神の住まう島
漁師の家系に生まれ、当然の様に漁師になった。
全く他の道を考えなかった訳ではないが、ずっと傍で生活してきたこの海を離れるという選択肢はなかった。
幼い頃から暇さえあれば父の船に乗せられていたからか特に抵抗もなく、気が付けば漁師としての一歩を踏み出していたというのが実情だ。
両親も親戚も喜んでくれているから、成り行きとは言えこの道を選んだ事を後悔はしていない。
一人で漁を始めて数か月。
父が買い、祖父からは『山吹丸』という名を貰った新しい船の操縦に慣れるために近場にばかり行っていたが、日に日に強くなる深場へ行きたいという思いに負け、ついに今日、俺は深場へと繰り出した。
「……そろそろ帰るか」
初めての深場は上々で、やはり遠出したのは正解だったと、緩む口元を冷たいコーヒーを飲んでごまかす。
海面で反射された初夏の太陽がジリジリと肌を焦がしていく。
港までは三十分も経たずに着くだろう。
早く陸に戻って、父を驚かせてやりたい。
「山吹さん、ありがとうございました。明日もよろしく頼んます」
近くに見える孤島に向かい頭を下げた。
――大司島と呼ばれる、半日もあれば歩いて回れる程の面積しかないこの島には、海の神様が祀られている。
――山吹姫神。それが祀られている神の名前だ。
安全航行から商売繁盛、無病息災を叶えてくれる神ではあるが、ひとたび扱いを間違えると祟りにかかると有名な崇神でもある。
週に一度管理の為に訪れる神主を除けば、一般人は年に一度の開放日にしか入ることは許されない。
――ふと、生い茂る木々の隙間に、何か鮮やかな色を見た気がした。
「女っ!?」
急いで船の向きを変え、大司島へと向かう。
色々と決まり事があるのだが、一番有名なのが女人禁制だという事。
誰がいるのかは知らないが、それで崇りを被っても困る。
船を桟橋に付け、女がいた方へ走る。
それはすぐに見付ける事が出来た。
まるで濡れているかのような腰まである黒髪に、黄色とも橙ともとれない色の着物……
「……着物?」
この時代に着物? しかもこんな季節に?
桟橋に他の船はなかった。それならこの女はどうやってこの島に来た?
疑問が頭に浮かんでは消えていく。
女は、俺の声に反応して今にも振り向こうとしている。
――ヤバい!
女の顔を見ないように、咄嗟に目を閉じた。
次に開けた目に映ったのは、木々の隙間から覗くすっかり赤くなった空だった。
背中に地面の硬さを感じて飛び起きた。
どうやら気を失っていたようだ。
大きめの石が二の腕の下敷きになっていたらしく、凹んで赤くなっていた。
「起きたのか?」
二の腕を擦っていると、鈴を転がしたような声が後ろから聞こえた。
途端にさっきの事を思い出して硬直する身体。
女はそんな俺を見透かしたように、けれど柔らかく笑うと、俺の視界の隅に移動し、座った。
そこにいるのは分かるが、顔は見えない。そんな絶妙な距離感に安堵の息を吐く。
「また倒れられでもしたら堪らんからのぅ」
「なっ!? ……え?」
くっくっと女の押し殺した笑い声が聞こえ、思わず顔を上げてしまった。
女の顔に目を見張る。
彼女はとても、とても――美しかった。
「何じゃ、妾の顔を見らぬよう目を閉じたかと思えば、今度はそんなに見開いて。忙しい奴じゃの」
「……え、……あ……」
言葉を失った俺に彼女は近寄ると、向かい側へと腰を下ろした。
「――きっ、着物が汚れちゃいますよっ!!」
「気にするな。それより其方は妾の名を知っておるのか?」
「えっ……山吹さ、ま?」
「さん」と言いかけて、咄嗟に「さま」に変えたが正解だったようだ。
俺の返事に少し眉を寄せたが、「まぁそれでよい」と頷いた。
「そういえば、先程何か祈っておったな。確か……大漁祈願であったか。……名は何と申す」
「え?」
「其方の名じゃ。ほれ、早う申せ」
「……本城海斗、です」
「海斗か。よし、承った。ところで海斗よ、其方は本土の者であろう? 代わりと言っては何じゃが、偶にで良いからここに来て、本土での話を聞かせてはくれぬか?」
困った風に眉を下げる彼女。
もちろん、首を縦に振った。盛大に。
神主がいる日を除き、俺は毎日のように会いに行った。
偶にでいいと言われていたが、行けない日があると、次の日彼女は桟橋まで来て拗ねた顔をして待っているのだ。
もう会いに行かない訳にはいかない。
むしろ、俺が会いたい。
仕事自体はちゃんとしてるし、なかなか家に帰って来ない俺を仕事熱心だと周りは褒めてくれていた。
そう、あの日までは――
いつものように山吹様との会話を終え、家に帰るとすぐ母に呼び止められた。
母に連れられてリビングに行くと、父と祖父、父の漁師仲間の田村さんが座っていた。
難しい顔をした父が俺に座るよう促す。
バレたんだな、と思った。
予想通り、田村さんが俺の船を大司島で見たと言う。
「何故立ち入った!?」と騒ぐ父。
俺は意外と冷静で、何と言って誤魔化そうかと考えていた。
この際、航行中気分が悪くなって休んでいた事にでも……
そう考えていると、今まで静かだった祖父が口を開いた。
「山吹姫様はお美しかろう?」と。
「……は」
俺の口から空気が漏れる。息苦しい。急に酸素濃度が低くなった気がする。
驚きから口をパクパクさせる俺を見て、両親は顔を青くさせた。
「まさかっ! あれは親父の作り話で……! だから船名も反対したんだ!!」
「やはり信じておらんかったか。海斗よ、若い頃儂もあの方にお会いした事があるんじゃ」
何を言って――?
話が飲み込めていないと気付いたのか、苦笑する音が聞こえる。
「まだ婆さんと知り合う前じゃ。儂も随分と入れ込んでのう。毎日のように通っていたが、ある日岩で足を切って――血を流してしまったのじゃ」
それがどういう意味か分かるな? と優しい声で。
女人禁制等、いくつかあるしきたりの中にそれはある。
島では”血”を流してはならない。
それを破ってしまったというのだ。
「禁じられるからには理由がある。……供物と勘違いされるからじゃ。島の四足は殺さない等の決まりは心掛け次第で守ることが出来るじゃろうが、怪我ばかりはどうしようもない……」
「…………」
「儂の時は運良く見逃して貰えたが、二度はない。悪い事は言わん。あのお方は儂等が気軽に会うて良い相手ではないんじゃ」
皺だらけの顔をくしゃっと歪めた祖父の瞳が、悲しげに揺れたのが分かった。
「…………そんなっ……」
それ以上言葉を続けることが出来なくて、口を噤む。
祖父の言葉を尤もだった。
ただの人間である自分と、神である彼女との距離をはっきりと示され、涙が零れた。
父から怒鳴られるよりもよっぽど効いた。
暫く海に出ないようにと言われた。
見張るためなのか、常に誰かが近くにいる状態で過ごした俺は、毎日何も手に付かずただ日が暮れるのを待つ、そんな生活だった。
夏が過ぎ、秋に入った。
そろそろ海に出てもいいだろうと父の言葉を受け、見張り役の祖父を乗せて船を走らせる。
久しぶりの海の風に、少し涙が零れた。
何事もなく終わった漁の帰り、船は大司島の傍へと差し掛かった。
それは、今まで見た中でも一番美しく――どこか胸が締め付けられる光景だった。
「――杪秋山吹姫神。それが山吹姫様の名前じゃよ」
いつの間にか横に来た祖父が告げるが、俺の目は島に釘付けだった。
――季節外れの山吹が咲き誇り、島一面が彼女の着物の色に染まるその景色を。
杪秋:秋の終わりの
実際の島および祀られている神様とは、全く関係ありません。