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狼の夢見草  作者: 遠野 紗
彼の記憶
10/16

きっかけ

 それからというものの、毎日のように由葵ゆきこんを説得しに来た。通学路、廊下、校庭、見かければ声を掛けてくる。流石さすがにそれを半月続けられて、遭遇しそうな所を避けて生活していると遂にクラスを把握されてしまった。


大神おおがみ。先輩来てるよ」

「追い返しておいてくれ」

「お前も諦めて写真部、入ればいいのに」

 ここ一週間、由葵が来る度に呼びに来る遠山とおやまが呆れた様に笑っている。

「断る」

「逃げ回るより入った方が楽だと思うんだけどな」

 その言葉を無視して、紺は手元の本のページをめくる。遠山はやれやれといったように溜息を一つついて紺の机から離れた。


 彼は何も知らない。紺がどんな過去を過ごしてきて何を避けようとしているのか。側に来る割に聞こうとも調べようともせず、しかし何かを感じようとしている人だった。叔母に引き取られてからというものの、友人と言えるような人は作ってこなかったが、敢えて一人挙げよと言われたら彼を挙げるだろう。紺と遠山はそんな関係だった。


 昼休憩の騒がしい教室にカサリとページをめくる乾いた音が混ざる。

 明日からは図書室にいた方がいいかもしれない。


「どうしても話したいだとさ」

「え?」

「先輩」

「…。オレは話すことなんてない」

 「まあまあ」と言いながら遠山は紺を戸口へ連れていった。支えられていた指がなくなった本がパタリと紺の机の上で閉じた。


「大神くん」

 遠山に連れて来られた不機嫌そうな紺に由葵は苦笑する。

「ゴメンね?呼び出して。放課後、階段教室に来てくれるかな?」

「話したいって…放課後ですか」

「今からは時間ないし、今言っとかなきゃ放課後はすぐ帰っちゃうでしょ?大神くん。で、来てくれる?」

「拒否しても先輩は連れていくんでしょう?」

「まあね。じゃあ、放課後に階段教室で」

 予鈴が鳴る廊下を歩いて行く由葵を見ながら、紺は一つ溜息をついた。




「それで?何の話ですか?」

 人のいない階段教室で紺は由葵に問い掛けた。


 どの部活も休みの水曜日。今この部屋には紺と由葵以外誰もいないが、ここは普段写真部が部室として利用している。木製の大きなテーブルの上にスナップ写真が散らばっている。誰かがここで時を過ごしていた気配とそこかしこに飾られている写真。

 風景の写真、子供の写真、動物の写真、植物の写真…。

 永遠の時から切り取られた一瞬の時が、木材の香りがする部屋の中にちりばめられていた。


「ごめんなさいっ!」

 いきなり前置きもなく頭を下げた由葵に紺の肩がピクリと跳ねた。

「真山、先輩…?」

「知らなかったの。ううん。知ろうとしなかった。大神くんが植物学者であったお父さんから植物の事を教えてもらってた事。ご両親が事故で亡くなられてるって事…」


 あぁ、聞いたのか…。


「誰から…?」

「大神くんと同じ小学校だったっていう一年生から」

 紺は小さく溜息をついて、そっと由葵から目を逸らした。

「頭、上げて下さい…」

 覗うようにゆっくり頭を上げた由葵に紺は顔を逸らしたまま、呟いた。

「先輩の行為で傷付いてはないですから」

 「しつこすぎて面倒臭かったですけど」。紺は小さく笑って付け加える。その表情は由葵からはただ笑っているようにしか見えなかった。「ただ…」


「…オレが逃げてるだけですから…」


 紺の呟きが黄昏たそがれ色に染められた階段教室に溶けていく。

「逃げる…?」

「はい」

「何、から?私?」

 少し不安そうな由葵の問い掛けにクスリと笑って、紺は由葵の方へ向き直った。その顔は微かに笑みが浮かんでいる。

「思い出すのが怖い、幸せだった過去から」

 それは自嘲的な笑みだった。自分から逃げていた訳ではないとはっきりしたのにも関わらず、由葵は刺されたような表情をした後目線を床に落とした。


 静かな沈黙が二人の間を流れる。それが数秒だったのか、或いは数分だったのかは分からない。ややあって最初に口を開いたのは、

「向き合ってみたら、どうかな…?」

 由葵だった。床に視線を落としたまま、由葵はぽつりぽつりと話し始めた。

「皆辛い記憶は持ってると思うの。それを思い出すきっかけは人それぞれだと思うけれど、大神くんの場合はそれが花だった。それって…他のものよりずっと辛いと思う。だって…」

 ひとつひとつ自分で確かめるように由葵は言葉を紡いでいった。


「花は毎年咲くから」


 ハッとして紺は由葵を見た。彼女はそれに気づかずに言葉を繋げる。

「背けようと思っても背けられない。なら、向き合うしかないんじゃないかな?」

 ゆっくりと上げられた視線と視線がぶつかる。

 提案している内容に自信がないのか不安そうな表情と、それに似合わぬ強い目をした彼女がいた。

「向き合って、自分の中で変えて行くしかないんじゃないかな?」

 紺は彼女のその強い目に釘付けになった。何処かでこんな目を見たことがある。何処だったか…。「じゃなきゃ、大神くん。君はきっと、」


「ずっと寂しいまんまだよ…?」


 静かな教室に彼女の声だけが響き渡っていった。


 嗚呼、思い出した…。あの子の目だ。迷子になったとき、隣で手を繋いでいてくれたあの子の目に、似てる。


 ふと視線を逸らすとテーブルの上に広げられた数枚の写真が目に入った。そっとその写真に触れる。

 知ってる。この花もあの花も。父さんに教えてもらった…。

「ハルジオン…レンゲソウ…ハコベ…ネジバナ…ハハコグサ…チチコグサ…ワスレナグサ…」

 きっと彼女が撮ったものだ。

 一枚一枚を確認しながら名前を呟いていく。

 名前と共に、その草花が抱くあの頃の暖かくて幸せな記憶が通り過ぎてゆく。

 一瞬の間で、紺は唇を噛んだ。

「細かいところが写ってないからよく分からないけど、これは多分…」


 シャボン玉。

 くるくる虹色に回りながら、黄色の上に落ちて弾けた。


関東蒲公英かんとうたんぽぽ…」


 あの子が笑っている。「何してたの?」と言いながら。オレが父さんに教えてもらった知識を披露している。父さんの「これはどっちだ?紺」と笑いながら尋ねる声が蘇る。


「…今度は、細かいところも分かるように、撮って下さいよ?」

 小さく笑いながら静かにそう言って、紺は一瞬の時がちりばめられたセピア色の階段教室を後にした。


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