高校の入学式に
本館、生徒館、特別棟…。
今日の入学式後にされた案内を一つ一つ思い出しながら、スキップをしているような軽い足取りで高校という名の空間を遊歩していた。
まず第一に空気が違う。堅苦しくて自由な空気。現実的であり、幻想的。至る所に見え隠れする誰かの夢が、まだ何をも抱いていない新入生を戸惑わせる。
フワリと春の気配がして振り返った。ギャザーがついた真新しい濃紺のスカートが軽く揺れる。
第二に制服。中学校のジャンパースカートとはガラリと変わった。何処か物足りない制服に感じる違和感。
振り返った先にあったのは桜だった。
校庭の隅にポツリと、堂々と、大きく枝を広げて咲かせている一本桜はまるで霞か雲のようで、玻瑠は誘われるように足を踏み出した。
何に?
その桜に。
或は、今ならこうとも言えるだろう。
運命に…
孤独な桜の木の下に、臙脂のネクタイ、先客一人。
臙脂ということは…同じ新入生か。
一番最初に覚えた学校のルールを思い出す。
それにしても…
一歩、また一歩と足を踏み出すたび、感じる気配。
この人…
その男子生徒はまるで何か追憶しているかのような風情で、桜の下から空を見上げている。やがて彼は、近づいて来る玻瑠の気配に気付いたのか、地面に視線をゆっくりと落としてこちらを見るでもなく校舎の方へ足を向けた。
その少し俯いた顔を見た瞬間、玻瑠はあの日々の景色をそこに見た。
蒲公英のような彼らしい優しい笑顔を思い出す。
「紺…」
歩き出していた足を止め、困惑したように一拍置いた後、その男子生徒は振り返った。
青空。
桜の花弁。
面影が残るあの子の顔立ち。
「ハル…?」
小さく呟かれた名に、泣く寸前のように玻瑠は顔を歪めた。
嗚呼、紺だ…。
「元気にしてた?」
あの日からずっと、七年間気にしていた事を口にする。
こんな事、手紙なり電話なりすれば確認出来たかもしれない。だけど出来なかった。紺からの連絡が無かった事もあるが、それ以上に紺の哀しみを理解しきれなかったからだ。理解できない状況で何を紺に伝えればいいのか分からなかった。
「…そこそこに」
そう言って紺は微かに笑った。
その笑みを見て、やっぱりと思う。
やっぱり彼は、変わってしまった…。
「そう…」
連絡を、取っていれば違っただろうか。こんなに彼の笑顔が固くなることはなかったのだろうか。
いや、きっと違わない。
今でも覚えている。喪服に身を包み、両親の名を口にするでも泣くわけでもなく、ただ静かに俯いている姿を。玻瑠が話し掛けて、一瞬上げたその無表情な顔に絶望の色が微かに浮かんでいたのを。
自分じゃ変えられない。
そう思ってしまったのだ。
情けない事に。
「紺もここの学校だったんだね」
「まぁ」
「知らせてくれれば良かったのに」
「知らせる程でもない」
無愛想に返す紺に苦笑する。
自分も連絡できなかったのだからお互い様、か。
気後れ、後悔、罪悪感、不安、心配…。
いろんな感情が複雑に絡まりあって、いつの間にかあの頃のようにはいられなくなっていた。
「でも、どうして紺はこの高校に?」
この地に戻って来た。それは、向き合うことができるようになったと解釈してもいいんだろうか。
「…紺?」
難しい顔をして黙り込んだ紺に、玻瑠は声を掛けた。
「…いや、別に。大した理由はない」
さっきの間は何だったんだろう。
玻瑠は小首を傾げた。
あ。もしかして…、
触れてほしくないところ…?
「もういいか?」
校舎に戻ろうとする紺を咄嗟に引き止める。
「えっと…」
「何?」
「紺は、何組?」
「一だけど」
一、一と口の中で何度も呟く。
「それだけ?」
「うん、まぁ。それだけ」
呆れたような顔をした後、「じゃあ」と立ち去る紺に後ろから声をかけた。
届くように。今度こそは彼に届くように。
「また明日!紺!」
また明日が来る。
また明日が無かったあの日とは違うから。
これから、変えることが出来るだろうか。
淋しそうな彼の顔に一度だけでも、あの蒲公英の笑顔を浮かべさせることが出来るだろうか。
薄紅の桜を見上げて思った。
彼の抱えている闇が、思っているほど浅くはないことを知らずに……
薄紅の桜を見上げて思った。