桜
桜吹雪。桜の花びらが吹雪のように散ること。
人は桜と雪に共通点を見つけた。
夢見草。桜の異称。
人は桜と夢に共通点を見つけた。
サクラとユキとユメと。
はかない、という共通点だ。
目の前を歩く彼女の黒髪にハラリと薄紅が一枚張り付いた。取ろうと手を伸ばしかけて、途中で下ろす。
「先輩」
「ん?」
振り返った彼女は屈託のない笑みを紺に向けた。
「花びら、髪に」
「え?」
慌てて手櫛で髪を梳いた由葵は、その手の平についた桜の花弁を見て「ホントだ」と笑った。
「これだけ散ってたら、ね」
そう言って、上を見上げた。
次から次へと桜の花弁が降ってくる。まるで雪のよう。
「由葵先輩」
そっと呼び掛けてみる。
「ん?何?」
彼女はいつも通りを装った嬉しそうな顔で紺の方を向いた。その笑顔からふいと顔を逸らす。
「それ…」
「それ?」
「…高校の制服ですか?」
紺のその台詞を聞いて思い切り由葵は吹き出した。そんな由葵を不機嫌そうな顔で見ていた紺に「いや、ごめんごめん」と手を振る。
「何も言ってこないから、紺くんにとって気に留めることじゃないのかなぁ、なんて思ってたからさ」
クスクス笑いながら言う由葵に仏頂面で返す。その表情もまたツボだったのか、ひとしきり笑った後、由葵はにこりと微笑んで、
「嬉しいよ」
と、桜舞い散る中で囁いた。
「うちの学校ね、学年毎でリボンの色が違うの」
胸元のリボンをくるりと弄る由葵の人差し指を見つめる。
「今の三年生が憧葛、二年生が恋染紅葉、一年生が恋路十六夜」
「なんですか。それ」
隣で由葵がクスリと笑う。
「色の名前。凝ってるでしょう?」
色の名前と言われても、どんな色をしているのか。細かい色の名前など普段触れることがないので見当が付かない。
「憧葛は、植物名が入ってるから分かりそう?」
「葛って、つる草の総称なんで…なんとも」
「緑。五月雨が濡らした葛の葉。恋染紅葉は、」
「紅」
ぽそりと呟くと、「お」と感心したように一文字発して由葵は笑った。
「そう。秋の残照に映える紅葉の燃えるような赤。で、これ。恋路十六夜はね、」
由葵はそこで言葉を切ると、意味深な笑みを向けた。なんだ、と不審そうな視線を返す。由葵はそんな視線に悪戯が見つかった子供みたいな笑い声を立てた。
「十六夜の夜空の深い、」
「紺色」
くるりと由葵の指先で恋路十六夜のリボンが回る。
「『いざよう』って躊躇うって意味なんだよ」
「…何が言いたいんですか」
「さぁ、なぁんでしょうっ」
戯けたように由葵は言いながら、片足を前に振り出した。彼女の足元で桜の花びらが舞う。
「紺色の十六夜…ってね。うちの紺さんは何を躊躇っているんだか…」
ぽそりと自分の足元を見ながら彼女は言った。
成る程…。
「無理です。先輩のように自分に馬鹿正直で怖いくらいに真っ直ぐにはなれません」
正直、羨ましいとは思う。だけど、癖はなかなか抜けないものだ。ふとした拍子に、あの日のように弾けて消えてしまうんじゃないかと怯えて悲観的になって。
「ねぇ…それ褒めてる?馬鹿にしてる?」
挑むような笑みを浮かべて由葵が覗き込んでくる。
「褒めてます」
笑いながらそう言うと、疑い深そうに目を細めた後彼女は困ったように笑って溜息をついた。タタッと彼女が一歩前を進む。
「そういえばさ、なんで紺って名前なの?」
「なんでって…?」
「珍しいじゃない?紺って。不思議に思ってたの」
変な事を気にする先輩だ。そのような事を口にすると、由葵は「今更?」と悪戯っぽく笑った。
「根っこ、らしいです」
「根っこ?」
「そう。父が最初、根と書いてコンと読ませようとしたらしいんですけど、それじゃ不憫だってことになって母が紺色の字を当てたんです」
「それはまた…」
そう呟いて由葵は「植物学者らしいっていうか、なんていうか」と苦笑した。
名前の由来を聞く宿題が出た時の事を思い出す。父がニカリと笑い、母が苦笑していた。父はこう言った。
「強い道草は根が残っていたらまた生えてくる。大事なもの」
ぽそりと紺は父の言葉を呟いた。
「成る程。心根って言葉もあるもんね」
納得したように頷く由葵に小首を傾げる。
「心根?」
「知らないの?心の奥底にある気持ちのことよ。いつわりのない心」
彼女は空を見上げながら説明した。
いつわりのない心、か。
春の陽射しを浴びて桜が優しい色を放っている。
「…先輩は文芸部でも兼部してるんですか?」
「まさか」
「私は写真一本です」なんて言いながら桜色の中で彼女は笑った。
「でも、言葉も面白いもんよ?写真と同じように色んな景色が見えてくる」
振り返った由葵の笑顔に薄紅の光が注ぐ。
彼女は感受性が強いから。
写真も言葉も。その動かぬ世界から、想像もつかないような世界を広げていく。そして、そのやや幼い顔に浮かべる表情をコロコロ変えるのだ。
笑み、涙…。それだけでは言い表せない程に彼女の表情は豊かで。笑みの中には、楽しい、嬉しい、可笑しい、恥ずかしい、が。涙の中には、悲しい、感動、嬉しい、悔しい、が。
きっとこの風景も彼女の目には違って見えているんだろう。
彼女の目には何が見える?
それを知りたいと、いつも思うのだ。
「綺麗だね、桜。写真撮りたいな」
「撮ればいいじゃないですか」
「残念ながら、今持ってないの」
眉を下げて由葵は笑う。
「持ってたら撮ってるよ」
数歩前を後ろ向きに歩きながら、彼女は手で枠を作って覗き込んだ。その枠の向こうに悪戯っぽい瞳が覗く。
「さりげなくオレを構図に入れないでください」
「ばれたか」と戯ける由葵に紺は溜息を小さくついた。
「でも、雰囲気的にいいんだよね。桜と紺くん。合う」
「やめてください」
眉をしかめてそう言うと由葵は笑った。
彼女には、こうやって人を困らせて楽しむ悪癖がある。この数年で慣れてしまったが。
桜並木も終わりが近づいてきた。あと三本の桜の前を通り過ぎると、そこの十字路を彼女は真っ直ぐ行く。
「また顔出しに行くね?来週辺りにでも」
「友達作ってください」
「作ってるよー」
クスクスと口許に手を当てて由葵は笑い、その手をひらりと上げた。
「じゃ、また」
その手と言葉に軽い礼で返すと、彼女は軽い足取りで駆けていった。
何だって駆ける理由があるんだろう。
そんなふうに思いながら、右へ足を向けかけ………
パーーーーーッ!!
キキーーーーーッ!!
「っ!!由葵先輩っ!!」
一陣の風が吹いた。枝から地面から桜の花びらを舞い上げる。
紺は咄嗟に目を瞑った。
風が収まって、恐る恐る目を開けると、
見たことのないはずのあの日の場面がそこにあった。あげそうになった叫びを必死に飲み込む。
赤に張り付くように薄紅が浮かんでいた。