完璧な演奏
「ここの『タルト』はフルーツが新鮮で、サクサク感が堪らないんです」
響はまた嬉しそうに、品の良い小さな金の飾りのついた銀のフォークを手にする。
北條も、薄くスライスされた苺・キーウィ・メロン・オレンジ・バナナと盛り沢山のそのフルーツタルトを一口食してみた。果たしてそのタルトは響の言う通り、サクサクと食感が良く、又、フルーツも良い素材を使ってあることが北條にはわかる。
「美味いな」
北條のその一言に、響は目を細める。
北條がロイヤル・ミルクティーに口をつけると、こちらはミルクを割る水の比率が幾分多いのか、思ったよりすっきりとした味わいだ。しかし、そのさじ加減がタルトの甘みを損なうことなく、実に絶妙なバランスだった。
クラブハウスサンドのターキーには気付かない響だが、味覚自体はかなり洗練されているようだ。
「ところで、響。最近、学院の方はどうなんだ? またイジメられてはいないだろうな」
「イジメはもうありません。二年生になって新しいお友達も沢山できました」
「本当か?」
響のその言葉に、北條はむしろ邪推を覚える。
「このお店には実はこの前の休日、クラスで一番仲の良い神田瑠璃ちゃんとも一緒にお茶しに来たんです」
響はまた目を細め、噛みしめるようにそう呟いた。
「そうか……」
北條はようやくホッとして、響が注いでくれた二杯目のティーを味わった。
「先輩こそ。コンクールの課題の仕上がり具合は如何ですか?」
「問題ない。今年は一位優勝を狙っている」
北條はあっさりとそう答える。
そんな風に二人は、食後のお茶も充分に堪能した。
喋るだけ喋り、ポットのティーが空になって、タルトも食べ終わると
「これからどうしたいんだ?」
と、北條は響に話を向けた。
「先輩さえよろしければ、『YAMAHA』で楽譜を見たいんですけど」
「楽譜か。いいな。俺も見てみたい」
「では、そろそろ行きましょう。……あ! 先輩!」
慌てたように、響は北條を制した。
「ここは私がお支払いします!」
「女性にこんなものを出させるわけにはいかないな」
そう言って、北條は勘定書を手にしている。
「いえ! 今日は、私がお誘いしたんですから!」
と、響はいつになく強引に北條からそのプレートを奪った。
「このくらいのお小遣いは私も持っています」
響は更に言い募った。
「今日は私に出させて下さい」
「……言葉に甘えるよ」
北條は響の好きにさせることにした。
「はい!」
やはり響は嬉しそうにそう答えると、いそいそとレジへと向かう。
その後ろ姿を追いながら北條は、一体今日はどういうわけなんだ、と、少し訝しんでいた。
◇◆◇
そうして、北條と響の二人は『PRIMEROSE』を後にした。
『YAMAHA』は、『港本町本通り』のメインストリートを暫く行ったところにある。人混みを歩き、二人は『YAMAHA』へと辿り着いた。
早速、二階の『楽譜コーナー』へと足を運ぶ。
「ここは、本当に沢山楽譜がありますね」
北條に言うともなく、響は嬉しそうに呟く。
もう響の視線は、数々の楽譜の群れへと注がれている。
北條も、楽譜コーナーの中でも響とは別の場所へと足を向けた。
暫し行動を別にしていた二人だったが、一通りの楽譜を見終わった頃、どちらともなくまた合流した。
「何の楽譜を買うんだ?」
二、三のヴァイオリン用の楽譜を手にした北條が問う。
「はい、モーツァルト『ピアノ協響曲第二十三番』の総譜と、バラキレフの『東洋風幻想曲』のピースと……」
それらは、どれも技術的にF難度の曲ばかり。それをあっさりと選んでくるのだから恐れ入る。
「せっかくここに来たんだ。楽器も見ていかないか?」
「ええ。私もここのピアノが見てみたいです」
そうして、二人は一階の『楽器コーナー』へと移動した。
「わあ。フルコンのグランドだわ!」
響が思わず駆け寄った楽器は、果たして、『YAMAHA』のフルコンサート用・グランドピアノだった。
「よろしかったら、弾いてご覧になりませんか?」
「え? いいんですか?」
傍に居た中年の男性の店員が、響にそう声をかけたのだ。
「お嬢さんなら弾き方も心得ておられるようだ。何なら、そのモーツァルトの二十三番の触りの部分でも?」
彼は響が抱えている総譜に気付いて言った。
「では。お言葉に甘えて……」
響はそう言いながら楽譜を立て、ピアノの前に座ると、もう鍵盤に集中している。
そして、その大曲をおもむろに弾き始めた。
「これは……」
彼が思わず息を呑んでいる。
響は、ピアノのパートとオケの主旋律を即興でアレンジしながら、その二十三番のピアノ協響曲を、まるで一曲のピアノ曲であるかのように、軽々と弾いている。
しかも、勿論ミスタッチなどなく、音の粒、キレ、そして表情豊かな音楽性……何をとっても申し分のない、それは完璧な演奏だった。
長く弾くことはせず、響は曲の途中で指を止めた。
「お粗末でした……」
響は恥ずかしそうに、小さくそう呟いた。
「いや! すごい!」
しかし、彼は本音で圧倒されている。
「ここのピアノを弾いて行かれる方は大勢いらっしゃいますが、全く群を抜いている!」
パチパチと拍手をしながら、
「プロの方ですか? いや、でも、まだかなりお若い……」
彼は響の短い即興演奏の余韻に浸るように、言葉にならない。