数日前
「吉野さん。病室、回りに行ってきて」
「あっ。はい!」
ナースステーションの窓から少し見える大きな一本桜の薄紅から目を離す。
高校を卒業してから、玻瑠は看護師の道へ進んだ。人の役に立ちたかったのだ。病で傷付いている人へ、或は半ば絶望してしまっている人へ、希望を与えてその傷を癒したかった。
罪滅ぼし。
そのことに気付いたのはごく最近のことだ。彼に出来なかった事を他の人にして自分をごまかしているに過ぎなかった。
小学三年生。あの表情は何を表していたのか悩んだ。
小学四年生。あの表情は絶望と言うのだと知った。
小学五年生。彼は大丈夫だろうかと心配した。
小学六年生。彼はいまどうしているだろうかと思った。
中学生。彼の蒲公英の笑顔がなかなか思い出せない日があることに愕然とした。
高校生。再会。心を閉ざしてしまっていた彼への落胆と罪悪感と微かな希望。あの蒲公英の笑顔を浮かべさせることに高校生活を費やした。
結果を言えば、蒲公英の笑顔を浮かべさせることは出来なかった。高校の三年間で彼が見せた笑顔は、小さく浮かべるだけのもの。
一番近くにいた彼の絶望を取り除いてあげることが出来なかった。
あの日逃げてしまった罰はいつでも玻瑠について回る。
「瀬戸さん。血圧測らせてくださいね」
「いつもありがとぉねぇ」
「いいえ」
クルリと血圧計を腕に巻く。
看護師になって三年。自分はきちんと看護師を出来ているだろうかと、時折思う。
「今年は桜が綺麗に咲いたねぇ」
「ですね。でもナースステーションからは少ししか見えないんですよ。いいですね、ここ。綺麗に見えるから」
「桜、好きなのかい?」
「はい。…私の知り合いに桜が似合う人がいて…」
「探してしまうのかい?」
続いた言葉に少し目を見開いた後、苦笑した。
「ハルちゃんの大切な人なんだねぇ」
「…幼なじみですよ」
呟く。アラームが鳴って計測し終わった数値をコンピュータに打ち込んだ。
「瀬戸さん、問題なし、と。それじゃ、また時間になったら来ますね」
そう言って立ち去りかけた時、
「ハルちゃん」
そっと声を掛けられた。暖かい優しい声色。
「はい」
「桜が見たくなったらおいで」
「…はい」
小さく笑っている泣きそうな顔をして病室を出た。
彼は教えてくれなかった。何処の大学に行き、どんな職業を目指しているのか。何も玻瑠に教えないままで、またどこかに行った。
強制的に交換したメールアドレスへ定期的に連絡を入れはしているが、返ってきた試しがない。
そうして、高校を卒業してから七年の歳月が過ぎた。
玻瑠の方はと言うと、社会人になった今でも春になると、桜が咲くと、その薄紅の景色に彼を探している。そうしていつも切ない気持ちのまま、桜の季節は過ぎてしまうのだ。玻瑠にとって、春という季節は出会いよりも別れの方が色濃い。
夕陽が帰り道を茜色に染めている。ふと桜を見に行こうと玻瑠は思い立ち、中庭へ向かった。多分、昼間の瀬戸さんとの話があったからだろう。
探してしまう、か…。
玻瑠は小さく笑った。それはとても、無意味で虚しい行為だ。結局の所、紺が玻瑠を必要としているのではなく、玻瑠が紺を必要としているだけで…。それはエゴイズムとも言えるかもしれない。
そっと吐息をつく。
大きな桜の木の下から見上げると、徐々に藍色に染まりつつある空が見えた。藍色の空に一番星が淡いピンク色の桜の花びらの上で、まるで露のように銀色に輝いている。
「いい景色、あった?」
「いい景色、ですか?」
不意に後ろから呼び掛けられた声に応えながら、振り返る。変な質問をする人だ、と思いながら。
風が吹く。
花びらがはらはらと舞い落ちる。
夕陽影。
黄昏。
夕陽の眩しさに目を細めた。
「綺麗な景色は見つけました。…どうして、そんなことを?」
「職業柄、だろうね。写真家なんだ。駆け出しだけど」
「写真家さん…」
「ああ」
「じゃあ、撮影中に怪我を?」
逆光でよく見えないが松葉杖をついている様子でそう尋ねる。
「あぁ、うん。野草の写真を撮ってたら山の斜面から落ちてしまって…。それでここに運ばれて来たんだけど…。さっきまですっかり忘れてた」
「何をですか?」
「ハルの勤務先だっていうこと」
「えっ…」
いつの間にか夕陽が沈んでいた。逆光で見えなかったその人の姿は、
「…紺…」
春が来る度、探していた彼だった。
「久しぶり」
高校卒業後、音信不通になっていた彼だった。