冥宮へ
学園の建物から外に出ると既に天上の陽は昇りきってやや傾きつつある時間帯で、その強い日差しに釣られて頭上を見上げれば弘樹が元居た世界となんら変わらない抜けるような青い空にのんびりと浮かぶ白い雲がのんきに流れていた。
周囲には緑の映える美しい並木に手入れの行き届いた色鮮やかな花壇、大理石だろうか眩いばかりに輝く真っ白な石で構成された校舎は鋭い尖塔が高く聳え立っており、周囲を取り囲んでいる高い城壁も相まって学び舎というよりは城砦といった方が相応しい風体である。
だがその城砦は昼過ぎという学園と名の付く施設なら一日の中で一番騒がしそうなタイミングにも関わらず、辺りは不気味なほどに静まり返り騒ぎ声どころか通行人の姿も見られないゴーストタウンのような閑散とした空間が広がるばかり。
仮にもここが学園だというなら学生の声やら部活か何かの掛け声やらでもう少し賑やかでも良さそうな気がしたが先ほど学園長に聞いた所ではそれもそのはず、今はどうやら入学式を前にした長期休暇の最終日になるらしく、校舎内の何処を見回しても学生はもちろんのこと教師の姿すら一切見当たらなかった。
そんな眼前に広がる無機質で荘厳な、悪く言えば人っ子一人いない侘しいだけの敷地内をここは本当に学園なのかを改めて疑いたい気分で物珍しげに見回しつつ歩いていた弘樹は、己のすぐ傍を寄り添うように付き従う一人の影が目深に被ったフードの向こうから心配そうな眼差しでこちらを覗きこんでいるのに気が付いた。
少女の被っているフードの色は先ほどまでの野暮ったい薄灰色ではなく弘樹の制服と同じ濃い青。弘樹が意識を失っている間、既に契約をしてしまったミユの扱いをどうするか、学園長とシンシアが話し合った末に一先ずはこの学園の学生として受け入れるという事に決まったらしい。
それから慌てて準備されたらしい学園の女子用制服は青地に銀色を基調とした修道服のような雰囲気の清楚なワンピースに群青色のフードが付いた長い丈の外套、布のベルトに布のブーツという華やかながらも実用的な代物で、これらを用意してきたシンシア曰く『後衛職用』との事であったが、確かに若干普通の服よりも頑丈そうに見えるだけで全体的に弘樹に渡された物よりも各所の補強がない分シンプルで動きやすそうな印象を受ける。
それに比べ随分と重く息苦しい窮屈な作りになっているらしい弘樹の制服はシンシアの言葉を借りれば『近接職用』だそうで、ガッチリとした着心地はこうして歩いているだけで身体の各部を締め付けられているような感覚に襲われて動きにくいことこの上ない。
個人的には今すぐ脱ぎ捨てたい気分だったのだが、しかし兎にも角にも今の弘樹にとって何より苦痛なのは暑苦しい服も然る事ながら一番は喉の痛みであった。
「ヒロキ様、まだ痛みますか?」
「あぁ、痛いぞ。凄く痛い」
足元に隙間無く並べられた石畳に未だ履き慣れない硬く頑丈なブーツの底が当たるコツコツという音を聞きながら、己の喉を軽く抑えた弘樹は隣を歩くミユの心配そうな顔ではなく、少し先を鎧を着込んで進む堂々たる後ろ姿に恨めしい目を向けながら答える。
あの後、ミユに懸命の手当てをして貰ってどうにか意識を取り戻した弘樹だったが、しこたま殴られた頭部と容赦なく締め上げられた喉の痛みはすぐには治らず、実際こうしている今も唾を飲み込む度に喉元で引っ掛かるような感覚が残っているのだ。
「ダメだ、まだ喉がイガイガする。おいミユ、他に薬は持ってないのか」
「ええと、ごめんなさい。喉の痛みに効くような物はあれだけで」
ふるふると首を振ってそう答えたミユは、それでも唐突な主人の要求にどうにか応えようとしているのか慌ててローブの内側に収まっていた私物らしき革製の小さな茶色いポシェットの中を確認し始めた。
細く透明な瓶が綺麗に整頓され納まっているそのこじんまりとした鞄には、どうやら治療に使用する様々な種類の薬が沢山詰まっているらしく、それぞれに貼られたラベルには薬の名前だろうか先ほど推薦状に書かれていたのと同じ不思議な文字が几帳面に記されている。
緑、黄色、薄紫、透明に赤色まで、様々な色の液体やら粉状の物やら何に使うのか分からない薬の瓶の数々がきっちり収められている鞄の中をしげしげと覗き見た弘樹は、これに助けられたつい先ほどの自分を思い出していた。
いきなり他人の首を締め上げるというおよそ教師とは思えぬ女の暴虐のせいで一時は危うく死に掛けた弘樹だったが、傍にいたミユが幼い見た目に反して医療の技術と薬とを持ち合わせていたのは幸運だった。
気付け薬やら呼吸を楽にする薬やらを的確に使い、素早く手当てをしてくれたお陰でとりあえずこうして歩けるようには回復しているのだから。そうでなければ今頃、訳の分からない世界の学園に無理やり入学させられた直後に体罰教師によりクビを締められて死亡、という最悪の展開になる所だったのだ。
「なら毒薬とかは? 全身から血を噴き出して三日三晩のたうち回りながら死ぬような出来るだけ苦しむ奴がいい」
「ど、毒薬ですか!? そ、そういうのはちょっと……」
「何なら超強力な下剤とかでもいいぞ。無実の罪で俺を殺しかけてくれた暴力教師の飲み物に混ぜておいてやる」
およそ陰険な策謀を企んでいるとは思えない大きさで辺りに響く弘樹の言葉を聞きつけたのか、二人が歩く10mほど先を進んでいた重厚な鎧がはたと足を止め、サラリと艶やかな白銀の横髪を揺らしこちらを振り返る。
冷たい氷のような視線を宿した蒼い瞳が後ろを歩いていたこちらを射抜くように向けられ、それを受けた弘樹が応じるようににらみ返すとシンシアは何処かバツが悪そうに目を逸らし呆れた表情で口を開いた。
「さっきからうるさいぞ。お前が悪いんだろう」
「ふざけんなこの暴力殺人女! こちとら危うく窒息死する所だったんだぞ!」
一歩間違えれば本当に死んでしまいかねなかっただけに弘樹の怒りは冷めやらない。別に何か悪い事をした訳でもなし、単に学園に通いたいミユと試験を楽に突破したいこちらの利害が一致した、互いに利のある取引を合意の上で結んだだけなのに、何故散々に殴られた挙句に首まで絞められなければならないのか。
だが、当のシンシアは弘樹の抗議を軽く鼻であしらうと道端のゴミを見るような視線だけを残して再び先へと歩き始める。
「あの程度で死ぬようなら推薦入学には相応しくない」
「なんだとこのっ」
「ひ、ヒロキ様、落ち着いて下さい。興奮するとまた喉が」
教師の癖に生徒を殺しかけておいてあまりといえばあまりな対応に、一瞬で頭に血が昇った弘樹がその場で飛び掛ろうとするのを小さな身体で必死に止めるミユ。
その薄黄緑の懸命な瞳に聞かん坊の幼児を案ずるような気遣いの色が混ざっているような気がした弘樹は、こんな少女に子供のように窘められている己を客観視して冷静さを取り戻す。
腹は立つが確かに体調が万全ではない状況で、あのゴリラみたいな腕力をした女を相手に戦うのは得策ではないだろう。幾ら先ほど学園長に貰った剣を今も背中に背負っているとはいえ、剣は向こうも持っている上に鎧までガチガチに着込んでいるのだから尚のことである。
煮えくり返る腹の中を渋々飲み下した弘樹は、悠々と先を行く鎧女を張り倒そうとしていた握り拳を解くと、それを代わりにすぐ傍でこちらを心配そうに見上げる少女へと、正確にはその頭部を覆っている野暮ったいフードの中へと掌を無造作に突っ込んだ。
「ふひゃぁ!」
「あー腹立つ」
イライラしながら手の先に触れる少女の耳を撫でると指先に心地よい感触が伝わり、ささくれ立っていた心が次第に収まってくるような気がする。
突然耳を触られたミユは驚きのあまり全身を硬直させ顔を真っ赤にしているが、しかし無造作に耳を弄る弘樹の手に抵抗したり逃げたりする様子はなかった。それもその筈、先ほど交わした魔物使いの契約によってミユはもう俺のやる事には一切逆らえないのである。
それが分かっているのか少女は乱暴に耳を触られる感触に赤くなりながらもぷるぷると震えながらも耐えていて、お陰で触り放題なもふもふ耳を存分に味わうことが出来た弘樹は、暫くしてようやく満足しフードの中に入れていた手を引っ込めた。
「ふぅ、満足満足」
「うぅヒロキ様。あ、あの、せめて触るときは先に言って下さいませんか……?」
手指に残る柔らかい毛並みの感触にホクホク顔を見せる弘樹に、主人の乱暴な愛撫を受けたミユは弱々しく抗議の声を上げながらくしゃくしゃに乱れた髪を整えてズレかけたフードを被りなおす。
しかしそんな少女の恨み言を聞いた弘樹はピクリと片眉を上げると、またも乱暴にフードの中に手を入れて折角整えた耳と髪をより一層ぐしゃぐしゃと強引に撫で回した。
「うるさいぞお前。魔物の癖に主である俺に反抗するのかこいつ」
「ひゃっ、あぁっ」
嬌声のような悲鳴を上げながら目を白黒させている小さな少女の耳を適当に撫で回していた弘樹は、そこでふと先ほどから気になっていた事を口にした。
「大体お前、なんでそんなフードなんて被ってるんだ」
念願叶って学園の制服へと袖を通すことが出来た筈の少女は、しかし相も変わらずフードを目深に被ったままで美しい栗色の髪も可愛らしいもふもふの耳も、青色の頭布にすっぽりと覆われて外からは全く見えなくなってしまっていた。
天高く陽が上っている空には雲一つ見当たらず雨が降ってくるような気配もなし、もしかして降り注ぐ陽光からの日焼け防止という事だろうかとも考えるも、それにしては随分と厳重である。
言外に脱いでしまえと要求する弘樹の問いに耳を弄くり回されていたミユは一瞬困ったように口を噤んで、やがて目を伏せると言い訳をするように言葉を紡いだ。
「え、えと、それは、恥ずかしいというか、その」
少女の返事を聞いても意味が分からない弘樹がポカンとした顔を見せる中、主の怪訝な視線にやや気まずそうな反応を見せたミユは散々に撫で回されたせいでまたもズレたフードで顔を隠すように目深に被りなおした。
恥ずかしいとは一体何が恥ずかしいのか、先ほど契約を結ぶときに着ている服を見たが、別に特段おかしな点はなかったと思うのだが。
「被っていては、ダメでしょうか?」
上目遣いで戸惑うような少女の声に、暫し考えた弘樹はまぁどうでもいいかと胸中で結論付ける。何が恥ずかしいのかは知らないが、まぁ本人がそれが良いなら別に構わないだろう。
耳を触るのに邪魔になるような物を被っているなら強引にも脱がせてやる所だが、別にフード一枚くらいならどうとでもなる。
というかまぁ既に契約を終えた今なら弘樹がミユに向けて手を翳しながらたった一言「脱げ」と命令すればフードどころかスカートや下着までこの場で脱がせることも出来るのだろうが、仮にここでそんな事を始めよう物なら即座にあの暴力女の手で打ち首にされてしまうだろうし、生憎とこんな往来で少女を裸にして喜ぶ趣味もない。
そう考えながらも先ほど契約した時に見てしまったミユの蠱惑的な肢体を思わず瞼の裏に浮かべてしまった弘樹は、頭を振ってその光景を記憶から消し去ると眼前の少女の耳をまたも両手で撫で回し始める。
「ひゃああぁっ」
「ほら、さっさと来い。昇降塔はこっちだ」
人のいない学園内にミユの黄色い悲鳴が響く中、いつまで遊んでいるのかと先を行くシンシアが痺れを切らしたような呼び声を上げるのを聞いて我に返った弘樹は、胸中に浮かんだ疑問を飲み込んでまた歩き始めた。
わたわたと三度フードを直しながらそのすぐ傍らに続くミユはこちらを窺うように綺麗な水色の瞳で弘樹の顔を見上げていて、何を言うべきか迷った弘樹はシンシアの後を追って歩きながら
「そういや、なんであの女がいるんだ」と先でこちらを待つ鎧姿のシンシアを見て忌々しそうに呟いた。
「あ、シンシア先生は試験をする場所まで案内して下さるそうですよ」
「学園に来たばかりのお前達だけでは辿り着けないだろう。学園長に頼まれてしまったからな」
二人の会話が聞こえていたのか道の先で待っていたシンシアが遅れて歩いてきた弘樹をジロリと見ながら答えた。
学園長に頼まれたのでなければ何故こんな事を、といった不満そうな顔を隠そうともしない鎧姿の女教師に、弘樹も負けず劣らず憮然とした顔で問う。
「その何とか塔ってのは何なんだ。そこで試験をするのか?」
「昇降塔だ。いいからさっさと来い」
そうとだけ言って再び歩き始めたシンシアの後に続いていく弘樹は、面倒臭そうに一つ欠伸をしながら人のいない学園の敷地内に目を向けた。
何処かの教室に連れて行かれてテストを受けさせられる、そんな未来を想像していた弘樹は、何故か突然塔とやらに連れて行かれると聞かされて意味が分からずに首を傾げる。
「なんで俺まで行かなきゃならないんだよ」
「お前の試験なんだから当然だろう」
「どうせミユが受けるんだから別にいいだろ」
明らかに自分より年下の小さな少女を身代わりとして試験を受けさせるというのはどうにも情けない話ではあるが、しかしこの世界の事を何も知らない上に字も読めないし書けない身としては他に方法がないのだから仕方ない。
そんな状況ではどうせ試験など受けに行った所で座っている以外にやることなどないのだから、先ほどの部屋で茶でも飲んでいた方がマシだろう。
もはや試験会場に行くのも面倒臭いといった態度を隠しもせずに弘樹がそう応えると、横を歩くミユは水色の瞳を困ったような笑みで彩った。
「私も先ほど試験について学園長先生に窺ったんですが、試験を受けるのはヒロキ様で私は飽くまでも補助だからと」
「あのジジイ、また面倒な事を」
試験なぞ適当にミユに受けさせて自分は昼寝でもしているつもりだった弘樹がブツクサと文句を言っていると、向かう道の先に目的地らしい茶色の大きな塔が見えてきた。
五角形の柱を太く巨大化させたような形状のそれは、すぐ隣に並ぶ学園の校舎らしき建物より高さはやや小さい物の全体的に煉瓦造りの頑丈そうな構造をしていて、美しさよりも無骨さの方が印象的なずんぐりとした形状である。
その塔の根元に目を向ければ見覚えのある白髪頭が暇そうに佇んでいて、歩いてきたこちらを認めるとニッコリと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「おぉ、来たかね。二人とも準備は問題なさそうじゃな」
「は。全て完了しております」
「うむ。それは何よりじゃ。では早速試験をしに向かうとするかの」
問い掛けに背筋を伸ばしたシンシアがキッチリと応答する背後、青い制服に袖を通した弘樹とミユの二人へ向けてにこやかな視線を向けた学園長は会話もそこそこに出発を告げた。
向かう先はやはり眼前にあるこの塔の中のようで、正面に設置された巨大で頑丈な鋼鉄製の門扉にシンシアが手を掛けると軋んだ金属音と共にゆっくりと開き始める。
これから始まる試験とやらを目前に緊張した面持ちのミユは青いフードの奥からこちらを見上げるように不安そうな視線を向けていて、それを見た弘樹はまた意味もなくフードの奥へ手を突っ込むと少女の耳を適当に掴んで弄り回した。
「ぴゃっ!?」
流石にこのタイミングで触られるとは思っていなかったらしいミユが小さな全身を硬直させまたも可愛らしい悲鳴を上げるが、ここまで何度も触られると流石に慣れてきたのか少女は恥ずかしそうに目を逸らすばかり。
そんな生徒達を余所に開いた扉を潜り躊躇い無く塔の中へと足を踏み入れていく学園長の後ろで指先に伝わるふわふわの感触を楽しんだ弘樹は、まるで飼い猫にするように頭をぐりぐりと撫でてから一言。
「こんな下らない試験なんかさっさと終わらせるぞ」
「は、はい!」
主の呼びかけを受け決意も新たに闘志を燃やす水色の瞳を率いながら薄暗い塔の内部へと踏み込んだ弘樹は、しかし次の瞬間に驚きの声を上げていた。
「なんだこの牢屋みたいな場所は」
視界に映ったのは無数に並ぶ巨大な檻。塔の中央を貫くように設えられた無数の石壁で仕切られた部屋の全てが金属製の堅固な檻で区分けされており、中に入れないようになっている。
頭上の窓から差し込む僅かな光だけが照らす薄暗闇の中、まるで監獄のような構造を前にした弘樹は自然と眉間に皺を寄せていた。
この巨大な檻の開閉に使用するのだろうか、壁に設置された幾つものレバーは赤や緑に色分けされていて、こちらの後に続いて塔の中へと入ってきたシンシアが慣れた手付きでそれらのレバーの一つを動かした瞬間、塔の中につんざくような大きなベルの音が鳴り響く。
途端、金属製の何かを巻き上げるような乾いた大きな音を立てて眼前の檻が開いた。
その先に100人ほどは余裕で詰め込めそうな空間がぽっかりと口を開け、その中へ学園長とシンシアが躊躇い無く入っていくが、弘樹はどうにも薄暗い空間に踏み込む気がせずに不満の声を上げる。
「こんな所で何の試験をさせようってんだよ」
これから自分達が何をさせられるのか、嫌な予感に満ちていた弘樹の言葉に対し、先を行くルキウスは苦笑しながら首を振った。
「いやいや、試験を行うのはここではないぞい。安心してくれたまえ」
「これはただの昇降機だ。早く乗れ」
仕方なく促されるままに部屋の中へと足を踏み入れると弘樹のすぐ後にミユが続き、すぐにシンシアが檻の中のレバーをぐいと押し下げた。途端、二人の背後で金属製の柵が鋭い音を立てて閉まる。
同時に頭上でまたもベルがけたたましく鳴り響き、浮かび上がるような感触がふわりと足元から伝わってきて、今更ながら弘樹は己の乗り込んだこれが大きなエレベーターなのだと気が付いた。
「わわっ、ヒロキ様!」
「っと」
弘樹が普段乗り慣れたエレベーターに比べ巨大で原始的で粗雑で、同時に乗客の乗り心地など何も考えていないそれは、どうやら人の乗る大きな籠を太い金属のワイヤーで中空に吊り下げているという単純な構造になっているらしく、音もけたたましければ揺れも凄まじい。
檻全体が地震のように揺れ始めて思わずバランスを崩した弘樹の腰に、同じく体勢を崩し声を上げたミユが小さな手でしがみ付いてきたが、正直言ってそんな事を気にしている余裕すらなかった。
よろめいたこちらをシンシアと学園長が慣れた顔で振り返る中、何処か処刑道具のような面持ちさえあるこの重厚な檻は擦れ合う金属音が反響する盛大な音を立てながら、ひたすら暗闇の中を真っ逆さまに下へと降りていっているらしい。
「こんな物で一体何処に向かうってんだ?」
「冥宮の中で学園が管理している訓練用区画じゃよ」
「め、冥宮!? 冥宮って危ないんじゃ!?」
その冥宮とは一体何なのか、説明を求める前に弘樹の腰にしがみ付いていたミユが驚いたように悲鳴混じりの声を上げるが、学園長は笑いながら
「確かに冥宮は危険な場所ではあるが、これから向かうのは学園で管理している区画じゃ。冥震の少ない部分にこの昇降機を建設し学園では訓練用として使っておるでな、そこまでの危険はない」
そう安心させるように告げたのだった。しかしそもそもにして、その冥宮というのが一体何なのかを知らない弘樹はすぐ下で胸を撫で下ろしているミユにこっそりと問う。
「おいミユ。なんだ、めいきゅーって」
「ヒロキ様、冥宮をご存知ないんですか?」
少女のあどけないキョトンとした顔で聞き返されるが、まるで聞いた事のなかった弘樹はただ頭を振るばかり。
「知らん。なんだ、迷路にでも放り込まれるのか?」
「冥宮は昔の古代の人が作ったという凄く危ない所です。危ない魔物や動物がいっぱいいて、なんでも常に周りの景色が変わってしまうから自分の居る場所が何処なのか分からなくなってしまうんだとか」
「なんだそりゃ。景色が変わる?」
揺れる昇降機の中で両手を広げ小さな体を一杯に使って、そこがどれだけ危ない場所なのかを懸命に説明しているミユの言葉を聞いた弘樹は、まるで意味が分からずに聞き返す。
周囲の景色が変わるというのはどういう事なのか。少女の台詞の意味がさっぱり分からなかった弘樹が目を白黒とさせる中、揺れる籠の中でこちらを興味深げに見ていた学園長が不思議そうに声を上げた。
「ムトウ君、お主の居た国には冥宮はなかったのかね?」
「あるわけねえだろ」
そんな怪しげな物はこれまで生きてきて見た事も聞いた事もない。そんな弘樹の返事を聞いて僅かに考え込むように唸った学園長は、やがてぽつりぽつりと説明を始める。
「冥宮とは簡単に言えば遥か古代の技術で造られた凄まじく巨大な洞窟じゃよ。まぁ、普通の洞窟とは明らかに違う特徴があるがのう」
「特徴? 景色が動いているって奴か?」
これまでの説明を総合すると、どうやら冥宮とやらは洞窟で、しかも動いている物らしい。確かに洞窟ならばこれだけ下降し続けているのも納得ではあるが、その巨大な洞窟とやらが一体どうやって蠢いているというのか。
ぐねぐねと動物の腸のように蠕動する薄暗い洞窟を想像した弘樹は、二人の説明で更に分からなくなった頭で首を傾げるばかり。
「まぁ、これから向かう訓練区画は動いたりはせぬから安心するがよい。しかし一般的な冥宮が普通の洞窟とは違い全体が常に動いておって周囲の光景が変わってしまうというのは事実じゃ」
「洞窟が動いているってどういう事だよ?」
「百聞は一見に如かず。見てからのお楽しみ、という事にしておこうかの」
学園長がそう言って悪戯っぽく笑った直後、これまで薄暗かった昇降機の中に一瞬だけ強い光が貫くように差し込んだ。
足元から頭上へと瞬く間に抜けて行ったその強い光がはるか上へと消えると同時、再び足元から上がってきた同じ四角いその光源の向こうにチラと青い空と白い雲が見えて、弘樹はそれがどうやら窓なのだと気がついた。
幾つもの開口部が外の光を取り込み始めたことでこれまで真っ暗だった籠の周囲の空間に何本ものワイヤーの影が浮かび上がるが、どうやらそれらは上に並んでいた他の無数の昇降機を吊るしているらしい。
幾つものワイヤーが揺れる真っ暗な空洞をくっきりと照らす小さな窓が凄い速度で下から上へと飛ぶように動いていく様を見る限りでは、この金属の籠が相当な速度を出しているのは疑いないだろう。
こんなスピードを出して、このオンボロはちゃんと止まれるんだろうな、と余裕の表情を浮かべているシンシアと学園長の二人に向けて弘樹が疑問の声を上げようとした直後。
がくん、という揺れと共に全身に加重が掛かり、同時に金属の壁を鋭い爪で引っ掻いたような耳を劈く高音が頭上から響く。思わず耳を塞ぎ目を顰めた弘樹が暫しの後に瞼を開くと、そこには昇降機に乗り込む前と殆ど変わらない牢獄のような部屋が広がっていた。
「到着じゃ」
言葉短くそう告げた学園長は柵が開くと一番に昇降機を降りていき、そのまま塔の出口へと向かっていく。その後に続いてミユと共に昇降機の外に出た弘樹は窓の外の明かりに照らされた檻が並ぶ先ほどと同じ周囲の光景に僅かな違和感を覚えていた。
その違和感の正体が何なのか、確かめるより早く先を進んでいた学園長が塔への出入り口となる金属の扉を前に立ち止まると
「では二人とも、準備はよいかの?」
そう言ってゆっくりと、その大きな門扉を開いていく。




