ランチのメニューは
「どんな店に行くんだ?」
北條が微笑んだまま、静かに問う。
「はい。このストリートから一つ裏の筋に入って、一軒家風隠れ家みたいなカフェなんですが、明るくて落ち着いたお店です」
そんな会話を仲良く交わしながら並んで歩く二人を、通りすがりの通行人が時々振り返る。
どこから見ても美少女としか言いようない可憐な響に、美形そのものの北條。
これほどお似合いのカップルも珍しいだろう。
「あ。あれです」
響は前方右手の建物を指さした。
「ここです」
そう言いながらドアを開けようとした響を北條は制し、響の為に自らドアを開けた。その仕草はさりげなく、洗練されている。
中は確かに落ち着いていて、八席程の4人掛けのテーブルと、6人掛けのカウンター席があった。
しかし、見たところほぼ満席だ。
「すみません……。土日のお昼はここはいつも一杯なんです」
響は申し訳なさそうに呟いたが、
「お客様。二名様でいらっしゃいますか?」
と、素早く黒いソムリエエプロン姿の若いウエイターが近づいてきて言った。
北條が頷くと、二人は店の奥の壁際にひとつだけ空いているテーブルに案内された。
「良かった……!」
響は嬉しそうに木製テーブルに座った。
北條はとりあえず傍らにあるメニューを手にする。
しかし、
「響。お勧めは何だ?」
すぐ響にそう問うた。
「お勧めですか? それなら『アメリカン・クラブハウス・サンド』です」
響は、即座に返答した。
「ここのサンドイッチの中でも絶品なんです!」
と、響は声を大にする。
「で、飲み物は?」
「カプチーノですね」
「それをもらおうか」
「はい!」
北條は軽く片手を挙げてウエイトレスを呼ぶと、響の勧めるオーダーを告げた。
「『PRIMEROSE』……フランス語で『立葵』か……」
北條は黒い表紙のメニューに金色で書かれたその文字を見ながら、呟いた。それがこのカフェの店名だ。
「梅雨に咲く花だな。『梅雨葵』とも言う」
「さすが匠先輩! お詳しいですね」
響は素直に感嘆すると、ふと閃いた。
「葵……と言えば。葵の上。『源氏物語』ですよね」
「もう授業で習ったか?」
「はい。今、古文の授業で『須磨』のあたりです。個人的には今、谷崎潤一郎訳で読んでいます」
「谷崎源氏はいいな……。俺も好きだ。格調が高い。『若紫』のあたりは、幼い紫の上が可愛らしい様が初々しくて、特に好きだ」
何気なく呟いた北條を、うっとりとした様子で響が見つめる。
北條はヴァイオリンの腕だけではない。学科も学年で一番の成績で、偽りでない教養にも溢れている。
そうこうしているうちに、オーダーした品が運ばれてきた。
三角形に切られた三枚のトーストしたパンには、バター、マスタード、マヨネーズが塗られ、中には、トマト、チーズに薄焼き卵などの具材が挟んである。それらを崩れないように、上から赤や黄色のカラフルなスティックで刺してあるそのクラブハウスサンドは、とても見目良く、ボリューム的にも程良い印象だ。
カプチーノは、プレーンでエレガントな白磁のカップに注がれ、表面は細かな泡立ちのスチームミルクがリーフ型に見えるようアレンジしてある。
いかにも響が好みそうだ……と思いながら、北條がサンドを一口食べてみた。
「ターキーだな」
「え? ターキー?……七面鳥、ですか?」
「響。そんなこともわからずこれを食べていたのか?」
呆れたように、北條が言う。
具の中には、正当派クラブハウスサンドらしく、スライスされたターキーが入っているのだ。
「え。だって。美味しいお肉だな、て」
しかし、響はそう無邪気に答え、やはり美味しそうにサンドを頬張っている。
響と結婚したら、料理は料理人に任せるしかないな……と、北條は思った。
しかし、響が「絶品!」と言うだけあって、そのアメリカンクラブハウスサンドとカプチーノは、北條も充分満足する味だった。
そして食事の間中、二人はお互いに話したいことを、音楽の話メインに語り合っていた。
「術科の課題は進んでいるか?」
「リストの『死の舞踏』ですね。東京国際に選んだので、特に力を入れています。青木教授も熱心に見てくださっていて」
「当然だな。本来なら東京国際には去年出るべきだったんだ」
「いえ。私はテクニックも内因表現もまだまだですから」
「謙虚過ぎるな、響は。そんなことでは却って伸びるものも伸びないぞ」
「すみません……」
「だから、そこで謝るなよ」
俯く響を前にして、言い過ぎたかなと北條は思う。
響は心が優しすぎる。
我こそはと言わんばかりにテクニックを誇示する生徒が少なくない中で、響の演奏は年に似合わず、いぶし銀のように光る芸術性と技術に裏打ちされているのに、響自身はそれを全くひけらかすことがない。
礼儀正しいが故に自己主張をあまりしない性格の為に、響は損をしている。
自分のファンクラブだってそんな響に随分、嫌がらせをしたものだ。楽譜を隠したり、げた箱にカッターの刃を入れたり……。
そんな回想に北條が耽っている時、
「先輩。そろそろデザートは如何ですか?」
サンドの皿を空け、カプチーノも飲み干した響が北條に問うた。
「構わないが……お前、そんなに入るのか?」
小食の響とはとても思えない発言だ。
「ここの『季節のフルーツタルト』を食べて帰らないなんて、モグリです!」
響は得意げにそう言った。
「……で、今度の飲み物は?」
やれやれと、北條はそう問いかける。
「お紅茶は如何ですか?」
「いいな。葉はどうする?」
「アッサムのミルクティーやストレートのディンブラも良いんですが、ここはやっぱりロイヤル・ミルクティーにしましょう」
響がひとりごちる。
北條も同意して、改めてオーダーを頼んだ。
それらはまた程なく二人の目の前に並んだ。