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狼の夢見草  作者: 遠野 紗
彼女の記憶
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小学三年生の春休みに

 川沿いの一本桜がまだ固い蕾をつけている。この時期の桜を見る度に、どうしてあの固い蕾があんなに綺麗な柔らかい花びらになるのだろうといつも不思議に思う。

 川を渡った向こう側の畑にレンゲソウが咲いている。

 自然が多く残る田舎道を玻瑠はるはぽてぽてと歩いていた。


 ここは豊かな水と土で昔から農業で栄えている、玻瑠とこんが生まれ育った町外れの少し田舎よりの村だ。少し歩けばちょっとした町に出る。


 道端でナズナが揺れている。アスファルトの上に転がった小石をコツリと蹴った。


 やっぱり、暇だ…


 クルリと回れ右をして元来た道を駆けていく。

 紺の所へ。気付いた時からいつも一緒にいる幼なじみの所へ。

 地面を軽く蹴る。橋を渡る。あぜ道を駆ける。整備されていない細道でこけそうになって、ひとり苦笑いする。


 紺の家の前でしばし呼吸を整え、いつもみたいに思い切り大きな声を出した。

「紺〜!」

 二階の子供部屋の窓からひょいと顔を覗かせた紺に、

「紺〜、暇!」

 ニッと笑いながらそう言うと、紺は困ったように可笑しそうに笑った。

「暇って…」

「あーそーぼっ!」

「留守番中!」

「じゃ、近くで遊ぼう!」

「何して?」

「ん〜…。ちょっと待ってて!」


 確か、この前作ったのが…。


 すぐ隣の我が家に駆け込む。

「玻瑠?帰って来たならただいまくらい言いなさい」

 台所の方から母の声が聞こえる。

「まだー。紺と家の前で遊んでくる!」

「昼までには帰って来なさいね」

「はーい」

 目的のものを持って玄関を出ると、薄い上着を羽織った紺が道端にしゃがみ込んでいた。 


 何かの観察中…?


 そっと気付かれないように後ろへ回り込んで、持ってきた物を勢いよく吹く。

「おわっ!何?」

「ほら」

 クスクス笑いながら玻瑠は宙を指差した。

「シャボン玉…」

 紺に当たり損ねた小さなシャボン玉がフワフワ揺れている。

 春の陽射しで虹色にクルクル変わる。

「母さんと作ったの。名付けてブワブワ!」

「ブワブワ?」

「うん。吹くとブワブワァっていっぱいシャボン玉が出来るから」

 液につけて一息吹く。大量に出来た小さなシャボン玉は、一つ一つが風に乗り、手元から一気に舞い上がる。「わぁ…」と紺が小さく歓声を上げた。


「ねえ、紺はさっき何してたの?」

「さっき?」

「そこで」

「あぁ。蒲公英たんぽぽの観察」

「観察?」

「ほら、こうやって花の裏を見るとね、日本の蒲公英か外国から来た蒲公英かが分かるんだ」

「これは?」

「日本の」

 紺は黄色い蒲公英の花を裏返して、玻瑠に見せながら言った。紺には暖かい色をした蒲公英がよく似合う。ふと、玻瑠はそう思った。


 周囲をグルリと見渡せば、紺からここ何年かで教わった花々が咲いている。紺の父親が植物学者であることもあって、一般的に言う雑草に関して小学校の中で紺に勝る人はきっといない。たとえ先生であってもだ。そのことがどこか誇らしくて、そんな紺に草花の名前を教わっている事がとても嬉しかった。

 ハコベ、ハルジオン、ナズナ、ネジバナ、ホトケノザ、蒲公英…

 大量のシャボン玉が虹色のマーブルを描きながら、まるでシャワーのようにその花々に降り注ぐ。

 紺と玻瑠はくすくす笑いながらそれを見ていた。


「紺くんっ!」


 悲鳴のような女の人の声と、一斉にいくつかのシャボン玉が弾けて「あっ!」と玻瑠が声を上げたのはほぼ同時の事だった。


 春雨が、降り出していた。


「おばさん…」

 驚きを隠せずに呟いた紺にその女の人は駆け寄った。

「姉さんと義兄にいさんがっ!」


 それから先、数時間の間の事は切れ切れにしか覚えていない。

 真っ青な顔をした紺が車に乗って行ってしまった事。

 下を見れば紺が見ていた蒲公英が春雨に濡れていた事。

 夜、両親から紺の両親が交通事故で亡くなったと聞かされた事……


 葬式で、紺は泣きもせずただ静かに俯いていた。

「紺…」

 そっと呼び掛けた玻瑠の声に一瞬顔を上げた紺の表情が、それから先、大人になっても忘れられなかった。

 無表情。人間の顔から喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、全てをなくしてしまったような顔だった。ただ、微かにそこに浮かんでいたのは暗い洞窟内のような、何処までも続く黒、そんな色。その色の名前は後で知った。絶望という名の色だ。

 玻瑠は静かにその場を離れた。言葉を掛けるでもなく、ただ一度紺の名前を呼んで。


 傷ついた。

 傷つくような立場でも無いのに、刺されたかのように苦しくなった。


 あれだけ一緒にいたのに…


 紺は叔母夫婦の所へ行った。この町外れの少し田舎よりな村から数駅離れている、近いとも遠いとも取れる、そんな町へ越して行った。


 気付いたら、紺は隣にいなかった…


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