流れる水をそのままに
「ねぇ、秩序ってどういう意味かな?」
千鶴に聞かれて俺は首をかしげた。普段、なんとなくその言葉を使っているような気はするけど、そう改めて聞かれるとよくわからない。そして、その質問をした意図も同時に、わからなかった。
そのときの俺はただ、自分より一つ歳が下なだけなのに千鶴はやけに子どもじみている、とぼうっと思っただけだった。
千鶴が死んだのはその、二日後のこと。遺書と思われる手紙を残して、自宅マンションからの飛び降り自殺。
「生活、そうとう苦しかったらしいわよ」
主婦の噂はいちいち俺を苛つかせた。千鶴のことを知らないで、ただ自分の周りで事件が起きたからそれをネタに立ち話を延々と続ける。その悪びれない態度がどうしようもなく頭にきた。
実際は、千鶴がお金のことで困るはずがなかった。父は大企業を抱える社長。母はその秘書をやっていて、家も高級住宅街に大きく聳え立っている。ただ、大学へ進学し、一人暮らしを始めるときに自分の力でなんでもできるようになる、と親の援助を一切受けずに家を出てきたのだ。子どもの頃から少しずつ貯めていた貯金でマンションへ引越し、勉強の合間にするバイトで生活費を稼いでいた。
「お嬢様とか、そういうふうにいわれるのが嫌なんだ。自分じゃ何もできないよね、って言われてるみたいでさ。あたしは普通なんだけどな」
いつか千鶴はそう言っていた。ただ、その笑顔は普通ではない特別な美しさがあって、それが育ちのせいか、生まれつきなのかわからなかったけれどとにかく俺の頭にはそれが心地よくひかって見えた。
暗い病院の一室で横たわる千鶴もまた、美しさで満ちる寝顔をしていた。決して飛び降りたあとだとは思えない安心しきった顔だった。不謹慎かもしれないけれど、一緒に寝た日の朝を思い出して、今にでも目の前の千鶴が動くんじゃないかと思った。
「まだ、寝たりないよぉ…」
そう言いながらも眠い目を擦って、大きくあくびをする。千鶴は目が悪いから、きっとそのあとに眼鏡をかける。そうやって朝が、新しい日が、始まる。
それが幸せだと気がつくのに、ずいぶんと時間がかかった。もう叶わないただの俺という弱い人間の非望はあまりに現実味がなかったからだ。
例えば千鶴と俺が向き合っていて、そこに突然深く大きい地割れが起きてしまったような絶望だった。―飛べば、空を飛べば逢いにいける。いくら強く思っても羽は生えることはない。 大きな地割れなんてものだって十分非現実的なものなのに、飛ぶことだけはできない。俺の心が悲しみで満ち、やがてそれでいっぱいになって目から零れ落ちると、次に心を満たしたのはそんなやるせなさだった。
千鶴の母は千鶴によく似た美しい流れるような輪郭を濡らして、父は大きな肩を小刻みに揺らして押し黙っていた。それぞれが、それぞれの思い出を含んだ魂の雫がたえず流しているはずなのに部屋はおそろしく乾いている。空気によく似ているけどまったく別な気体でどうにか呼吸しているような気がした。
「忠直くん…。あなたに、これを…」
千鶴の母が遺書を差し出したのは、それから十分あと、一時間あと…とうに感覚は狂って一日たったようにも感じられた。一文字、一文字を大切に伝えるように千鶴の母は言う。そして温かい手で俺の手にその遺書を握らせた。
「あなた宛だと思うの。中は見てないのだけどね、千鶴のことだから」
俺はふいに目を閉じたくなった。いや、正確には、その場で死にたくなったのかもしれない。俺はすべてを放棄して、無になりたいと思った。千鶴がたとえ、どんな思いだったとしてもきっと、死ぬということはそうやって目を閉じたい世界が広がっていると感じてしまったからなのだ。こんな気持ちを千鶴は笑顔の下で感じていたのかと思うとこっちだって、耐えることはできない。
それでも千鶴の母は小さなかすれ声で読んで、と促す。声は俺の頭の奥まで届いて手を勝手に動かした。
白い紙の上では千鶴の丁寧な文字がびっしりと並んでいた。所々、インクが滲んだ場所を見つけると心はいちいちめちゃくちゃに割れたように痛んだ。
― タダナオへ
あたしは「おはよう」と「おやすみ」というタダナオの声を毎日、起きた瞬間、寝る寸前にそれぞれ聞きたいとずっと思ってた。それから、あたしの手作りの料理を前にして、「いただきます」。なにものっていないお皿を前にして、「ごちそうさま」というのも言いたかった。あたしたちが歩く間には無邪気でかわいい子どももいて、それからタダナオが好きな犬も連れて、遊園地とか、なんにもない草原とかに行くのもいい。それであたしはタダナオのとなりで、「これが幸せなんだなぁ」って呟いてみたり。明るくて、まぶしくて、ちょっぴり恥ずかしいあたしたちの未来をあたしはそんなふうに思い描いていた。そしてあたしは信じている。同じことを、タダナオが望んでいるということを。もしかしたら、「幸せだなぁ」の呟きが重なるかも。
とにかく、あたしたちにはそれはもう幸福の塊のような未来が存在していたよね。
だから、ごめん。ごめん、という言葉はもうこれを読んでいるときにはあまりにちっぽけな台詞でどうにもできないかもしれないけれど、ごめんなさい。償うにも命がなくなっているはずだから人間の言葉っていう発明を借りるしかないんだ。
今、外は晴れて、風が吹いているよ。とても気持ちがいい。あたし、こんなに気持ちがよい日はよく遠い昔に行ったハイキングのことを思い出すんだ。友だちと初めて遠くに出掛けた日。お父さんはヘリで上空からあたしを監視しないと心配でいられないって大騒ぎだったけど、当のあたしは大きな声で歌を唄いながら、丘の上で転がってた。それがあたしにとってはすっごい特別なことに感じて、よくお母さんやお父さんとこういうところにくるよって言った友だちがとっても羨ましくて、家に帰るのが少しだけいやになった。丘の上ってね、風があたしたちをすごく優しく抱いてくれるんだ。あたし、それからちょっとずつ、普通に憧れていった。
タダナオは、あたしをそんな普通の世界に引っ張り込んでくれた。普通に、人を愛することを教えてくれた。お父さんが反対したときも、あたしを思う心を決して折らなかった。あたしはそれで涙が流れて、本当の『人』っていうのをタダナオに感じた。
あたしはね、病気みたいなんだ。そうやって、タダナオのことを感じるたびに、距離を感じていくんだ。嬉しいと思うたびに普通の人らしくしている自分がいるな、って勝手に思って。あたしはちゃんとした人なのに。それで、そうやって思うと止まらなくなってあたしはあたしの中にもう一人のあたしを生んでしまった。自分が嫌いなあたしと、幸せな未来を思うタダナオの彼女であるあたし。それがごちゃごちゃになって、あたしは爆発しそうだった。タダナオはきっとあたしのことをわかってくれる、と信じると一方のあたしはすごく安心して、もう一方のあたしがひどくタダナオを避けていた。それが『メビウスの環』のように表裏一体であたしというものを作っていて、それであたしは正しく、そうあるべきことに身をゆだねてみたら裏のあたしがわずかに勝って、あたしは決意した。たぶん、地球は何も掴んでいないあたしを引っ張って、あたしは地面に叩きつけられる。
それがきっと、そうであるべきこと…秩序だ。
最後まで勝手でひどい女でごめんね、だけどあたしはタダナオが好きだった。自分を責めたりしたらあたしはきっと成仏できないから絶対にそんなこと思わないで。本当にごめん。それからお父さんとお母さんも、ごめんなさい。勘違いしないでほしいのだけど、普通に憧れたのはお父さんとお母さんの作った暮らしのせいじゃないからね。あたしはちゃんと、一人暮らしを快く、あたしがちゃんと成長できるように認めてくれた二人を知ってる。あたしの勝手な性格が悪いんだらかね。それじゃあ…
ありがとう。
「死ぬ前まで…」
一緒に読んだ千鶴の母は言う。
「死ぬ前まで、そう思ってたのは本当にあなたを愛していたんでしょうね。千鶴はきっと、その気持ちが溜まりすぎて、どこかで跳ね返ってしまったんだと思います。あなたと一緒に過ごすくらいじゃ伝えられない大きな愛を」
かすれてはいるのだけど、涙が止まっていて、真剣なまなざしをしていた。
俺たちはわかっていた。自分を責めても、命を引き換えにしても、千鶴は眠ったままのことを。遺書にあるように、千鶴の最後の優しさに甘えるしかないことを。
家に帰って再び流れた涙は、かがんだ俺の顔から床にぽつ、と落ちた。秩序に従い、下へ落ちるその液体を俺はなにも考えないで見つめた。