シンシアの訪問(2)
ちゅん、ちゅん
小鳥たちの囀りが聞こえる。もう随分と日が高くなっているようだ。
心地よい微睡みの中でリリスは睡魔と格闘していた。リリスを抱くようにして眠っているヴェインの方はのんきなもので、起きようとする気配すら見せない。
そんなヴェインに甘えるようにして、朝寝坊を楽しむ。それが、黒鴉城に来てからのリリスの日課となっていた。
夜の闇に意識を失うことをあんなに怖れていた自分が、何故ヴェインの側では、こんなにも安らかに眠れるのだろう? リリスは自問してみる。答えは程なく出た。それはきっと、ヴェインの持つ強さのせいだろう。殺しても死なないような、何者からも護ってくれるような、そんな強さが、彼にはある。
黒鴉城での生活はリリスにとって、とても充実したものであった。
高度な読み書きを始め、一般的な植物や動物の生態、地図の読み方と簡単な作り方、個人戦だけでなく、少人数や大人数での戦闘における戦略や戦術、心理戦の技術、毒物の製造法と有効な使用法及び解毒、応急処置の方法、爆薬の製造法・使用法など、ヴェインの講義は多岐に渡った。
様々な武器・暗器の使い方や体術、馬術の修行も厳しいものであったが、質・量ともに充分な睡眠と、美味しい(?)食事、そして何よりも、身を委ねることのできる相手のいることが、リリスの精神によい影響を与えているのだろう。
黒鴉城に来てからの僅か一ヶ月の間に、目の下の隈は見事になくなり、身長もいくらか伸びた。浅黒く焼けた肌の色も褪せ、元の色を取り戻しつつあり(リリスは本来色白なのだ)、少年と見間違えそうであった身体も、どことなく、少女らしい丸みを帯びてきている。
極端に無口なのは相変わらずだが、あれほど無表情だった顔には、生気に満ちた笑顔が浮かぶことさえあった。キークが今のリリスを見れば、自分以外の者がリリスの魅力を引き出してしまったことに、強い嫉妬の念を覚えることだろう。
だが、そんなリリスにも不満が無いわけではない。
『復讐になんて一体何の意味があるんだ? 仮に死者がそれを望んでいだとしても、それで死者が生き返るわけでもないし、それで君が救われるとは更に思えない。僕と一緒にここでのんびり暮らせばいいじゃないか』
リリスは妄想してみる。もし、ヴェインがそう言ってくれたなら、リリスは復讐など喜んで諦めただろう。今のリリスは一月前の、母の思い出の他に寄る辺無き少女ではない。この上なく頼もしく、優しいヴェインがいるのだ。ヴェインさえいれば自分は生きていける……だから、一月前にリリスにとって唯一の存在意義であった母の遺言は、今ではリリスの中で急速にその重要性を失いつつあった。
しかし、ヴェインの口からはそんな言葉は聞けそうもない。第三者からみれば、ヴェインのやり様は、むしろ復讐をけしかけているようにすら見えるだろう。
リリスにも、漠然とではあるがそれが分かる。それが何故なのかまでは、分かりようもなかったが。だから、今暫くは、ヴェインの側にいるためにも薄れかけている復讐の念を奮い立たせなくてはならない。
自分に言い聞かせ、リリスはヴェインと抱き合うように二度寝を決め込んだ。
***
日は完全に昇りきり、ヴェインとリリスは食堂で朝昼兼用の食事を採っていた。
食事の用意はヴェインの仕事だ。高い知能を有する者の悪癖として、ヴェインも日常生活上は無能力者に近いのであるが、リリスが黒鴉城の住人となってからは、毎日食事の用意をしていた成果であろう、家庭料理の腕だけはなんとか一般的な水準に達しつつある。
今日のメインは野鴨の香草焼きだ。香草の独特の香りが肉の焼ける香ばしい匂いと相まって食欲を刺激する。
もともと上流階級の者であるヴェインは兎も角、リリスの食べ方は、少しずつ作法を教えることで徐々に進歩してはいるものの、決してまだ上手とは言えない。
しかし、とてもひたむきに、美味しそうに料理にがっつくその様子は、料理した者にとって、充分に満足のいくものであった。
「リリス、そんなに慌てて食べなくても、誰も横取りしたりはしないよ」
ヴェインが笑いながら、言う。しかし、リリスは安心できなかったようだ。油断無く、自分の領域の皿に意識を集中している。リリスは扉の外にある、もう1人の客人の気配を鋭く察知していたのだ。
ぎぃ、バタン!
勢いよく食堂の扉が開いたかと思うと、鬼の形相で駆け込んできた者があった。シンシアである。自慢の黒髪はところどころ逆立っていたり、焦げてちりちりになっており、顔は黒く煤けている。鎧も服も泥にまみれて、見た目にも汚い。それでも何とかこれがシンシアであると分かるのは、その怒り狂った大きな瞳によってであろう。
「今日はまた、随分と前衛的ないでたちだね、シンシア」
前衛的、ヴェインはその言葉を、しばしば自分には理解できない美意識を指す言葉として用いる。シンシアはそのことを知っていたわけではないが、自分の格好を誉められたのでないことだけは理解した。
「もー、誰のせいだと思ってんのよ? 一体どうなってんの、アンタの領地は!! イェリコの街にいたのだけでもうんざりだったっていうのに、そこからたった半日の道のりに、一体何匹の《魔》を飼ってんのよ? 領主としての自覚ってもんがないの? それになによ! ボクがこんな目に遭っているっていうのに、新婚夫婦も赤面するような団欒ぶりじゃないの?」
大きな身振りを交えて、シンシアはヒステリックに喚き立てる。およそ、師に対する態度とは思えない言葉遣いであったが、ヴェインには気にとめる様子もない。むしろ、笑いながら応える。
「私の領地なんてもうないよ。まあ、リリスについては、私の娘みたいなものだからね。多少の溺愛ぶりは、仕方ないだろ?」
リリスは「娘」と言う単語に、シンシアは「溺愛」という単語に、それぞれ少なからず胸の痛みを覚えたのだが、ヴェインは気付いた風もなく続ける。
「《魔》については、知らなかったなぁ。リリスの相手をさせようと思って、一匹だけちょっと召還してみたんだけど……」
「ちょっと、召還してみた、だぁ?」
聞き捨てならぬ言葉に、思わずシンシアの顔が引きつる。
「なに考えてんのよ!! 怪しげな実験に善良な一般市民を巻き込まないでよね。お陰でボクがどれだけ苦労したかアンタの身体に教えてあげましょうか」
「善良な一般市民に被害が出たのかい? それは悪いことをした。それにしても、キミの知り合いに善良な一般市民がいたとは、寡聞にして知らなかったな。なんせ歩く非常識だから周りに集まる人間も皆……」
しかし、軽口は最後まで続けられなかった、シンシアが無言で居抜いたのだ。鍔鳴りと共に致命的な死の風が巻き起こる。
「げっ」
風雅をもって旨とする常の彼ならぬ奇声を発してしまったものの、その不可視に近い一撃をかわすことができたのはヴェインならではであったろう。
彼はこのような軽口を、斬撃が飛んでくるであろうことを予測した上で発しているのだ。予測しているからこそ、剣技において格上のシンシアの攻撃もかわすことができる。
それでも、シンシアの一撃はヴェインに奇声を発させるに足るものであったし、それをかわすためにヴェインはテーブルから離れざるを得なかった。
そして、遅蒔きながら彼は自分がシンシアの策略にはまったことを知った。シンシアが無人となった席に素早く座り、まだ半分と食べていなかった彼の食事を勢い良く食べ始めたのだ。
「ああっ、私の食事が……」
呆然と、力無く呟くヴェインに少し同情しながらも、リリスは自分の食事が無事だったことに軽く胸を撫で下ろした。
***
「話を整理してみよう。つまり、イェリコの街以北、旧クロウ家領には、現在、多数の《魔》が出現している、そういうことだね?」
食事も終わり、シンシアに風呂を振る舞った後、3人はお茶をすすりながら話し合っていた。ヴェインの問いかけに、シンシアは軽く頷く。
「なるほど、私がリリスの為に召還した《魔》は一体だけだ。そいつが思ったよりも強く、他の仲間達を引き寄せているのかも知れないね」
「そいつが分裂している可能性はないんですか?」
気分が落ち着いたからか、シンシアの口調も恩師に対する丁寧なものに戻っている。
「仮に分裂していたとしても、私の作った結界からは逃れられないよ。外にいるのは別の奴さ」
静かな自信をこめて、言う。シンシアは怪訝な顔を作ったが、リリスは嬉しそうだ。
「ま、私は既に領主ではないからね。住民に被害が出ようが知ったことではないんだけど」
「な、何を無責任な! 元はと言えば、ヴェイン師が《魔》なんかを召還したのが原因じゃないですか!」
「うーん、シンシアはいい子だね。そこまで言うなら、住民達のために《魔》を退治するのに協力してくれるよね。他の《魔》を引きつけるほどの大物だ、か弱いリリス1人に任すのは忍びない」
「ボクはか弱くないと言うんですか?」
シンシアは少し拗ねたような仕草をした。
「今の会話の流れから、論理的にその結論を導くことはできないよ、シンシア。リリスもシンシアもか弱い、という可能性があるからね。実際、僕は女性であるキミが、例えばソロムのような男性に較べて肉体的にか弱いことを知っている。そして、そのことは、キミの発言の背景にあるキミの自覚、すなわち、キミの神経の図太さとは何ら矛盾するものではないよ」
理性を保った状態では、屁理屈で師に勝つのは難しいようであった。




