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竜が見た夢――澪姫燈恋――

作者: 緋水月人

七年前に書いた作品です。結構気に入っているのでこちらでもupすることにしました。

水、風、大地、炎の竜がいる設定であり、今回のメインは水の竜が守る地です。

一応、ほかの竜のところでも設定はあります。書いていませんが。

ほかのネタ神が強くて、執筆が追いつかず。


この作品はpixivでも2010年11月に投稿しています。

序章

その国は竜に守られていた

北に大地を司る竜

南に火炎

東が水ならば

西は風

竜は神として在り、人を守る


竜に使えるもの、在り

巫女あるいは(かんなぎ)と呼ばれるその者、竜が力の器なり

一つの竜に一人の従者

その者、竜に命を捧ぐ


竜が従者に仕えるもの、また在り

儀式を手伝い、人より従者を護るものを(もり)と呼ぶ


畏れよ

水に癒され火を用いて創り

大地に知識を求めて風に明日を問え

恐れよ

水は押し流し火炎が破壊する

大地が昨日の悲劇を語れば風が明日の死を告げる



第一章   投じられた一石


 水の竜はひどく情が深く、そして気まぐれで――残酷だった。

 水の竜に現在仕える巫女は、竜の力の器として最適だった。不幸なほどに。

 あまり長じないうちに巫女となり、不老長寿となったその娘は竜の力があまりになじみすぎていて、感情の起伏がほとんどなかった。水の竜はそれを哀れんでいた。けれどどうしようもないこと、と達観してもいた。

 所詮は神と人。あり方など違って当然なのかもしれない。

 それでも竜は竜なりに己の巫女を慈しんでいた。巫女を守る守が表情の変わらぬ少女を厭えば遠ざけ、巫女を宮から必要以上に出さないことで彼女を守る。

 ――そう、水の竜に仕える当代の巫女に、守は存在しなかった。


「……」

 薄暗い宮の一室。

 水の竜に仕える巫女は、一人の男を看ていた。

「っ……」

 男の額に汗が滲めば布でぬぐい、水分がほしかろうと思えば水差しを口元に。人と接することの少ない彼女なりに、精一杯看ていた。

『……巫女よ、その男は峠を超えそうだの』

あるじさま……」

『この傷でたいしたものよのう』

 おかしそうに笑う少女の主。何が面白いのか、彼女には分からない。男を見つめ、ことりと首をかしげる。

 村人たちが扱いに困って運んできた男。何があったのかひどく傷だらけで。

 目を開いてはいたがはたして巫女や他のもののことを認識していたかどうかは怪しい。

 ただ……。

『のう、わが巫女よ。何故この男を助けようと思うたか?』

「……わかりませぬ。ただそうするべきと……」

 巫女は、巫は、ただ竜のために。

 世の儀など、知らぬと。

『ほう』

「……いいえ、違います」

 苦しそうに頭を振る。自分でも何を言いたいのか分からなくて。

 竜は少女の言葉を待つ。

「……怖いのです、主さま」

『何を恐れようか』

「この方の、目が……」

 開いていたその目には、怖いほどの強さが。

 どれほどの深い情なのだろう。推し量れないほどに強い、光があった。

 何をそれほどまでに思っているのか。

 それは憎しみなのか。悲しみなのか。

 情に疎い少女には分からなくて。ただ恐怖する。

「主さま、わたしはこの方が怖いのです。なのに助けてしまったのです……」


 自分にしては珍しく、泥のようにと比喩される眠りにあったらしい。

 眠りからさめてまず、そう思った。

 彼――戒は寝起きがいい。有事の際にすぐに動くため。

 いつもなら目を覚ましてすぐに身体を起こすが、今回はうまくいかない。

 断続的な痛みに、自分が何をして、どうなったのかを思い出す。――どうやら生き延びたらしい。

「……ここは」

 どこなのかと呟きかけて止める。誰かが近づいてくる気配に目を閉じた。見慣れぬ天井が見えなくなる。

 手当ての施された傷。うっすらと記憶に刻まれた、自分を看る手。

 覚えてはいるし、近づいてくるのもその人物だろうとは思う。だが戒はその人物を信用する気にならなかった。

 手当てしてもらったことは感謝するべきかもしれないけれど、意図が読めない。

 室内に入る気配。戒が眠っていると疑っていないのか、無防備な足取り。

 音がほとんどしないのはならばただの癖か。

(子供か……?)

 伝わる僅かな情報にそう判じた――子供とて、彼の部族と同じような育ちならば油断できないけれど。

 衣擦れの音とともに気配は彼の枕元に座る。

 そっと伸ばされたのは恐らくその人の手。

「――っ」

 掴んだ手は予想以上に細かった。引き倒した身体は彼にとって信じられないほど華奢で。襲う傷の痛みも予測以下。

 牽制のために右手で抑えた首も細すぎて、簡単に折れてしまいそうなほど。

「……な……」

 戒は、息を呑んだ。

 それは自分が押さえつけた人物がまだ少女だったからだけでなく。

「……」

 絹糸のような黒髪。

 だのに蒼い双眸。

 押さえ込んだ男を見返す無力な、存在。けれどその表情はなんの感情も浮かべず。

 ただ、瞳の奥で「何か」が揺れている――。

 蒼い瞳の奥に宿る感情の名を思い出すより先に暴れだす危機感。戒は激痛を堪えて少女から距離を取った。

 何が起こるのか分からぬまま、己の勘に従って構える。左手と右手を十字に交差させ、心臓と喉を庇う。

 即時に判断を下した戒は、しかし次の光景に目を見開いた。

 少女が持ってきたのだろう水差し。

 誰も触れていないのにそれが勝手に揺れだした。転瞬、中の水が飛び出した。意思を与えられたかのようにあるまじき動きをするそれは、明確な意図を宿して戒めがけて襲う。

 蛇のように。

 あるいは水の刃のように。

「……くっ」

 新たに生まれるだろう痛みに備えるしかない戒。彼は細めた目で水を見つめた。

『……やれやれ』

「――⁉」

 男にしては高く、女にしては低い声が響いた直後、水は突如動きを止めた。

 戒の目前で留まる水たち。

 それでも安全を確信できずに目を放せない戒の耳に、先ほどの声が届く。

『危ない男よの。警戒を怠らぬはそなたの自由だが、自らを省みないもほどがあろうて』

「あなたは……」

 視界の隅に映ったのは高く結い上げてもなお長い髪を持つ、恐ろしいほどに美しい女。その瞳は少女と同様に蒼いが、それ以外は何一つ似ていない。

 何より身体の底から溢れる感覚が戒に教える。

「これ」は、人ではない。

 ではなんなのかと考えに浸りそうになる己を、頭を振ることで戒は止めた。それより先にしなければならないことがある。

 彼は少女に視線を戻した。

 戒が寝ていた床から身体を起こす華奢な娘。乏しい表情の中で一番雄弁なのは瞳で。それでも微かなそれが何を伝えているのか、戒は気づいた。

 苦痛を伝える身体になおも鞭を打ち、彼は両手を床につく。

「――ご無礼をいたしました」

「……?」

 頭を下げた戒に少女の顔は見えない。だがそれは別にいい。

「助けていただいた礼も述べず恩知らずの振る舞い、痴れ者と言われようと返す言葉もございません」

「……」

 微かな戸惑いを感じるのは気のせいだろうか。

「何よりあなたのような女性にする振る舞いではありませんでした。怯えさせてしまい、申し訳ございません」

 身を起こした瑠璃はぼんやりと自分が助けた男を見つめる。言っている言葉の意味が、正直分からない。

 男はひどい傷を負っていた。それはつまり、傷を負わせた存在がいるということ。

 どのような事情を抱えているか知らないが、警戒をし続けなればいけない状況にあると見ていいのだろう。

 だから目を覚まして自分が見知らぬ場所にいると知り、近づいてきた己に牙を剥いた。状況を把握するために。

 ただ、それだけのことではないのだろうか。

「……傷に、障ります」

「……?」

 男に訝しげな視線を向けられて、瑠璃こそが首を傾げたかった。

 男の傍にいる主は何も言わず、ただ見ているだけ。

 そこでようやく、水が凶器となっていることに気づいた。自分の中で生まれた「揺れ」が水でもって男を害さんとしていること、それを主が止めてくれていることに。

 瑠璃は一度目を閉じて、心の中の「揺れ」を止めた。きっと、男が自衛のために牙を剥いたように、自分も身を守ろうとしたのだろう。

「貴方がどのような事情を抱えているかは存じませぬが、見知らぬ地で警戒するは当然のこと。どうぞお気になさらずに。それよりも――」

「……あなたは」

「……?」

 かみ合わない会話。

 瑠璃は男が表情をゆがめている理由が分からず、今度こそ首をかしげた。けれどやはりその傷のほうが気になって、再度言葉を繰り返す。

「床にお戻りください。傷に触ります」

 床から退く少女に、戒はなんと言っていいのか分からなかった。――少女は、自分が怯えていたことに気づいていないのだ。

 自分が微かな怯えで瞳を揺らしていたことも、

 それから逃れるために水を操ったことも、

 戒の謝罪を受けて怯えが消えていることも。

「あなたは……」

 感情をわかっていないのかと、続けてはならない。

 破璃ガラスのような少女の瞳。その向こうで確かに揺れている感情。

 心を持たぬわけではないと、分かる。ならば不用意な発言をしてはいけない。

 脆い破璃はたやすく砕け、心に塞げない穴を穿ってしまうから。

 状況はまだ分からないことのほうが多いけれど、その中で分かる事実。

 少女は戒を助けた。

 ならばその恩に仇をなすような真似だけは避けなくては。

「…………お気遣い、痛み入ります」

 ようやく紡いだ言葉は、本当に言うべきことと、何かが違っている。

 そんな二人の様子を、人ならざる女はただ見ていた。



第二章   特別という異端


 見ているだけかと思われた女は、二人の間にある硬直も破った。

『巫女よ、我は喉が渇いた。神酒を持ってきてくれまいか?』

「え……あ、はい。畏まりました、主さま」

『それとこの己が身を省みぬ愚か者のために薬草などを持ってきてやるが良い』

「はい」

 従順にうべない、瑠璃は衣擦れの音だけをさせて部屋から立ち去った。

 残された人と、人ならざる者。

 口火を切ったのは人の男だった。

「御身は竜であられるのですか?」

『いかにも。我は水の竜、そしてあの子は我が巫女じゃ』

「あの……」

『何かを問うより先に名を名乗ってはどうじゃ、無礼者』

 ともすれば傲慢としか取りようのない物言い。なれどその身が神であれば当然と言うよりほかなく。戒は僅かに頭を下げた。

「失礼をいたしました。私は戒と申します。助けていただき、感謝しております」

『その礼は我が巫女に与えよ。眠るそなたをずっと看ていたのだからな』

「……私は、竜も竜にお仕えする方にも初めてお会いいたしました」

 だからなんだと、蒼い目が冷ややかに戒を見下す。

「竜にお仕えする方は皆、ああも己が感情に無知であられるのですか?」

 少女の、竜と同じ色をした双眸を思い出す。

 心の奥底で揺れる感情に気づかず。無意識の中でそれを抑えつけ。

 結果、表面には感情らしいものがほとんど現れない。

 戒が生まれ育った部族は武の一族だった。そのために幼い頃から様々な訓練を受ける。

 感情の制御も多少はあるけれど、それは己のうちにある感情の名前を正しく知った上で行われる。

 だから彼の部族の子供たちはみな表情が豊かで。自分の今の気持ちが分からないということはない。

『いいや。あの子は我の力が馴染みすぎた、それだけのこと』

 戒の内心を推し量るように目を眇めたまま、淡々と竜は答える。

『ゆえにあの子は両目とも色が変じてしまった。あの髪から察するにさぞ美しき黒曜石であったろうに、惜しいことよ』

「目の色が……?」

 竜の言葉を繰り返して、ふと聞きかじりの知識を思い出した。

 竜に使える者は、その片目が竜と同じ色であると。

 いわく北はくろ、南は紅にして東は蒼、そして西は白と。それは竜の力の反映を意味し、ゆえに馴染みすぎたかの少女は双眸が……。

「しかし……」

『――そなたが何を思うているか知らぬが』

 独白のように呟く戒に詰め寄り、竜はその太い首に手をかける。

 女の姿を取ろうともその身は人にあらず。鍛えた男の首であろうともたやすく一ひねりできる。

『そのように他者を気にかける余裕があるのかえ? ――罪人よ』

「――っ!」

 硬くなった戒の表情を見て神は嗤う。

『我とてそこまで非情ではない。我が巫女が手当てをしているゆえ、傷の癒えぬそなたを追い出そうとは思わぬ』

 だが、傷が治ったら?

『そなたは逃げているのだろう?』

 男の目に激情が宿る。心情を読み取られることへの、そして自らへの怒り。

『そなたは旅人じゃ。傷が治ればまたいずこなりとも行くのであろう、ここから去るのであろう』

「……」

『瞬きのように短い時間しか共にせぬ者がいらぬ気を回すな。その余裕もないくせに』

 ただ案じるだけならば誰にも出来る。しかし行動しないのなら、行動できないのなら。

 それは残酷な結末しか生まないのだから。

『留まらぬ者はあの子に何もしてやれぬ。ならば何も聞かず、気にかけず。ただ己の身を治すことだけに専念するがいい』

 そして立ち去れ、と。

 そこに在るだけで畏怖の念を抱かせる「もの」は命じた。


 日ごろから鍛えていたおかげか戒の傷は順調に癒えていく。

 竜と巫女が住まう宮には雑務をこなす者もいて、そういった者が戒に食事を運び、包帯を変えるなどといった世話をやいてくれていた。

 それらの厚意――と言っていいのかは分からないが――をありがたく受けつつも、戒の心には最初に会ったきり姿を見せぬ巫女の少女が残っていた。

 傷がある程度癒えたら動きたくなる心情を察したのか、宮の一部と庭であれば出歩いて構わないと、その日戒に食事を運んだ娘が言った。巫女がそれを許した、と。

 どこか怯えた様子で瑠璃からの言葉を伝える少女に礼を述べる。

 少女が立ち去ると、早速とばかりに彼は立ち上がった。

 歩き出さないうちに顔をしかめる。思っていたよりも筋肉が落ちている。

「今仕掛けられたら終わりだな……」

 自嘲を零し、どこかに身体を動かせる場所はないだろうかと考えながら部屋を出た。

 神の宮であるからだろうか。続く廊下はとても静かで、足音を立てるのが忍ばれる。もとより音を殺して歩くさがを持つのではあるけれど。

 聞かされた道をたどり、庭を目指す。幸いにして戒がいた部屋からはそう遠くなかった。

「――っ……」

 天気は雨。緑は色を濃くし、池は絶え間なく波紋を広げる、その中で。

「何をしておられる!」

 一人たたずむ巫女。

 床を離れたばかりであることも忘れ、履物を探す暇ももどかしく。戒は裸足で庭に下りて少女の傍へ駆ける。

 男の怒声に身体を揺らし、瑠璃は乏しい表情で振り返った。長い髪は濡れてその重みを増す。無垢な蒼い瞳はいとけなさばかりを強調して。

「……」

 瑠璃が何かを言おうと口を開いたが聞かず、戒は乱暴にその腕を掴んだ。どれだけ雨に打たれていたのだろう、その細い腕は冷たい。

 縁側を濡らしてしまうと、奇妙に冷静なことを考えたのは、少女ともども上がってからのことだった。だが、それよりも。

「何をしているのですかっ。このように身体を冷たくされて……貴方は倒れたいのですか⁉」

 大きさこそ抑えられているが鋭い叱咤に瑠璃はまたも華奢な身体を揺らす。けれどそれ以外に変化は見えなくて。

 戒の苛立ちも知らずに巫女は告げる。

「水は、わたしを害しません」

「――それ、は……どういう……」

「わたしは水の竜に使える巫女。雨もまた水にございます」

 雨に濡れようとも体調を崩さない。たとえ流れの急な川であっても、その身を押し流すことはない。

 存在の特異さを教えられ、息を呑む。けれど。

「……それでも、雨に打たれれば寒い思いをしましょう。そのような貴方の姿を見れば案じるものです」

 瑠璃のものに比べればあまり濡れていない己の上着を脱ぎ、少女に羽織らせる。白地に蒼の糸で刺繍のされた千早に、戒の黒い羽織は不釣合いだった。

 男の気遣いに、瑠璃は。

「……わたしは水の竜にお仕えします『巫女』です。人ではありません」

 淡々と、己の真実を述べるのであった。


 竜に仕えるものは常に存在しているわけではない。

 そもそも生まれつき巫女あるいは巫としての力を持つ者は、母親の胎内にいる時分から竜の力によく馴染んだがためにそうなる。

 様々な縁と巡り合わせがかみ合わなければ生まれないのが道理。とはいえ竜の従者の長き不在は世にとって良いものとはならない。

 なぜならば竜の力は強すぎるから。

 竜に仕える者はすなわち、竜の力が世を破壊しないための歯止めなのである。ゆえに、竜は己の従者が長く生まれない折には『今』生きている者の中から従者を選ぶ。

 水の竜がその「存在」に気づいたのは、前の巫を失ってから十年が過ぎたころのことだった。

此度こたびは存外にはやい……」

 言いさして柳眉をひそめる。

 ついで守るべき主がいないにも関わらず役目から離れようとしない守を呼んだ。

 命はある女を連れてくること。

「その者は次の我が巫女を宿しておる。その巫女、我が手元にて生まれねば厄介なこととなろうて」

 守は反論も疑問も返さずに肯い、すぐに宮を出た。宮にて働くその者たちも慌しく動き出す、その中で。

 竜だけは冷徹な眼差しで佇んでいた。

「――果たして、吉凶どちらに転ぼうかのう」

 次代の巫女は竜がおわす宮にて生まれた。

 世を平らかにする者の誕生に人々が安堵したのも束の間。彼女達の表情は恐怖に凍りつく。

 赤子の泣き声と応じて水が暴れだしたから。

 初産の苦しみを乗り越えた母も、産婆として様々な子を取り上げてきた老婆も、そして仕える主を待ち望んでいた女達までもが暴力的な水に恐怖した。

 ――これはいったいどういうこと、と。

 全てを予測していた竜だけがやはり動じず。力の制御を知らぬ赤子に代わって水を抑え、母親に命じる。

 子を抱いてやれ、と。世界に生み出されてしまった哀れで幸いなる子に始まりの言祝ことほぎを与えてやれ、と。

 経験の差か。始めに我に返った産婆も竜の意見に同意し、産湯に浸からせた赤子を母親に差し出した――けれど。

 女が抱いたのは己の子ではなく。己が腹に宿っていた、畏怖すべき神の従者で。

 水の竜は静かに目を閉じた。


 竜により瑠璃と名づけられた赤子は竜のもとで長じる。

 竜の巫女として育てられた子は、己の感情の揺れに操ることを許された力が揺れることを学んだ。

 そして人々が己に向ける感情の名――畏敬と恐怖――を知り、人々を怯えさせないために己は泣いてはならないのだと知った。

 幸いと、言うべきか知らないが。幼子に笑いかける者は存在せず、瑠璃は笑顔というものを知らず育った。

 彼女を守るはずであった守でさえも、瑠璃の力の余波に傷ついてから彼女を忌避した。守るべき存在に傷つけられる不運を呪って。

 唯一、瑠璃の誰よりも傍にあり続ける竜は、人ならざる者の愛で少女を慈しむ。その情は人のものとどこか異なり、故に瑠璃は竜から情を学ぶことが出来なかった。

 そうして瑠璃は知った。人々に畏怖される己は「人」ではないと。

 竜ではもちろんなく、けれど人でもない。「竜に仕える者」でしかないのだと。


 何をもって人は「人」たりえるのか、知る者は少ない。

 あるいは、それは人によって異なるのかもしれない。


 言葉を失っている戒の様子を訝り、瑠璃は緩く首をかしげた。

 こうして話していると、彼に対して恐怖はない。けれど消えたわけでもなく。

 瑠璃は、己が何故戒に怯えるのか分からずに惑う。

 彼の何に怯えているというのか。かつて自分の傍にいた守や、自分の世話をしてくれる女性達が自分に怯えるのは分かる。制御できなかった瑠璃の力に傷つけられたのだから。

 瑠璃は彼女たちにとって異質なのだから。

 けれど、戒は。

 始まりのときこそ乱暴にされたけれど、それは「瑠璃だから」ではない。彼の事情による。彼はどこにでもいる「人」であり、異質な存在ではない。

 なのに、何故。

 思考に浸りかけた少女の目に、濡れた男の着物が映る。自分は体調を崩さないけれど、彼は。

 瑠璃はそっと手を伸ばし、戒の身体から水気を取った。

「っ……」

 驚く男を見上げ。

「あとで温かいものを用意していただきましょう」

 短い時間でも、身体は冷えたかもしれない。まして彼はまだ動けるようになったばかりなのだから。

「それでは失礼いたします」

 深くお辞儀をし、瑠璃は戒に背を向けた。

 振り返ることなく離れていく小さな背中を、戒は声もなく見つめる。

 綺麗な模様の浮かぶ板張りの廊下は濡れておらず、少女が浴びた水はその身体に留まったままであることがうかがえる。

「……」

『留まらぬ者はあの子に何もしてやれぬ』

 近い過去に聞いた言葉が、重たく戒の中で蘇る。

『人ではありません』

 瑠璃の言葉を聴いたためだろうか。『留まらぬ者』という言葉が、違う意味をもっているかのように響いてならなかった……。

「いかがいたしました?」

 立ち尽くす戒の背後から声がぶつかる。

 振り返ると、三十半ばを過ぎたくらいの女と視線がぶつかった。何度か見た顔だ。確か……そう、ここに仕える者たちの司だったか。

「……巫女殿が、先ほどまで雨にうたれておられた」

「ええ。雨が降ると巫女様はいつもそのようになさいます」

 何でも、雨もまた水がめぐった姿であるとか。竜の従者ではない私どもには分かりかねることですか……と、淡白に答える女の態度が信じられない。

「それだけ……なのですか?」

「――何が、にございますか」

「あんなにも幼い方が雨にうたれているのですよ⁉ もっとほかにっ」

「あの方は『水の竜の巫女様』です」

 感情の宿らぬ言葉に絶句した。

 瑠璃は水の竜の巫女、それは絶対的な事実。しかしだからなんだと言うのか。

「あの方は我らのような只人とは異なるのです。神に近き、この世に4人しかおられぬ方。あの方のなさることに、私どもが口出しするなど……なんとおこがましい」

 侮蔑するような視線に愕然とした。それは別に、戒が傷ついたからではなく。

 瑠璃の扱いがあんまりだと感じたから。

 ……確かに。戒は竜やそれに仕える者のことをどこか御伽噺の住人のように感じていた。

 火、水、風、大地があることに感謝をし、話に聞く彼らに敬意を抱いてもいた。しかし現実味は薄く。

 だが、彼は瑠璃に出会った。

 出会いのありようは褒められたものではないけれど、それでも出会った。そして知った。

 水の竜の巫女があまりにも幼く、壊れやすい破璃のごとき瞳を持っていることを。

 戒でさえ短い時間でそれを知ったというのに、他のものは何も思わないのか。気づこうとさえしないのか。「竜の巫女」という目隠しに。

 戒の動揺も知らずに女は続ける。

「替えのお召し物は障りなく用意しております。……それから、あの方は私の祖母のころからすでに竜の巫女としての任に就かれております。侮るなど、無礼も大概になさいませ」

「――っ⁉」

 明かされた事実に驚きはした。

 だが……。

「……私も、部屋に戻らせていただきます。失礼をいたしました……」

 踵を返しながら思う。瑠璃の幼い瞳を。

 巫女としての永き時は、彼女に何ももたらしていない。

 だから瑠璃はあんなにも儚い……。



第三章   背負った罪


 水がない場所を瑠璃は知らない。水を通して彼女は様々な場所を知る。

「……」

 水鏡に映ったものをつぶさに見つめ、それから少女は立ち上がった。

 穏やかなこの地に、穏やかではないものが来るから。その対応のための指示を出さなくてはいけない。


 国の最北、水の竜のために作られた宮を囲むようにある村。さほど広くはなく、けれど水の竜の加護がもっとも強い土地。

 農業と酒造りを生活の糧とする静かなその村にこの日、あまりにも村の空気に不釣合いな者たちが集団で現れた。

 彼らは村に足を踏み入れ――戸惑った。外に出ているものが、一人もいない。

 捨てられた村ではない。人の気配は確かにあるのだから。――竜の宮がある地を捨てるなんて話、聞いたこともないが。

「これはいったい……」

 先頭に立っている、一番年嵩の男がぽつりと呟く。

 と、前方より人がひとり歩いてきた。

「外の方々、水の竜様を祀るこの村に、いかなる用にございましょう」

 三十代と思しきその女は、宮に仕えるものの衣装を纏っている。その所作も洗練かつ慎ましやかだ。

「……数日前、この地にひとりの男が来たはず。そのものは我らの部族のもの。引き取りに参った」

 異様な空気にうろたえたのも束の間。男は威厳に満ちた声で言葉を紡いだ。しかし女は女で厳粛なる空気を崩さない。

「――そのようにおっしゃる方々がいらしたら宮へお連れしろと命じられております。どうぞこちらへ」

 滑るように背を向け、歩き出す女。彼らがついてくることを疑っていない。恐らく、ついてこないのならばそれで構わないと考えているのだろう。

 しばし迷うも、男もまた歩き出した。他の者たちも彼に従う。

 彼らの部族の『咎人』が傷を負いながらも逃げ、この村に逃げ込んだことは分かっている。そこから出た様子がないことも。どうして引き返せようか。

 訪問者の中で唯一の女が――少女と言っても差し支えないだろう年頃だ――沈黙に耐えかねたかのように口を開いた。

「ここに住む人たちはいったい?」

「巫女様はあなた方の訪れをそのお力により察知されました。ここは静かな村……騒々しいことには慣れておりませぬ。ゆえに無用な混乱を避けようと、閉じこもっているよう触れを出されたのです」

 水鏡で村に近づくもののことを知り、閉鎖的な村が常に取っている対処法を取った。

 異なるものに接する人間を極端に限り、あとはただ過ぎるのを待つばかり。受動的なあり方。それしか知らない。

「別に荒らしに来たわけじゃないわっ」

 騒々しいという言葉が気に入らず、少女は声を荒げた。それを男がいさめる。

「蘇芳、やめなさい」

「だって!」

「我々が招かれざる者であることは事実だ。――だが、我らが争うために来たわけではないことはご理解いただきたい」

 部族のものを引き取りにきた。用が済めばすぐに立ち去ると、静かに訴える。

 だが女には取り付く島がなかった。

「すべては巫女様が判ずることにございます」

 彼らの前方には宮が見えていた。


 いずれは追いつかれると分かっていた。早々に立ち去るべきなのだと理解していた。だけど出来なかった。

 その理由を、認めることに抵抗があった。


 気まぐれに戒の前に姿を見せる神に『ついてこい』と言われ、宮の入り口で待機させられた時から予想はしていた。どこまでも迷惑をかけることしか出来ない自己嫌悪に、戒は静かに座して待つ瑠璃の、横顔さえも見られない。

 宮へ近づく集団の影が見えてきたとき、何かを覚悟した戒は身動き一つせずに己の身体の調子を探った。――それを静かに観察する、蒼い瞳には気づかないで。

「――戒さん!」

 久方ぶりに聞く蘇芳の声。それは胸を痛ませる「かの存在」を思い出させる。

 彼の犯したことを知っているだろうに顔を輝かせて駆け寄ろうとする少女を、隣にいた男が止める。

「……剛野殿……」

「久しいな、戒」

 幼い戒に戦い方の基礎を叩き込んだ男。今でも部族屈指の実力を持っている。

「私は――」

『我が神域を乱しておいて一言の謝罪もないのか、お前らは』

 会話を遮る絶対者の言葉。剛野と蘇芳をのぞく「追っ手」たちは気色ばむけれど、それをも剛野は抑える。

「無礼をいたしました。我々はそこな戒と出自を同じくするもの。この度、奴を連れ戻すためにこの地へ参りました」

「……」

 恩義は、ある。彼のおかげで今の自分が在るも同じなのだから。だが捕まるわけにはいかない。まして戻るわけにも。

 己が部族における自分が犯した罪の贖いを戒はよく知っている。それが決まりだとしても、従うわけにはいかない。たとえ――たとえ、彼らと刃を交えることになろうとも。

 身体に緊張をはしらせる戒。剛野と彼らに従う男たちにも同じものを感じる。

 神はともかくとして隙だらけなのは瑠璃と蘇芳。しかし蘇芳を傷つけるつもりはないし、瑠璃もきっと大丈夫だろう。――彼女個人の意思はどうあれ。

 剛野たちを案内してきた女はすでに下がっている。気を使う必要はない。

 緊張が高まりかけた、そのとき。

「……意思を無視して連れ戻されるのでは、困ります」

 静かな声が全てを攫った。

「――っ、巫女、どの……?」

 意を突かれた男たちの驚愕も、主の面白がるような視線もそ知らぬ素振りで。瑠璃は静かに言葉を紡ぐ。

「――戒、は、久方ぶりに得たわたしの守、です。彼の意思ならばともかく……そうではないのならば」

 あなたたちにおかえしできません、と。幼さを残す声が、場を支配した。

 「守」という言葉にもっとも動揺したのは、果たして誰であったのか。

「――本気で言っておられるのか、竜の従者殿!」

 男たちの一人が叫ぶ。ついで別の一人が。

「戒は我らが部族の長の娘の命を奪った罪人と――」

「戒の肩に刻まれた『二つ』の、咎人たる証は目にいたしました」

 傷の手当をした、そのときに。

 思わず左の二の腕を押さえる戒。それでも目は瑠璃から逸らせなかった。

 きつく自分の袴の布を握り締める少女。緊張か、それとも恐怖ゆえか。

 それでも瑠璃は目を逸らさない。

「ならば何故! 咎人と知って何故!」

『――言うてやれ、我が巫女。それがどうした、とな』

「なっ……!」

 言葉を失う男たち。ただ一人、剛野だけが静かに耳を傾けている。

 瑠璃が変化の乏しい表情で竜を見上げる。水の竜は嫣然と微笑んだ。

『守に求められるのは強さ。何者からも我が従者を守れるだけの』

 その結果、相手の命を奪うことになるとしても揺るがずに。

『そして我が従者を守るという意思』

 巫女、あるいは巫への思いやりなどその実どうでもよくて。ただ「それ」があれば、永き時を共に生きる相手としてありがたいだけのこと。

『それは強い。そして生への強い執着を感じた。少しでも長く生きるすべとして、竜が従者は最適とは思わぬか?』

 少しというにはあまりにも長く。しかし竜にとってはきっとあっという間のこと。

「しゅうちゃく……」

 思いもよらぬ言葉に蘇芳は呆然と呟き。

 思っていた以上に見抜かれていた事実を暴かれ、戒は目を閉じた。恨みなどないけれど。

 収まらぬは他の男達だ。だが彼らが何を言うよりも早く、剛野が静かな面持ちで戒に問い質す。

「答えよ、戒。姫――茜様を殺め、部族を捨てたお前は何のために生を渇望する」

「……」

 視界を閉ざしていても視線を感じる。その中にはもちろん瑠璃のものもあって。

 無意識のうちに、戒は彼女に語るように口を開いた。

「友の思いを知る私が生きることでしか、友の思いをこの世に残せないからです――」

 それが自己満足にすぎないのだとしても。


 戒には無二の親友がいた。彼らは同じように剛野に師事し、切磋琢磨した。

 年が長じるにつれ、彼らのどちらかの次代の長となるだろうことが囁かれるようになった。

 当代の長には娘が二人いるだけであり、そのようなときは部族で最も強い者を婿とすることが慣わしだったからだ。そして戒と彼の友はほぼ同等の強さを持っていた。

 長には友が相応しいと、言ったのは戒だった。

 戒はどちらかといえば穏やかな静謐と称するに相応しい気性をしていた。人望はあるが、人を率いる陽性の力に欠けていたのかもしれない。

 反対に友人は明朗活発、いるだけでその場を和ませ明るくする男だった。いささか浅慮なきらいはあるものの、それは傍に控えるものが補えばいい。

 何より長の娘――茜が、友に想いを寄せていることに戒は気づいていた。友もまた、憎からず想っていることを。

 もとより長の立場などに執着はなく、故に戒は辞退したのだ。

 誰もが幸せな未来を予想していた。

 しかしそれは突然に崩れる。戒の友が、次期長と目される男が別の部族の娘に恋をしたために。彼が一族の秘宝を持って部族から逃げ出したために。

 追っ手に選ばれたのは戒だった。

『見逃してくれ! 俺は……俺はもう決めた!』

『お前の心変わりを責めるつもりはない。だが宝は戻せ! それさえ戻れば、あとは私がどうにかする!』

 出来ないと、友は言った。

 部族が違う自分の想いを信じてもらうには、証を見せるしかないのだと。証として献ずるものは、生半可なものではだめなのだと。

『これを奪うならお前であっても!』

『――正気か……!』

 どちらも退けなかった。

 過去に幾度となく腕を試しあっていた二人は、このとき初めて殺しあった。

 引き分けなどありえない。生と死しかありえない戦い。

 生き残ったのは戒だった。

『許せ……許してくれ、戒……』

『……』

 冷たくなった身体は燃やした。

 生死を問わず連れて帰れと命じられていたが、彼の部族は裏切り者に容赦しない。幸い川が近い。ならば川に落ちたと告げればいい。一族の秘宝は戻ったのだから。

 一族の元に戻った戒は、よくやったと褒められた。よくぞ一族の誇りと宝を守ったと。

 その言葉に吐き気がした。

 誰も友の想いを認めようとはしないのだ。

 友が死んだため、自然と戒を長に望む声が強くなった。彼こそを茜の夫に。

 否、裏切りに傷つく茜に追い討ちをかけるよりも、いっそ妹の蘇芳と。

 身勝手な言葉。誰も想い人を失った娘と、友を失った男のことを気遣っていなかった。それどころか戒はよくやったと称えられるのだ、無責任にも。

「……」

 眠れない夜が増えた。戒は一人、空を見上げる。

 いっそ部族を捨ててしまおうか。最近はそんな思いさえも生まれるようになった。

 それはとても甘美な誘惑なのに、何故か踏み切れない。茜が臥せっていることが、原因の一つなのかもしれない。

「……戒」

「――茜殿……」

 近づいてくる気配はとうの昔に気づいていた。足音の軽さから女性であることも認識していた。ただ、それが臥せているはずの茜だとは思わなかっただけで。

「如何されたのです……」

 戒の問いに茜は儚く微笑む。

 良くない予感に一つ、息を飲み込んだ。

「戒、あの人は最期に何を思ったかしら」

「……」

「少しでも、少しでも私のことを思ってくれたかしら」

「……」

 沈黙が答え。

 茜の表情に宿る悲哀が強くなる。「やっぱりね」と呟いた声は夜露とともに地に落ちて。

「貴方への謝罪はあっても、私のことなんて思い出してさえくれなかったのでしょうね」

「……」

「ねぇ、戒? 皆は、貴方を罪人とは言わないのでしょう? 貴方が殺したのは裏切り者だから」

「……はい」

「けれど貴方自身は違う」

「はい」

 誰も責めなくても、戒が戒を責めている。

 友を殺した己を。

 裏切っても、罪人であっても友は友で。人殺しは人殺しだから。

 だから戒はその罪を背負い続ける。

「私も貴方を責めるわ。許さないわ」

「……構いません」

 茜の目を見たときから、その言葉は予想していた。

 彼女にとってもやはり、想い人は想い人だったのだ。

「――だから、貴方も私を許さなくて良いわ」

「なにを……‼」

 繋がらない言葉の意味を問いかけて、声を失った。

 戒の目の前で倒れる、一人の女性。

 思うより先に身体が動き、茜を抱きとめる。

 戒たちの部族には、彼ら独自の武器も存在する。

 それは普通よりは大きい、けれど手の中に隠せるほどの針だった。彼らはそれで相手の急所を突き、時に自害さえもする。

 護身にも、誇りを守る術にもなるそれを、部族の誰もが持っている。そしてそれが今、茜の胸に刺さっていた。

「茜殿……」

 力なく茜が笑う。彼女の目が、声もなく語っている。

 戒の目の前で、戒を苦しめる形で死ぬ自分を、許さなくていいと。

「……生きることさえも、あなたには辛かったのですね……」

 悲しいほど綺麗に笑うその人の胸から針を抜く。急所をわずかに逸れているそれでは、苦しみが長引くだけだから。

 慣れた手つきで戒はそれを構える。

「それでも私は、あなたを責めようとは思いませんよ」

 静かに女の身体へ沈んでいく針。茜は、微笑んだまま目を閉じた……。

 戒が茜に針を刺したところが見られ、彼は一転、罪人となった。

 彼は一切の言い訳をせずに茜の命を絶ったことを認め――逃亡した。


 誰もが認める潔癖な人物であったため、その行動を疑問視する声はあった。しかし、そのような真実が隠されているとは誰も思わなかった。

「そんな、姉さまが自害したなんて……」

 罪はどこに。罪人はどこに。

 口にすれば戒は応えるだろう。ここに、と。己が、と。

 そんな言葉を紡がせたくなくて、蘇芳は剛野を縋る思いで見上げた。

「戒さんは姉さまを苦しませないために姉さまに止めを刺したのよ……姉さまは自害したのよ。それでも戒さんは罪人なの……?」

「……」

「それを、あなたがおっしゃるのですか、蘇芳殿」

 しかし剛野は言葉を返してはくれず。むしろ戒が、蘇芳の逃げを許さない。

「戒さ――」

「私はあなたの姉を殺したのですよ」

「だって!」

「誰がなんと言おうとこれは私の罪です。私はこれを生涯背負って生きます」

「何のために」

 低い師の声に、戒は穏やかな笑みを浮かべた。

 そこには悲壮感などなくて。

「自己満足です。私だけが、彼らの想いの真実を知っている。そしてその想いは私を通してしかこの世に留まれない。私が死ねば想いはこの世から消えてしまう。それが、嫌なのです」

 だから生きると。

 引きずるのではなく、背負って。ただ彼らの想いを、誰かに知られることがないのだとしても、この世に少しでも長く留まらせたいからと。

「……どこで、生きる?」

 戒の話を聞いてなお、戒を罪人として断罪できるものが部族にいると、剛野は思えない。

 また、戒が罪人でないほうが部族にとっては都合がいいことも剛野は知っている。それほどに戒の人望は厚いから。

 彼個人としては、このまま戒の望むように生きさせてやりたいとも思うのだが。

 そんな師の思いを知ってか知らずか。戒は穏やかな眼差しで、しかし決然と告げた。

「ここで」

「……!」

 ゆっくりと、静かに見開かれる瑠璃の眼差し。

 しかしそれまで静かに動向を見守っていた巫女に注意を払うものはなく、彼女の神以外は誰も気づかなかった。

「私がお守りするべき巫女殿のお傍で、彼女の守として」

「――っ、どうして!」

 蘇芳が叫ぶ。戒への想いのこもった声音で。想いゆえに盲目となった少女は、ただ自分の願いを叶えたくて叫ぶ。

「戒さんが望めば守の任から解放されるんでしょ⁉ 『意思ならばともかく』ってそういうことでしょ‼」

「瑠璃殿の守として生きることは私の意思です」

 ひゅっ、と。

 息を飲んだのは二人の少女のうち、果たしてどちらか。

「瑠璃殿をお守りする。これが私の意思です」

 急に。

 世界が遠くなった。

 瑠璃の頭の中で戒の言葉が繰り返し踊る。彼は何を言っている?

 戒が彼女の守であるという言葉が方便だと、他の誰でもない男自身が知っているはずなのに。

 部族へ戻るにしろ旅に出るにしろ、ここからいなくなるものと思っていた。留まるはずがないと。なのに……。

「なにを……何を戒さんに言ったのよ!」

「……」

 自分へと向けられた激しい語調で我に返った。

 蘇芳と呼ばれていた少女が激情を宿した眼差しで瑠璃を見ている。もし視線だけで人が傷つけられるなら、あるいは瑠璃は。

「巫女だからなにっ? なんの権利があって戒さんを私からとりあげるのよ!」

「……」

『――言葉は選べ、小娘が』

 絶対者である神の声も蘇芳には届かず。されど少女の言葉を止める術を瑠璃が持っているはずもない。蘇芳が抱く激情を、瑠璃は知らないのだから。

 ただ一つ思ったのは。

 戒は蘇芳のものではないという、事実だけ。

「あんたが……!」

「それ以上の暴言を我が主に吐くようならば、私も容赦はしないが」

 言葉よりも雄弁な空気。戒が放つそれは、紛うことなく殺気と呼ばれるもの。

 己の決意を裏切らぬその態度を見て、蘇芳は泣くように顔を歪め、瑠璃は小さく動揺した。

 そして剛野は、不謹慎にも安堵した。

 自分のことを二の次にしてしまいがちな弟子が、自分のために守りたいものを手に入れたことが分かったから。

 彼が生きる場所は確かにこの地なのだと、悟ったから。

 戒を刺激せぬように動き、剛野は蘇芳の背後に立った。そして数瞬の間もおかずに彼女の意識を奪う。他の者たちの動揺には一切構わず、彼は初めて心からの敬意を込めて口を開いた。

「この地の空気を乱しましたこと、心よりお詫び申し上げます。またこの娘の無礼を、どうかお許しくださいませ」

『許せ、とはずうずうしい願いだな』

「確かに。ですが私はこう願うより他の術を持ちませぬ」

 水の竜はつまらなそうに目を細めた。それからちらりと瑠璃に視線を流す。

『まぁ良い。そのような小娘の言葉に傷つく心を、我が巫女は持っておらぬ』

 もてていない、と言うが正しいかもしれない。

「この地に我らが探した咎人はおりませぬ。故に我らは速やかにこの地より去ることをお誓い申し上げます」

「……道中、お気をつけて」

「もったいないお言葉にございます。――水の竜の巫女殿」

 虚ろを宿す瞳を見上げる。その奥に、揺らぐ感情をあると信じて。

「貴方様が守に選ばれた男は、私の自慢の弟子にございます。どうぞご安心を」

「……」

 師の言葉に、戒はただ黙礼を返した。

 招かれざる者たちが去り、宮に仕える者がそのことを村人たちに伝えに行って。

 残されたのは巫女と罪人と竜。



第四章   時が経ったなら


 重たいほどの沈黙を、破らなくてはならないのは瑠璃だった。少女はうつむいて必死に探した言葉を紡ぐ。

「……貴方はこれからどう、」

「私の意思はお伝えいたしました」

 穏やかに、しかし逃げを許さない言葉。華奢な身体がびくりと震えた。

 静観の構えに入っている竜は、心の読めぬ表情でただ全てを見ている。

 先ほどよりは短い沈黙のあと、瑠璃は緩やかに顔を上げた――それを後悔するとは知らずに。

「それが方便であることを貴方は知っているはずです」

「ならば方便を真に」

 なぜ、と問いかけて。瑠璃は言葉を失った。

 戒の瞳を見てしまったから。

「っ……」


(のまれる)


 戒と出会った時に初めて生まれた感情が、今までで一番の強さをもって少女を襲う。

 なぜ彼を恐れるのか。唐突に悟る。

 決して荒げられることはないけれど、それは薄情とは結ばれない。それほどに強く、深く、激しい感情。

 それを宿した瞳を見つめると、瑠璃は己の小ささを思い知る。

 そして戒が持つ情の強さにのまれて我を失ってしまうような、そんな恐怖を覚えるのだ。

 人の情を知らずに育ってきたからかもしれない。

 あるいは戒が情のこわい人間だからかもしれない。

 そんな少女の恐怖を知ってか知らずか。彼は静かに歩みを進め、瑠璃の前の地面に膝をつく。

 訪問者たちと話をするためにあえて廊下に座っている瑠璃と、己を下げて土で身を汚すこともいとわない戒。

 それは確かに主従のありようで。けれど。

「私はあなたをお守りしたいのです」

「っ――」

 小さく横に揺れる首。動かぬ表情の中、蒼い目の奥だけが雄弁に恐怖を語る。

 その恐怖であってもいいから、表情にのせることができればいいのにと思う。

「あなたのためにこの身をもって戦いましょう。あなたのお傍を可能な限り離れないと約します」

 不老ではあっても不死ではない巫女と守。巫女を守って守が死ぬこともあるというから、絶対を誓ったりはしない。

 それでも想いは真だと伝えるために。

 戒は厚かましさを承知で行動する。

 世界を支える小さな手をとる。驚きと恐怖で反射的に逃げを打つ手を、やんわりとだが力を込めて放さない。

「か――」

 困惑も、恐怖も。

 全てを無視する甘美な罪悪を背負って。その柔らかな掌にくちづけを落とす。

「っ⁉」

「あなたを守ることをお許しください」

 掌にとはいえくちづけられて。けれど瑠璃は恥じるのではなく、ただ怯えを強めた。

 それを敏感に察知した戒は、さりげなく力を弱める。

 直後、弾かれたように瑠璃は立ち上がって逃げる。青年の視線を背に受けながら。

 小さな背中が見えなくなってから十を数え、戒もまた立ち上がった。そして己の主にと望む人を追うべく一歩を踏み出す。

『そなたは我が巫女をどうするつもりか』

 その足を止める、静かな言葉。

 強い怒気を孕むわけでもないのに、それはたやすく人の足を止めた。それは神と呼ばれる存在であるがためか。

 戒は臆することなく水の竜を振り返った。竜の表情は相変わらず読めない。

『我が巫女は決して不幸ではない。幸せでもないが』

「……」

『何故かはわかるであろう? 知らないからだ』

 人の優しさを知らず、喜びを知らず。ただ畏怖されて縋られて。「神の従者」であることが少女の存在意義。

 誰も瑠璃に、瑠璃としての心を求めなかった。

『持つ者にしてみればそれは哀れかもしれぬ。だがあの子は持っておらぬ、知らぬ。だから哀れでもなんでもないのだ』

 ただ、それが、他の人と「違う」だけ。

『だがそなたは我が巫女の傍にありたいと願う。我が巫女を想うと言う。それは変化をもたらすだろう』

 優しく、温かく、苦しく、切なく、激しい。

 そんな人の情というものを、瑠璃は知ることになるだろう。

 そして少女は孤独ではなくなるのだ。誰かが傍にいてくれることの幸せを知るのだろう。

 だが。

『それは今までが孤独であったと、不幸であったと教えることだ。――分からぬとは言うな。幸いを教えるということは不幸を教えることだ。喜びを教えることは悲しみを教えることだ』

 そなたにその覚悟はあるのか、と神が問う。

 戒は一瞬だけ遠くを見た。

「御身はかつておっしゃった。留まらぬ者はあの方に何もできぬと」

『然り』

「あの方の傍にと願ったとき、留まらぬことが妨げとなるならば喜んで留まりましょう」

『……』

「竜の巫女を『異形』と呼ぶなら私も喜んで『守』という異端になります」

 その目に宿る深い感情。水の竜の巫女が恐れる、強い感情。

 それが、戒を動かす。

「あの方のお傍にあることを望むのは私の我侭にございます。それが瑠璃殿に知らなかった不幸を教え、罪に問われるというなら、喜んでその罪を背負います」

『……ほう?』

「そして――もしも瑠璃殿が」

 独りしか知らない少女が、喜びを知らない瑠璃が。

 戒の存在を受け入れてくれたら。

「私をきっかけに幸せを知ってくださったなら……」

 それに勝る幸いはないと、思うのでしょう。

 今度こそ巫女を追っていった男を見送り、竜は一つ息を吐く。

『まこと……』

 人とは愚かで、浅はかで。けれど輝かしく、目が放せない。


 逃げた瑠璃を、戒は宮の敷地内にある池のほとりで見つけた。

「瑠璃殿……」

 ぴくりと、少女が震える。

 名を呼び、足を踏み出す。

「――っ、来ないで、ください」

 震える声が男の歩みを止める。

 瑠璃は振り返り、揺れる眼差しで戒を見た。しかしすぐに逸らす。

 そしてそろりと後ずさる。その後ろには池。

「瑠璃殿!」

 戒の危惧とは裏腹に、瑠璃は池の中へ落ちることはなかった。その小さな身体は滑るように水面の上を渡る。波紋さえ、起きない。

「……これが、わたしの力です。わたしは只人ではない。『竜の巫女』という異端なのです! それでも貴方は」

「お守りします」

 凛とした迷いのない声。弾かれたように瑠璃は顔を上げる。そうして男の瞳を直視し、怯える。

 直後、水がかつてのときのように戒を襲う。

「!」

「――っ!」

 息を呑む少女。戒は辛くも避けた。

 無傷な姿に安堵の息を漏らし、それから瑠璃は水面に膝をついた。

「……もう、おわかりでしょう……。わたしは、わたしの力を抑えられない。またいつ、貴方を襲うか、傷つけてしまうかわからないのです」

「それでも構いません」

「……どうして」

 迷子のような声音。

 瑠璃がどれほどの時を生きているのか、戒は知らない。しかし彼女が生きてきた年月など関係ない。何故なら少女は満足に人に触れておらず、それゆえに心が育っていないのだから。

「私は、多少なりとも腕が立つと自負しております。ですから今のようにあなたの力を避けることもできますし、そうたやすく死ぬこともないと思います」

「……」

「どれほどに傷つけられてもあなたのお傍を離れたりしません」

 だから感情の制御が効かず、むりやり抑え付けられたそれが暴走へと繋がる。

 ならば戒が感情の全てを受け止めればいい。受け止めて、一つ一つの気持ちの意味を知っていけばいい。時間はあるのだから。

「愛しています、瑠璃殿。いとおしいと、思ってしまったのです。だからどんなあなたでも受け止めたい」

「……」

 いつのまにか二人の距離は詰まっていた。戒がそっと池のほとりに片膝をつく。

「お傍にいさせてはくれませんか?」

 不意に、瑠璃は苦しさを覚えた。

 それが切なさであることを知らない。

 彼女は悟る。戒が自分に向ける真摯な感情にさえも、恐れを抱く自分がいることを。そしてその恐れは消えないかもしれないことを。

 自分がのまれてしまうかもしれない、そんな恐怖は消えないのかもしれない。

 けれど。

「手を……」

 それでも、戒は傍にいてくれるというのなら。

「手を、貸していただけますか?」

「……はい」

 戒の手をとり、池の外へと滑るように歩き出す。

 地に足をつけて、そっと背の高い戒を見上げた。

「……わたしは、貴方が怖い」

「はい」

「貴方の強い感情が」

「はい」

 どんな瑠璃でもいいと言ってくれるのなら。

 瑠璃の心を見守ってくれるというのなら。

「それでも、いつか」

 この恐怖を抱いたままでも。

「貴方に、恋をするかもしれません」

 主の言葉に、男は微笑んだ――。

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