シンシアの訪問(1)
自分の憧れの人――それが初恋の人であったなら尚更だ――が、いわゆる「変態さん」であった場合、乙女はどうするのか……。乙女の反応には大きく3つのパターンが考えられる。
1.百年の恋も冷める。
2.逆境(?)にこそ更に熱く恋は燃え上がる。3.特に気にならず、現状を維持する。
シンシアの場合は……、とりあえず表面上は、怒りに震えていた。
目を閉じれば思い出せる、美しき思い出の日々。宮廷魔術師ヴェインの講義は難解であったが、彼はシンシアに優しかった。
「魔法文字を法則に従って組み合わせることによって、魔術的に意味のある『文』ができることは解ったね? 勿論、この『文』だけでも、立派に魔術として発動する。例えば炎を意味する魔法文字と、移動を意味する魔法文字を用いれば炎を相手に向けて飛ばすことができる。でも、『文』単体によって構成される、点ないし線状の魔法陣、これを一次元の魔法陣と呼ぶのだけど、これだけでは必ずしも指向性が明らかではないし、威力も今ひとつだ。そこで、複数の『文』を同時に描く。これが多次元の魔法陣だ。難易度も増すけど、威力は例えば平面の魔法陣なら一次元の魔法陣の2乗、立体の魔法陣では3乗になる。攻撃的な魔術を用いるのであれば、指向性の明らかな形に文を配置すればよい。平面なら頂角の鋭い二等辺三角形や五芒星、立体なら錘体の多くが向いている。逆に、癒しや移動の目的で用いるのならば、できるだけ安定した形、正三角形や円、球などを用いればよい。解るね、シンシア」
色白なシンシアよりも白いくらいの肌、整った眉目、知性を湛えた涼やかな瞳、気持ちよく響く低音、そして……圧倒的な、力。その全てにシンシアは憧れ、焦がれていた。
与えられた課題をこなすと、ヴェインは「頑張ったね、シンシア」と言って、優しく頭を撫でてくれた。そんな「ご褒美」が欲しくて、彼女は難解な魔術の文法も挫けずに習得したのだ。
「でも、今思うと、あの優しさもきっと、『幼い』ボクに向けられたものだったのね。あいつ(注:ヴェイン)が宮廷魔術師を辞めて城に引きこもったのも、成長しすぎたボクに興味を失ったからに違いないわ。畜っ生ぉ、乙女の純情踏みにじりやがって!!」
「なんですか、その言葉遣いは? シンシア、はしたないですよ」
声を聞いただけで誰であるかは解ったが、シンシアは確認するかのように振り向いた。当然のことながら、そこにいたのは現宮廷魔術師のア・イズミであった。
「ア・イズミ!」
ア・イズミは旧宮廷魔術師ヴェインの愛弟子であり、ヴェインがその地位を退く際に彼の推挙を受けてその後を任された者だ。年はシンシアより一つ上の17である。
王宮にいる彼女たちと同年代の女性の多くは単なる侍女であり、彼女らと対等につき合える者など居なかったため、二人は私的にも友人として親しく付き合っていた。二人きりの時はお互い、敬称も略である。
シンシアの容姿も、決して地味でも目立たなくもないが、ア・イズミははっきりと目立つ容貌をしている。一度見たら忘れることなどできないし、彼女を知る者であれば、例え1000メル離れていたとしても彼女を見誤ることはないだろう。その理由は、彼女の美しいセミロングの髪にあった。輝くばかりに赤いのだ。「燃えさかる赤」それは彼女の異名でもあった。炉の中で熔ける硝子を思わせる激しい赤毛は、確かにどんなに離れていても識別できそうである。
ふと、思い当たるところがあって、シンシアはア・イズミを見つめた。その鮮烈な赤毛と苛烈な知性のせいで、忘れられがちではあったが、ア・イズミはかなり美しい顔立ちをしている。切れ長の目にも、形の良い唇にも文句の付けようがない。今でこそ女性の美しさを放っているものの、数年前まではさぞや愛くるしい少女であったことだろう。
「ア・イズミって、宮廷魔術師になるまでは黒鴉城に、『あの』ヴェイン師と住んでいたんだよね?」
「え、ええ、そうだけど……」
シンシアのただならぬ気迫にア・イズミは思わず半歩後ずさった。
「変なコトされなかった?」
「へ、変なこと?」
「そ、少女の無知に乗じて、例えば、服を買って挙げるとか言って、自分の趣味で、着るのも恥ずかしい装飾過多のひらひらした服を買ってくれたり、あまつさえ着替えを手伝ってくれたり、添い寝してあげようとか言って、布団の中に潜り込んできたり、髪を洗って挙げるとか言って一緒にお風呂に入ろうとしたり、挙げ句の果てに下着も含めて服を洗濯してくれたり、その他諸々よ」
息もつかずにまくし立てる。
「うっ、それは……」
実はその大半に(!)心当たりがあったのだが、ア・イズミは、ヴェイン本人の名誉のために口を噤んだ。が、勘鋭く、シンシアはそれを肯定と看て取った。
「やっぱり!! よりにもよって少女愛好なんて最悪だわ、詐欺だわ、犯罪よ! まだ死体愛好の方がましだわ!」
未だ奴隷制の残るエポルエでは奴隷に対する一方的な性的搾取も珍しくはないし、少女愛好どころか幼児愛好も広く黙認されている……無論、そのような嗜好の持ち主の評判は決して良くはなかったし、当人もそれを吹聴するようなことは少なかったが。逆に、主に宗教上の理由から死体を冒涜(やっている側には異論もあろうが)する行為は重罪とされている。
仮に例えば三十路にもなろうかという男性が、シンシアのような成人前後の女性にしか興味を持てないとしたら、やはり、少女愛好と言われるのではないかと、ア・イズミなどには思われるのだが、シンシアに言わせれば、自分はあくまでも「美女」なのであって、「美少女」ではないということになるのだろう。
錯乱しているシンシアを前に、これらの正論を述べる気にもなれずア・イズミが頭を抱えていると、今1人、会話に参加してくる者があった。
「姉上、それにア・イズミ師まで、何を白昼堂々下世話な話題に興じておられるのです?」
シンシアを「姉上」と呼び、ア・イズミを「師」付けで呼ぶ者は城内広し(?)と言えども1人しかいない。末の王子キークである。
「でたな、寝取られ男」
「だっ、誰が寝取られたんですか!!」
「君だよ、君。君がリリスと駆け落ちしようとして逃げられたことは、兄上に聞いて、知ってるんだからね。そんでもって、今頃、あの変態魔術師はリリスに腕枕で添い寝とかしているに違いないんだから!」
「何故わかったんだ?」と、ヴェインの狼狽が聞こえてきそうな程の千里眼である。
「ほっ本当ですか?」
「駆け落ち」の事実を知られていることよりも、「腕枕で添い寝」に反応した体でキークが声を荒げる。どうやらまだ未練があるらしい。
お転婆と生真面目、正反対だと思っていた姉弟が案外似ていることに気付いて、頭痛が酷くなるのを感じながらも、ア・イズミは冷静にフォローを入れようとする。
「いや、それはあくまでも王女の邪推であって、ヴェイン師ともあろう人が、決して、そんな……」
が、興奮したシンシアは、強い。
「いいえ、そうに決まってるわ! 他人事じゃないのよ、ア・イズミ。あの変態があんなに大切にしていた愛弟子を自分の手から離して、宮廷魔術師なんかに推挙したのだって、きっとあなたが成長しすぎたからよ。あの変態、少女に知恵が付いて好き勝手できなくなると興味を失うんだわ」
「そ、それは……」
思い当たる節があるのか、説得されそうになる、が、辛うじて踏みとどまり、ア・イズミは話題の転換を試みた。
「とっ、時に王子、王女かわたくしに何か御用があって来られたのではないのですか?」
「あっ」
我に返るキーク。思わず姉に乗せられてしまったことを悔いる。
「そうでした。姉上、国王陛下がお呼びです」
シンシアの、猫を思わせる大きな瞳が輝く。
「ふっふっふ、変態魔術師の討伐ね? ボクに斬れないものがないことを、思い知らせてあげるわ」
いつもとはややピントのずれたシンシアのハイ・テンションに、キークもア・イズミも少しヴェインに同情した。
このハイ・テンションは先に挙げた乙女の類型のどれにあたるのか? その答えが分からないのは当のシンシアだけであるかも知れない。
***
シンシアは大軍を率いて、ヴェイン討伐に向かい……たかったのだが、勿論父王は、そんなことを許してはくれなかった。
「大軍を率いて行ってみろ。遠距離からの禁呪で1人残らず蒸発させられかねん。その点、お前1人なら、来いと言われているのだし、殺されることも無かろう」
というのが、その理由である。だから無論、シンシアに与えられた任務は、ヴェイン討伐などではない。
第一に(無理であろうが)交渉の上リリスを取り戻すこと。そして、それができないときにはヴェインの企てを探り出し、それが王家にとって禍をもたらすものであれば、あわよくば阻止すること、である。
それらを渋々了承し、シンシアは旅立った。勿論、全滅したくはないので、ヴェインのようにおいそれと空間転移の魔術などは用いない。愛馬に跨り、10日ほどの旅である。
道中はまずまず平穏であった。城付近の、比較的大きな街では、流石に下心を持って近づいてくる軟派な男達や、ちょっとしたちんぴらに絡まれることもあったが、旧クロウ家領に近づくに連れてそれらにもめっきり会わなくなった。
中央の権力が及びにくい辺境では、治安の悪いところも多く、シンシアは野盗の連中にでも会うのではないかと期待、もとい心配していたのだが、それもない。
エポルエでは、野盗にすら、かなりの練度の魔術、時には禁呪クラスの魔術を使える者が含まれている危険も高いから、旅をするにも十分な注意を要する。無論、シンシアほどの腕になればそれを考慮に入れても野盗の十や二十、問題ではなかったが。
というわけで、旅は予定通り進み、シンシアは10日目の夕方には、黒鴉城まで馬で約半日の距離にある最寄りの街、イェリコにたどり着いた。
流石に深夜の訪問は躊躇われた(相手が「変態さん」であっても、いや、寧ろ変態さんであればこそというべきか)ため、シンシアはこの街で宿を取ることにした。
小さな街だけあって宿は一つしかなく、少なくとも宿を選ぶのに苦労することだけはなかった。クロウ家領が閉鎖されていなかった頃には、そこに向かう者がここで宿をとることもあったであろうが、今となっては既に宿屋として営業しているのかすらも分からないほど、寂れている。
シンシアはおそるおそる入り口の扉を開いた。が、きしむ扉の向こうには人の姿は見えない。
「すみません、誰か居ませんか? すみませーん」
何度か呼びかけると、奥から人が出てきた。たっぷり肥えた、人の良さそうな中年の女性だ。
「あらあら、こんなへんぴなところに旅のお方なんて珍しい。お泊まりだね?」
「はい。部屋はありますか?」
聞くまでもないことを聞いてみる。そんなことよりどうやって経営が成り立っているのかの方が疑問だったのだが。
「勿論さ。で、こんな辺境に、あんたみたいなべっぴんさんが、なにしにいらしたんだい?」
興味津々で聞いてくる。意に添わぬ結婚を強いられ逃げてきた薄幸の美少女……、そういった話を聞きたかったのであろうが、残念ながら期待に沿うことはできそうにない。
「黒鴉城に行く途中なんです」
「まぁ、ヴェイン様の所にかい? お家が取り壊されてから、時々この街にも食料調達に来られるよ。最近、なんていったかねぇ、可愛らしい娘さんをちょくちょく連れて来ているようだけど」
ぴきっ
それまで穏やかな美少女を演じていたつもりのシンシアの顔が露骨に引きつる。
どうやらまずいことを言ってしまったようだ。もし、目の前の女性がヴェイン様の奥方なら、自分は夫の浮気を密告したことになる。今にも黒鴉城へ殴り込みをかけん勢いのシンシアを前に、女将は露骨に話題の転換を図った。
「そ、そうそう、最近この辺りも物騒だけど、女の子独りで大丈夫だったかい?」
「物騒? 冗談でしょ? 盗人一人でなかったわよ」
当たり障りのない話に逃げられたと思い、やや刺々しい口調で、言う。
「いや、物騒なのは本当でね、付近の街道で身元不明の変死体が頻繁に見つかったりしたんだ。それは、もう、悪魔か何かの仕業だろって、もっぱらの噂なのさ」
まんざら嘘でもなさそうだ。シンシアも少し興味を覚えた。
「変死体ってどんな風に変なんですか?」
「あたしも別に自分で見たわけではないからねぇ、詳しくは分からないんだけど、数十の肉片に刻まれていたものとか、上半身と下半身が別々の場所で見つかったとか、顔が恐怖に歪んでいたとか、いいや、歓喜に震えていただとか、いろんな噂が飛び交ったよ」
「へー、それは……」
凄惨な話にシンシアも思わずその優美な眉を顰めた。
「まぁ、でも、住民に被害が出たわけでもないしね、街の中にいる間は大丈夫だろうよ。さ、そんなことよりも、部屋に案内するよ」
案内された部屋は、こんなに寂れた宿にしては悪い物ではなかった。長く客などいなかったであろうにも関わらず、手入れが行き届いており小綺麗である。多少手狭ではあったが、シンシアは充分に満足した。
食事も付近の山で捕れる兎の肉をメインとした物であり、悪くなかった。宿には温泉もあるらしい。シンシアは旅の目的を忘れ、暫しくつろぎモードに入ることにした。
「ふんふんふん♪ 露っ天風呂ぉ♪」
多くの女性がそうであるように、シンシアもまた、風呂、とりわけ温泉の類が大好きである。鼻歌混じりに温泉に浸かる。やや熱めのお湯と、氷点に近い外気との較差が心地よい。長旅に疲れ、汚れた身体をほぐし、清める。
「うーむ、随分と肌が傷んでいるわ。仕方もないんだけど」
以前はそんなことも無かったのだが、最近、自分という人間の性格に思い悩むことが多くなっているシンシアであった。
適齢期にありながら通わせる殿方もなく、ひたすらに剣と魔法の腕を磨く男勝りな女。自ら望んでそんな仮面を被ったはずであるのに、時折そんな自分に虚しくなるのだ。
長旅で風雨に曝され多少肌が傷んではいるとはいえ、シンシアの、均整のとれた肢体は、この上なく美しいものであった。今は温泉で上気し、ほんのりと桜がかった肌は、毛穴が見えないほどきめ細やかだ。しかし、それは喩えて言うなら、犯しようのない、聖母の彫像の様な美しさだ。同年代の、とりわけ男を識った女性に特有の、あの艶めかしい美しさとは異なるものである。
性、という天賦の武器をすら満足に使いこなせない自分は、いくら美しいと言われても、女性としての価値は代用女性人形にも劣る、粗悪品ではないか……そんな自嘲じみた考えがシンシアの端正な顔を歪ませるのだ。
かと言って、ここまで待ってきたのだ。簡単にそこいらの男を通わせる気にもなれない。
「あーあ、どこかに素敵な男性が落ちてないかな」
発想も、奥手な、夢見る少女そのままだ。かつてはその素敵な男性はきっとヴェインであると思っていたのだが……。
常になく、長く妄想に耽っていたシンシアを現実に引き戻したのは突然辺りに渦巻いた混乱の気配であった。
「ばっ化け物だ……」
悲鳴とも呻きとも付かぬ、聞き取りにくい声の中で、その単語だけが耳に残った。
この村にも自警団くらいはあるだろうが、本当に化け物が出たのなら、自警団程度では相手にならないだろう。シンシアは冷水を被り、心身を引き締めると、手早く装備を身に付け、外へと飛び出していった。
外にはかき集められたであろう男達が慌てながらも途方に暮れている。比較的落ち着いた自警団員らしい若者を見付けて、シンシアは声をかけた。
「一体何があったんですか?」
目の前に突然現れた、見たこともないような美少女を前にして、若者は激しく狼狽した。
「ば、化け物が、で、出たらしいんです」
このたった一言をどもりながら応えるのにも少なからぬ時間を要した。これではまるで、自分が化け物のようではないか。シンシアは苦笑する。
「場所は何処か分かる? 何匹ぐらいでたの? 被害はどれぐらい?」
矢継ぎ早に質問を投げかける。若者は何とかそれに応えた。
「化け物は一匹だけですが、今もこの街に侵入しようとしているようです。それを止めようとしている自警団員に何人か怪我人が出ています」
「分かったわ。行ってみる」
「危ないです。貴女のような、そ、その、う、美しい女性を近づけるわけには行きません」
「心配してくれて、ありがと。でも、最近、いいところを見せられてないから。たまにはボクにもいい格好をさせてよ。ボクに斬れないものなんて、ないんだから」
言って、キンッと鍔を鳴らしてみせる。
その神々しいまでの立ち居振る舞いを見て、衛兵もようやく思い至った。これだけの美貌を鎧に包み、自分に斬れないものはないと豪語する少女など、世界広しといえども、二人といない。エポルエの誇る戦乙女をおいて他には。
若者は感極まったかのように案内を申し出た。
「うん、ありがと。でも、無理はしないで」
若者の案内で、シンシアは化け物のもとへと向かった。
そこはちょっとした惨劇の場と化していた。
自警団員だけでなく、街中からかき集められた男達が、必死に化け物――いわゆる《魔》だ――を食い止めようとしている。が、闘い慣れていない者達の悲しさで、命を賭けたところで肉の壁となるのが精一杯であった。恐怖の余り逃げることも叶わず、震えながら食いちぎられるのを待っている、そんな感じである。相手が人間ならまだしも、見たこともないおぞましい化け物とあっては致し方もない。
先日、ヴェインが使役していた《魔》剣、アスタルテを除けば、シンシアも魔を見るのはこれが初めてであった。が、シンシアは冷静である。相手が人外のものであったとしても、剣での戦い方が変わるわけではないからだ。
この《魔》は体格のいい人間の男を更に一回り大きくしたような大きさで、手足が長く、其れ自体が何かの影であるかの如く、黒い。ぬらぬらとてかった、どす黒いその生命体は、ただれた深紅の瞳を持ち、自らをも傷つけそうなほど鋭い爪をむき出しにしている。
悪意が集まって形になるとすれば、まさしくこのようになるのではないか。恐怖心よりもむしろ嫌悪感を抱かせる風貌だ。口から絶えず漏れる、硝子をひっかくような音も耳に障る。
「ひ、ひぃ」
その姿に、案内の若者は卒倒せんばかりだ。そんな彼を格好の獲物と見たのか、《魔》は彼に飛びかかった。シンシアは《魔》の前に立ちはだかる。
《魔》の動きは思いの外素速かった。が、流石に速さではシンシアが勝る。
「ふっ」
息吹と共にシンシアは愛剣を居抜いた。キンッと空気が裂けるかのような鋭い音に続いて、斬撃が的確に、迫り来る《魔》の喉元に吸い込まれる。
必殺とも言うべき刃は、しかし、《魔》の喉笛を切り裂くことはできなかった。ガッ、と鈍い音を立てて刃が弾き返される。《魔》はそのまま勢いを弱めない。その凶悪な爪と牙を、シンシアは身をひねってかわした。すれ違うようにして間合いをとる。
《魔》の皮膚は予想よりも、堅い。続けざまに数撃、間接や手足の付け根などめぼしい部位に斬撃を叩き込んだが感触は似たようなもので、成果と言えば刃が少しこぼれたこと位だ。刃を通さぬ身体、なら、奴を「斬る」方法は限られてくる。シンシアはその一つを実行に移した。
牽制の斬撃で《魔》をひるませ、シンシアは一足飛びでできる限り後方に飛び退いた。納刀し、居抜きの構えをとると共に、意識を集中する。そんなシンシアに、《魔》は飽きもせず飛びかかってきた。《魔》がシンシアの眼前に迫った刹那、
「炎よ!」
シンシアの声一つで《魔》は突然炎に包まれた。シンシアが魔術を発動させたのだ。納刀して待機する間にシンシアの仕掛けたタネはこの魔法陣であった。
二つの円錐状の魔法陣を上下に配置し、《魔》がそこに足を踏み入れると同時に魔術を起動、各々の魔法陣から高熱度の炎が放たれたのだ。
結果、さしもの《魔》も融点に達したようである。そこにシンシアの刃が走った。逆袈裟に斬り上げた刃を袈裟斬りに斬り返す。刃は、熱したチーズを切るが如く、易々と《魔》の首を刎ね、胴を両断した。
「す、すごい」
恐怖と緊張で動くどころか声も出せなかった若者も、バラバラになって燃えている《魔》を前に漸く口を開いた。
シンシアももはや動かなくなった《魔》に背を向け、表情を崩した。
「言ったでしょ、ボクに斬れないものはない、って」
若者は素直にシンシアを崇敬した。彼の頭には、「わざわざ斬らなくても燃やすだけで勝てたんじゃないか?」というもっともな突っ込みも思い浮かばなかった。
もっと腕を磨いて、いつの日かシンシア様のお役に立てるようになろう、若者はそう心に誓っただけだ。
***
「それにしても、こんな辺境の地に《魔》が出没するなんてね。これは、ヴェイン師に相談して何とかした方がよいかもね。あんなのがぽこぽこ出てきたら、リリスどころの騒ぎじゃないわ」
騒ぎが何とか収まり、事後処理を村人に任せた後で、シンシアは独りごちた。いくらリリスが「殺戮の猫」とは言え、所詮は一人の少女である。その戦闘能力は自分とさして変わるものではないだろう、そんな思いがシンシアにはある。だからこそ、父王の心配が単なる杞憂に思えてならないのだ。
「まぁ、なぁんにしても、明日はぁ、黒鴉城だわぁ。気合いを入れないとねー」
言葉とは裏腹に気の抜けた、眠そうな声で呟く。心地よい疲れが、シンシアを深い眠りへと誘っていたのだ。




