3章
魔法使いとは、心の声によってジンと語らう能力を持った人間のことである。ジンと会話する能力とは才能であり、つまるところ、魔法使いはなりたいと思ってなれるものではない。
勉学や努力だけでは後づけのできない、生まれながらの素質が必要だ。素質を持って生まれ、なおかつそれが何かの引き金によって開花した者が魔法を発現する。さらに魔法を使いこなして「魔法使い」と呼ばれるようになるのは、ジンと上手く語らう術をより深く学び、才能を育て上げた者だけである。
少なくとも、表向きにはそう言われている。
「おや、君たちか。どうしたんだい?」
午前七時、信徒たちが朝の礼拝の歌をうたう中、眠い目を擦って歌声と共に坂道を下ったタミアたちは、ギルド〈月の盾〉が開くと同時にそのドアを叩いた。出迎えたのは昨日と同じ、茶髪でバッジを胸に飾った副団長だ。
気だるさや眠気など一切感じさせない、乱れのない服装と、しゃんとした姿勢。高い窓から差し込む朝の光にも、まったく気圧されることのない爽やかさである。
彼はその、朝日そのもののような温厚さでもって、タミアたちの前に歩み寄ると、笑顔で口を開いた。
「まさか、また何かに巻き込まれたのかな。もう顔を出してくれることはないと思っていたよ。探し物が見つかったから」
「探し物って、まさか」
求められた握手に応えるよりも先に食いついたタミアに、彼はおや、と首を傾げた。
「杖だよ。昨日、ログズが取りに来たけど……聞いていないのかい?」
「え……?」
「だめじゃないか、心配してくれていた相手にはきちんと話さないと。昨日の夕方ごろかな、キャラバンの商人だという人から、広場で我々が聞き込みをしていた杖によく似たものが持ち込まれたと預けられてね。持ち込んだ相手の特徴を訊いたら、我々が地下に捕らえている男とそっくりだったもので、そっちは今、全力で捜索に当たっているところだ」
「持ち込まれた杖は?」
「夜になるころ、ログズが一人で来て、受け取っていったよ。届いていないかと思って顔を出した、って……な?」
同意を求めるように、副団長はログズのほうへと視線を向けた。でも、とタミアは強く、スカートの脇で両手を握りしめた。
ありえない。
「……やられたな」
だって、昨日の夜といったら、彼はタミアと一緒にいたのだ。日の沈むころ、あの謎の火に襲われて、窓ガラスを割って。昨夜は二人で部屋と、暗くなった裏庭を掃除しながら、従業員になんとかかんとか信用してもらえるよう、必死に事情を説明していた。
その最中に、何者かがログズの杖を持っていったのだ。
否、もう自分たちはその「何者か」を知っている。悔しげに顔を覆ってため息を吐き出したログズを見上げ、タミアは何も言えずに唇を引き結んだ。
彼の杖を持ち出したのはおそらく、タミアたちを襲った、あの火。もっと正しく言うならば、火のジンである。
「俺じゃねェよ、それ」
「なんだって? だって、どこからどう見ても君で……」
「声は何度も聞いたか? その俺はあんたと、今みたいにベラベラと喋ったか?」
副団長はそこで、はっと蒼白になった。静かに首を振り、杖の受け渡しをしたときの状況をぽつりぽつりと話しだす。自分はカウンターを離れて、奥で書類仕事に当たっている時間だったこと。カウンターには別の者がいて、彼はログズの名前を聞いてすぐに杖の持ち主だと分かったが、担当者が副団長だったので、確認として念のために顔を見せるだけ連れてきたこと。
ああ君か、見つかったよ、と一言二言は会話をしたが、仕事が多かったのでデスクから顔を上げて話しただけで、杖の受け渡し手続きはログズを案内してきた者に任せたこと。
思い返せば、自分は話したが、ログズのほうはほとんど会話らしい会話を発さなかったこと。
愕然と、呼吸も忘れたように立ち尽くしている副団長を見て、ログズは切り替えるようにかぶりを振った。
「なあ、騙されたあんたをどうこうは思わないから、一個教えてくれ」
「……ああ、私に答えられることなら何でも」
「昨夜来たっていう俺は、赤紫の服着て、コレしてなかったんじゃないか?」
コレ、と、ログズが指し示したのは、頭に巻いているターバンだ。アイヴォリーに金糸で細い線が入っただけの、彼にしては至極シンプルな持ち物なのだが、色素の抜けた真珠色の髪にはどんな色でも華やかなものに映る。
服の色までは思い出せない様子だった副団長も、ターバンについては記憶がはっきりしていたようで、すぐに頷いた。
「着けていなかったな。代わりに金とターコイズの……あれはなんだ、首飾りか? とにかくそんなものを、メダル風の飾りが正面に来るようにして、踊り子の目隠しみたいに巻いていたが」
「はァ? そンなの変態じゃねェか。違和感持ってくれよ」
「う、ううむ? すまない。なんというかほら、なあ?」
ちらと、副団長が助けを求める視線を投げかけてきた。服装は自由だと思って、などと歯切れ悪くごまかそうとしている。
「常人がやってたら気を疑うけど、あなただから、ありえないってこともないか、って思われたんでしょ」
「ああ?」
「アイデンティティーが裏目に出たわね。仕方ないわよ」
タミアは彼の言えないでいる言葉を、代わりに伝えた。頬に伸びてきたログズの手を、素早く払い落とす。同じ攻撃は二度食らわない。と思ったら代わりに頭突きを食らわされて、視界が結構揺れた。
「あのデブはどこにいる?」
「え、ああ、彼かい? 彼なら一応まだ、ここの地下にいるが」
「話がしたい。会わせてくれ」
呆然としている副団長を顎でしゃくって、ログズは階段へ向かって歩き出した。
その背中を、タミアが軽く引っ張る。
「ちょっと、私に言うことは?」
「よかったなァ、揺れる脳ミソ入ってて」
にたりと、満足げに彼は笑った。呆気に取られるタミアを見下ろして、さ、行くぞ、と階段を下る。後ろ姿が鼻歌でも歌い出しそうなほど、すっきりしている。まさかとは思うが昨日、足を蹴ったときからずっと、復讐のチャンスを窺っていたのだろうか。
この、負けず嫌いが。
大声で叫んで蹴り落としたい衝動に駆られながら、タミアは何とか平静を保って後に続いた。本当に、イクテヤールに着いてアルヤルに会ったら、真っ先に聞いてやる。なぜこの人に自分の迎えを任せたのかと。他に人選はなかったのか。
副団長がローブの下から、鍵束を取り出した。
「ボクの身近に、魔法使いがいないか?」
地下牢はちょうど、朝食の時間帯だった。面会だという副団長の言葉に振り返った男は、ママ、と言いかけてログズの姿を見とめるなり、頬張っていたナツメヤシとチーズのサンドイッチを盛大に噎せた。
すっかりトラウマが染みついている。可哀相に思ったタミアは副団長に頼んで、牢の中に全員を入れてもらった。
男は食事を横へずらすと、自然な所作でタミアたちを明かりの傍へ座らせ、自分が隅へと回った。全員が絨毯に座れるようにし、副団長にも空席を示したが、彼は職務だと言って扉の前に膝を下ろすに留まった。男はそんな副団長に、それでは、と一言詫びて最後に腰を下ろす。
鉄格子を挟んでしか喋ったことのなかった男だが、改めて向き合うと、何不自由なく育ったことがありありと溢れる体つきの中に、上流階級の品性を窺わせる仕草がところどころ垣間見える。名をハートールと名乗った。彼に名乗られて、タミアは自分たちも名前を言っていないことを思い出し、本題の前に、ログズと共に簡単な自己紹介を済ませた。
「そう、魔法使いだ。いないか?」
ハートールの正面に腰を下ろして、ログズは再度、その目を覗き込むように訊いた。ガリ、と蜜がけのナッツが噛み砕かれる。ハートールの母が持ってきたという彼の好物は、猫足のついたガラスの器に山と盛られて、素っ気ない牢の中に甘い匂いを漂わせている。
ログズはその中に時々、宝石のように交ざっているリンゴを指で弾きだして、口に放り込んだ。
「いない……よ。そういう能力の出る家系じゃない」
「本当に?」
「う、うん」
「じゃ、ちゃんとした訊き方に変える」
硬く乾燥したそれを、砂糖菓子のように口の中で転がして、ログズは胡坐をかいていた片膝を立てた。膝を抱いて背中を丸め、まるで秘密の話をするようにトーンを落とす。
「お前の身近に、最近、ジンを封じて魔法使いになったヤツはいないか?」
ひゅっと、ハートールが息を呑んだ音が聞こえた気がした。ターバンに隠されたログズの目は、ハートールからは見えない。当然、ログズからもほとんど見えてはいないはずなのだが、彼は目の前に立つ者に、すべてを見透かされているような錯覚を与える。
はったりが上手い、と言ってしまえばそれまでなのだけれど。
一歩離れて見守るタミアには、ハートールが今、己の中の隠し事や見せたくない部分を、本当は何もかも知られているのではないか、隠しても無駄なのではないかという感覚に陥っていることがよく分かった。
つくづく、魔法使いというより、魔術師である。ペテンと魔法は、いつの時代も紙一重だ。
「魔法使いは一般的に、才能がなきゃなれない。でもそれは、表向きの話だ」
うつむきかけていくハートールを追うように、ログズは淡々と語りかけた。
「実際は、誰でもなれる方法がある。大昔から存在してて、邪道だ邪道だと言われながらも、犯罪にはならずに陰でコソコソ使われ続けてる方法が」
ただ見つめていると、彼と一緒になってハートールを追いつめてしまいそうで、タミアはナッツに手を伸ばした。クルミの香ばしさと、蜜の甘さが口に広がる。こんな薄暗い地下だというのに、品のいい、優しい味がした。
「ランプ、指輪、本――なんでもいい。手軽に持ち歩けるものに、ジンを封じ込めて、使役する方法だ。こいつを使えば、火も水も風も自由自在とはいかねえが、封じたジンの持ってる能力に関しては、自由に扱えるようになる」
「……」
「ただし。ジンを封じるなんてことができるのは、相当な経験とアタマがあって、なおかつ命知らずな魔法使いだけだ。封じようとしてるなんて、ジンに悟られたら殺されちまうからな。だからこの方法は、はっきり言ってメチャメチャ金がかかる。できるヤツってのは、……よっぽどの金持ちだけだ」
なあ、と。同意を求めるように、ログズは笑った。傾げた首元で、ちゃちな鍍金の首飾りが音を鳴らす。ハートールのぷっくりと節が埋もれた指には、そんな首飾りが百個は買えそうな指輪が嵌められていた。
でも、そこにジンは封じられていないはずだ。もしもハートールが魔法使いだとすれば、最初から、こんな簡素な牢に大人しく捕まったりするはずがない。
観念したように、ハートールのため息が聞こえた。
「……ボクのパパが、魔法使いだよ」
「ハートールさん」
「ログズ、だっけ? キミの言うとおりの、ジンをお金で買った魔法使いだ」
心配になって声をかけたタミアに一度、視線を向け、ハートールはログズに向き直って微笑んだ。それは自分の言っていることの、愚かさや恥ずかしさを十分に理解している人の、諦めを含んだ苦い微笑みだった。
「やっぱそうか」
「キミみたいな本物の魔法使いからしたら、とんだまがい物だよね。パパはジンを財産にしているなんて誇らしいことだっていうけど、ママは間違いだって嘆いてるし、ボクも、ジンは人間の身の丈に合わない財産だと思ってる。パパには言えないけど」
ハートールはゆるりと、親しい人間の前でするように脚を崩した。それは彼なりの、知っていることをすべて話すという意思の表明だった。
「なんでそんなモン、買ったんだ」
「キミにはきっと分からないよ」
「あ?」
「パパは若くして東国との貿易商人として成功して、自分よりずっと年上の召使に傅かれて、誰もが羨む美人だったママを奥さんにもらった。絢爛豪華な家に住んで、絹と宝石を身につけて、隊商宿を建てて過酷な貿易に出ることを引退した」
「羨ましい限りの暮らしじゃねェか」
「そうだね、人もお金も、パパにとっては何もかも自由だ。でも、だからこそ――手に入らないものが、輝いて見えたんじゃないかな」
柔らかな指と指を祈るように組んで、ハートールはタミアたちに、理解を促すように首を傾げた。
稀代の貿易商が、自分の力では手に入れることができなかったもの。即ちそれは、魔法だ。自然の中にあるものを自由に扱う、摩訶不思議なジンの力。人の身でありながらそれを借り受けて、自由自在に操る魔法使いこそが、月の都の富と名声を欲しいままにしてきた彼の、最後に目指したものだった。
「三ヶ月くらい前だ。隊商宿をボクに譲って、パパは旅に出た。火のジンを封じた指輪をひとつして、魔法の力で、ガダブ砂漠を旅してみたいって言って」
「その後、知らせはちゃんと届いてるか?」
「西方のラフターン・オアシスに着いたって手紙はもらったよ。一ヶ月くらい前だったかな。それきり音沙汰がなくて、最近ちょっと心配してたんだけど……どうして?」
ハートールは穏やかな顔に、悪い予感を悟ったような不安を滲ませて訊いた。タミアは思わず、ログズの横顔を見上げた。彼は膝の上で頬杖をついて、しばらく何かを考え込んでいたようだったが、やがて静かに口を開いた。
「ラフターンに、使いを送れよ。運がよければ一文無しになってそこで生き延びてるだろうし、悪かったらお前みたいに無実の罪で捕まってるだろうから、どっちにしろ金をできるだけ持ってってやれ」
「え……、え、何の話?」
「ジンってのは復讐が好きだからな。死んで楽にさせるより、困らせてやるのが常套手段だ。いいか、落ち着いて聞けよ」
がり、とログズがナッツを噛みつぶす。ハートールがごくりと、唾を飲み込んだ。
「お前の父親は何らかのヘマをして、ジンに逃げられた可能性が高い。ジンを封じるのが邪道だって言われんのは、逃げられたときが厄介だからだ。自分より弱いはずの人間に、狭いトコロに閉じ込められて、奴隷みたいにこき使われて、どーなるか想像つくだろ?」
「……怒る」
「そうだよ。封じられたジンは、何かのきっかけで逃げ出すと、まず主だったヤツを徹底的に困らせる。お前の父親、今頃浮浪者みたいになってるかもしんねーぜ。で、その血縁者であるお前のことも、ウサ晴らしにこうやって困らせる。結構高いジン買ったんだろうな。強いジンは、狙った人間に化けられる」
「そういうことだったのか……! じゃあ、つまり」
口を挟んだのは副団長だった。それまで扉の傍で黙していた彼が、いきなり発した声が地下に響き渡る。彼は全員の注目を受けて、はっとしたように口を噤んだ。
ログズが「そうだ」と頷いて、彼とハートールを見比べる。
「俺が殴られた相手や旅の魔法使いの荷物を奪った相手は、こいつに化けた、こいつの父親が使役してたジンだ」
「どうりで、我々が総出で探しても見つからないわけだ」
「だろうな。ジンなら姿も消せるし、別の人間になることだってできる。現に俺にも化けて出たみてえだしな」
「しかし、君は関係ないんじゃないか? ログズ。ハートールの父親と君に何の因果がある」
「見境がなくなってンだよ。息子を困らせてもまだ気が晴れなくて、手当たり次第に魔法使いに復讐して回ってんだろ」
封印から解かれたジンは始め、主だった人間やその近親者に報復を試みる。そこまでで終わる場合も多いが、中には終わらない者も存在する。
ジンは根本的に、人間よりも気高い。手荒く使役され、尊厳を傷つけられ続けた場合には、主だった人間の周辺を荒らすだけでは怒りが収まらないこともある。持て余した怒りの矛先は、魔法使いに向けられる。才能による使役にせよ、封印による使役にせよ、自分たちを操り、力を己のもののように振る舞う魔法使いたちを憎み、無差別に復讐をするようになるのだ。
魔法使いたちの言葉では、それを「悪性のジン」と呼ぶ。
一度悪性に堕ちたジンは、元には戻せない。もう一度封印されるか、倒されるまで、魔法使いを憎み続ける。
本を奪われた旅人も、杖を奪われたログズも、どちらも魔法使いだ。タミアが襲われたのも、魔法の練習をしていたときだった。
ポケットから金の腕輪を取り出して、ログズが口を開く。
「多分だけどな、今回のジンが化けられるのは、体だけだ。声と服装、この二つがごまかせてない」
「子供のような声、か」
「そう、それと服も盗んで身につけなきゃ化けられねぇんだろう。だから俺に目をつけたとき、服やアクセサリーもごっそり持ってったんだろうな」
ひどい災難に遭った。そう言いたげに、ログズはため息を吐き出した。どちらかというと、本当に災難だったのは私ではないだろうか――言いかけた言葉を、今は野暮か、とタミアは喉の奥に押し戻す。
副団長は納得したように、ふむと頷いた。ハートールが捕まった日、バザールの服屋で数件の窃盗が起きている。いずれも彼の体格に合いそうな、たっぷりとした仕立ての服だ。
「ログズ、君の予想が正しければ、彼は無罪」
副団長の言葉に、ハートールが希望に満ちた顔を上げた。
「しかし、我々の敵は人間ではないということになる。この〈月の盾〉のメンバーは、ほとんどが人間だ。最善は尽くすが、ジンとの戦いに向いているとは言い難い」
「ああ、んなことは分かってる」
ぐいと、ログズはタミアの肩を引き寄せて、自信ありげに笑った。
「目には目を歯には歯を、魔法には魔法を――ってな。杖取り返すついでだ。タフリールの平和のために、いっちょ片づけてきてやるよ」
「話が早くて助かる。我々も討伐隊を組んではみるが、先に倒したら、証拠に灰を持ってきてくれ」
「おう」
「ジン討伐となれば、賊探しとは桁を変えないとな。報奨金は十万ガルムだ」
「じゅ……っ!」
思い切りのいい数字に、タミアの目が飛び出しそうになる。
反応を想定していたように、ログズはにやりと唇を吊り上げて背中を叩いた。
「サクッと倒してやるぜ。コイツが」
「ええ、サクッと……えっ!?」
「おお、頼もしいな! タミア、君も魔法使いなのか」
女の子なのに勇ましいな、と副団長は感心したように頷いている。いやいやいやそうだけどそうじゃないというか、全然そうじゃないというか、と慌てふためくタミアの耳元で、ログズがそろりと囁いた。
「やるだろ? まずは二万お前に返って、二万が橋の通行税。ここまでで四万だ」
「……!」
「残り六万ありゃ、バザールで相当美味いモン食って、何でも買えるぜ?」
悪魔は、人の心の弱い部分に語りかけるという。
タミアの脳裏に、煌めくバザールが映し出された。たった一杯だけ飲んだあの甘いレモン水の目映さが、今も宝物のように記憶のふちで輝いている。お菓子も、服も、アクセサリーも、バザールには言葉で表しきれない輝きが溢れていた。
あの中を、いつか手にできたらと憧れて通り抜けるのではなく、何を買おうかな、と眺めながら歩く自分の姿を想像した。
「やりましょう」
一言で言おう。最高だ。
はっと口を押さえたときには、もう遅かった。タミアは自分の発した言葉に、救世主を見る目を向けているハートールと、賛美の眼差しを送っている副団長、そして親愛に満ちた――これだからお前扱いやすくて好きだぜという顔の――ログズ、三者三様の視線が集まっていることに気づいて青ざめた。
あ、と固まったタミアの前に、おずおずと差し出される手のひらがある。
「ごめんね、こんなこと、君みたいな若い女の子に頼むのも情けないんだけど」
「ハ、ハートールさ……」
「ボクの無実を、証明してください。ボクからもお礼は考えておくから、どうかパパの代わりに、ジンの灰を持ってきてほしい」
疑いのない、まっすぐな眸で乞われて。タミアはもう、何も言えなかった。ぎこちなく頷いて、厚い手を握り返す。
「ま、任せてください」
泥舟に乗ったつもりで、と心の中で地面に頭をつけて詫びた。
*
「おおい、二人とも。待たせたね」
夕刻、抜けるような青空が橙をたなびかせて藍色に変わる頃、人波の奥から手を振る人があった。
「副団長さん」
坂道を下っていた足を止め、タミアが大きく手を振る。バザールの方角からやってきた彼はギルドにいるときより軽装になっていたが、腰に提げた剣はそのままで、却って武装が目立って浮いていた。
「お疲れ様です。プライベートでも帯剣してるのね」
「もちろん。勤務時間ではないと言っても、目の前で事件が起こったときに動けなかったら悔しいからね」
「真面目だなァ、どいつもこいつも」
考えられないというように、ログズが呆れて肩を竦めた。ちょっと、と諌めるタミアの小言を聞き流して、ワゴンに積んであった砂糖菓子をひとつ、口に入れる。
それは? と副団長がタミアに訊ねた。
「裏通りのお菓子屋さんの、宣伝っていうか……アルバイトしてたの。今晩の宿代とか、そろそろ稼いでおいたほうがいいなと思って」
「ああ、そうだったのか」
「ジンもいつ出てくるか分からないしね。ただ待ってるよりは、情報を探すついでに仕事でもしたほうが有意義かしらって。そちらはどうだった?」
アルバイトの時間は、黄昏までと約束している。そろそろちょうど頃合いか、とワゴンを菓子屋の方向へ向けながら、タミアは副団長にも経過を訊ねた。彼はうん、と頷いて、ワゴンを押すのを買って出る。
「概ね理解していただけたと思うよ。驚いてはいたけれど」
「そうよね。旦那さんが今どんな状況かも分からないなんて、ショックが大きいと思うわ」
「一瞬、蒼白にはなっていたけれど、ハートールが宥めてくれてね。先ほど三人で、ラフターンへの手紙と使いを送ったところだ」
欠伸をしながらもう一台のワゴンを押して、ログズもそうかと、二人の話に相槌を打った。
今朝、ハートールに彼の父親とジンの話を聞いてから、副団長はことの経緯を説明するためハートールの母を呼び出し、ジンについて詳しい事情を聞きに当たった。いわく、火のジンは実に五百万ガルムの値がつけられていたそうで――商人がハートールの父の「魔法使いになりたい」という望みの足元を見た値段ではあるが、元よりかなりの力を持つジンだったと予想できる。
入手経路や封印した魔法使いについては、残念ながら母親は知らなかった。彼女は夫がジンを買ってきて旅に出たいと言い出した時点で口論になり、以降この話題に触れることはなかったという。
無実の証明に希望を見出したハートールは、精神的に立ち直ったのか、母に代わってラフターンへの使いの準備を一通り行ったそうだ。気弱なところはあるが、稀代の商人の息子である。その辺りは見事な手際の良さだったと、副団長は語った。ハートールは仕事を終えて、今は地下牢を出され、自宅監視という扱いに変わったらしい。
一方、タミアたちは夕刻に副団長と食事をしつつ、状況を報告しようという約束をし、それまでの時間をアルバイトに使った。
こんなときに仕事なんて、と思わないわけではなかったが、ジンはいつやってくるか分からない。姿を消せる以上、こちらから探しても無駄足を踏む。ジンがまだログズやタミアを標的にしているならば、いずれ向こうから仕掛けてくるだろう。そのときを待ったほうが賢明だ。
ちょうどログズが酒場で稼いできた二万ガルムも、底をつくところだった。お金を稼ぎましょうと言ったタミアに、二つ返事で酒場に乗り込んでいこうとした首根っこを掴み、普通の仕事をするのよと力ずくで引っ張っていって今に至る。
確かに、彼のカードの腕は便利だ。でも、いつもいつもそれに頼るのは、良心に反する。きちんと働いて堂々と報酬を得たいというタミアの訴えに、渋々ながらログズが折れ、二人で菓子のワゴンを押して歩く一日になった。
売れ行きは、まあこんなものだろう。
タミアが焼き菓子、ログズが砂糖菓子を運んでいた。焼き菓子の七割程度、砂糖菓子の半分程度が売れている。予想通りだ。どう足掻いてもまっとうな菓子売りには見えないログズの売り上げは、若干落ちるだろうと踏んで、タミアは傷みの早い焼き菓子のほうを自分が売った。砂糖菓子は長持ちする。最悪、売れなくても叱られはしまい。
「ああ、あの店よ」
通りの奥に見えてきた菓子屋を指して、タミアは目を凝らした。ちょうど、ドアから店主が出てきて、看板を店の中に片づけようとしているところだった。
「店じまいか? おーい、オッサン」
ログズが後ろ姿に声をかける。聞こえるか聞こえないかの距離だったが、誰かの声がしたことは聞こえたのだろう。店主が植木をしまおうと、屈めていた身を起こした。
そのときだった。
「――――ッ!?」
ドン、と轟音が鼓膜を打った。始め、タミアにはそれが音だとは認識できなかった。
耳の中を直接平手打ちされたような、びりびりとした衝撃が走る。店主はよろけて、音のしたほうを見上げた。見ればログズも副団長も、唖然として耳をおさえている。
「なんだ今の?」
「爆発か? あ、煙が……!」
屋根の間から立ち昇った黒煙を見つけて、副団長が坂の上を指さした。そうして「待て」とぼやき、信じがたいものを見ているように、その目を大きく見張った。
「礼拝堂が、崩れている……!?」
黒煙に混じって、砂煙が上がっている。タミアも信じられない思いでその方角を見つめた。坂の頂上、タフリールの頂に、渦巻いていた煙が晴れていく。
後に見えた景色に、いつのまにか集まっていた人々がどよめいた。
礼拝堂の青い屋根に、巨大な穴が開けられている。
ざり、とよろめきを堪えるように、副団長が足を引いた。その腿で、剣がベルトに触れて微かな音を立てる。
「一体、何があったというんだ」
「見に行かなくていいんですか?」
「行きたい気持ちはあるが、礼拝堂は我々の管轄ではない。私がやるべきことは、礼拝堂に向かう人々の混乱を止めることだ」
我に返ったように、彼は冷静に答えた。その返事に、タミアも動揺でいっぱいだった胸が落ち着きを取り戻すのを感じた。見渡せば、通りには次々に人が溢れてきている。
タミアは副団長の手から、ワゴンを譲り受けた。混乱が大きくなる前に、せめて残りのお菓子を店に返さなければと思った。
「副団長さん、気をつけてね。私たちは大丈夫ですから」
「ああ、すまない。君たちもすぐ安全なところに避難するようにな」
「ログズ、行きましょう。道がいっぱいになる前に、通っておかないと……」
黒煙をじっと見上げていたログズが、ああ、と同意してワゴンに手をかけた。そうして二人と一人、それぞれの方向に離れようとしたとき。
路地の角から、白い鳥の一群のようなものが、坂を駆け下りてくるのが見えた。
「……んん? ありゃ確か……」
「何? あれ」
ログズがターバンの奥から、彼らに目を凝らす。白い群れは、人だった。純白の長衣に身を包み、鳥の翼のように金と白の旗をひるがえし、もう片方の腕に銀の槍を掲げた、揃いの一群だった。
驚いて道を開ける人々を突き破るように、彼らはどうどうと坂を駆け下りてくる。
「聖兵団じゃないか。どうして今こんなところに」
副団長が呆気に取られたように言った。耳慣れない単語に、タミアは彼を振り返る。
「聖兵団?」
「礼拝堂の警護を専門にしてる、特殊集団だよ。礼拝堂に関する事件や事故は私たち民間の管轄ではなくて、彼らが処理することになっている……のだけど」
「じゃあ、今って礼拝堂にいなくちゃならない……わよね?」
「……そのはずなんだけれど、向かって来てないかい? こっちに」
地鳴りのような足音がみるみる近づいてくる。礼拝堂に仕える兵士というにはあまりにも猛々しい様相に、タミアは狼狽えて、ワゴンをどかそうとしていたことも頭から飛んでしまった。どうしてだろうか、ひどく嫌な予感がする。
空で何かが光った気がした。はっと見上げたタミアが見たものは、夕映えを受けて輝く緑の目。
「あ――――……!」
クリソコーラの眸を嵌め込んだ杖を手に、真珠色の髪を靡かせて舞う、褐色の人影だった。礼拝堂の風見に足をつき、嘲笑うように爪先で回って、煙の中に消えていく。
ギンと、金属の弾かれる鋭い音がした。我に返って視線を下ろしたときには、タミアに向けられた聖兵団の穂先を、副団長の剣が弾いたところだった。
「オイオイ、礼拝堂のヤツらがわざわざ何の用だ?」
口調だけは平時のままに、引き攣った声でログズが問いかける。はっとして目を向けると、彼はタミアの倍以上の兵士に囲まれて、槍を突きつけられていた。ログズ。思わず声を上げて、飛び出しかけたタミアの腕を副団長がおさえる。
同時に、自分に向けられる槍の数が一斉に増えたのを見て、タミアは全身から血の気が引くのを感じた。
「魔法使いログズ。礼拝堂爆破の罪で、神の審判を受けてもらう」
「なんだって?」
「違うんです! あの、それはこの人の姿をしてるけどこの人じゃなくて……きゃっ!」
「同行者タミア・ガザール。話は後で聞こう。貴様にも来てもらう」
事情を説明しようと一歩、前に出た途端、鼻先に槍を据えられてタミアは息を呑んだ。そんな、と愕然としてかぶりを振る。後で聞くなんて、それはつまり一度は捕まえるということだ。
礼拝堂に手を出したのは、断じてログズではない。だって、確かに〈見た〉――そう言いたくて空を見上げるも、そこにはもう、ログズに化けたジンの姿はなかった。
「待ってくれ、聖兵団長」
民衆が固唾を呑んで見つめる中、沈黙を破ったのは副団長だった。剣を下ろし、ログズと相対している一人の兵士に向かって、彼は語りかける。揃いの服と武器を見て、タミアには一体誰が団長なのかなど、まったく分からなかった。
しかし、語りかけられた男は緩やかに手を持ち上げると、目深に被っていたフードを脱ぎ、顔を晒した。
白皙の、想像よりもずっと若い青年のかんばせが露わになる。透けるような金の髪は、西国の歌に聴く天使のようだった。
青年はちらと副団長を一瞥し、口を開く。
「……そのバッジ、月の盾の者か」
「ああ、そうだ。聞いてくれ、彼らは――」
「捕えろ」
え、と。たった一言、訊き返す暇さえなかった。
どこからともなく突きこまれた槍が、副団長の手から剣を弾いた。大ぶりの剣が坂道を回転しながら滑り落ち、民衆がわっと道を開ける。白い衣がひるがえり、数人の手が副団長を抑え込むように伸びた。
瞬間、ログズがワゴンを突き飛ばし、色とりどりの砂糖菓子が宙に舞った。
「逃げろ!」
ワゴンにぶつかって、数人の兵士が崩れる。取り落とされた槍を拾い上げ、ログズの背中に向けられた穂先を弾いて叫んだのは、副団長だった。彼は槍を横なぎに振り払った。柄の折れる音と、布地の切り裂かれる音が続けざまに響く。人々の悲鳴が、通りに湧き起こった。
「逃げろ、ログズ!」
「きゃ……!」
突き飛ばされて、タミアは倒れ込むようにログズにしがみついた。次の瞬間、タミアが立っていた石畳に、無数の穂先が傷をつくった。思考が停止しそうになる。どうにかしなくてはと思う意思に反して、足の力が抜ける。
ログズは一瞬、躊躇をみせた。それからすぐにタミアの押していたワゴンを蹴飛ばし、副団長に向かっていた兵士の一群を散らすと、空に向かって腕を掲げた。
「恩に着る」
ログズの言葉が何を意味するのか、タミアはすぐに理解することができなかった。副団長の持っていた槍が弾き飛ばされ、頭上を越えて、坂をカラカラと落ちていく音が響く。すべてがゆっくりと目の中を流れて、それなのに一言も発することができなかった。
聖兵団長が副団長を捕らえ、無数の手が彼を拘束する。
白い鳥の群れに呑まれる一匹の獣のように膝をつきながら、彼は顔を上げ、タミアに気づいて微笑んだ。
「灰を頼む」
その言葉に、何かを答えるよりも早く。強い風が渦巻き、向かって来ていた兵士たちとタミアたちの間を切り離した。砂塵が舞い上がり、目の前の風景が霞む。手を伸ばしかけたタミアを、ログズが引き寄せた。
「掴まってろ」
「え?」
「落ちるな、離すな、舌噛むな。いいな?」
「えっ、なに、まさか……っ」
そんな馬鹿な、と。言いかけた口は、足が地面を離れたことにとって咄嗟に噤んだ。風が体を持ち上げる。人、街灯、屋根。周囲の景色がどんどん高くなっていく。
刹那、ふ、と無重力空間に浮かんだような感覚があった。
次の瞬間には、視界がぐるりと傾き、弾丸のような速度で体が坂道を駆け抜け始めた。
「――――……!」
あまりの出来事に、タミアは声も上げられなかった。球形の風が体を包んで、二人を飛ばしている。上下も左右も目まぐるしく入れ替わって、高度も安定しない。空が見えたかと思えばすぐ傍を木が掠め、地面のすれすれまで落ちては、通行人を躱して急上昇し、どこかの屋根を欠いた。
眼下を、灯りの燈り始めたバザールが通過していく。
絢爛たる月の都。
その名を思いのままに描いたような眩しさに、一瞬、すべての状況を忘れて目を奪われた。引っくり返された宝石箱のようだ。鮮やかな煌めきの粒に囲まれて、名前も知らない人々が大勢、自分たちを見上げて口を開けている。
なぜだか無性に泣いてしまいそうになって、タミアはその光景から目を逸らした。顔を埋めた肩は骨張って固く、背中を支える腕がかすかに抱き返したような気がした。
どさりと、背中が赤茶色の海に打ちつけられる。舞い上がった砂が口に入って、タミアは激しく咳き込んだ。
ごろごろと砂の丘陵を、タミアより幾分か長く転げ落ちて、少し離れたところにログズも着地した。打ち所が悪かったのか、横たわったまま噎せている。やがてずるずると上半身を起こし、タミアを見つけて「おう」とだけ言った。
「おう、じゃないわよ」
「じゃあ何だよ」
「死ぬかと思った」
ワンピースの裾をはたいて歩きだし、ブーツの中にも砂が入り込んでいることに気づいて、片足ずつ脱いで逆さにする。ざあっと、予想以上の砂がこぼれ落ちた。ログズも立ち上がって、靴を引っくり返す。
「死なない努力はしただろ」
「空中で瓦解しておきながら、よく言うわね……! 飛ばしたんだったら着地まで頑張ってよ!」
「しょーがねえだろ、杖がねェんだから。今ので全力だ」
何度、死ぬと思ったか――否、死にかけたか分からない。風が防壁になってくれたおかげで怪我もしなかったが、木だの道だの、眼前にあらゆるものが迫ってきた覚えがある。少し酔った。
ノーコンの自覚はあるくせに、無茶苦茶にも程がある。はあ、と髪の毛に入り込んだ砂を振り払って、タミアは砂の丘をよじ登り、青々とした水の向こうに聳える石の壁を見上げた。
「結構、遠くまで来たな」
「ここまで来れば、追ってこないかしら」
「いや、朝が来れば捜索隊が出るだろ。でも、今晩は諦めるンじゃねえかな」
隣に立ったログズの意見に、タミアもそうねと同意を返した。
石の壁の向こうは、点々と明かりが灯されている。頂上に聳える礼拝堂だけが、つい昨晩までは月のように眩しかったのに、今は光をなくしてぽっかりと空いた暗がりに変わっていた。
タフリールだ。あの明かりの中に、つい先刻までいたのだと思うと不思議な気持ちになる。バザールを越えたタミアたちはそのまま風に乗って、壁を越え、砂漠を滑空し、追手を撒けそうな距離まで飛んできた。
その時間を、稼いでくれた人を置いて。
きり、と痛んだ胸の前で手を合わせ、タミアは町の中腹を見つめた。向けられた穂先の威圧感を思い出すと、今も足が震えそうになる。
副団長は、自分たちを逃がすために、囮となってあの恐ろしい人たちに捕まったのだ。淡い金の髪から覗く凍てつくような眸は、死の天使アズラーイールを彷彿とさせた。
どうしたら良かったのだろう。後悔しても何もできなかったことに変わりはないが、のどかに育ってきた身には、衝撃が大きすぎてすぐには切り替えができなかった。
魂が抜けたようにぼんやりと佇むタミアの横を、ログズがすたすたと通り抜けていく。
「どこ行くの?」
「もう少し、正面から離れる。ここじゃ万が一捜しに来られたら、見つかりそうだからな」
「これから、どうするの?」
「ひとまず夜になンのを待つ。で、夜に乗じてどっかから、もう一度タフリールに入り込む」
「……ログズ、あのね、私見たわ。あなたの恰好をしたジンが、礼拝堂の上で笑ってるの」
歩き続ける後ろ姿が、ぴくりと、かすかに反応した。
ええとね、と。言葉を探すタミアの脳裏に、バザールで見下ろした人々の眼差しが浮かんでくる。
「だから、例え……あなたが今夜、一晩でタフリール中の人から極悪人にされても、私は疑わないわ。って、別に見てなくても疑いはしないんだけど。なんていうか、その……」
人間とは、こんなにたくさんいるのか、と思った。あのとき見えた人々が百人だったのか千人だったのか、あまりにも多すぎて見当もつかない。それらすべての人々が自分を、そしてログズを知らず、自分たちを信じる理由をひとつも持っていないのだということが、寂しさの濁流となって堰を切った。
何か言葉をかけたいだけなのに、上手なことが何一つ言えない。
だんだんと弱々しくなっていく語尾に唇を噛んだとき、前を歩いていた足が止まって、ふいに振り返った。
「ログ……」
顔を上げたタミアの視界に、ふ、と影が落ちる。
真珠色が空を覆う雲のように広がり、心臓が、息を呑む音が聞こえ。
「いたっ!」
ゴン、とひどく重い音と共に、額に痛みが広がった。
思わず仰け反って押さえてから、我に返って何事かと睨みつける。ログズは腹を抱えて笑っていた。ターバン越しに額を擦りながら、呆然としているタミアを見て、声を上げて笑う。
「真面目くさって何言うかと思ったら、なんつー顔してんだよ」
「な……、真面目で何が悪いのよ! 私は真剣にねえ、心配して……!」
「バァカ、心配すんのはもっと後でいいンだよ。この世の終わりみてえな顔して。これからだろうが」
これから。
あっけらかんと放たれた言葉に、タミアは瞬きをした。信じてくれる友人を捕らえられ、タフリールを追われ、今の自分たちは八方ふさがりではないか。これからなんて、どの方向に飛び込んでも真っ暗闇に思える。
ログズは呆れたように、両手を広げた。
「アイツも言っただろ、灰を頼む、って」
「灰……?」
「手土産を見せびらかせる相手が増えるなァ? 喜ぶのがハートールだけじゃ、やりがいが足りねえと思ってたんだ」
ニイ、と残照に髪を染め上げて、ログズは口角を吊り上げた。ハートール。唐突に出された名前に、最後に会った彼の姿や言葉がよみがえる。
タミアはハッとして、ログズを見上げた。真意が通じたことを察したように、彼は上機嫌にタフリールを振り返って、伸びをした。
「ケシズミにしてやる」
獲物を見据える獣のように舌なめずりをして、どこまでも愉楽的に呟く。けれどそのとき、タミアは感じた。無数のジンの気配が、ログズの心の声に呼応してざわめくのを。
感情を、心の声に変えて。
心の声を力に変える。
――魔法使いが、怒っている。
「……そうね。勝てばいいんだわ」
意を決して頷いたタミアに、彼はいつもの調子で笑った。ないはずの光が切り拓かれていくような、そんな心地がした。
*