冬のストリートピアノ
師走の夜は冷える。
特に星が綺麗に輝く夜は。
誰の言葉だったかな。
私はそう思いながら空を見上げる。
街中から見上げる星は、人間が作り出した人口の光を避けるように、どこか遠慮がちに輝いていた。
三日間降り続いた雪が嘘のような夜。
こんな日だけだったら、私は冬を好きでいられるのに。
「さて・・・」
私はそう呟いてから椅子に座る。そして大きく息を吸い込んで鍵盤蓋を開けた。
この広場にはストリートピアノがある。
誰でもいつでも弾いて良いピアノだが、さすがに今は寒さのせいか、チラ見するだけで脇を通り過ぎる人がほとんどだった。
それは私がピアノの前に座っても変わらない。
人差し指で「ラ」の音を鳴らす。
冷たい空気を震わせてポーンと響く音は、ガラスを震わせているような余韻があった。
周囲の気温は零度近いし、湿度もかなり低いと思う。
ピアノ的には過酷な環境ではあったが、音質は嫌いじゃなかった。
むしろこんな日はピッタリだとすら思う。
地面に荷物を置き、手袋を脱いだ私はもう一度大きく息を吸い込んだ。
無造作に吸い込んだ冷気に体が一気に冷えていく。
そして少し呼吸を整えてから、鍵盤の上に指を乗せた。
ショパンの練習曲集作品10。私が苦手としていた曲の1つ。
小学校の頃から習っていたピアノが功を奏し、私は音楽大学のピアノ科に入学することが出来た。
好きな事を嫌いになるまで練習した日々。
その先に未来を描き始めた3年の冬、私の左手はもう限界になっていた。
最初は軽い腱鞘炎だと思った痛みは、ほどなく腕全体に広がっていった。
慌てて行った整形外科の先生は、遠慮なく私を叱責し、ピアノの演奏にドクターストップをかけた。
私が再びピアノを弾くことが出来たのは4年生になってから。
病気的には完治している筈だが、それでもたまに突然痛みが出て演奏に影響してくる。
そんな自分を許せない日々を過ごした夏。
私は音楽の道を諦め、一般企業への就職を選んだ。
中堅機器メーカーの営業の仕事は、幸いにも私に向いていた気がした。
人と話すことに抵抗はなかったし、同僚とも上手くやれている。
7年も同じ仕事をしていると、もうベテランのようなものだ。
大変ではあったけど、それなりに楽しく、それなりに順調な日々。
少なくても昨日・・・、いや今日の昼まではそう思っていた。
「重さが違うんだよね」
ついさっき夕食を食べながら同い年の恋人に言われた言葉。
最初は何を言われているか理解できなかった。
「・・・どういうこと?」
笑顔で答えた私に、彼は遠慮がちに続ける。
「お互いの気持ちの重さっていうか、方向性っていうか・・・」
そう言われて私は全てを理解した。
彼は私と別れたいんだ。
三十路が近くなってくると、当然ながら女性は結婚を意識し始める。
私だってそうだし、根拠もなく彼と結婚するものと思っていた。
無意識にそれを匂わせていたところもあったと思う。
でも彼は違ったらしい。
きっともっと自由でいたのか、新しい恋が生まれたのか。
そんなところだろう。
「そっか・・・」
取り乱したいのを必死に堪えた。
多分大学生の頃の私だったら、人目も憚らず泣き出していたと思う。
でもこの歳になると、泣き出す自分に向けられるであろう周囲の視線が気になる。
「じゃあ仕方ないね」
私はそう言って伝票をつかむと席を立った。
彼は何も言わずにそんな私を見つめている。
もしここで「ゴメン」とか言われたら、思いっきり引っ叩いていたかもしれない。
今日はクリスマスの予定を相談しようと思っていのに。
彼が花束を持ってきてもいいように部屋に花瓶も用意しているのに。
彼に渡すプレゼントも選んでいたのに。
しかもそれはもう買ってカバンの中に忍ばせていたのに。
最悪だ・・・。
無意識に弾き始めたのが「別れの曲」なんて皮肉なものである。
ピアノを弾くのは久しぶりだったが、それでも体はちゃんと覚えていた。
この寒さなのに左手に痛みもない。
氷のような鍵盤が私の体の一部になったような気がした。
私が弾き始めてから、何人かかが足を止めている。
今でもピアノには自信があった。
ずっと弾いてきたのだ。
もしかしたら言葉より、ピアノの方が気持ちを伝えられるかもしれないとすら思える。
曲は中盤の盛り上がりを過ぎ、また静かな部分へと続いていく。
そしてゆっくりと静かに終わらせた。
手を膝の上に戻して大きく息を吐く。ここまでが私のルーティーンだ。
不意に拍手が聞こえる。周りで足を止めていた数人からだった。
こんな私でも拍手を貰えると嬉しい。
私は微笑んで軽くお辞儀をすると、ピアノの鍵盤蓋を閉めて立ち上がった。
この寒さの中、アンコールに答えるつもりはない。
「あの・・・」
不意に背後から声をかけられて振り返ると、そこにはスーツ姿の男性が立っていた。
中肉中背で、見た感じは私と同じくらいの年齢だと思う。
「素晴らしい演奏でした、これ良かったら・・・」
男性はそう言うと小さな花束を差し出した。
桔梗の青を基調にした花束は、私の好みとかなり合っている。
「これ、私に?」
受け取りながら男性に尋ねた。
コンサートでもあるまいし、こんな都合よく花束なんて準備できないだろう。
「実はさっき彼女と別れてしまいまして・・・」
男性が恥ずかしそうに笑いを浮かべる。
その仕草にとても可愛らしく見えた。
どうやら私と逆パターンらしい。
つまりこの花束はとその彼女に渡そうと思っていた物ということになる。
「そうですか」
私はそう答えると、受け取った花束に勢いをつけて男性に差し戻す。
「彼女のお古は貰えません」
強めに続けた言葉は涙声になっていく。
思わず言ってしまった。
言ってから一気に後悔が溢れてくる。
いつもならこんなことは絶対にしない。
涙が一筋、頬を伝っていくのが分かる。
彼氏の件があって、少し気持ちが不安定なんだと思う。
「も、申し訳ない。そんなつもりじゃ・・・」
狼狽える男性を見て罪悪感が溢れてくる。
まさか花束を渡して、見ず知らずの女性が泣き出すなんて想定していなかっただろう。
「・・・買ってください」
「はい?」
何とか絞り出した声は男性まで届かなかった。
「買ってください・・・私に・・・新しい花束」
そう言いながら、コートの袖で涙を拭う。
冷静に考えれば無茶苦茶な話だ。
「も、もちろんです。一緒に・・・選びましょうか」
男性が同意する。
私が頷いたのを見て少し安心したようだった。
そんな彼を少しタイプだと思ったのは、私が傷心中のせいかもしれない。
まあでも、今はそれでも良いと思った。
別れの曲はさっき弾き終わったし。