プロローグ
拝啓、親愛なるお父様へ
今日、ついに私は目指していたアトラディアの探索者学園に到着する事が出来ました。
波に揺られ続ける何日もの長い長い船旅を終え、これまで訪れた事のない異国の港町に降り立った瞬間の高揚感は生まれて初めての経験で、思わず全身が震えてしまったのを覚えています。
見渡す限り広がる青く澄んだ水面は宝石のように美しく、綺麗な白い石造りの港には沢山の色鮮やかな魚が水揚げされていて、故郷の海との違いには驚くばかり。
ここから私の新しい毎日が始まるのだと、私はそう信じて疑っていませんでした。
……でも、私は間違っていたようです。お父様の言うとおり、私は勇者の卵として選ばれてなんていませんでした。
「猫人の身でここまで来るのはさぞ大変じゃったろうが、しかしこればかりはどうにもならんでな」
「そ、そんな……何かの間違いではありませんか?」
学園長室の真ん中、ぽつんと椅子に座る私の目の前の机に置かれた、たった一枚の紙切れ。これを心の底から信じて家を飛び出してまでここへ来た筈なのに、そう主張する声がこうも震えるのは何故でしょうか。
もしかしたら自分でも心の奥底で何となく自覚してしまったからかもしれません。お父様の言う通り、私はただの世間知らずで夢見がちなだけの子供だったのだと。
「名前はミユ・アントリーク。年齢は……ふむ。なるほど、この学園に通うのはちと早すぎるような気もするが、いやしかしその歳で癒療士とは中々に有望じゃな」
折角褒めて下さっているのに、こんなにも心が沈むのはきっと自分の愚かさが嫌というほど理解出来てしまったからでしょう。
「じゃがの、お嬢さん。確かにこれはここアトラディア学園への推薦状に見えるかもしれぬが、残念ながらこれでお主を入学させてあげる事は出来んのじゃよ」
大きな机を一つ挟んだ反対側に腰掛け困ったように頬を掻く白いお髭のご老人は、ここの学園長先生だと先ほどご紹介して頂きました。皺くちゃな顔に宿るとても物腰穏やかで優しそうな雰囲気は、何処か亡くなった私のお婆さまを思い出します。
「どうしてですか? もしかしてこちらの学園は私のような猫人には通えないのでしょうか……?」
私のような種族が世間一般でどのように思われているのか、それはこれまでの人生で嫌というほど分かっているつもりでした。
聖堂院での生活でもそうでしたし、今日ここアトラディアに来るまでだって、何度も酷い事を言われたし色々と怖い思いもしましたから。それでも私は探索者になりたいという幼い頃からの夢を叶える為に、こんな私でもこの学園に通えるのならと一縷の望みを掛けてここまで来たのです。
「いやいや、確かにこの学園には儂らのような人間が多いが他種族が居ない訳ではない。何せ古来より探索者とは家柄も血筋も関係のない実力主義の世界じゃ。それこそ世界協約が結ばれた動乱の時代からそれは変わらぬ」
「でも、だったらどうしてなんですか? 確かにこの書状は私の所に飛んで来たんです」
しかし現実は厳しく、私の幼い頃からの夢は今こうして本当にあっさりと終わりを告げようとしていました。
「確かにこの学園の推薦状は自ら世界を飛び回って当学園への入学に相応しい優秀な者を探すようになっておる。が、それだけではないのじゃ」
「どういう、ことですか?」
推薦状の噂はお父様に世間知らずだと言われる私でも知っています。特殊な魔術によって世界中を飛び回り、勇者に相応しい高い資質を持った人を迎えに来る伝説の書状。
かつて恐怖の魔王が世界を支配しようとした時、人類の中で魔王に対抗できるような選ばれし実力を持った者を探し出す為に作られたのだと幼い頃にお婆さまが教えてくれました。
そのお陰でこの書状に選ばれた人は今でも、探索者学園に薦抜入学生として特例で入学する事が出来るのです。入学試験も学費も免除され、探索者としての勉強をする事が出来るのだと。
「これには特殊な魔術式が幾重にも張り巡らされておってのう。推薦する対象者の名前や年齢、そして契約しておる職位や扱える戦技、果ては生まれ持った加護までが自動的に表記されるようになっておるのじゃ」
難しいお顔をした学園長先生の言葉に、私はこの書状が私の前に飛んできた瞬間の事を思い出していました。聖堂院のお庭で何となく拾った一枚の紙が、あの伝説の推薦状だと気が付いた時のことは今でも忘れられません。
私のような何の取り得もない、ただの女の子が推薦状に選ばれるなんて。本当に本当に、天にも昇るほど嬉しかったのです。そうして期待と喜びで何日も眠れぬ夜を過ごした後、決心した私はついに聖堂院を出てお父様に相談しに行く事にしました。
探索者学園に、行きたいと。
「しかし見た所、これに書かれたお主の名前や年齢は自分で書いた物と見受けられるがどうかね?」
「は、はい」
その通りでした。聖堂院のお庭で拾った真っ白の推薦状を手に突如現れ探索者学園に行きたいと告げた私はお父様に大反対されてしまったのです。世の中を何も知らない無知な子供、世間知らずで勘違いした愚かな娘の思い上がりだと。
それでも諦め切れなかった私は、これまでの人生で一度も逆らった事の無かったお父様に初めて反抗し、自らこの書類に署名してそのまま家を飛び出してしまったのでした。
港から商会の貿易船を乗り継ぎ長い海路で学園を目指す間、薄暗い船室の中で波に揺られながら一人自分の行いは正しかったのだと何度も何度も自分に言い聞かせながら。
なのに、運命は残酷でした。
「これが本物の推薦状なら記名など不要なんじゃよ。推薦状が自ら分析鑑定魔術を走らせて推薦された者の名前に年齢、加護すらも表示された状態で届くようになっておるでな」
「つまり、これは推薦状ではないのですか?」
「見たところ、中に分析鑑定を行なう術式が織り込まれておらぬ。偽造防止の術式もなく押印された学園の印章も本物とは似ても似つかぬ所からいって、これは何者かによって偽造された偽物と考えるべきじゃろうな」
「そんな……」
学園長先生の告げた現実はとても簡単な話でした。これはただの偽物で、推薦状ではない。私は薦抜入学生などではなく、お父様の言うとおりの単なる勘違いした世間知らず。
喉の奥から混みあがってくる嗚咽と溢れそうになる涙を堪えながら、私は深く深く俯いていました。私は一体、これまで何を一人で浮かれていたのでしょうか。
ただの偽物の書状を拾って、自分が選ばれたと思い込んで勝手に舞い上がって、心配してくれた婦長様やお父様の話も聞かず、一人でこんな所までやってきて。
なんと、愚かだったのでしょうか。
「……あの、この推薦状が偽物だというのは、もう間違いないんですか? 何かの間違いって事は……?」
「実はこの推薦状という物はのう、偽造防止として学園長である儂の指輪に反応するようになっておってな」
締め付けられるように痛む胸の奥から一縷の望みを賭けて搾り出した私の声に、穏やかな語りで学園長先生が示したのは、その右手に嵌められた海のように深い青色の宝玉があしらわれた綺麗な指輪でした。くすんだ銀色の環腕に無数の蛇が植物の根のように絡み付く台座と、そして何処か生々しささえ感じる群青の珠。
吸い込まれるような美しさと同時に感じる底知れない迫力を前に、私は思わず息を飲みながら聞き返していました。
「この指輪に、ですか?」
「うむ。こうしてこの指輪を翳すと近くの推薦状は全て浮き上がり、儂の下へと飛んでくるようになっておる。お嬢さんの持ってきた書状がこれでも動かぬということは、そういう事じゃな」
学園長先生の言うとおり、私が大切に大切に持ってきた推薦状は先生の指輪が放つ不思議な光に一切反応することはなく、無常にもただ机の上に鎮座するばかり。
その光景は私の中に最後に残っていた希望を打ち砕くには十分すぎるほどの説得力を持っていて、自分の夢が消え去った事を実感した私は溢れる涙を抑えきれずに再び顔を伏せるしかありませんでした。
「故に、まっこと残念じゃがお嬢さん。貴女の持ってきたこれは推薦状ではないんじゃ。まぁ推薦ではなく通常の枠で入学する事も出来るじゃろうが、入学には学費が結構掛かるでな」
「私、そんなお金なんて……」
推薦入学は学費が掛からないと聞いていたのでお金は殆ど持ってきていません。家から持ってきた私のお小遣いも、学園までの旅費でもう殆どが底を付いています。
お父様に反対されて家を飛び出して来た私には、何処にも頼れる場所などありませんでした。あるのはただ一つ、私が馬鹿だったという現実だけ。
抑えられない涙が頬を流れる冷たい感触に、今になって考えてみれば至極当たり前の事実を突きつけられた私は
最後にただ一つだけ、祈ったのです。どうか女神様、こんな愚かな私にもう一度だけチャンスを下さい、と。
もしかしたら、それが理由かもしれません。こんな私の下にヒロキ様がやってきたのは。
「む? なんじゃこれは!?」
これまで穏やかで冷静だった学園長先生が、急に驚いた声を上げたことで俯いていた私も釣られて顔を上げていました。
すると先ほどまでただの室内だった筈のそこに、いつの間にか眩く光る不思議な空間が現れていてぐにゃりと歪む景色の中から
「っだぁあああああああっ!?」
そこから叫び声と共に出て来たのは黒い髪と黒い瞳。ちょぴり目付きが怖くて、どんな時だって自信満々で豪快で自由で、それでいて本当は優しい一人の男の人。
唐突に部屋の真ん中に現れたその人は大きな声と共に空中に放り出されて
「きゃぁあああああっ!」
そのまま、下にいた私に向かって真っ直ぐに落ちてきたのでした。




