた白く眩い石が規則正しく敷き詰められた床に高そうな深紅の毛氈が敷かれ、壁には見た事もない植物のような絵や変な図形がびっしりと描かれた紙が幾つも貼られている。
聞こえるのは時折爆ぜる暖炉の火と、机の上に所狭しと並んだ繊細そうな機械類が立てるカチコチという駆動音。部屋の隅に積まれた埃の被った書物の束は今にも崩れ落ちそうなほどの高さになっていて、そこらに転がる書類は整理されている気配すらない。
周囲をぼんやりと眺めること暫し、どう見てもここは自分がつい先ほどまで居た筈のコンクリート製の電柱とアスファルトで覆われた無機質な街中とは程遠い場所らしいと理解した弘樹は、そこで初めて声を上げる。
「……ここ、何処だ?」
「アトラディア学園です。良かった、目が覚められたんですね」
喉の奥が貼り付くような感覚を飲み下しながら誰にともなく問い掛けた弘樹の言葉に答えつつほっと独り胸を撫で下ろしている少女は、どうやら本気でこちらを心配していたらしい。
全身をすっぽりと覆う野暮ったい灰色の外套を被ったその少女は、フードの奥でパッチリとした大きな萌黄色の瞳を僅かに潤んだように揺らすと長い睫毛の向こうを優しい笑みの形に彩った。
「何処からか急に落ちて来られて、そのまま動かないからお怪我でもされたんじゃないかと心配で。今、学園長先生が人を呼びに行って下さっています」
アトラディア学園、全く聞きなれない単語を寝起きのぼんやりとした頭で適当に聞き流した弘樹は少しだけ自分の身体を動かしてみたが、何処にも怪我も痛む場所もなかった。あるのは何処かふわふわと浮き上がるような心地と、身体中を襲う寝起き特有の倦怠感だけ。
強いて言えば背中が少し冷たい気がするが、それは未だ自分が石の床に寝転がっているせいだろう。別に行く宛てのない浮浪者でもあるまいし、こんな硬い床に寝そべらなければならないような理由などないのだ。
今すぐにでも起き上がろうと思いつつ、それでも弘樹が動けなかった……というか眼前の少女から視線を外せなかったのは、自分の目に映った光景が信じられなかったからかもしれない。
「あの、お怪我とかありませんか? 何処か動かせない場所とかは?」
問われた弘樹が一心に見ていたのは、親切にそう問うてきた少女の灰色のフードに隠れた小さな頭。
「おい」
「は、はい!」
出し抜けに問い掛けたこちらの言葉に少女が驚いたようにビクリと身体を震わせ、同時に被っていたフードがはらりと落ちて茶色の髪がふわりと零れ出た。目と目がぱちりと合う。
何処か宝石を思わせる優しく透き通った大きな萌黄色が何処か自信なさげにじっと弘樹を見つめていた。歳の頃は明らかに弘樹より下で、ぱっと見たところまだ中学生になるくらいだろうか。
染み一つない滑らかな白い肌、鼻筋の通った小さく形のいい鼻、赤く瑞々しくも薄い唇、細く整った眉まで。全てが奇跡的なバランスで配置された、道を通れば十人中十人が振り返るであろう美少女。
少し動く度にキラキラと輝くゆったりとしたウェーブの掛かった少女の艶やかな茶髪は、側頭部付近の左右両側で小さく二つの結び目に纏められたツインテールの形になっていて、見る者に歳相応の幼い印象を与えていた。
春の暖かな森をそのまま切り取ってきたかのような淡く澄み切った薄い黄緑色の瞳は、ふにゃっと垂れた目尻も相まって小動物を思わせる気弱な印象を孕んでいて妙な色気と庇護欲とを掻き立てる。
しかしそこに少女の眩い茶色の髪や滑らかな白い肌が加わることで、全体的に色素の薄い上品で儚げな気品と魅力とを醸し出していた。
「な、なんでしょうか?」
じっと見つめるこちらに微かな警戒心と僅かな戸惑いの色を隠せぬ様子でおずおずと問いかけてくる少女の顔付きは明らかに日本人離れした雰囲気を有しており、まだあどけなさを残しながらも独特の色香を纏っている。
しかし何より弘樹の目を釘付けにしたのは、健康的な白く滑らかな美しい肌でも見惚れそうになるほど美しい少女の顔つきでも陽光を受けて深く透き通った宝石の如き黄緑の瞳でもなかった。
「お前の頭のそれって」
「あ、これはその……」
弘樹が呆然と指差した先を視線で追って、そこで己の頭を覆っていたフードが落ちていた事にようやく気が付いたのか、少女は慌てたように己の首元を見てそれから頭に手を触れて、しまったという表情を浮かべた。
己の悪事が露見したかのように素早く再びフードを被ろうとする少女の腕をはっしと掴んで止めた弘樹は、そこで初めて上半身を起こすと少女の頭に顔を近付けてじっくりと眺める。
弘樹の視線が真っ直ぐに向けられているのは少女が身動ぎする度にふんわりと揺れるツインテール、ではなく丁度その結び目の根元より少しだけ上。ふわふわの何かが少女の頭の上で動いていた。
耳である。いや、耳は耳でも人間のような形状ではなく、どちらかというと犬や猫に近しい全体がもふもふとした毛に覆われた三角形が一対、少女の頭の天辺に堂々とその存在を主張していた。
少女の髪と同じ茶色をしたその獣の耳はさしたる違和感もなく、当たり前のような顔で頭頂部付近に鎮座しながら右に左に小さく向きを変え続けている。
「あ、あの……?」
急に腕を掴まれて不安げに震える少女の透明感のある萌黄色の瞳の上で、件のふわふわの耳は持ち主の戸惑いを表しているかのように小さく震え動き続けていた。
窓から差し込む陽の光に照らされて薄い茶色とも金色とも付かぬ色に輝きながら僅かに動くその微妙な反応にむらと悪戯心を掻き立てられた弘樹は、何の断りもないまま無遠慮に少女の頭頂部に聳える三角形へと手を伸ばす。
「ふひゃっ!?」
耳の下で少女の短い悲鳴が上がると同時、小動物の如き柔らかさと温かさが一瞬指先に触れたかと思えば二つのモフモフはまるでそれ自体に意思があるかのように、強引な男の手から逃れようと小さく跳ねた。
ふわふわとして柔らかく、それでいて小刻みに震えるその感覚は何処か懐かしく同時に新しい楽しみを指先に齎してくれて思わず頬が緩む。
「おいまさか本物なのか、これ?」
眼前にあっても作り物や装飾ではない本物の動物の耳が人間に頭部に付いているなど到底信じられなかった弘樹は、むずがる幼子のように己の手から逃げ回るその耳をむんずと容赦なく掴むと丹念に観察し始めた。
しかし軽く引っ張ったところで外れる様子もなく手の内で細かく予想外の動きを繰り返すそれは明らかに人工物などとは違い、触れる度に指先に伝わってくる体温や感触から考えても眼前で硬直している少女の一部であるとしか思えない。
「あ、ひ、やっ」
己が耳朶を突如として無作法な観察行為に晒された眼前の少女は突然の出来事に驚き声も出せなくなっているのか、途切れ途切れに擦れた喘鳴のような息を漏らしながらその場で固まったまま目を白黒させていて抵抗する様子も見られなかった。
それを見た弘樹はふと気になっていた耳の奥、真っ暗な穴の中へと指先をそっと差し入れる。
「ひゃぁあ!」
偽物の耳にはないであろう暖かな温もりを指先に感じた途端、絹を裂くような悲鳴が上がり手の中に収まっていたふわふわの耳がびくりと激しく反応した。
これまで凍り付いていた少女も、まさか耳の穴にまで指を入れられるとは思ってもいなかったのだろう、座ったままの姿勢で雷に撃たれたかのように飛び上がると両手で頭を庇いながら抵抗し始めるが、弘樹はそんな少女の抵抗など意にも介さず毛むくじゃらの耳を更に詳細に確認していく。
「どうなってんだ? マジで本当に生えてるのかこれ?」
嫌がる声など何処吹く風、今まで見たことがない未知の何かを前に感嘆の声を上げる弘樹が好奇心に突き動かされるまま指先でなぞるように耳の内側を触ると、その度に少女の全身はバネ仕掛けにでもなっているのかと思うほど激しく跳ねて、可愛らしい悲鳴と共に逃げようと身を捩った。
「おい、それまさか」
と、弘樹の視線を吸い寄せたのはそんな少女の足の間から覗いた耳と同じく茶色に揺れる一本の毛束。太さにして少女の手首よりやや細いくらいのそれは最早人間には絶対に存在しない、犬や猫などの尻にくっ付いているはずの物体で。
「どうなってんだ!? 尻尾まであるのかよお前!?」
自分の目を疑った弘樹の言葉を受けて、少女はようやく自分の足の間から覗く毛束が次なる目標にされているのだと気が付いたらしい。
脚の間から覗くその毛束を懸命に両手で隠そうとするも、腕の長さほどはあろうかという細くしなやかなそれはとても少女の小さな掌で隠しきれるような物ではなく。
「や、やだっ、止めてくださいっ」
「あぁ! おい逃げるな――――っと」
どうにか後ずさりしながら逃げようとする少女の尻尾に手を伸ばし掴もうと、まるで悪漢のような物言いで弘樹が一歩を踏み出した、その瞬間。
少女が纏う鼠色の外套、その裾を踏んでしまった弘樹は一瞬バランスを崩して山のような本や紙の束が積み重ねられた床の上へと勢い良く倒れこんだ。
それとほぼ同時、逃げようとして踏まれた自らの裾に引っ張られる格好でバランスを崩した少女も艶やかな茶色の髪を絨毯の上に散らしながら同じく床へと倒れこむ格好になり
「きゃっ!?」
「どわっ!?」
予想外の転倒に思わず声を上げた弘樹の耳元で、短い悲鳴が聞こえた気がした。ふよん、と床に向けて思いっ切り転んだにしては妙に柔らかい感触が掌に触れて、思わず顔を上げてみれば眼前にあったのは少女の整った相貌。その表情は困惑から徐々に驚愕に、そして恐怖が入り混じった赤色に染まっていく。
しかしそれでも尚、少女の視線は下を向いていた。その視線を追って見れば、弘樹よりも一回りも二回りも小柄な少女の身体が全て自分の下にすっぽりと収まっていて、その中のとある一部を自分の掌がガッチリと掴んでいる。
指先に感じるのは先ほどまでのふわふわとは違う、しっとりとして張りのある柔らかさ。
「……あ」
弘樹の掌には収まりきらない完全に予想外のサイズに、思わず声が漏れていた。
鼠色の冴えないダブついた外套の上からでは分からなかったものの、実際に触れてみると掌に到底収まらない『それ』は低めな少女の身長に反してかなりの大きさであり、むにっとした質感とやや硬さを残しつつピンとした張りのある弾力とが混在しながら指先はもちろん掌全体が埋まるような質量がその存在をずっしりと主張している。
柔らかい。男にはない丸みと曲線美を有した目の前の双球は弘樹の掌の動きに合わせて自在にその形を変え、特に意識したつもりがなくても自然と手先が、そして指先が感触を求めて動いてしまう。
「ひぅっ……」
掌に感じる圧倒的な質量を己の指先で味わうと同時に、頭上から何処か怯えたような苦しんでいるような、そんな悲鳴とも嬌声とも付かない声が聞こえてきて、弘樹はゆっくりと顔を上げた。
泣きそうだった。自分が、ではない。少女が、である。
春先の新緑を思わせるほのかに暖かい色を宿していた瞳が冷たい雨に打たれたかのように透明な水で一気に潤み始め、垂れた目尻にジワリと雫が溜まる。
流石に胸まで触られるとは思ってもいなかったのであろう。こちらとしても流石にそこまでするつもりは無かったのだが、今更そんな事を並べ立てた所で何の意味があるだろうか。
耳を触られ押し倒されて胸を揉まれて、という予想もしていなかったであろう事態に固まっていたらしい少女はとうとう正気を取り戻したのだろうか小さく口を開いて
「きゃああああああああああっ!!」
少女の甲高い叫び声が弘樹の耳を劈いた。と同時、外から誰かが走ってくる足音が響き、勢い良く部屋の扉が開く。
「どうした? 何の騒ぎだ?」
静かで冷たく落ち着いた美声と言って差し支えのない可憐な声色。威圧的でありながらそれでいて同時に感情の起伏を喪失した機械を思わせる抑揚を持たない沈着な呼び掛けが室内に木霊し、そこで初めて人が部屋へと入ってきた事に気が付いた弘樹は少女を押し倒した格好のまま顔を上げた。
見れば首から下を全て白銀の鎧に身を包んだ一人の美女が、すぐ目の前で腕を組んだまま微動だにせずこちらを鷹のような鋭い目で見下ろしている。
年の頃は弘樹より少し上くらいだろうか。感情のないガラスのような瑠璃色の瞳が印象的な背の高い女だった。雪原を思わせる滑らかな白い頬、小さくも刃物の切っ先のように鋭い鼻筋、血を啜ったような赤い唇。
鋼にも見える鈍く灰色がかった髪は一本一本が細く癖一つない銀糸のような輝きを宿したキューティクルで、それを後頭部付近で一分の隙もなくキッチリと編み上げたその姿は一目見ただけで背筋が凍るほどの、ともすれば人外の存在かと思わせるほどの美貌を宿している。
まさに女としての完成系と言っても過言ではないほどの美しさであったが、しかしそれがどうにも男の情欲をそそらない気がするのは眼前の女の表情が凍り付いたかのように薄く冷たく、それでいて常に油断なく放ち続ける鋼鉄のような鋭く硬い視線が、まるで冷血動物のような酷薄な印象を見る者に与えているからだろうか。
「貴様、何をしている」
低く恫喝する声。その絶対零度の青涼な視線と問い掛けは明らかに、弘樹の下で震えているか弱く幼い小さな少女ではなく、その涙目の少女を今まさに床へと押し倒している己に向けられた物であった。
自分がどうやら不審者か性犯罪者だと勘違いされているらしいと察した弘樹がすぐに立ち上がろうとした瞬間、編み込みから零れた銀色の横髪を優雅に輝かせ音もなく一瞬で眼前へと踏み込んできた鎧姿が、一振りの抜き身の剣をこちらの胸先へと突きつける。
「動くな下郎。学内で少女を襲うような下劣な輩はこの場で斬り捨ててもいいのだぞ?」
「襲ってない!」
「その格好を見て、そんな供述が通ると思うのか?」
剣を片手に低くそう問うた女が弘樹の下で怯えきっている少女に向けて僅かに首を傾けると、その拍子に長めの横髪が鎧の上を転がるように揺れて冷たく輝いた。
女だてらに弘樹よりやや高い背丈とすらりと伸びた長い足、そして鎧を着込んでいても分かるはちきれんばかりの豊かな胸は一見するとスーパーモデルのような体型ではあったが、しかしその微塵も隙がない視線・立ち居振る舞いに加えて全身の殆どを白銀色の金属鎧に厳重に覆っていることも相まって女らしい色香が全く感じられない。
というか、一体全体この女はどういうつもりで鎧など着込んでいるのか。コスプレなのかそれとも映画か何かの撮影なのか、現実的に考えられる可能性をチラと思い浮かべていた弘樹はしかし、女がさらに一歩こちらへ距離を詰めた際の鎧が擦れる金属の重い音を聞くにつけ、目の前のそれが見た目だけを整えた安っぽいプラスチックか何かの作り物などではなく、純粋に装着者の身を守る目的で設えられたそれなり以上の質量を持った強堅な装甲である事を否が応にも察していた。
「何処から入ったのか知らないが、学園の敷地内で狼藉を働くとは良い度胸だな」
「違う! これは単に転んだだけだ!」
「とにかく大人しくしていろ。貴様はこのまま警衛隊に引き渡す」
これ以上話しても無駄、鎧女はそう言いたげにこれまで胸先へと向けていた切っ先を静かに弘樹の首元へと突きつけて冷酷に言い放った。
金属特有の冷やりとした硬質な感触と一瞬で皮膚を突き破りかねない危険な鋭さを首筋に感じ、これもまた決して紛い物の模造品などではない本物の刃だと本能的に思い知らされた弘樹は背筋を凍らせるような恐怖感で全身を硬直させながらも、湧き上がる混乱の中で必死に己の置かれた状況を整理する。
こうしている今も弘樹の下で震えている少女の獣のような耳はどう見ても本物にしか見えないし、眼前でこちらを威圧する女の着ている鎧も剣も明らかに偽物ではない。そもそもこの現代に本物の鎧を着込んで刃の付いた剣を持ち歩くような奴が居るだろうか。
仮に少女の耳も含めてこいつらが凄まじくリアル志向のコスプレ集団か何かだとしても、まさか本物の剣なんて持ち歩ける筈もなし、仮にこれが時代劇か何かの撮影でも流石に刃の付いた実物を持ち出すなんて事はないだろう。ましてやそれを無関係の人間に向けるなど普通に考えてある訳がない。
いやそもそもにして一体ここは何処なのか、先ほど少女がここは学園だとか言っていたが、何故自分はそんなところにいるのか、一体何がどうなっているのか幾ら考えても自分の置かれている状況をまるで理解出来ない弘樹の頭がついに限界を迎えようとしていたその時、出し抜けに軋んだ扉の開く耳障りな音が無音の室内にゆっくりと響き渡る。




