5章
ダン、と背中が石の柱に押しつけられる。大した痛みはないが、衝撃が体を突き抜けて、タミアは小さな呻き声を漏らした。頬のすぐ傍に、褐色の手のひらが下りてくる。背高の影に頭の先から足の先まで覆われて、見えない檻に捕まったような威圧感にごくりと唾を飲んだ。
「なんで……」
音は出なかったはずだ。光は一瞬、足元を照らし出したが、ジンの視界までは届かなかったのを確認した。どうして、気づかれたのだろう。一か八か、こうなる可能性も考えていなかったわけではないが、上手くいったと思ったのに。
「なんデ? そりゃ、こっちの台詞だナ」
キキキ、とジンは耳鳴りのように笑った。
「逆に訊くガ、なんでバレないと思ウ? お前が使った魔法はなんダ? オレは、なんのジンダ?」
間近で目を合わせるのが本能的に恐ろしくて、顔を上げられずに見つめていた肩が、くつくつと揺れた。ああそうか、と頭が追いついて、愕然とする。
とにかく目立って分かりやすい合図を、と思うあまり、火のジンに助けを求めてしまった。空に花火を打ち上げるほどの、大きな心の声。こんなに近くにいたジンに、聞こえていないはずがない。
「あと三歩……そうやって怯えて大人しくついてきたラ、全部が終わるまデ、ここで眠らせてやろうと思っていたのニ」
「どういう意味」
「お前は魔法使いと言ってモ、まだ大した器じゃないみたいだからナ。抵抗しないようなラ、手を下す必要はなイ」
「……っ」
「だガ、思ったより客気だナ。まさかこの状況で打って出るとハ、思わなかっタ」
金糸のフリンジに縁取られたストールが、細い麻のベルトで絡げて、腰に巻かれている。七分丈のパンツの下に覗く両足は裸足で、人間の形をいつのまにか失い、猛禽のように鋭い爪を覗かせていた。
「面白イ」
本性を露わにしたからだろうか。ジンは相変わらず威圧するように、低く押し殺した声で喋ったが、その声音からログズの真似は消えていた。語尾に滲む子供のような、あるいは金属を引っかくような声が、鼓膜を不気味になぞって残る。
「取引をしないカ」
ぐ、とうつむいていた顎を無理矢理に持ち上げられて、タミアは身を強張らせた。ジンは愉快そうに笑って、タミアから一歩離れると、自分の胸に手を当てて満足げに口を開く。
「今、姿を借りているこの男。これの体は実にいイ」
タミアは一瞬、まばたきをしてから、え、と呟いた。
「……そう、かしら……? 人間の基準では、だいぶガリガリだと思うけど」
「ン?」
「いえ、まあ、その。あなたの基準は分からないから、とりあえず聞くわ。続けて」
「言っておくガ、魔法使いの素体としての話だからナ?」
ああ、そういう話か。危うくジンを見る目が変わってしまうところだった。
ほっとしたような緊張感を思い出したような、何とも言えない表情を浮かべたタミアに、ジンは呆れた口調で「とにかク」と言った。そうしておもむろに、シャツの裾を捲り上げる。
そこには、一目で深手と分かる火傷の痕が残っていた。
「宿のときの……?」
「お前も見ていただろウ? 一度戦ってみテ、この通り痛感しタ――あれはジンに呼びかけることに関しテ、抜群に優れていル。咄嗟の魔法で膨大な数のジンから力を借りテ、己の身を護るのみならズ、オレを焼き尽くそうとしタ。先天の才か、修業の賜物か知らないガ、魔法使いとして完成度の高い体ダ」
つう、と尖った爪の先が火傷をなぞる。
「実に手に入れたイ」
再生したばかりの薄い皮膚が破れそうになるのを見て、目を逸らしたタミアにジンはくつくつと笑った。
「今は形を真似ているだけだガ、本物を得られれば実に動きやすい体だろウ」
「あなたがログズを得るって、具体的にはどういうこと?」
「魂を封じテ、うつろになった肉体を、あれの魂に代わって着ル」
「……ログズを封じるのね、自分が魔法使いからそうされたように。ログズの体を乗っ取って、あなたは何がしたいの」
メダルの奥から感じられる視線がかすかな殺気を帯びたのに気づいたが、タミアは退かなかった。きつく見据えて、さあ答えて、と言外に促す。
膝が震えていた。激昂されたら、そのときが最後だ。一人では、どう足掻いても敵わない。面と向かって相対してみて、タミアは勝てるわけがないことを直感していた。なればこそ、自分にできることは。
「ジンであるオレがあれの体を使うことデ、能力を増幅さセ、より多くのジンが惹きつけらレ、意のままに動かせるようになル」
「……それで?」
「他に比類のない魔法使いとなっテ、自分以外の魔法使いをこのガダブ砂漠から追放すル。人間の身を借りてこの土地を支配シ、ジンを直下に置キ、ジンが人間を下に置く国を作ル」
ジンの狙いを、少しでも多く聞き出すことだ。
身の軋むようなキリキリという音がジンの歯軋りだと気づいたとき、タミアは彼の抱え込んだ憎悪の深さ、暗さに目眩がした。
限られた才能を持つ者が、力を借りるだけでは飽き足らず。人間は何世紀にも渡って、裏でジンを封じ、自らの人生を輝かせるための道具にしてきた。多くのジンは今も気ままに漂流しているが、不幸なジンは囚われ、自由を奪われ、本来ならば自分と語らう資格を持たないはずの人間によって、私欲のために服従させられ、使役される。
そうして何かのきっかけで解放されたときには、募らせた恨みが爆発し、悪性に堕ちる。
悪性のジンとは、人間の欲が生みだす、人間を淘汰する存在なのだ。タミアは目の前のジンが今、殺意と紙一重の心情で自分と語り合っているのを理解して、背筋に氷が走った。
「取引に乗レ」
つ、と長い爪が鼻先に触れる。
「封印から解かれたばかりデ、オレもまだ本来の力を取り戻しきれていなくてナ。ログズと言ったカ? あの男、手には入れたいガ、正面から相手をするのは避けたイ」
「私に、何をしろっていうの?」
「何モ。ただ少しこうやっテ――オレに捕まっているふりをしロ。後はオレが魂を封じル」
足元から細い炎が昇った。蛇のようにタミアの体に巻きつくそぶりを見せ、煙になって掻き消える。人質か。これが一昨日の夜だったら、そんな作戦あの人には通じないと、心の底から笑い飛ばせた気がするのだが。
今は、安請け合いができない。旅は道連れだ。
「オレにつくなラ、ガダブの魔法使いを一人残らず追い出した後、お前だけは妻にすると約束しよウ」
「あなたを夫にして、私に何の価値があると思うの?」
「人間は皆ジンの奴隷になるガ、お前は別でいられル。人間の一生なんテ、あっというまダ。どうせなら平穏に恵まれテ、楽しく生きたらどうダ?」
「すごい。まるで王妃様になるみたいな誘い文句ね」
そうしたら、この人は王様か。ログズの姿で玉座につくジンを想像して、タミアは笑った。
ふ、とうつむくように視線を外して、次の瞬間、彼の爪先が向いているのと反対の方向に向かって、床を蹴った。
伸ばされた手が三つ編みを引っかけ、リボンが切れる。おイ、とも鳴き声ともつかない叫びを背中に聞きながら、タミアは走り、祭壇の杖を奪い取って、横なぎに振り回した。
「絶対、嫌よ」
クリソコーラの眸を囲んでいる飴細工のような琥珀が、ジンの額を掠めたらしい。血の代わりに溢れた灰が目に入ったのか、彼はよろめいて足を止めた。
顎を伝った細い滴が、床に赤い点を落とす。すり抜ける一瞬に、タミアもジンの爪で頬を切っていた。
「あなたを封じたこと、同じ人間として、魔法使いの端くれとして謝るわ。でも、あなたはもう正気じゃない」
「なニ……?」
「私はあなたの復讐の手伝いはしない。王妃様じゃなくて、魔法使いになりたいの。ジンを封じてその気になってる偽の魔法使いじゃなくて、あなたたちと心を交わせる、本当の魔法使いよ。そのためにも、今ログズを裏切ることはできない!」
どうか、どうか。煮え滾るような怒りを冷まして。追いかけてくる溶岩のような憎しみから、私が逃げる時間を。
タミアの心の声に、幾ばくかの水のジンが応えた。氷雨が降り注ぎ、顔を上げたジンを打ちつける。タミアは杖を抱えて、神殿の奥へと走った。立派な柱と柱の間は、外から見たときよりもずっと広い。
「返セ!」
息を切らして走るタミアの足の間に、火の球が飛び込んできた。慌てて避ける脹脛を、熱風が掠めていく。陰に駆け込んで身を躱そうと思っていた眼前の柱が、火に包まれた。悲鳴を上げて方向を変え、崩落のひどい一角へと駆け込む。
何度も魔法を試みたが、集中のままならない状態ではまともな作用は起こせなかった。せいぜい、ジンの足元に少量の水が絡みついたくらいだ。相手は火、そのものである。微々たる水分は、その足に触れるだけで蒸発した。
「餌にして封じテ、あれの魂の目の前で殺してやル」
ぼそりと呟く。それを機に、何かの枷が爆発したらしい。ジンは子供のような声で、高らかに笑った。その両手に、天井を衝くほどの火柱が上がる。
左右から食らったら、ひとたまりもない。タミアは咄嗟に逃げ場を探して、崩れて折り重なった柱に登った。足を滑らせ駆け上がる下で、溜まった砂塵と枯草が炙られ、ぼうと煙が上がる。隠れるように隣の柱へ飛び移り、身を低くして上ったが、すぐに追いかけてくる足音が聞こえた。
杖を抱えているせいで、思ったように隠れられない。ばらばらとほどけてきた髪を振り払って、震える足に力を入れ、立ち上がる。
拓けた坂の上に出た。それは崩れた天井だった。
タミアは一瞬の躊躇の後、彼方に遺跡の別の棟へ繋がる回廊が残っているのを見つけて、そちらへ向かって駆け上がった。亀裂を飛び越え、降り積もった砂で足を滑らせながら走る。その目に回廊と天井とが、確かに繋がっているのが見えたとき。
回廊が一瞬にして炎に包まれ、燃え上がった。
「大理石を焼き消すのは無理でモ、お前の足を止めるにはこれで十分ダ」
まるで黄金の回廊のように燃え盛る道を見つめて、呆然とするタミアの背後で楽しげな声が響く。愉悦というにも軽やかな、追いかけっこを楽しんだ子供のような声だった。
「さア、戻るカ。人間っテ、どの程度の高さなら飛び降りられるんダ?」
潰れたら餌にはならないからナ、とぼやく。差し伸べられる手に、タミアは杖を両腕で抱きしめて首を振った。さり、とブーツの底が滑って、血の気が引く。どれくらい登ってきたのかは、自分が一番よく分かっている。
一歩、また一歩と、ジンは向かってくる。視界の隅に、この遺跡の端が映った。もうこれ以上は、どこへも下がれない。
「……あなたの中に、もし本当のあなたが残っているなら、そのあなたに言うわ」
乾いて張りついた喉を上下させて、タミアは口を開いた。細い風がひうと、天井を這い上がってきてスカートを揺らす。遠くで砂がざわめいていた。大風が吹くのかもしれない。丘陵がオアシスの水面のように、大きく揺れている。
「私、魔法使いになることにいっぱいいっぱいで、実際なったらどうするかとか、正直まだ考えてなかった。でも今、あなたと話してそれが決まった」
メダルに隠されたジンの目が、タミアの心臓の辺りを鋭く射抜いた。
「一人前になったあかつきには、あなたみたいなジンを救える方法を探すわ」
その目が、刹那、メダルの陰で光ったような気がして。
タミアは真後ろに、強く踵を蹴った。一秒前まで立っていた場所が、心臓の辺りから、炎に包まれる。落下していく体と対称に、耳をつんざくようなジンの叫びが空に上がった。憤怒か絶望か、ありとあらゆる負の感情で喉を切り裂く声だ。
耳元をひゅうひゅうと風が駆け抜ける。
だめだ、とタミアは悟った。
ジンに語りかけながら、意識を足に集中させて、風のジンに呼びかけていた。あなたたちと正しく語り合える魔法使いになろう、だから今、命を助けてくれないかと。ログズがやったように、風の魔法で体を浮かせることができないかと賭けた。
でも、見よう見まねではそう上手くいくものでもないらしい。風は確かに集まっているが、まとまりがない。タミアの体を押し上げるように下から吹いては、手足を掠めて脇をすり抜け、空へ帰ってゆく。
下に広がる景色は、砂を薄く積もらせた、石の床だ。
ここまでか、と意識が消えかかったそのとき。
「――タミア!」
ごう、と竜巻のような音を立てて、遺跡の中を一陣の風が吹き抜けてきた。その風に煽られて体が一瞬、宙へ浮き上がり、砂吹雪の向こうに見えた人の姿に息を呑む。
ログズが風を纏って駆けつけたのだった。
「ログズ!」
思わず叫んでから、その距離に気づき、愕然とする。
彼はタミアの視界の中で、人形ほど小さく見える位置にいた。
花火を目安に飛んできたのだろうが、タミアはあれから走り回って、遠く離れてしまった。ログズも風のコントロールを取るだけで精いっぱいで、タミアがどこにいるかまでは見ていられなかったのだろう。
高度も安定感も、何もかも捨てて、ログズは手を伸ばした。
でも、到底届く距離ではない。再び体が傾くのを感じて、タミアは抱えていた杖を、ログズに向かって投げた。
一緒に落ちたら、きっと壊れてしまうから。
どうかこれだけは、と風に願って、力の限りに放り投げる。
バカ、と叫んだ声が聞こえた気がした。思い思いに集まっていた風がタミアの声に応えて、タミアを離れ、杖を運んでいく。落下の速度が速まり、意識が宙に飛んだ。太陽を背にして、ジンがタミアに手を向け、何事か叫ぶ。
目も、耳も、口も、すべてが一つになったように、頭が真っ白になって何も考えられなくなった瞬間。
風が遺跡の床とタミアの背中の間に吹き込み、手のひら一枚だった隙間を、空へ向かって押し開けた。
同時に、降り注いでいた火の雨が水に包まれて消える。
無数の水滴が頬に当たって我に返ったとき、タミアは生きているのか死んでいるのか分からず、ただぱちぱちとまばたきを繰り返した。
――魔法使いだ。
緩慢に動きを取り戻した頭で、最初にそう思った。魔法使いがいる。杖を片手に、ターバンを目深に巻いて、風を纏った魔法使いが。
薄い肩越しに、何十、何百という数のジンを引き連れている。あ、と声を発するとそれは消えた。幻だったのか、見えなくなったのかは分からない。
魔法使いが口を開く。ひとつ、ふたつ、何事か喋った。
そうして彼は静かに身を屈めると。
「――いたッ!」
タミアに渾身の力で、頭突きを食らわせた。
「な……、何するのよログズ!」
「こっちの台詞だボケ! クソ真面目もいい加減にしろ、この大バカ!」
霞がかっていた脳が、一気に覚醒する。五感が現実味を取り戻して、気がついたら、目の前の魔法使いの名前も口から出ていた。生きている。止まっていた呼吸を思い出したように肩で息をしながら、弾む心臓を押さえて、タミアは信じられない心地で首を振った。
生きている――生き残った。ログズが、自分を拾ったのか。
「バカとかボケとか、ひどいじゃない! 誰がその杖、取り返したと……!」
「それが大バカだって言ってんだろうが……! お前、誰が命かけて手伝えっつった!」
「それは……なんていうか色々あって!」
「命以上の色々なんざあってたまるか! 助けが必要な分際でなんとかしよーとか考えてんじゃねえぞ、今度やってみろ、てめえのアタマ花火にして打ち上げて下でマッパになって踊って頭蓋骨で酒飲んでやるからな……?」
牢で初めてハートールに会ったときよりも、よっぽどキレている。
片手に杖を持っているせいで腕と膝で横抱きにされたまま、タミアは衝撃で言葉をなくして、必死に頷いた。分かったと言わないと殺されそうな剣幕だ。こんな奇跡の救出劇を経た上で殺されるなんて、確かに一度は覚悟を決めた身だが、さすがに死にきれない。
すとん、とログズが地面に降り立つ。風に足を支えられて着地しながら、タミアは「ごめんなさい」と呟いた。
迂闊だった、の一言では済まない危機だった。起こったことに次から次へ対処しようとしているうち、気づいたら自分の力で解決も、後戻りもできないところまで来ていたのだ。他にどうしたら良かったのか、分からなかった。
「あのなァ、俺は確かに協力しろとも言ったし、ハートールのヤツが喜びそうだから、お前がジンを倒すようなことも言ったけどな。俺はやらないとも、一言も言ってねェんだからな」
「あ……」
「何でもかんでも、自分がやらなきゃと思う思い上がりを捨てろ」
許すとは言わずに、ログズは背中を向けて杖を指先でくるりと回した。重い杖が、まるで羽根のように動く。
「お前の敵が敵じゃないヤツなんてのは、ザラにいるんだ。一人前になるまでは、強いヤツの背中に隠れて走り回って、戦った気になるくらいでちょうどイイんだよ」
それが風のジンたちの力によるものだと気づいたとき、タミアは今まで見えなかった扉が開かれて、強すぎる光が差しこんできたような驚きに息を呑んだ。それは魔法でありながら、さながらジンと戯れるような、ジンから彼に話しかけてきたような光景だった。
この人は、こんなに自然に、魔法を使うのか。
息をする、手を挙げる、足を動かす、そんな動作のひとつのように。
「まァ、どうやって取り返そうか、そこんとこは悩んでたのも事実だ。ノープランで飛び込んでってジンからコレ取り返してくるって、お前、結構すげェよ」
ログズはタミアが押し黙ったのを落ち込ませたと思ったのか、杖を掲げて、いつもの口調で言った。
そうして遺跡の屋根の上を見上げ、ヒュウ、と口笛を吹く。
細く鋭く、吐き出されたその息に、魔法が乗っている。ピッ、と刃物もないのに、見下ろすジンの頬が切れた。数秒、何があったか気づいていないようだったが、やがて爪の伸びた指で頬をなぞって、灰に汚れた自らの手とログズを見比べた。
「やろうぜ。お前に殴られてから、噛み合わせが悪くてイライラしてんだ」
左の頬に拳骨を当てて、ログズは笑う。
屋根の上に真っ赤な火柱が上がった。次の瞬間には、それがタミアたちの目の前に落下してきていた。
炎を纏った腕をジンが一振りすれば、無数の火の粉が砂に落ち、たちまち小さな火柱を作った。身を躱したログズが杖を一閃すると、炎は氷に変わって砕ける。氷はみるみる砂の上に広がっていき、足を取られたジンが叫び声と共に、柱の上へ飛び移った。
「ログズ!」
「どうした!」
「振り返らなくていいから聞いて! ジンの目的は、あなたなの」
吐き出された炎が、流星のように降り注ぐ。タミアは自分の身を護って逃げ回りながら、水の防壁でそれを打ち消したログズに向けて叫んだ。
「あなたの体を乗っ取って、最強の魔法使いになって、この砂漠から魔法使いを追い出すんだって。そうしてジンが自由になる国を作るんだって」
「そういうことか。道理でやけに、執着してくると思ったぜ」
ログズの放った氷の一撃が、ジンの胸に突き刺さった。でも、炎に囲まれてすぐに溶けてしまう。
ジンが音もなく砂地に降りると、周囲に炎が飛び、火の花が咲いた。ログズが炎を放つとすかさず後方に飛び退り、その足をバネにして一気に距離を詰めてくる。伸ばされた手を、ログズは杖で受け止めた。瞬く間に杖が凍りつき、ジンの纏った炎に相殺されながらもその手を凍らせていく。
ギイイ、と猿のような声を上げて、ジンは手を引き抜き、跳躍した。
タミアは放とうとしていた水の魔法をやめて、代わりに風のジンに呼びかけた。一陣の風が吹き、視界を濁していた砂塵が払われる。鮮やかになった視界の彼方にジンの姿をみとめ、ログズが風を纏って弾丸のように飛び込んでいった。
氷か水か、煌めく飛沫が上がり、火柱が上がっては消える。
ジンから見つかりにくいところで応援に回ろうと、タミアは遺跡の柱の陰を走って、彼らのほうへ向かった。倒壊した彫刻と柱の間から、ジンが人間離れした体術で殴りかかっているのが見える。ログズの前にあった氷の盾が、重い音を立てて砕かれた。
あ、と叫ぶ間もなく、ログズの体が後方へ吹き飛ばされる。
打ちつけられて砂にまみれたログズに向かって、ジンが手を翳すのを見て、タミアは思わずジンに向かって魔法を放っていた。風がジンを包み、彼の放った炎の軌道をわずかに反らす。
ジンの目がタミアを捉えた。
その脇腹に、透明な風の刃が叩きつけられる。
「俺の相手が終わってねェぞ、よそ見すんなよ」
全身に風を纏い、ログズがジンを押し倒した。仰向けになった胸に杖を突き立てる。クリソコーラの眸が炎に包まれ、ジンの心臓を目がけて一気に下った。
断末魔のような叫びを上げて――ジンが身を跳ね起こす。
「おっと……!」
ログズは素早く杖を引き抜いて、飛び退った。胸に穴を開け、灰を散らしながら、ジンは天を仰いで叫ぶ。途端、ログズの足元から炎が吹き上がった。離れて見守っていたタミアは、はっとして駆け出した。タミアの立っていた場所にも、炎が上がった。
「よそ見すんなって言っただろ」
炎の中から、炎が飛び出していく。それは火の魔法を纏ったログズだった。走るタミアを追っていたジンの視線は、一瞬、ログズを捉えるのに時間を要した。跳躍して逃げたジンを追って、ログズが風に乗り、遺跡の上へ飛び移る。
轟音が何度か響き、柱に亀裂が走った。タミアは駆け出して、風のジンに呼びかけた。背中を押されて空気が頬を切るような速さで走り、崩落を免れて振り返る。
「ログ……」
濃い砂煙が晴れたとき、立っていたのはログズだった。思わず駆け寄りそうになったタミアを、ログズがシッと制する。ま、だ。唇が、声を殺してそう動いた。瞬間、ログズを囲むように砕けた石の間から火が噴き上がり、瓦礫を押し上げて、赤い何かが盛り上がってきた。
「何……、これ」
カチ、と奥歯が一度鳴り、みるみるうちに止まらなくなる。
崩れた柱の下から膨らみだしたそれは、溶岩のようにぐつぐつと暗い光沢を放って滾りながら、タミアの目の前で空気を入れられたように巨大化していく。柱を優に飲みこむ大きさになったところで、突如として膨張が止まり、爆発した。中から流星のように、金色の火の粉が無尽蔵に溢れる。
ログズがひゅっと杖を振り翳して、萎みかけた風船のようなそれを切り裂く。奥から何か、一際明るく輝くものが飛び出した。煌めきながら跳ねていくせいで、月明かりに溶けて、危うく見失いそうになる。
瓦礫の山の頂上に立って、くるりと回ったそれは、炎だった。
黄金色に近く輝く、限りなく透明な。
「出たな、こいつがジンの本当の姿だ」
ログズの言葉に、タミアは思わず目を瞠らずにはいられなかった。
なんて清らかで美しいのだろう。
悪性だなどと知らなければ、もっと傍で見ていたいと近づいていってしまいそうだ。人ほどの大きさで、全身は炎一色で形作られており、頭はあるが顔はない。細い体に、細長い手足が光のように曖昧についている。頭の先から足元まで伸びた一本の光の帯は、先端へいくにつれて青白く夜に溶け込む色をしていた。
ログズがすっと、杖を前に構えた。ジンはまるで、風に煽られた透明な薄いガラス板のようにふらりと身を傾ける。
次の瞬間、ログズの目と鼻の先で、炎が爆ぜた。
「――――ッ!」
熱風がタミアの髪まで巻き上げていく。咄嗟に両腕で庇った顔を上げ、タミアが見たものは、炎と炎の押し合いだった。ジンの炎は白金に近く、対するログズの炎は明るいオレンジ色をしている。
先に折れたのは、意外にもジンだった。ジンが振り払うと、白金の炎は霧散し、ログズの炎が辺りを焼いた。ジンは軽やかに跳んでそれを躱すと、月明かりに身をひるがえして消える。
次の瞬間には、ログズの真後ろに現れた。気配に反応したのか、魔法ではなく杖で薙ぎ払ったログズを笑うように杖の先端へ飛び乗る。風が巻き起こり、ジンの体が瓦礫に打ちつけられた。まばたきひとつの間にいなくなり、今度はどこへ、と思えばログズが空に向かって手を翳す。
上空から襲いかかってきた炎を風で逸らし、彼はそのまま、風に瓦礫をのせてジンへ向かって一直線にぶつけた。ジンが素早く逃れ、ぶつかりあった瓦礫が無数の石の礫となって降り注ぐ。
二人はそれをものともせず、切り結んでは離れ、何度となくぶつかった。魔法であったり、脚と杖であったり、両者が目にも止まらぬ速さで、相手の手の内を見破って相打つような戦いが続いた。魔法では互角に見えたが、体術ではジンが圧している。
間合いを詰められて、とうとうログズが蹴り飛ばされた。彼方の景色が透き通って見える、実体のないかのような足だ。しかしログズは瓦礫の山を越えると、タミアの足元に打ちつけられて、丘陵を転がり落ちた。風のジンがタミアの声に応えて、その体を押し留める。
タミアが駆け寄ると、ログズは杖を砂に突き立てて起き上がった。蹴られた部分の服が焼け焦げ、腹に火傷が覗いている。
「報復は同じ場所にってか。人もジンも、思うこたァ一緒だな」
何がおかしいのか、彼は心底面白げに笑い、杖を振り翳した。上空に追いかけてきていたジンが、鋭い風に打たれて墜落する。ログズがそれを追いかけて飛び、垂直に氷塊を叩き落とした。ジンの叫びと氷の解ける音が、辺りに響き渡る。
「タミア、逃げるぞ!」
「えっ?」
「来い!」
空中から呼ばれて、タミアは驚いたまま手を伸ばした。逃げるってどういうこと、と聞き返す間もないまま、ログズに腕を引っぱられ、風に乗って舞い上がる。一瞬、タフリールを目指すと見せかけて、彼は針路を真逆に向けた。
即ち、遺跡のほうへ。夜天に輝く月が、すっかり形を変えた神殿を照らし出している。
「ね、ねえログズ。逃げるのよね?」
「おう」
「だったら、こっちじゃだめよ。隠れるところがない」
神殿の先は、上ったときに嫌というほど見た。この先は何もない。彼方のオアシスさえ遠すぎて見えず、延々と砂漠が広がっているだけだ。
追いつかれたら、身を潜める場所も、匿ってもらえる場所もない。背後にジンの鳴き声を聞いて、タミアは今からでも方向を変えるべきだとログズの腕を必死に引っぱった。タフリールならば、きっと他にも魔法使いはいる。助けてもらえる可能性も、十分にある。
見上げた横顔に月明かりが差し、唇が描いた弧を白く浮き上がらせた。
「何言ってんだよ。負けそうだなんて誰も言ってねえぞ」
「え……」
「下、見ておけよ。一瞬だからな」
風が遺跡の屋根の上を通り抜ける。言われた通りに下を見て、タミアはあれ、とまばたきをした。
崩落した天井の両側に、等間隔に並んだ火が。蝋燭を灯したように、ぽう、ぽうと揺れている。戦闘の名残りだろうか。それにしては規則的だ。
首を傾げていると、あっというまに通過してしまう。戸惑って顔を上げたタミアに、ログズは笑った。
「覚えとくといいぜ。手負いの敵は、逃げるって言うとまんまと追ってくる」
背中を押されて振り返ると、ジンが夜空に光を散らしながらタミアたちを追ってくるところだった。目のない顔に見据えられて怯みかけたが、よく見るとその飛行はふらついている。頭部にたなびく光の帯が、青から赤に変わっていた。
まるで、炎の温度が下がったように。
炎そのものであるジンの生命力が、低下しているように。
「倒しゃイイならもっと話が早いんだが、何せ今回は証拠が大事だからな」
「灰?」
「そうそう。水に濡れて証拠品として使えなくなったり、風でどっかいっちまったりしたらまずいだろ?」
「あ……」
「そういうときは、火に限る。俺は魔法なら火が一番好きだから、アイツを買ったハートールの父親の気持ちも分かんねえとは言えねェな。一番便利でパーッと明るい」
ただし、と。
ログズが風の高度を下げた。ジンがそれを追いかけて、遺跡の屋根の上を今、通り過ぎる。
「相手の温度が高すぎるときは、適度に冷ましてからじゃねえと、思うようにはいかない。そこだけ面倒だよな」
すべてがこのときを、待っていたというように。蝋燭の先ほどだった火が一斉に細く伸び上がり、上空で絡み合って蜘蛛の巣のような檻を作った。驚いて動きを止めたジンの隙を逃さず、ログズが風を方向転換させ、杖を掲げる。
炎の檻が急速に縮んでいき、遺跡にジンを叩きつけた。炎が炎を焦がす音がして、甲高い声が夜空をつんざく。
「降りるか?」
真上に停止してそう訊かれたとき、タミアはログズが今から何をしようとしているのか、直感的に察した。
「悪性のジンを正気に戻す方法って、ないのよね?」
「今のところな」
「じゃあ、私も行く」
短い確認を済ませて、タミアは笑った。分かった、と答える代わりに、ログズが目で杖を示す。逡巡の後に、掴んだ場所がログズの手より上の部分だったのは、正直な恐怖心の表れだ。
背中に隠れていていいというのなら、今少しの間だけ。最後ではなく、最後から二番目に触れる手になる逃げを、許してほしい。
「行くぞ」
いつか一人前の魔法使いになる、その日まで。
ボウ、とクリソコーラの眸に火が灯った。その杖を垂直に突き立てて、風はタミアたちをジンの元へ運んでいく。聞くものの夢を今際の夜まで呪うような恐ろしい声と共に、炎が爆ぜて、目の前が真っ白に染まった。
熱風が乱れた髪を絡ませる。タミアは杖を握る手に力を込めて、祈るように目を閉じた。
*