ファジー・イージー・タナトロジー
竜巻みたいに突然現れて、あっという間に消えてしまった人がいた。
あたしは今も、その人のことを愛している。
「まな? おーい、愛!」
「ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」
「お姉ちゃん名古屋初めてなんだから。愛ちゃん頼むよ?」
「うん、ごめんね」
もう何度か分からないくらい目にした金時計。けれど、二年ぶりに見るそれがなぜだかひどく虚しかった。それに気を取られて足が止まってしまったのだ。
姉に心配を掛けたくはない。だから、笑って見せた。いつも通りの返答をしてくれる姉は言外に「空元気には気付いていない」と示しているのだろう。
本当はなぜ虚しいのか知っている。でもあたしには解らないの。
オレンジと黒、もっと言えばカボチャやお化けが目に付く高島屋と金時計の間をすり抜けて、地下鉄の方へ向かう。分かっていたことだが、関東よりこちらの方が肌寒かった。ほんの短い距離の屋外移動で身体が硬くなった気がする。
東京とは比ぶべくもないが、人通りは多い。はぐれてしまわないように無理やり意識を切り替えた。
今日は、あたしとお姉ちゃんで名古屋を観光する予定になっている。魅力のない街と言われているが、名古屋に限らずどんなところだって観光スポットがないわけはないのだ。
ドニチエコきっぷを買って、取り敢えず名古屋城へ。あたしも初めて行くところだから、市役所駅からはスマフォ頼りになる。姉は地図を読むのも苦手だから、何処に行くにも結局あたし頼りっていうのは言わないのが優しさかな。
駅から五分だし、そもそもそこら中に案内があったし、名古屋城には難なく到着。
「金シャチ生で見たって自慢になる?」
「んー……『触った』ならなるかもだけど」
「あー! たまに下ろすんだっけ」
「あたしもよく知らないけどね」
彼もあんまり興味なさそうだったし。
そう、口にしかけて、制止をかけた。他愛ない会話も名古屋ではうまく出来ないらしい。
彼と関わりのない所から慣らしていく予定だったんだけどな。
会話も足も止めてしまったあたしを、お姉ちゃんが心配そうに覗き込む。
「まな、やっぱりやめておく?」
いたいくらいの優しい声がすぐ傍から響いた。どうしたいのか、自分でも解らない。
「……どこかでお茶にしてもいい?」
「そっか、それは名案かも」
二者択一でなくともいいんだって、それも彼が教えてくれた。
金シャチ横町のカフェに入って、おすすめのドリンクを注文する。お姉ちゃんとの間にあたたかな沈黙が揺蕩ってきた。
その厚意に甘えて思考の海に沈んでいく。
――彼と出会ったのは六年前の同じ時季。
『ハローレディ。俺とデートしてくれません?』
友達との約束のために渋谷、ハチ公前で待ちぼうけていたときのこと。あたしのイメージとは異なる文言でナンパしてきたのが彼だった。
初めて出会うナンパに強い警戒心を抱いたことを覚えている。
『つまんなかったら帰らせていただきますから』
『善処します』
最初は断るつもりだったのに、最終的に彼の熱意に負けてしまった。というよりも、あたし好みの人だった所為で己の欲に負けたという方が正確だろうか。後から思うとそんな気がした。
言い訳になるけれど、決して先約を反故にしたわけではない。友達には予定を別日にしてもらったのだ。彼女とは今なお付き合いがある。
あの時のことは本当に感謝しかない。
彼女が快く応じてくれなければ、あたしは「愛する人」を得るに至らなかったのだから。
友達との約束を変更してまで行った肝心のデートは、珈琲店から始まった。あたしの好みに彼が合わせてくれたのだ。
『俺は兼松実。兼業の“兼”、松竹梅の“松”、果実の“実”と書きます。二十八歳の小説家です』
『都内の大学に通ってます、近藤愛といいます。教育学部の四回生です』
歳も、立場も掛け離れた人だった。あの日声を掛けてくれたことを、何度感謝したか分からない。
他愛ないデートを経て、その日のうちにあたしたちは交際を始めた。社会人である彼が月に一度以上会いに来るという約束まで交わして。
付き合っていた期間は約三年。「しか付き合っていなかった」のか「も付き合った」のか、あたしには解らない。
遠距離恋愛だったから、会う回数は少ない方だったと思う。
でも、最初の約束がなんとなく変化した結果、第二土曜日はほとんど毎回デートだった。全然会えていなかったわけでもない。
出会って数ヶ月経つ頃には、あたしも社会人になった。実さんのことが沢山知りたかったのもあって、こちらが出向くことも多くなる。岩倉市の平屋を借りていた彼は、あたしが泊まりに行くのを喜んでくれた。
平屋のくせに安い賃貸は、設備が壊滅的で。いきなり水になるシャワーや、なかなか着かないコンロ。それらに文句を言いつつ彼の家で過ごすのも、それはそれで楽しかった。冬場なんか本当に最悪だったけれど。
唐突に終わりが訪れたのは、交際四年目の春。
いつものように第二土曜日の約束があって、あたしが向かったのは名古屋駅。金時計で十分、スマフォと睨めっこをして待った。
なんの連絡もなかったから、寝坊でもしているんだろうと思って犬山線に乗車。
慣れたものだなあ、なんて一人悦に入っていたその数十分後に奈落へ招かれるなんて、誰が思うだろう。
預かっていた合鍵で実さんの家に入った。「ただいま」なんて、上機嫌で言ってみたりして。
躊躇いなく寝室に足を踏み入れる。今日はちゃんと布団で寝てたんだ、なんて思いながら、愛しい人の頬をつねった。正確には、つねろうとした。
固い。
冷たい。
何が起きたのか、解らなかった。
真っ白な頭で、名前を呼ぶ。胸に触れる。
――最愛の彼は、息をしていなかった。
そこから先のことは何も覚えていない。気付いたときには自宅だった。
姉曰く、「愛ちゃんはすぐ救急車を呼んだらしいんだけど、実さんはその時もう……。救急隊員に呼ばれて警察が来て、それから彼のご両親が来て。それで、事情聴取が終わったあと、お姉ちゃんに電話を寄越したの。あんたがあんまり危なっかしいから私が車出したのよ」だそうだ。
何時間運転してくれたんだろう。往復だから十時間はくだらないはずだ。
お姉ちゃんにも、当然感謝している。
あたしは彼の、実さんの、ただの恋人だった。ご両親の厚意で葬儀には呼んでいただけたけれど、それだけ。
現実を受け止められなくて、四十九日も一周忌も何もかも触れずに来てしまった。
彼が亡くなって二年以上経った今、ようやく心の整理をする決心が付いたのだ。
「愛ちゃん、お替わりいる?」
思考の海から浮上して一息吐いた。そのタイミングを察知したように姉が声を掛けてくれる。さっきと変わらない、あたたかな空気に泣きそうになった。深呼吸一つで込み上がったものを押し返す。
テーブルに目をやれば、姉のカップは空だったし、いつの間にかあたしもドリンクを飲み干していたらしい。
「ううん。折角名古屋に来たんだもん、観光に戻ろう」
今度は穏やかに言うことが出来た。空元気なんかじゃなくて。
心の傷を癒す最も有効な薬というのは、存外「時間」なのだと思う。
そう、あたしはもう立ち直っていいはずだ。お誂え向きに、彼との交際記念日が今年は土曜日だった。だから今日、名古屋に来たのだ。
あたしはきっと、ずっと実さんに謝りたかった。その気持ちをやっと認められるようになって、なおかつ丁度いい口実まである。今日お墓参りが出来なければ、一生実さんと向き合えないままだろうと思った。
それでも、彼との思い出を刺激されると「つらい」がどうしても勝ってしまう。金時計然り、金シャチの会話然り。
そんな自分でも受け入れようと考えられたのは、それもきっと時間薬のおかげだった。
悲しいものは悲しい。でも彼に笑いかけたいのも本当。
こんなぐちゃぐちゃの「あたし」だって、きっと彼は受け止めてくれる。
そう思えて、心に齎されたのは安寧。
これまでは彼を思い出すことすら出来ないような状態が続いていた。
彼に纏わるあれこれを考えられるようになったことそのものが、そもそも時間薬の恩恵だったんだと思う。
「じゃあ早速、名古屋城に入ろっか」
「あたしも初めてだから、案内は期待しないでね」
あたしの顔を見て、安心したようにお姉ちゃんが言った。心配を掛けていたんだなあと実感して、ただ寄り添ってくれた優しさにまた謝意が湧く。照れ臭くて、口を衝いたのは茶化すような言葉だったけど。
なんとか感謝の気持ちを示したくて、支払いを申し出る。すると、頭に軽い衝撃が来た。「お姉様の面子を潰そうとしないの」と、伝票が手の中から消えていく。
観覧券発売窓口で徳川園との共通券を購入するときも同様だった。お姉ちゃんがさっさと二人分の料金を出してしまっていたのだ。次のお誕生日には、少し奮発してプレゼントを選ばないといけないなあ、と思う。
「次の行き先も決めてなかったし、二割引って言われてつい共通券を買っちゃったけど……徳川園って何処?」
「ちょっと歩いて行くには遠かった気がするなあ……調べてみようか?」
そんな風にお喋りしながら歩いていると、人だかりが目に付いた。「おもてなし演武」が始まったところらしい。
今では各地のお城で活躍する「武将隊」の先駆け、「名古屋おもてなし武将隊」の催しだ。あとから知ったのだが、「おもてなし演武」は休みの日の十一時と十四時半にしか開演しないという。出会えたのは幸運だった。
姉の「初めから観られるなら、折角だし鑑賞しよう」という言葉に同意する。
約三十分の公演だっただろうか。「おもてなし演武」が終わったときにはすっかり気分が高揚していた。初めて生で見る殺陣は「圧巻」の一言。これ以上は上手く言葉に出来そうにない。
姉も同じだったらしく、二人とも無言でひとまず隅の方へ移動した。同時に感嘆の息を吐いて、思わず笑い合う。
「タイミング一緒とか……愛ちゃん、お姉ちゃんのこと好き過ぎじゃん」
「何言ってんの、お姉ちゃんがあたしのこと好きなんじゃん。そんなことよりさ、殺陣、凄かったね……舞台にハマるの分かるわ……」
「おもてなし武将隊が人気なの分かっちゃったねー」
「ほんとね……」
感動を分かち合って心を落ち着けた。ついでに、徳川園への行き方を調べたり、城内の散策ルートを決めたり。徳川園に行けるバスは、十二時二十一分発の次は五十一分発になってしまうらしい。
慌ただしく観覧するのも趣に欠けると思ったあたしたちは、五十一分のバスを目処にすることにした。
入城時にもらったリーフレットを見ながら、御深井丸、本丸、二之丸、西之丸の順に回る。遠目に見てもお城というものは威厳があるものだけれど、間近で見るのはやはり迫力が違った。
お姉ちゃんとじゃれあいながら一通り見終わって、目をやった時計が示していたのは十二時四十六分。停留所はすぐそこだし、丁度いいと言える時間だった。
ルートバス「メーグル」で徳川園へ。
「やっぱり、惜しい感じするね」
「一月後だったら紅葉が見頃だったんだろうねー」
バスに揺られるのはたった五分ほどだったが、その間に徳川園を検索していた。
ロックを解除した途端、画面が映したのは名古屋城で徳川園へのアクセスを調べたブラウザ。
そういえばそのまま画面消したなあ。ずぼらもたまにはプラスに働くみたいだ。
なんて考えながら、「名古屋城 徳川園」の検索結果に目を走らせる。それによると、ここは紅葉の名所らしい。
その情報があった所為で、却って「惜しい」と姉が言う。賛同してみたが、あたしは今も十分にきれいだと思った。実さんと来てみれば良かった、と。
「取り敢えず腹拵えかなー?」
「ふふ、お姉様の仰せのままに」
悲しくなるより先に、姉の弾んだ声があたしを引き寄せた。
こちらが徳川園の特色なんかを調べている間に、姉はランチを探していたようだ。「蘇山荘」という和カフェのおすすめ記事を見つけたみたいで、強く推される。
「この『蘇山荘』って建物、国の有形文化財なんだって」
「へえ……文化財で食事したって自慢になるんじゃない?」
「ほんとだ!」
他愛ない会話を楽しみながら、ランチに舌鼓を打った。時刻はもう十四時を回っている。
冬至までまだ少しあるとは言え、もう随分日が短くなった。
そろそろ実さんの実家方面に向かうべきだろうか。
「お姉ちゃん」
「良い時間かな? 徳川園はまた紅葉の季節に堪能しに来ようか。その時は美術館と蓬左文庫も観たいね」
「……うん」
皆まで言う必要はなかった。ここまでずっとそうだったように。
何かが喉元まで迫り上がってくる。これはきっと、「幸せ」と呼ぶものだ。
でも、あたしは喪失に巣くわれていて……だから多分、「切ない」というのが一番近い。
それが、彼の不在から得られた幸せを切り捨てることも受け入れることも出来ないあたしの感情につく名前。
二年半もの間、閉じていた瞳を開いて「あたし」を繙いていく。これから実さんに向き合うために。
「どうやって行くの?」
「まず名古屋駅に戻らないとだから……メーグルは遠回りになるみたい。取り敢えず『徳川園新出来』のバス停に向かうところからかな」
お店を出る前にアクセスを調べなくては迷子になること必至だった。またしてもブラウザアプリのお世話になる。
「お……じゃなくてえっと、最終目的地は何処にあるの?」
うっかり「お墓」と言いそうになった姉が慌てて言葉を選び直した。その様子がなんだか可笑しくて、少し口角が上がる。
口許を緩めたあたしを見つめるその視線は、すごくあたたかかった。
「実さんの実家は清須市だよ。名鉄名古屋本線で行けるの」
お墓の場所を知るための電話をしたのは一週間前。とても勇気が必要だった。けれど、誰かに頼んで良いようなことではない。
震える指で、ようやっと電話帳の番号に触れた。
『もしもし、まなちゃん?』
『お久しぶりです、実さんのお母様』
コールは、少し長かった気がする。もしかしたら、同じ緊張があちらにもあったのかも知れなかった。でも、あたしを呼んだのはそんなことを微塵も感じさせない声音。
二年半も逃げていたあたしの番号を消さずに取っておいてくれて、優しく名を呼んでくれた。剰え、突然の連絡に対して、お母様はずっと柔らかく応答してくれて……みっともなく声を震わせてしまったことは自覚している。わざわざ電話を替わって、彼のお父様も歓迎の意を示してくださった。
優しい人は優しい人に育てられたんだなあ、と思う。私は彼に優しく出来ていただろうか。
「もし、帰りたくなくなったりとかしたら教えてね。ホテルでもなんでも探すから」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
過去に引き摺られた意識が姉の声で戻ってきた。茫然自失だったあたしを誰よりもよく知っているお姉ちゃん。行き過ぎな程に心配してくれているのを肌で感じた。
今日のあたしは、ずっと胸が苦しい。良くも悪くも。
「そう……じゃ、行こっか」
それからはまた沈黙の時間になった。姉はあたしが「切ない」心を処理出来るように、時間をくれたのだと思う。
電車の窓から見える景色に彼とのデートを垣間見たり。初めて見る彼の故郷に彼との約束を思い出したり。
きっと、あたしの動きは不規則になっていただろう。お姉ちゃんはその全てを自然に受け入れてくれた。
「ここ、だ」
最寄り駅から徒歩二十分ほどだったろうか。住宅地の一角の墓地、その中の「兼松家之墓」に、やっと辿り着く。
そう、やっとだ。
「あ、お花!」
お墓を見た姉の第一声に、血の気が引く思いがした。
「ほんとだ……蝋燭とお線香は忘れなかったのに……」
「お姉ちゃん、お花屋さん探して買ってくるから。愛ちゃんは待ってて」
お墓参りはいつも親同伴で行くものだ。自分たちだけで用意するのは初めてだから、仕方のないことかもしれない。そうはいっても、準備不足にひどく心が痛んだ。
蔑ろにされたように感じるのではないかと、胸が苦しくてしょうがない。
「実さん、ごめんね」
長いことずっと待たせて。
「ごめん」
お墓参りがうまく出来なくて。
「ごめんなさい」
あなたの記憶を封じ込めていて。
「ごめん」
二年前、忙しいなんて言って金曜日から泊まりに行かなくて。
「ごめんね」
あなたを、助けられなくて。
一度口にしたら止まらなくなった。お墓の前に跪いて、零れるままに謝り続ける。服が汚れることなんか考えられなかった。
何度繰り返したか分からないけれど、涙と謝罪を沢山たくさん流して、漸く落ち着きを取り戻す。
変わらない過去。きっと変えられる自分。今は形のないの未来。
そこで唐突に気付いた。
あたしは、「あなたを足枷にしたくなかった」のだ。考えたら足枷になる。だから考えることから逃げて、逃げて、静かな檻の中に逃げ込んだ。
端から見れば、檻も足枷も同じ「縛り」だと気付かずに。
愛するあなたがあたしを苦しめる「縛り」になることが耐えられなかった。
けれど、違う。やっと分かった。これは碇だ。あたしの船をこの世界に留めるための。
「ありがとう、まことさん」
出会ってくれて。優しくしてくれて。愛してくれて。愛させてくれて。
立ち直ったとは言い難い。けれど、あなたの居ない世界でも笑うことが出来ているから。どうか、安心してほしい。
口角を持ち上げてみた。多分、すごく不細工だけれど、実さんに笑いかけることも出来たと思う。
彼に言いたいことは一通り言えた。一息ついて、水場に移動する。本来の使い方ではないけれど、こんなぐちゃぐちゃの顔のままお参りを続けるのも失礼だろう。そう思って、先に手や顔を清めた。
それから、手桶に水を溜めて実さんのところへ戻る。お墓を清めている内に、お姉ちゃんもお花を抱えて戻ってきた。
蝋燭やお線香、お水にお花。お墓を整え終わって、二人で手を合わせる。
あたしの心はもう決まっていた。
貴方を想って生きていく。辿り着いたのはそんな簡単な答え。
ひとより泣いている時間が長いかもしれない。すぐにまた心の在り方に悩むのかもしれない。
それでも。
貴方を想ったまま、死を心に抱えたまま、喪失の意味は解らないまま、柔らかに生きていこうと決めたのだ。