枷
燃える。燃える。
燃えろ、燃えろ、全部燃えてしまえ。
轟々と燃え盛る炎が館を包み込む。
広間には無残に切り捨てられた旦那の屍が転がっていて、使用人たちは皆逃げ出してしまった。
――思い残すことはもうない。
感慨に浸る私に、兄と息子が大声で訴えかける。
私は顔を伏せ、頭を振る。
私の決意が変わらないと知るや、ふたりの目尻から涙が零れ落ちる。
勇猛な一族に涙は似合わない。
あぁ、けれど。
それが私の墓標になるのだから、今だけは有難く受け取ろう。
さようなら、兄さん。
さようなら、私がただひとり愛した男。
1.
父ヴォルスングが杯を掲げ、兄弟たちが盾を打ち鳴らし、夜通し肉を喰らい酒を飲む。
ヴォルスング王の長女たる私と、シッゲイル王の婚儀はそれはもう盛大に行われた。
けれども宴の途中、ローブを被った旅人が、祝いの余興にと木の幹に剣を突き刺し、
「この剣を抜いた者にこれを差し上げる」と言った。
キラキラと宝飾の施されたそれは、どう見ても素晴らしい一品である。
シッゲイル王も私の兄弟たちも必死になってそれを抜こうとしたが、結局抜いたのは私の双子の兄シグムンドであった。
剣の美しさに魅せられたのか、三倍の重さの金と引き換えに譲ってほしいと願い出るシッゲイル王であったが、兄は手放す気はないと切り捨てた。
ぶつくさと文句を言い、兄に逆恨みの念を隠そうともしないシッゲイル王に、私は男としての底の浅さを見た。
……今にして思えば、あの旅人は『災厄をもたらすもの』だったのかもしれない。
この禍根が何も生み出さなければいいのだけれど。
2.
シッゲイル王のもとでの暮らしは悪いものではなかった。
彼は私を大事にしてくれたし、使用人たちにも躾が行き届いている。
ある日、「今度はこちらで宴を開いて、ヴォルスング王をもてなそう」と彼が提案した。
彼が私の故郷に知らせを出すと、すぐに良い返事が返ってきた。
ニヤリと王の顔に浮かんだ笑みに、私は嫌なものを感じた。
その日以降、方々と彼は連絡を取り合っている。
まるで戦争でもするみたい。そう彼に問いただしてみても、「宴のために親類に声をかけている」としか答えてくれない。
けれど私知っているのよ。
あなたが未だ、あの剣のことを諦めてないのだということを。
シッゲイル。正々堂々と戦うこともできない卑劣な男。
父王や兄弟たちに死なれてしまっては元も子もない。
私はシッゲイルの腹の内を手紙にしたため、彼らに向けて送った。
あぁ、これが無事に届いて、彼らがこの旅を諦めてくれればいいのだけれど。
3.
報せは無事に届いた。
だというのに、私の眼前……水平線の彼方には故郷の船が見えている。
ヴォルスングの一族は騙し討ちに遭うと知って、逃げ出すような臆病者ではないのだ。
だから……この光景も予想はしていた。
していたけれども、絶望を前にまるで目先が真っ暗になるようだ。
勇敢さは人を殺す。いや、これこそ災厄の神の望んでいたことなのかもしれない。
あれは勇敢なる死者をこそ求めている。
シッゲイルの集めた軍勢は、あの船に乗っている人間の数十数百倍にもなろう。
船が陸に近づくと、その場にいた全員が武器を抜く。
「これは盛大な出迎え痛み入ります」
父ヴォルスングが船上から大声で辞を述べる。
「さあ、早く船を降りられよ。宴の準備は整っておりますぞ」
シッゲイル王の軍勢が盾を打ち鳴らす。
「各々武器を携えて、まるで戦が始まるかのようですな」
「どうしました? まさか臆した訳ではないのでしょう」
睨み合うふたりに兄のシグムンドが声を上げる。
「話し合いは貪欲な鷲を喜ばせはしません。ここに来てはもはや剣で語り合うのみ」
父ヴォルスングを筆頭に一族が船を降り、戦が始まった。
至る所で血しぶきが上がり、まるで湖でも作るかの勢いで血だまりが広がっていく。
ヴォルスングの一族は勇敢で誰よりも強い。
けれど多勢に無勢。
時を刻むごとにその数を確実に減らされていく。
夜が来る頃には勇敢な父が倒された。
全身に幾つもの刀傷を負い、それでも八度出撃して八度前線で戦い続けたかの王を、エインヘリャルにおいて誰も臆病者呼ばわりはしないでしょう。
じきに兄弟たちも全員捕らえられてしまった。
兄シグムンドの剣は奪われ、ヴォルスング王の勇敢な7人の息子たちは今にも殺されてしまいそう。
私はシッゲイル王に嘆願をする。
「どうぞ、兄弟たちを太い木に繋いで飢え死にするまで生かしておいてください。
『目は愛しいものを欲する』と諺にあります通り、彼らを見ていられるうちは私は幸せでございます」
シッゲイル王は唖然として答える。
「なんて恐ろしいことを考える。私の妃は気でも触れたのだろうか。
ただ殺すだけでなく、その上苦痛までもたらすとは。
だがそれもいいだろう。お前の言うとおりにしよう」
私の気が狂ったというのであれば、それはお前のせいだ。
ぐっと言葉を堪え、狂おしく怒りに燃える目からは血の涙が零れ落ちた。
――私は生涯この恨みを忘れまい。偉大なる父ヴォルスングの亡骸に誓って。
4.
こうしてヴォルスング王の息子たちはシッゲイルの領地へと連れてこられ、太い鎖でその四肢を木に縛り付けられたまま放置された。
このまま飢え死にするまで放置されるかと思いきや、けれど森の獣たちがそれを見過ごすはずもなく……。
一晩目。末の弟に腹を空かせた狼が牙をむいた。
弟の絶叫と狼の遠吠えが森の中に木霊する。
私の褥まで聞こえるそれを、シーツを握り締めながら聞き届ける。
耳を塞いでなどしてなるものか。
翌朝、綺麗に食べられた弟の骨を埋葬してやる。
まだ死ぬには若く、優しくも勇敢な子であった。可哀そうに。
これだけの獲物を前にしておきながら、狼が殺したのはひとりだけであった。
これが逃げ出さない食料であることを知っているから、一日で全員を殺すことはしないのだ。
彼らは非常に頭がいい。
あのシッゲイルにも見習わせてやりたいくらい。
それから、毎晩のように狼は弱った弟から喰らっていく。
六晩、ひとりずつ殺されていく弟たちを埋葬しながら、それでも私は六晩も耐えた。
ヴォルスングの婿を裏切って殺されるのは易い。けれど、私はまだ死ぬわけにはいかない。
一族の血を絶やすわけにはいかない。
私には子を為す責務がある。
……復讐を果たす義務がある。
七日目の朝、夫が私を処刑の場に連れ出した。
凄惨な処刑場に、双子の兄シグムンドだけが生き残っている。
彼もまた、既に事切れそうなほどに弱っている。
双子の兄。我らが一族の誉れ。シグムンド兄さんだけはせめて……。
どのような哀願嘆願も、およそシッゲイル王には意味をなさない。
だから。唯一油断するであろうこの時を。全ての兄弟の屍と引き換えに手に入るこの時を。
――この時を待っていた。
「兄への最後の挨拶をしとうございます」
シッゲイル王に頭を下げる。
屍を葬る時以外に、兄弟に近づくにはこうする他なかった。
王の許可を得て兄へと近づく。
「兄さん、これが私からの最後の別れでございます」
その口に蜜酒を含ませてやる。
「どうか、達者で」
この意図が伝わってくれるといいのだけれど。
5.
その夜、狼の遠吠えがひと際大きく聞こえた。
私はシーツの上で、ただただ兄の無事を祈り続ける。
八日目の朝。
処刑場には骨も残っていない。
周囲にばらまかれた凄惨な血液の量が、兄の死を物語っていた。
「きっとあの狼も最後の食事だから、欲張ったのだろう。」
シッゲイル王が心底嬉しそうに笑う。
……きっと兄は生きている。
縛る対象のなくなり、地面に打ち捨てられた鎖を眺めながら、私はひたすらに信じ続けた。
その後、私はシッゲイルの子を孕んだ。
私の子。私たちの子。
――ヴォルスング一族の男の子。
この子には復讐の義務がある。
ヴォルスングの血族を殺した父親に、血の制裁を加えねばならない。
悲哀と憤怒の血と涙で育てましょう。
死んでいった弟たちの名前は子守唄。
お前に流れる血は、お前の正義を高らかに謳う。
剣を握らせ、お前は誰よりも勇敢なのだと教える。
あぁ、けれど、この子は優しすぎる。
復讐を為すには愚かすぎる。
刃物に怯え、父親を愛し、ヴォルスングの血には似合わぬ軟弱な子どもなのだ。
6.
その頃、ちょっとした噂を耳にする。
敷地内の森で、兄の亡霊を見たのだという。
やはり兄さんは生きている。
よしんば本当に亡霊だとしても構わない。会いに行かなくては。
未だに兄は森の中から、虎視眈々とシッゲイルの命を狙っているのだ。
そのことが嬉しくて、私は子供を連れて、森へ訪れる。
兄を目撃したという木こりの言葉を頼りに歩いていくと、雨風をしのぐ程度に作られた小屋が見つかった。
「兄さん、私です。ヴォルスングの娘シグニューです!」
大声で叫ぶと、兄が顔を出す。
ひとしきり再会を喜ぶと息子に告げる。
「さぁ、勇敢な叔父に挨拶なさい」
兄と息子が抱擁を交わすと、兄からあの後の顛末を聞かされる。
「最後の夜、狼が俺を狙って牙を剥いたとき、奴らは俺の口に含まれた蜜酒に気が付いた。
俺の口を舐めまわる奴らの舌を、俺は嚙みちぎってやったのさ。
絶命した狼の喉元に食らいつき、血を啜る。
狼の血肉を喰えば力も出る。鎖を引きちぎった後は、その場にいた全ての狼を撲殺して喰らい尽くした。
あいつらが弟たちにそうしたように」
すぐにでもシッゲイルに復讐をしたいところだが、と兄は続けた。
「しばらく様子を伺っているが、どうにもあいつは用心深い。
ひとりではシッゲイルにたどり着く前に殺されてしまうだろう」
そうなることは前々から予想していた。
「ならばこの子をお使いください。
兄さんがこの子を一人前のヴォルスングの孫にしてやってください」
兄が快く頷いたので、私は息子を彼に託した。
数日後、兄のもとへ食料を届けに行くと、そこに息子はいなかった。
どうなったのかと聞くとシグムンドは首を振りながら
「うるさいから殺した。あいつにはその資質も度量もない」
そう断言した。
「そうですか、それは仕方がないですね」
シッゲイルには息子が事故で死んでしまったと嘘を吐いた。
子どもを失って悲しんでいるとでも思ったのか。
その晩シッゲイルが床に入ってきた。
こんな男に抱かれるのは不本意だけれど、これも復讐の為だ。
私は再び身ごもった。
7.
けれどやはり、ヴォルスングの血は薄いようで……
兄に預けた途端に殺されてしまった。
このままではいけない。私たちの復讐は果たされない。
眠る度に死んでいった弟たちの顔が、殺された父の顔が夢に浮かぶ。
そんなある日、ひとりの魔女がシッゲイルの下を訪れた。
これは好都合であった。
私は彼女を寝床に呼ぶと、望みの金銀宝石と引き換えに頼みごとをする。
「今晩だけ、私とあなたの姿を入れ替えて」
私は魔女の服を着て表に出る。
今頃シッゲイルは私の姿をした魔女を抱いていることだろう。
私は迷子になったフリをして兄のもとを訪れる。
一晩のお礼にと酒を酌み交わし、それっぽい甘言を囁いて組み伏すように仕向ける。
兄の匂いの付いた寝床で、私たちは獣のように愛し合う。朝まで、何度も。
孕まなければならない。今晩、絶対に兄の子を孕まなければならない。
精も一族の血も、全てを引き継ぐために。
これも復讐のため。そう己に言い聞かせる。
私は壊れている。母親としても失格だ。兄妹としても、摂理に背いている。
けれど、私を壊したのはあの憎いシッゲイルなのだ。
父と弟たちの復讐を遂げなければ、私はいつまでも壊れたままなのだ。
8.
十月ののち、私は元気な赤子を産んだ。
様々な枷の果てに産まれたこの子を、シンフィヨトリと名付けた。
この子ならばきっと……。
随分と快活に育ってくれている。
もう兄に預けても平気であろう。
兄は三度ヴォルスングの一族を育てるのを快諾してくれた。
その晩、森中から狼の遠吠えが聞こえていた。
それから数か月。
兄はシンフィヨトリを殺さず、時には兄が手を焼くほどの勇敢な男に育て上げた。
誰にも姿を見られないよう狼の衣を身にまとって、森を走り回る姿は本当に獣のようである。
兄は時折何か言いたげな仕草もしていたが、私は私の罪を隠し続けた。
明かしてしまえば、復讐を成し遂げる前にシンフィヨトリが殺されてしまいかねないからだ。
「そろそろ頃合いだろう」
更に月日が流れて、食料を渡しに行った時に兄からそう告げられる。
目頭が熱くなる。
シンフィヨトリを抱きしめて、
「初陣よ。しっかりやるのよ」と告げる。
息子から立ち上る獣の匂いが、心の奥底を包み込む。父や兄と同じ匂いだ。
その晩、館に戻った私は今か今かと待ち続ける。
満月が中天に差し掛かろうという頃合い、警笛が鳴り響く。
――来た。
入口を塞ぐ勇士たちを、ふたりのヴォルスングの血族が薙ぎ倒していく。
切り進むふたりはやがて館の中に入ってくると、そこでも縦横無尽に立ち回る。
しばらくして、ついにシッゲイルのもとへと辿り着く。
まるで幽霊でも見たかのように怯えるシッゲイルを刺し殺し、シグムンドは自らの宝剣を再び手に入れる。
終わった。ようやっと。
手が震える。ボロボロと涙が零れ落ちる。
父王の名と、弟たちの名をつぶやいて、祈りを捧げる。
どうか彼らの魂がただしくヴァルハラへと導かれますように。
「おめでとうございます。兄さん、シンフィヨトリ。あなたがたふたりは一族の誉れです」
ふたりのもとに駆け付け、涙ながらに抱きしめて、礼を告げる。
「……これで私も死ぬことができます」
ふたりの体から離れ、手にした蝋燭を捨てる。
広間に敷かれた赤い絨毯がメラメラと燃え始め、すぐに私とふたりとを分断する炎となった。
ここに来るまでに、すでに私の部屋やシッゲイルの部屋も燃やしてある。
間を置かずして館中が炎に包まれるだろう。
「シグニュー!」
兄が差し出す手に、私は首を横に振って応える。
「兄さん、シンフィヨトリ。ここでお別れです」
復讐のためとはいえ、私は禁忌を犯した。
だから、想いを果たした今、生き長らえることはできない。
それは一族の名誉のためであり、これから生きるふたりのためでもあるのだ。
兄と息子が何度も私の名を叫ぶ。
私は絶命したてで、未だに血を流し続ける旦那の隣に座り込む。
「それに……この人はとても浅ましい人でしたが、それでも私の夫です。
最後まで一緒にいることにします」
私の決意が変わらないと知り、ふたりともが口を閉ざす。
「さぁ、さようならです。行きなさい、シンフィヨトリ。愛しい息子。
兄さんにあまり迷惑をかけないようにね」
パチパチと音を立てて炎が燃え盛る。
既に広間も炎に包まれていて、焼け落ちるのも時間の問題であろう。
肩を落としたふたりの姿が遠ざかっていく。
それでいい。ヴォルスングの一族に未来永劫、武功と誉れが付き従いますように。