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2章

 町の頂から、信徒たちの厳かな祈りの声が聞こえてくる。幾重にも折り重なる声は歌のように、坂道をゆるやかに覆って下っていく。

 礼拝を呼びかける笛の音で目を覚ましたタミアは、ベッドに起き上がり、窓を開けて朝の風を胸に吸い込んだ。祈りの言葉を口の中で呟き、略式の礼拝をする。

 故郷にも小さな礼拝堂があり、敬虔な信徒、寡婦、妊婦などは朝晩の祈りの時間になると欠かさず通っていた。一般的には略式で良いとされている。タミアも礼拝堂へはたまに足を運ぶ程度だが、時間になると簡単なお祈りをする習慣はある。神様は信じていたい。善い行いも悪い行いも、誰かが見ていると思うと背筋がしゃんとする。

 タミアはベッドを軽く整えると、慣れない宿屋の洗面所のドアをそろりと開けた。よそよそしいタイルの洗面台に、古い絹のカーテンをさげた鏡が立っている。顔を洗って服を着替え、もう一度ベッドに戻って髪を編み始めた。物心ついた頃から、長い髪を後ろで一本の三つ編みにするのが毎朝の身支度だ。

 リボンを結んで、よし完了、と思ったとき。

 その髪が後ろから、ぐいっと引っ張られた。

「わっ」

「んー……?」

「起きてたの? おはよう、ログズ。いきなり何よ?」

 二つ並んだベッドの片方から腕を伸ばし、三つ編みを掴んだまま、彼は眩しそうに眉間に皺を寄せた。目を細めているようだが、ターバンを外すと伸びきった前髪が顔を覆って、余計に表情が見えなくなる。

 タミアは中途半端に振り返った恰好のまま、まだ寝ぼけているのか何も言わないログズに「礼拝終わっちゃったわよ」と言った。その辺りでようやく、頭が起きてきたらしい。ログズは手を離すと、欠伸をして起き上がった。

「ニンジンが宙にぶら下がってると思った」

「はいはい、土臭くて悪かったわねー」

「お前、朝から元気だなァ……」

「あなたは、見るからにダメそうね……冷たい水で顔でも洗ってきたら」

 ついでに早いところ着替えて、肌蹴きった寝間着をどうにかしてほしい。まったく、眠る前は確かにボタンを留めていたと思ったのに、どう寝たらこんなに肩も腰もズルズルになるのだろう。

「ほらほら、起きて」

 気を抜いたらもう一度横になってしまいそうなログズを、よいしょ、とベッドから引き剥がす。あー、と彼は唸って、観念したように布団から足を抜いた。

「分かった分かった。起きるから引っ張んな。お前、ほんっとアレだな」

「なに?」

「……何でもねー。朝からよくそんなに声が出るって思っただけだ」

「それ、うるさいって言いたいの?」

 半ば確信を持った問いかけに、返事はない。だるそうに背中を丸めたままケラケラと笑って、ログズは洗面所へ消えていった。

 剥ぎっぱなしのだらしない布団を代わりにたたみながら、やはり同室にして正解だったとタミアは一人頷いた。昨夜、宿を取る段階になって、彼は当たり前のように二部屋を取ろうとしたが、たったの二人なのだから一部屋あれば十分だとタミアが言い張った。

 宿代は少しでも節約するに限る。これからしばらくの間に、二人分の橋の通行料を貯めることを考えれば――その気になれば、ログズならまたどこかの酒場で稼いでくるかもしれないが――お金は一ガルムでも多く取っておくに越したことはない。

 叩き起こされるのが億劫だから、部屋を分けたがったのだろうか。

 きっとそうに違いないな、とタミアは納得のため息をついた。まったく、しょうがないにも程がある。

 チチッ、と窓枠に舞い降りた鳥が首を捻って鳴いた。笑いかけると、気配に気づいたのか飛んでいってしまう。朝日にふわふわと、羽毛が一枚落ちていった。


 宿屋街に建つ食堂は、朝から宿泊客で賑わいを見せていた。厨房のかまどが引っ切り無しに燃え盛り、玉蜀黍の粉を練って焼いた生地に、玉葱やトマト、鶏肉を甘辛く炒めた具材が次々巻かれていく。

 朝食の時間帯に出すメニューは、すべてそれと決まっているようだ。付け合せに選べる、サラダやスープが数種類ある。

「それじゃ、さっそく作戦会議といくか」

 シロップ漬けのオレンジを浮かべた水を一口、煽って、ログズは改まった調子で口を開いた。対するタミアは、渋々といった面持ちで頷く。

 今から行われるのは、ログズの奪われた杖についての会議だ。本来ならばまったくもってタミアには関係のない問題だが、決まったことは仕方ない。手伝うしかないだろう。

「昨夜、あなたを外に連れ出して殴った人が、杖も持っていったのよね?」

「そうだ」

「男の人? どんな感じの、いくつくらいの人だったのかしら」

 一晩経って、ログズの頬は何とも形容しがたい赤紫色に変わった。腫れはいくらか引いたが、これはこれで悪目立ちする。

「それが、なんっか妙な感じだったんだよなァ」

「なに、妙って」

「いや、男ではあるんだけどよ。いい歳っぽい見た目のわりに、喋った声が子供みてえなんだ。で、ほとんど口を利かなかった」

「ええ? なんか、変な感じね」

「だろ? 見た感じは、三十くらいか……少なくとも、俺よりは年上っぽかったんだけどな。あとそうそう、デブだったんだよ。そのくせ、やけに素早くてなー。腕の肉と顎の肉、ブルンブルンいわせながら殴りかかってきやがって」

 ますます想像のつかない光景だ。ちぐはぐな情報ばかりが付加されていく状況に、タミアは思わずううんと唸った。口の端についたトマトソースを拭って、あの野郎、とログズは屈辱を思い出したように吐き捨てる。

「取られた杖っていうのは、どんなの?」

 玉蜀黍の香りのパンをかじって、タミアは話題の方向を逸らした。

「上から下までの長さが、俺の肩までくらいあって」

「あら、結構目立つものなのね」

「全体が黒曜石と琥珀でできてる。こう、芯が黒くて、周りを琥珀が、巻きついたヘビみたいに覆ってる感じだ。てっぺんはクリソコーラを嵌め込んだ、俺の顔くらいあるデカい目になってて、片側に琥珀の翼がついてる」

「……訂正。相当、目立つ代物だわ。なんでわざわざ盗んだりしたのか、不思議なくらい」

「うらやましかったんだろ」

「ていうか、あなた魔法使いなんでしょ? 杖がちょっと持っていかれそうになったくらいのこと、魔法でどうにかできなかったの?」

 媒介といったって、必ずしもなくては魔法が使えないというわけではあるまい。現にタミアなど、これまで媒介を用いて魔法を使ったことはない。

 無花果のサラダをつまみながら問い詰めると、ログズはぐっと押し黙った。忌々しげに真珠色の髪をかき上げ、ぼそりと漏らす。

「……らなかったンだよ」

「え? 何?」

「だーかーら、当たんなかったンだっつうの。媒介を使うのは、力を上げるためだけじゃなくて、魔法が当たりやすくするためとか、色々あんだよ。杖が持ってかれそうになって、慌てて魔法は撃ったが、当たらなかった。以上だ」

「……つまり、杖がなかったから上手く的が絞れなくて外したの? あなたノーコンなの?」

「うるせー」

「あっ、ちょっと! 私のサラダ!」

 ザクザクとフォークが突き立てられて、無花果が三、四切れ、持っていかれた。手を伸ばしたときにはすでに遅く、ログズは空のフォークを掲げて赤紫の頬をもぐもぐさせている。

 仕返しに何か取ろうと思ったが、人の皿から食べ物を取ってはいけませんという母親の声が聞こえた気がして、振り上げたフォークを下ろした。

 行儀のよさを、いつまで保てるだろう。この男と一緒にいて。まだ二十四時間も経っていないのに、すでに結構影響されているのが恐ろしい。早いところ問題を解決してアルヤルの元へ行かねばと、タミアは固く決意した。

「特別製なんだよ、あの杖は」

「えっ、派手さが……?」

「違ェよ。補正力の話だ」

 ログズの傾けたグラスの中で、三日月形のオレンジが揺れる。

「黒曜も琥珀もクリソコーラも、どれも磨いたり削ったりする作業の一回一回に、鍛冶師が補正の術をかけながら作ってる。魔法使いでありながらそういう仕事をしてる職人に、頼んで作ってもらった特注なんだ。同じモノはこの世に一本たりともないし、代用品もすぐには用意できない」

「……それは、貴重なものね」

 そんな特注品を使わなければならないほどの、ノーコンだなんて――とは、さすがに口に出さないでおいた。顔に出るのをごまかすため、うつむいたタミアを同情していると思ったのか、ログズは「そうなンだよ」と深く頷く。

「価値が分かってて盗んだのか、単に高そうだから持ってったのかは知らねェが、たぶん売ろうとすれば商人の多いタフリールで売るだろう。町を出るとき、魔法使いでもなさそうなヤツが背負って出るには目立ちすぎるしな」

「じゃあ、杖はたぶんこの町の中にある?」

「そういうことだ」

 パンを押し込んで、最後の一口を冷めたスープで飲み干す。どうやら猫舌のようだ。どうでもいい弱点を見つけてしまったなあ、と眺めながら、タミアも残ったサラダを完食した。

「売り飛ばされたら、買い戻すにはかなりの値が張るからな。ヤツが高く買い取りそうな商人を探してウロついてるうちに、なんとかして見つける。んで、取り返す」

「分かった……けど、考えなしに出ていくのはやめてよ、強い人だったんでしょう? 私、喧嘩の助けには入れないからね」

「お前、人を負ける前提で……言っとくが、俺は杖さえあればマジ強いからな。昨夜は、当たらなかったから負けたんだ。いいか、隙さえ見て杖を取り返せば、こっちのモンだ」

「はいはい」

 分かったわよ、と適当に聞き流す。危ないことにはできるだけ関わりたくないのが本音だが、協力すると決まった以上、隙を作る手伝いくらいはすることになるだろうか。

 甘い紅茶を啜って朝食をしめたタミアに、ログズはオレンジをかじって「真面目に聞けよ」と不満を漏らした。

「やけに強い相手だったんだっつの。とりあえず、今日はまず自警団のギルドに行くぞ」

「自警団のギルド? この町の?」

「もしかしたら、昨夜のヤツは有名なお尋ね者かもしんねーだろ? もしそうなら、杖の回収に協力してくれる可能性がある。手伝ってもらえなかったとしても、ギルドが追ってるヤツだとしたら、捕らえて突きだせば報奨金も出るしな」

「えっ!」

「杖も金も手に入る。一石二鳥だろ?」

 どうよ、と言いたげにログズは胸を張った。報奨金。その言葉に、タミアの心の重い腰が、すっくと上がる音が聞こえた。

 グラスをテーブルに置いて、ターバンの奥を覗き込むように、目の前の男と視線を合わせる。

「報奨金が出たら、まず私に二万ガルム返してくれる?」

「勿論だ」

「それと……、月の都の服がほしい。最高とは言わないけど、とびきり素敵なやつ」

 ログズはニイと、唇を吊り上げた。タミアが俄然やる気を出したことを、察したのだ。骨ばった手のひらが、二人の間に差し出される。

「いいぜ。俺が完璧にコーディネートしてやるよ」

「あ、それは大丈夫。自分で選びます」

 間髪入れずに断りながら、タミアはその手を取った。

 渋々だったことに、希望が湧き始めた。悪くない。二万ガルムが返ってきたら、まず脳裏に焼きついた昨夜のワンピースを買う。そして普段着にして、それよりずっとずっと煌びやかな、夢のようなドレスを一着買ってもらおうではないか。


 自警団ギルド〈月の盾〉には、タフリールで生まれ育ってこの町を護ろうと入団した人から、剣や弓の腕に覚えのある流離の人まで、様々な者が所属している。入団希望は老若男女を問わず受け付けているが、盗人を捕まえたり、砂漠で襲われた隊商を救助したりするためだろう。居住区とバザールの間に発つ施設のドアをくぐると、中はやはり、精悍な若者が目立った。

「いらっしゃい。何かあったのかい?」

 カウンターから出て二人を迎え入れた男も、自警団の一員なのだろう。腰に剣を提げている。いかにもといった武器など初めて目にしたタミアは、ぎょっとして見ている間に挨拶をしそびれた。

「杖が取られたんだ」

「なるほど、状況から順を追って聞こう。その頬と、関係があるのかな」

 柔らかい茶髪の、背格好は大きいが穏健そうな男である。彼がとんとんと自分の左頬を指で示したとき、タミアはその胸に、銀のバッジが輝いていることに気づいた。自警団月の盾・副団長、と記されている。

 ログズはああ、と頷いて昨夜の一連の出来事を話しだした。初っ端から酒場での賭博の話が始まったことに、副団長は一瞬渋い顔をしたが――相手の男の特徴を聞くなり、彼はおやと目を丸くした。

「その男なら、つい先刻うちの団員が捕まえたところだよ」

「は?」

「今朝一番で、似たような被害の報告が入ってね。旅の魔法使いが勝負を吹っかけられて、貴重な本を奪われたらしいんだ」

「ひどい……」

 書物は高価なものだ。小さな村で育ったタミアにとって、村人全員で回し読みする本は、村の財産といっていい品だった。思わず呟いた声に、副団長が微笑む。

「心配ない。幸い、本は町の隅にまとめて捨てられているのが見つかったんだ。ただ、犯人は、自宅の目星をつけて行ってみたら、堂々と食事なんかしていてさ」

「事件を起こしておきながら?」

「そう、あっさり捕まった。しかも捕まってからずっと、自分じゃないと言い張ってる」

 タミアは思わずログズを見上げた。彼はうんざりしたような顔で「腹が減れば自白すンじゃねえのか」とぼやく。

 副団長はログズの発言に苦笑して、階段を二階ぶん下った。とにかく、と彼はローブの下から鍵束を取り出す。ギルドの地下にある、鉄製の扉が開かれた。

「君も、会ってみてもらえないか? もう一人の被害者いわく、確かにこの男だったと言うんだが、我々も証拠がなくて困っているところなんだ。会って、顔を確かめてくれ」

 薄暗い地下室に、光が射す。壁掛けランプが左右に吊るされたそこは、簡素な牢屋が五つ並んだ尋問所だった。真ん中のひとつに、人影がある。

 影はタミアたちの足音にびくりと跳ねあがって、おそるおそる振り返った。

「ああ! てめえだー!」

「ひいいッ!? ごめんなさいごめんなさい!」

「謝るならさっさと吐けこの野郎! 俺の杖はどこやった!? ああ?」

「ご、ごめんなさい分かりません! 杖? 杖って何のことですか……!」

 恰幅のいい、三十くらいの男である。昨夜の相手なのかどうか――ログズの様子を見れば、訊くまでもなく明白だった。牢に掴みかかって頭突きをかました彼を、副団長が慌てておさえる。

 どっちが囚人なんだか分かりやしない。タミアはため息をついて、牢の中で怯える男と、羽交い絞めにされて暴れているログズを交互に眺めた。

「あの、すみません」

「な、なんですか? アナタもボクに何か取られたとでも!?」

「違うわ。突然怒鳴ったりしてごめんなさい。あの、昨夜すごく酔っぱらっていたりはしませんでした?」

 牢の前にしゃがんで、タミアは男と目線を合わせて訊ねた。ええと、と彼は狼狽しながらも、タミアの真意を探るように顔を上げる。脇で何事か言い合っていたログズと副団長が、様子を窺うようにぴたりと口を噤んだ。

「この人、酒場で賭けを持ちかけてきた人に殴られて、杖を持っていかれたの。すごく大切なものみたいで……記憶がなくても、もし何か心当たりがあったら正直に教えてほしくて」

「そんな……ボクは本当に何も」

「……何も、覚えてない?」

「違うよ。覚えてないも何も、やってないんだって。酒場になんか行ってないよ、ああいうガラの悪いところ、に、苦手なんだ……! そのうえ人を、な、殴るとか? とんでもないよ……!」

 男はぶるぶると首を横に振った。想像しただけで無理、と言いたげに顔から血の気が引いている。

 そうして狼狽えている姿は、とても悪人には見えない。むしろどちらかといえば、恐喝をされる側にしか。

「おい、お前……」

「ヒッ」

「猫被って騙そうとしてンじゃねえだろうなァ……? 俺はお前の顔に、嫌ってほど見覚えがあるぞ」

 ログズは先ほどより落ち着きを取り戻したものの、自分の記憶にも間違いはないと確信しているらしい。囚われた男をあらゆる角度から観察するように、首を低くして、牢の前をぐるぐると歩き回っている。

 まるで獲物の様子を窺うトラだ。グルル、と唸り声が聞こえそうな空気に、副団長が助けの舟を出した。

「取られた杖は、黒曜石と琥珀でできているそうだ」

「黒曜石と、琥珀?」

「上部にクリソコーラで作られた目と、琥珀製の翼がついている。何か思い出すことはないか?」

「いや、何も……ていうか」

 牢の中の男が、困ったように視線をさまよわせた。そしてログズをふと、頭の先から足の先まで眺めて――何か、なんとも言えない納得のいったような表情を浮かべながら、そろそろと首を横に振った。

「そんな派手なもの、ボク取らないよ……」

 ああ、ごもっともである。

 最も恐れていた正論が来たな、とタミアは居た堪れなくなって目を逸らした。副団長と視線が合う。彼もまた、返す言葉のないという顔を必死にごまかしていた。

「ボクは魔法使いでもないし、確かに貴重そうなのは分かったけど、わざわざそんな目立つものを奪ったりする意味が分からない。パパから継いだ隊商宿があるんだ。お金にも困ってないし、ママが心配するから夜遊びはしないよ……ましてや、賭博なんて」

 考えただけで恐ろしい、とでも言いたげに、彼は両腕で自分を抱いて身震いした。後半は何となく聞き流したが、前半は至って同意見である。確かに、と心の中で頷いたつもりが、声に出ていた。

 裏切り者を見るように、ログズが振り返る。タミアはしまったと思ったが、口に出てしまったものは仕方ないと腹を括った。

「あのね、ログズ」

「何だよ」

「私……、正直に言って、この人は犯人じゃないと思う」

 言いたいことは薄々察していたのだろう。ログズは明らかに苛立った表情を浮かべたが、驚きは見せなかった。牢の男が、静かに息を呑む。

「じゃあ、他の誰だっていうんだよ。言っとくが、俺が見た顔は確かにコイツだぜ? 顔だけじゃない。背格好もコイツだ」

「でも、声は?」

「……声……?」

「あなた、昨夜自分を襲った人は子供みたいな声だったって、言ってなかった?」

 はっと、ターバンの奥でログズもまた息を呑んだ気配がした。副団長は輪を外れて、静かに全員を観察している。

 タミアはたたみかけるように、自分の感じたことを素直に打ち明けた。

「態度をごまかして、弱々しく振る舞うのは簡単だと思うわ。でも、声をごまかすのって、難しいと思うの」

「……」

「それにこの人、あっけなく捕まったって言ってたわよね。ログズ、あなたの会った人は強かったみたいだけど……本当に同じ人?」

 ログズは腕を組み、じっと押し黙った。牢の中の男をしばらく眺める。男は縮み上がっていたが、こちらもまた、自分ではないという意識がはっきりしているのだろう。タミアという味方が現れたことで気を持ち直したのか、彼は顔を上げて、自ら潔白を見つけ出してもらおうとするようにログズを見つめた。

 はあ、と深いため息が地下室に響く。

「間違いない、コイツだよ。……外見はな」

「ログズ……!」

「俺はまだコイツが怪しいと思ってる。でもお前の言うことも一理あるとかないとか言えないこともなくもない!」

「どっちよ」

「別の線を考えるって言ってンだよ。コイツを白とは言えねえが、黒とも決めつけるにはおかしい気がしてきた」

 タミアはおおっと、心の中で驚きの声を上げた。意外だ。ログズが冷静に折れるとは思わなかった。先刻までの苛立ち様から見て、口論になる覚悟もしていたのだが。

 彼の妥協に免じて、決まりの悪そうな顔からは目を背けてやることにする。さりげなく視線を向けた先で、こちらを見上げている牢の男と目が合った。

「あの……ありがとう」

「思ったことを言っただけよ。それに、まだあなたのこと、無罪だって言い切れるわけじゃないわ。あなたじゃないなら、どこかに証拠があるはず。見つかるといいわね」

 犯人ではないと感じたが、それを断言できる証拠も今のところない。あまり同情を傾けすぎないようにしなくてはと気をつけつつ、タミアは副団長に見えないように、そっと微笑んだ。

 男はタミアの心情を察したようだ。笑みを返す代わりに、頭を下げた。ログズはそのやりとりに、横目で見てみぬふりを決め込んだ。


「まあ、他人のそら似という可能性も、ゼロではない。もしあれと似た人物を見かけたら、我々に連絡をお願いするよ」

 地下室に再び鍵をかけて、タミアをエスコートしながら階段を上って。副団長は施設のドアまで見送りに出ながら、そう口にした。

「捕まえて突き出してやる」

「行き先を突きとめて報告させてもらうわ」

 ほとんど同時に食い違った返事をして、タミアとログズは顔を見合わせた。何か言いたかったが思いつかなかったのだろう。ログズがタミアの顔を掴んだ。頬が両側から押し込まれて、フグのような顔をさらしてしまう。

 ぐっと、副団長が歯を食いしばったのが分かった。

「いってェ!」

「ごめんなさい、失礼しました。この人のことは気にしないで」

 ズボンの裾から覗いた脛を、爪先で蹴り飛ばす。ついに手が出てしまった、いや足か。タミアは心の中で神様に詫びて、女を笑ってはなるまいと真顔で堪えている副団長に、にこりと笑顔を見せた。

 彼はそれに微笑み返して、なんとか持ち直したようだ。咳払いをひとつして、姿勢を正す。

「捕まえられるなら捕まえてくれても構わないが、くれぐれも危険は冒さないでくれよ。尾行も、悟られると危ないからな。些細な情報でも、無事で伝えてくれればそれが一番だ。無茶をしないように」

「ええ、分かったわ」

「こちらでもバザールと門に人員を回して、杖がタフリールの外へ行かないよう、気をつけておこう。もし見つけたら回収しておく」

 それじゃあ、と副団長は挨拶をした。タミアも礼を言って、彼に頭を下げる。ログズは脛をおさえてうずくまっていた。

「ひとまずはこれで、杖の流出は防げるかしらね」

「お前、俺に言うことは」

「大丈夫? 折れたの?」

「馬鹿にしてるだろ?」

 差し出した手を、払いのけられる。なんだ立てるんじゃない、と見上げて、改めて思った。頭一つ分は優に差があるはずなのだが、はたして体重のほうは、それに比例しているかどうか。

「あなた、三食きちんと食べてる?」

「大体な」

「何よ、大体って。ちょっと心配になるわ……できることはやったんだし、一旦、お昼でも食べない? あんまり豪勢にはできないけど」

 自分もどちらかといえば痩せ型だが、ログズは本当に肉がない。今さらながら、昨夜もしも見放したら、本当に凍え死んでいたのではないかという気さえしてくる。さすがに、死んだら後悔していた。救うべき人を救ったのかもしれない。

「お、じゃあ屋台でも行こうぜ」

「そうね、ついでにバザールと門のほうを回って、真犯人も探してみましょ」

「おう」

 連れだって歩く背中に、礼拝堂から正午を告げる合奏の音色が聞こえてくる。

 どうりで、お腹が空いたわけだ。タミアは鼻歌まじりに、バザールへ下る人波と足を並べた。


 今夜は雨になるらしい。

 バザールにそんな話題がぽつりぽつりと流れ始めたのは、タミアたちが昼食を終えて、町の玄関口とバザールの中心をざっと見回った頃だった。月の都に雨の予報が出されるのは、実に三ヶ月ぶりだという。初めは皆、半信半疑だったが、次第に西の空が雲を連れてきた。

 夕暮れの気配と共に近づいてくる雨脚を察知して、旅人達が早々にバザールを引き揚げ、宿を探し始める。

 タミアたちも、予定を早めに切り上げて礼拝堂の裏手に建つ宿を取った。昨夜のところよりも、幾分か安い。木造の、雨が降ったらしっとりと全体が重くなりそうな建物だが、部屋は思ったより広さがあり、泊まるには充分だった。

 湿気を含んだぬるい風が、開け放した窓から、タミアの額を撫でて上り込む。ぼすん、と年季の入った枕の沈む音が響いた。

「あー……」

 唸るような、ため息のような、何とも言えない声が上がる。ギルドを出てからというもの、ログズはずっとこの調子だった。腑に落ちないのだろう。彼はずっと、あの牢の中にいた男のことを考えている。自分の記憶と照合しては、寸分たがわず重なる部分と辻褄の合わない部分を思い返して、答えが出なくて煮詰まっている。

「ん? 何してんだ、お前?」

 何か思いついたわけでもなしに話しかけるより、しばらくそっとしておいたほうがいいのかもしれない。

 そう思って少し距離を取っていたタミアが、一人で何かやっているのに気づいたのだろう。ログズが身を起こして、首を伸ばした。窓際のベッドに陣取り、窓から手と顔を出していたタミアは、ちりっと熱さの残る指を擦り合わせて振り返る。

「魔法の練習」

「はあ、真面目だなァ」

「人生かかってるんだもの」

 でも、あまり上手くいっているとは言い難い。再び自分の手に視線を戻して、タミアは指先に意識を集中させた。来て、ここへ来て、と頭の中で火を招く。ふっと、一瞬小枝ほどの炎が伸び上がった。しかし、あっと思ったときにはもう消えてしまう。

 炎が触れた熱さではなく、不完全燃焼のくすぶりのような、足の痺れに似た不快感が指先を焦がした。もう一回。今度こそはと先ほどよりも集中を高める。

 指の先にあるのは、水路だ。オアシスの綺麗な水を町の頂までくみ上げて、礼拝堂から流してくる生活用水の堀である。礼拝堂にほど近いここではまだ水も澄んでいて、そのせいか、どこからともなく迷い込んだ魚がうろうろしていた。

 タミアはその魚を目がけて、火を撃つ。

 昼間、ログズに魔法を特訓するとは具体的に何をすればいいのかと訊ねると、イメージトレーニングという答えが返ってきた。ふざけないで教えてというと、動くものを狙うのが一番早いと言う。目標に当たる速度、強さ、コントロールなど、さまざまなものを同時に学べると。

 実際にバザールでも、野生の鳥は魔法使いに狩らせると言っている商人がいた。彼は訓練がてら狩りに出た魔法使いたちから鳥を買い、肉を売る。羽根は魔法使いたちの中の、手先の器用なのが持っていく。火の魔法や水の魔法を羽根に閉じ込めて、特定の合言葉でよみがえるように封をしておくと、便利で軽くて、砂漠を旅する人々によく売れる。

 あんたも、鳥をとってきたら買い取るよ。

 商人はそう言ってくれたが、タミアは自分の魔法の練習のために、野生の生き物を狩るということにどうも抵抗が拭えなかった。

 他の方法としては、魔法使い同士で模擬的に戦って互いの力を磨く闘技場が存在するようだが、今のタミアにはまだ、そんなところへ行ける力はない。ログズに頼んで相手をしてもらうことも一瞬、頭を過ぎったが、如何せんノーコンだ。間違って本気で当てられでもしたら、最悪である。却下するしかなかった。

 そうして、どうしようかと迷いながらこの宿へ来たとき、たまたま見かけた水路を覗き込んで「これだ」と思ったのだ。

 清らかな水の底を、魚が泳いでいた。水ならば、火を撃っても消してくれる。水を撃っても溶け込ませてくれる。魚は少し驚くかもしれないが、死んでしまうことはない。

 少しの罪悪感に目を瞑って、タミアは水路を練習場にすると決心した。部屋をあえて地上から離し、三階にとり、遠く離れた小さな的を狙う訓練と、できるだけ魚を驚かせずに済むようにと考えた。

 もっとも。

 そんな気遣いは、必要なかったかもしれないが。

「ああ、もう……!」

 口に出すつもりのなかったもどかしさが、つい口をついて出てしまい、タミアは決まりが悪くなって咳払いをした。苛々しては、余計に集中力がなくなってしまう。分かっているのに、焦りが気分を乱させる。

 タミアの魔法は、上手く出せたり出せなかったり。できたと思っても、到底、水面まで届かずに消える弱々しいものばかりだった。こんなものではなかったはずだ。実力はもう少しあると思っていたのに、全然、思うようにいかない。

 これでは、アルヤルに会ったとして、弟子にしてくれなどとんだ寝言だ。

 もっと、上手にやらなくては。ぎゅ、と唇を噛んだとき、ベッドの左側がキシリと沈んだ。

「……ログズ」

「見てらんねーな。なあに殺気立ってンだよ」

「殺気立ってなんかっ」

「立ってンだろ。ピリピリしすぎだ。そんなんじゃジンも寄ってこないぜ」

 窓枠に肘をついて、タミアの顔を覗き込みながら呆れたように言い放つ。正論に、ぐっと詰まって、タミアは尖らせていた目つきを和らげた。途端、眉間の辺りから力がどっと抜けたのを感じる。

 情けない。

 思い通りにいかないことに焦る姿を見られたのが悔しくて、ふいと視線を逸らした。窓の下には夕日に染まる水路があって、タミアの魔法など一度も受けていない水面が眩しく煌めいている。

 ログズがひょいと、隣に顔を並べた。

「こーゆーのは、イメージが大事なんだよ」

 独り言のような調子でそう言うと、片方の腕を窓から出し、数秒、何かを考えるかのように宙を見つめる。やがて、ふ、と何か、空気が動いた気配がした。

 次の瞬間、ログズの手元に火柱が生まれた。タミアが目を瞠るより早く、彼はそれを遠くへ投げるように、腕をできるだけ高く振り上げた。炎の一群がとぐろを巻きながら、熱風と共に水路の脇の木々を掠めて、空へと上っていく。

 緋色の蝶か何かのように小さくなって、煙に変わった。

「な?」

 窓から身を乗り出し、ぽかんとしてそれを見送ったタミアに、ログズは満更でもなさそうに胸を張る。軌道は、ものすごく逸れた。一瞬、隣の宿を直撃すると身構えたくらいだ。でも、あまりにも簡単に、タミアのやりたかったことをやってみせた。

 この人は、確かに魔法使いだったのだ。

 今さらながら持てた確信に高揚して、タミアは我知らず、感極まったように「すごい」と呟いていた。

「今の、どうやったの?」

「やろうとしたことはお前と同じだよ。あの水路にいる、魚を撃とうとした」

 まあ、逸れるのは分かってたから、直前で魔法を空に逃がしたけどな。ノーコンぶりを清々しく認めながら、彼は笑う。

「言ったろ、すべてはイメージなんだよ。俺は今、何を考えながらやったと思う?」

「えっと……、魚? 魚に、届くように、とか」

「違うんだよな。ものすごい、ものすっごい、空腹を想像してた」

「空腹?」

「そりゃあもう、ものすっごいヤツだぜ。こう、ペコーッなんてもんじゃなく、体の中身が全部なくなった、ヤベェ今なら土でも美味い、みたいなヤツ」

 ぐいぐいと自分の腹を押してへこませてみせながら、ログズは強調する。ものすっごい空腹か。彼の説明は微妙だったが、とりあえず飢えて死ぬ、くらいのものを想像すればいいということかな、とタミアは頷いた。

「魔法っていうのが、なんで出るかは知ってるよな?」

 問いかけに、これもまた頷く。

「大気中のジンが、力を貸してくれるから」

「正解。まあつまりだ、魔法使いっていうのは、ジンに語りかける力を持った人間のことをいう場合が多い」

 タミアの答えを補足して、ログズが言った。なるほど、と言われてみれば当たり前だが、あまり考えたことのなかった意見に、目から鱗が落ちたような感覚をおぼえる。

 魔法とは、大気中に存在する見えない妖霊ジンの力を借りるわざだ。

 ジンは火や水、風など様々なものを司るものがいて、普段ひとの目には映らないが、どこにでも存在している。魔法使いは彼らに語りかけることで、その力を貸してもらうのだ。火をおこしたいと願えば、火のジンが来て、炎をつけてくれる。その火を消したいときは、水のジンを頼れば、雲もないのに水が降り注ぐ。

 無論、彼らはいつだって協力してくれるとは限らない。気が乗らなければ、知らんふりを決め込むことだってある。でも、たくさん存在しているから、一人が拒んでも他のどれかが協力してくれる。

 中には強い力を持ったジンもいて、そういうジンに気に入られる魔法使いは強い。各地のオアシスに残る伝説的な旅人であったり、輝かしい英雄であったりというのは、大抵がそんな魔法使いのことだ。

「ジンに語りかけるってことが、できるかできないか。これがいわゆる、魔法の素質があるかないかってことだ」

「うん」

「素質がある以上、あとは心の声のデカさがものを言う。お前、例えば二人の乞食がいるとして、片方は服を着て顔も髪もキレイで、声も落ち着いてる。もう片方は汚れきって裸で寝っころがって、腹が減って死にそうだって呻いてる。パンがひとつしかなかったら、どっちに渡す?」

「……そりゃ、死にそうなほうよ。例え本当は、もう片方も同じくらい辛いのかもしれないって、頭では思っても」

「だろ? 同じことだよ。情に訴えかけてくるモンには、人もジンも弱い」

 身に覚えがありすぎる。タミアは感動すら覚えて納得した。現にそういう手口に誘われて、拾った人間が今、目の前にいる。

 ログズはそんなこと、すっかり過去の話になったかのように、堂々と胡坐をかいて「よく分かっただろ?」と首を傾げた。ショールを脱いだ肩の上を、真珠色の髪が滑る。

「お前は魔法が上達したくて、魔法を使うことばっか頭にあるンだろうが、そうじゃねえんだよ」

「……空腹を、想像する」

「そう、やってみるといい。お前は空腹で、どうにかしてあの魚を食わないと死にそうだ。でも水路は深い。お前の背じゃ足がつかないし、岸から手を伸ばしたんじゃ届かない。……火がいる。あの水面をブチ破って、水を蒸発させて……ついでに魚を丸焼きにしてくれるような、立派な火が」

 ――火が、いる。

 タミアの心を代弁するように、横で語りかけるログズにつられて、タミアはだんだんと自分が今、どんな状況で何をしているのか不鮮明になってきた。砂漠をさまよい歩く、旅人にでもなった心地だ。火がいる。とても空腹で、食料はない。もう何日もそんな状態で砂の海を渡ってきた。体力、気力共に限界を迎えようとしている。目の前にいる魚以外に、腹を満たせる希望はない。

「火が……いる」

 そう、目の前にいる、あの魚さえ手に入れば。生きられる。

 想像にのめり込んでぽつりと呟いたとき、タミアの手に、今まで巡ったことのない熱さが駆け巡った。はっと我に返って、慌てて引こうとしたときにはもう遅い。

 燃え盛る炎のかたまりが、球体となって、タミアの指の先に現れた。そのまま勢いをつけて、水路へ向かって突撃していく。

 ジュウッと、水の焼ける音か火の絶える音か、どちらとも断定しきれない音が響いた。

「おーおー、十分じゃねェか? 最初はこんなもんだろ」

 驚いて目を背けてしまったタミアは、ばんばんと背中を叩かれて顔を上げた。労っているつもりなのだろうか、それで一応。

 恐る恐る窓の外に顔を出して、水路を見る。水面から、白い煙が上がっていた。魚は驚いて逃げてしまったのか、一匹もいないが、死んでしまって浮かんでいるのも一匹もいない。

 水面に当たって、火は消えたのか。

 ほっと胸をなで下ろすタミアの手は、まだどこか、血液が未知の速度で駆け巡っているように熱かった。

「あとはそうだなァ、ジンの気配に敏感になれ」

「ジンの気配?」

「色んなジンから借り受けたばらばらの力を、お前が一手にまとめて、ひとつの大きな力に変える感じだ。こう、ギューッとやって、ドーン! と」

「言いたいこと、分かるけど分かんないわよ……」

 高等なわざを教えてくれるなら、それなりに言葉を使う努力もしてほしい。ばらばらの力をまとめる、か。今の自分にはそもそも、協力してくれているジンが一体なのか複数いるのかもまったく分からないな、とタミアはため息をこぼした。道のりは長い。

 でも、きっと不可能ではない。

 ようやく煙の立たなくなった水面を見下ろして、タミアは右手を握りこんだ。先刻のログズの反応を見る限り、初心者なりに素質は悪くないのだと、そう思える。

 空が曇ってきた。そろそろ降りだしそうだ。窓枠にのせた腕に顎をくっつけて、建ち並ぶ屋根の上に見える西の空を眺めながら、タミアはぽつりと口を開いた。

「私の村にも、雨、降ったのかしら」

「んん?」

「ここよりずうっと西のほうなの。キャラバンと一緒に、二週間くらい歩いた」

 ログズがどさりと、自分のベッドに身を投げる。ジャスミンの香りが左側に残っていることに、今さら気づいた。バザールで商人に試してごらんと言われるがまま、彼がひと吹き纏った香水が、まだほんのりと生きている。

 肺に潜り込んだ香りを吐き出すように、タミアは西を見つめたまま、細い息を吐いた。

「私、兄弟がたくさんいてね。下に弟と妹が、合わせて六人いるの」

「あー、なんかそんな感じするな、お前」

「本当? 自分じゃよく分からないけど」

 長女らしい、とは、近所の人にもよく言われてきた。しっかりしているという褒め言葉なのか、下の兄弟に比べて不器用だという心配なのかは知らない。

 ログズの口ぶりは、どちらかといえば後者に聞こえた。彼はちゃっかりしている。タミアには備わっていない種類の要領の良さが、爪の先まで行き渡っている。褒められることかどうかは、別として。

 彼といると、二番目や三番目の兄弟の器用さを、時々思い出して懐かしい。

 タミアは少し笑って、さっきね、と続けた。

「ジンに語りかけるには、心の声の大きさが大事だって、あなたが言ったじゃない? あのとき、すごく納得したことがあって」

「へえ?」

「私、初めて魔法を使ったのって、一番下の弟を助けようとしたときだったなって」

 脳裏に、今も焼けついて離れない一瞬がある。そのときの光景を思い返すと、どんなに暑い日射しの下にいても、背筋がひやりと凍る。

「一番下の弟、まだ二歳になったばかりでね。最近歩くのを覚えて、元気なんだけど、まだまだ目が離せないの。だからいつもは手を繋いでたんだけど、妹に呼ばれて、ちょっと手を離したのよ。そのときにね」

 赤い土の照り返しと、汗で湿った弟の手の感触を今も、昨日のことのように覚えている。玄関の前で、今にも落としそうな荷物を抱えてドアが開かないと呼んでいる妹を見て、ついそちらに気がいってしまった。

 今行くわ、と、弟の手を離して駆け寄った。

「私を追いかけてこようと、したのよね。妹が、こぼれそうなくらい目を開いたの。何があったのかと思って振り返ったら、弟が、ちょうど転ぶところだった。目の前に、尖った植木があって――私、なんて叫んだかも覚えてないけど、気がついたら枝が一瞬で燃え落ちてたわ。弟は、手のひらを擦りむいただけで済んだ」

 手のひらを、反対の指でなぞる。あのときも、伸ばした手に知らない熱さが残っていた。

「必死だったってことよね。さっきの話に出てきた、空腹も同じ。自分の力じゃどうにもできないことを、それでもどうにかさせてくれって、我を忘れて願うときの声の大きさに、ジンは応えてくれるんだわ」

 そういうことよね、と。訊ねる代わりに振り返って笑めば、ログズも無言で唇に弧を描いた。暗く翳っていた胸の中に、灯りがひとつ燈されたような気持ちになる。

 感覚を忘れないうちに、もう一回、今度は一人で試してみよう。

 タミアは深呼吸をして、窓から腕を伸ばした。水路を見据える背中に、見ていないようでじっと息を潜めている視線を感じる。その期待さえ、今は追い風になる心地がした。

 逃げた魚はいつのまにか戻ってきている。先ほどと同じように、左右に揺れる尾びれを見つめながら、極限の空腹を想像した。じわりと、空気がかすかに動いたような気配を感じる。そのときだった。

「――え?」

 ぽう、と視線の上に、火が灯った。それはタミアの指先ではなく、宙の、離れたところに突然浮かび上がった。瞬きをするタミアの目の中で、揺らめく橙色が爆ぜる。

 隣へ飛び込んできた体に、ベッドが大きく跳ねて、タミアも浮き上がった。

「避けろ!」

 言葉に反応するよりも先に、ログズの手が肩を引き寄せる。悲鳴を上げかけたタミアの眼前に、先刻、空中に浮かんでいた火が迫ってきていた。見えない糸を駆け上がるように、一直線に、窓の中へ入りこもうとしてくる。

 息を呑んで固まっているタミアを奥へ押しやり、ログズは何を思ったか、自らの腕に炎を纏わせると、その腕を火の中へ突っ込んだ。

 ――ギャアア、と獣の哭くような声が響く。

「ジンか!」

 ログズがぎっと歯を食いしばって言う。まさか、自分が何か悪い呼び方をしたのだろうか。狼狽するタミアの前で、突如として襲いかかってきた火は、内側から焼き尽くされて悶えるように暴れ、窓ガラスをたたき割りながら燻っていき、やがて霧散した。

 窓枠に何か、固いものがぶつかって落ちる。

 ログズは追いかけるように、窓から身を乗り出して下を見た。

「何なんだ、今の……」

 熱さを振り払うように、ぱっぱと腕を振る。

 ベールのように火の覆いを作っていたからだろう。見たところ、小さな怪我は多少あるが、爛れるような火傷はしていない。安心したやら動揺が収まらないやら、ばくばくとうるさい心臓を押さえて、タミアはおそるおそる立ち上がった。

 もう炎の気配はないようだ。あの、と隣に立って声をかける。ログズは何かを確かめるように、下を見つめていた。

「んー……?」

 地面に、金の輪が落ちている。

 大きさはさほどなく、シンプルな円形をしていた。細かいところまでは見えないが、側面に赤い石がひとつ、埋まっているのは分かる。

「やっぱ、間違いねェな」

「なに?」

「あれ、俺の腕輪だ。お前と会う前に、服と一緒に取られたやつだ」

「……はい?」

 思いがけない発言に、タミアは顔を上げて、ログズを見た。何を言っているのか、どういうことなのか、頭の中がすぐについていかなかった。

 自分と会う前、ということは酒場での賭けの後、服やら杖やらと一緒に、謎の男に持っていかれたということだ。それがなぜ、今になって火の中から出てくるというのだ。

 ログズは反対に、それらのことから何か、真実を見出したようだった。険しかった横顔に、みるみる光が差していく。

「分かったぞ」

「何が……」

「ジンだ。ジンの仕業だ。道理で、なんか変だと……!」

 肩を掴んで揺さぶられ、タミアは聞き返す余裕もなく呆気に取られて頷いた。追うぞ、と窓枠に足をかけたログズは、我に返ったように「そうだ、杖ねェんだ」と言ってベッドを飛び越え、ドアに向かって駆けていく。

「ま、待ってよ!」

 どこへ、何を追いかけるというのだ。ついていこうと慌てて駆け出したとき、ログズの引こうとしたドアが、外側からノックされる音が聞こえた。

 ぴくりと、ログズの背中にかすかな緊張が走る。

「誰だ? 悪いけど今急いでて……」

「お急ぎのところ申し訳ありません。わたくし、この宿の従業員なのですが」

 細く開けたドアから聞こえてきた声は、夕方、下で宿泊の手続きをしたときに聞き覚えのある声だった。何者かと身構えていた力が、拍子抜けして緩む。ノックを耳にした瞬間、タミアは先刻の火が、今度はドアから入り込んでくるのではと想像してしまった。

 ログズも同じ感覚だったのだろう。気が抜けたように、あっさりとドアを開けた。廊下に、見覚えのある従業員が立っていた。その表情が申し訳なさと厳しさを半々にしているのを見て、タミアは嫌な予感に後ずさりする。

 ログズも何か、様子が違うと感じたのだろう。よう、と上げかけた手を所在なさげに下ろし、あー、と呻いた。

「実は先ほど、調理場で何か大きな物音を耳にしまして」

「へ、へえ……?」

「真上から聞こえた気がしましたが、二階は本日空室なので、このお部屋かと思いまして。お客様、大変申し訳ありませんが」

「ハイ」

「お部屋の中を、拝見してもよろしいでしょうか?」

 す、と。前で合わせていた手の片方を、従業員が上げてみせた。その手に、透明なガラスの欠片が握られている。

 タミアはハッとして、後ろを振り返った。粉々に砕けた窓から、夜風が吹き込んできて、カーテンを揺らしている。

 どうだ、ごまかせるか。

 だめだと思うわ。

 どうしてもか。

 どうしてもよ。

 視線を戻して、ログズと目を合わせた数秒の間に、そんな無言のやりとりが確かに行われたのを感じた。ワンピースの裾を持ち上げて、ガラス片を踏まないように注意しながら、そっと離れる。

 苦い表情で道を開けたログズの前を通り抜け、従業員がまっすぐに、変わり果てた窓のほうへと向かってきた。絶句して、足元のかけらを拾い上げ、しげしげと眺めている。何をどうしたらこんなに派手に割るんだと呆れかえっているのが、後ろ姿からも十分すぎるほど伝わってきた。

 忍び足で隣にやってきたログズが、身を屈めて囁いた。

「なァ、逃げるなら今のうちか?」

「馬鹿言わないでよ。覚悟しましょ」

 爪先を踏んで捕まえておきながら、タミアも声を潜めて答える。ああでも、何と説明したらいいだろう。そもそも、自分だって何が起こったか、全然分かっていないのに。

 やっぱり、逃げるなら今のうちか?

 タミアは痛みそうになる頭に浮かんだ考えを振り払って、ぐっと腹をくくった。



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