『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』と言われたので、婚約者の浮気の証拠を王都中にくばりました
第一章 美しい男には気をつけろ
私は、美しい男に弱い。
これはもう、病気である。
自覚はある。治療も試みた。幼い頃には美男子の肖像画を毎日眺めて耐性をつけようとしたし、十六歳のときには修道院で一週間の精神修養も受けた。
結果、肖像画を描いた美青年画家に恋をし、修道院では若い神父様に一目惚れした。
母には泣かれた。
「エレオノーラ。あなたは頭もよく、礼儀作法も完璧で、領地経営の才能まであるのに、どうして男を見る目だけが腐っているの?」
「お母様。腐っているのではありません。視力がよすぎるのです」
「中身を見なさい!」
「顔の中身ですか?」
「心の話よ!」
もっともな忠告だった。
しかし、私は聞かなかった。
そして二十四歳になった現在、人生最大の失敗を犯している。
「エレオノーラ、お前は少々嫉妬深すぎる」
目の前の婚約者が、形のよい唇を不満そうに尖らせた。
アーヴィン・ド・ラングレー伯爵令息。
金糸のような髪。青い瞳。高い鼻梁。長い睫毛。彫刻家が三年かけて造ったとしても、これほど美しい顔にはならないだろう。
私は彼を五年間愛していた。
五年間。
その間に彼の借金を三度肩代わりし、事業の失敗を二度救い、夜会服を十七着仕立て、宝石を十二点贈り、彼の好き嫌いに合わせて料理を研究した。
彼が肌荒れに悩めば美容液を調合し、太れば栄養管理をし、眠れないと言えば安眠効果のある香草茶を用意した。
私は料理と美容と健康に関して、王都でもちょっとした専門家なのである。
その成果として、アーヴィンは五年前よりさらに美しくなった。
そして今、その美しい男は、別の女を膝に乗せている。
「嫉妬などしておりませんわ」
私は微笑んだ。
「ただ、どうして婚約者の私がいる前で、ミレーヌ様を膝に乗せていらっしゃるのか伺っているだけです」
「彼女は足をくじいたんだ」
「椅子がございます」
「冷たいな。ミレーヌは繊細なんだぞ」
ミレーヌ嬢が、アーヴィンの胸に頬を寄せる。
「わたくし、エレオノーラ様が怖いですぅ……」
怖い。
なるほど。
怖い女の目の前で、婚約者の膝に乗る度胸はあるらしい。
「そうですか。では、医者を呼びましょう」
「えっ?」
「足をくじいたのでしょう? 私、健康管理には少々うるさいのです。患部を冷却し、固定して、必要なら専門医に診せるべきですわ」
「い、いえ、そこまでしなくても……」
「歩けないほど痛むのに、放置してはなりません」
私は呼び鈴を鳴らした。
「誰か! 医師を!」
「や、やめてください!」
ミレーヌが勢いよく立ち上がった。
そして、すたすたと歩いていった。
私はにっこりした。
「まあ。奇跡ですわね」
アーヴィンが舌打ちした。
「お前は本当に可愛げがない」
胸がちくりと痛む。
五年間、何度も言われた言葉だった。
可愛げがない。
気が利かない。
女らしくない。
少しはミレーヌを見習え。
そのたびに私は努力した。
彼の好きな服を着て、髪を伸ばして、料理を作り、彼が望むものを与えた。
愛されたい一心で。
「アーヴィン様」
「なんだ」
「私が用意した先月の事業資金ですが、帳簿を拝見してもよろしいですか?」
彼は露骨に顔をしかめた。
「また金の話か」
「事業に必要だとおっしゃいましたので、金貨三千枚をお貸ししました」
「返すと言っているだろう」
「ですが、事業所は閉鎖されていました」
「事情があるんだ」
「そして昨日、ミレーヌ様が金貨三千枚相当の宝石を購入されたと宝石商から聞きました」
沈黙。
ミレーヌがびくりと肩を震わせた。
アーヴィンは一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに笑った。
「なんだ。そんなことで怒っているのか」
「そんなこと?」
「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ」
私は瞬きをした。
彼は続けた。
「男には付き合いというものがある。お前は正妻になるんだ。少しくらい寛容になれ」
「……」
「第一、お前だって俺の顔が好きなんだろう?」
そう言って、彼は私の顎を持ち上げた。
青い瞳が近づく。
ああ。
美しい。
本当に、美しい顔だ。
五年間、私はこの顔を見るだけで胸がいっぱいになった。
少し笑ってくれるだけで嬉しかった。
指先が触れるだけで、夜も眠れなかった。
「ほら。怒るなよ、エレオノーラ」
彼は甘く囁いた。
「お前には俺が必要なんだから」
私はしばらく、その顔を見つめていた。
そして。
「……あら?」
不思議なことに、何も感じなかった。
胸が高鳴らない。
頬が熱くならない。
ただ、妙に気になるものがあった。
「アーヴィン様」
「なんだい?」
「鼻の横に吹き出物ができていますわ」
「は?」
「それと、お肌が乾燥しています。最近、私の美容液をお使いになっていませんね?」
「お、おい」
「目の下には隈も。お酒の飲みすぎです。食生活も乱れているのでしょう」
私は彼の顔をじっくり観察した。
あら。
あらあら。
五年間、恋という名の美肌加工がかかっていたらしい。
よく見れば、彼はただの生活習慣の悪い美男子だった。
「それから」
「まだあるのか!」
「口臭がします」
アーヴィンの顔が真っ赤になった。
「エレオノーラ!」
「胃腸の調子が悪いのかもしれませんね。お大事になさってください」
私は優雅に一礼した。
「婚約は破棄いたします」
「だから浮気くらいで――」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「浮気は構いませんの」
彼が口を閉じた。
「あなたが私のお金を盗み、私を馬鹿にし、私の努力を踏みにじったことが問題なのです」
「お前……!」
「それでは、ごきげんよう」
私は踵を返した。
背後から怒鳴り声が聞こえたが、振り返らなかった。
五年間の恋が終わった。
驚くほど、あっけなく。
そして翌朝。
私は印刷工房にいた。
「五万枚、お願いいたします」
職人の親方が目を剥いた。
「ご、五万枚!?」
「ええ。王都の全世帯に行き渡るくらい」
「いったい何を印刷するんです!?」
私は机の上に書類の束を置いた。
「婚約者の浮気の証拠ですわ」
親方はしばらく黙っていた。
そして、深々と頭を下げた。
「……お嬢様。うちの印刷機を全部使いましょう」
いい職人である。
第二章 王都の朝刊は私がいただきます
私の名はエレオノーラ・フォン・ヴァレンティア。
侯爵家の長女である。
ありがたいことに、我が家は裕福だ。
さらに私は、化粧品と健康食品の事業で個人資産を築いていた。
王都の婦人たちに大人気の化粧水『薔薇の朝露』も、私が開発した商品である。
ちなみに現在、王宮の侍女たちの七割が愛用している。
残り三割には試供品を配る予定だ。
「お嬢様」
侍女長のマーサが、印刷工房に現れた。
「本当に実行なさるのですか?」
「もちろんよ」
「アーヴィン様の浮気を、王都中に?」
「ええ」
「……素晴らしいと思います」
マーサは五十歳。
私が生まれたときから仕えてくれている。
そして、世界で最もアーヴィンを嫌っている女性でもある。
「ただし、お嬢様」
「何かしら?」
「印刷物の内容は慎重にお選びください。事実であっても、余計な表現を加えれば名誉毀損だと騒がれます」
「大丈夫よ」
私は原稿を見せた。
表題は、こうだ。
『ラングレー伯爵令息アーヴィン様の婚約契約違反についてのご報告』
その下には、婚約契約書の写し。
婚約者以外との不貞を禁じる条項。
浮気相手へ送った手紙の複写。
宝石店の購入記録。
そして、私の資金が流用されたことを示す帳簿の写し。
「感想は一切書いておりません」
「お見事です」
「さらに、各書類の原本は公証人の立ち会いのもとで保管済みです」
「抜かりありませんね」
「ただ……」
私は少し考えた。
「挿絵を入れたいわ」
「挿絵ですか?」
「アーヴィン様とミレーヌ様が抱き合っているところ」
「それは……」
「目撃証言に基づく再現図として」
マーサは腕を組んだ。
「お嬢様。私見ですが」
「ええ」
「どうせなら、彼がミレーヌ嬢を膝に乗せているところがよろしいかと」
私は手を打った。
「マーサ! 天才だわ!」
「恐れ入ります」
ちなみにその挿絵は、のちに王都で大流行することになる。
だが、この時点では私たちは知らなかった。
たった一枚の絵が、ひとりの貴族令息の人生を完全に破壊することになるとは。
さて。
印刷には時間がかかる。
その間に、私は弁護士を訪ねることにした。
アーヴィンへの貸付金。
婚約契約違反による賠償金。
事業資金の不正流用。
すべて回収する必要がある。
王都で最も優秀な弁護士を紹介してもらったところ、指定されたのは王宮近くの法律事務所だった。
「失礼いたします」
扉を開ける。
そして私は。
人生で二度目の衝撃を受けた。
「……まあ」
そこにいたのは。
とんでもない美男子だった。
黒髪。
銀色の瞳。
端正な顔立ち。
長い睫毛。
すっと通った鼻筋。
無駄のない体つきに、仕立てのよい黒い上着。
そして何より。
眼鏡。
眼鏡である。
今知ったが、私は眼鏡の美男子に弱いようだ。
彼が眼鏡を外したときの破壊力を想像するだけで、三日は楽しく生きられる。
「ヴァレンティア侯爵令嬢ですね」
彼が立ち上がった。
背が高い。
声が低い。
落ち着いた口調。
完璧だ。
完璧すぎる。
「初めまして。セドリック・レインフォードと申します」
彼は礼儀正しく一礼した。
「今回、あなたの代理人を務めます」
「結婚してください」
沈黙。
私は凍りついた。
マーサが咳払いした。
「お嬢様」
「……」
「お嬢様」
「……失礼いたしました」
私は深々と頭を下げた。
「今のは忘れてくださいませ」
セドリックは数秒間、無言だった。
それから、口元を押さえた。
「……申し訳ありません」
「いいえ」
「少し、驚きました」
「私もです」
主に自分の口の軽さに。
彼は椅子を勧めてくれた。
「では、まず婚約解消の件から伺いましょう」
「はい」
私は書類を広げた。
説明を始めると、彼の表情が変わった。
先ほどまでの柔らかな雰囲気が消え、鋭い眼差しになる。
「……なるほど。これは単なる不貞ではありませんね」
「ええ」
「貸付金の用途を偽り、別の女性に宝石を買い与えている。さらに、帳簿の数字も改竄されています」
「お気づきになりました?」
「数字の末尾が合っていません」
私は目を見開いた。
そこは私が仕掛けた確認箇所だった。
帳簿をまともに読めない弁護士なら、別の者に依頼するつもりだったのである。
「すごいですわ」
「ありがとうございます」
「とても素敵です」
「……ありがとうございます?」
「好きです」
「お嬢様」
マーサの声が低くなった。
私は口を閉じた。
駄目だ。
これは駄目だ。
恋愛が絡むと私の理性は飛んでいく。
しかも今回は、顔だけではない。
仕事ができる。
礼儀正しい。
声がよい。
おそらく体脂肪率も適正。
最後の点は私の健康管理専門家としての勘である。
「ひとつ確認したいことがあります」
セドリックが言った。
「はい!」
「なぜ、これほど明確な証拠をお持ちなのですか?」
「五年間、彼の事業を管理しておりましたので」
「では、不正に気づいたのは以前から?」
「ええ。三か月ほど前です」
「なぜ、その時点で婚約を解消しなかったのです?」
私は微笑んだ。
「好きだったからですわ」
彼が黙った。
「好きな人には、できるだけよい暮らしをしてほしいでしょう?」
「……」
「美味しいものを食べて、健康で、楽しく笑っていてほしい。私、そういうことを考えるのが好きなんです」
私は少し恥ずかしくなった。
「ただ、どうやら私が尽くしすぎたようで」
「……そうですか」
セドリックは静かに書類を閉じた。
「ひとつ、申し上げても?」
「何でしょう?」
「あなたは、相手を甘やかす才能があるのでしょうね」
「ええ。困ったことに」
「ですが、それは相手の怠慢を許す義務ではありません」
私は彼を見つめた。
「……」
「あなたが与えた好意を、相手が当然の権利だと思った。それはあなたの責任ではありません」
胸の奥が、きゅっと締まった。
五年間、誰も言ってくれなかった言葉だった。
私はいつも責められていた。
尽くしすぎるから悪い。
男を駄目にするから悪い。
甘やかすから悪い。
もちろん、私にも反省すべき点はある。
けれど。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「それでは、彼に責任を取っていただきましょう」
眼鏡が光った。
私は思った。
ああ。
この人。
顔だけじゃない。
中身まで、私の好みだ。
これは危険だ。
非常に危険だ。
「ところで、セドリック様」
「はい」
「ご結婚は?」
マーサが天井を仰いだ。
第三章 王都五万枚の大騒動
三日後。
王都は朝から騒然としていた。
「号外! 号外!」
「ラングレー伯爵令息の婚約契約違反!」
「浮気の証拠が全部載ってるぞ!」
「しかも公証人の証明つきだ!」
私は馬車の窓から街を眺めていた。
そこかしこで、人々が紙を広げている。
市場の魚屋。
パン屋の主人。
花売りの少女。
貴族街の御者。
王宮へ向かう役人。
みんな同じ紙を読んでいた。
印刷工房の親方は実に優秀だった。
五万枚の印刷を二日で終え、配布人を雇って王都中へ届けてくれた。
私は仕事のできる人が好きだ。
特別報酬として、金貨百枚を渡した。
「お嬢様」
マーサが言った。
「新聞社から取材の申し込みが来ています」
「お断りして」
「承知しました」
「ただし、証拠の原本について確認したい記者には、公証人の連絡先を教えてあげて」
「はい」
私は紅茶をひと口飲んだ。
今日はいい天気だ。
まるで私の心のように晴れ渡っている。
そのころ。
ラングレー伯爵家では地獄が始まっていた。
「なんだこれはああああっ!!」
アーヴィンが新聞を床に叩きつけた。
新聞の一面には、彼とミレーヌが抱き合う挿絵。
そして大きな見出し。
『美貌の伯爵令息、婚約者の資金で愛人に宝石を贈る』
「誰がこんなものを!」
執事がおずおずと答えた。
「エレオノーラ様でございます」
「知っている!!」
アーヴィンは机を蹴った。
「なぜ止めなかった!」
「公証人の証明がございますので、事実関係について異議を申し立てるのは難しいかと……」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
彼は頭を抱えた。
昨夜まで、アーヴィンは楽観していた。
エレオノーラは必ず戻ってくる。
いつもそうだった。
少し怒っても、顔を見せて甘く囁けば許してくれた。
高価な贈り物をねだっても買ってくれた。
事業に失敗しても救ってくれた。
彼女は自分に夢中なのだ。
だから今回も、数日すれば泣きながら謝りに来る。
そう信じていた。
ところが。
「若旦那様!」
別の使用人が駆け込んできた。
「大変です! 商業組合から通知が!」
「何だ!」
「今後のお取引を見合わせると!」
「はあ!?」
「それから、銀行から融資契約の見直しを求める書状が!」
「なぜだ!」
「この印刷物に、事業資金の流用記録が掲載されておりますので……」
アーヴィンの顔が青ざめた。
そこへ父親のラングレー伯爵が現れた。
手には、例の紙。
顔は真っ赤だった。
「アーヴィン!!」
「ち、父上!」
「貴様ァ!!」
伯爵は紙を息子の顔に叩きつけた。
「なんという恥をさらしてくれた!」
「ち、違うんです!」
「何が違う!」
「エレオノーラが大げさに騒いでいるだけで!」
「大げさ!?」
伯爵は震える指で帳簿の写しを示した。
「これは何だ!」
「そ、それは……」
「我が家の名義で借りた金まで、女への贈り物に使っているではないか!」
「少しだけです!」
「金貨三千枚のどこが少しだ!」
怒鳴り声が屋敷中に響いた。
「しかもヴァレンティア侯爵家から婚約解消の正式通知が届いている!」
「なっ……」
「貸付金の即時返済! 損害賠償! 婚約契約違反の違約金!」
伯爵は頭を抱えた。
「総額、金貨八千枚だぞ!」
アーヴィンの膝が震えた。
「は……八千……?」
「それだけではない! お前が事業資金を偽って調達した件について、商業裁判所から調査の通知が来ている!」
「そんな……」
「お前は何をしたか分かっているのか!」
アーヴィンは口をぱくぱくさせた。
しかし。
まだ、彼は分かっていなかった。
これは始まりにすぎない。
第四章 眼鏡の弁護士は危険すぎる
「素晴らしい初動です」
セドリックが書類を確認しながら言った。
私は彼の事務所に来ていた。
「商業組合は正式に調査を開始しました。銀行も融資の停止を決定しています」
「そうですか」
「ただし、ここからは慎重に進めましょう。相手が追い詰められるほど、予想外の行動に出る可能性があります」
「承知しましたわ」
私は頷いた。
そして、彼の顔を見た。
今日も美しい。
黒髪が少し額にかかっている。
銀の瞳が書類を追っている。
長い指が万年筆を握っている。
ああ。
あの指で髪を梳かれたら、私はどうなるのだろう。
「エレオノーラ様?」
「はい!」
「聞いていらっしゃいましたか?」
「もちろんです!」
「では、今申し上げたことを」
「ご結婚してください」
沈黙。
私は目を閉じた。
終わった。
私の理性がまた死んだ。
セドリックは眼鏡を外した。
私は息を呑んだ。
危険。
危険危険危険。
想像以上だった。
眼鏡を外した彼の顔は、もはや国家機密に指定すべき美しさだった。
「エレオノーラ様」
「はい……」
「少し休憩しましょうか」
「そうですね……」
彼は立ち上がり、棚から茶器を取り出した。
「紅茶でよろしいですか?」
「ええ」
「砂糖は?」
「不要です。お肌のために控えておりますので」
「なるほど」
彼は微笑んだ。
「健康に気を配っていらっしゃるのですね」
「趣味と実益を兼ねております」
「実は、あなたの化粧水を母が愛用しているんです」
「まあ!」
「肌の乾燥が改善されたと、とても喜んでいました」
私は嬉しくなった。
自分の仕事を褒められるのは、顔を褒められるより嬉しい。
いや。
美男子に顔を褒められるのも嬉しいが。
「ありがとうございます。お母様にもよろしくお伝えくださいませ」
「ええ。ところで……」
彼は少し考えるように私を見つめた。
「あなたは、以前からこの事業を?」
「十七歳のころからです」
「ずいぶん若くから」
「最初は自分の肌荒れを治したくて。そこから研究を始めました」
「自分の悩みを解決するために?」
「ええ。私、鏡を見るのが好きですから」
彼が笑った。
「正直ですね」
「美しいものを見るのは好きですもの」
「それは、私の顔も?」
私は固まった。
セドリックは平然としている。
まさか。
からかわれている?
「……はい」
「そうですか」
「とても……」
「とても?」
「好みです」
言ってしまった。
セドリックはしばらく私を見つめた。
それから、ふっと笑った。
「光栄です」
その笑顔。
駄目。
無理。
私は両手で顔を覆った。
「……少々、お待ちください」
「どうぞ」
「今、非常に忙しいので」
「何がです?」
「心臓が」
彼は声を立てて笑った。
初めて聞く、飾らない笑い声だった。
私はその瞬間、思った。
この人を笑わせたい。
もっと。
何度でも。
けれど同時に、胸の奥に小さな恐怖が生まれた。
また同じことを繰り返すのではないか。
好きになって、尽くして、甘やかして。
気がつけば相手を駄目にしてしまう。
私は五年間、アーヴィンに何もかも与えてきた。
そして、何も残らなかった。
「……セドリック様」
「はい」
「私、少し怖いんです」
思わず口にしていた。
「また、誰かを好きになることが」
彼の表情が柔らかくなった。
「無理に好きになる必要はありませんよ」
「……」
「ただ、もし誰かを好きになったとしても」
セドリックは私の前に紅茶を置いた。
「今度は、相手にもあなたを大切にする機会を与えてください」
私は顔を上げた。
「大切にする……機会?」
「ええ」
彼は微笑んだ。
「あなたばかり働いていたら、相手は何もできませんから」
胸が、どきんと鳴った。
ああ。
この人はずるい。
美しい顔で、そんなことを言うなんて。
私は紅茶を飲んだ。
少し熱かった。
けれど、胸の奥はもっと熱かった。
第五章 婚約者、王都の笑い者になる
それから一週間。
アーヴィンの人生は、坂道を転がり落ちる樽のように悪化していった。
まず、夜会への招待が途絶えた。
次に、商人たちが取引を拒否した。
そして、銀行が貸付金の一括返済を求めた。
なぜそこまで急激に信用が失われたのか。
理由は簡単である。
彼が私のお金で事業を運営していたことが、明るみに出たからだ。
アーヴィンは商才があると言われていた。
美しい顔に、華やかな人脈。
若き実業家として注目されていた。
しかし、実態は違った。
取引先との交渉は私。
資金計画も私。
帳簿管理も私。
商品開発も私。
彼がしていたのは、完成した事業の成果を夜会で自慢することだけだった。
その事実が、証拠書類によって広く知られてしまった。
「エレオノーラ嬢がいなくなれば、何もできないのでは?」
「もともと彼女の事業だったのでは?」
「いや、あの男は顔だけだ」
そんな噂が広まった。
そして。
決定的な事件が起きた。
王都の劇場で、新作喜劇が上演されたのである。
題名は。
『美男子と金貨三千枚』
主人公は、金髪の美青年。
婚約者から金を借り、愛人に宝石を贈る。
そして最後には、婚約者にすべてを暴かれて破滅する。
ほぼ実話だった。
「これは名誉毀損だ!!」
アーヴィンは劇場に怒鳴り込んだ。
劇場支配人は涼しい顔で答えた。
「架空の物語でございます」
「俺のことだろう!」
「さあ? お心当たりが?」
観客がどっと笑った。
アーヴィンは顔を真っ赤にして、劇場を飛び出した。
しかし、運が悪かった。
その日はちょうど公演の最終日。
劇場の前には大勢の観客がいた。
「あっ! 本物だ!」
「金貨三千枚!」
「婚約者の財布で宝石を買う男!」
誰かが叫んだ。
「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだー!」
大爆笑が起きた。
アーヴィンは馬車に飛び乗った。
「出せ! 早く出せ!」
しかし御者は困った顔をした。
「若旦那様……馬車の使用料が未払いでして……」
「何だと!?」
「先月から三か月分、滞納しているそうです」
「そんなもの、エレオノーラが!」
「エレオノーラ様からは、今後一切の支払いを停止すると通知が……」
アーヴィンは絶叫した。
「くそおおおおっ!!」
その叫び声すら、翌日の新聞に載った。
挿絵つきで。
第六章 王都一、美しい男とのデート
「エレオノーラ様」
ある日の午後。
セドリックが、いつになく緊張した様子で言った。
「今度の日曜日、お時間はありますか?」
「ございます!」
即答だった。
「まだ何も申し上げていませんが」
「ございます!」
彼は苦笑した。
「王立植物園で、新しい温室が公開されるそうです」
「まあ!」
「薬草や香料の研究展示もあるとか。あなたなら、きっと楽しめると思いまして」
私は胸を押さえた。
植物園。
薬草。
香料。
私の好きなものばかり。
「もしよろしければ、一緒に行きませんか?」
「……」
「エレオノーラ様?」
「結婚してください」
「まずは日曜日から始めましょう」
セドリックは笑った。
私は机に突っ伏した。
もう駄目だ。
この男、私の扱いに慣れてきている。
そして日曜日。
私は人生で最も真剣に身支度をした。
ドレスは淡い薔薇色。
髪は柔らかく結い上げ、耳元には小さな真珠。
化粧は薄く。
肌には自社製の美容液をたっぷり使った。
「マーサ」
「はい」
「私、綺麗かしら?」
「大変お美しゅうございます」
「本当に?」
「はい」
「セドリック様もそう思ってくださるかしら?」
マーサは私の肩を掴んだ。
「お嬢様」
「はい」
「今日は絶対に、相手の身の回りの世話を焼きすぎてはいけません」
「ええ」
「お金も出しすぎないこと」
「はい」
「まして、相手の事業に出資するなど言語道断です」
「承知しております」
「そして」
マーサは真剣な顔で言った。
「初回のデートで求婚しないこと」
「……」
「お嬢様?」
「……努力いたします」
「約束してください!」
私は渋々頷いた。
そして。
王立植物園の門の前で。
「……っ!」
私は息を呑んだ。
セドリックがいた。
普段の黒い仕事着ではなく、深い紺色の上着。
白いシャツ。
銀色の飾り紐。
黒髪はきちんと整えられ、眼鏡はかけていない。
私はその場で膝から崩れ落ちかけた。
「エレオノーラ様?」
「……大丈夫です」
「顔が赤いですよ」
「健康ですので」
「それは何よりです」
彼は微笑んだ。
「今日のあなたは、いつも以上に美しいですね」
私は死んだ。
比喩である。
しかし、心臓は一度止まったと思う。
「……ありがとうございます」
かろうじて答える。
彼は私に手を差し出した。
「参りましょうか」
私はその手を取った。
大きくて、温かい手だった。
温室には色とりどりの花が咲いていた。
珍しい薬草。
香料の原料となる植物。
美容に使われる果実。
私は夢中になった。
「こちらの花から採れる油は、肌を柔らかくする効果がありますの」
「なるほど」
「こちらは胃腸の調子を整える薬草です。ただし、妊娠中には避けるべき成分が含まれております」
「詳しいですね」
「仕事ですもの」
私は説明を続けた。
気がつけば一時間。
はっとした。
「……申し訳ありません!」
「何がです?」
「私ばかり話してしまって」
「楽しいですよ」
セドリックは微笑んだ。
「あなたが好きなものについて話すとき、とても生き生きしているので」
「……」
「もっと聞かせてください」
私は言葉を失った。
アーヴィンは、私の仕事の話を嫌がった。
女が商売の話をするな。
金の話ばかりするな。
可愛げがない。
そう言われるたび、私は口を閉じた。
けれど。
目の前の男性は、私の話を聞いてくれる。
楽しそうに。
興味深そうに。
「……セドリック様」
「はい」
「私、今、とても嬉しいです」
彼は少し驚いた顔をした。
それから、優しく笑った。
「私もです」
そのとき。
温室の奥から、悲鳴が聞こえた。
「きゃあっ!」
振り向くと、若い女性が倒れていた。
顔が青白い。
私はすぐに駆け寄った。
「どうなさいました?」
「む、胸が苦しくて……」
私は症状を確認した。
呼吸はある。
意識もある。
近くにいた係員へ指示を出す。
「医師を呼んでください! それから、人を下がらせて風通しをよくして!」
セドリックがすぐに動いた。
周囲の人々を落ち着かせ、係員に連絡を取る。
私は女性のそばに膝をついた。
「大丈夫ですよ。ゆっくり呼吸してください」
しばらくして医師が到着した。
幸い、命に関わる状態ではなかった。
女性は過労と暑さで体調を崩したらしい。
「ありがとうございました」
医師が頭を下げた。
「適切に対応していただけたおかげで助かりました」
私はほっとした。
そのとき、セドリックが私を見ていた。
「……何でしょう?」
「いえ」
彼は微笑んだ。
「あなたは本当に、素敵な女性ですね」
私は固まった。
ああ。
そんな顔で。
そんな声で。
そんなことを言われたら。
「……セドリック様」
「はい」
「求婚してもよろしいでしょうか」
「今日はまだ早いかと」
「ですよね!」
私は顔を覆った。
彼は笑った。
そして、そっと私の手を取った。
「ですが」
「……?」
「次のお誘いも、受けていただけますか?」
私は顔を上げた。
セドリックは、少しだけ頬を赤くしていた。
「今度は、私の好きな場所をご案内したいのです」
心臓が跳ねた。
「……喜んで」
私は答えた。
その瞬間。
彼とならば恋が怖くなくなった気がした。
第七章 元婚約者、最後の賭けに出る
一方そのころ。
アーヴィンは、人生のどん底にいた。
いや。
本人はどん底だと思っていた。
実際には、まだ底が抜ける余地があった。
「ミレーヌ! 金を出せ!」
アーヴィンは恋人の部屋で怒鳴っていた。
「金貨三千枚の宝石を買ってやっただろう!」
ミレーヌは不機嫌そうに眉を寄せた。
「売りましたわ」
「なっ!?」
「だって、あなたが支払いをしてくださらなくなったんですもの」
「俺は今、困っているんだ!」
「わたくしだって困っています!」
彼女は立ち上がった。
「お店に行けば笑われるし、友人からは避けられるし!」
「俺だって同じだ!」
「そもそも、あなたがエレオノーラ様を怒らせたからでしょう!」
「はあ!?」
「わたくし、あなたがお金持ちだと思ったからお付き合いしたのに!」
沈黙。
アーヴィンの顔が歪んだ。
「……俺のことを愛していたんじゃないのか?」
ミレーヌは目を丸くした。
「え?」
「愛していると言っただろう!」
「言いましたけど……」
彼女は困った顔をした。
「お金持ちで、美しくて、優しいから好きだったんです」
「俺は美しいだろう!」
「でも、お金がありませんもの」
アーヴィンは絶句した。
「それに最近、顔色も悪いし……」
「何だと……」
「肌も荒れていますし……」
「やめろ!」
「お腹も出てきましたわよね」
「やめろおおお!」
ミレーヌはため息をついた。
「もう、お別れしましょう」
「待て!」
アーヴィンが腕を掴もうとすると、彼女は素早く後ずさった。
「触らないでください!」
「ミレーヌ!」
「さようなら!」
扉が閉まった。
アーヴィンは、その場に崩れ落ちた。
そして初めて気づいた。
エレオノーラがいなくなってから。
自分の生活は、何もかも崩れている。
彼女は毎朝、健康的な食事を用意してくれた。
肌の手入れをしてくれた。
服を選んでくれた。
仕事の問題を解決してくれた。
金を出してくれた。
何より。
いつも、笑ってくれた。
自分が少し微笑むだけで、彼女は幸せそうに頬を染めた。
あれほど簡単に喜ぶ女はいなかった。
「……エレオノーラ」
アーヴィンは呟いた。
そうだ。
彼女なら。
彼女なら、まだ自分を愛しているはずだ。
五年間も夢中だったのだ。
簡単に忘れられるはずがない。
「……そうだ」
彼は立ち上がった。
「謝ればいいんだ」
美しい顔で。
甘い声で。
少し涙を見せれば。
きっと彼女は許してくれる。
「待っていろ、エレオノーラ」
アーヴィンは鏡を見た。
以前より肌は荒れ、目の下には濃い隈。
しかし、まだ美しい。
そう信じた。
「俺を愛しているんだろう?」
鏡に向かって微笑む。
「もう一度、俺に惚れさせてやる」
そして翌日。
彼はヴァレンティア侯爵邸へ向かった。
第八章 美男子の涙は、もう効きません
「エレオノーラ!」
庭園に、聞き覚えのある声が響いた。
私は薔薇の手入れをしていた。
顔を上げると、門の向こうにアーヴィンがいた。
ずいぶん痩せたように見える。
いや。
よく見れば、頬がこけているだけで、お腹は少し出ていた。
不規則な生活のせいだろう。
「……アーヴィン様?」
「会いたかった!」
彼は門番を押しのけようとした。
「エレオノーラ! 話を聞いてくれ!」
私はため息をついた。
「門番。お通ししなくて結構です」
「そんな!」
アーヴィンは柵を掴んだ。
「俺たちは五年間も愛し合っていたんだぞ!」
「私は愛しておりました」
「なら!」
「あなたは?」
彼が言葉に詰まった。
私は首を傾げた。
「私の好きな花をご存じですか?」
「……薔薇だろう?」
「違います」
「え?」
「私の誕生日は?」
「……春だったな」
「秋です」
「……」
「私が十七歳から続けている仕事は?」
「化粧品……だったか?」
「そうです」
私は微笑んだ。
「それくらいは覚えていてくださったのですね」
アーヴィンの顔が歪んだ。
「そ、それは……」
「では、私が一番好きな食べ物は?」
「……」
「私が一番苦手なものは?」
「……」
「私が仕事で悩んでいたとき、あなたは何をしてくださいました?」
沈黙。
私は静かに言った。
「何も、ご存じないのですね」
アーヴィンは柵を握りしめた。
「……すまなかった」
彼が俯いた。
「俺が悪かった」
私は驚いた。
初めて聞く謝罪だった。
「エレオノーラ……」
彼は顔を上げた。
青い瞳に涙が浮かんでいる。
「もう一度、やり直そう」
ああ。
美しい顔。
涙に濡れた瞳。
震える唇。
以前の私なら、間違いなく抱きしめていた。
そして許しただろう。
借金も肩代わりし、仕事も用意し、彼の好きな料理を作って。
また同じことを繰り返した。
でも。
「お断りいたします」
私ははっきり言った。
アーヴィンの顔が引きつった。
「……何?」
「もう、あなたを愛しておりません」
「嘘だ!」
彼は柵を揺さぶった。
「お前は俺の顔が好きだっただろう!」
「ええ」
「なら!」
「でも、今は別の方のお顔が好きですの」
沈黙。
アーヴィンの口が開いた。
「……別の?」
「はい」
「男がいるのか!?」
「おります」
正確には、まだ交際していない。
しかし、好きな男はいる。
これは事実だ。
「誰だ!!」
そのとき。
「私ですが」
背後から、落ち着いた声がした。
振り向く。
セドリックだった。
今日も完璧な美男子である。
黒髪。
銀色の瞳。
眼鏡。
私は反射的に笑顔になった。
「セドリック様!」
「お待たせしました」
彼は私に微笑み、それからアーヴィンを見た。
「ラングレー卿。正式な代理人として、あなたには既に接触禁止の申し入れをしております」
「な、なんだ貴様は!」
「セドリック・レインフォードです」
「レインフォード……?」
アーヴィンの顔色が変わった。
「まさか……王宮法務官の……?」
「現在は民間の法律事務所におります」
セドリックは淡々と答えた。
「あなたの件については、引き続き私が担当しております」
アーヴィンが一歩下がった。
レインフォード家は、代々王宮の法務を担う名門伯爵家だった。
セドリック自身も、若くして王宮法務官を務めた経歴がある。
私が依頼したのは、単なる有能な弁護士ではなかったのである。
「エレオノーラ!」
アーヴィンは叫んだ。
「そいつに騙されているんだ!」
「まあ」
「俺より顔がいいからって、簡単に乗り換えるのか!」
私は考えた。
そして。
「……はい」
素直に答えた。
セドリックが咳き込んだ。
アーヴィンは絶叫した。
「ふざけるなああああっ!!」
「ふざけておりませんわ」
私は微笑んだ。
「セドリック様は顔が美しく、仕事もでき、礼儀正しく、私の話を聞いてくださいます」
「ぐっ……!」
「それに、私のお金を盗みません」
「……!」
「女性を膝に乗せて婚約者を侮辱することもありません」
「……っ!」
「何より」
私はセドリックを見上げた。
彼は少し照れたように微笑んでいた。
「私を、大切にしてくださいます」
アーヴィンの顔から血の気が引いた。
私は続けた。
「あなたとは違いますわ」
その瞬間。
アーヴィンの中で、何かが壊れた。
「……嘘だ」
彼は呟いた。
「嘘だ……嘘だろ……」
柵にすがりつく。
「エレオノーラ……」
声が震えた。
「俺を……捨てるのか……?」
私は静かに答えた。
「あなたが先に、私を捨てたのです」
アーヴィンは膝から崩れ落ちた。
「う……うう……」
涙が頬を伝った。
「頼む……」
彼は両手を伸ばした。
「頼むよ……エレオノーラ……!」
私は目を逸らさなかった。
「助けてくれ……!」
美しい顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
以前の私なら、胸が痛んだだろう。
でも今は。
不思議なほど、何も感じなかった。
「ごきげんよう、アーヴィン様」
私は一礼した。
そして、セドリックの腕に手を添えた。
背後から、泣き叫ぶ声が聞こえた。
「エレオノーラああああっ!!」
私は振り返らなかった。
第九章 美男子の破滅は、まだ終わらない
アーヴィンの転落は、それで終わらなかった。
むしろ、ここからが本番だった。
商業裁判所の調査によって、彼が事業資金を不正に流用した事実が正式に認定された。
さらに、資金調達の際に虚偽の報告をしていたことも判明。
商業組合から除名され、以後十年間、王都での商業活動を禁止された。
銀行は担保を差し押さえた。
彼が自慢していた豪華な馬車。
宝石。
高価な家具。
すべて売却された。
だが、それでも借金は残った。
ラングレー伯爵は激怒し、息子の相続権を停止した。
「貴様の借金を、これ以上家の財産で埋めることはできん!」
「父上!」
「自分の責任は自分で取れ!」
「そんな!」
アーヴィンは父親の足にすがりついた。
「助けてください!」
「離せ!」
「俺はあなたの息子でしょう!」
「だからこそ、ここまで尻拭いしてきたのだ!」
伯爵は涙を浮かべていた。
「だが、もう限界だ」
そして、彼は告げた。
「家を出ていけ」
「……え?」
「今日限り、お前への援助を打ち切る」
アーヴィンは呆然とした。
「……嘘だ」
「本当だ」
「俺は……伯爵家の跡取りですよ?」
「お前の弟に継がせる」
「そんな……!」
彼は床に崩れ落ちた。
「嫌だ……嫌だあああっ!」
子どものように泣き叫んだ。
「俺が悪かった! もうしない! だから!」
しかし、伯爵は背を向けた。
扉が閉まった。
アーヴィンは床に這いつくばったまま、声を上げて泣いた。
数日後。
彼は王都の安宿にいた。
かつて絹の寝具で眠っていた男が、薄い毛布にくるまっている。
鏡を見る。
頬はこけ、目は落ちくぼみ、髪は脂っぽくなっていた。
以前の美貌は、見る影もない。
「……エレオノーラ」
彼は呟いた。
机の上には、一枚の紙。
例の印刷物だった。
五万枚配られた、婚約契約違反の証拠。
彼はそれを握りしめた。
「……こんなもの……」
破ろうとした。
しかし、手が止まった。
そこに記された自分の行為は、すべて事実だった。
浮気。
資金流用。
虚偽報告。
婚約者への侮辱。
全部、自分がしたことだった。
「……俺が……」
初めて。
本当に初めて。
彼は、自分の愚かさを理解した。
エレオノーラは、ただ美しい男に夢中な女ではなかった。
自分を愛し、支え、守り、何度も救ってくれた女性だった。
彼女がいなければ、自分は何もできなかった。
そのことに、ようやく気づいた。
「……戻ってきてくれよ……」
涙が落ちた。
「エレオノーラ……」
彼は膝を抱えた。
「頼むよ……」
誰も答えなかった。
翌朝、宿代が払えず、彼は部屋を追い出された。
かつて彼を称賛した人々は、もう振り向かなかった。
高級料理店では門前払いされ、知人の屋敷では面会を断られた。
雨の中、彼は何度も頭を下げた。
「頼む……金を貸してくれ……」
誰も貸さなかった。
そして夕暮れ。
アーヴィンは王都の広場で、ひとりの少女が紙を配っているのを見つけた。
「はい! 新しい喜劇の宣伝です!」
受け取った紙には、こう書かれていた。
『美男子と金貨三千枚・再演決定!』
挿絵の男は、かつての自分によく似ていた。
少女が笑った。
「おじさんも見に来てね!」
アーヴィンはその場に崩れ落ちた。
「う……あ……」
人々が振り向く。
「どうした?」
「酔っ払いか?」
彼は顔を覆った。
「違う……」
涙が溢れた。
「俺は……俺は……!」
叫んだ。
「こんなはずじゃなかったんだああああっ!!」
王都の鐘が鳴った。
誰も、彼を助けなかった。
第十章 今度は、私が愛される番
「エレオノーラ様」
セドリックが言った。
「本日をもって、すべての手続きが完了しました」
私は書類を受け取った。
婚約解消は正式に成立。
貸付金は、差し押さえた資産の売却代金と伯爵家の保証債務から大部分を回収。
残額についても、分割返済の契約が結ばれた。
そして、私の事業には一切の損害が残らなかった。
「ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
「セドリック様のおかげです」
「いいえ。あなたが証拠をきちんと残していたからこそです」
彼は微笑んだ。
「私は、それを法的に整理しただけですよ」
「それでも、感謝しております」
私は彼を見つめた。
今日も美しい。
相変わらず、胸が高鳴る。
でも。
以前とは少し違っていた。
私は彼の顔が好きだ。
もちろん、大好きだ。
しかし、それだけではない。
彼の仕事への誠実さ。
人の話を聞く姿勢。
穏やかな優しさ。
そして時折見せる、少し意地悪な笑顔。
その全部が、好きだった。
「……セドリック様」
「はい」
「私、あなたにお礼がしたいのです」
「報酬はいただいておりますよ」
「それとは別に」
私は少し考えた。
「お好きな料理を作らせてください」
セドリックが目を丸くした。
「料理を?」
「ええ。私、料理には自信がございます」
「それは楽しみですね」
「何でも作りますわ!」
「では……」
彼は少し考えた。
「あなたが一番好きな料理を」
私は瞬きをした。
「私の?」
「ええ」
「でも、セドリック様のお好きなものを……」
「私が食べたいのは、あなたの好きな料理です」
私は口を閉じた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
彼はいつも、こうだ。
私が何かを与えようとすると、必ず私のことを考えてくれる。
「……では、鶏肉の香草焼きを」
「いいですね」
「それと、茸のクリームスープ」
「美味しそうです」
「焼きたてのパンも」
「楽しみにしています」
「デザートには……」
私は考え込んだ。
「蜂蜜のタルトを」
セドリックが微笑んだ。
「それは贅沢ですね」
「お任せください!」
私は胸を張った。
「最高のお食事を用意いたしますわ!」
そのとき。
彼が、そっと私の手を取った。
「ですが、ひとつ条件があります」
「条件?」
「食材の買い出しは、私に付き合わせてください」
「……え?」
「それから、調理も手伝わせてください」
「セドリック様が?」
「ええ」
彼は少し照れたように笑った。
「あなたひとりに働かせたくありませんから」
私は胸を押さえた。
ああ。
駄目だ。
この人は、本当に。
「……好きです」
ぽろりと口から零れた。
セドリックの笑顔が止まった。
「……エレオノーラ様?」
私は顔を真っ赤にした。
「い、いえ、その……」
もう遅い。
言ってしまった。
何度も求婚はした。
好きだとも言った。
けれど。
今の言葉は、いつもの軽口ではなかった。
本気だった。
心の底から。
「……好きです」
私は、もう一度言った。
彼の手を握り返す。
「あなたのことが、本当に好きです」
セドリックは、しばらく黙っていた。
そして。
「……困りましたね」
小さく呟いた。
私は青ざめた。
「ご、ご迷惑でしたか!?」
「いいえ」
「では……」
「私が先に申し上げるつもりだったのですが」
彼は、私の前に跪いた。
私は息を呑んだ。
王都一の美男子が。
眼鏡を外して。
私の前に。
跪いている。
これは。
これは、反則だ。
「エレオノーラ・フォン・ヴァレンティア様」
彼は私の手を取った。
「あなたに、正式に求婚させてください」
「……!」
「あなたの美しさも、聡明さも、仕事への情熱も。そして少しばかり困った美男子好きなところも」
彼は微笑んだ。
「私は、すべて愛しています」
涙が溢れた。
「……セドリック様」
「あなたと一緒に生きたい」
彼は私を見上げた。
「私の妻になっていただけますか?」
私は両手で口を覆った。
夢みたいだった。
五年間。
私は、誰かに愛されるために必死だった。
美しくあろうとした。
尽くそうとした。
役に立とうとした。
嫌われないように。
捨てられないように。
けれど。
今、目の前の人は。
私が何かを与えなくても。
私を愛してくれている。
「……はい」
声が震えた。
「喜んで……!」
セドリックが立ち上がった。
そして、私を抱きしめた。
温かい腕。
優しい香り。
胸に頬を寄せると、彼の心臓の音が聞こえた。
私と同じくらい、速かった。
「……セドリック様」
「はい」
「心臓が」
「ええ」
「とても速いです」
「あなたのせいですよ」
私は笑った。
涙が頬を伝った。
「……私もです」
彼は私の頬に手を添えた。
顔が近づく。
銀色の瞳が、私を見つめている。
「エレオノーラ」
初めて、名前だけで呼ばれた。
私は息を止めた。
「キスをしても?」
私は頷いた。
「……はい」
唇が重なった。
柔らかくて、温かい。
ほんの短い口づけ。
それなのに。
胸がいっぱいになった。
彼が離れる。
私はぼんやりと、その顔を見つめた。
「……セドリック様」
「はい」
「もう一度」
彼は笑った。
「喜んで」
今度は、少し長いキスだった。
私は彼の上着をぎゅっと掴んだ。
ああ。
幸せだ。
こんなに幸せで、いいのだろうか。
唇が離れたあと、彼は私の額にそっと口づけた。
「愛しています」
私は思わず抱きついた。
「私もです!」
そして。
「……ところで、セドリック様」
「はい?」
「新婚旅行はどちらへ?」
彼が固まった。
「……まだ結婚式の日取りも決めていませんが」
「南方の温泉地などいかがでしょう? 美容にも健康にもよいですし!」
「なるほど」
「それから、海辺の町も素敵ですわ!」
「ええ」
「食事は私が管理いたします。お肌のためにも、睡眠時間は毎日八時間確保していただいて……」
「エレオノーラ」
「はい!」
セドリックは私の頬を両手で包んだ。
「ひとつ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「私の世話ばかり焼かないでください」
私は固まった。
「……でも」
「あなたのことも、私に世話をさせてください」
「……」
「食事を作るのも、あなたを甘やかすのも、私にさせてほしい」
私は口をぱくぱくさせた。
「そ、それは……」
「嫌ですか?」
彼が少し首を傾げる。
美しい顔。
甘い声。
優しい瞳。
私は完全に敗北した。
「……嫌では、ありません」
「よかった」
彼は満足そうに笑った。
「では、まず今夜は私が夕食をご馳走します」
「まあ!」
「あなたの好きな鶏肉料理が評判の店を予約してあります」
「……!」
「それから、食後には劇場へ」
私は目を輝かせた。
「劇場!」
「ええ。新作の恋愛喜劇が上演されているそうです」
「素敵ですわ!」
セドリックは微笑んだ。
「ただし、一つだけ注意が」
「何でしょう?」
「今、王都で一番人気の喜劇は避けました」
私は首を傾げた。
「なぜです?」
「あなたの元婚約者が主人公のものです」
沈黙。
私は吹き出した。
「まあ!」
セドリックも笑った。
私は彼の腕に自分の腕を絡めた。
「では、別のものにいたしましょう」
「ええ」
「恋愛喜劇がいいですわ」
「承知しました」
「最後は、幸せな結婚で終わるものが」
セドリックが私を見つめた。
そして、優しく微笑んだ。
「私たちのように?」
私は頬を赤らめた。
「……はい」
彼は私の手を握った。
私は握り返した。
五年間の恋は、終わった。
けれど。
新しい恋が、始まった。
そして私は、ひとつだけ確信している。
美しい男には、やっぱり弱い。
たぶん一生、治らない。
でも。
今度の美男子は、私を大切にしてくれる。
だから私も、彼を大切にしたい。
ただし。
「……セドリック様」
「はい?」
「毎朝の美容液だけは、私に塗らせてくださいませ」
「なぜです?」
「そのお顔を末永く美しく保ちたいので」
彼は一瞬、目を丸くした。
そして、声を立てて笑った。
「……分かりました」
私は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
「その代わり」
彼は私の耳元に唇を寄せた。
「毎朝、私にもあなたへキスをさせてください」
私は真っ赤になった。
「……っ!」
「いかがです?」
私は俯いた。
そして、小さく答えた。
「……毎朝だけでは、足りません」
セドリックは、しばらく黙っていた。
それから。
「……困りましたね」
私をぎゅっと抱きしめた。
「結婚式まで待てる自信がなくなってきました」
私は笑った。
「では、急ぎましょう!」
彼も笑った。
そして、もう一度キスをした。
王都の鐘が鳴った。
青空の下。
私は、この世で一番幸せな花嫁になることを決めた。
ちなみに。
私が王都中に配った浮気の証拠は、後年、王立法律学院の教材として採用された。
題名は。
『婚約契約違反における証拠保全と損害賠償請求の実例』
セドリックが監修したものである。
その教科書の最終ページには、こんな一文が載っている。
『婚約は、互いの誠実さを前提とする契約である。相手の善意に甘え続ければ、いずれ取り返しのつかない結果を招く』
実に立派な教訓だ。
けれど、私としてはもうひとつ付け加えたい。
――美男子を選ぶときは、顔だけでなく、中身もよく見ること。
できれば、眼鏡を外した顔も。
そこまで確認してから、結婚するとよろしい。
もっとも。
私の場合は、もう手遅れだけれど。
〈完〉




