プロローグ
「あ、あの……大丈夫ですか?」
暗闇の中、耳朶に届いたのは包み込むような温かさを孕んだ優しい声色だった。
何処か躊躇いがちに向けられた棘のない穏やかな音吐は春の日差しのように柔らかく、闇の中に落ちていた弘樹の鼓膜を擽るように心地よく震わせてゆっくりと意識を覚醒させる。
「ここは学園門の正面ですから、寝ていたりすると危ないですよ?」
頭上から聞こえたその言葉に重い瞼を静かに開くと、まず見えたのは何処までも抜けるような青空と輝く太陽。そして、その綺麗な青空を人型に切り取る一つの影。
「もしかして体調が悪いんですか? 身体は起こせます?」
その影の正体がガラスのように澄み切った青い空を背後にこちらを心配そうに覗き込む一人の少女だと気が付くと同時、その少女の鮮やかな水色に輝く二つの瞳ががっちりと弘樹の視線を縫いとめていた。
南国の海のように透き通った大きな目。そんな目が覗いているのは少女が目深に被ったねずみ色なフードの奥底で、そこから僅かに零れ出た細く艶やかな少女の亜麻色の髪が弘樹の頬を撫でる。
ふわりと漂う花のような甘い香りにゆっくりと瞬きを繰り返すと、徐々に明瞭になってきた視界の端に緑に輝く草が生えているのが映り、そこで初めてどうやら自分は地べたに寝転がっているらしいと気が付いた。
「あの、ちょっと触りますね?」
呼びかけに応じようともしないこちらの様子を見て心配になったのだろうか、すぐ横で膝を付く少女は美しい水色の瞳に気遣う気配を宿らせながら、僅かに逡巡しつつもそっと手を伸ばすと弘樹の身体に柔らかく触れた。
少女の掌から伝わる暖かく優しい感触が弘樹の寝惚けた頭をゆっくりと覚醒させていく。
ここは何処だろうかと未だ寝起きの重い頭で周囲に目を向けてもそこには見覚えの全く無い光景が広がるばかりだった。
地面にはびっちりと石畳が敷かれ、並み居る建築物は石造りの重厚な建物ばかりで、コンクリート製の電柱とアスファルトで覆われた東京の見慣れた街並みとは程遠い。
「何処か痛みますか? 動かせない場所とかあったりしませんか?」
触れても呼びかけてもロクに返事をしない眼前の男を前に更に心配になったのか、全身を灰色の外套に包んだその少女は天上で輝く陽光を背後にすぐ目の前で身を乗り出し、何も答えない弘樹の身体の各所に触れて本格的に怪我の有無を確かめ始めた。
それは何処か遠慮がちでたどたどしい手付きではあったが動きそのものに迷いはなく、どうやら本気でこちらを心配しているらしいことは間違いなさそうである。
しかし身体を調べられている弘樹には、怪我も痛む場所もなかった。あるのは何処かふわふわと浮き上がるような心地と、身体中を襲う寝起き特有の倦怠感だけ。強いて言えば背中が少し冷たい気がするが、それは未だ地面に寝転がっているせいだろうか。
だがそれでも弘樹が眼前の少女の問い掛けに対して何ら声を出さなかったのは、自分の目に映った光景が信じられなかったからかもしれない。
「おい」
「は、はい!」
出し抜けに問い掛けたこちらの言葉に、少女が驚いたようにビクリと身体を震わせ、同時に被っていたフードがはらりと落ちて亜麻色の髪がふわりと零れ出た。目と目がぱちりと合う。
宝石を思わせる水色の大きな目が長い睫毛の向こうで僅かに揺れていた。
染み一つない雪のように白い肌、鼻筋の通った小さく形のいい鼻、赤く瑞々しくも薄い唇、細く整った眉まで。
全てが奇跡的なバランスで配置された、道を通れば十人中十人が振り返るであろう美少女。
歳の頃は小学生か中学生くらいだろうか。南の海を切り取ってきたかのような淡く澄み切った薄い青色の瞳は、やや垂れた目尻も相まってやや気弱な印象を孕んでいて、見る者に妙な庇護欲を掻き立てている。
しかしそこに少女の亜麻色の髪や滑らかな白い肌が加わることで、全体的に色素の薄い儚げな魅力と気品とを醸し出していた。
「な、なんですか?」
おずおずと、こちらに問いかけてくる少女の顔付きは何処か日本人離れした雰囲気を有しており、幼いながらも独特の色香を纏っている。
しかし何より弘樹の目を釘付けにしたのは、美しい少女の顔つきでも陽光を受けて深く透き通った薄青の瞳でも健康的な白く滑らかな美しい肌でもなかった。
じっと向けられた弘樹の視線の先、少女の頭の上でふわふわの何かが動いている。
僅かな癖もなく真っ直ぐに腰の辺りまで下ろされた少女の艶やかな亜麻色の髪、その一部が側頭部付近の左右両側で小さく二つの結び目に纏められていて、丁度その結び目の根元よりやや上。
少女の頭頂部付近にその物体は鎮座していた。
耳である。
いや、耳は耳でも人間のような形状ではなく、どちらかというと犬や猫に近しい全体がもふもふとした毛に覆われた三角形が一対、少女の頭の天辺に堂々とその存在を主張している。
少女の髪と同じ亜麻色をしたその獣の耳はさしたる違和感もなく、当たり前のような顔で柔らかく風に揺れていた。
「お前の頭、なんだそれ」
「あ、これはその……」
弘樹が指差した先を視線で追って、そこで己の頭を覆っていたフードが落ちていた事にようやく気が付いたのか、少女は慌てたように己の首元を見てそれから頭に手を触れて、しまったという表情を浮かべた。
己の悪事が露見したかのように素早く再びフードを被ろうとする少女の腕を掴んで止めた弘樹は、そこで初めて上半身を起こすと少女の頭に顔を近付けてじっくりと眺める。
「あ、あの……?」
急に腕を掴まれて不安げに震える少女の透明感のある水色の瞳の上で、件のふわふわの耳は持ち主の戸惑いを表しているかのように小さく震え動き続けていた。
陽の光に照らされて薄い茶色とも金色とも付かぬ色に輝きながら僅かに動くその微妙な反応にむらと悪戯心を掻き立てられた弘樹は、何の断りもないまま無遠慮に少女の頭頂部に聳える三角形へと手を伸ばす。
「ふひゃっ!?」
耳の下で少女の短い悲鳴が上がると同時、同時に小動物の如き柔らかさと温かさが一瞬指先に触れる。その二つのモフモフはまるでそれ自体に意思があるかのように、強引な男の指先から逃れようと小さく跳ねた。
ふわふわとして柔らかく、それでいて小刻みに震えるその感覚は何処か懐かしく同時に新しい楽しみを指先に齎してくれて思わず頬が緩む。
「本物か、これ?」
眼前にあっても作り物や装飾ではない本物の動物の耳が人間に頭部に付いているなど到底信じられなかった弘樹は、むずがる幼子のように己の手から逃げ回るその耳をむんずと容赦なく掴むと丹念に観察し始めた。
しかし軽く引っ張ったところで外れる様子もなく手の内で細かく予想外の動きを繰り返すそれは明らかに人工物などとは違い、触れる度に指先に伝わってくる体温や感触から考えても眼前で硬直している少女の一部であるとしか思えない。
「ひ、や、あっ」
無作法な観察行為に晒された眼前の少女は突然の出来事に驚き声も出せなくなっているのか、途切れ途切れに擦れた喘鳴のような息を漏らしながらその場で固まったまま目を白黒させていて抵抗する様子も見られなかった。
それを見た弘樹はふと気になっていた耳の奥、真っ暗な穴の中へと指先をそっと差し入れる。
「ひゃぁあ!」
途端、絹を裂くような悲鳴が上がり、同時に手の中の耳がびくりと激しく反応した。
これまで凍り付いていた少女も、まさか耳の穴にまで指を入れられるとは思ってもいなかったのだろう、座ったままの姿勢で雷に撃たれたかのように飛び上がると両手で頭を庇いながら抵抗し始めるが、弘樹はそんな少女の抵抗など意にも介さず毛むくじゃらの耳を更に詳細に確認していく。
「凄いなこれ! どうなってんだ?」
嫌がる声など何処吹く風、今まで見たことがない未知の何かを前に感嘆の声を上げる弘樹が好奇心に突き動かされるまま指先でなぞるように耳の内側を触ると、その度に少女の全身はバネ仕掛けにでもなっているのかと思うほど激しく跳ねて、可愛らしい悲鳴と共に逃げようと身を捩った。
「おいなんだよそれ?」
弘樹の視線を吸い寄せたのはそんな少女の足の間から覗いた耳と同じく亜麻色に揺れる一本の毛束。それは最早人間には絶対に存在しない、犬や猫などの尻にくっ付いているはずの物体で。
「尻尾まであるのかお前!?」
自分の目を疑った弘樹の言葉を受けて、少女はようやく自分の足の間から覗く毛束が次なる目標にされているのだと気が付いたらしい。
両手で隠そうとするも、腕の長さほどはあろうかという細くしなやかなそれはとても少女の小さな掌で隠しきれるような物ではなく。
「や、やだっ、止めてくださいっ」
「あぁ! おい逃げるな――――っと」
どうにか後ずさりしながら逃げようとする少女の尻尾に手を伸ばし掴もうと、まるで悪役のような物言いで弘樹が一歩を踏み出した、その瞬間。
少女が纏う鼠色の外套、その裾を踏んでしまった弘樹は一瞬バランスを崩して石畳が敷き詰められた地面へと勢い良く倒れこんだ。
それとほぼ同時、逃げようとして踏まれた自らの裾に引っ張られる格好でバランスを崩した少女も艶やかな亜麻色の髪を石畳の上に散らしながら同じく地面へと倒れこむ格好になり
「きゃっ!?」
「どわっ!?」
予想外の転倒に思わず声を上げた弘樹の耳元で、短い悲鳴が聞こえた気がした。ふよん、と転んだにしては妙に柔らかい感触が掌に触れて、思わず顔を上げてみれば眼前にあったのは少女の整った相貌。その表情は困惑から徐々に驚愕に、そして恐怖が入り混じった赤色に染まっていく。
しかしそれでも尚、少女の視線は下を向いていた。その視線を追って見れば、弘樹よりも一回りも二回りも小柄な少女の身体が全て自分の下にすっぽりと収まっていて、その中のとある一部を自分の掌がガッチリと掴んでいる。
指先に感じるのは先ほどまでのふわふわとは違う、しっとりとして張りのある柔らかさ。
「……あ」
思わず声が漏れた。完全に掌に収まるささやかなサイズ。野暮ったいダブついた外套の上からでは分からなかったものの、触れてみると掌に丁度収まる『それ』はかなり低めな少女の身長に即した可愛らしい大きさであり、僅かな硬さはあるもののそれでいてしっとりとした質感とピンとした張りのある弾力とが混在しながら指先はもちろん掌全体にその存在をしっかりと主張している。
柔らかい。男にはない丸みと曲線美を有した目の前の双球は弘樹の掌の動きに合わせて自在にその形を変え、特に意識したつもりがなくても自然と手先が、そして指先が感触を求めて動いてしまう。
「ひぅっ……」
掌に感じるささやかな感触を己の指先で味わうと同時に、頭上から何処か怯えたような苦しんでいるような、そんな悲鳴とも嬌声とも付かない声が聞こえてきて、弘樹はゆっくりと顔を上げた。
泣きそうだった。自分が、ではない。少女が、である。
南国のようだった海色の瞳が一気に透明な水で潤み始め、垂れた目尻にジワリと雫が溜まる。
流石に胸まで触られるとは思ってもいなかったのであろう。こちらとしても流石にそこまでするつもりは無かったのだが、今更そんな事を並べ立てた所で何の意味があるだろうか。
耳を触られ押し倒されて胸を揉まれて、という予想もしていなかったであろう事態に固まっていたらしい少女はとうとう正気を取り戻したのだろうか小さく口を開いて
「いやぁああああああああああっ!!」
少女の甲高い叫び声が弘樹の耳を劈いた。と同時、自らの胴体に鋭い衝撃を感じる。
それが何なのかを理解するよりも早く、足元にあった筈の大地は一瞬で消え去っていた。
周囲の風景が急速に逆走し、自分の肉体が感じていた重力の確かな感覚が高く高く浮いた空中でふわりと消える。
一体自分に何が起きたのかを探ろうとした弘樹が、流れる視界の中で辛うじて捉えたのは遠くに見える少女の腕がこちらに向かって伸ばされている姿だった。
どうやら自分は少女に突き飛ばされたらしい。そうと気がついた時には既に遅く、空が回り地も回り精緻に敷き詰められた石畳が上に下に転がって急速に近付いてくるのを他人事のように眺めていた弘樹は
「げふっ! ごへっ!」
二度三度、壁に激突しながら地面へと叩きつけられたのだった。生まれてこの方一度も出した事もないような声が腹の奥底から出たような気がしたが、衝撃で息が詰まりぐわんぐわんと揺れる視界や込み上げる吐き気に襲われた身体は動かそうとしても指一本動かない。
死体のように地面に倒れ込み土と草の匂いだけが脳髄を染め上げる中、徐々に暗く狭まっていく意識の中で目に入ったのは、真っ青な顔でこちらに駆け寄ってくる少女の姿だった。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! あの! そんなつもりはなくて!」
半泣きになっているのはまだ胸を触られたショックから立ち直れていないからか、あるいは自分の行動が予想外の結果を生んでしまったからだろうか。
何処か遠くから聞こえる少女の懸命に謝る声を聞きながら、弘樹は再び急速に失われていく意識を闇の中へと落としたのだった。