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バタフライエフェクト  作者: はるきここ
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2nd Captor香港の憂うつ

熱に浮かされた香港のホテルの屋上で、私はデッキチェアに横たわり、流れる雲を見ていた。風は止むことなく、青い空の間を瞬間に移動する。真昼私は、ホテルの屋上のプールで耐えきれない暑さをまぎらわせていた。 

ひょうたん型のプールを挟んだ向こう側には、ペーパーバックを読みふけっている太った白人と狭いプールを平泳ぎで何度も往復しているブルーのビキニを着けたアジア系の女性がいた。3人しかいないプールに私達の接点は宿泊客という共通点を除けばどこにもない。客が居ないと受付に座っていた浅黒く日焼けをしたアンディラウ似のスマートな従業員は、暇そうでローカル誌に目を通した後、プールサイドにやって来た。

「マダム、何か飲み物をお持ちしましょうか?」

微笑をたたえ英語で声をかけられる。ホテルのロゴ入りポロシャツと白いパンツがその顔立ちに似合っていた。私は、丁寧にお礼と必要がない事を伝えると、彼は「承知しました。何かございましたら遠慮なくおっしゃってください」と恭しく頭をさげた。そして、プールサイドを歩きながら何かを点検し、今度は読書中の白人に遠慮がちに声をかけた。白人は、顔をあげうるさそうに必要ない事を告げると立ちあがり、プールを出て行った。従業員は白人を見送り受付に戻った。

私は、空をあきるまで見つづけ、時にうとうとし、時間の過ぎるのを待っている。そして浅い眠りから覚めると、乾いた喉をうるおす為に、ミネラルウォーターを飲み、空を見る。見飽きると息が切れるまでプールで泳ぎ、プールから上がるとサンスクリーンを全身にぬる。その繰り返しをしていた。プールまで届かない外の喧騒は、ボリュームを絞ったバッハのクラッシック音楽で包まれ、地上の90%を越す湿度も、にせものの時計を売りつけようとするしたたかな売人も関係ない快適な空間だった。考える時間は限りなくあり、しかし思考が止まってしまっている時間、すべてから開放された感覚。そしてそれは、ここにいる限り永遠のように感じる。私は、思考が止まったまま、やがて誰もいなくなってしまったプールサイドで1時間も過ごすとすっかり飽きてしまった。そして、このまま6月の上旬早々に取得した夏の短期休暇は、終わる、そう思った。

 

翌日の夕方、案内されたゴーズウエイベイの上海料理店は、店の外まで客が並んで待っていた。タイムズスクエアの左側にある通り沿いの日本の定食屋を思わせるその店は、混んではいたがサービスが決して良いといえない店員の乱暴ともいえる客のさばき具合によって、食べ終わっても長居はできず、客は席を立たざるをえなかった。おかげで回転の早いその店で、私達はほとんど待たずに地元のカップルと相席という形で、テーブルにつくことができた。

「みゆきちゃん、どうした?なんだか元気無いわね。疲れた顔してる」

「ごめんなさい、湿気がすごくて。日本もそろそろ本格的に梅雨入りしそうなんだけどね。それにしてもこの中は寒いね」私は、CKのTシャツを着ていて、寒さに震えながら腕をさすった。加奈は、ストライブの長袖のシャツを着ていた。

香港の持つ独特の熱と湿度に私は少し参っていた。しかし、室内は極限まで冷房を利かせ寒い事この上ない。だが、疲れている理由がそれだけではないと加奈は、察知している。

店員が誰かに大声で話しながら、ジャスミンティがたっぷり入ったティポットを私達のテーブルに持って来た。そして、テーブルにセットされていたティカップに手際よく注ぐと、それを乱暴に置き、別の客の注文を取りに行った。私は、ジャスミンティを一口飲んだ。熱いジャスミンティは、私を落ち着かせた。そして、店に入るなり渡された漢字だらけのメニューを開き見たが、加奈に任せることにしてすぐにメニューを閉じた。加奈はビールがほしいかだけ聞き私が首を振ると、店員を呼び広東語で豆苗の炒め物、春雨入りスープ、ショウロンポウを頼んだ。店員は急いで注文を厨房に伝えに行った。落ち着かないし、すべてに置いてせわしなく、香港中国人の貪欲さを垣間見た気がしたが、嫌いではなかった。金融と流通の要所である香港の活気は熱となって東アジアを駆け抜ける。中国に返還されたが特別行政区として機能しており、その中でいかに稼ぐかは、資本主義経済において基本だと思うからだ。

「そうね。でも湿気も冷房も慣れると平気。むしろ心地良いくらいよ」

「さすがね、どこに居ても加奈ちゃんらしい。更にタフになったみたい。なんだか元気がでてきた」

「ここで生きていくのに柔じゃ生きていけないのよ」

そう言って加奈は、ジャスミンティを飲み私を見てしみじみと続けた。

「本当に久しぶりね。最後に会ったのが、私の実家だったわよね?ほら、私がこっちに来る前に皆でご飯食べたじゃない」

「そうだったね。だから3年ぶりかな」

加奈が結婚して香港に移る前、加奈の実家で送別会のような食事会を加奈と私の家族で開いた。加奈の夫であるデビッット・リンが、とても家族に気をつかっていたのを覚えている。その送別会に秋幸はいなかった。

短い休暇を香港で過ごそうと思った理由の一つに加奈との再会があった。加奈が外資系コンサルティング会社で働いていた時、香港支店からの出向で東京のオフィスに派遣されていたデビッド・リンと知り合った。デビットは、カナダ国籍を持っていた。加奈もカナダに留学していた事があり、その共通項で意気投合したようだ。デビットが香港に戻ることになり、二人は結婚し3年前から香港に住んでいる。


私が就職した年、IT業界はネットバブルがはじけ内外共に栄枯盛衰が激しく、熾烈な戦いを強いられ強者が弱者を飲み込むというM&Aが盛んだった。しかし、アイデア一つで弱小企業が大企業に変貌する可能性はまだ他の業界より秘めていた。歴史と伝統を重んじる企業であれば二の足を踏む試みでも、ベンチャーはいとも簡単に挑戦していた。時代の潮流は、若きカリスマ達が牽引していたが、気を抜くと足元をすくわれナスダックに上場しているベンチャーの株価は暴落していく。そんな時代に突入していた。

テクノロジーの進化はとどまるところを知らず、時代はどんどん進んでいく。そのトレンドを追いかけたい。そして、それは時代と共に走ることであり、私もその一員になりたかった。

ちょうど私達の年代は、就職氷河期と呼ばれる時代の真っただ中で、有効求人倍率は1を割っていた。しかしIT業界は、ネットバブルがはじけたとはいえ、米国ほど深刻ではなく、新しい時代に向けてまだ勢いがあった。私はITベンチャーの中でも比較的大手企業の試験をうけた。面接ではこの時代の面白さを熱心に語り、3次面接を通過し内定をもらった。早々に内定を貰った私は、同級生の妬みやひがみを受けたが、気にも留めなかった。本当に大切なことは別にある。どんな物事にも状況にも意味があり、時間が経過すればそれらが別の形で目の前に現れてくると、私は思っている。「柔じゃ生きていけない」と言う加奈。大げさではなく生き抜く力が必要なのだ。


店内は、香辛料と大蒜の匂いが充満し食欲をそそる。しばらくして、私達のテーブルにも湯気をあげて料理が次々に運ばれて来た。湯気は、あっという間に冷房の風にかき消された。

食事が終わると加奈に「ヴィクトリアピークには行った?」と聞かれた。

「まだ行ってないの。昨日はね、朝ネイザン通りを散歩して、暑くて死にそうだったからホテルのプールに逃げて、その後セントラルまで出て、ランドマークでマークジェイコブズのヒールを買ったのね。それからあてもなく歩いただけ。帰りにソーフォーのピークバーで、一人で飲んじゃった」

加奈は微笑み、勢いよく立ちあがった。

「そう、じゃあ行こう」


 ヴィクトリアピークの頂上は、風が強く、たち込めている濃い霧もすぐに吹き飛ばしてしまう。だがそれは、たえず繰り返され視界は十分ではなかった。それでもヴィクトリアピークの展望台からの夜景は幻想的だった。100万ドルの夜景とはよく言ったもので、闇の中で浮かび上がる高層ビル群のオフィスや家庭の灯りが下界に現れ、ヴィクトリア湾をはさんで九龍側まで見わたせる光は霧の所為で滲んで見えたが宝石のように怪しく瞬いていた。夜になっても相変わらず暑かったが、風が強いのでそれほど不快な感じはしない。頂上は観光地特有の整備がされており、ショッピングセンターや古い邸宅を改装したレストランがあり、香港のビッグスターでマンダリンオリエンタルホテルから飛び降りたレスリーチャンの映画撮影に使われたというカフェがあった。そして私達がいる展望台は端から端まで人で埋め尽くされていた。それほど期待していなかったヴィクトリアピークの夜景は、想像以上にずっとエキゾチックで美しい。だがその闇の中で、仕事の虚しさとそれによる煩わしい事柄が私の頭の中を駆け巡った。


企業が利益を追求する事は当然であり、それで私達の生活は成り立っている。入社から5年の間にネットワークの進化は加速し、世代を問わず個人ユーザが気軽に利用できるまでになっていた。インターネットが大量のデータを送受信できるようになり高品質なオンラインゲームや動画、SNSをはじめとした新しいサービスが台頭してきている。携帯電話は、2Gから3Gが主流となり、ワンセグに対応しテレビまで視聴できるようになっていた。その時代に上手く対応して行き、会社はますます大きくなっていった。「事業管理」「情報システム」、「ICT」、「オンライン」「エンタープライズ」、「コンシュマープロダクツ」と多岐にわたる事業部の中で、私はコンシュマープロダクツ事業部に所属し、マーケティングコミュニケーションを担当していた。それは、いかに消費者に買ってもらう仕掛けを作るかにかかっている。プロダクトマネージャーが市場での売上を予測し、中長期の売上目標をたて、市場投入する卸値および人件費や販売管理費などを含め、ブレークイーブンを想定する。注力度が高い製品に関しては、ブレークイーブンを先延ばしにしても販促費の予算を上げる。市場のトレンドは常に変化するため、これらの予測も机上の空論といわざるを得ないところもあったが、私たちチームは、一般ユーザに売るための仕掛けを作るかがミッションだった。そして、プロダクツの発売を逆算し、Webサイト、カタログ、広告、量販店でのディスプレイやキャンペーンなどを考え制作する。更に、プレスを打ち、メディアキャラバンをし、いかに優れた製品であるかを記事にしてもらうといった作業を分担して行う。製品に力があることが前提だが、スペックがほとんど同じような競合他社の製品と差別化が難しい場合は、特に仕掛けが重要になる。その仕掛けが上手くいけば、飛ぶように売れる。トラブルは、毎日のようにあるが、やりがいがあり、楽しくてしょうがない時期もあった。どんなに帰宅が遅くなろうとも、会社の利益に貢献し、モチベーションも上がり自尊心は満たされていた。例えそれで恋人と上手くいかなくなったとしても。しかし、それも毎日のように日経新聞に目を通し、自社製品のシェアと売上を追うにつれ、何か大事なものを失っていくような気がしてならなかった。何か欠けている、なんとも言えない喪失感。まるで、無酸素登頂を目指す登山家が、極限状態で水を求めるように。最先端のテクノロジーは、ユーザに夢や希望や喜びを与え、それらは大量生産、大量消費の中であっても資本主義経済の中で成立する光であると認識している。だが一方で、その影には製品の製造をアウトソーシングし、安価な労働賃金と過酷なノルマで働かされ人間としての尊厳を失い自殺に追い込まれるケースもある。私は大げさに言えば、資本主義経済の中で疲弊していた。香港の熱が再び高揚を呼び戻すのではないかと期待していたが、ゴーズウェイベイのレストランに居た店員のようには戻れないと感じてもいた。

「きれいでしょ?」隣の加奈が遠い目をした。

「とっても。あまり期待してなかったから驚いてる」

 加奈が私をみて微笑む。

「ごめんなさい、期待していないと言ったのは、有名な観光地だし・・・」

「いいのよ、みゆきちゃんの率直なところ好きよ」

 加奈は、再び微笑みヴィクトリア湾に視線を戻した。

「人工的な美しさね」

「自然と人工的なものとは、どっちが好き?」

「そうねえ、今はこっちかな。一応香港人になろうと努力をしていますから」

「そうなんだ。自然の方が好きかと思った」

「ここはね、ビジネス、ビジネスなのね。リッチになることが価値観のすべてだったりするの。デビットも起業してリッチになるって。私は、どんどんやりなさい、って言っているの。とことんやるだけやって駄目でもまた挑戦すれば良いことなんだから」

 仕事が楽しくて仕方ない時は、私もそう思ったかもしれない。しかし、今はそんな心境にはなれなかった。

「みゆきちゃん、アキから連絡はある?」

 加奈が唐突に言った。視線の先は、ヴィクトリア湾のまま。

「年に一度か二度、グリーティングカードがメールで送られて来るくらいかな。ありきたりな挨拶と一緒に」

そこに特別なメッセージは一切なかった。

「そう」

「元気でやっていると良いけど。9.11の時も生き延びているから相変わらずかな?」

「さすがに、9.11の時は心配したわね。アキから連絡が入った時は心底ほっとしたもの。その時ね、あの子みゆきちゃんにもちゃんと伝えてほしいって何度も念を押したのよ。自分から伝えなさいって言ったんだけど、喧嘩しているからって。ばかみたいじゃない。そこで意地はってどうするのよねえ?」

 立ちこめていた霧は、いつの間にか晴れ、絵ハガキのような夜景がひろがっていた。眠らない街。さまざまな言葉が飛び交い、人々は夜景をバックに一斉にシャッターを切る。誰が撮影しても、絵ハガキのようになりそうだ。

「まだ、仲直りしてないのね?」私はうなずいた。

「怒らせちゃったまま。あやまってもないの。でも、クリスマスに届いたグリーティングのイラストはね、間抜けな顔したサンタさんだったのね。すごく笑えて。もう怒ってないんじゃないかなって」

 

大学3年の早春、休学届を提出した秋幸は、前々から予告していた通り、しばらく放浪すると言って、部屋は残したまま旅にでた。沢木耕太郎の「深夜特急」をたどるかのように東南アジア、インド、中東を抜けて、ヨーロッパへ駆け足で半年間の旅。神谷先生の店に入り浸っていた夏が終わると、単位を落とすことなど気にする風もなく、昼から深夜にかけてカラオケ店でバイトをし、旅の資金を貯めていた。鬱々としていた夏が終ると同時に秋幸の中で起こった具体的なプランだった。ところが、香港、マカオ、ベトナムを回った後、出発から1ヶ月も経たず突然帰国した。プランのほとんどを消化しないまま。そして、吉祥寺のワンルームを引き払いニューヨークへ行くと言い出した。ベトナムで出会ったアメリカ人と恋に落ち、マンハッタンに住み、二人で創作活動をすると言って。それを聞いた私は、秋幸のワンルームで言い争いをした。ニューヨーク行きを反対したのは、実際のところ私だけだったかもしれない。

 秋幸のワンルームは、すでに段ボール箱があちらこちらに散乱していた。洋服やCDが無造作に入ったまま、まだ梱包されてない山積みの段ボール箱。それに大量の本が床に散らかったまま。コンピュータを使って絵を描いている秋幸は、画材道具より本の方が圧倒的に多かった。例えばエミールガレやドームの作品集、著名な写真家の動物や風景や廃墟の写真集などで、かさばるものばかりだった。その中にPOP Artに関する本は一冊もない。

「ねえ、本気なの?本気でニューヨークに行くの?」

「もちろん。本気だって」

秋幸は、Stussyのパーカーの袖を肘まで上げ、かさばる重い本を丁寧に段ボール箱へ詰めている。私は、散乱した本を隅によけ、秋幸を見下ろしていた。

「旅行にちょっと行くのと違うのよね?向こうの大学に行くのとも違うのよね?ちゃんと向こうに住んで、創作活動するのね?」

「だから、さっきからそう言ってます」

「生活はどうするの?こっちのようには行かないよ、きっと」

「なんとかなるから、心配すんなよ。最初はさあ、彼女のところにお世話になろうかなあと思って。ほら、ベトナムのホイアンで彼女に出会った時にさあ、運命感じたんだよね、俺」

 運命を感じた?ばかじゃないの。ばかばかしくて私は呆れた。

「ちょっと待ってよ。じゃあ、あゆみちゃんはどうするの?あんた達、付き合ってたわよね?」

「ああ、あゆみとは別れた。言ってなかったっけ?まあ、バイト仲間だっただけってことで、あっさりしたもの」のんびり言う秋幸。

「どうして、男っていつもずるいんだろ?都合良く解釈するよね。それで、旅先で知り合ったアメリカ人を好きになったから別れてほしいって言ったわけ?あゆみちゃん、納得してないでしょ?成田で、この世の別れみたいな顔してたじゃない。ホント呆れる。始めからその気がないなら、付き合わなきゃいいのよ。誰にでもいい顔して、最低ね」

 私は腹を立てていた。二人の付き合いがどれほど深いものか知らない私は、正直そのことは怒りのきっかけでしかない。その怒りがどこから来るものなのか、その時の私はまだ気付いていなかった。私は、秋幸の短絡的な決断が理解できなかった。秋幸は、ベトナムのホイアンで旧市街をスケッチしていた時、スケッチブックを覗いき込む女性と意気投合し、しばらくベトナムを二人で旅した。彼女は、映像作家を目指すニューヨーク大学の学生で、ビデオカメラを持ち、秋幸はスケッチブックを持って。旅先で出会った女性と恋に落ちることはあるとして、その女性と大学を辞めてまで、ニューヨークで共同創作活動するということが理解できなかった。確かに秋幸は、ある種枠に当てはまらないタイプだと思う。旅は旅のまま、非日常であることで、普段気付かないことを気づかされることもある。しかし、秋幸のすることは、ほとんど展望が見いだせないとその時は思っていた。生活するにはそれなりの生活費がかかるし、ましてや大学を辞める事を反対された両親を説得する代わりに援助を受けないと決めた秋幸が、バスキアのように絵を描き路上でポストカードを売って生活できるとは、微塵も思えなかった。しかも生活コストがかかるニューヨークで。秋幸は、本を片づける手を止め、ベッドに座った。

「あのさあ、俺も一言いっていいかなあ?」

 そう言って深い溜息をついた。

「何よ?」

「みゆだって人の事言えないよね?大して好きでもない男と付き合ってたよね?じゃないと俺と寝ないよね?」

 あの時私は、身体の奥から熱くなり、全身がふるえ、足元から崩れ落ちそうになるくらいのショックを受けた。言い返したいがしばらく言葉がみつからなかった。

「あんたなんか、絶対にバスキアになれない。才能が無いことを思い知るといいわ」

 私は、秋幸にとってこれ以上ない屈辱的な言葉を冷たく言い放ち、ワンルームを出た。秋幸の部屋に来てからずっと流れていたAIRの曲が、突如部屋を去る時大きく響いた。


 明日のために今日を

売り渡さない者だけが知りえる

グローリー 手がとどくまで


どこに居ても、誰と何をしても良いはずなのにどうしても素直に送り出せない。なんだかとても寂しくて、涙があふれた。季節は、確実に春に向かい、あたりは夕方から降りだした霧雨と新緑の濃密な香りに包まれていた。その中で、私は始めて強烈な孤独感に襲われた。

 

私は、6年たった今でもあの日の事を鮮明に思い出すことができる。秋幸の言葉と最後に言ってはいけないことを言ってしまったことを。グリーティングが届いても一度も返事を書いていない。心が一致したのは、あの日、AIRのライブの夜だけだった。


「アキに会ってくれば?あれから一度も会ってないんでしょ?確かめてくればいいじゃない?」

 加奈がセミロングの髪をかきあげた。ダイヤのピアスが光る。

「え?」

「あいつもね、意地っ張りだから、行ったきりで、一時帰国したと思ったら、用を済ませてさっさと戻っちゃうし。今だに大人になりきれなくて、後先考えるタイプじゃないから人に心配ばかりかけるけど、心のままに生きているでしょ。それって実は、すごいことなんだと思うのね。成功してもしなくてもそんなことは問題じゃなくてね。弟だから言うわけじゃないけど、本当に勇気がいるし、強くないと生きられない生き方だと思う。何をしていても、サバイブできる生命力っていうのかな、そういうのがあるのよね、きっと。いつの間にか追い越されちゃった感じよ」

「私もそう思う。だから・・・」

「だから、何?」

「だから、会えないし、会いたくない」

「そう言うだろうと思ったわ。あなた達、同類だもの。二人とも意地っ張りで、素直じゃない」

「悔しいの、なんだか悔しくて」

 私は、ずっと悔しかった。秋幸は、子供の頃から変わっていない。秋幸の正直さは、ときどき私をいらだたせてはいたが、それ以上に羨ましくもあった。そして、揺ぎ無い強さを。例えば、何もない砂漠に置き去りにされ、どこにも助けを求められない状況に陥ったとしても、秋幸なら想像力を全開にし、生きて帰る方法をみつけだしそうだ。だから、実際に9.11が起こった時も私は、それほど心配しなかった。秋幸はそんな理不尽なことでは死にはしないと。秋幸と対等になりたい。私は、秋幸の生き方と存在に嫉妬していた。

「みゆきちゃん、アキはね、みゆきちゃんがいるから、踏ん張っているの」

「まさか。アキは誰にも振り回されないし、誰にもゆれたりしない人じゃない」

『バタフライエフェクトだな』海岸で秋幸がそんなことをつぶやいた事があった。好奇心旺盛な秋幸が、何かにインスパイされたとしても、それを自分の中で消化、咀嚼し絶対に同化しない。だから、私は秋幸がどこで誰と何をしようと平気だった。ニューヨークに行ってしまうまでは。それは、インターネットでは埋まらなく遠すぎた。

「私に言わせれば、みゆきちゃんも負けてないわよ。自分じゃ、よくわからないでしょう?」

「そんな、私は、ダメ。アキのようにはいかない。そのことを自覚しているところなの」

「みゆきちゃんもアキと同じだと思うけどな。二人は本当に似ている。アキはね、さっきも言ったけど、どうしようもないところもある、女の子にだらしないしね、それでも、みゆきちゃんの言葉は真剣に聞いていたと思うのね。アキも悔しいのよ、みゆきちゃんに言われた事がこたえているから」

「アキはお姉ちゃんに昔から弱いんだから。なんでもしゃべっちゃう」

「そうじゃないの、みゆきちゃんがアキに何を言ったのかは知らないし、気を悪くしないで。本当よ。嘘じゃないわ。アキがね、日本を立つ時、見送りにこなかったでしょ?人並みの感受性があれば、何かあったってすぐにわかるわよ。いつも調子良いアキの様子もちょっと変だったし。で、問い詰めたわけ。そしたら、悔しいんだって、それだけ何回も言うの。きっと、みゆきちゃんに反対されて、何か言われたんだなって、思ったわけ。そしたら、喧嘩してるって9.11の時言ってたから」

「やっぱり、私はアキのようにはいかないわ」


 中環から尖沙咀までのほんの10分の間、生温かい風が容赦なく顔にあたり、緩やかに揺れるスターフェリーの中で、これまでの情熱が完全に溶けていくような気がした。たびたび秋幸の言葉がよみがえっては消える。

『ゴールはまだ遠いよ』

あの夏、秋幸は毎日のように神谷先生の店に入り浸っていた。そして、めずらしくどこか鬱々としていた。気になってはいたが、私は揺れ動く自分の気持ちを抑えることで精いっぱいだった。


始めてAIRを聴いたのは、その年の2月の上旬先輩の家で開催されたホームパーティーに招かれた時だった。パーティーの口実は何でもよく、就活に向けての決起大会といった様子だった。資産家の息子である先輩の部屋は3LDKで、学生には十分すぎた。先輩は、実家のビル経営と不動産業を継ぐことが決まっていた。

広いリビングのテーブルにフィンガーフードが並びジャンパンやビール、ワインが大量に用意されていて、パーティーはすでに始まっていた。知っている顔も知らない顔もそこにはいて、かなりの人数だったのを覚えている。そして、これから本格的に始まる就活に向かい誰もが不安を抱えていた。就職氷河期に突入しており、内定率は下がる一方だったが、自分に限ってはという淡い想いもどこかにあり、その日は皆陽気に騒いでいた。私は、当時付き合っていた恋人と駆け付けた。彼は、その先輩の友人だったが、あまり好ましく思っていなかった。恵まれた環境の中で育ち、順調に将来を決めていく先輩を許せなかった。それは、見苦しい妬みに他ならない。確かに、どこにでもいるお金持ちのおぼっちゃまタイプだったが、人が良く皆に好かれていた。人の話を聞くのが上手で、私の恋人の話も良く聞いていた。そして、いつも感心していた。恋人は、妬みを抱く必要はどこにもなかった。なぜなら、不況の嵐は、先輩の事業にも吹き荒れたのだから。一年と立たず、かなり苦しい立場に立たされたようだと風の噂に聞いた。

クラスメイトの千夏がまだ先輩と付き合っていた頃、私はスノーボードに誘われ先輩や彼女達のグループと一緒に新潟まで出かけた。恋人は、その企画に参加してはいなかったが、その後先輩が事あるごとに企画する飲み会に一度だけ顔をだした時があった。私は、見慣れない顔の隣に座った。初対面のたわいない話の後、彼に「海外だったら今どこに行きたい?」と聞かれた。私は、とっさに「ベルリン」と答えた。「ベルリン天使の詩」という、古い映画を見たばかりでそう答えたのだ。彼は、嬉しそうにうなずいた。ドイツ語を専攻していたのだ。それから話は、ナチスドイツ占領下のユダヤ人迫害の話になり、ユダヤ人の財産がいかにドイツ民族主義を掲げた国家に収奪されたかを時間軸を追って話した。私の周りにはそんな話をする人がいなかった事もあり、もっとこの人の話を聞きたいと思うようになった。付き合い始めてまもなく私は彼の脆さに気付いた。インテリだったがおおらかさに欠け、自分を守るため、あるいは現実を直視できず理論武装する。自分の世界しか認められない。本当のところはなにもわかっていない。わかりたくなかったのかもしれない。危うく、脆い。何かに深く傷ついている、そんな気もした。それが何かわからないまま、私はその脆さに寄り添いたいと思った。しかし、私は未熟で心を開ききれない彼のその何かを知ったところで、何もできないと思いなおした。弱さは弱さでしかなく、誰にも助けられない。自分自身で強くなるしかない。パーティーでかかっていたAIRの曲は、まさにその弱さと対極にあった。

カウンターキッチンで、持参した旬のフルーツをガラスボールに盛り付けている時、先輩がそっとAIRのライブチケット2枚を私にくれた。

「俺、行けなくなっちゃったからさ、あいつと行ってこいよ。あいつもライブくらい行ってたまには、はめ外した方がいいんだよな」

 先輩は、恋人と交代したテレビゲームに夢中になっている彼をちらっと見た。先輩も恋人の脆さを知っていた。恋人は絶対に行かない、そう思ったが、私はそのチケットを貰い、一緒に行く相手は秋幸しかいないと思っていた。

 秋幸とライブに行った後は、なおさら自分の気持ちを持て余していた。あの夜、私達はとても自然に抱き合った。そうなるしか方法が無くお互いの熱を求め合い確かめ合った。恋人の事は、一切頭の片隅にもよぎらなかった。秋幸とのSEXは全く別の次元の別の世界のものだった。しかし、その日の興奮が醒めた朝、私は、秋幸の揺ぎ無い強さに癒しを乞い、目の前の快楽に溺れただけなのかもしれないと思い始めていた。私は、恋人との関係に疲れ始めていたから。

恋人は総合商社を希望し就職セミナーに参加したにも関わらず、就活を辞め大学に残る道を早々に決めてしまった。もちろん言い訳はした。研究がしたくなった、それが自分に向いていると。商社マンになりドイツに住みたいと何度も語っていた夢は、実現不可能だと戦いもしないうちから決めてしまったように思えてしかたなかった。弱い自分を認められない、弱い自分を私に見せたくない、精一杯の言い訳。そんな生き方もある。支えたかったが、どうしようもなく醒めていく。そして計画していた沖縄旅行は、彼とではなく、女友達と行った。恋人に対する気持ちが急速に醒めていき、あの夏、太陽が昇る海岸で別れを決意した。それは、秋幸と寝たことではっきりしていたと今なら言えた。私は、社会人になってからも二度恋をした。学生の頃よりずいぶんましな恋をしたつもりでいたが、秋幸と寝た時のような幸福感を味わえていない。またそれが、とても悔しくてしかたなかった。


『ゴールはまだ遠いよ』酔った秋幸が、何を思ったかあの夏、突然そんな事を言った。秋幸は、ときどき何の脈絡もなくそんな事を言う。だが、それは核心をついている場合がある。秋幸はゴールに近づいているのだろうか?私は今、ゴールどころか、行く先も見失いそうだ。

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